Asia Japan Journal 10号(2015)

AJ Journal 10
目次
■論説
退溪門下から旅軒・張顯光にいたる「公共」― 人間主体・社会・自然―
“Doing Public”
(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・
張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
片岡 龍
Ryū Kataoka . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1
■研究ノート
韓国人日本留学生の出版物『太極学報』における「民族」「国民」の意味
― コロケーション分析を用いたパイロット・スタディ―
Meanings of“Minjok”and“Kukmin”in the Publications by International Korean Students:
Pilot Study Using Collocation Analysis
河先 俊子
Toshiko Kawasaki. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 33
雲南とコーヒー ― 国内の生産拠点を中心とした現状調査報告 ―
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
中山 雅之
Masayuki Nakayama . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 49
伝統文化の継承と発展 ― 伝統工芸の将来 ―
Succession and Development of Traditional Handicrafts : Its Future
柴田 德文
Tokubumi Shibata . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 71
■アジア・日本研究センター活動概要一覧 2014年3月〜2015年2月 . . . . . . . . . . 81
■活動報告
AJフォーラム23
「伝統産業の継承と革新」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 87
国際シンポジウム
「日本語教育から見た国際関係」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 91
AJワークショップ
「多文化なまちづくりのための実践 ― いちょう団地の場合― 」. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 103
International Conference
Philological and Exegetical Studies of Classical Texts in 18th and 19th Century Japan:
A Comparative Approach. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 109
退溪門下から旅軒・張顯光にいたる「公共」
― 人間主体・社会・自然 ―
“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School
to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光)
: Human Subjectivity, Society and Nature
片岡 龍
Ryū Kataoka
Abstract:
This paper attempts to locate Toegye’s view of “Gong-gong(公共)” within the intellectual
currents of the Toegye school. The key terms that apply throughout the intellectual history of the
Toegye school are “Human Subjectivity” and “Society”. Yeoheon inherited this thought and
developed it, expanding its range to include concepts of “nature” and “universe”.
“Mind-Heart learning”(心學)and “Mind-Heart is Reason”(心卽理)became slogans that
spread throughout the intellectual circles of East Asian from the time of the emergence of neoConfucianism (based on the teachings of Wang Yangming and his followers). In relation to such
slogans, The Toegye school took as an issue for consideration the reconfirmation of the
importance of the theory of “Nature is Reason”(性卽理). We may surmise that the notion of
nature(性)in particular as the reason(理)of “Doing public”(公共)was commonplace in the
frequent discussions of “Doing public”(公共)centering on the Imperial Court at the time.
From this point in time onward, we may observe in the Toegye school a trend toward
emphasizing nature(性)in the dimension of “Doing public”(公共)in a way that had not been
seen in Chinese Zhu Xi neo-Confucianism. At this time, we may understand there to have been a
search within that school for a logic focusing on the human subjectivity inherent in body and mind
as a device for the approaching in practical terms of nature(性), which implies essential
character and substance.
This Toegye school logic of stepping into the world of “Doing public”(公共)via the volition
of the subject, has gradually come to be elucidated in terms of its significance and content. This
logic transcended the framework of theories of self-improvement and cultivation of the mind, and
became something which would have effect within the social and historical environment. Yeoheon’s
view of “Doing public”(公共)brought together the Toegye school’s theories of self-improvement
and cultivation of the mind and an active context within society. This represents a unique and
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片岡 龍
original development within this area of Japanese intellectual history.
“The Record of Towering Rock”(「立巌記」)may be regarded as the work that synthesizes
Yeoheon’s thought as described above, relating to discussions of “Doing public”(公共). Though
the term “Doing public” (公共) was frequently used at the time, in criticizing the lack of
thoroughgoingness with regard to the essence of the concept, the deliberate considerations of
“Doing public”(公共)in Yeoheon’s thought may be considered an unusual case.
キーワード:公共、旅軒、張顕光、退渓、李滉
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
【目次】
はじめに
1 、概観
(1)
『旅軒先生全書』における「公共」の用例の分類
(2)
『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』正編における「公共」
2 、性理学的な「公共」の用例の検討
(1)
鄭惟一・李德弘
(2)
曺好益
3 、歴史・社会的文脈における「公共」(柳成龍と旅軒)
4 、旅軒思想における「公共」 5、
「立巌記」における「公共」
おわりに
【本論】
はじめに
本稿は、17世紀後半から18世紀前半の朝鮮の儒学者、張顯光(1554-1637。以下、号の旅軒を用
いる)の「公共」観を、鄭惟一(1533-1576)・李德弘(1541-96)・曺好益(1545-1609)・柳成
龍(1542-1607)といった李退溪(1501-70)門下の思想的流れの上に位置づけようとするもので
ある(このうち旅軒と実際の交流があるのは、曺好益と柳成龍)。
退溪門下から旅軒にいたる思想的流れを貫くキーワードは、
「人間主体」
・
「社会」である。旅軒は、
それを継承・発展し、「自然」あるいは「宇宙」にまで拡大した(なお、退溪門下における「公共」
の使用は自覚的とは言えないが、旅軒の場合は自覚的に「公共」を論じている。これは東アジアの
「公共」概念史というものを仮に考えた場合、稀な例と思われる)。
本稿の構成は、以下のとおりである。まず、初めに旅軒の「公共」の用例を分類して提示し、そ
の思想史的特性を考察する準備として、『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』における「公共」の
用例を概観する。次いで、退溪門下における性理学的な「公共」の用例を検討した上で、旅軒の「公
共」観の特色を考察する。
なお、本稿における「公共」とは、publicの翻訳語としての概念ではなく、
『旅軒先生全書』や『朝
鮮王朝実録』、『韓国文集叢刊』などに頻出する史料用語としてのそれである。なお、朝鮮時代の公
共については、筆者にはこれまで、①「『朝鮮王朝実録』に見える「公共」の用例の検討」<日本語>、
②「14世紀末から16世紀半ばにおける「公共」の用例の検討―『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』
を中心に―」<日本語、韓国語>、③「退溪門下から旅軒・張顯光にいたる「公共」 ―人間主体・
社会・自然―」<韓国語>、④「朝鮮時代の公共とソンビ」<日本語、韓国語>の論稿がある*1。
本稿は、③を日本語化した上で、論旨が異ならない範囲で、加筆修正を施したものであることをお
断りしておく。
韓国(また東アジア)の歴史的「公共」の概念の内包は、今後いっそう研究を積むことで明らか
にしていきたいと考えるが、ここではとりあえず、以上の論稿をふまえて、以下の点のみ指摘して
おく。
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片岡 龍
前近代韓国における「公共」の語の使用は、14世紀末に始まり、16世紀後半から18世紀前半をピ
ークとする。その用例は、当初は言官が王を諫言するという文脈に限られるが、次第に発話主体は
士林(ソンビ)全般へと裾野を広げ、最後には王が多用する。『朝鮮王朝実録』における「公共」
の用例の時代別の特徴を、用例数・発話主体という点から区分すると、次のようになる。
王代
ⅰ 第 1代太祖~第13代明宗(1392 ~ 1567)
年数
約180年間
用例数
10%
発話主体
言官
ⅱ 第14代宣祖~第20代景宗(1567 ~ 1724)
約160年間
70%
士林
ⅲ 第21代英祖~第27代純宗(1724 ~ 1926)
約200年間
20%
王
その内容は<参加共働性>を特徴としており、そのことは、「公共」が「公共する」という動詞
として用いられる場合が多いことにも表れている。「公共」の対概念は「私」である。この場合の「私」
とは、時間・空間の私的独占による硬直化といった意味合いである。したがって、「公共」は誰も
がそこに参加でき、共に活動する時空間的要素をもつ。また、前近代韓国の「公共」には<不正に
対する義憤>という特色が認められる(不正とは、すなわち私的独占の謂い)。憤りの主体には、
祖霊や後世の人々も含まれる。
『朝鮮王朝実録』において、「公」と「公共」を自覚的に区別した例はない。ただし、ⅲの時期に
なって、「私」と「公共」の共存の道が模索されるようになる。そこから「公共」を「公」とは区
別して捉える萌芽的発想が読み取れる(たとえば英祖19年 3 月27日②)。それを準備した思想的水
脈が、退溪門下から旅軒にいたる「公共」観に認められるというのが筆者の展望であり、本稿執筆
の動機である。また、そこには「公(共之)論」が政治的に利用されることで形骸化し*2、「真箇
公共」(正祖24年 3 月 5 日①)が求められたという歴史的な伏線もある。
そうしたところから、以下の論述において、前近代韓国の「公共」に、「社会」的意味合いを読
み込んだような箇所もあるだろうが、これはpublicの訳語としての「公共」から類推して、近代西
洋の「市民社会」と似たものが前近代韓国にも存在していたといったことではもちろんなく、きわ
めて一般的な意味で「社会」という語を用いている。なにも、「公共」について考える場合に、近
代西洋ばかりを引照基準にする必要もないだろう。
1、概観
(1)『旅軒先生全書』における「公共」の用例の分類
周知のように、『旅軒先生全書』(仁同張氏南山派宗親会、1983)には、旅軒の著作として、『旅
軒先生文集』十三巻、
『旅軒先生続集』十巻(以上、上冊)、
『性理説』八巻、
『易学図説』九巻、
『龍
蛇日記』二巻(以上、下冊)を収める*3。
このうち「公共」という語句の使用例が確認できるのは、
『旅軒先生文集』巻九「立巌記」(6例)、
巻十「奇高峯文集跋」( 1 例)、
『旅軒先生続集』巻二「擬疏」( 1 例)、巻四「記夢」( 1 例)、巻五「晩
學要會」( 1 例)、巻五「錄疑俟質」( 1 例)、巻六「平說」( 1 例)、『性理説』巻一「図書発揮」( 1
例)、『龍蛇日記』巻一「避乱録」( 1 例)の計14例である。
*4
*5
これらの文章を年代順に並べてみると、
「平說」
(1594以後)
、
「避乱録」
(1595)
、
「立巌記」
(1597)
、
「記
4
“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
*6
*7
夢」
(1609)
、
「晩學要會」
(1628)
、
「奇高峯文集跋」
(1629)
、
「図書発揮篇題」
(1634)
「擬疏」
(1636)
と、旅軒四十一歳から八十三歳まで、すなわちほぼその著作活動期の全般にわたっている。
ここでは、まずこれらの用例を短く列挙して、概観しておこう。詳細は、後で検討する。
14例のうち、「公共」が「(義)理」の修飾語となったり、「理」の性質に関連して用いられてい
る場合が、数例ある。
【Ⅰ】
①その公共の名称は、「理」と言い、「太極」と言う。<「平說」>*8
②公共の理は、私する(=独占する)ことはできず…<「図書発揮」>*9
③この道は、我が人が「性」とする公共の理である。<記夢>*10
ただし、①「平說」の引用部に続く文章を見てみれば、以下のように「理」も「太極」も「性」も
「心」も「徳」も「常」も「道」も、すべて同じ物の別名称にすぎない
これ(=「元亨利貞」「仁義禮智信」)は、(天地と人にそれぞれ)「固有」するものである。
その公共の名称は、「理」と言い、「太極」と言う。それぞれが形体を成したものの中に在る
という点では、「性」と言う。その形体の主という点では、「心」と言う。これは本然の善を
獲得したものなので、「德」と言う。固有であって移り変わらないものなので、「常」と言う。
中に蔵するのも、外に発するのも、口に言うのも、身に行うのも、物に接するのも、事に応
じるのも、すべてこの理であり、つまり日用に常に由るものなので、
「道」と言う。*11 <「平說」>
したがって、以下の用例も旅軒においては同範疇である。
【Ⅱ】
④天地万物公共の常に存する「性」<「晩學要會」>*12
⑤公共の本性を保持する人々の取捨選択<「奇高峯文集跋」>*13
⑥「義」は、わが人の本性を保持する公共の天性である。<「避乱録」>*14
⑦公共の義理は、それぞれ自らの会得した見解を発するのが、分内のことだからである。<「錄
疑俟質」>*15
⑧正大公共の義が、国脈を維持する。<「擬疏」>*16
⑨造物翁の公共の心<「立巌記」>*17
【Ⅰ】【Ⅱ】の用例は、一見、朱子学者の常套句にすぎなく見える。しかし、実は【Ⅱ】の「公共
の性」「公共の義」「公共の心」といった表現は、たとえば『朱子語類』中には、一例も見えないの
である。おそらく、これは朝鮮の性理学の独自の発展と、固有の歴史的・社会的環境の中で、生ま
れてきたものと予想される。本稿で主に論じたいのは、この点である。
しかし、【Ⅰ】にせよ、【Ⅱ】にせよ、「公共」という語が、独自の意味合いをもつ語として、自
覚的に用いられたとは言えず、この点では、『朝鮮王朝実録』や『韓国文集叢刊』に出てくる膨大
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片岡 龍
な数の「公共」の用例も、同断である。
ただ、②と⑦はやや「公共」の性質を述べているように見える。そこで、前後の文を併せて挙げ
ておく。
「河図」の出現は、必ず伏羲の時代を待たねばならない。そこには運数のおのずからやむを得
ないものがある。当時伏羲は、ただ一人でその理を会得して、卦を画くという大業をなした
だけではない。さらに図を留めて、それを万世に示したのである。これは、公共の理は、独
占するべきものではなく、必ず天下万世に、みな目で見て心で会得できるようにさせたとい
うことではないだろうか。これは伏羲が継天立極した、第一の事業ではなかろうか。*18 <「図
書発揮」>
義理の公は、人々が同じく得ているものであり、きわめて愚かで賤しい者にあっても、一筋の
道が真っ直ぐ通じていて、同じ義をそうだと分かるところがあるのだから、そこに取るべきも
のもある。舜が問うことを好み、身近な言葉を察して、大知となったのは、これによってでは
なかろうか。
『大學』
『中庸』の二書は、もちろん程朱の眼と手を経たものである。しかし明道
が正したところに、伊川はすべては従っておらず、二程が正したところに、朱子もまたすべて
は従っていない。そして、すべては従わないことをみずから避けていないのは、公共の義理は、
*19
それぞれ自らの会得した見解を発揮することが、
「分内」のことだからである。
<「錄疑俟
質」>
「公共」が独占してはならないことというのは当然だが、自ら会得(自得)*20したことを発揮して、
他人と共有できるようにすることも、また「分内」であるというのは、やや特色ある見解である。
こうした旅軒の「公共」観が自覚的に論じられているのが「立巌記」である。これは東アジアの
「公共」概念史の中では、稀有な例と思われる。「立巌記」の内容は、後に検討することにして、こ
こでは、⑨以外の「立巌記」の用例を、【Ⅲ】として列挙しておく。
【Ⅲ】
*21
⑩溪山は造物翁の公共の物である。
⑪渓山はもとより公共の物である。*22
*23
⑫公共の溪山を、自分の所有物としようとする。
⑬公共というものは、この物を虚しく棄てられた地に置くことを言うのではない。ただ独占しな
いというだけである。*24
*25
⑭それぞれ感得するところにしたがって楽しめば、どうして公共であることを妨げようか。
「公共の物」という表現は、さほど珍しくもないが、その「物」の内容は「溪山」という自然で
ある。このような自然を対象として「公共」という語を使うのは、『韓国文集叢刊』などにも皆無
である。また⑬⑭に、独占ではなく、それぞれ自得するところに従って、共楽世界に参与し、宇宙
間の万物を活かそうとする旅軒の「公共」観が表れている。
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
(2)『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』正編における「公共」
旅軒の「公共」の考察に先立ち、『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』正編それぞれにおける、
旅軒在世時の「公共」の用例の内容を、概括的に整理・比較しておきたい。
まず500年を越える記録である『朝鮮王朝実録』における「公共」の用例約500件のうち、旅軒在
世時である明宗九(1554)年正月から仁祖十五(1637)年九月における用例数が全体の 2 分の 1(約
250件 )を占めていることから、「公共」という語が、この時期最も頻繁に使用されたことが確認で
きる。その背景としては、士林派による政権の掌握(1565年)と東西分党(1575年)という当時の
政治状況を挙げられる*27。すなわち、自派・自党の主張の正当性を保障するものとして、その主張
が「公共之論」(約150件)「公共之議」(約30件)であるとする例が大半を占めている。
一方、
『韓国文集叢刊』正編350輯における「公共」の用例約720件のうち、仮に没年が1554年以降、
生年が1637年以前である人物*28の用例を数えてみると、全体の 3 分の 1 (約240件)を占めており、
その大半はやはり「公共之論」(約100件)である。『朝鮮王朝実録』における割合よりは低くなっ
ているが、『韓国文集叢刊』においても、16世紀後半から17世紀前半にかけて「公共」という語の
使用される頻度が、他の時期よりも高いことに変わりはない。
このように、
『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』双方において、ちょうど旅軒在世時に「公共(之
論)」という語が盛んに用いられたことが確認できる。しかし、後者には、前者にはほとんど見ら
れない「公共」の用例もある。
たとえば『韓国文集叢刊』正編に約40件*29の用例が見られる「公共之理」は、『朝鮮王朝実録』
には 1 件もない。また前者に見られる「天地公共」18件、
「公共之氣」13件、
「公共道理」12件、
「公
共之性」 3 件、「衆人公共」 3 件も、後者はやはり 1 件もない。そのほか「公共底(道理)」の用例
は前者44件( 7 件)に対し後者 1 件( 1 件)のみ、「天下公共」は前者26件に対し後者15件、「公共
之道」は前者 8 件に対し後者 4 件である。「公共之義」は前者・後者ともに 8 件数えられる。
ところで、これらは、「公共之道」「公共之義」「公共之性」を除いて*30、すべて『朱子語類』中
に見られる用例である。しかし、朱子の思想体系中において、「公共」という語がとくに重い意味
を荷なっているわけではない。また、それが後続の中国の儒学者たちによって、自覚的に取りあげ
られ、発展されたようにも見えない。
朝鮮の性理学においても、「公共」という語が特別な思想的意味をもつ語として自覚的に使用さ
れたとまでは言えないだろう。しかし、
『韓国文集叢刊』正編における性理学的な「公共」の用例は、
個々の件数はさほど多くは見えないが、合計すればかなりの数に達することや(約160件)、中国朱
子学的な文脈とは異なる「公共」の用例が、朝鮮王朝全体を通じて連綿と続いていることなどから
は*31、一見『朱子語類』などの表現をそのままなぞっているように見える「公共」の用例も、あら
ためて韓半島の精神史の底流と関係させて見直す必要があると思われる。
2、性理学的な「公共」の用例の検討
(1)鄭惟一・李德弘
前節で確認したように、『朝鮮王朝実録』と『韓国文集叢刊』正編における「公共」は、旅軒在
世時である16世紀後半から17世紀前半にかけて、「公共之論」という用例を中心に盛んに使用され
るという点では共通するが、一方、前者にはほぼ皆無である「公共之理」などの用例が、後者に収
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片岡 龍
められた個人文集には多々見られる。そして、このような性理学的な文脈における用例の頻出し始
めるのが、やはり旅軒在世時ころからなのである。そこで、まずは旅軒にいたる性理学的な「公共」
の用例がどのように始まっているかを、それぞれ概観しておこう。
「公共之理」の初見は、金時習(1435-1493)『梅月堂文集』である。これは旅軒よりも 1 世紀以
上先立つ用例である。その次は鄭惟一(1533-1576)
『文峯集』、李德弘(1541-96)
『艮齋先生續集』、
柳成龍(1542-1607)『西厓集』であり、その次が旅軒となる。鄭惟一・李德弘・柳成龍は、旅軒
より一回りから二回りほど上で、いずれも李退溪(1501-70)の門人である点が注目される。なお
旅軒は柳成龍とは親交があった。
「公共之氣」の初見は、やはり鄭惟一(1533-1576)『文峯集』である。その次が曺好益(1545-
1609)『芝山集』で、その後は宋時烈(1607-1689)『宋子大全』まで飛ぶ。曺好益も、やはり退溪
門下であり、旅軒と交流があった。
「公共之性」の初見も、鄭惟一(1533-1576)『文峯集』である。「公共底」の初見は、やはり金
時習(1435-1493)『梅月堂文集』まで遡るが、その次は曺好益(1545-1609)『芝山集』である。
なお、「天地公共」「公共道理」「衆人公共」の初見は、宋時烈(1607-1689)『宋子大全』となる。
このように、性理学的な「公共」の用例は、金時習に先駆的な使用があり、またいくつかの用例
は宋時烈まで待たなければならないが、おおむね16世紀後半ころから、一部の退溪門人を中心に、
かつ旅軒の周辺において、しだいに使用が目立ってくることが確認できる。
もちろん、それらの個々の用例は断片的であり、その多くが朱子(1130-1200)や陳淳(1159-
1223)の語を援用する際に、偶然に含まれていたものにすぎない。しかし、援用する側には、援用
する側の文脈がある。それが、援用された語にも、なんらかの色彩を帯びさせることもあるだろう。
たとえば、1556年に鄭惟一が退溪に提出した質問中に、次のような「性」と「氣」を対比した語が
見える。
「性」は、天下公共の「理」です。「氣」はわが身体の所有です(理氣を融合して言えば、氣
も公共の氣です)。「氣」には生死がありますが、「理」には生死がありません。まだ生まれな
い前に、別に一つの物が一つの場所にあって、「氣」を待って形を成すというわけではありま
せんが、天下公共の「性」は、本来自若として存在しています。たとえば、日光が一つの物
を照らすようなもので、物の有る無しに従って、光が増えたり減ったりするわけではありま
せん。朱子の言う「まだこの氣がなくても、此の性はある。氣は存在しないことがあるが、
理はかえって常に存在している」というのは、このようなことでしょうか。*32
ここでは「(天下)公共」という語が、それぞれ「性」、「理」、「氣」(「理」と一体不可分である
という点から)に冠せられている。すなわち、これらの概念を価値区別する際に、「天下公共」で
あるか否かが標準になっているのである。先に、「公共之性」という表現自体、『朱子語類』にない
ことを見たが、このように「公共」を冠する概念群が一堂に会するような例もないのである。
鄭惟一の質問に対して、退溪はそれをおおむね肯定しながら、日光はやはり形体をもつものなの
で、なくなる時もあるが、「理」は感覚の対象にならず、空間中に位置する形体をもたず、永遠で
あると述べ、
8
“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
仏教では、
「性」が「理」であることを知らず、
「精靈神識」を「性」に当て、死んでも滅びず、
去ってもふたたび来ると言うが、どうしてそのような理があろうか。
と結んでいる*33。
退溪の答えは、朱子らの説の範囲をまったく越えるものではない。しかし、仏教の影響を克服し
なければならなかった中国宋代や、朝鮮王朝建国時ならともかく、16世紀という時点で、こうした
儒仏辨を繰り返すのは、陽明学登場以降、東アジアの思想界に蔓延した「心学」のインパクトを考
えざるをえない。「心即理」のスローガンに対して、朝鮮半島の性理学者たちは、
「性」こそが「理」
であることを、改めて確認しなければならなかった。その際に、当時朝廷を中心にした言論活動で
常用されていた「公共」の語が、価値辨別の標準として用いられたと推測される。
日光の譬喩は、退溪から形氣に堕したものとして一蹴されたものの、この後の半島の性理学の修
養論的展開を考えた場合には、興味深い。いくら「性」
「理」を「天下公共」によって価値づけても、
具体的な身体次元での修養の手がかりがなければ、「公共の性」も「公共の理」も、たんなる名目
上のお題目にすぎなくなるからである。その意味で、「氣」は限定された身体(形氣)に属すると
はいっても、理氣不可分という点では「公共の氣」である。日光は、そのような「公共の氣」であ
り、同時に「公共の理」であるもの(おそらく「太極」)の譬えであるようにも見える。
なお、こうした「公共の氣」への注目は、徐敬德(1489-1546)の「氣」哲学から示唆を得たと
ころも多いと思われる。鄭惟一と退溪のやりとりの中には、しばしば徐敬德の説の検討がなされる
が、以下が、鄭惟一の見る退溪の徐敬德評価として、最も要を得たものである。
わたしはかつて徐敬德先生の学問を退溪先生に聞いたことがある。退溪先生は「徐敬德の議論
を見てみると、
「氣」を論じているところは、至って精密であって、余すところがない。しか
し「理」においては、まだ十分には透徹していない。氣を主とすることがあまりに行き過ぎて
いて、氣を理と見ているところがある。しかし、わが東方でそれ以前にここまで論じ切った者
*34
はいない。理氣について新たに明らかにしたのは、この人が初めてである」と言われた。
徐敬德の「氣」論が、退溪の「理」の再構築にどのような影響を及ぼしているのか否かについて
は、いま十分に論じる余裕はない*35。この問題については、あとで退溪門下の曺好益の「公共の氣」
を検討する際に、もう少し具体的に見てみることとし、また晩年の旅軒の机の上に徐敬德の『花潭
集』が置いてあったことを指摘するだけにとどめよう*36。
ただ、鄭惟一が「性」と「氣」を対比させたのと同じく、やはり退溪門下の李德弘が、「公共」
という語を標準にして、「性」と「明徳」を対比していることについて、簡単に触れておく。李德
弘の語は次のとおりである。
「性」とは、人々万物が稟受した「公共」の理である。一方、「明德」は人が獲得した「虛靈
不昧」(性・情を統括する「心」の働きの形容)の名称である。理は本来同じであるが、名づ
けられた意味は、やや異ならざるをえない*37
Asia Japan Journal 10 (2015)
9
片岡 龍
これは、以下の陳淳(1159-1223)の「道」と「德」の対比に似ている。
「道」と「德」とはきっぱりと二つに分かれるものではないが、おおよその違いを言えば、
「道」
は公共のものであり、「德」は具体的に身体に獲得され、わが所有となったものである。*38
ところが、陳淳にはまた次のような「理」と「性」の対比がある。
「理」と「性」の字を相対して言うと、「理」とは物にある理であり、「性」とは我にある理で
ある。物にあるものは、天地人物公共の道理である。我にあるものは、この理がすでに具体
的に獲得されて、わが所有となったものである。*39
ここでは、鄭惟一と李德弘が「公共」を冠していた「性」が、むしろ個別的なものとして位置づけ
られている。以下のように並べてみると、その対応関係とずれが、はっきりするだろう。
陳淳 1
「道」―公共底
「德」―実得於身為我所有底
陳淳 2
「理」―天地人物公共底道理
「性」 ―理已具得為我所有者
鄭惟一
「性」―天下公共之理
「氣」 ―吾身之所有
李德弘
「性」―人物所稟公共之理
「明德」―人之所得虛靈不昧之名
李德弘の「明德」だけが、同列中やや異質に見えるかもしれないが、
「明德」は現実態としては「氣
稟」に拘束されているので、やはり身心レベルである*40。
ここから言えることは、朝鮮半島の性理学においては、中国の朱子学には見られなかった、「性」
を「公共」の次元に(上表で言えば右側から左側に)高めようとする傾向性があり、さらにそこに
至るための具体的な着手点として、身心(氣)という人間主体への着目があるという点である。た
だ、そこから「公共」世界(時空間)に向かっていく筋道は、鄭惟一や李德弘の論理では、まだ曖
昧である。そこで次に、同じく退溪に学びながら、彼らよりもやや遅れる曺好益(1545-1609)の
「公共」の用例を見てみよう。
(2)曺好益
曺好益の「繼善是公共底。成性是自家得底」(『芝山先生文集』卷之六「理氣辨」)は、やはり『朱
子語類』からの援用である。『朱子語類』自体は、次のような内容である。
張載(1020-1077)流の万物一体観を示したものとされる『西銘』について、朱子は『西銘』が
「理一分殊」を説いている点に留意して読まなければならないと述べ、さらに『易』の「(一陰一陽
之謂道。)繼之者善。成之者性」を例に挙げて、次のように説く。
「之を繼ぐ者は善」は公共のものである。「之を成す者は性」は自分が得たものである。ただ
一つの道理にほかならず、これはよく、あれはよくないと言うのではない。水の中にいる魚の、
10
“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
腹の中の水は、そのまま外側の水と同じであるようなものである。*41
天理が流行して万物にそれぞれの性を賦与することを、賦与する側から言えば「公共」、賦与され
る側から言えば「自家」の違いはあるが、本来一つの道理であると言う。こうした朱子の考えは、
程伊川が倫理的次元*42で捉えた「理一而分殊」(『二程集』巻九「答楊時論西銘書」)を宇宙論的な
規模に発展させたものと言える。この場合、「公共」という語は、宇宙論的な万物一体の構造を貫
く道理を形容するものとなる。朱子において、「天地公共」「公共道理」などの表現が好んで用いら
れるゆえんである。
曺好益は、『易』の繼善・成性を「理一分殊」構造によって捉える朱子の理解をふまえながら、
さらに陳淳の語を援用して、そこに『孟子』の性善を重ね、また『太極図説』の宇宙発生論とも結
びつけている。
陳北溪:『孟子』が「性善」を言うのはどこに由来するだろうか。孔子の『易』繫辞伝に「一
陰一陽することを道と言う。これを継続するものは善であり、これを完成するものは性である」
とある。一陰一陽する根本の理を道とする。これは太極の本体を総論したものである。「これ
を継続するものは善である」は、その本体に即して、造化が流行して、万物を生み育て性命
を賦与することに、「善」以外のなにものもないことを言う。これは太極が動いて陽となる時
である。
「善」というのは実理という点から言っている。つまり、道の流行そのものである。
「こ
れを完成するものは性である」となると、人や物がこの「善」の道理を受けて、それぞれの
性を完成させることを言うのである。これは太極が静まり陰となる時である。…孔子の言う
「善」は、まだ物が生まれる以前の造化の根源のところから言っている。孟子の言う「性善」は、
「これを完成するものは性である」というところから言っている。しかし、実際には造化の根
源のところに、「これを継続するものは善である」があるので、それで「これを完成するもの
は性である」段階になって、はじめて「性」が「善」であり得る。したがって、孟子の言う「善」
は、実は孔子の言う「善」に淵源するのであり、根本が二つに分かれるのではない。*43
また『中庸』の「天命之謂性」を『易』の「一陰一陽之謂道。繼之者善。成之者性」と重ね合わ
せて、「天」=「道」、「命」=「繼善」、「性」=「成性」というように対応させてもいる。整理す
ると、次のようになる。
『易』
道
―
繼善
―
『孟子』
『太極図説』
『中庸』
成性
性善
太極の本体
―
太極の動(陽)
―
太極の静(陰)
天
―
命
―
性
曺好益の問題関心が、たんに宇宙論的な「理一分殊」構造を精密化する点にあるのではなく、師
である退溪と同様に、修養の手がかりとしての「理発」を求める点にあることは、上の引用に続け
Asia Japan Journal 10 (2015)
11
片岡 龍
て、さらに朱子の別の語(実際は弟子の語)を引いているところから、容易に推測できる。
朱子:『易』に「繼善」と言うのは天道が流行するところであり、『孟子』に「性善」と言う
のは人性が流出するところである。『易』は天において、『孟子』は人において、それぞれ流
出するところを語っている。思うに、その発するところの「善」によって、本来「善」でな
いものはないことがわかる。ちょうど流れに従って、水源を知るようなものである。*44
すなわち、「分殊」である自己の本性の次元において、それが発動するところから遡って、「理一」
である天理の流行を体認することを、修養の着手点とするのである。
さらに、曺好益は、四端を「性善の性」に、七情を「氣質の性」に当てて、次のように説いてい
る。
四端は「性善の性」のようなものであり、七情は「氣質の性」のようなものである。「性」は
本来二つあるのではない。指すところが異なっているだけである。そもそも「性」と言うのは、
天理が形氣に存在したものを言うのである。…理は氣の中にあって本来互いに離れない。理
は動くことがなく、氣は動く。氣が動けば、氣の中にある理も動かないわけにはいかない。
そして発するときには同時に発する。その発するものの中で、理を指して言ったものが四端
であり、氣を指して言ったものが七情である。理は善そのものなので、拡充することが必要
であり、氣には善悪があるので、引き締めて中正さに合うようにすることが要求される*45。
このように、いわゆる四七論辨的な流れの上に、「性」を天理が形氣に存在するもの、すなわち
理氣一体的に捉えることで、修養の着手点を確保しようとするのが、曺好益の「理氣辨」の意図で
ある。
こうした文脈から、曺好益における「繼善是公共底。成性是自家得底」という語を捉え直すと、
「公
共」の万物一体的な側面は後景に退き*46、むしろ主体(「自家」)における「性」の発動から、
「公共」
世界に踏み込んでいくという構図が前面に出ていることがわかる。同時に、「性」を理氣一体的な
ものと捉えることで、「公共」世界も、宇宙論的な理が貫くだけでなく、氣の次元でも流通するも
のとなる。
これは、後で見るように、旅軒の「公共」の用例の含意と共通している。ただし、旅軒は理氣を
一体とするのではなく、「経緯」という概念によって、その関係を捉える。このことは、後で検討
しよう。
氣の次元での「公共」も、もちろんすでに朱子らの先例がある。ここでは、陳淳の語を挙げてお
く。
人と天地の万物は、みな天地の間で一つの氣を公共している。子孫と宗祖は、さらにこの公
共の一氣の中で、ひとすじの脈絡がつながっていて、その関係がとりわけ親密である。謝上
蔡は、「祖考の精神は、つまり自家の精神である」と言っている。したがって、子孫がよく誠
*47
敬を尽くせば、自己の精神が集まって、祖先の精神もまた集まり、おのずからやって来る。
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
氣の次元の「公共」が、万物との空間的なつながりを前提としながらも、祭祀における生命の時間
的な連続に、中心的関心のあることを確認できよう。
ただ、祭祀における氣の連続の問題に関しては、朱子らの説明も微妙な曲折がある。問題のポイ
ントは、①天地間で一氣がつながっているとした場合、仏教における「神」(霊魂)の不滅とはど
こが違うのかという点、②輪廻のように同一の氣が永遠に形を変えながら存在し続けるのではなく、
つねに古い氣は消え新たな氣が生生するという見方をとる場合、祖先の「精神」(氣)が子孫の祭
祀に感応できる根拠をどこに求めるかという点にある。
朱子は、基本的には、謝上蔡の「祖考の精神は、つまり自家の精神である」を立論の根拠にする。
しかし、子孫における祖先との氣の連続を、天地間の万物との氣のつながりから際立て、特権化す
ることには、以下のように慎重である。
問:昔の聖賢の言う「氣」とは、天地の間の公共の氣にほかなりませんが、祖先の精神のごと
*48
きは、結局のところ自分の精神なのでしょうか。答:祖先もまた公共の氣にほかならない。
これは、子孫における祖先との「精神」の連続を強調しすぎると、仏教における「神」の不滅と大
差がなくなってしまうからである。朱子は、氣の個別性(形氣)を維持しながらも、それが相互に
響きあうという形で全体性を捉えるのである(以上、①)。ここに「公共一氣」や「公共之氣」と
いう言い方がなされる理由があると思われる。すなわち、対仏教の文脈で「公共」という語が用い
られているのである。
とはいえ、祖先との氣の感通は、基本的には「祖考の精神は、つまり自家の精神である」という
考えを前提とし、子孫が誠敬を尽くすことによって可能となる。ここに祭る側の主体の立場が現れ
る。朱子の弟子たちの間には、祖先祭祀の根拠を、理に見たり(萬人傑)、氣に見たりするが(廖
德明)、祭る側の主体の立場をはっきりと出したのは、上に見たように、陳淳であった(以上、②)。
曺好益は、この陳淳の立場に従っているようである。徐敬德(1489-1546)が「鬼神死生論」で、
「淡(湛)一淸虛」である氣の本体には、始めもなく終わりもないと述べたことに対し、曺好益は、
氣は必ず散じて無くなると批判し*49、祖先の氣が散じて無くなりながらも子孫の祭祀に感応できる
根拠(「長存不滅者」)を、廖德明が「天地間公共之氣體」に見るのに対して、陳淳が「祖考精神、
便是自家精神」とするのを肯定している*50。
また、曺好益は、朱門の呉必大の次の説を、きわめて高く評価する*51。
わたしのこの身体は、祖先の遺し与えてくれた体である。祖先が具有していた祖先たるものは、
思うに我に具有されていて、けっして亡んでいない。魂は天に昇り、魄は地に降り、すでに
変化して存在していないといっても、しかし彼に根拠している理は止むことがない上に、我
に具有している氣もまた途切れることがない。わたしがよく精誠を尽くして求めれば、この
氣は純一で雑なることがないので、この理もおのずと明らかに現れて隠すことができない。
ここにその苗脈(きざし)をはっきりと見つけることができる。*52
呉必大は、この説を『太極図説』に対する朱子の解釈からヒントを得たものと言う。理氣妙合と
Asia Japan Journal 10 (2015)
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片岡 龍
しての自分自身の身体から、氣が響き合う根拠としての理の苗脈(きざし)を見つけていくという
この説は、先に見た、修養の着手点として自己の「性」を理氣一体的に捉え、その発動から太極の
本体へと遡ろうとする曺好益の考えと、ほぼそのまま重なりあうものである。
ただ、氣の次元での「公共」が、朱子のように天地間の万物とのつながりにまで展開しないのは、
主体を重視するからということもあるが、徐敬德が氣の本体を無始無終とするのに対して、「形氣」
としての氣の有限性に拘るからであろう。ここには、やはり李栗谷(1536-84)の「理通氣局」説
を経たあとの四七論辨的な問題関心の影響を見ることができる*53。
3、歴史・社会的文脈における「公共」(柳成龍と旅軒)
以上の曺好益の論理を、前節の鄭惟一・李德弘らの説明と比べてみると、修養の具体的な着手点
としての人間主体への着目という問題意識を引き継ぎながら、論理の体系化という点では、格段の
進歩があることがわかるだろう。ただ「公共」という語は、その体系化のための概念整理の目印的
な意味合いが強く、理の次元においても、氣の次元においても、天地間の万物とのつながりを積極
的に主張するまでには至っていない。これは人倫を断ち切ろうとする仏教の影響をさほど意識する
必要のない時代状況と、
むしろ万物一体は「心学」の強調するところであったことによると思われる。
しかし、1592年、壬辰倭乱が起こり、良賤を問わない多くの老若男女が虐殺、連行され、家や村
が焼き払われた中での流離生活中の餓死・病死によって、人口は激減、耕作地も約 3 分の 1 に減少
し、郷村社会に基盤を置いた共同体が崩壊の危機に瀕すると、あらためて人々の道義的つながりの
構築が必要になってくる。ここでは、旅軒の語によって、当時の状況を垣間見ておこう。
当時の倭乱の惨状は、東国始まって以来、これほどの酷虐な変事はなかった。一境すべてが
賊の往来する通路となり、全ての城民が虐殺されて、賊の兵営が列なる巣窟となった状態が、
ほとんど一年半に及んだ。郷村は灰燼に帰し、雑草の茂る荒れ地となった。刃にかかって殺
され、死体を溝に投げ捨てられた者以外の、千百中の一、二人のわずかな生存者は、流離し
て散り散りになり、賊が退却して十年近くになって、やっと少しばかりの生き残った者たち
が少しずつ集まってきた。*54
こうした状況の中で、
「公共」も本来それが内包するところの社会的意味合いを帯びるようになる。
次に挙げるのは、柳成龍(1542-1607)の1595年の文章に見える「公共の理」の用例である。
私奴婢を軍に編成することを時弊とする論は、近年の風習から論じれば、たしかにこの言葉
どおりの事があります。しかし、天下公共の理から言うなら、私奴婢も国民の一員です。*55
これは、その前年に彼が「士族、庶孼、公・私賤」を問わず、ただ勇力ある者 1 万名をソウルに集
めて、操練すべきことを進言、実現したことへの批判に答えた箇所である*55。「近年の風習」とい
うのは、朝鮮は本来狭小なのに、人々の間に両班・常人を分けて、貴賤の区別を設け、三国・高麗
時代に10万単位あった兵数が、朝鮮王朝以来 1 万余にしかならない上に、公役を担わない私奴婢が
日ごとに増加し、地主たちは自分たちの奴婢が他の役につくことを嫌い、反対運動に余念がないと
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
いった事態を指している*57。
柳成龍は、軍の改編だけでなく、広く人才を取ることを提言し、「有職・無職、庶孼、公・私賤、
僧・俗」を問わず実才をもつ者、また抱負を有しながら人に知られようと求めない者を探し出し、
挙げ用いるべきであると述べている*58。『懲毖録』中に曺好益の募兵活動をとりあげて、忠義の士
として高く評価し*59、また旅軒を何度も朝廷に推薦したりしたのは*60、後者の一例であろう。
こうした柳成龍の考えが、壬辰倭乱に際しての共同体再編の意識から出ていることは明らかであ
る。ただし、そこでの「公共」という語が、多数の私奴婢を有して権勢を張る地主階層(私門)の
非公共性に対して用いられていることからも推測されるように、国家における公役の衰勢は、一朝
一夕のことではないと言われているのである。
一般に、柳成龍は東人の領袖とされるが、士林が東西に分党し、対立を激化させたのも、国家の
元氣が衰勢に向かった要因であると、彼自身は考えていた。1579年、同じ東人の金宇顒(1540―
1603)に送った書簡の中で、次のように述べている。
今日われわれがこの事態に処する態度としては、わが党が激化した端を深く究めて自ら反省
し、誠心を開き、公道を敷くことによって、和平の福を望まざるを得ません。*61
ただ、士類がここまで分裂すると、周囲で揚げ足をとろうと待ち構えている者が必ずいるので、自
分のような非才の者では、調停役として不足である。だが、天下の事は一家の事とは異なり、甲が
やらなければ乙がやるものだとして、当時栗谷が東西の党争を調停しようとして誤解され、怨望の
渦に取り巻かれていた窮境を救うよう、金宇顒に勧めている*62。その際、次のように付言している。
およそ論議することがあれば、行き過ぎや不足を調整し、言いにくいこともはっきりと言うこと
を切望します。かつ我々側の考えを、さらに栗谷らの考えと磨き合わせ、逆に疑惑を残し、互
*63
いに一隅の見解を守って、公共の理を傷つけないようにするのが、とりわけ今日の急務です。
ここでは「公共」は、士林が分裂し、互いに猜忌し、自派の意見を固執することで、対立を激化さ
せるのでなく、過不足のない、かつ踏み込んだ議論によって、双方の立場を調整するような姿勢を
意味している。
このように柳成龍の場合、同じ「公共の理」という語を用いても、もはや朱子らの文脈とはまっ
たく異なる歴史・社会環境によって色づいたものとなっていることが、確認できよう。
先に述べたように、旅軒は柳成龍と親交があった。『旅軒先生年譜』によれば、旅軒が柳成龍の
寓居を訪れたのは、1598年(旅軒45歳、柳57歳)のことである。ただ、それ以前から、柳成龍は旅
軒の品行を聞き及び、何度も朝廷に推薦しようとしていたことも、いま触れたとおりである。年譜
は、次のように記している。
(柳成龍は旅軒に)戦乱中に出会って、騒忙たる間にも、立ち居振る舞いが落ち着いているの
を見て、稀なこととして尊敬し、子の袗に「この人の志操は、凝集し安定し堅固(なること
巌のよう)で奪うことができず、その器量は、和気があり人情に厚く深沈(なること海のよう)
Asia Japan Journal 10 (2015)
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片岡 龍
で窺うことができない。対面する者の心を酔わせる。後日、世に名高い大儒となり、斯道を
牽引するのは、必ずやこの人に違いない」と言い、旅軒に従学させた。*64
巌のような主体と、海のような包容力というこの評価は、旅軒の人物のみならず、その思想の骨格
をよく伝えている。柳成龍が旅軒に出会ったころには、旅軒の学問の骨格はすでに定まっていたと
思われ、柳成龍の思想が、旅軒に直接的な影響を与えたというようなことは考えがたいが、同じ時
代の空気を吸った人間として、おのずと問題関心の方向性が重なるところはあったであろう。
たとえば、士論の分裂が国家の元氣を衰えさせるという主張は、旅軒にも次のような「公共」と
関わる用例がある。
朝廷は、邦域の根本です。士林は、国家の元氣です。朝廷に威儀が整い譲り合う徳があって
こそ、同僚たちが恭しく協和して勤める風化が、四方まで及びます。士林に和を通じて一に
帰する道があってこそ、正大公共の義が、国脈を維持します。*65 <「擬疏」>
士林の葛藤対立を疎通和諧してこそ、国家の元氣(國脈)たる「公共の義」が正常に機能すると言
うのである。朝廷と士林が別々に述べられているように見えるが、本来それは一道一理である。
わたしが古今の天下を見ますに、朝廷が不和でありながら、国家が国家たることを得、士論
が分裂しながら、教化が教化たることは、今までありません。思うに、宇宙の間は、一道一
理のみです。この道理に外れれば、人は人でなく、物は物でなく、天は天でなく、地は地で
なく、家は家でなく、国は国でありません。必ずこの道理に従って、はじめて人と物はその「性」
*66
を得、国家は安定を得、天地はその位を得るのです。
この一つの道理が、
「理」と呼ばれ、
「太極」と呼ばれ、
「性」と呼ばれ、
「心」と呼ばれ、また「義」
と呼ばれて、本来同一物であることは、最初に見たとおりである。次は、旅軒が壬辰倭乱時の義兵
の「義」を「公共の天性」として述べた用例である。
この時、各道では、みな義兵が起こった。ただ忠義の心胆の憤激によるものであり、国のた
めに賊を討ち、君父のために復讐し、わが心を尽くし、わが義を伸ばし、わが力を出し尽く
して、死生、成敗、利鈍を計らない者たちばかりであって、その数は把握できないほどであ
った。その中には、功名や名誉の足がかりにしようとし、必ずしも忠心に根ざし、義胆から
出たのではない者もいないわけではなかっただろう。しかし、「義兵」と言う以上、「義」は、
わが人の本性を保持する公共の天性なのだから、当時、この名に拠った者は、どうして貴く
ないだろうか。大きなものはいくつかの村を集めて一隊とし、小さなものは、一村をまとめ
て一隊とした(あるいは同志が結んで隊となり、あるいは壮勇を募集して隊とした)。道路に
迎え撃つものがいたり、後尾を攻撃するものがいたり、巨大な軍陣を陥落させ、強敵を挫く
ことはできなかったといっても、なお賊に自分たちを仇敵とするものが多いことを知らせる
ことはできた。一つの「義」なるものが、我が国の天地を経緯する大きな防ぎとなったので
16
“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
ある。*67 <「避乱録」>
「公共の天性」である一つの「義」なるものが、大小・公私さまざまな単位で人々を結びつけ、半
島の自然と社会を経緯する防御となったとするのは、柳成龍が「士族、庶孼、公・私賤」を問わな
いで軍を再編し、国防に当てたのと通じるところがあるだろう。また、国防とはたんに「国の為に
賊を禦ぐ」だけでなく、「人民を護活」することが本質であるという考えも*68、柳成龍と共通する
ものである。壬辰倭乱の際には、旅軒自身は義兵活動に関わっていないが、1627年の丁卯胡亂(74
歳)、1636年の丙子胡亂(83歳)の際には、義兵の興起を唱え、みずから「義兵条約」を定めるなど、
積極的な動きを見せている*69。
1595年、報恩縣監に任命された時には、郷約を実施しようとして、次のように述べている。
乱によって離散して以降、人は恒性を失い、郷には古俗がなくなった。昔の正しい道が行わ
れていた時代から変わらないわが民は、不幸にして今日、夷狄へと落ちぶれ、禽獣に帰し、
その風潮が蔓延している。*70
いま人は喪乱を経て、寇賊は国境にとどまっているため、みな仮初めの心を抱き、長久の計
をなさない。・・・ これによって士は勉学の志がなく、兵には技を習う考えがなく、善を振興す
る誠がなく、悪を懲戒する念もなく、農は力耕の意がなく、村は定住の心がない。*71
壬辰倭乱の被害は、たんに人口や耕地が減少したといった経済的損失だけでなく、人々が共働して
社会を経営する紐帯である人心(「恒性」)を、荒廃させたと言うのである。
また、1601年には、張氏の族契を重修し、次のように述べている。
壬辰倭乱を経て以来、一族すべてが一掃して敗亡し、いま生き残っているのは、年長の者は
10 人に満たず、幼少の者はわずかに 6、7 人のみである。またさらに流離し苦しみ疲れ、衣食
を給するに暇がなく、族を合し睦を修する道に意のある者はいない。*72
しかし賊軍が海を渡って帰ってからすでに数年が立ち、駐屯していた明軍も撤退し、課役もしばし
緩んで、資業もやや整ってきたので、そこで改めて族契を結び、
「憂喜必ず共にし、好悪必ず同じく」
して、助け合うことを約そうと述べている。
この郷約や族契の実施において興味深いのは、彼が官奴婢や異姓疎遠の者らも、その社会的紐帯
の再構築の範疇に取り込んでいるところである。これは旅軒の思想の万物流通・万物賦活的な側面
と関係するが、またそれは、壬辰倭乱時の流離生活中に、奴婢から食糧を恵んでもらったり、みず
から耕作したりした体験に由来するものでもあろう。
こうした旅軒の姿勢は、次の祭文に最もよく表れている。執筆年次は不明だが、壬辰倭乱時の無
名の死者に関わる内容である。
ああ、天地がこの民を生んだのは、初めはどのような心だったのか。しかし、今また民にこ
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片岡 龍
のような残酷な戦禍を降し、生きようとする民に、その生命を生かさせず、死体を溝に投げ
捨て、白骨を川原や林藪に曝させるのは、いったいどのような心なのか。この思いを天地に
訴えようとするが、天地はただ茫茫として答えてはくれない。したがって、この時の天地に
いる人間は、ただ嗚咽するのみである。ああ、いまこの白骨は、何の姓の族か。どの村、ど
の里の人か。刃にかかって命を落としたのか。飢餓でもだえ死んだのか。どちらにしても、
ともに戦乱による死である。どんな姓、どんな村、どんな里の人であろうと、みな同胞の民
である。彼が生きている間に、善を積んだのか、悪を積んだのか、あるいは善も悪も積まず、
ただ衆生の中の一人として生きた者なのか、わたしには分からない。ああ、善を積んだか、
悪を積んだかには関わりなく、しかしその死は、誠に冤罪ではないか。天地は無言である。
わたしが何を言うことができよう。しかし、わたしと汝は同胞である。ここに一年も仮眠・
仮食しながら、汝の骨を埋蔵することができていないのは、実に生きている私にとって慚愧
である。ここに同志の者と、白骨を収拾して、日当たりの良い山麓に埋蔵した。汝の霊魂よ、
安かれ。謹んで告げる。*73
旅軒にとって、「公共」とは、このような「某姓・某鄕・某里の人」も、「同胞の民」とするよう
な社会的広がりをもつ点で、柳成龍の用例と通じるところがある。
4、旅軒思想における「公共」
一方、祭祀における氣の流通を考える際に、曺好益の「公共」の性格が、万物への広がりをもた
なかったのに対し、旅軒の場合は、上の引用に見えるように、善を積んだか、悪を積んだか、善も
悪も積まず一庶民として暮らしたかも問題とせず祭っている点で、より寛大である。
おそらく、ここには壬辰倭乱時に、彼の一族が二十余世暮らし続けてきた地が賊軍の進路となり、
母親以外の先祖の木主をすべて失い、彼自身、流離の身の上となった経験も、反映しているだろう。
彼は「旅軒」という号について、以下のように述懐している。
(わたしの居る)「軒」はどこにあるのか。常なる場所はない。どうして「旅」というのか。
わたしは常に旅をしているからである。……わたしは玉山の人間である。幼くして両親を失い、
四方に遊学し、若いころから家にいることができなかった。壬辰(1592)年の夏ころ、玉山
は倭賊の進路となった。さらにわたしの家は道路の傍にあったので、誰よりも先に奔走して
逃げ隠れた。家は兵火に焼かれ、ただ廃墟が残っただけであった。敵が退却した後においても、
故郷に帰ることができなかった。これより親戚に身を寄せるのでなければ、必ず朋友を頼り、
家財を携えて、あちこち引っ越すことになった。あるときは一年に三四回も引っ越し、かく
て東西南北の人となったのである。旅することが、わたしにまさるものがあろうか。そうで
あれば、「旅軒」と号するのも、ふさわしいではないか。……もしも天地から見れば、天地の
間に生を寄せるものは、すべて旅でないものはない。天地は万物の逆旅である。その間に生
まれるものは、あっというまに来て、あっというまに行く。行く者は去り、来る者は続く。
かつて天地と終始を同じくしたものは一人もいない。旅でなくて何だろうか。天地に生まれ
ることも、また旅というのなら、その道を尽くそうと思い、一生涯恥ずかしくなくできるこ
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
とを、勤めないわけにはいかない。*74
『龍蛇日記』では、先祖の木主を失ったことに対する悲痛の念から、儒教祭祀の範疇をはみ出す
生命の連続の可能性に想いを馳せている。彼は言う。木主を失うことは父母を失うことと同じ事で
あり、人は一人の父、一人の母を失っても、罪人をもって自身を処する。ましてやいま自分は、父
母から四代にいたる木主を失った。これを水火の難に失うのでさえ、惨痛の極みである。ましてや
倭賊の手によって失ったのである。
想うに、わが諸父母の精霊は、この禍乱に遇った日に驚いて飛散し、禍乱が過ぎた後に昇降
し彷徨って、寄り付くべき香火も床席も堂宇も木石もない。ここに思いがいたれば、言うに
忍びない。言うに忍びない。あるいは、こんなふうにも考えられないだろうか。この親の遺
し与えてくれた体である我が身の知覚には、精魂の往来を感知できないが、霊明な精魂は、
遺し与えられた体(我が身)の所在を照らし出して、凝聚して明るく光り、飛揚してやって
来て、不肖無状としてわたしを見棄てず、かくてわたしの呼吸の喘ぎの息の中に寄りついて、
四代の父母が混じて一体となり、東に西に、逃げ隠れるこの身の在るところに随って、一瞬
も離れないのだと。*75
「旅軒説」で、この世に生まれることが、本来「旅」であるなら、「旅」の中で人間が行うべき道を
尽くさねばならないと言っていたように、彼は家を失い、故郷を失い、一族の多くを失い、先祖の
木主を失うという現実の中で、もういちど人間が、他の人間、天地間の万物、死者の霊魂と流通し
て、社会・自然・宇宙を再構築していく事業を、それぞれの「分内」で担当することを主張するの
である。郷約実施の際、彼は県民に次のように呼びかけている。
天が人間を生じれば、それぞれその職を職とさせ、その道を道とさせる。ただ憂えるところ
があってみずから尽くさせるのである。どうして外から来るものが阻み挫くことができよう
か。たとえ倭寇が再び盛んになっても、わが民たる者、まだ倒れないうちには、ただそれぞ
れそのなすべきことを尽くすのみである。士はみずからその学を守るべきであり、兵はみず
からその技を守るべきであり、善はますます勧めるべきであり、悪はますます懲らすべきで
あり、農は力耕すべきであり、人はみずから定まって、ひとえに天の為すところに耳を傾け
るべきである。ましてや、天がどうしてついにわが東土の生民を滅ぼす理があろうか。願わ
くは、わが一県の民よ、わが皇天が上にあることを頼み、またわが国家の深仁を頼んで、倭
寇の去留によって、わが民の死生の係わるものとせず、それぞれその職を職とし、その道を
道とすることに務めれば、福慶はここに存し、天神の助けがあるであろう。*76
「分」には「性分」と「職分」がある。そして「性分」は「道理(道徳)」に、「職分」は「事業」
に関わる*77。したがって、次のように言われる。
われわれ人間は、この形氣(身体)を得て、天地の間に三才(天・地・人)の一として参与
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片岡 龍
する者である。本来、性命の道理を充全に発揮し、その職分の事業を尽くすことで、いわゆ
る「人の形を践む」ことのできる理由である。*78
また、
「分内」のことは必ずなさねばならず(尽分)、
「分外」のことは必ずなしてはならない(守分)。
前者の「分」は天地古今万事万物の理をその中に包んでいる心性に存し(性分)、後者の「分」は
居かれた位、職務とする事、遭遇する時などの無限のバリエーション中の身体に存す(職分)。そ
して、この二つの「分」は、結局同じ「道理」である*79。
したがって、「性」に「本然の性」と「氣質の性」があると言われるのも、二つの「性」がある
のではない。
宋の程子・張子にいたって、はじめてさらに「氣質の性」の說が出た。そこで、「本然の性」
とは同じではないので、二つの「性」があるかと疑わしい。しかし、これはその「体」に、
元来二つの「性」が並立していることを意味するのではない。ただ「体・用」、「経・緯」の
分によって、同じではあり得ない点を示しただけである。つまり「体」となり「経」となる
ものを指して「本然の性」と言い、「用」となり「緯」となるものを指して、「氣質の性」と
言ったのである。しかし、「氣質の性」は、本来「本然の性」の中にあるとはいえ、天地流行
の「用」に受けたものには、必ずみな等しくないところがある。したがって、これもまた「性」
と名付けたわけだが、その「性」は、真実の「性」ではない。ただ一物一時の「性」である
にすぎず、天地万物公共の常に存する「性」ではない。*80 <「晩學要會」>
天地古今万事万物の理を内包する「公共常存之性」が縦糸(経)となり、無窮の位・事・時に置か
れた「一物一時之性」が横糸(緯)となって、この宇宙の織物が永遠に産出され続けていく。
そして、宇宙を産出し続けている根本(「道之大原」)、すなわち「公共常存之性」たる道理の「最
上原頭之稱」こそが、「太極」である*81。この産出行為にはどんな人(物)でも参与できる。これ
が旅軒の説く「宇宙間の事業」である。
こうした旅軒の思想は、理氣一体的な「性」の発動から太極の本体へと遡ろうとする曺好益の説
を踏まえながら、「経緯」説の導入によって、主体性を重んじつつ同時に宇宙の万事万物と流通す
る広さ深さをもつものへと発展していると言ってよかろう。
1607年、旅軒は門人たちとともに曺好益を訪問し(旅軒54歳、曺好益63歳)、『心経』『近思録』
などの書を、数日間ともに講論している*82。旅軒は、曺好益の行状中で、彼の学識を高く評価して
いる*83。また旅軒の亡くなる直前に立巌精舎に彼を訪れた門人の一人によって、旅軒が曺好益と韓
百謙(1552-1615)の制によって新たに深衣と幅巾を製したことが記されている*84。曺好益は、旅
軒が訪れた 2 年後に亡くなっているので、実際の交流期間は長くないが、その間にも旅軒は『易学
図説』の草稿を送り批正を請うたりしたことが、曺好益の書簡から確認できる*85。
次の曺好益の旅軒宛書簡は、彼らの交流圏とその共通の関心事を示すものとして貴重である。
柳成龍が突然亡くなったのは、わが党の不幸です。どうして憂国の嘆きのみでしょうか。先日、
鄭四震(旅軒の門人)が「柳成龍は事業の人でしょうか、学問の人でしょうか」と質問した
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
のに対して、わたしは「旅軒先生はなんと仰っているのか」と問い返したところ、「まだ質問
していません」との答えでした。わたしは「すべて事業は学問の中から出るのであって、二
つの事ではない。柳成龍は早くに大賢(退溪)に出会い、彼に帰依した。学問をしていると
きから、すでに国を治める道を知っていた。後日それを事業に施したものは、すべて平日に
学んだものである。しかしいまだ展開し尽くせなかっただけである。もしも彼のもっている
ものを敷き尽くしたなら、天下を治めることも可能である。どうしてこの国だけにとどまろ
うか。ああ、聖主(宣祖)に出会うことが彼(柳成龍)のようであってすら、いまだその道
を行い尽くせない。君子が世に容れられないのは、昔からこのようなものである。嘆かわし
いことだ」、おおむね以上のように彼に伝えました。鄭君はこのことを報告したでしょうか。
あなたのお考えはいかがですか。*86
ここでは、柳成龍が事業人か学問人かという問いに対する旅軒の考えは見えないが、その後、柳
成龍の文集の跋文においては、「徳行」と「事業」を兼ね備えていると評価している*87。上に見た
ように、本来それらは同じ織物の縦糸と横糸の関係にすぎないからである。その点では、曺好益の
答えと似ていながら、やはり異なっている。曺好益からすれば、
「天下を治めることも可能」な「学
問」をもちながら、それを「事業」に施し尽くせなかったのは、「君子が世に容れられない」嘆か
わしいことだが、旅軒からすれば、そうした考え方は「分」に対する理解が精密でないものである。
旅軒は「分」には大小があるとする。
われわれ人間の分には、大きいものも小さいものもある。分の小さなものは、一時にかかわる。
分の大きなものは一生にかかわる。これは理に大小があるのではない。その事物の大小にし
たがって、その分も大きい場合には大きく、小さい場合には小さいということである。一時
にかかわるものは、その時が過ぎれば、分もまた変じる。一生にかかわるものは、一身が終
わった後に事が完成する(死ぬまで変わらない)。ただ、その事業の遠大な場合には、一身の
始終をもって始終とせず、天地の始終にわたるものもある。したがって、分には、一動一静、
一事に応じ、一物に接する範囲にかかわるものもあり、一家・一地域・一国の範囲にかかわ
るものもあり、上下四方の空間(「宇」)、古往今来の時間(「宙」)、千千万万世の範囲にかか
わるものもある。*88
曺好益の「形氣」という個別性への着目が、「分」の概念によって、さらに空間的にも時間的にも
細分化され、小宇宙・大宇宙の事業へと発展していることがわかるだろう。
したがって、世が無道であれば、大宇宙の事業を巻いて懐にし、山水の中で小宇宙の事業に勤め
ればよい。どちらも一つの道理を縦糸に張り、位・事・時に応じた横糸を左右に運んで織り成す事
業の一環だからである。すなわち、旅軒からすれば、もしも「学問」(徳行)が「天下」を治める
に足るものなら、それはすでに「天下」を治める(宇宙を経緯する)「事業」を果たしているのと、
同じことなのである。
このように主体と宇宙との関係が、論理的に精密化されることで、主体の方も、その担当の重み
と公開性をいっそう増す。その一例を挙げてみよう。
Asia Japan Journal 10 (2015)
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片岡 龍
1609年、すなわち光海君元年、旅軒は不思議な夢を見る。孔子の子孫から、孔子の邸宅を買い取
った夢である。これは一見、不遜とも言える内容だが、旅軒はこう考える。孔子の死後から、今に
いたるまで二千二百余年なのだから、その旧宅は当然壊され、その後どうなっているかわからない。
しかし、理によって考えれば、聖人が大邸宅とするのは、「中庸」の道である。そして、次のよう
に言う。
本来この道は、わが人が「性」とする公共の理なのだから、その邸宅には、人々みなが住む
べき「分」がある。ただ人が「中庸」を擇びとって守り続けることができるか否かの如何に
あるのみである。*89 <記夢>
だれでもこの道に参与できる「分」があり、その「分」に即して宇宙間の事業を担うことができる。
ただ、その宇宙の事業主となる資格は、道徳を守り続けられるか否かの一点にかかっていると言う
のである。
この文章が光海君元年の時に書かれていることは、暗示的である。当時の中国に関して、旅軒が
どのように考えていたかは不明である*90。ただし、仁祖代になると、旅軒は上疏中に、なんども皇
極を建てるべきことを提言している。この「皇極」は、朝鮮の君主に対する常套句的表現に過ぎな
いかもしれないが、その「建極」の内容は、やはり宇宙間の事業である。
5、「立巌記」における「公共」
最後に「立巌記」の内容を検討しておこう。
これは、その題名からもわかるとおり、卓立する巌について記された文章であるが、旅軒は冒頭
で、自分は今まで色々な立巌を見てきたが、この立巌ほど「独立不倚の象」をもったものを見たこ
とがないと述べる。のちに三田渡の盟約(1637)を聞いた旅軒は、終焉の地としてこの地に隠れ、
「立
巌」を祭り、「狂瀾衝突の中にあっても特立して挫けない」という意味で「立卓」と命名し、また
周囲に桃花を植えさせ「桃源」の区域とする。旅軒の子の應一は、微意を寓したものと言う*91。
さて、この立巌は人跡未踏の渓山にあるが、それは壬辰倭乱の際に、世の乱れを避けて隠棲した
旅軒の4人の友人が発見したものであり、彼はそこに招かれ、この立巌を見る。『年譜』によれば、
1596年、旅軒43歳の夏である。「立巌記」の書かれたのは、おそらくその翌年である。
旅軒は、この立巌の周囲の地を遊賞し、その景勝を28数えて、その一つ一つに名前をつけ(この
28の命名にはまだ立巌は入っていないことに注意)、次のように述べる。
開闢以来、この渓山は存在したが、幾万年ものあいだ荒廃蕪没の境域であったが、今日始め
てわれわれの遊賞するところとなった。ここにはなにか運数が働いているのではないだろう
か。*92
これに対するある人の質問と旅軒の答えが、「公共」についての問答になっている。まず、ある人
の質問からである。
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
ある人の質問:溪山は美しい。しかし、溪山は造物翁の公共の物である。かつそもそも情意
もなく、名号もない。ここに住む者は、ただ農耕・漁猟・樵採して、自分にある楽しみを楽
しむことができるのみ。ここに遊ぶ者は、ただ行歴して賞玩し、一時の目を快くするまでに
すべきである。そうしてこそ、造物翁の公共の心に順って、溪山の自然の天を全うするとな
せるのではないか。今、かえって情意のない溪山に対して、情意を用いて悩ませ、名号のな
い川や石に、名号を立てて累を及ぼすのは、公共の溪山を、自分の所有物としようとするこ
とである。ましてや、その命名には実体にかなっていないものが多い。だとすれば、これは
造物翁の心ではなくて、溪山をはずかしめることではないか。*93
本来「情意」も「名号」もない自然に、勝手に名前を付けることは、「公共」を独占するもので
はないかという問いは、旅軒からすれば、
「分」に「尽分」(分内のことは必ずする)と「守分」(分
外のことは必ずしない)があることをわきまえないものである。すなわち、立巌の周囲の景勝に命
名することは、旅軒にとっては「分内」のことである。それが、初めにこれは「運数」ではないか
と言われている理由である*94。
旅軒は、まず次のように答える。
わたしの答え:そうではない。あなたの言葉のようであれば、山河大地はわれわれには関係
ないものとなり、天地の間の万物はこの身に関与しないものとなり、われわれの形跡を没し、
心を空無にさせねばやまないものとなる。これがどうして平常の理、光大の道だろうか。造
物翁が万物を造るにあたって、どうしてむだに造物の功を費やして、ただ無用の物とさせる
ようなことがあろうか。一物があれば、必ず一物の用がある。万物があれば必ず万物の用が
ある。まずこの用の理があって、はじめてこの物がある。もしもこの用の理がなければ、こ
の物を生じるはずがない。だから天地が万物を生じれば、また必ずこの人を生じ、そうして
はじめて万物を掌り、それぞれの用を致させる。田畑は耕作し、平野は居住し、五穀は食べ、
糸や麻は織って着る。どうして渓山だけが、人に用を致させないだろうか。物がありながら
用いないのは、かえって造物者の心に背くことではないか。*95
ここで「用」と言われているのは、「分」と同じことであるが、「経・緯/体・用」の「用」であり、
すなわちそれを横糸(緯・用)として、心性の理を縦糸(経・体)として、主体が宇宙間の事業を
織り成していくという観点からの表現である。それは、天・地・人・物、それぞれの事業があるが、
われわれ人間は、天と地の間に位し、天・地を上下に見ないものはない。人や物の中に居て、人・
物と横に向き合わないものはない。これが、この世に生まれた者のふだん接する範囲である。
…天・地の事業に参加して助け、天・地を正しく位置させ、人・物を育み、過去を継ぎ、未
来を開く存在が、人である。*96
と、人間の存在と事業の特色が捉えられているからである。したがって、人間が自然に「名号」を
加えるのは、「用を致させる」ためである*97。
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片岡 龍
しかし、天・地・物と同じく、人間にも人間の「分」がある。その「分外」に越えることはでき
ない。「用を致させる」というのは、人間が自己中心的に物を利用するという意味ではなく、万物
がそれぞれ互いに「分」を発揮し合おうとすることを率先するという意味である。
それが可能となるのは、「有情」の人間と「無情」の自然との間にも、「一理感通之妙」が働いて
いるからである*98。この「理」の性質について、「萬活堂賦」では、次のように述べられている。
なお、萬活堂とは、旅軒が立巌に建立した堂の名前である。
「活潑潑」というのは、一つでありながら多様な万物とつながっており(一本万殊)、流動充
満して、おのずから存在し、おのずから継続して、隙間もなく、休息もないもののことである。
しかし、(鳶が天まで飛び、魚が淵に躍る場合だけでなく)この理は宇宙の間において、いか
なる物にあっても、いかなる時にあっても、このようである。…わが心は実際に天地万物と
互いに流通していて、天地万物の理は、すべてわが心の中に備わっている。…宇宙に満ちて
*99
いるものは、すべてこの理の活潑さである。
人間は、この生命的な理が、宇宙間の万物に流通し続けていることに支えられながら、それぞれ
の存在が、その生命を賦活できるよう、宇宙間の事業を率先的に担当するのである。これが先に述
べた、旅軒の万物流通・万物賦活的な思想である。
以上をふまえて、旅軒の「公共」観を見てみよう。先のある人への答えに続く部分である。
そもそも公共というものは、この物を虚しく棄てられた地に置くことを言うのではない。た
だ独占しないというだけである。渓山はもとより公共の物である。しかし、わたしがそれを
得て、わたしがそれを楽しみ、他人がそれを得て、他人がそれを楽しみ、千万人がそれを得て、
千万人がみなそれを楽しみ、それぞれ感得するところにしたがって楽しめば、どうして公共
であることを妨げようか。前の人がそれを楽しめば、後の人もそれを楽しむ。こちらの人が
それを楽しめば、あちらの人もそれを楽しむ。互いに譲り合わないでも、みな自分に満足す
るのだから、どうして(公共でないと)疑う必要があろうか。*100
これが、上に見たような万物流通・万物賦活的な思想にもとづくものであることは、あらためて指
摘する必要はないだろう。
ある人も、旅軒の答えに納得するが、しかしわれわれの事業は、ただこのような山野に身をひそ
めるだけでよいのかと、さらに問う。旅軒は、道はどこにでもある。もしもその時に遇わなければ、
山野に退いて、生涯を自然の中に寄せ、自給自活しながら、風や雲や花や草を友とするところにも、
道はあると答えている。これが、旅軒の「分」の思想にもとづいた、たんなる消極的な知足安分で
はないことも、もはや繰り返さないでよいだろう。
旅軒にとって、「公共」とは、天地の間に立って、「分」に随って、みずからに接する万物の生命
を賦活する行為である。儒者である旅軒にとっては、見棄てられた物に名を与えて活かす言語活動
もその重要な一つであっただろう*101。「公共というものは、この物を虚しく棄てられた地に置くこ
とを言うのではない」と言うのは、朝廷や士林で「公共」という語が多用されながら、その実質が
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
まったく果たされていない現実を批判するものであろう。ことは朝鮮一国だけの問題ではない。当
時の東アジア全体に無道の嵐が吹き荒れ、名もなき無数の生命が蹂躙され、見殺しにされていった。
もちろん、旅軒が「天下」(東アジア)の運命に思いを馳せようとしたといったことはない。そ
れは「分」を越えることであった*102。しかし、その「分」は同時に宇宙全体とつながっているの
である。宇宙の運数という問題は、彼の哲学における最重要の探求課題であった。
「立巌記」の主眼は、人から見棄てられた渓山に卓立する巌の「独立不倚の象」に擬えて、
われわれもまた天地の間に立つのだから、どうして立つところがなくて、人となることがで
きようか。*103
と説くところにある。その立つところのものは「道徳」である。なさなければならないことは必ず
なし(尽分)、なしてはならないことは必ずなさない(守分)。「ただ義を立てるもののみが、節を
守ることができ、ただ節を守るものだけが、義を尽くすことができる」*104。彼がこのとき立巌の
みには、命名しなかったのは、「分」を守るものであっただろう。
その約10年後の1608年、宣祖が亡くなり、光海君が即位すると、彼は立巖の地に入る。そこにあ
る萬活堂で、孔子の邸宅を買い取った夢を見たことは、先に記したとおりである。光海朝になると、
もはや柳成龍も、曺好益も世を去っていた。旅軒はしばしば、官職に任命されるが、赴こうとしな
い。
1623年、仁祖が即位すると、彼の周囲の多くの者が登用されていった。旅軒にもなんども任命が
降るが、すでに70歳を越えていることを理由に疏を上呈して、辞退を繰り返している。しかし、
1627年、1637年の胡乱の際には、義兵活動を率先していること、また上疏中で、しばしば仁祖に皇
極を建てるべきことを説いていることも、先に見たとおりである。
しかし1637年、仁祖が三田渡で清に降伏し、臣下の礼をとったことを聞くと、旅軒はふたたび立
巌に入る。その際、弟子に「いまわたしは永遠に祖先の墓のある地を去り、ここに居を定め、立巖
とともに老年を終えようと思う」と述べている*105。そのときはじめて、旅軒は立巌に「立卓」と
命名して、祭っているのである。
すでにこのとき、旅軒にとっては、この立巌こそが、またそれに倣って「道徳」を擇びとって守
り続けることのできる者こそが、宇宙に卓立する皇極にほかならないとすることは、もはや「分外」
の行為ではなかったのだろう。旅軒の「公共」観の底には、このような厳格な人格崇尚的要素が流
れていることも、忘れてはならないだろう。
おわりに
最後に、本稿の内容を要約しておく。
まず、本稿が退溪門下の「公共」の用例に注目したのは、『朝鮮王朝実録』を一貫して多く見ら
れる「公共之論」などとは異なる、「公共之理」「公共之氣」「公共之性」「公共之義」「公共之心」
などの性理学的な文脈における用例が、まさに彼らから多用され始めているからであった。
性理学的な文脈といっても、これらの用例は、中国朱子学の表現をそのまま踏襲しているもので
はない。たとえば、「公共之性」「公共之義」「公共之心」という表現は、『朱子語類』には一カ所も
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出ない。同じく『朱子語類』には見られない「公共之論」が、朝鮮半島の社会的・歴史的環境から
生まれた表現であるのと同様に、性理学的な「公共」の用例も、朝鮮の性理学の独自の発展と、固
有の社会・歴史環境によって生み育まれたものと思われる。
退溪門下においては、陽明学登場以降、東アジアの思想界に蔓延した「心学」の「心即理」のス
ローガンに対して、「性即理」であることを改めて確認することが、課題となっていた。その際に、
当時朝廷を中心にした言論活動で常用されていた「公共」の語が、
「性」こそ「(天下)公共」の「理」
であるという形で用いられたと推測される。
ここから、退溪門下においては、中国朱子学には見られなかった「性」を「公共」の次元に高め
ようとする傾向性のあることを確認できる。同時に、本体である「性」に至るための工夫の具体的
な着手点として、身心(氣・明德)という人間主体に注目する論理を模索していることが推測され
る。
曺好益においては、こうした修養論的模索が、理一分殊(太極と万物の関係)の枠組の導入によ
って、いっそう体系的に洗練されている。「性」は、天理が形氣に存在したものとして修養の出発
点(分殊)に位置づけられながら、同時に「太極」の本体(理一)が人において発動したものであ
るとされる。したがって、自己の「性」の発動から「太極」の本体に遡ることは、流れに従って、
水源を知るように自然なこととなる。しかし、本来、「理一分殊」とは、朱子においては、「万物一
体」と密接な関連をもつ概念であり、「公共」という語は、そのような万物一体の世界を統括して
いる道理のあり方を形容するものである。一方、曺好益の場合、「公共」は、概念整理の目印的な
意味合いに止まっており、天地間の万物とのつながりを積極的に主張するまでには至っていない。
しかし、主体の発動から「公共」世界に踏み込んでいくという、しだいに明確化されてきた退溪
門下の論理は、柳成龍において、修養論の枠組みを越えて、社会・歴史的な環境の中で働くように
なる。すなわち士林の分裂や壬辰倭乱によって危機に瀕した人々のつながりを、士論の積極的な調
停や幅広い人材登用などによって再構築しようとする文脈で、「公共」という語が用いられる。柳
成龍が、曺好益の義兵活動を高く評価するのも、こうした文脈から理解できる。
旅軒の「公共」観は、退溪門下の中でも、とくに曺好益における修養論的な展開と、柳成龍にお
ける社会的な広がりの二つの流れを総合し、独創的に発展させたものと見ることができる。
旅軒は、曺好益らにおける、修養の出発点としての身心という個別性を、独自の「分」の思想に
よって、空間的にも時間的にもさらに細分化する。また、本体としての「太極」を、空間的にも時
間的にも無限なものとする。そして、この唯一不変の「太極」が経(縦糸)となり、各種各様の「分」
が緯(横糸)となって、宇宙が織り出されていくと考える。
「太極」と「分」の関係は、一本万殊とされる。旅軒において一本万殊という表現は、静止的な
世界理解に傾きがちな理一分殊や万物一体よりも、宇宙間の万物・万時・万事に流通する理の生命
性を反映している。各種各様の「分」には、それぞれこのような一本万殊の理が流通している。天
地人物それぞれに「分」に即した事業があるが、とくに人間は、心に備わる理の生命性を充全に発
揮する「道徳」実践によって、上下左右・過去未来に接するあらゆる物の生命を賦活させる「事業」
を担っているとされる。
このような旅軒の思想は、柳成龍と同じ時代認識のもとに、各人が「分」に応じて他者(無名の
自然や霊魂まで含む)と主体的に疎通し合うことで、人と社会と自然の生命的なつながりを再構築
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
しようとしたものと評価できる(郷約や族契の実施も、その具体実践と見られる)。
また各種各様の「分」の設定は、曺好益や柳成龍においては解決できなかった、あらゆる時・処・
位における「道徳」と「事業」の一致を可能にしている。そこから、どのような場所にいようと、
道徳を確立した者こそが、真の宇宙の事業主の資格をもつという、旅軒の厳格な人格崇尚的原理が
出てくる。
「立巌記」は、以上のような旅軒の思想を、
「公共」という語の中に、総合したものと考えられる。
それは、当時すでに「公共」という語が多用されながら、その本質が果たされていないことに対す
る批判である点で、前近代の東アジアにおいて、自覚的に「公共」を論じた稀有な例と言える。
注
* 1 ①『国際日本学研究叢書 18 相互探求としての国際日本学研究―日中韓文化関係の諸相―』(法政大学国際日本
学研究センター、2013.3)、②韓国学中央研究院主催公共意識国際学術会議「韓国と日本の公共意識比較研究」
2012.11.21 での発表原稿、③ 2013 韓中日公共意識比較研究国際学術会議「朝鮮王朝の公共性」韓国学中央研究院、
2013.10.1 での発表原稿、④アサン書院開院 2 周年記念学術会議「ソンビ精神と韓国社会」アサン政策研究院、
2014.926 での発表原稿。
* 2 薛錫圭『朝鮮時代 儒生上疏と公論政治』(ソンイン出版社、2002)参照。
* 3 その他に、上冊には『世系図』、『旅軒先生年譜』三巻、下冊には『及門諸賢録』一巻を収める。
* 4 『旅軒先生年譜』1594 年条。『旅軒先生続集』では「蓋壬癸以後書」と注記されている。壬癸は壬辰倭乱の始ま
った 1592 ~ 1593 年。以下、特に注記を記さないものは、本文中、または『旅軒先生年譜』に明記。「錄疑俟質」
は未詳。
* 5 本文から、旅軒が初めて永陽の立巌を訪れた 1596 年(『旅軒先生年譜』)の翌年であると推測される。
* 6 『旅軒先生文集』には年代を記さないが、『高峯先生文集』「高峯集序」には「崇禎己巳臘月日。玉山張顯光志」
とある。
* 7 本文から仁烈王后没年の翌年ころのものであることが推測できる。
* 8 「其公共之名稱、則曰理也、太極也」<「平說」>。
* 9 「公共之理、不可自得以私焉…」<「図書発揮」>。
* 10「此道、卽吾人所性公共之理也」<記夢>。
* 11「此所謂固有者也。其公共之名稱、則曰理也、太極也。而其各在于成形之中則曰性也。其爲各形之主則曰心也。
此莫非所得本然之善。故曰德也。旣爲固有而不可移易。故曰常也。藏諸中而此理。發諸外而此理。言諸口而此理。
行諸身而此理。接於物而此理。應諸事而此理。乃爲日用之所常由。故曰道也」(『旅軒先生続集』巻六「平說」)。
* 12「天地萬物公共常存之性」<「晩學要會」>。
* 13「秉彝公共之取舍」<「奇高峯文集跋」>。
* 14「義是吾人秉彝公共之天性」<「避乱録」>。
* 15「公共義理、各發其所見、乃亦分內事也」<「錄疑俟質」>。
* 16「正大公共之義、維持國脈」<「擬疏」>。
* 17「造物翁公共之心」<「立巌記」>。
* 18「河図之出、必待伏羲之時、其亦有数不得自已者哉。当時伏羲非独自会其理、用見做画卦之大業、又留其図以示
万世。豈不以公共之理、不可自得以私焉、必使天下万世、皆得以目睹而心会焉。此非伏羲継天立極之第一事業耶」
(『性理説』巻一「図書発揮」)。
* 19「義理之公、人所同得。雖在至愚極陋、亦或有一條路通得直、一般義見得是處、則當在所取焉。大舜之好問察邇、
而爲大知者、不以是耶。大學中庸二書、固經程朱之眼與手也。而明道所正、伊川旣不盡從、兩程所正、晦庵亦
不盡從。而不以不盡從爲自嫌焉者、公共義理、各發其所見、乃亦分內事也」(『旅軒先生続集巻五「錄疑俟質」』。
* 20 ここで「自得」という語は、「此則先儒所未言、乃希春思索自得之說、誠至論也」(『眉巖先生集』卷之十八「經
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片岡 龍
筵日記(甲戌)」)というような例を念頭に置いて用いている。「理」を「自得」することの大事さは朱子学の強
調するところだが、特に朝鮮の性理学ではそれが重んじられており、旅軒の文章でも、それが前提になってい
ると判断される。
* 21「溪山乃造物翁公共之物也」<「立巌記」>。
* 22「渓山固是公共之物也」<「立巌記」>。
* 23「以公共之溪山、便作自家之己物」<「立巌記」>。
* 24「公共者、非曰置是物於虚棄之地也。但不私之而巳」<「立巌記」>。
* 25「各随其所得而楽之、何害其為公共也」<「立巌記」>。
* 26 内訳は、
「明宗実録」(1571)5 件、
「宣祖実録」(1616)115 件、
「光海君日記」(定草本 1633)93 件、
「仁祖実録」
(1653)33 件。
* 27 片岡龍「『朝鮮王朝実録』に見える「公共」の用例の検討」『国際日本学研究叢書 18 相互探求としての国際日本
学研究―日中韓文化関係の諸相―』(法政大学国際日本学研究センター、2013.3)参照。
* 28 正編 350 輯のうち、第 22 輯の申光漢(1484 - 1555)『企齋集』から第 147 輯柳世鳴(1636 - 1690)『寓軒集』
まで。
* 29 没年が 1554 年以降、生年が 1637 年以前である人物における用例は 8 件。
* 30 なお「公共之論」「公共之議」も、『朱子語類』中には用例が見られない。
* 31 片岡龍「『朝鮮王朝実録』に見える「公共」の用例の検討」『国際日本学研究叢書 18 相互探求としての国際日本
学研究―日中韓文化関係の諸相―』(法政大学国際日本学研究センター、2013.3)参照。
* 32「性者、天下公共之理也。氣則吾身之所有也(渾淪言之、氣亦公共之氣也)。 氣有生死、而理無生死。非未生之前、
別爲一物在一處、待氣以成形。而天下公共之性、固自若也。比如日光照一物。是物旣無、光非隨之而無也。物
自有無、而光則無加損也。朱子所謂未有此氣、卽有此性、氣有不存、而理却常在者、蓋如此耶」(鄭惟一『文峯
先生文集』卷之三「上先生問目 丙辰」)。
* 33「答、氣有生死、理無生死之說、得之。以日光照物比之、亦善。然日光猶有時而無者、以有形故也。至於理則無
聲臭、無方體、無窮盡。何時而無耶。釋氏不知性之爲理。而以所謂精靈神識者當之。謂死而不亡、去而復來、
則安有是理耶」(鄭惟一『文峯先生文集』卷之三「上先生問目 丙辰」)。
* 34「余嘗聞先生之學於退溪先生。先生曰、觀其議論、論氣則精到無餘。而於理則未甚透徹。主氣太過、或認氣爲理。
然吾東方前此未有論著至此者。發明理氣、始有此人耳」鄭惟一『文峯先生文集』卷之五「閑中筆錄」。
* 35 この点については、片岡龍「日本思想史から見た韓国思想史の特徴 ―山崎闇斎と李退渓の「心は神明の舎」
観の比較から―」(『東北大学文学研究科研究論集』64、2015)参照。
* 36『旅軒先生續集』卷之九附録「就正錄(門人趙任道)」。
* 37「性者、人物所稟公共之理。明德、乃指人之所得虛靈不昧之名。則理雖本同、而所以得名者、不無小異」(『艮齋
先生續集』卷之一「中庸質疑」)。
* 38「道與德不是判然二物。大抵道是公共底。德是実得於身為我所有底」(『北渓字義』「德」3)。
* 39「理與性字對説、理乃是在物之理、性乃是在我之理。在物底、便是天地人物公共底道理。在我底、乃是此理已具
得為我所有者」(『北渓字義』「理」2)。
* 40「明德者、人之所得乎天、而虛靈不昧、以具衆理而應萬事者也。但為氣稟所拘、人欲所蔽、則有時而昬。然其本
體之明、則有未嘗息者」(朱子『大学章句』)。
* 41「繼之者善、便是公共底。成之者性、便是自家得底。只是一箇道理、不道是這箇是、那箇不是。如水中魚、肚中
水便只是外面水」(『朱子語類』卷九十八)。
* 42 墨子の「兼愛」を「二本而無分」と批判。
* 43「北溪陳氏曰、孟子道性善、何從而來。夫子易繫曰、一陰一陽之謂道。繼之者善。成之者性也。所以一陰一陽之
理者爲道。此是統說箇太極之本體。繼此者爲善、乃是就其間、說造化流行、生育賦予、更無別物、只是箇善而已。
此是太極之動而陽時。所謂善者、以實理言。卽道之方行者也。到成此者爲性、是說人物受得此善底道理去、各
成箇性耳。是太極之靜而陰時。…夫子所謂善、是就一物未生之前造化源頭處說。…若孟子所謂性善、則是就成
之者性處說。其實由造化原頭處、有是繼之者善。然後成之者性時、方能爲此之善。則孟子之所謂善、實淵源於
夫子之所謂善、非有二本也。朱子曰、易言繼善、是說天道流行處。孟子言性善、是說人性流出處。易與孟子。
就天人分上各以流出處言」(『芝山先生文集』卷之六「理氣辨」)。陳淳の引用は『北渓字義』「性」4。
* 44「朱子曰、易言繼善、是說天道流行處。孟子言性善、是說人性流出處。易與孟子。就天人分上各以流出處言。/
蓋因其發處之善。是以知其本無不善。猶循流而知其源也」
(『芝山先生文集』卷之六「理氣辨」)。朱子の引用は『朱
子語類』卷九十五の二つの条を組み合わせたもの(前半は、実際は弟子の語)。
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“ Doing Public”(公共)from the Toegye(退溪)School to Yeoheon Jang Hyeon-gwang(旅軒・張顯光): Human Subjectivity, Society and Nature
* 45「四端猶性善之性。七情猶氣質之性。性非有二也。所指不同耳。夫所謂性者、指天理之在形氣者而已。…理在氣中、
元不相離。理無動而氣有動。氣動、則在氣之理、亦不容不動。而發則一時俱發。於發之中、指理而言者、四端
是也。指氣而言者、七情是也。理無不善。故要擴而充。氣有善惡。故約而求合於中」
(『芝山先生文集』卷之六「理
氣辨」)。
* 46 金時習(1435 - 1493)が陳淳の「理是泛言人物公共之理。性是在我之理」(『北渓字義』「性 1」)によって「理」
と「性」の位相を区別し、さらに「性」は人々万物それぞれ異なることを述べながら、しかし、その源は一つ
であると結論し、その根拠として『西銘』の「民吾同胞。物吾與也」を挙げるのとは対照的である(『梅月堂文集』
卷之二十三「雜說」)。
* 47「人与天地万物、皆是両間公共一箇氣。子孫与宗祖、又是就公共一氣中、有箇脈絡相関係、尤為親切。謝上蔡曰、
祖考精神、便是自家精神。故子孫能尽其誠敬、則己之精神便聚、而祖先之精神亦聚、便自来格」(『北渓字義』「鬼
神」13)。
* 48 問:上古聖賢所謂氣者、只是天地間公共之氣。若祖考精神、則畢竟是自家精神否。曰:祖考亦只是此公共之氣。
(『朱
子語類』巻三)
* 49 ここで、曺好益が特に徐敬德の「一片の香燭の氣が、目の前で散じるのを見たとしても、その餘氣は終には散
じない」という譬喩を取りあげ疑問としているのは、先に見た鄭惟一の日光の譬喩との類比を思い起こさせる。
ただ、彼は「徐敬徳の門に遊んで、直接このことを質問できないのが残念である」と、この文章全体を結んで
いて、その評価は微妙な点がある。
* 50「陳淳問、先生答李堯卿鬼神說曰、所謂非實有長存不滅之氣魄者。又須知其未始不長存者爾。寥子晦見此、謂長
存不滅者、乃以天地間公共之氣體言之。淳恐只是上蔡所謂祖考精神、卽自家精神之意耳。不知是否。朱子曰、
上蔡說是」(『芝山先生文集』卷之五「題徐花潭鬼神死生論後」)。
* 51「此說、於鬼神祭享之理、甚精」『芝山先生文集』卷之六「諸書質疑」(性理大全)。
* 52「吾之此身即祖考之遺體。祖考之所具以爲祖考者、蓋具於我而未嘗亡也。是其魂升魄降、雖已化而無有、然理之
根於彼者既無止息。氣之具於我者復無間斷。吾能致精竭誠以求之。此氣既純一而無所雜、則此理自昭著而不可掩。
此其苗脈之較然可睹者也」(『朱子文集』巻五十二「答呉伯豊書」)。
* 53 曺好益の「理氣辨」の執筆着手は 1609 年。栗谷の「理通氣局」説の提出は 1572 年。
* 54「寇亂之慘、有東國以來、蓋未有如當日之酷變。亘一境爲往來之賊路、屠全城爲列營之賊窟者、殆一年有半。閭
閻灰燼、轉爲蓬荻。人於鋒鏑溝壑之餘、千百中一二僅存者、流離四散、在賊退後近十年、然後孑遺稍集」(『旅
軒先生文集』卷之九「慕遠堂記」)。
* 55「至於私賤爲軍之弊、自近日之習論之、則誠有如此言矣。若以天下公共之理言之、則私賤獨非國民乎」(『西厓先
生文集』卷之八「柳祖訒上疏回啓 乙未」)。
* 56『西厓先生文集』卷之五「陳時務箚 甲午四月」。
* 57『西厓先生文集』卷之八「柳祖訒上疏回啓 乙未」。
* 58『西厓先生文集』卷之七「請廣取人才啓 九月」。
* 59 朴鐘鳴訳注『懲毖録』(平凡社東洋文庫、1979)144 - 146 頁。
* 60『旅軒先生年譜』巻之一(1598 年条)。
* 61「至於吾輩今日之所以處此者、不得不深究吾黨激成之端而自反焉、開誠心布公道、以望和平之福也」(『西厓先生
別集』卷之三「答金肅夫 己卯」)。
* 62 実際に、金宇顒は同年七月、栗谷を伸救する箚文を書いているが、その中で栗谷を攻撃する東人の議論に対して、
柳成龍からの書簡中にあった「和平之福」という語を用いて、「殊無愛護善良之意、而頗有攻擊不靖之氣。恐非
國家和平之福」と述べている(『東岡先生文集』卷之七「論宋應泂擬箚 己卯七月」、附錄卷之四「年譜」1579 年条)。
* 63「凡有論議、切望調護過不及、勿憚苦口。且以儕輩之意、更相磨礱於叔獻諸公、毋使至於疑阻眩惑、各守一隅之見、
以傷公共之理、尤今日之急務也」(『西厓先生別集』卷之三「答金肅夫 己卯」)。
* 64「及相見於亂中、觀其造次顛沛之間、行止安詳、異而敬之、命其子袗曰、此人凝定確固、渾厚沈潜。志不可奪、
量不可窺。對之令人心醉。異日爲名世大儒、主盟斯道者、必此人也。使之就職學焉」
(『旅軒先生年譜』1598 年条)。
* 65「朝廷、邦域之大本也。士林、國家之元氣也。朝廷有濟濟相讓之德。然後同寅協恭之化、達於四方。士林有通和
歸一之道。然後正大公共之義、維持國脈」(『旅軒先生続集』巻二「擬疏」)。
* 66「臣見古今天下、未有朝廷不和、而國家得爲國家、士論不一、而敎化得爲敎化者也。蓋宇宙之間、一道一理而已。
違此道理、則人不人、物不物、天不天、地不地、家不家、國不國矣。必順此道此理、然後人物得其性、國家得
其安、天地得其位」(『旅軒先生文集』卷之三「謝賜藥物疏 丙子」)。
* 67「是時各道、皆有義兵。惟其忠心所憤、義胆所激、爲國討賊、爲君父復讐、吾心是尽、吾義是伸、吾力是竭、而
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片岡 龍
其死生、其成敗、其利鈍、皆在其所不計者。固未知幾何人。其間或擬功名之階梯、或爲聲譽之機軸、而不必根
於忠心、出於義胆者、亦豈無其人哉。然旣曰義兵、而義是吾人秉彝公共之天性、則當此時杖是名者、豈不貴哉。
大者、聚諸邑而爲一陣、小者、統一邑而爲一陣(或結同志而爲陣、或募壮勇而爲陣)。要於路者有之、擊其尾者
有之、雖不能陥巨陣挫勍敵、猶能使賊知夫 我者多、敵我者衆。一箇義者、爲我國経天緯地之大防」(『龍蛇日記』
巻一「避乱錄」)。
* 68『龍蛇日記』巻之二「避乱後錄」。
* 69『旅軒先生年譜』、
『旅軒先生續集』卷之九附録「言行日錄略(門人趙遵道)」、卷之十附録「景遠錄(門人張 )」。
* 70「亂離以後、人失恒性、鄕無古俗。惟吾三代直道之民、不幸而今日淪夷狄、歸禽獸、滔滔皆然」(『旅軒先生續集』
卷之四「諭鄕所文」)。
* 71「方今人經喪亂、寇賊在境、而皆懷姑息之心、不作長遠之計。・・・ 以此而士無勉學之志、兵無効技之慮、善無振
勸之誠、惡無懲畏之念、農無力耕之意、村無奠居之心者」(『旅軒先生續集』卷之四「諭一鄕文」)。
* 72「壬癸經亂以來、擧族一掃、而敗亡焉。今其存者、在長未十、在稚纔六七耳。亦且流離困頓、衣食焉不暇。孰有
意於合族修睦之道哉」(『旅軒先生文集』卷之八「張氏族契重修序」)。
* 73「嗚呼。天地之生斯民也。始何心也。而又爲之降此酷亂、使斯民之生者、不得生其生、而至棄于溝壑、暴白骨於
沙礫林莽之間者、抑何心也。欲將是意、訟之于天地、而天地茫茫。則爲此時天地之人者、嗚咽而已。嗚呼。今
此白骨、其何姓之族也。其何鄕何里之人也。其殞於鋒鏑者耶。其顚於凍餓者耶。或于鋒鏑、或于凍餓、而同是
亂中之死也。其某姓某鄕某里之人、而皆與同胞之民也。我未知其生也、積善耶、積惡耶、其或無積善無積惡、
而例生於衆生之中者耶。嗚呼。不論其積善與積惡、而其死也、誠寃矣哉。天地無言。我何言哉。我與爾乃是同
胞也。而旣一年假眠假食于此、迨使爾骨不得其藏者、實我生人之愧也。玆與同志者、收而藏之於向陽之麓也。
爾靈其安之。謹告」(『旅軒先生文集』卷之十一「收瘞白骨文」)。
* 74「然則軒在何所。無常處也。曷謂之旅。以余常爲旅也。・・・…余玉山人也。幼而孤露、遊學四方、其不能在家也。
自少然矣。頃於壬辰夏、玉山爲倭賊直路。余家又在路傍、奔而竄之、最在人先。而家燼兵火、只有丘墟。雖在
寇退之後、不能返於故土。自是不托於親戚、則必依於朋友。攜挈家累、遷此移彼。或一歲而三四遷。遂作東西
南北之人。其爲旅也、孰有如我乎。如是則號以旅軒、不亦宜耶。……若以天地觀之、凡寄生於天地間者、孰非
旅也。惟天地萬物之逆旅也。生于其間者、忽爾而來、忽爾而往、往者過、來者續、曾未有一人與天地相終始焉、
則非旅而何。生天地者。亦謂之旅焉、則其所以思盡其道、得無愧於一生者、其可不力焉哉」(『旅軒先生文集』
卷之七「旅軒説」)。
* 75「想我諸父母精靈、其必驚散飄揚於遇禍之日、升降彷徨於遇禍之後、香火焉無可倚、床席焉無可倚、堂宇焉無可倚、
木石焉無可倚。思之至此、不忍言也。不忍言也。安知遺軆之知覚、自不及於精魂之來往、而孔昭之精魂、有以
照於遺軆之所在、凝聚光明、登揚飛越、不以不肖無狀、而棄絶之、遂於喘息呼吸之中、合四代父母、混而一軆、
于東于西、攸奔攸竄、随此身所在、未嘗須臾離也」(『龍蛇日記』巻之一)。
* 76「天生斯人、使之各職其職、各道其道、惟在所憂而自盡耳。豈可以自外至者、而有所沮挫乎。設令倭寇再熾、爲
斯民者、其未顚仆之前、惟各盡其所當爲者而已。士當自守其學、兵當自守其技、善當益勸、惡當益懲、農當力耕。
人當自定、而一聽於天之所爲矣。况天豈有終絶我東土生民之理哉。願我一縣之民、恃我皇天之在上、又恃我國
家之深仁、勿以倭寇之去留、爲吾民死生之係。而務各職其職、道厥道、則福慶斯存、天神是佑矣」(『旅軒先生
續集』卷之四「諭一鄕文」)」。
* 77『旅軒先生續集』卷之二「擬箚 五條」3、卷之六「究說」。
* 78「吾人得此形氣、參爲三才於兩間者。固所以使之能充其性命之道理、能盡其職分之事業、有以踐夫爲人之形也」(『
旅軒先生文集』卷之六「人心道心說」)。
* 79『旅軒先生文集』卷之六「明分 幷五段」。
* 80「至宋程張子、始又有氣質之性之說。則似與本然之性不同、而疑於有二者之性矣。然此非謂其體也、元有二性之
幷立也。特就其體用經緯之分、而見其有不能相同者。乃指其爲體爲經者、曰本然之性。指其爲用爲緯者、曰氣
質之性。然而氣質之性、本在於本然之性之中、而所稟乎天地流行之用者、必皆有不齊之端。故亦名之曰性矣、
而其爲性也、非眞性也。則止自爲一物一時之性、而非天地萬物公共常存之性也」(『旅軒先生続集』巻五「晩學
要會」。
* 81『旅軒先生文集』卷之七「道統說」。
* 82 曺好益『芝山先生文集』附録「年譜」1607 年条。
* 83「顯光晩拜於永陽之陶村、一接容儀、知公學識非俗儒所及」(『旅軒先生續集』卷之八「芝山曹公行狀」)。
* 84『旅軒先生續集』卷之九附録「拜門錄(門人申悅道)」。
* 85『芝山先生文集』卷之二「答張旅軒」4。
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* 86「西厓遽至於斯、吾黨不幸。奚但疹瘁之慟而已。向日、鄭君燮問西厓是事業底人。是學問底人。好益却問曰、旅
翁云何。曰、未之問耳。好益曰、凡事業、從學問中出、非二事也。此老早得大賢、爲之依歸。爲學之時、已知
爲邦之道。後來施諸事者、皆是平日之所學。然亦未盡展耳。若使盡布其所有、則雖天下可矣。豈止於此乎。噫、
得聖主如彼、而猶未盡行其道。君子之不容於世、自古如此。可勝歎哉云云。未知鄭君以告之否乎。而高見以爲
如何」(『芝山先生文集』卷之二「答張旅軒」4)。
* 87『旅軒先生文集』卷之十「西厓先生文集跋」。
* 88「吾人之爲分也、有大有小焉。分之小者、係於一時。分之大者、係於一生。此非其理之有大小也。隨其事物之大小、
而爲其分者、在大而大焉、在小而小焉者也。係於一時者、時過而分亦變。係於一生者、身終然後事當畢矣。而
惟其事業之遠且大也、則不以其身之始終爲始終、而有以竆夫天地之始終焉。故其爲分也、有所關於一動一靜一
應事一接物之間者。有所關於一家一鄕一邦國之間者。有所關於上下四方之宇、古往今來之宙、千千萬萬世之間
者焉」(『旅軒先生文集』卷之六「明分 幷五段」)。
* 89「固以此道、卽吾人所性公共之理也。其爲宅也、人皆有可宅之分焉。惟在人擇守之能不能如何耳」
(『旅軒先生続集』
巻四「記夢」)」
* 90 1630 年、ある弟子が、「現在中国社会が弊風におちいっているのは、おそらく、陽明学が天下に蔓延った余烈で
しょう」と言ったところ、旅軒は色を正して、
「われわれの力量がどうして中国にまで憂いを及ぼせるだろうか。
ただ自分がなすべき職分をなすべきのみである」と答えている(『旅軒先生續集』卷之九附録「就正錄(門人趙
任道)」)。また、1637 年、三田渡の盟約直後、旅軒は弟子に「古今天下にどうしてこのような事があろうか。わ
たしは四方に周流して、のたれ死にたいと思う」と言い、子孫に「わたしが死んだら厚く葬ることなく、ただ
烏や鳶の餌にならないようにしさえすればよい」と遺言したとある(『旅軒先生續集』卷之九附録「拜門錄(門
人申悅道)」)。
* 91『旅軒先生續集』卷之十附録「趨庭錄(子應一)」。
* 92「有開闢以來、卽有此溪山、而幾萬年荒廢蕪沒之境、今日始爲吾儕之所遊賞。不亦有數存乎其間耶」(『旅軒先生
文集』卷之九「立巌記」)。
* 93「或曰、溪山則美矣。然溪山乃造物翁公共之物也。且初無情意、又無名號焉。居于此者、止可耕漁樵採、樂在己
之樂而已。遊于此者、但當行賞歷玩、快一時之目而已。則玆不爲順造物翁公共之心、而全溪山自然之天耶。今
乃於無情意之溪山、用情意以惱之、無名號之水石、立名號以累之、欲以公共之溪山、便作自家之己物。况名之
不以其實者多焉。則無乃非造物翁之心、而爲溪山之辱乎」(『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」)。
* 94 おそらくこのあたりの議論には、元の許衡(1209 - 1281)の「夫名、美器也。造物者忌多取。非忌多取、忌夫
無実而得名者」(『魯齋遺書』卷之一「語錄上」)、すなわち「実」にかなっていない「名」は、造物者の忌むと
ころとなるという語が意識されていよう。
* 95「余曰、不然。如子之言、則是以山河大地、爲不干於吾人、以兩間萬物、爲無與於此身、欲使吾儕沒形跡心空玄
而後已也。此豈平常之理、光大之道哉。造物翁所以造萬物者、豈是徒費造化之功、只令爲無用之物哉。有一物
則必有一物之用。有萬物則必有萬物之用。先有用之理、然後有是物。若無是用之理、則當不生是物矣。故天地
旣生萬物、又必生是人、然後有以主掌乎萬物、而各致其用焉。田野而耕耘焉、原陸而居宅焉、五穀焉食之、絲
麻焉衣之。何獨溪山而不致用於人哉。有物而不用焉、則反有悖乎造物之心矣」
(『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」)。
* 96「吾人位天地之間、莫不俯仰天地。居人物之中、莫不傍臨人物。此乃生於一世者所常接矣。…參贊位育、繼往開
來者、人也」(『旅軒先生續集』卷之五「吾人常接」)。
* 97『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」。
* 98『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」。
* 99「所謂活潑潑者、乃是一本萬殊、流動充滿、不容自無、不容自已、無空缺無停息者是也。然此理之在宇宙間者、
何物不然、何時不然哉。…吾心實與天地萬物相爲流通、而天地萬物之理、皆具於吾方寸之中。…夫盈宇宙者、
皆是此理之活」(『旅軒先生文集』卷之一「萬活堂賦 幷序」)。
* 100
「夫所謂公共者、非曰置是物於虚棄之地也。但不私之而巳。渓山固是公共之物也。而我得之而我楽之、人得之而
人楽之、千万人得之而千万人皆楽之、各随其所得而楽之、何害其為公共也。前人楽之、後人亦楽之。此人楽之、
彼人亦楽之。不相譲而皆自足矣。何嫌乎哉」(『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」)。
* 101「竆理正心、體道修德、一天人通古今、師世範俗、繼往開來者、謂之儒」(『旅軒先生文集』卷之六「學部名目會
通旨訣」)「繼往開來之文、則必由於言」(『旅軒先生文集』卷之六「文說」)。
* 102注 90 参照。
* 103
「吾人也立於天地之間、亦豈可無所立而能為人哉」(『旅軒先生文集』卷之九「立巌記」)。
* 104
「能守分限、不敢違越之謂節。惟立義者能守節。守節者能盡義」(『旅軒先生文集』卷之六「學部名目會通旨訣」)。
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片岡 龍
* 105
「丁丑再入立巖之日、先生顧語小子曰、今吾永辭先壠、而卜居于玆。將欲與立巖而終老」(『旅軒先生續集』卷之
十「景遠錄(門人權崶)」。
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韓国人日本留学生の出版物『太極学報』における
「民族」
「国民」の意味
― コロケーション分析を用いたパイロット・スタディ―
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications
by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
河先 俊子
Toshiko Kawasaki
Abstract:
This pilot study aims to explore the meanings of “Minjok” and “Kukmin”, both of which are
translation of “nation” but may take on different meanings from the original word, in use at the
beginning of the 20th century in Korea employing a collocation analysis. The published writings
by international Korean students were examined to understand grammatical collocations of
“Minjok” and “Kukmin”.
The result of the analysis revealed the following features associating with the meanings of
“Minjok” and “Kukmin”. First, “Kukmin” is subjected not only to state institutions but also the
administrative bodies of state power and is influential in determining the fate of the nation state.
“Kukmin” is understood to be the future body created through education and the agent who
achieves independence of the nation state - “Education” and “independence” grammatically
collocated only with “Kukmin”. Second, “Minjok” is a body based on ethnic commonality within
and beyond a nation state. It is not sphere for the operation of state institutions but an agent for
political actions. It is also implied that “Minjok” came to be perceived as a political agent
influential in determining the fate of the nation state as Korea began to lose its autonomy because
of Japanese colonial rule.
キーワード:
『太極学報』、韓国人日本留学生、民族、国民、コロケーション分析
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河先俊子
1 はじめに
韓国では、19世紀末から20世紀初頭の開化期*1において、近代的な概念を表す多くの漢字語が
日本語から導入された。李漢燮(1985)は、韓国から日本への最初の留学生とされる兪吉濬が記
した『西遊見聞』において、日本語から290の漢字語が受容されたことを明らかにしている。この
時期に受容された漢字語の多くは、現代韓国語でも使用されている。また、社会、国家、国民、
市民、民主主義、国際法といった近代化を果たす上で重要な概念や政治的に重要な概念を表す多
くの語彙も、開化期に受容された。民族も開化期に日本から受容された漢字語の一つである。
人文・社会科学において重要な概念である民主主義や民族、国民、市民などに関しては、翰林
大学校を中心とした概念史研究のグループが、受容と意味変容のプロセスを調査し、これらの概
念が、韓国内で独特の意味を帯びながら定着していったことを明らかにしている。また、金鳳珍
(2002)による日中韓知識人の万国公法観の研究では、「international law」という語について、中
国語、韓国語及び日本語で万国公法と翻訳されるが、それをめぐる思想が西洋とは異なっている
だけでなく、日本、中国、韓国における解釈もそれぞれ異なっていることが明らかにされている。
つまり、西洋起源の概念を表す同じ漢字語でも、日中韓では、その語が持つイメージや内実が異
なって受容され定着した可能性があるということである。このような異なりは、新しい言葉や概
念を受容し出身社会に紹介した文化運搬者が、その社会の必要性に鑑み、既存の文化と適合させ
ながらその語を解釈したために生じたと考えられる*2。従って、特定の語彙がどのように解釈され、
受容されたのか、またどのように変容したのか明らかにすることは、その社会や文化の特徴を理
解するのに役立つと考えられる。
言語学の領域においては、李漢燮(1985)によって開化期における言語接触の結果、日本語か
ら韓国語に受容された漢字語について、どのような語彙が誰によって受容されたのか、初出の文
献は何かといった研究はなされているものの、その意味特性や日本語との違いについては検討さ
れていない。しかし、上で見たように、同じ語を起源とし、同じ漢字語に翻訳された語彙であっ
ても、その内容が異なっているとすれば、同じ言葉を使っていても誤解が生じることがあり得る
だろう。従って、日本語から韓国語に受容された漢字語の中でも特に政治的に重要な語彙に関し
ては、その意味特性を正確に理解する必要があると思われる。
日本と韓国との間では人的な交流が積み重ねられ、友好的な関係が構築されている。しかし、
その一方で、歴史認識や領土問題などに端を発する反日、反韓の言説も後を絶たない。それらの
言説にはナショナリズムがあるとみなされ、日韓双方がお互いのナショナリズムを批判しあうこ
ともある。しかし、先に述べたように、もし「ナショナリズム」という語に対する解釈が日韓双
方で異なり、意味が共有されていないならば、それに対して議論してもすれ違うばかりである。「ナ
ショナリズム」に対する共通認識を持てばこそ、それを克服することも可能になるだろう。
ナショナリズムとはネイションに対する帰属意識や忠誠心を表すが、この「ネイション」とい
う言葉は、福沢諭吉によって「国民」と訳され、韓国に受容されたと言われている。一方、
「民族」
という言葉も「ネイション」の訳語であり、梁啓超が受容し、韓国でも広く使われるようになっ
た*3。そして、国民と民族は、時代や論者によって異なる意味を込めて使用されてきている。
塩川伸明(2014)は、現代日本語におけるエスニシティ、民族、国民の関係について、国民と
エスニシティは明らかに次元が異なる概念だが、民族はどちらにも近く両義性を持っていると述
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Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
べている。塩川伸明(2014)は、民族は、血統や言語、宗教、生活習慣など何らかの共通性に基
づく仲間意識が広まっている集団、つまりエスニシティを基盤として成り立つのに対し、国民は
エスニシティとは次元を異にしており、ある国家の正統な構成員の総体であると定義している。
一国の中に様々な文化的な背景を持つ人々、集団がある場合は、国民は必ずしもエスニックな同
質性を持つとは限らない。しかし、特定の民族が国家を獲得した場合や、ある国家がその統治下
の国民の間に文化的均質化政策を促進し、それが成功した場合には、国民と民族は重なり合うこ
とになる*4。このように、民族はエスニシティを基盤として国民と重なりあうことも、国家ない
し政治的な単位を持つべきだと主張されることもあるのだが、必ずしも政治的自己意識や主権性
を持つものではなく、国家のなかの、あるいは国家以前の、同一文化集団を指すことがあるのも
事実である。
一方、アメリカやフランスでは、多様な文化的背景を持つ人々が、エスニックな差異を超えて
一つの国の市民としての共通性を持つという考え方が主流であり、英語のネイション、フランス
語のナシオンはエスニシティとは峻別され、民族よりも国民の方に近い。これに対し、ドイツや
ロシアのナツィオーン、ナツィーヤはエスニックな意味合いを強く帯びている*5。
それでは、民族、国民の意味は、日本語と韓国語で同じであろうか。韓国では、植民地解放後、
歴史教育界において「民族主義歴史教育」が主張され、1949年に制定された教育法の第 2 条では、
「民族文化の継承発展」、「愛国愛族の精神」が教育方針の一つとして挙げられている*6。また、日
本の大衆文化の流入や日本語教育に対しては、「民族の主体性」に悪影響を及ぼすという観点から
批判の声があがった*7。従って、「民族」は韓国において特に教育政策上、日本との関係上、重要
な概念であり、日本語の民族と比べて強い政治性を帯びているように感じられる。
もし、民族、国民の意味あいが日韓で異なるとすれば、どのように異なるのか明らかにするこ
とは、ナショナリズムをめぐる議論を有意義なものにするのに役立つと考えられる。また、民族、
国民という語の受容過程を明らかにすることを通して、それぞれの社会や文化に対する理解も進
むと考えられる。そこで、本稿では、民族と国民という語に焦点を当て、この語が韓国に受容さ
れた開化期にどのような意味を持っていたのか言語学的な手法を用いて分析したい。
2 本稿の目的
朴賛勝(2010)『韓国概念史叢書5 民族・民族主義』は、民族および民主主義という概念が歴
史的にどのように変わってきたのか分析し記述している。これによると、「民族」という語彙は
1900年ころから韓国に入り、1904年ころから韓半島の住民集団を示す用語として使われるように
なったという。そして、1908年になると「我民族」に対して「檀君と箕子の末裔」であるという
概念規定がなされるようになり、民族は朝鮮の魂を備えた主体、国権回復の主体、新国家建設の
主体とされるようになった。この頃から広く使われるようになった「民族」が、大衆の次元にま
で拡大する契機となったのは、1919年の 3 ・ 1 独立運動である。この時に掲出された独立宣言書、
配布されたちらし、地下新聞では、自決の主体、独立の意思の主体、独立運動の主体として主に
民族という言葉が使われていた。その後、1920年から1930年代には、歴史的経験の共有に基づく
永続的な文化共同体として民族を捉える言説と、民族は人間の資本主義的結合関係であり、資本
主義社会における一時的な現象であるとする社会主義者の言説とが競合するようになった。そし
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河先俊子
て、植民地解放後には、信託統治反対や分断体制反対の文脈で、単一の血統を根拠とした単一民
族論が主張されるようになった。
一方、「国民」という語は、『朝鮮王朝實録』にも登場し、14世紀には、女真の風習を朝鮮式に
改めさせ、朝鮮人と結婚させて同じ義務と権利を与えて国民にするという記述もあったが、新し
い政治的な概念として本格的に議論されるようになるのは愛国啓蒙運動期である*8。当時、啓蒙
思想家たちは、国家の存続、発展の核心としての国民精神、一定の権利と義務を持つ主体として
の国民、議会制度の根本を成す選挙権者としての国民などを論じていたが、概して国民は君主に
附属するものと捉える傾向が強かったようである*9。一方、民族との区別については、1908年 7
月30日の『大韓毎日新報』が、民族は同一の血統、土地、歴史、宗教、言語に基づくが、国民は
それに加えて同一の理解、組織と行動が必要であるとしていた*10。しかし、1910年に日本の植民
地支配下におかれ国家が失われると、国民という言葉によって韓国人の政治的な主体性を表すこ
とが難しくなったと考えられる。そして、独立宣言書には民族という言葉が多く使われた。植民
地解放後は、政治的主体に対する呼称に混乱が生じるが、右翼勢力が国民という言葉を使い始め、
議論の末、大韓民国の憲法でも人民ではなく国民という言葉を使われることになった*11。
このように、これらの研究によって、民族及び国民という語の意味が、受容されてから植民地
解放後までの間に、どのように変化してきたのかが明らかにされている。それを踏まえた上で本
稿では、言語学的な方法を用いて、民族と国民の意味特性を分析する。民族、国民の意味を言語
学的に分析する目的は以下の 2 点である。
(1)コロケーション分析など言語学の手法を用いることによって、思想史研究、概念史研究に役
立つような新たな知見が得られるかどうか探る
(2)思想史研究、概念史研究に役立つとすれば、どのような点で役立つのか確認し、今後の研究
の方向性を定める
3 研究の方法
3-1 対象とする資料
本研究では、開化期の日本留学生団体が発行した雑誌である『太極学報』を分析の対象とする。
『太極学報』は、朝鮮半島の西北地方(平安道、黄海道、咸鏡道地域)出身の留学生が中心となっ
て1905年 6 月に結成した「太極学会」が発行した機関誌であり*12、同団体が他の留学生団体と統
合して「大韓興学会」を結成する1909年 1 月までの間に、合計26冊発行されている。本研究では
1906年から1908年までの間に発行された『太極学報』 1 号から26号までに掲載された文章を分析
の対象とする。この時期は、朝鮮半島において民族という言葉が広く使われるようになった時期
と重なり(朴賛勝2010)、1919年の独立運動で大衆に拡散していく前段階にあたるとみなすことが
できる。従って、この時期の民族の意味を明らかにすることは、その後の意味の変容を調査する
ためにも必要である。
分析の対象となる『太極学報』に執筆しているのは、日本留学生であるため、本研究では、日
本留学生による民族および国民の意味用法を調査することになる。日本留学生は、西洋に起源を
持つ近代的な知識をその語彙とともに韓国に持ち込んだ文化媒介者であり(李漢燮2003)、民族や
国民という語の形成と定着においても重要な役割を果たした(朴賛勝2010)。後に独立運動の中心
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Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
となり、独立宣言書を執筆した崔麟や崔南善も日本留学経験者であり、韓国における民族言説の
生成において重大な役割を果たした人々であると言える。従って、韓国語に民族や国民という語
彙が導入された時期の意味を知る上で、日本留学生のテキストは分析の対象として適切であると
考えられる。
本来、コロケーション分析によって当該社会における語の共時的な意味を明らかにするには、
大規模コーパスを対象とする必要があるが、本稿は、言語学的な手法を用いることによって、新
たな知見が得られるかどうか確かめる目的を持って行う予備的な調査であるため、『太極学報』に
限定して分析を行うことにした。
3-2 分析方法
雑誌『太極学報』に掲載された記事の中から民族及び国民という語を抽出し、以下の観点から
分析を行った。
(1)民族及び国民の出現頻度を数え、時系列的な変化を見る。また、何を話題とし、どんな内容
を伝える文脈で用いられているかという観点から分類する。
(2)民族及び国民と文法的関係にある語や句のリストを作成する。具体的には「我民族」、「民族
の不振」のように民族及び国民の前後におかれて意味的に限定-被限定の関係を成している
用例、「民族を覚醒する」のように補語・述語関係にある用例を抽出した。なお「支離した民
族」のように、動詞が修飾節となって民族を修飾する場合は、
「民族が支離する」という補語・
述語関係があるとみなした。
(3)民族と国民の意味用法を比較し、意味の違いを検討する。
(1)で民族という語彙が何を話題とし、何を伝える文脈で用いられているのか分析することに
よって、民族及び国民についての暗黙の想定やフレームが明らかになることが期待できる。また、
時系列的な分析を行うことによって、使用状況や意味特性に変化がみられるかどうか確認できる。
(2)では、コロケーション分析で民族及び国民が結びつく語を知ることによって、民族及び国民
の持つ意味の特徴を明らかにすることができると考えられる。コロケーション分析において、対
象とする語を中心としてどこまでを共起関係の範囲として切り取るかは、研究者によって異なり、
それによって分析結果も異なってくるが、本稿では文法関係のある語とのコロケーションを検討
する。これらの結果を踏まえ、(3)では民族と国民の意味用法を比較し、意味の違いを明らかに
する。そして、当時の日本留学生たちが、日本語から導入したこれらの語をどのように解釈して
受容していったのか考察したい。
4 出現頻度
まず、雑誌『太極学報』における民族及び国民の使用状況を概観するために、それぞれの出現
頻度を数えた。そして、何を話題とし、どのような内容を述べる文脈で用いられているのかとい
う観点から分類を試みた。その結果を表 1 、表 2 に示す。
表から分かるように、
『太極学報』において国家の出現頻度が民族に比べて圧倒的に高い。また、
その内訳を見ると、民族も国民も大韓帝国について述べる文脈における使用頻度が最も高い。こ
れは、大韓帝国の現状や歴史について述べたり、大韓帝国に所属する人々に呼びかけたりする文
Asia Japan Journal 10 (2015)
37
河先俊子
脈のことであり、「我二千万大衆民族の生命になり呼吸になり脳髄になり家屋になる我大韓帝国旗
章( 3 号)」「太極旗を文風になびかせて東西洋に掲げるのが吾国民の義務である(26号)」のよう
な用例がある。これ以降、( )内に『太極学報』の号数を記す。
表における国家との関係は「一国の盛衰は其国民の健否による( 1 号)」「国家は一定の主権、
領土、国民を有している( 6 号)」「国民がその国家を愛する本性はその国家が自己を保護するた
めに存在するものだと確信する( 3 号)」のように、一般的に国家との関係について述べる文脈の
ことであり、国民に関しては、単に国家の構成員というだけではなく、国家の運命を決定づける
存在であり、国家の統治・保護の対象となる一方で、国家を愛し、尽くすという内容が述べられ
ている。一方、民族に関しては、「一定の土地があり、数多くの民族があってもこれを統治する主
権者がなければ国家ではない( 1 号)」「一国内に多数の民族が集合して共同生活を営む( 1 号)」
のように、民族イコール国家ではないことが述べられている一方で、「国家国体を組成維持する民
族はその国が持つ國魂を持っている( 5 号)」のように、民族が国家の構成員であることも述べら
れている。
諸制度は一般的に統治機構、政治制度、憲法、教育、度量衡、税制、警察など近代国家の諸制
度について述べる文脈のことである。この文脈では民族はほとんど用いられていないが、国民は「専
制政治下の国民が政府に依存することを望む(13号)」
「健全な国民を養成する道は教育にある(21
号)」「警察は国民と間隔がないので直接相通ずる( 4 号)」のように多くの用例がある。国家の諸
制度の対象や担い手は民族ではなく国民であると認識されていたと考えられる。
他国・他地域は、他国、他地域の現状や歴史について述べる文脈であり、「インドは二億万の国
民の団体がある( 5 号)」「スペインがイベリア半島を併合し、ムーア民族と闘争を起こしている
時( 3 号)」のように、国民、民族とも多くの用例があった。
一方、「飢饉戦乱時の疫などの流行によって国民の消費力が減殺される例もある( 3 号)」のよ
うに経済について述べる文脈では国民のみが使用されており、「自然民族は言語と身態を手段とし
て内部の感情と思想を発表する(18号)」のように国家を前提としない集団に関しては民族が使用
されていた。
35
128
103
526
3
94
29
38
6
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
号数別に使用頻度の推移を見ると、特に17号(1908年 1 月発行)以降、民族の使用頻度が高まり、
国民を凌ぐようになっている。16号から20号で国家を前提としない集団について述べる文脈での
使用頻度が39と特出しているが、これは、「世界文明史 非文明的人類」という特定の論稿で、原
始的民族、歴史的民族、自然民族、人文民族という分類が示され、その特徴について説明されて
いるためである。これを除けば、特に、民族の使用頻度は、他国・他地域並びに大韓帝国につい
て述べる文脈、国家との関係について述べる文脈で増加している。
国家と民族の関係については、1908年以降、「国家が覆敗する日には民族の滅亡に至り(23号)」
「国を知り、国を愛する民族がいる国なら国権がある(24号)」のように、国民と同様に国家と運
命を共にする関係であることが示されるようになっていた。また、大韓帝国について、「4千餘年
の麗しい歴史を持つ我大韓民族が今日、苦痛の酷い暗黒の中に陥っている(25号)」のように日本
の支配下に置かれている状況を嘆きながら、「もし外人にこの地を犯されたら生命を犠牲にしても
固守し一歩も退くことができないことが大韓民族の義務だ(21号)」とその打開を民族に求めるよ
うな主張が目立つようになっていた。1906年2月に韓国総督府が置かれて以降、法律の制定などを
通して日本による韓国支配が進み、国民が統治や政治制度の主体としての地位を失っていくのに
伴って、民族に対する注目が高まったと見ることができる。
5 コロケーション分析
次に、民族、国民と直接修飾関係にある語と文法的関係にある動詞の分析を行う。
5-1 直接修飾関係にある語
民族、国民と修飾関係を成す語を、前置されるものと後置されるものとに分け、意味的な特徴
に基づいて分類し、リスト化したものを表3と表4に示す。この際、「~の中で」「~に対して」
といった助詞的複合辞は除いた。( )内の数字は出現頻度を表し、数字がないものは 1 回だけ出
現したことを表す。
表3.前置修飾
民族
国民
①指示詞
①指示詞
この、その(2)
、かの、これら、どんな
その(17)
、これら
②数量を表す語
②数量を表す語
二、三百の、数多く、多数、多、衆多の、一
多数の(3)
、大多数の、一(2)
、一個、衆多の、
群の
全(2)
、二億万の、5万人以上の、萬
③特定の民族を指す語
③特定の国民を指す語
東洋(2)
、高句麗、ムーア、ギリシャラテン、
普国(2)
、英・英国(5)
、普 仏、フランス、
ラテン、アングロサクソン、ペルシャ、
(インド)
スイス、オーストリア・ハンガリー国、スペ
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39
河先俊子
アーリア(8)
、イスラエル、トラン、タイ、
イン(4)
、支那、他(3)
、他国、列国、某(2)
、
ツングース、マレー、タジク、タミル、スキ
両国、文明、文明国
タイ、フーヒン、ニシチタス、波斬、支那(4)
、
清、ナイル河畔、バルカン半島、外来、世界、
④韓半島の住民を表す語
他(4)
、其国、自分の、自国、諸(3)
我(38)
、我韓(7)
、我国(5)
、大韓(2)
、韓
国・大韓帝国・韓国巳(5)、我大韓、我邦、朝鮮、
④韓半島の住民を表す語
二千万の(2)
、青丘二千万の、吾輩、全国(3)
我(10)
、 我 韓(12)
、 我 国(3)
、 大 韓(4)
、
韓(4)
、韓国、我大韓、朝鮮、コリアン、我
⑤状態を表す語
二千万大衆、二千万同胞、二千万神聖、二千
大(7)
、一大、新(3)
、健全な(7)
、有望な、
萬(8)
、四千餘年文明礼儀、神聖(3)
善良な(2)
、偉大な、忠実な、先進、進歩、堂々
とした、完全な(2)
、愛国的(2)
、上品な、
⑤種別を示す語
独立(25)
、自由、被保護、亡国、開化低度の、
原始的、歴史的(2)
、自然(19)
、人文(6)
、
適切な、不完全な、無気力無精神の、幼稚な、
遊牧(3)
、牧畜(3)
、下層
半死的、信用経済時代にある、圧制、専制
⑥その他
⑥その他
一般(2)
、全国(2)
、特別な、実際的、土着の、
一般(26)
、第二(2)
、将来の、現時の、少年
、宇内、国家
不審な、野蛮な、自由、大奮発(4)
、亡国、 (12)
無国性的、今日以降の
民族も国民も一定の範囲を持つ人間の集団という意味を持つことは共通しているが、民族はそ
の範囲が国家そのものではなく、国家内の小集団であることも国家を超えた集団であることもあ
ると認識されていたことが、「東洋民族」、「バルカン半島の民族」、「遊牧民族」などのコロケーシ
ョンから確認できる。国民は国家の存在を前提としているが、民族は特定の地域の住人であるこ
とや生活様式の共通性を前提としていることもある。
韓半島の住民を表す用語としては、国民、民族ともに使用されており、我、大韓、 2 千万のと
いった語と修飾関係が見られる。しかし、 4 千万年、神聖といった語と修飾関係が見られたのは
民族のみであった。
一方、国民を修飾する語のうち、「大」「新」「健全な」「善良な」といった肯定的なニュアンス
を持つ語は、民族とは共起していない。この結果から、国民は民族に比べて肯定的な意味特性を
持っていたと推測できる。また、「独立」は国民とは頻繁に共起するが、民族とは共起しないこと
から、当時、独立の主体は国民であると認識されていたと考えられる。
さらに、
「一般」は国民と最も頻繁に共起する語であり、
「少年」は国民とのみ共起していた。「少
年国民」は国民のうち年少の人々を指すと考えられるが、民族は集団そのものとしてのイメージ
が強いのに対して、国民は発展段階などに応じた下位グループに分解できるものとして捉えられ
ていたのではないだろうか。
40
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
表4.後置修飾
民族
国民
①人間の部位、機能
①人間の部位
頭脳、呼吸、生命
脳裏(2)
、脳髄(3)
、脳髄裡、脳・頭脳(3)
、
耳たぶ、身体、体格、体面
②心理的作用
精神(3)
、自由精神、時代精神、思想、自由
②心理的作用
思想、信仰、神教科学哲学、現世主義
精神・大精神・精神頭脳(21)
、的精神(11)
、
自国精神、自強精神、的意識、魂、愛国心、
③政治的な主体であることを表す
義勇心、独立心、思想(7)
、独立思想、農業
的交際、理想的外交、内政、政治的活動、的
思想、衛生思想、思想感情(2)
、志節、企業
活動、国性的教育、的自治制度(3)
、建国問題、
心(2)
、怒り、理想、心的生活、元気(3)
的時代、主義(3)
、帝国主義、的建設主義、
諸国
③権利・義務・資格
④状態
義務思想、職分(2)
、両分、資格(5)
、的人格、
幸福、福楽、安定福楽、安寧秩序、惨状、不盛、
的教師、的道徳(2)
、的行動(2)
、規範、精枠、
程度(2)
、
生死、
生存滅亡(2)
、
滅亡、
消長(2)
、
標準
福利、利害(2)
、権威、義務(17)
、的義務(2)
、
繁殖、勃興、進化(2)
④状態
⑤共通の特徴
安心、幸福(2)
、不幸、自由、健康(2)
、健
歌謡、人文(2)
、源、性質(2)
否(2)
、個人状態、程度、安危、不振、腐敗、
未開、開化(3)
、進歩(2)
⑥構成要素
一分子、一部分、集団、同胞(2)
、蟊族
⑤共通の特徴
⑦その他
習慣(3)
、習俗、道徳
性格(4)
、性質(2)
、特質(3)
、弱点、編僻、
勢力、神聖、自由、義務、混合、実行、展覧会、
生活、範囲、社会(2)
、的関係
⑥構成要素
母(3)
、子女、子弟(2)
、兵、一分子(3)
、個々
人、個々、最(上)高位(2)
、敵、先導者、
先覚者、一部、一階級、一地方、階級、上下、
大多数、全体(10)
、団体(2)
⑦力
奮発力、元力、全力、感化力、剽悍勇敢
Asia Japan Journal 10 (2015)
41
河先俊子
⑧教育に関わる語
教育(25)
、教育論、教育費、教育主義、学校、
体育
⑨知識
知識・智知己(9)
、
理科的知識、
学識、
常識(4)
、
才徳
⑩国民を主語または対象とする動詞
覚悟、同意、反対、信頼、要求、決心(2)
、
自主独行、行為、団結、團合、共同、憤発、
誤謬、
(個人)生活(4)
、発達(2)
、培養、養
成(4)
、啓発、的屹立
⑪経済に関する語
利益(2)
、消費、鶏卵消費量、消費力、生産力、
資本、経済、産業、経済説、私営、営業行為、
企業
⑫その他
富強、会議、団体、社会(3)
、人口、将来、
前途、目的、希望(2)
、最難関、患難、現時、
敵、大敵
民族、国民の後に続いて修飾関係を成す語を見ていくと、どちらも人間の集団であるから当然
ではあるが、脳、精神、思想といった人間の機能を持ち、幸福、不振の状態にあるというように、
人間をメタファーとした表現が多く見られる。しかし、生死や滅亡といった語は民族とのみ共起
していることから、民族は亡びる可能性があると認識されていたと推測される。
一方、民族は「内政」「政治的活動」「建国問題」といった語と修飾関係を成すことから、政治
的な主体としても認識されていたと言える。しかし、「教育」「義務」は、国民とは頻繁に共起す
るが、民族とはほとんど共起せず、知識に関する用語、経済に関する用語、「資格」という語は民
族とは共起しない。近代的な教育制度や国家に対する義務の対象、経済的な活動の主体は国民で
あると見なさられていたことが、コロケーション分析からも確認できる。国民は教育を受けて知
識を獲得し、国家に対する義務を負い、経済活動をするという意味特性を持っていたのではない
だろうか。また、国民になるための「資格」があったことも推測できる。
42
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
5- 2 直接文法関係にある動詞
国民、民族と直接文法関係にある動詞のリストを表 5 に示す。
表5.文法関係にある動詞
民族
①ガ格を伴う
国民
①ガ格を伴う
(母国を)作る、
(国家国体を)組成維持する、
総攬する(3)
、
(国家を)建設する(2)
、独立
愛する(2)
、築く、経営する(2)
、
(共同生活
する(2)
、
(憲法を)制定する、
(国家を)組
を)営む、実行する(2)
、交際する(2)
、発
織する、自由活動する、修身斉家する、忠君
揮する、活動雄飛する、演じる、鼓動する、
する、行う、行使する、担う、尽くす(2)
、
刷新する、喚起する、結合する、造出する、
鮮血を流す、愛する(2)
、愛好する、知る(2)
、
利用する、達成する、掌握する、心を一つに
認識する(2)
、先覚する、警醒する、失う(2)
、
して力を合わせる、声をそろえて応じる、
(大)
失格する、
有する(2)
、
存在する、
腐敗する(2)
、
奮発する(6)
、唱する、共にする、発表する、
暖目自酔する、怠る、陥る(2)
、居住する(2)
、
図る、集合する、占拠する、團會する、鍛える、
営む(2)
、活動する、生まれる、食べる、言う、
出生する、血著する、知る(2)
、明らかにする、
受ける(2)
、得る、習得する、作成する、養
享受する(2)
、有する(10)
、特有する、共有
成する、涵養する、成す、抱く(2)
、直面す
する(2)
、付託する、継承する、優越する、
る(2)
、崇拝する、尊称する、尊ぶ、仰ぎ見る、
位置を占める、向かう(2)
、住む(3)
、移住
現す、開発する、発達する、実を挙げる、進
する、転居する、安楽する、直面する、拭う、
化する、進める、勃興する、達する、用いる、
怒る、招く、脱する、脱却する、擯斥する、
利用する、保存する、保全する、熱狂する、
捨てる、長歩を踏む、成す(3)
、陥る(3)
、
貫く、唱える、声をあげる、掲げる、共同する、
落ちる、残る(2)
、疲労沈静する、守旧不変
協力賛成する、参加する、争う、競争する、
である、傷つく、枯れる、腐敗する、滅亡する、
反対する、攻撃する、追放する、逐出する、
滅びる(2)
、失う(2)
、失責する、免れる、
掣肘圧倒する、排除掃蕩する、全うする、備
支離する、縮小する、餌食になる、至る
える、頼る、やめる、出る、蹂躙する、相続
する、追悼する、安堵する、扶持誘掖する、
②ニ格を伴う
研究する、信頼する、流弊する、流離する、
なる(6)
、求める、至る
馴成する、抜け出す、服従する、浴びる、団
結する
③ヲ格を伴う
残滅する、救う、覚醒する、結合する、有する、
征服する、創造する
②ニ格を伴う
なる(18)
、教授する(4)
、ある(3)
、演説す
る、奨励する(2)
、注入する、表示する、紹
介する、与える、付与する、見せる、公布する、
普及する、施行する、
(泣いて)訴える(2)
、
Asia Japan Journal 10 (2015)
43
河先俊子
忠告する、報いる
③ヲ格を伴う
指導する(3)
、養成する(11)
、養護する、教
育する、受け入れる、支配する、統治する、
有する(2)
、警醒する(2)
、覚ます、救う、
動かす、組み合わせる、成す、保護する(2)
、
有する(3)
、模範とする
国民も民族も「(国を)作る、建設する」「(国家を)組成する、組織する」といった動詞文を作
ることから、国家建設の主体と見なされていたことが確認できる。しかし、
「総攬する」「行使する」
「制定する」といった動詞は国民とのみ共起することから、民族は国家権力の担い手としては見な
されていなかった可能性がある。また、「国民になる」、「国民を養成する」といった表現が頻繁に
出現することから、国民はこれから新しく作られるものとして強く認識されていたと推測できる。
5-3 民族と国民の差異
出現頻度の分析、コロケーション分析の結果から、見えてきた民族と国民の意味特性を整理す
ると下記のとおりである。
まず、国民は国家を前提とし、国家の構成員であると同時に国家の運命を左右する。国家の独
立を担うのは、国民である。また、国民は、国家権力及び近代的な制度の対象ないしは担い手で
あり、教育を受け義務を負う主体として認識されている。国民は近代国家の制度を通して新しく
創出される肯定的なイメージを持った個人、ないしは集団である。
これに対して、民族は必ずしも国家を前提とするのではなく、国家内にも国家を超えても存在し、
特定の地域に居住していることや生活様式などの共通性に基づく集団であり、共通の歴史やルー
ツ、宗教といったエスニックな要素を帯びていると言える。また、民族は国家権力や近代的な制
度の担い手からは距離があるが、国民と同様に国家建設の主体となりうる集団である。
時系列的に見ていくと、1907年以降、民族の使用頻度が増加し、特に大韓帝国について述べる
文脈や国家と民族との関係について述べる文脈において使用されるようになっていた。そして、
「民
族が怒れば国が興る(22号)」「不振の民族を覚醒し、百敗不挫の勇気を頭脳に注入し、世界列国
を征服して第一の強国になる( 7 号)」「この手段(政治的活動)を民族に求める(14号)」のよう
に、民族を国家の運命を決定づける政治的な主体として捉え、民族に人々の意識を結集させて、
日本による政治的な支配を打開しようとするような内容も見られた。1906年から1908年という時
期は、韓国統監府が置かれ、日本による支配が深まる時期であるが、そうした状況の変化に応じて、
民族の意味特性もより政治性を帯びたものに変化していった可能性があるのではないだろうか。
6 考察と今後の課題
本稿では、コロケーション分析とテキストの内容分析によって、開化期の韓国における民族と
44
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
国民の意味特性を明らかにした。得られた結果は、概念史研究などの成果を追認するものであった。
しかし、それに付け加えられることがあるとしたら、1906年から1908年までの韓国において、「国
民」は国家権力及び近代的な制度の対象であると同時に担い手であり、国家に対して義務を負い、
近代的な制度を通して新しく作られる肯定的なニュアンスを帯びた存在であったということであ
る。教育などの近代的な制度の対象となり、新たに創出されるという点で、民族とは区別されて
いたと考えられる。また、当時は、独立の主体は民族ではなく国民であると捉えられていた。一方、
「民族」は、日本の支配が進むのに伴って注目されるようになり、国民に変わって国権を取り戻し、
国家を建設する主体として捉えられるようになったことが示唆された。「民族」の意味特性が、社
会の変動に伴って変わった可能性がある。このように類義語が持つニュアンスの違いや意味特性
の変容を明らかにする点で、コロケーション分析をはじめとする言語学的な分析は貢献できるの
ではないだろうか。
次に、このような韓国における国民、民族の意味用法を、先行研究に基づいて日本における国民、
民族の意味用法と比較しながら、考察を深めたい。
安田浩(1992)によると、明治の前半期においては「民族」という言葉はほとんど使用されて
おらず、ネイションの翻訳語としては「国民」が常用されるようになったという。その際、福沢
諭吉が『学問のすゝめ』で「日本には唯政府ありて未だ国民あらず」と述べたように、知識人た
ちは「国民」は存在するものではなく、これから形成すべきものとして捉えていた。また、国民は、
国家にとって有用とされた規範を積極的に担うべき存在と考えられていたという。このような国
民の意味は、『太極学報』における国民の意味と一致する。
一方、穂積八束は『国民教育と愛国心』(1897年)において皇室を国民の宗家とし、井上哲次郎
は同じ系統を引き継ぐ同一の習慣、歴史などを持っているものを国民と定義していた*13。19世紀
末の日本では、エスニシティの要素を帯びた国民概念もあったということである。しかし、この
ような国民の意味特性は『太極学報』では見られなかった。『太極学報』において国民は、エスニ
シティとは距離を置いた概念であったと考えられる。
安田浩(1992)によると、「民族」という言葉が使われ始めるのは1890年代前後からであり、そ
の使用が広がる契機となったのは雑誌『日本人』、新聞『日本』である。これらの媒体は、欧化主
義を批判し、国民的統一の基準を伝統、歴史、文化に求め、伝統を継続して歴史を担ってきた主
体として「民族」を打ち出していた。また、穂積八束は、1892年の『家制及国体』において、皇
室を先祖とする血族的集団としての「民族」観念を提示し、1910年の『憲法提要』においては、
民族を国家の基盤としている。穂積八束のような先祖を同じくする血族的集団としての民族は、
『太
極学報』にも「檀君の血統を継承した(14号)」という表現で現れていた。また、「 4 千餘年の麗
しい歴史を持つ我大韓民族(25号)」という表現もあることから、日本と同様に民族は国民よりも
エスニシティに結びついた概念であったと言える。また、特に1907年以降、民族は、政治的な活
動の主体となり国家の運命を左右するものとして捉えられるようになっていった。しかし、『太極
学報』において、国家権力や国家の制度の担い手ないし対象は国民であり、エスニックな同一性
を持つ民族を根拠として、既存の政権を正当化するようなロジックは見られなかった。この点に
おいて、韓国の「民族」は、皇室と血統を同じくする民族の存在を根拠として、天皇主君を正当
化する穂積の民族観念とは一線を画していたと考えられる。
Asia Japan Journal 10 (2015)
45
河先俊子
1900年代前半、日本は独立国家として内外に認められていたのに対し、韓国は日本によって独
立国家としての地位を奪われかけていた。その中で、日本留学生がめざしていたのは、国際社会
でも認められるような近代国家の建設であり、伝統的な王室への回帰ではなかった。近代国家を
確立するためには、国民は必要不可欠であり、だからこそ、『太極学報』において政治的な自己意
識を持った国民の創出が声高に叫ばれていたのではないだろうか。
しかし、1905年、大韓帝国は外交権を失い、1906年 2 月に朝鮮統監府が置かれると、行政、教
育をはじめとする諸制度も統監府の影響下に置かれるようになった。これは、主体的に国民を創
出することが難しくなったことを意味する。そして、国民を主体とした国家建設、独立回復をめ
ざすことが難しくなるに従って、国家の運命を決定づける主体として民族の重要性が高まったと
考えられる。ここでの民族は日本と同様に同一の歴史、言語、血統を持つエスニックな集団では
あるものの、君権の回復をめざすのではなく、近代国家を建設し、その諸制度を担う主体であっ
たと考えられる。
このように、日本による韓国支配が強まるにつれて、国民が存在しがたくなり、「今日我韓は国
政が去り、残っているのは民族だ(14号)」というように、国権回復の主体として民族が注目され
るようになってきたと考えられる。これに鑑みれば、その後、民族が国民に変わって独立の主体
となり1919年の独立宣言書に至ったのは自然の流れのように思われる。また、民族はもともとエ
スニシティを基盤としていたが故に、植民地解放後の国家建設及び国民創設において、エスニッ
クな共通性が重視されたのではないかと考えられる。
このような韓国における国民と民族の重なりは、日本による政治的支配を受ける過程で形成さ
れてきたのではないだろうか。独立宣言発表に至るまでの日本留学生による民族及び国民の意味
用法の変遷を明らかにすること、そして、現代にいたるまでの意味特性の変化を明らかにするこ
とは今後の課題としたい。
また、先行研究を用いた日本語の民族、国民との粗雑な比較の結果、日本語と韓国語とでは意
味用法に異なりがあることが示唆された。このような日本語と韓国語との民族、国民が内包する
意味の違いについての確認作業も今後の課題である。
* 1 開化期とは日朝修好条規が調印された 1876 年から 1910 年 8 月の日韓併合までをいう。
* 2 B・I・シュウォルツ著・平野健一郎訳『中国の近代化と知識人―厳復と西洋―』(東京大学出版会)では、厳復
が西洋起源の概念を中国に導入する際に、自らが持つ中国の伝統思想をもとに解釈したことが明らかになって
いる。
* 3 박찬승『한국개년사충서 5 민족・민족주의』小花、2011 年。
* 4 塩川伸明『民族とネイション-ナショナリズムという難問』岩波新書、2014 年、7 ページ。
* 5 塩川、前掲。
* 6 坂井俊樹『現代韓国における歴史教育の成立と葛藤』御茶の水書房、2003 年。
* 7 河先俊子『韓国における日本語教育必要論の史的展開』ひつじ書房、2013 年。
* 8 박명규『한국개년사충서 4 민족・인민・시민』小花、2009 年。
* 9 박명규、前掲。
46
Meanings of “Minjok” and “Kukmin” in the Publications by International Korean Students: Pilot Study Using Collocation Analysis
* 10 박명규、前掲。
* 11 박명규、前掲。
* 12 金範洙『近代渡日朝鮮留学生史-留学生政策と留学生運動を中心に-』東京学芸大学大学院 連合学校教育学
研究科 博士論文、2006 年。
* 13 박명규、前掲。
<謝辞>
『太極学報』の日本語訳についてご助言くださった東京外国語大学の伊藤英人先生に感謝申し上げる。
参考文献
李漢燮「『西遊見聞』の漢字語について-日本から入った語を中心に-」『国語学』141(1985 年)、39 - 50 ページ
李漢燮「近代における日韓両語の接触と受容について」『国語学』54(3)(2003 年)、71 - 83 ページ
河先俊子『韓国における日本語教育必要論の史的展開』ひつじ書房、2013 年
金範洙『近代渡日朝鮮留学生史-留学生政策と留学生運動を中心に-』東京学芸大学大学院 連合学校教育学研究科
博士論文、2006 年
金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間』九州大学出版会、2004 年
坂井俊樹『現代韓国における歴史教育の成立と葛藤』御茶の水書房、2003 年
白南徳「明治新漢語の初出文献について-韓国側の資料を契機として-」
『広島大学大学院教育学研究科紀要 第 2 部』
55(2006 年)、259 - 266 ページ
B・I・シュウォルツ著・平野健一郎訳『中国の近代化と知識人―厳復と西洋―』東京大学出版会、1978 年
堀正広編『これからのコロケーション研究』ひつじ書房、2012 年
前川喜久雄「30 年の時間幅において観察される語義およびコロケーションの変化-『現代日本語書き言葉均衡コーパス』
の予備的分析-」堀正広他編『コロケーションの通時的研究』ひつじ書房、2009 年
安田浩「近代日本における『民族』観念の形成-国民・臣民・民族-」『思想と現代』31(1992 年)、61 - 72 ページ
박명규『한국개년사충서 4 민족・인민・시민』小花、2009 年
박찬승(朴賛勝)『한국개년사충서 5 민족・민족주의』小花、2011 年
Asia Japan Journal 10 (2015)
47
雲南とコーヒー
― 国内の生産拠点を中心とした現状調査報告 ―
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
中山 雅之
Masayuki Nakayama
Abstract:
This research project is intended to reveal in part the state of current production and sales of
coffee in the province of Yunnan, China. The basis of this research is the fact that the consumption
of coffee in China, the country well known for its tea culture, is increasing along with the
production which has also shown rapid growth in recent years. What remains uncertain, however,
is whether coffee is in fact being consumed in the region of the plantations. Furthermore, the
project attempts to reveal lifestyle factors associated with coffee cultivation.
The procedure is as follows: obtain the relevant information through the references as well as
interviews with the stakeholders, and then perform the field studies during which conducted the
surveys on coffee cultivation at family-owned small coffee farms and large-scale corporate farms,
and on coffee sales at urban areas and tourist spots.
The survey results explain that the life of farmers is largely influenced by price fluctuations
and clarify the necessity of price stabilization at the same time. As for the consumption, the
current status is analyzed by using "Diffusion of Innovations", a theory developed by Everett
Rogers as a pillar of research.
Before production and sales market expand and make further growth, it is highly meaningful
to reveal the current situations in order to prepare for the future challenges.
Keywords: coffee, Yunnan, diffusion, production, price
キーワード:コーヒー、雲南、普及、生産、価格
Asia Japan Journal 10 (2015)
49
中山雅之
はじめに
ここ数年コーヒーの消費の波が中国にも押し寄せつつある。中国の茶の文化は比較的よく知られ
たものであろうが、はたしてこの様な地域にもどれほどコーヒーが浸透するのかという疑問が、本
研究に着手するきっかけである。需要が増せば生産もそれに呼応するのは競争市場におけるメカニ
ズムであるが、中国でも国内生産量は増加をしている。このコーヒーの生産については世界に目を
向け、南北問題等といった文脈でコーヒーが語られる場合、バナナ、カカオ、エビ等と並びいわゆ
る「フェアトレード」等の生産者支援と親和性が高い一次産品としても取り上げられる。コーヒー
生産の苦い歴史は良く知られた通りであるが、ここ数十年でも世界の産地で発生した主に1990年頃
からの生産者価格の低価格化いわゆる「コーヒー危機」の際、各国のコーヒー生産農家の惨状に関
する報告は多くなされている。一般的にこの主な原因は「国際コーヒー協定」
(ICA : International
Coffee Agreement)の崩壊とコーヒー生産国としてのベトナムの台頭とされている。この時期の
ベトナムでの増産は世界の需給バランスに影響を与え、世界のコーヒー価格は低迷したままとなっ
てゆく。まだまだ中国の生産量は世界シェアからすれば、大勢に影響を与える程ではないが、協定
の崩壊した頃のベトナムの生産量と現在の中国の生産量が近似していること、現在のベトナムが世
界第 2 位のコーヒー生産国になっていること、またここ数年の中国の国内生産の成長率から考えれ
ば、今後の国内生産市場の成長は大きくは第 2 のベトナムといった危機*1も孕むなどということも
この分野の重要な課題として考えておく必要がある。
またこのコーヒーに関する研究は、さまざまな学問分野において研究対象とされている。人文・
社会科学の分野では、例えばその起源について宗教の場において使用されてきた等の歴史学や、場
としてのコーヒーショップの研究等の社会学、また貿易額の多い一次産品として経済学やさらに生
産者支援等の農業経済学、その販売に関してマーケティング等の視点から経営学、さらに自然科学
の分野においては、より良い品種の改良や栽培技術に関して農学、更に近年ではその依存性に関し
て神経科学等で研究が行われており、研究分野は多岐にわたる。これらの中で中国のコーヒーに関
する研究は、中国国内で行われている研究が中心ではあるが、コーヒーの栽培技術等の農学分野の
研究や国内の個別の企業に関する事例研究、また国際市場価格の変化や政府の政策に対するマクロ
的な研究は比較的積み重ねられている。しかしながら、その国内生産のほとんどを担っている雲南
のコーヒー農家の実態を調査したものは、中国国内においてもほとんど見ることができない。この
地域のコーヒー農家はどの様な収入を得、またその生活の状況はどのようなものかといったより生
*2
産現場に近い研究は、これまで村田(2006)
の調査報告があるが、これ以降の類似する研究報告
が見当たらない。そこで本研究は、今後更なる成長も考えられる中国のコーヒー市場における課題
とその対策を明らかにすることを主な目的とするが、今後のこの市場の発展を推察するためには、
これらの複数の学問分野を有機的に連携しかつ体系的に考える必要があり、それには多大な時間を
要する。そのためまず本稿では、主に国内生産のほとんどを請け負っている雲南省での生産並びに
販売の現状の一端を明らかにすることを主な目的とし、本研究プロジェクトにおける初期段階の極
めて限定的な実態調査報告ではあるが、中国のコーヒー市場の発展速度を鑑み、ここで報告をする
こととしたい。
具体的にはまず、現在の生産量の増加に関して、その実際の生産現場はどの様な状況で、生産者
支援等の対策が必要なのかということが本調査の最初の問いである。この問題については、ここ数
50
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
年「フェアトレード」に関する活動も増加しこれに関する研究も連動しているが、いわゆる「フェ
アトレードラベル」を中心とした認証型による支援について、「サプライチェーンにおける不均衡
に積極的に取り組んで来たが、その主な成果は、本当に絶大な影響を及ぼすよりは、意識を高める
ことに終始している」という報告(ウッドマン, 2013)*3もなされており、いわゆる従来の認証型の
みではなく、現在また将来の生産現場で求められる仕組はどのようなものであるかという視点で、
調査を進める。
また生産の大きな牽引役になるであろう消費市場はマクロデータでは成長しているが、この現象
の主な原因は何かということが第 2 の問いである。これらの問いに対して、上述の通り文献による
調査では限界があるため、基礎的データの分析の後、関係者への事前インタビューそして 3 週間の
現地調査*4を行った。調査地域としてまず生産面で、雲南省のコーヒーの 3 大生産地域とされる徳
宏州*5、保山市、普洱市の内、主に大手企業 1 社による一括管理が行われている徳宏州以外の 2 都
市とした。また販売面は比較的情報や人が集まりやすいと考えられる都市部として省都昆明市、ま
た中国国内でも有数の観光都市である雲南省麗江市、更にその原料が多く存在する生産地域を主な
対象地域とし、消費の様子を確認することとした。これらの調査結果について、まずコーヒーに関
して中国の置かれた位置を時間の経過も含めて確認するために、幾分歴史的な経緯も踏まえ世界の
数値と比較をする。その後、視点を徐々に現場へと移行させ企業農園の形成過程や実際の様子また
家族経営農家の様子を確認する。そして、消費に関しては輸出入等のマクロデータの確認から始め、
実際の消費の場であるコーヒーショップでの様子等をイノベーションの普及理論や脳の報酬系の視
点から考察をし、現状の分析とその成長を推測する。最後に、今後の課題の意味も含め生産農家の
収入の不安定さについて述べることとする。
1-1.コーヒーの生産
エチオピアから始まる世界における商業品としてのコーヒーの生産は、17世紀のイエメンのモカ、
18世紀に現在のインドネシアを中心とする地域でオランダ東インド会社によるものを経て、ブラジ
ルの時代へと変遷し現在に至るが、現在のデータについては、これを取りまとめている機関で本分
野において数値的論拠として比較的多く使用されているものに、国際コーヒー機関(ICO :
International Coffee Organization)のものとアメリカ合衆国農務省(USDA : United States
Department of Agriculture)のものがある。本稿ではこの内、米国も含めたコーヒーに関係する
主要な国々が参画しているICOのデータ*6を使用する。ICOは1963年に設立され、加盟国の生産量
は全世界のおよそ94%、また加盟国での消費量は、全世界の消費量の約75%を占めている。この
ICOの調査によると、2013年度の全世界のコーヒー生豆生産量はおよそ871万トンである。年間の
生産量も自然災害等による減少は別として、おおよそに右肩上がりに暫増しており、2012年・2013
年とほぼ同量で過去最高の生産量であり、50年前のそれのおよそ 3 倍である。
生産量の上位国としてはブラジルが全体の約 3 分の 1 でおよそ300万トン、次いでベトナムが主
にカネフォラ種を中心に約160万トン生産しており、この 2 ヶ国で世界全体の半数以上を生産して
いる。ブラジルは、一時は世界全体の生産シェアの半分以上を有していた時期もあり、生産国とし
ては歴史的経緯も踏まえよく知られている。一方ベトナムについては、北緯・南緯25度以下の「コ
ーヒーベルト」*7に入っており、以前より生産はなされていたが、生産量が増え始めたのは1986年
Asia Japan Journal 10 (2015)
51
中山雅之
のドイモイ政策採用後のことである。この頃、農業形態はそれまでの集団経営から家族経営が中心
になり、また個人に対して土地の使用権が認められる様になり、土地制度を私有制に近づけたこと
に加え、1990年代の二国間支援や世銀・IMFの後押しによる政府の生産奨励*8もあり、これらの要
因が生産量を増加させたと解釈されている。ただしこれにより世界のコーヒー生産量が増加し、コ
ーヒー価格が大きく下落したままコーヒー危機が継続されてゆくこととなる。そのためこれらの支
援に対して一部では、大きな批判を浴びることにもなった。
次いで生産されているコーヒーの種類であるが、コーヒー豆はコーヒーノキの種子の部分で、そ
の三大原種とされているのが、アラビカ種、カネフォラ種、リベリカ種である。この内リベリカ種
の生産量は少なく、現在の世界での生産量はアラビカ種が60%程、カネフォラ種がその残りの部分
とされている。このうちカネフォラ種は、コーヒーノキが罹患する疾病等に強いため、強靱を意味
するrobustから俗称が付けられ一般的にロブスタと呼ばれている。このロブスタ種は、通常インス
タントコーヒー用あるいは比較的低価格なレギュラーコーヒーに使用されることが多い。一方一般
的にレギュラーコーヒーとして流通しているのはアラビカ種を中心にブレンドされたものである。
なお、アラビカ種の中にもいくつかの品種があり、原種に近いものとしてはティピカ、ブルボン等
でその中でもティピカに起源をもち比較的名前が一般に浸透しているものが、主にジャマイカで生
産されるブルーマウンテン、インドネシアのスマトラ、ハワイのコナ等である。ただし、これらは
飲料としてのコーヒーになった際、風味は良いが他と比べ生産量が多くなく、また病虫害にもさほ
ど強くないため、改良品種としてブルボンを起源とするカトゥーラ等が登場する。このようにコー
ヒーノキの品種は多岐にわたるが、生産・販売マーケット現場での会話は、まずは主にレギュラー
コーヒー用のアラビカ種か、インスタントコーヒー用のカネフォラ種か、そうしてアラビカ種の中
で比較的高価格で取引をされるティピカかそれ以外かの区別を確認することが一般的なものであ
る。
1- 2.中国での生産
中国でのコーヒー生産地であるが、現在その拠点となっているのが雲南省である。雲南省は北緯
21度から29度に位置し、南方は「コーヒーベルト」に属してはいるが、生産量がここまでに到達す
るのにはおよそ100年の歴史を要している。中国でのコーヒーの生産は、1902年*9までさかのぼる。
ベトナムも同様の起源で説明されることが多いが、宣教師が自ら飲用するために持ち込んだとされ
ている。彼は中国名を田徳能(Tián Dénéng)といい、フランスに起源をもつ人物である。彼が主
にコーヒーを栽培した地域が、現在の雲南省の大理白族自治州賓川県にある朱苦拉村(Zhūkǔlā)
である。この朱苦拉という名称は、元々はこの地にも住む彝族(Yízú)の言葉で、曲がりの多い山
道という意味で現在の発音と少し異なっていたが、この宣教師がやって来て後に朱苦拉と呼ぶ様に
なったとされている。この発音がフランス語のchocolatに似ているということからも多く使用され
ている説である。彼はここでコーヒーの栽培に成功し、村民にもそのコーヒーの飲用方法を広めた
とされている。ちなみに1912年に彼がなくなった場所が、今回の現地調査中に大きな地震があった
雲南省昭通市である。
この一人の宣教師の次に登場する人物が梁金山*10(Liáng Jīnshān)である。彼は雲南省の保山
市の農家で生まれ、当時イギリス統治下のビルマに渡り、保山市へコーヒーの苗を持ち込むことを
52
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
企図したが、成功に至らなかったとされている。その後保山市での生産は、1951年に設立される雲
南省農業科学院熱帯亜熱帯経済作物研究所が主に引き継ぐこととなる。この研究所は、保山市隆阳
区潞江 (Lùjiāngbà)に所在し、一般的に「熱経所」と省略されるが、1952年からコーヒーの試
験栽培を始め、この地はその後も現在に至るまで雲南省におけるコーヒー研究・生産の中心地とし
て発展することとなる。150畝*11の試験栽培から始まった農園も1956年には国立農場が建設され、
多くの生産者の移入があった。1960年代には、雲南省全体で 5 万畝を超える規模にまで発展してゆ
く。しかしながら周知の通り、コーヒー農園も歴史の混乱に巻き込まれてゆき、1970年代には大き
な被害を受けほとんど生産がなされなくなった。この生産農地が60年代の最盛期までに回復するの
は、ようやくに1990年代後半になってのことである。1998年に雲南省政府は、『コーヒー産業の発
展の加速に関する意見書』*12をまとめ発表し、コーヒー栽培の産業化に向けて規模の拡大が図られ
てゆく。
2012年の国内生産量はおよそ4.5万トン*13で、そのほとんどを雲南省が請け負っており、国内生
産割合ではほぼ100%に近づいている。これまでのその他の生産地域としては、福建省、広東省、
海南島等である。この国内の生産量の推移は、雲南省で産業化がなされた1998年が0.6万トンで、
2012年までの平均年間成長率は15.1%である。2012年の雲南省全体での茶の生産量が27万トン*14で
あることと比較をしても、コーヒーの存在感が徐々に増しつつあることがわかる。なお雲南省政府
は2010年末に、2020年までに生産量を20万トンに増やすため、作付面積を当時2.6万ヘクタールか
ら10万ヘクタールに拡大させる計画であると発表している。
この雲南省の中でも最大の生産面積と生産量をもつ地域が普洱市であり、その中心は思芽区であ
る。普洱といえば、茶の産地としてのイメージが確立している地域であり、ここでコーヒーの生産
を行っているとは、一般的に連想しづらいものである。しかしこの普洱市では省全体の約半分が生
産されており、残りが徳宏州と保山市を中心とした地域で生産である。普洱コーヒーの品質につい
ては、2006年にアメリカスペシャルティコーヒー協会が発表した評価が使用されるケース*15が散見
される。同協会は、いわゆる香味の基準を明確にし、その品質の評価を行うことにより適正価格を
維持することを大きな目的の一つとして1982年に設立された組織である。評価はまず生豆の状態と
焙煎後の状態が基準を満たしているかどうかが確認され、その後に香味の評価が行われる。香味の
評価項目は10項目で順に、粉砕後の粉の香りと抽出後の液体の香り、抽出液を口に含んだ香り、後
味、酸味、コク、バランス、均質さ、香味の欠点の有無、甘味、総合で各10点、それぞれ0.25点刻
みで得点が決められ、80点以上のものをスペシャルティコーヒーとしている。この基準で、 3 年間
の普洱コーヒーを評価したものが、88.75点であったというものである。更に同時期のコロンビア
コーヒーの85.75点を並記してその良質性をより際立たせている。
最後に徳宏州であるが、ここで生産されるコーヒーのほとんどは、一般的に后谷珈琲と呼ばれる
企業か同社が契約している農家が栽培している。同社は1994年に設立された徳宏州宏天農業有限公
司に起源をもつ企業で、后谷珈琲のブランドで生産販売を行っている。后谷珈琲は、しばらく雀巣
(Nestlé)の商品を生産していたが、2008年に袂を分かち独自ブランドを展開する様になった。そ
の後国内のコーヒー企業としては最大のものとなったが、経営については現在大きな岐路に立たさ
れている。
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53
中山雅之
1-3.農園の形成過程と農園の様子
農園の実際の様子を確認するためにまず、この地域の農園の形成過程について確認をした後に、
具体的に比較的大規模な企業農園 3 社と一つの家族経営のコーヒー農家の様子を述べる。まずこの
辺りのコーヒー農園の形成過程であるが、1988年頃が一つの転機となった時期である。その象徴と
して、雲南省政府が『コーヒー産業の発展の加速に関する意見書』を発表し、またこの年から雲南
省年鑑にコーヒーの生産量が記載される様になる。これらの農園の成り立ちであるが、元々の農村
供銷合作社を起源の一つとしているものが多く存在している(村田, 2006)*16。合作社は日本でいう
ところのいわゆる協同組合に近い体質のものであり、1950年代初め農業生産合作社や消費合作社、
農村供銷合作社など数多くの合作社が設立されてゆく。この内、農業生産合作社は1958年の農業集
団化のための組織である人民公社へとつながってゆく。これらの合作社は、1978年の改革解放以降
80年代に入り官から民への流れの中で、組織改善が迫られる様になる。この様な転換を迫られてい
*17
る状況下で、村田(2006)
によれば1988年にネスレが雲南省当時の思芽地域の農村供銷合作社に
コーヒー豆の集買を委託したことにより、新しい企業コーヒー農園という形式が生まれたという。
この形式は、企業と農場と農家を一つにした経営方式で当時新しいものであった。更に2003年 5 月
にはこれらの比較的大きな農園が、思芽市珈琲産業連合会を設立をしている。
今回の調査では幾つかの農園を訪問したが、企業農園の規模やその収益等について、概要を把握
するためにまずその中のひとつである普洱市に位置する雲南思芽北帰珈琲有限公司を取り上げて説
*18
明をする。同社は村田(2006)
によっても調査対象として取り上げられた企業農園でもあり、こ
の地域で比較的早い段階に設立され、連合会設立当初からのメンバーでもあり、規模も当時同組織
において2番目に大きく、この地域の典型的な企業農園として考えられる。質問には、農園全体の
マネージャーが答えた。同社は1988年 3 月に10,050畝の農園として開設されたが、訪問した農園は
2004年の国家農業開発プロジェクトによって開設されたもので、2004年 2 月から建設が始まり2005
年 5 月に完成した、2,000畝の思芽区南屏鎮南島河珈琲場*19である。同プロジェクトへの総投資額
は712万元で、内訳は政府系が中央政府120万元、省政府54万元、区級政府 6 万元の計180万元で、
政府の管理機関は普洱市思芽区農業綜合開発室である。これに加え企業の自己資金120万元、銀行
借入412万元である。この使途は、農場2,000畝の開発が203万元、年間300トンの焙煎コーヒーの生
産する設備509万元である。土壌の改善により400トンの生豆の生産が可能となり、総売上高は756
万元、粗利益413万元、純利益259万元を見込まれるとしている。ここから生豆 1 kgあたりの販売価
格は18.9元となるが、この数値はICOが算出している2004年の複合指標価格に近い数値である。こ
れにあわせ人員は200人を手配したとのことである。さらに同社は、園夢珈琲というオリジナルの
製品ブランドも保有している。またこの農園で働く農家の収入であるが、農園は複数の農家に管理
を委託し管理料として 1 畝につき年間25元を、これに加え収穫作業による支払いをしている。その
金額はその年により異なるが、 1 日あたり80から100元程とのことであった。収獲期は主に11月か
ら翌年の 2 月。2,000畝を200人で管理し、その担当する広さが一人平均10畝であるとするならば、
これらの数値から 3 人家族を想定すると、家族の年間の収入はおよそ30,000元となる。しかしなが
ら、これも確約されたものではなく、必要な労働力の総量はその年により異なることから農家とし
ては不安定なものである。一方で農園全体の経営については、マネージャーの話によれば、継続し
た運営により比較的安定しているとのことであった。
54
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
次いで今回の調査中で、最も高価格で生豆を販売している企業農園であるが、普洱市におよそ 1
万畝の農園を保有し年間2,000トンの生豆を生産している百分之一珈琲である。同社は2007年に開
園し、実店舗も保有し、2011年に普洱に 1 号店を2012年に昆明市に 2 号店を開業している。また同
社は、雲南で最も早くジャマイカのブルーマウンテンを販売することができる販売代理権を有した
企業でもある。オーナー経営者である創業者の話では現在、ティピカ種を 1 kgあたり40元で販売を
している。販売先は多岐にわたり、台湾や日本のコーヒー焙煎企業や商社等である。また店舗でも
自農園で採取されたコーヒーを提供しており、メニューを見ると雲南産の珈琲が 1 杯20元から100
元で 9 種類が用意されており、20元が標準の価格である。これに対してブラジルやコロンビアとい
った舶来物は30元から300元でこちらも 9 種類あり、30元が最多価格となっている。メニューから
も分かるとおり雲南珈琲の地位は一段低い様である。店舗を訪問したのは、15時頃であったが、客
は 2 名程といった様子。このことについてオーナーに訪ねると、中国内でコーヒーの飲用が広く根
付くには、まだ大分の時間がかかると考えているとのことであった。
3 社目は思芽地区の外の農園で、保山市に5,000畝の土地が有りこのうち3,000畝でコーヒーが栽
培されている。開園は 7 年程前である。オーナーとのインタビューによると、栽培をしているのは
主にカティモール種で生産管理体制は、経営者 1 名と監督者 2 名を雇い、実際の管理業務は約40戸
の農家に分担依頼。管理費は 1 畝につき年間20元で、肥料や除草剤等は企業が負担をする。収穫時
には収穫作業料が支払われる。管理者の主な業務は適切に農場管理が行われているかを監督するこ
とである。40戸の農家はおおよその管理場所を決められており、日々の手入れはその地域を担当し
て行うが、収穫時期に実になっているものは区域に関係なく収穫を行って良いことになっている。
こうなると特段日常の管理を行わず収穫時だけ他の農家が管理をしている土地の収穫を行うことも
可能であるが、日常の業務は監督者がその名の通り見回りをして監督しているとのことである。分
益小作制とまでゆかず、農家の自主性を欠き少し非効率な印象を受けるが、これが現段の最適な管
理方法であるとのことであった。この様にこれらの企業農家で働く農民はいわゆる小作制までゆか
ず単純労働者としての雇用になっているのである。なお、収穫時の作業料は他の地域も含め日払方
式と収量方式のものがあり、日払方式は 1 日60から100元程、収量方式は 1 kgあたり 1 元がおおよ
その相場である。
1- 4.コーヒー農家の様子
続いて、家族経営のコーヒー農家の生産状況と生活の様子である。本来であれば複数の調査を行
うべきところであるが、なかなか住み込みのその場を探すことが難しく、今回は家族経営のコーヒ
ー農家が集住している地域の一軒の農家に滞在し、その周辺のコーヒー農家の様子も含め実生活の
一端の調査をおこなった。場所は普洱市思芽区龍潭郷で、訪問時は収穫期前で繁忙期ではなかった
ため農作業や寝食を共にさせてもらい、農園の状況や生活についての話を伺った。
この農家は15年程前に普洱市に引越し、コーヒーを生産している企業で働いていたが、10年程前
に自前で農園を始め、現在の農園の広さは50畝である。家族は夫妻と夫の兄の 3 人である。子ども
は 4 人姉妹で年上の 3 人は既に結婚をし、長女はすぐ隣りに住み他の 3 人は家を出ている。末の娘
は現在専門学校に通い寮生活であるがこの時期は夏休みということもあり戻って来ていた。農園は
自宅から徒歩で20分程の所にある。この農家のおおよその一日であるが、 6 時30分起床、 7 時から
Asia Japan Journal 10 (2015)
55
中山雅之
朝食をとり 7 時30分から 8 時頃出社。12時から12時30分頃昼食をとりに自宅に戻る。休憩をし午後
2 時30分から 3 時頃再度農園に向かい、 7 時30分頃帰宅する。収穫期の11月から 2 月の頃は、日が
沈むと帰宅をするといった作業時間である。
また協働する隣に住む家族は、 7 年程前にこの地に越して来て夫妻と 5 人兄弟の末の息子とその
甥の 4 人での生活しており、農園の広さは10畝である。この10畝の農家を例に農家の収入について
まとめると、おおよそ次の通りとなる。まず 1 畝にしっかりとコーヒーノキが植えられたとすると、
左右の間隔が 1 m、前後の間隔が 2 mで330本を植えることが出来る*20。この330本から多寡はある
が、およそ1,200kgの赤色の実いわゆるコーヒーチェリーが収穫される。そしてこの実をはがし乾
燥させると生豆の重量は実の約 6 分の 1 の重さとなる。その結果 1 畝から約200kgの生豆を収穫す
ることが出来る。訪問した年の前シーズンの 1 kgあたりのおおよその価格20元で販売すると 1 畝か
ら4,000元の収入を得ることが出来る。一方、肥料等の経費が 1 畝に対して1,000元程必要であり、
10畝で栽培しているこの農家は年間およそ30,000元が手元に残ることとなる。しかしこの数値は販
売価格によって、大きく左右されることとなる。この規模の農家は、生活に余裕があるとまではゆ
かず、出稼ぎに出ている他の家族から収入を足して生計を立てている。ちなみに国家統計局によれ
ば、同時期の全国の平均給与は46,769元*21である。
今回の滞在先は、我々の様な者を受け入れるのは初めてで最初は硬い面もちであったが、農作業
を共にさせていただき自家製の白酒も杯を重ねると、農家を離れる最後の夜は、飼っている鶏まで
食卓に出してくれた。食事の準備も材料の確保から一緒に行うといった中で、これまでの生計の成
立ちを話してくれた。50畝の農園を運営するこの農家の主人は、コーヒー農園を始めてから生活は
楽になり、収入も比較的安定してきたとのこと。一方で10畝の農家は、生活はコーヒー農園を始め
る前よりは良くなったが、まだ十分ではないとのことであった。いずれもコーヒーの買取り価格の
変動が大きな心配要因となっていることに変わりはなかった。また今回の企業農家も含めた生産地
域の調査において、いわゆるフェアトレードに関する事柄については、農園・農家側から話題に出
る事はなく、特に家族経営農家ではその概念すら初めて知った様子であった。
2-1.コーヒーの消費-生産並びに輸出入と消費
2012年、世界全体ではおよそ870万トンの生豆が生産された。そして同年の国別消費量は 1 位の
アメリカ合衆国がおよそ130万トン、ブラジル120万トン、ドイツ50万トン、日本40万トン、フラン
*22
ス35万トンと続く。ICO(2013)
が発表した推計では、中国のコーヒーの消費量は2012年がおよ
そ6.4万トンである。この消費量の多寡について各国の人口で除した一人当たりの消費量*23で国際
比較をすると、茶の文化等で比較される日本はおよそ年間 3 kgであり、これに対し中国は47gであ
る。まだまだ少ない国内消費であるが、雲南省政府が『コーヒー産業の発展の加速に関する意見書』
をまとめ発表した1988年をひとつの基準として比較を行うと、同年の消費量が1.2万トンで14年で
5 倍に増加し、この間の平均年間成長率は12.8%である。一人当たりの年間消費量も当時10gであり、
これまでのその伸張は右肩上がりに堅調である。ちなみにこの間のその他の数値の平均年間成長率
は、生産量が0.6万トンから4.5万トンで15.1%、輸入が1.4万トンから8.4万トンで13.7%。輸出は0.8
万トンから6.4万トンで15.8%である。この間の全世界のコーヒー生産量の平均年間成長率が2.1%で
あることと比較するとコーヒーに関して大きな成長をしている様子がうかがえる。
56
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
この増加しつつある消費の中身であるが、まず生産並びに輸出入の状況から確認をする。2012年
の国内の生産量が4.5万トン、輸入が8.4万トン、輸出が6.4万トンで見かけ消費量は6.4万トン*24とな
る。輸入に関して、2012年の総輸入量8.4万トンの内訳は生豆が70.5%、焙煎豆が10.4%、インスタ
ントコーヒーが19.1%である。最大の貿易相手国はベトナムで、1999年から輸入量が第 1 位となり、
2002年には全輸入量の50%を超え、現在までその状況が続いている。次いで輸入占有率としては大
きく下がるがインドネシアが第 2 位の地位を、 1 年を除きおおよそここ10年程保持している。2012
年はベトナムから4.2万トン、インドネシアから1.3万トンを買い入れており、この 2 ヶ国で輸入量
全体の66.3%を占めている。この両国が輸出しているコーヒー豆の種類は、前者の99.5%並びに後
者の83.7%が主にインスタントコーヒーや一般的に低価格のレギュラーコーヒーの生産に多用され
るロブスタ種である。ちなみにベトナムは全世界のロブスタ種の輸出量のおよそ60%のシェアを占
めている。
次いで輸出であるが2012年は6.4万トンが輸出されて、その内訳は91.8%が生豆で、3.5%が焙煎豆、
4.7%がインスタントコーヒーであった。生豆は中国国内では主にロブスタ種と比較して高価格で取
引されるアラビカ種であり、輸出先はドイツ42.6%、マレーシア10.3%、アメリカ合衆国7.6%で、
その後はベルギー、フランス、スペインと続く。焙煎豆も46.4%がドイツへ向かい、インスタント
コーヒーは65.8%がフィリピンに輸出されている。これら輸出入の数値から、国内では比較的安価
に取引されているコーヒーやインスタントコーヒーが消費の中心になっていることをうかがい知る
ことができる。
国内で消費されているコーヒーの中身について、ひとつの国内の小売販売データ*25からも様子を
うかがえる。2012年のインスタントコーヒー、液体コーヒー、レギュラーコーヒーのそれぞれの販
売金額が、およそ44億元、25億元、 2 億元で合計71億元となり、インスタントコーヒーがその60%
を占めている。今回の調査においても飲用について幾つかのインタビューを行ったが、この数値と
同様に、レギュラーコーヒーを飲むということはほとんど耳にしなかった。
そこで、この国内消費の実態を知る目的で、実際の販売現場での陳列状況を確認した。調査先は
主なショッピングセンター並びにデパートで、昆明市 6 店舗、普洱市 2 店舗、保山市 4 店舗である。
インスタントコーヒーは、 3 in 1 等と表記された商品が街の食品売り場のほとんどで販売されてい
るが、インスタントコーヒー、砂糖、ミルクパウダーが一緒に 1 杯分として小分け袋に入れられて
いるものであり、この主要メーカーがネスレである。ネスレは1988年から中国に本格的に参入し、
現在ではコーヒーの代名詞ともなっており、国内の販売市場で圧倒的な地位を確保している。調査
を行った全ての店舗にネスレの商品が置かれており、棚の多くを占有していた。これ以外のインス
タントコーヒーは、店舗によりその品揃えに違いはあるが、后谷咖啡、云南咖啡廠、昆明弗里揚咖
啡有限公司、云路咖啡、昆明曼得寧咖啡加工廠、云南椰佳食品有限公司の 6 社のものが確認された。
またコーヒー豆や挽いたコーヒー粉が置かれていた店舗はこの内 3 店舗のみであった。この様に食
品売場で販売されているコーヒーは、そのほとんどがインスタントコーヒーで、またその全てに近
い商品が砂糖・ミルクパウダー入りのものであった。
ちなみにこれら以外の場所で 2 ヶ所だけ、ネスレ以外の商品がその棚のシェアのほとんどを占め
ている場所があったが、そこは後述する観光地と空港のお土産売り場である。「雲南小粒珈琲」の
ブランドが目立ちインスタントコーヒーで、雲南の特産品として販売されている。ただしこの空港
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のお土産売場も雲南から一端離れてしまえば、例えば上海のような大きな空港でもその姿は見るこ
とはできない。
2-2.コーヒーショップ
コーヒーを消費する場としては、コーヒーショップが次にあげられる。コーヒーショップはもち
ろんコーヒーを消費する場として存在してきたが、歴史的には、社交の場としての役割を比較的長
*26
く担ってきたことが知られている。臼井(1992)
は、「1554年にシリア人によって二軒の『コーヒ
ーの家』が建てられた」とし、当時のオスマン帝国の首都イスタンブールに登場した、「『コーヒー
の家』は共同浴場のように、公でもなければ私でもない独特な共同領域を形成し、そこで不特定多
数の人々と交わる可能性を提供した」と当時の様子を紹介している。小林(2000)*27もイギリスの「コ
ーヒー・ハウス」について、幾つかの具体例を出した上で、当時の様子を述べている。そして土佐
(2007)*28は、「公共圏」の概念の出自に関してコーヒー・ハウスに触れつつ、現代のコーヒーショ
ップ等について、「スターバックスやマクドナルドをどれだけ好意的に解釈しても、そこが新たな
公共性を作り出す討論の場となることなど想像もできない」として、現在では歴史的に担ってきた
役割を見出すことができないとしている。中国と「公共圏」、「自由な言論の場」等というといささ
か不穏当かもしれないが、ここではコーヒーを媒介として行われる会話等はコーヒーに含意される
今後の課題として提示することにとどめ、現在の現地のコーヒーショップの具体的な様子について、
メニューや消費されているものに注目して順に確認することにしたい。
まず都市部として省都昆明市は、ホテルを別にするとコーヒーショップを探すのに大変苦労をす
る。今回の調査では、比較的本格的にコーヒー豆にこだわった店をようやく 2 店舗見つけることが
出来た。いずれもデパート内で、店内で焙煎も行っていて、 1 店目はアルコールも出す店で席数は
60席程で、豆の販売も行っている。もう一件はコーヒースクールを店内で開講し、コーヒーを学び
味わう楽しさを知ってもらいその消費を広げようとしている店舗であった。こちらは 7 年程前にコ
ーヒーに関する機械の販売を始め、 4 年程前からコーヒーショップを開店したとのことで、こちら
の席数は70席程でゆったりと空間を贅沢に使用していた。ただし、いずれの店舗も店内は 3 分の 1
の席も埋まらず、それこそゆったりとした客の入りであった。
この他、市内で目に付くのがスターバックス*29である。スターバックスは中国国内においても、
コーヒーを販売する代表的なチェーン店として認知されており、この後も更なる拡大を計画してい
る。中国国内でのひとつの典型的なコーヒー消費地になる可能性があり、また今回の調査対象地域
では生産面においても省政府と協力関係を構築していることから、中国におけるコーヒーの今後を
うらなう店舗としてその状況を確認した。まず簡単にスターバックスの中国進出から現在までの状
況について概観すると、1999年 1 月北京に 1 号店を開店する。2005年 9 月に西南地域の拠点四川省
成都店を開店。2008年10月には雲南省政府と協力関係について会談を行ない、2009年 1 月の中国進
出10周年の記念式典で雲南省産の豆を使用した商品を発表する。同年12月には生産地である保山市
を視察し、生産拠点と研究基地の設置に言及。翌2010年11月雲南省政府と「コーヒー産業振興に関
する覚書」を取り交わし、2011年 5 月に雲南省 1 号店を昆明市に開店する。
また、生産に関して拡充するべく、2010年に省政府と取り交わした覚書を元に、雲南省のコーヒ
ー生産をその早い時期から担い、現在も研究・生産の拠点である保山市の「熱経所」に、品種改良
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Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
のための農地を共同で開設している。その現場に行くと具体的には、次の様に説明がなされている。
雲南省農業庁、雲南省科技庁、米国スターバックス社により、国外の優良品種10個を栽培し高地・
低地に適した苗を 1・2 個選び出すプロジェクトで2011年 1 月から2015年12月にかけて実施すると。
これに加え2011年 7 月には、この地域を中心に牧畜業またコーヒー生産、飲食店を展開するアイ
ニーグループと生産の協力体制についての覚書を取り交わしている。翌2012年 2 月には、同社と合
弁会社を設立することで合意をし、同年12月に工場が正式稼働している。社名は「星巴克愛伲珈琲
(雲南)有限公司」である。今回の調査では、この合弁会社の珈琲加工工場を訪問しその管理職の
方に様子を伺った。これによると合弁比率はスターバックスの51対49である。主にアイニーグルー
プが生産するコーヒーを輸出するための企業であり、ひとつの敷地内に工場 1 つと倉庫が 2 つあり、
スターバックス用とアイニー用と完全に棟が分けられている。また、工場の入口には時期が来ると
買取価格が表示される看板が掲げられていた。ちなみに、このアイニーはコーヒーショップも展開
していて、そのショップを訪問すると先に発生した地震の復興支援として、 7 日間分の売上全てを
寄付するというチャリティーを行っていた。
この様にスターバックスは、生産・販売共に着々と地盤を固めていることが分かるが、2015年に
は中国全土で1,500店舗を出店すると計画しており、この数は北米地域以外で最多の店舗数を有す
る日本のおよそ1,000店舗を超える。今回の調査対象の雲南省には、2014年 8 月現在、省内 1 号店
の開店からおよそ 3 年が経過し、12の店舗がある。そこでこの雲南省の店舗の様子を、またどの様
なコーヒーが飲まれているのかを確認するためにまず全ての店舗を訪問した後 1 店舗を定め、午前
中の時間を中心にして 7 日間の観察を行った。時間帯の決定については、「昼・夕食と較べると朝
食は決まりきった定式に準拠することが多い食事といってよい」という梶原(2009)*30に着想を得、
朝の時間帯を選択した。
まず店舗の位置を確認すると、12店舗の内 6 店舗は街の繁華街にある 1 号店を中心に半径 1 km
程のところに位置している。その他 1 店舗は空港内、残り 5 店舗は中心地から半径 5 km程の圏内
にあり、いずれもショッピングセンター内かそれに併設されている。レイアウトは、空港店とデパ
ートの 2 階に位置する店舗を除いて、テラスの席が用意されており、これらと店舗内の席をあわせ
た席数は、最少がおよそ40席から最多が180席で平均すると 1 店舗あたり100席程であった。その賑
わいは、中心部から離れる程に、徐々に静かになってゆく様子である。そして観察を行った店舗は
街の中心に位置しており、入口と注文カウンターの間にテーブルが置かれ、客の出入りや注文の様
子が観察しやすいためこの店舗を選択した。この店舗はテラスに55席、店内に102席の計157席を有
する比較的大きな店舗である。また 8 月の昆明市の日中の気温は20度程で、心地よい陽気である。
7 時30分から店は開かれていているが、ここから 2 時間程の間は大変優雅な時間で店員もこの時間
帯にテラス席の設営等の店の準備を行い、平日・週末と客の数はさほど変わらず平均すると18人程、
また店内を利用せずテイクアウトで持ち帰る客は全体のおよそ 4 割であった。その後10時を超える
頃から、徐々に客足が増えてくるが、ここから先は平日・休日と様子が変わり、休日は 8 割くらい
の席が埋まる状況が、午後10時前くらいまで続く。注文台の前には、絶えず10名程の注文待ちの列
が続いた。この頃はカウンター内に 7 名程のスタッフが入る。一方平日は、席が半数以上埋まるこ
とは珍しい。
注文内容は、レギュラーコーヒーの注文は極めて稀であり、ほとんどは生クリームがのったり、
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中山雅之
エスプレッソをフレーバーシロップと砕いた氷とで混ぜてあるもの等のいわゆるコーヒー飲料であ
る。象徴的なのは、朝の開店時に店を訪れると多くはコーヒーはドリップされておらず、そこから
淹れ始める。また、これとは別の日に開店から 2 時間程たった頃に行っても、ドリップをそこから
初めて始めるといった様子である。 1 号店の店長にコーヒー豆の売れ行きについて尋ねると、 1 日
に 2 袋程とのことであったが、実際に購入されている場面は見ることができなかった。中国におい
て”コーヒー”の消費が加速する中、まだまだコーヒーの消費には時間がかかる様子であった。
2-3.生産地並びに観光地での消費
次に生産地でのコーヒーショップの様子であるが、中国コーヒーの研究・生産の拠点となってい
る保山市で調査を行った。昆明市内同様にコーヒーショップを見つける事が困難で、ようやく 1 店
舗コーヒーショップの看板を出したセルフサービス式の店を探すことができた。メニューを確認す
るとコーヒーはあるものの雲南珈琲は用意されていなかった。その他コーヒーを提供しているのは
チェーン店のファストフードショップでホットコーヒー 6.5元、もちろん雲南珈琲ではなかった。
更に市中のコーヒーショップを探すため、この手の情報が集まる中国の検索エンジンで調べたとこ
ろ街の地図上に15軒が表示された。この内茶のみを扱う店が 8 軒、バーが 1 軒、焙煎企業のオフィ
スが 1 軒であった。残りの 5 軒を少し距離があるが、ひとつずつ訪問することとした。その結果 2
軒は既に看板が無いか店が閉鎖されていた。残りの 3 件の内まず 1 軒目のコーヒーショップに入る
と、昼の 3 時であったが客はおらず店員は睡眠中であった。メニューには雲南珈琲があったが、今
は品切れで提供していないとのこと。この店のメニューには、雲南珈琲を含め 9 つの銘柄があった
が、最も高いものは58元のブルーマウンテン、最も安いものが雲南珈琲で18元である。
2 軒目の店舗は 2 階建てで 1 ・ 2 階各30名程が着席できる広さ、食事も提供しておりコーヒーは
8 種類の用意があった。ここも最も高価なものはブルーマウンテンで68元、その他 6 つは58元であ
るが、雲南珈琲は22元である。
最後の 3 軒目は台湾上島珈琲(UBC)であり、国内でのチェーン展開は1,000店舗を超えている。
メニューは初めにコーヒーが登場し、カップ売りは 8 種類が用意されており最も高価なものが特級
ブルーマウンテンで一杯68元である。次いで関連するコーヒーチェーン店の名前がついたものと通
常のブルーマウンテンが36元。その他は、炭焼、モカ、ブラジル、マンデリン、コロンビアがそれ
ぞれ32元である。これらは「純品珈琲」と表記されたカテゴリに分けられている。次いで、「花式
珈琲」に分類されているのが32元もしくは36元でキャラメルマキアート、アイリッシュコーヒー、
カプチーノ等、これに対して茶は42 元 1 種、38元 6 種、36元 9 種の16種類の用意があり、ミルク
ティーがいずれも28元で 5 種類である。このコーヒーショップでも、掲載順序はコーヒーに譲るも、
その品数は未だ茶が優勢な様である。そして最も生産に近い場所として農家で何人にもその飲用に
ついて尋ねたが、あんな苦いものは飲まないと、ほとんどコーヒーを飲む様子はなかった。ちなみ
に宿泊したホテルの朝食会場は、 3 in 1 コーヒーであった。
最後に、非日常の場としての観光先では普段は口にしないものを飲用したり、また珍しいものを
お土産としても購入されるであろうと、観光地でのコーヒーの様子を確認することとした。調査を
行った麗江市は、旧市街地である麗江古城が世界遺産に認定されていることもあり、国内外からの
観光客が訪れる大変人気のある観光地のひとつである。旧市街地は建物などはそのままであるが、
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Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
受入システム等は観光用に改造され、昼夜問わず大変な賑わいである。お土産物は、茶、細工の施
された貴金属や玉など、観光地でよく見られる光景であり、その中にインスタントコーヒーも積ま
れていた。この古城地域は、東西・南北は端からはしまで徒歩で20分くらいの範囲であるが、この
中心の広場から 5 本の賑わいがある大きな通りが出ている。この通りで茶とコーヒーを取り扱って
いる店舗数を調べたところ、茶もしくはコーヒーを扱っている店舗は計50。その内茶の専門店は
11、一部茶を扱う店舗が23、コーヒー専門店が 4 、コーヒーも一部扱う店舗が11であった。徐々に
茶の領域にコーヒーが入り込んでいることが分かるが、まだまだ茶が優勢である。またそこで販売
されている商品は 3 in 1 式のインスタントコーヒーがほとんどである。ただしこのメインストリー
ト以外にはコーヒー専門店が 8 店舗もあり、今のところ日陰の存在であることを物語っていた。
麗江市には、雲南省に最初にコーヒーを植樹したとされるフランス人宣教師田徳能の名を商標登
録し、コーヒーを販売しているコーヒーショップがあり、オーナーから聴き取り調査を行った。こ
の店は 2 年程前に事業を始め、現在実店舗は 2 店。田徳能ブランドのコーヒーは、ウェブサイトで
も販売をするべく準備をしているとのこと。中国国内でも田徳能のことを知る人は少ないが、中国
コーヒーのルーツであることからこのブランドを作成したとのことであった。またキャッチフレー
ズは、「自分たちでつくったコーヒーを飲もう」である。更にコーヒーショップの並びに田徳能記
念館も併設されていて、当人の写真を含むパネルが15枚程展示されている。店舗は古い 2 階建ての
民家を改装したもので、各階の席数はそれぞれ20席程である。メニューは、コーヒー以外のものと
して、ジャスミンティーを始め茶が 5 種類とココア、ホットミルク、ミルクティー、オレンジジュ
ースがいずれも20元、ツナサンド30元。コーヒーはエスプレッソ20元、アメリカン25元の他、ミル
クと混ぜ合わせるものが 4 種類で30もしくは35元。その中で、田徳能珈琲は20元で販売をしている。
また、店舗内で焙煎をした珈琲豆も販売していて、 1 ポンドあたり168元である。これらの価格は
おおよそに市内のチェーン店等とほぼ同水準であった。
ここ観光地は生産地よりもコーヒーが身近にあると感じる地域であったが、宿泊先の主人に飲用
について話を聞くと、これまで尋ねた雲南の他の地域の住民同様に、苦くて美味しくないと、砂糖
を入れても好んでは飲まないとのことであった。朝食には観光客用にレギュラーコーヒーが提供さ
れていたが、海外からの旅行者の一人が自前のドリッパーを持参していたのは対照的な光景であっ
た。観光客からすると雲南はコーヒー未開の地であると考えられていたのかもしれない。
2-4.消費の現状に対する考察
コーヒーの消費やコーヒーショップの普及の可能性について考えるため、ここではイノベーショ
ンの普及の理論に基づき、この消費の現状を考察してゆく。
イノベーションの普及理論は、社会において新しいアイディアや技術等が普及してゆくことを説
*31
明するものでエベレット・ロジャーズ(2007)
が1962年に発表してから長らく支持されているも
のである。まずこのイノベーションとは、「個人あるいは他の採用単位によって新しいと知覚され
たアイディア、習慣、あるいは対象物」と定義される。そしてイノベーションが普及する速度に影
響を与えるものとして、イノベーションがもつ次の 5 つの特性を挙げている。「相対的優位性」、
「両
立可能性」、「複雑性」、「試行可能性」、「観察可能性」である。この中で「複雑性」以外はイノベー
ションの普及に正の相関をもつものである。また「ある社会システムに属する個人あるいはその他
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中山雅之
の採用単位が他の成員よりも相対的に早く新しいアイディアを採用する度合い」を「革新性」とし、
この度合いによりイノベーションの採用者カテゴリを次の 5 つに区分している。革新性の度合いが
高い順に、
「イノベーター(2.5%)」、
「初期採用者(13.5%)」、
「初期多数派(34%)」、
「後期多数派(34%)」、
「ラガード(16%)」で、数値はそのカテゴリに属する人の割合である。そうして、ある個人や組織
単位が初めてイノベーションを知覚して採用しその結果を確認する過程が「イノベーション決定過
程」であり、「知覚」、「説得」、「決定」、「導入」、「確認」の段階を経る。加えてこの「導入」段階
において、しばしばイノベーション採用者によって加えられる変更や修正のことを「再発明」とし、
この度合いが高まるとイノベーションの採用速度が高まるとされている。
このイノベーションの普及理論とコーヒーの消費を照らし合わせ考えると、まずコーヒーまたコ
ーヒーショップは概ねイノベーションの普及の速度に影響を及ぼす 5 つの特性の内、
「両立可能性」、
「複雑性」、「試行可能性」、「観察可能性」の特性についてはイノベーションを加速させる特性を備
えていると考えられる。コーヒーを飲用すれば他のものを口にすることができないということは考
えづらく、飲用においては特にインスタントコーヒーはその複雑さを感じづらい、そして試しに飲
むことは日常において可能な状況になっており、他人が飲用することも観察可能である。残りの「相
対的優位性」は次の様に説明がなされている。
あるイノベーションがこれまでのイノベーションよりも良いと知覚される度合いのことであ
る。相対的優位性は経済的な観点で表さることがあるが、それに加えて社会的な威信、便利さ、
満足感等も重要な因子である。あるイノベーションが十分な「客観的な」優位性をもってい
るかどうかはあまり重要ではない。肝心なのは、個人がそのイノベーションに優位性がある
と知覚するかどうかという点である。*32
ここで「相対的優位性」において重要なものとしてあげられている 4 点、すなわち「経済的な観
点」、「社会的な威信」、「便利さ」、「満足感」についてコーヒーは、その相対するものと比較して優
位性があるであろうか。コーヒーと比較するものとして例えば茶を考えた場合、「経済的な観点」
からすると、これはその種類によっても様々であるため一様にどちらが安価とは言えないが、コー
ヒーの価格は茶のそれに比べ、比較的消費者が目にする価格帯は安定しているということは言える
のではないだろうか。またコーヒーショップについてもおおよその一般的な価格帯についてある程
度の共通の認識ができていると考えられる。次いで「便利さ」については、前述の通りインスタン
トコーヒーに代表されるものである。コーヒーショップは利用者の収入と年齢にもよるが比較的敷
居が低いものと考えてもよいのではないだろうか。そして「満足感」と「社会的威信」であるが、
「満
足感」に影響を及ぼすであろうもののひとつとしてその味・おいしさが考えられるが、これに関し
て伏木(2005)が、ブランドがおいしさに影響を及ぼすとして次の様に指摘している。「ブランド
ものの食材の場合は、本来のおいしい味に、評価が高いという情報の影響が好ましく働く」、「目立
った欠点のない良くできた味であれば情報によってさらに料理が可能である。イメージを人為的に
*33
つくることができる」
として、ブランドがおいしさにプラスの効果を及ぼすことを指摘している。
この指摘からもブランドからおいしさを通じ、「相対的優位性」に影響をもつ「満足感」が強化さ
れるという経路が考えられる。
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Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
更に「満足感」については、脳のいわゆる報酬系からも影響を及ぼしていると考えられる。それ
は現地調査で見られた通り、コーヒーショップでもその消費はレギュラーコーヒーは少なく、糖質
と脂質の中に幾分かのコーヒーが入ったコーヒー飲料がその注文の多くであったこと。また、国内
のコーヒー消費の多くの割合を占めるインスタントコーヒーであるが、ネスレが公表している
3 in 1 のひと袋約16gの内訳は、57%が糖質、14%がコーヒーで残りが主に脂質であること。この
糖質と脂質について、伏木(2005)*34が依存性に関し次の様に説明している、「甘味と脂肪の組み合
わせは強烈な快感となる。脳もこれには弱い」、いわゆる脳の報酬系を刺激すると言われるもので
ある。摂食行動と脳の報酬系に関して、糖質と脂肪の摂取によって脳の報酬系が刺激されることに
ついて、人類の祖先の置かれた環境によっても形成されて来たとリンデン(2014)が神経科学の分
野から次の様に説明している。
私たちの祖先の食事は、様々な住環境に暮らしたさまざまな集団ごとに違いがあったはずだ
が、共通する特徴があった。それは、大半が植物性の食事だったということだ。脂肪(おそ
らく全カロリーの 10%ほど)と糖(たいていは熟した果物と蜂蜜)はごくわずかだった。肉
はごく稀にしか食べられないご馳走で、手に入ったとしても通常は脂身のないものだった。
内陸の住人にとって塩は未知の味だった。すばやく噛みきって飲み込めるような水分や油分
の多い食べ物はほとんどなかった。最も重要な点は、ときおり飢餓が起こるのがあたりまえ
という場所が多かったことだ。そのため、脂肪や糖を含む高カロリー食が手に入ったときは
むさぼり食い、予測される困難な時期のために体脂肪として蓄えておくことは理に適ってい
た。*35
この様な環境で生活を続けて遺伝子を受け伝えてきたことについてであるが、「こうした祖先の
食事の結果、私たちは生まれつき特定の味や匂いを好むように身体ができあがっている」とし、
「糖
と脂肪が豊富な高カロリー食を食べると、VTA*36が大きく活性化し、VTAの標的領域にドーパミ
ンが大量に放出される」*37という脳の報酬系が刺激される原理を説明している。更にこの苦さと甘
さが脳の報酬系へ今ひとつの快感情を喚起する元になっている。それは、「短時間の痛みというの
*38
は必ずおわるものであり、そのときの痛みからの救済という体験はそれ自体、快である」
という
説明から解釈ができ、コーヒーのもつ苦みは痛みまでとはゆかないが苦痛を連想して考えることが
でき、その救済が糖分の甘味である。この苦みと甘味が渾然一体となって更なる報酬となっている
と考えられる。そうして、言うまでもなくコーヒーに含まれるカフェインには、中枢神経を興奮さ
せ、他の向精神薬と比べれば比較的弱いものであるが依存性があることも良く知られているところ
である。これらの脳の報酬系への働きかけもコーヒーの消費が継続されてゆく手助けとなっている
と考えられる。こういった見方からは現在国内では消費されているものはコーヒーというよりも、
コーヒー風味のお菓子を消費しているといっても良いのではないだろうか。
更にブランドは、おいしさに影響を及ぼす「満足感」に関与すると同時に、「相対的優位性」に
影響を及ぼす「社会的な威信」にもつながるものと考えられる。ブランドは、一般的にその製品や
サービスまた企業全体のイメージの総体で、他のものと区別をするためにも使用され、安心感、信
頼感また威厳にもつながる。そのため、このブランドが「社会的な威信」を通じ、「相対的優位性」
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中山雅之
に影響を与え、イノベーションの普及の速度を加速させる役割を担っていると考えられる。
このようにコーヒーは恵まれた諸条件で社会全体としてのイノベーションの普及速度は速まると
考えられる。しかし一方で、個々人の「イノベーション決定過程」に注目するとその消費量からま
だ「知覚」、
「説得」、
「決定」の段階であると考えられる。実際の「導入」に至るこの 3 つの段階は、
心理的な意思決定過程であり、またこの「導入」に至るプロセスについて、「イノベーションの決
定過程の初めの三段階-知覚、説得、決定-について、直線的つまり一方方向にとらえる傾向がある。
実際には、知覚、決定そして説得ということもある」*39としてイノベーションの実際の「導入」に
至るまでの心理プロセスは一方向への直線ではないことは指摘されている。このことを考慮に入れ、
現在の中国におけるコーヒーの採用の決定過程の状況を考察すると、その存在は広く「知覚」され
ており、採用を「決定」するかの「説得」段階で情報の収集を行っていると考えられる。この「説
得」段階において、「決定」に至る重要な要素については次の様に指摘されている。
説得段階と意思決定段階では、人はイノベーション評価情報を探し求める。イノベーション
評価情報とは、イノベーションの採用によって期待される結果の不確実性を減じるメッセー
ジのことである。(中略)通常この種の情報はイノベーションに関する科学的な評価によって
得られるが、多くの人々は身近にいる同僚から探し求めようとする。身近な同僚のイノベー
ションに対する主観的な見解は、イノベーションを採用したことによる個人的な経験に基づ
くが、このほうが彼らにとって入手しやすいうえに説得力をもつのである。*40
この「説得」の説明とコーヒーショップの紙コップを一緒に思い浮かべれば、日常的に「説得」
が行われていることが分かる。調査をした店舗の朝の時間帯の注文のおよそ 4 割がテイクアウトで
あった。その紙コップは店舗の外へ運ばれ自然と宣伝看板の役割を果たし、職場や家庭等へ持ち込
まれれば、身近な人からの格好の「説得」の材料へと変身をするのである。
そうしていよいよ「導入」であるが、この段階で登場するイノベーションを加速させるものが「再
発明」であるが、このコーヒーは既にこの「再発明」がなされていると見ることもできる、つまり
レギュラーコーヒーに砂糖とミルクを入れる、時にはシロップや生クリームを加えるという「再発
明」である。この「再発明」によりコーヒー風味のお菓子がコーヒーの飲用を徐々に増加させてゆ
くのである。また一度「導入」を決定したものの、その苦さ等から、「確認」段階で、他の代替品
への「置換」や「幻滅」によってその採用を中断することも発生しているとも考えられ、
「説得」、
「決
定」、「導入」の段階が揺れ動き、徐々に自身の行った意思決定が正しいことであったとの認識がさ
れ、これが定着した段階といえるが、現在の消費市場ではこのような揺れ動きがなされていると考
えられる。
最後に採用者数について、そのままの数値は当てはめられないが、コーヒーの一人当たりの消費
量で見立てれば、日本の年間 3 kgに対して47gであり、将来的な潜在消費量を日本のこの数値と想
定し試算すると、採用者はまだまだ1.6%程である。まさにイノベーターが市場を開け始めていると
ころである。これらの状況からもこれから益々、糖質、脂質、カフェインそうしてブランドが、コ
ーヒーの消費量の増大を後押しすることが予想される。またこれらの組み合わせで、既に広く普及
しているものも一般的に見ることができる。例えばコーラの実を使用した炭酸飲料、コーラの実は
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Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
カフェインを含み無糖のものも販売されているが一般的には糖質が含まれている。そうして多大な
広告費を掛けたブランドの維持は周知の通りである。チョコレート等はその代表格で糖質、脂質、
カフェインの含まれるカカオ、そして世界中幾つかのメーカーの名前は多くの人に浸透している。
その他複合的なものとしてハンバーガーと炭酸飲料の組み合わせ、これにブランド力につながる世
界中での広告宣伝は日常的に目にする。もちろん砂糖・ミルクパウダー入りのインスタントコーヒ
ーも大きなブランド力をもち同様である。
3-1.不安定な生産者価格と収入
コーヒーの価格は歴史を遡ってみても、不安定という言葉がよく似合うものの一つではないだろ
うか。コーヒーがエチオピアからアラビア半島に渡りヨーロッパ世界に広がった頃には、船の難破
等によりヨーロッパのマーケットの価格が高騰したといった記録も残されている。その後しばらく
は、消費市場においては高価な商品として取引をされていたが、ブラジルが世界の生産量の多くの
部分を担う様になる頃*41には、供給過多による価格低下と、主に自然被害が原因の減産による価格
の高騰が何度か繰り返される。1920年代末から1930年代には、大量の余剰在庫が発生し、これを処
分するといったことも行われてきた。その後1938年にはネスレがインスタントコーヒーの販売を開
始し、戦中は多飲されていたこともあるが、1960年代に入ると、供給過剰が著しくなる。この状況
を解決すべく1962年に主なコーヒー生産国と消費国を中心に、輸出割当制度をもちコーヒー価格の
安定を主な目的とした「国際コーヒー協定」が締結され、その協定の発効に伴い1963年にこの協定
を管理するための国際コーヒー機関(ICO)が発足する。
その後1989年までは、同協定の下に 1 ポンドあたり120セントから140セント*42の、一般的に価格
安定帯と呼ばれる金額を設定してこれを大きく下回ることのない様に輸出割当がなされ、比較的安
定した価格で取引が行われていた。しかし、生産国間の輸出割当量の折合いがつかなかったことや、
アメリカ合衆国が協定締結に積極的でなかったことから同年 7 月輸出割当制度が停止する。この年
以降輸出割当制度を停止させたまま協定は締結され、これにより世界市場におけるコーヒー価格は
下落し翌1990年は 1 ポンド71セントまでになり、その後1994年にブラジルで霜被害が発生するまで
はおよそ 1 ポンドあたり60セントで推移している。この1994年から1995年に掛けてと1997年のブラ
ジルの霜被害による一時期の価格高騰があったが、それ以降右肩下がりで、2001年から2002年が近
年においては最低価格となった 1 ポンド47セントまで下落し、この水準は輸出割当制度が機能して
いた当時の安定価格帯のおよそ 3 分の 1 程である。またこの頃は、既述の通りベトナムでの生産量
が急増したことも価格に影響を及ぼしている。この時期は多くの国際協力NGOがコーヒー農園の
支援を行っていたが、これらの調査報告によると、コーヒー農家は子どもたちを学校へ行かせる学
費はおろか日々の生活にも事欠く状況で、中にはコーヒーの木を抜き取り複数の国々で使用が禁止
されている薬草に植え替える事例があることも指摘されている*43。その後価格は暫時上向き、よう
やく120セント台に回復するのが、2008年の事である。輸出割当制度が停止し実質的に国際コーヒ
ー協定が破綻してからおよそ20年が経過しようとしていた。
コーヒー価格の主な変動要因であるが、アラビカ種がニューヨーク、ロブスタ種がロンドンで取
引をされているが、ニューヨーク商品取引所の価格でそのほとんどが決まる。生豆の取引現場では
この商品取引所の価格を基準として、豆の品質等を加味して価格が決定される。この価格は最大生
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産国であるブラジルの生産状況とこれに合わせたいわゆる先物取引の投機資金で決定されてゆく。
世界的にも、コーヒー生産者がこの価格に対してどれだけ敏感か、また最重要で切実な課題かとい
うことを伺い知る事例として辻村(2013)のタンザニアでの報告が分かりやすい。辻村は2001年よ
りルカニ村でコーヒーのフェアトレードプロジェクトに取り組んでおり村民との関係も築き、その
生産品も比較的安定的に買取り日本へ輸入を行っている。このプロジェクトの一環で日本の支援者
と共にスタディーツアーで現地を訪問したときのことである。この年の前年から日本の大手外食チ
ェーンが、ルカニ村を訪問して購入を申し出た時期であったが、現地の生産組合長は次の様に語っ
たという。「フレンドシップに基づく支援は大変重要で今後もお願いしたいが、フェアトレードに
*44
ついては、貧しい村民たちのためのビジネスであり、買付け競争で高価になるのが望ましい」
と
して、永年の支援の付き合いと新参の企業とを競合させたいという考えを表明。その場は日本から
の支援として寄付金を贈呈する場でもあった。その後、組合長は更なる支援を要請しフレンドシッ
プを優先するのだが、まだまだ最盛期の収入には及ばないことが原因であろうが、永いつながりが
あるが高く売りたいという切実な事例である。
この様な状況は中国も同様である。この度の調査中、その価格の不安定さについては、ニューヨ
ーク商品取引所の名と共に行く先々で耳にした。不安定価格によって、大きくその収入そして生活
が左右されている実情は生産現場に近づくにつれて深刻となった。現状と将来の中国のコーヒー市
場の不安定さについて、雲南省珈琲行業協会の事務局長に聴き取り調査を行った。同協会は中国の
コーヒー市場の安定化を図るために2009年 3 月に設立された組織で、初代名誉会長に雲南省の副省
長がまた初代会長に企業を代表して徳宏后谷珈琲有限公司の代表が就任している。また現在も雲南
省の多くのコーヒーに関する有力企業や団体が会員として名を連ねている組織である。同氏よると、
一般的な農家の生産原価としては生豆 1 kgあたり15元である。雲南省での価格もニューヨーク商品
取引所の価格を基準としており、2013年末は 1 kg当たり13元代にまで下落し一般的に言われる生産
原価を下回った*45。これは2014年 8 月時点のおよそ半値である。価格がここまで下落したとしても
現金が必要な農家は、少しでも高く買ってくれるところに販売をする。こういった状況を緩和する
ために各国のコーヒー農家は、集買する協同組合をつくり、仲買人等に安く販売しないようにした
りと、試行錯誤を行ってきた。雲南省でも同様に、2014年 7 月に雲南珈琲現貨公益中心の準備室が
開設された。この現物買取センターは、生産者が中心となり設立されたもので、農家から直接生豆
を買い取る。未だ準備段階であるが、この試みにも関係している同氏によるとその仕組みは次の通
りである。現物買取センターは、農家が生豆を持参すると同日のニューヨーク商品取引所の価格の
7 割の現金をその農家に渡す。そうして、その豆は売買されるのではなく、農家が販売したい価格
になった時に実際に売買契約をし、残りの金額を精算するというものである。こういった仕組みが
出来上がることにより仲買人の存在が徐々に不要になり、農家の収入も少しずつではあるが向上す
るという。またこれは生豆を担保とした貸し付け機能を果たしているともいえる。
この様に仲買人を通さないということも農家の収入向上につながるが、現物買取センターはまだ
まだ準備段階であり実現されるかは不確実で、更に設立されたとしてもいかにして農民にそのシス
テムと有用性を伝達するかという課題も残されている。今回訪問した農家がもつ意識からもその浸
透へ向けては課題が多いことが予想される。そしてこれが実現したとしても、やはりニューヨーク
商品取引所の価格変動がその収入に大きく影響を及ぼすことには違いはない。これらを回避するた
66
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
めに、例えばエチオピアの協同組合では、欧州の比較的コーヒー農家に理解のある企業を直接開拓
し、ニューヨーク商品取引所の価格とは関連なく販売価格を決定する様なことも行われている。こ
の様なことが可能になるのは、コーヒー危機の時期においても小売価格やコーヒーショップでの価
格は、農家の収入が減少した程下がっているわけではないからである。例えば、世界的に見ても比
較的コーヒー消費が多い日本では、総務省が「小売物価統計調査」*46を行っているが、東京都区部
の焙煎をされたコーヒー豆の小売価格は、統計がある1985年からICAが破綻した1989年を挟み1999
年まで、それほど大きな変動もなく100グラムあたり389円から311円の幅で推移している。またイ
ンスタントコーヒーやコーヒーショップでの 1 杯のコーヒー価格についても、1989年を境に、大き
く下落することなく、その反対に価格が上昇しているのである。この様にこのコーヒー価格の不安
定さは、消費市場より生産現場に近いところで影響を及ぼしやすいのである。ニューヨーク商品取
引所の価格が下がれば、集買業者また焙煎業者はそれにあわせて農家からの買取り価格を引き下げ
る。しかし焙煎業者から小売りまた店頭に出てゆくときは、その小売価格はそれほど大きな影響を
及ぼさないのである。この様に価格変動リスクは、生産者がその多くの部分を担っているとも言え
る状況である。
こういった文脈で、よく比較されるコーヒーショップの 1 杯の価格とそれに使用されているコー
ヒー豆の農家の販売価格であるが、中国ではおよそ次の様になる。国内の代表的なチェーン店のコ
ーヒー一杯360mlが17元で、これには約20グラムのコーヒー豆が使用されている。2014年 8 月の農
家からの生豆の購入価格は 1 キログラムあたりおよそ25元であるため、一杯のコーヒーに対する生
豆の販売価格は0.5元となり、これはチェーン店のコーヒー販売価格の約 3 %ということとなる。も
ちろん生豆を購入した後の輸送コスト・焙煎また店舗での販売コスト等もこの一杯の価格に含まれ
るため、一様にこれが安いと判断することは出来ないが、こういった数値を見ると生産者支援の仕
組みが入ってくる余地はあるであろうと感じられるのではないだろうか。コーヒーメーカーもこう
いった声にも対応すべく、国際フェアトレード機構(FLO:Fairtrade Labelling Organizations
International)を初めとして各種フェアトレードの仕組みを導入しており、またスターバックスは
米国のNGOであるConservation Internationalと共同で、独自の基準C.A.F.E(Coffee And Farmer
Equity)を設け、さらに雲南省においては2012年に農家の収入の安定と継続的なアラビカ種の確保
を目的としたファーマーサポートセンターも開設している。
今回の聴き取り調査の最後に、日本においてレギュラーコーヒーが茶の消費量*47を上回ったのは、
1983年のことであるが、現在はその当時と比して 3 倍の消費量になっているといった日本の成長曲
線を例に出し、中国の今後の消費展望について意見を尋ねたところ、立場もあるかもしれないがと
ても積極的な消費拡大の未来を描いていた。理由のひとつは消費者心理の面から周囲でより多くの
人が飲用をすることが大きく機能をしていくとの解説であり、これはロジャーズの社会的な威信の
向上による「相対的優位性」の強化である。イノベーションの導入過程の身近な人からの「説得」
がイノベーションを加速させるとの理論で説明ができる部分である。
この様に、中国のコーヒーの消費曲線は比較的安定した将来を描かれていることが多い。しかし
一方で生産者の販売価格については、ニューヨークの商品取引所に揺られ、まだまだはっきりとし
た未来像が描けていないのが現状である。この差に将来の生産者への課題が存在している。この後
において更にコーヒーの消費が伸びれば、生産者農家の増収と直接的な連想は少なからずなされる
Asia Japan Journal 10 (2015)
67
中山雅之
と考えられる。そしてコーヒー生産への魅力は増すかもしれないが、そこには価格変動により大き
く収入・生活が変化する危険が未解決のまま残されており、対応策を講じる必要がある市場である
ということを忘れてはならないのである。ベトナムで政府の後押しもあり増産を行った時期は、ま
さに「国際コーヒー協定」が破綻をして価格が大きく下がっていた時期にも関わらずであったとい
うことを考えれば、なおさらである。
おわりに
近年人々は、どのようにしてコーヒーと出会っているのであろうかと、自身も回顧してみるも、
この記憶がほとんど定かではない。アルコールであれば法律によって飲用年齢の制限がなされてい
るため、この一線から解放される時期は比較的明確であろう。しかしコーヒーの場合は知らずしら
ずのうちにその飲量は増えてゆき、今では毎朝の儀式と化している人も多いのではないだろうか。
儀式を欠かせば、その日は何とも調子が整わないなどといったことを考えれば既に依存に近い。一
つの経路を考えると、紙パックに入ったコーヒー牛乳を別にすれば、おそらくその飲用は比較的若
い時期に、大人との交流の場において砂糖とミルクによる「再発明」が行われ始められる。その後
徐々にその味に惹かれてゆき、成長とともに情報量が増えたことで感じるストレスの軽減薬として、
糖質、脂質、カフェインにより脳の報酬系を刺激して飲用が継続される。そしてブランドを買う快
意識を伴うコーヒーチェーン店によるものも体験し、“コーヒー”から離れ香りを感じるまでには
永い時間を要する。しかしそれは既に日常に定着している。もちろん個々人のコーヒーに至る経路
は多様であるが、それほどの意識をしないで日常の嗜好品としての地位を確立しているコーヒーは、
タバコが煙たがられまたアルコールが規制された歴史と較べても、間隙を縫い生き続けている希有
なもののひとつではないだろうか。
コーヒーは歴史的にみても永い間比較的安定して摂取され、定着をしている依存性のある嗜好品
であり、中国における消費も同様に、本調査からも成長してゆくことが考えられる。そして更にコ
ーヒーチェーン店の拡大により、コーヒーとの出会いは低年齢化していると考えられる。コーヒー
の飲用を規制しているという国はなかなか聞き及ばないが、中国と依存性のある嗜好品の規制とい
うことについては連想がしやすい。またそのコーヒーッショップの歴史的な役割として、自由な議
論の場等ということを考えると益々想像は膨らむ。
今回の調査は比較的現場に近いところのものであったが、市場が更なる熱狂に包み込まれる前に、
今一度戦略面から冷静に考えれば、コーヒーを取り巻く大きな外部環境、つまり政治、経済、社会
的潮流、技術革新等の変化を把握しておくことも今後に残された大きな課題である。そうしてやは
り中国においても、更なる消費増大とこれに呼応する増産の前に、生産者価格の安定のためのシス
テムを構築することは早急な課題であるといえよう。そのため今後は中国のコーヒー市場において、
具体的に機能する生産者支援の仕組についてコーヒー先進国の事例を踏まえつつ明らかにすること
も次なる課題と考える。
* 1 ベトナム危機に関しては後述するが、一般的に 1980 年代後半からベトナムにおけるコーヒーの生産量が急増し
てゆくことにより、世界のコーヒー価格が下落し続ける一因となったことを指す。
* 2 村田武(2006)「中国雲南省のコーヒー農園」『現代東アジア農業をどうみるか』筑波書房 , pp.39-55.
68
Coffee and Yunnan : Mainly the Production Base
* 3 コナー・ウッドマン(2013)『フェアトレードのおかしな真実』(松本裕訳)英治出版 , p302.
* 4 現地調査は、チームメンバー並びに多くの現地の方々のご協力により実現したものであり、関係者の方々へ心
よりお礼を申し述べる。
* 5 中国語の人名・地名のなどの固有名詞は日本で使用されている漢字があるものは、それに置き換えて表記する。
また人名や必要な地名には拼音を併記する。
* 6 ICO は最新のものから 15 年程前までの生産量や輸出入のデータを公表しているが、それ以前のデータについて
は、個別に問合せ、使用目的等についての審査の後入手をすることが可能となる。また、本稿では特段の区別
をする場合を除いて ICO の数値データを使用する。
* 7 赤道を挟み北回帰線と南回帰線の間のコーヒーの生産に適しているとされている地域。
* 8 ベトナムの生産量の増加の背景にある支援については、アントニー・ワイルド(2011)『コーヒーの真実』(三
角和代訳)白揚社 , pp.295-308. 並びに姉尾裕彦(2009)「コーヒー危機の原因とコーヒー収入の安定・向上策を
めぐる神話と現実」『千葉大学教育学部研究紀要』57, pp.203-228 による。
* 9 黄蜀云(2009)『云南珈琲』云南出版集団公司 ,p14. この他 1892 年とする説もある。中国の生産の歴史は同書と
現地での関係者への聴き取り調査による。主なインタビューイーとしては雲南熱帯作物職業学院・珈琲研究所
所長である。
* 10 黄蜀云(2009), p56.
* 11 中国で伝統的に使用されている単位で簡体字は (mǔ)と表記され、広さは 15 畝で1ha となる。本稿では畝と
表記する場合特別に区別をする場合以外中国の尺度の意味で用いる。
展的意见』.
* 12 云南省人民政府(1998)『云南省人民政府关于加快咖啡
* 13 この数値は ICO が推計しているものであるが、雲南統計年鑑の数値と 2007 年以降隔たりがある。複数のデータ
を参照した後、本稿では ICO のデータを使用する。
* 14 云南省統計局編(2013)『云南統計年鑑』中国統計出版社 .
* 15『アメリカスペシャリティ協会』(2014.9.1)<http://www.scaa.org> また記事の例として人民日報社『人民網日
本語版』(2014.9.1)<http://j.people.com.cn> 等がある。
* 16 村田武(2006), p.49.
* 17 同上 , p.49.
* 18 同上 , p.50.
* 19 2007 年 4 月 8 日に当時の思芽市が普洱市に改名した事に伴い、翠雲区は思芽区と改められた。建設当時の名称は、
翠雲区南屏鎮南島河珈琲場である。また政府の管理機関も当時は思芽市翠雲区農業綜合開発室である。
* 20 この苗の量や収量等の数値は雲南熱帯作物職業学院・珈琲研究所所長を中心とし、その他現地の農園からの聞
き取り調査による。
* 21 中国統計年鑑編集部(2013)『中国統計年鑑 2013』中国統計出版局 .
* 22 International Coffee Organization(2013)Coffee in China. International Coffee Council, 111th Session, 9-12
September 2013. 以下の数値も同様に ICO のものを使用。またここで ICO が推計している消費量は、生産量に
輸入量を足し輸出量を差し引いたいわゆる見かけ消費量である。
* 23 人口統計は IMF のデータを使用。
* 24 合計不一致は数値四捨五入のため。
* 25 中聯富士経済咨詢有限公司(2012)
『中国有望食材・加工食品市場の全貌 』並びに英敏特諮詢有限公司(2013)
『中
国珈琲市場前看好』を元に推計。また、消費量については、ICO の算出基準を使用した。
* 26 臼井隆一郎(1992)『コーヒーが廻り世界史が廻る』中央新書 , pp.31-36.
* 27 小林章夫(2000)『コーヒー・ハウス』講談社学術文庫 .
* 28 土佐昌樹(2007)「公共圏の概念からみるアジア文化」『AJ Journal』02, pp.77-91.
* 29 スターバックスの雲南での展開については雲南省 1 号店の店員並びに関係者からの聞き取り調査を元にしている。
* 30 梶原景昭(2009)「文化的視点から見るホテル」『AJ Journal』04, pp.53-66.
* 31 エベレット・ロジャーズ(2007)『イノベーションの普及』(三藤利雄訳)翔泳社 .
* 32 同上 , p.21.
* 33 伏木亨(2005)『人間は脳で食べている』ちくま新書 , pp.54-55.
* 34 同上 , p.149.
* 35 デイヴィッド・J・リンデン(2014)『快感回路』(岩坂彰訳)河出文庫 , p.114.
* 36 VTA(ventral tegmental area)は、報酬系の中心となる神経が出ている部分で、快感情に関する中心的部分で
Asia Japan Journal 10 (2015)
69
中山雅之
ある。ここから運動や学習に関係する背側線状体や記憶に関係する海馬にもつながっており、これらにより行
動と快感情が学習される。
* 37 デイヴィッド・J・リンデン(2014), p.114.
* 38 同上 ,p.209.
* 39 エベレット・ロジャーズ(2007), p.96.
* 40 同上 , p.93.
* 41 この頃の価格の変動や ICO の動向については、歴史的事実として広く共通の認識があるが、一般社団法人全日
本コーヒー協会(2013)『コーヒー関係統計』, pp.128-134 に詳しく記載がある。
* 42 この数値は ICO がアメリカ合衆国、ドイツ、フランス等の現物生豆の取引価格を加重平均して算出した複合指
標価格であり以下は特段の区別がない限り、この数値を使用する。
* 43 オックスファムインターナショナル(2003)『コーヒー危機』(日本フェアトレード委員会訳 , 村田武監訳)筑波
書房 , p.18.
* 44 辻村英之(2013)『農業を買い支える仕組み』太田出版 , p.134. またこの事例は、生産者側が価格交渉を試みる良
い兆候であるとして紹介されている。
* 45 雲南省のコーヒー豆の価格については現地調査に加え、『云南コーヒーネット』(2014.9.1)<http://www.
yncoffee.net > が複数の数値を複合して公表しており、この数値を使用。
* 46『総務省』(2014.9.1)<http://www.stat.go.jp/> で公表されているデータを使用。
* 47 一般社団法人全日本コーヒー協会(2013)『コーヒー関係統計』.
70
伝統文化の継承と発展
― 伝統工芸の将来 ―
Succession and Development of Traditional
Handicrafts : Its Future
柴田 德文
Tokubumi Shibata
Abstract:
It is widely known that many traditional handcrafts in Japan are declining. But there must be
the ways they can survive. Not only the private sectors, but the government is also providing
supports for their survival. They do not work well, because the prolongation by such way had
never been successful. Only way for them to last is to convert their industry profitable.
Three cases are discussed in this note: Handcrafts as the fine arts, handcrafts as the popular
commodities, handcrafts as the luxurious commodities.
キーワード:伝統文化 伝統工芸 Asia Japan Journal 10 (2015)
71
柴田德文
1.伝統工芸とは
国際政治におけるソフトパワーの源泉に、その国独自の文化がある。文化とは、ジョセフ・ナイ
*1
によれば「集団が知識や価値を伝える社会的行動のパターン」
である。わが国には、古いものか
ら最新のものまで、世界を魅了する「文化」が多数存在している。そこでわが国が国際政治生活に
おいて活用し、また活用できる「文化」についてこの小論で考察してみよう。
しかし一口に文化と称しても、それらはあまりにも多岐にわたる。ゆえにそれのすべてを対象に
することは不可能である。そこでここでは、「伝統的文化」と呼ぶべきもののうちで、「伝統工芸」
として取り扱われるものの一側面について検討してみたい。
本題に入る前に、とりあえず「伝統工芸」との言葉は何を指すのかを一応規定しておくことが必
要となろう。ただ、本稿は「伝統」や「工芸」なる用語の概念規定を目的とするものではないので、
爾後の論考に必要な範囲での括りにとどめたい。
ちなみにわが国では通商産業省が伝統的工芸品産業の振興を目的とした制度を作っているので、
そこでどのように定義されているか概観してみよう。それが定義する「伝統的工芸品」*2とは以下
のものである。
一 主として日常生活の用に供されるものであること。
二 その製造過程の主要部分が手工業的であること。
三 伝統的な技術又は技法により製造されるものであること。
四 伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるものであ
ること。
五 一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事してい
るものであること。*3
ここに掲げたものは国が助成を行うための要件である。われわれが通常認識している伝統工芸品
のうちにはこれに当てはまらないものも出てくる。たとえば「主として日常生活で使用する工芸品」
には、美術品として扱われているものは該当しなくなる。しかし文化庁などが主催する「日本工芸
*4
展」では「歴史上、若しくは芸術上特に価値の高い工芸技術を、国として保護育成する」
として、
芸術性に重点を置いており、その作品は到底「日常生活」では使用されないであろう。また伝統的
とは「100年以上の歴史を有し、今日まで継続している伝統的な技術・技法」*5により製造されるも
のとしているが、ここにいう100年という時間はどうであろうか。100年前と言えば日本はすでに大
正年間に入っており、その頃作られた技術を「伝統的」と称するにはいささかの抵抗を禁じ得ない。
本稿では厳密な定義が目的ではないのでこれ以上深く立ち入らずに、それを「わが国で長期間に
わたってなされた、主として手作業が中心となって製品を作成すること」と考えて考察を行うこと
にする。
さてこの「伝統工芸」であるが、わが国においては概ね衰退の傾向にある。消滅寸前となってい
るものすらある。一般財団法人伝統的工芸品産業振興協会のホームページ「青山スクエア」*6によ
れば、平成18年度の数値は戦後の最盛期に比較して、従事者数では昭和54年の28万 8 千人から 9 万
3 千 4 百人へ、企業数においては昭和54年の 3 万 4 千企業から 1 万 6 千 7 百企業、生産額において
72
Succession and Development of Traditional Handicrafts : Its Future
は、昭和58年の5,400億円から773億円へ、30歳未満の従事者の比率は昭和49年の28.6%から6.1%へと、
激減している。
この激減の理由は上述のホームページによれば、大量生産・大量消費の経済構造の確立、農村の
衰退による原材料確保の困難、生産環境の変化、雇用環境の変化、生活様式の変化、国民の生活用
品に対する意識の変化、戦後の家族制度の変化によるもの、とされている。すなわち消費生活の変
化によって伝統工芸品の需要が落ち込んだこと、生産環境が変化し原材料の入手や生産自体が困難
になったこと、そして後継者不足の問題である。
このように消滅傾向にすらある伝統工芸を後世に伝承してゆくことは、はたして必要であるのか
との問いも当然提起されうるであろう。今日の国民生活に必要不可欠ではないものを、国費を投入
してまで継承保存しなければならないのであろうか。前述の振興法では、「国民の生活に豊かさと
潤いを与えるとともに地域経済の発展に寄与し、国民経済の健全な発展に資する」*7としているが、
その問いに十分こたえたものとはいいがたい。
しかし筆者は、伝統工芸が育んできた高度の技術こそ保存し継承・発展させるに値するものと考
える。それは極言すれば、世界最高の技術である。その技術の高度性ゆえにそれによる製品が美術
品としての資質をも持つのである。また伝統工芸によって過去培われてきた技術そのものに対する
姿勢が今日の高度な工業水準を生み出したものであるといえる。ゆえに伝統工芸を継承・発展させ
ることは日本文化としての要素のみならず、産業発展の意味からも重要となるのである。
そのような観点を持ちながらも、筆者は今日わが国で行われている振興方針に賛意を表するもの
ではない。いかに高度な工芸品振興政策であろうが、国家の保護に依存することは、却って衰退を
助長するものであると考える。いわば「動物園」での生物保護のようなやり方は種の生存能力を奪
うもので、自然的生存を害するものである。伝統工芸が、他者による庇護なくして発展しうる方途
を考えなければならない。
しからばどのような方法が考えられるであろうか。今後の検討のために、いくつかを例示して参
考としてみたい。
伝統工芸が衰退傾向にある原因の最大のものは、それらの制作物の多くが今日的ニーズに適合し
なくなっていることである。安価で実用的な工業製品との競合に敗れて販路を失った。そこでそれ
の唯一の解決策は、市場性ある製品の供給である。具体的には「売れる製品」、そして十分な利益
が期待される製品を市場に出すことである。それには大きく分けてふたつの行き方がある。ひとつ
は高度な美術品としての製品作りである。そして他は消費財の製造であるが、これにもふたつの行
き方、すなわち安価な消費財を大量に供給することと、ある程度数量の限られた高級消費財の製作
である。
以下それぞれについて検討してみよう。
2.美術品としての伝統工芸品
この分野の活動として毎年開催される「日本伝統工芸展」がある。重要無形文化財保持者を中心
に伝統工芸作家、技術者等が組織する団体である公益社団法人日本工芸会が伝統工芸技術の発展と
向上のために昭和29年から年一回毎年開催し「芸術上特に価値の高い」作品の作製を奨励している。
本年(平成26年)の第61回目には、陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、その他の工芸の 7 部
Asia Japan Journal 10 (2015)
73
柴田德文
門に1587名の参加者によって1758点の作品が出品され、そのうち599作品が入選している。これら
の作品はいわゆる一点物の美術品であり、その技術は非常に高くまた芸術性も最高であって、販売
されれば相当の対価をえられると期待されるものである。
ただそれらの入選作、そして入選しなかった作品はどれほど市場から求められているのであろう
か。それらのうちの限られた数点の作品には買い手がつき高値で販売されるのであろうが、産業全
体の収入額としては微々たるものではないだろうか。1758点の作品全部が価格の差こそあれすべて
買い手がついて生産者に相応の収入をもたらしたとは考え難いのである。
このように技術的にも、あるいは「芸術的」にも秀でている作品がなぜ相応の収入を生まないの
であろうか。筆者の管見によれば、それはこの工芸展への応募作品のほとんどが日本人の買い手を
想定して作られているからである。さらに言うなら従来日本の市場で求められてきた作風を墨守し
て作成されているようにさえ思われるのである。しかし今日の日本で、そのような高額な工芸品を
購入することのできる富裕層はどれほど多いのか。供給をすべて吸収できるほどは存在していない
と思われる。つまり狭隘な市場のみを対象として作品作りが行われていることが、十分な収入をも
たらさない理由である。
そこで、市場の狭隘性が理由なら広い市場を求めることが解決策となる。すなわち市場を日本に
限定せずに、海外に広げることである。海外には大きな富裕層がある。これを狙って製品を供給す
ることである。ただその場合、製作の発想を「作りたいものを作る」から「求められるものを作る」
方向へ変換することが必要である。固定概念に囚われず市場に適合する作品を供給しなければなら
ない。このことは美術品としての工芸品だけではなく次に論じる「高級消費財」としての工芸品に
ついても同じことが言える。
ここでその一例として現代漆芸家の試みを紹介したい。石川県輪島市で活動している北村辰夫氏
(雲龍庵)の作品である。輪島の漆器は輪島塗として知られており、什器、家具、室内調度品など
が製造されてきた。しかし他の伝統工芸同様これも衰退の一途をたどっている。輪島漆器商工業協
同組合の統計によれば、生産額においては戦後最盛期の平成 3 年度の180億円から平成25年度の40
億円にまで減少している。それに伴って事業所数は約 4 割減、従事者数は約半数となっていて、減
少傾向には歯止めがかかっていない。
当然この傾向は当事者に共有され改善の努力がなされている。「日本伝統工芸展」への積極的な
参加もその表れであると思われ、技術性・芸術性に秀でた作品が毎年出品されている。しかしそれ
らの作風には海外の買い手を意識している気配は見られない。次の作品は今年度(平成26年)の入
選作でそれぞれ重要文化財保持者のものと日本工芸会奨励賞受賞作品である。
74
Succession and Development of Traditional Handicrafts : Its Future
(第61回日本伝統工芸展図録から)
これらは、入選作のうちでも最も重要なものであると思われるが、海外の需要を意識したものと
は言い難い。
北村辰夫氏は、香箱、香合、硯箱、根付、印籠のような伝統的な作品も製作しているが、また海
外の需要に応えた作品も制作している。そしてその作品はイギリスのヴィクトリア&アルバート・
ミュージアムやオーストラリアのハミルトン美術館に収蔵されている。
氏の海外コレクターを意識して作られた作品のいくつかを挙げてみよう。
「十字架 更紗蒔絵」
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柴田德文
「聖杯」
「聖卵 秋晩蒔絵」
(作品画像はいずれも北村辰夫氏提供)
76
Succession and Development of Traditional Handicrafts : Its Future
これらの作品は一見しての理解に困ることはなく、明らかに日本人以外の愛好家も満足させるも
のであり、海外のコレクターから高い評価をえている。このような方向は今後の伝統工芸の発展方
向を示すものであり、伝統工芸界に広く共有されなければならない考え方であろう。
大衆消費財としての伝統工芸品
従来伝統工芸品はある種の大衆消費財であった。上述の輪島における漆器にしても什器その他の
家庭用品が主であり、現在に至るも汁椀や箸、酒器など同様の製品が世に送り出されている。しか
し前述したように、これら大衆消費財が市場を失ってきたことが、伝統工芸が衰退する主因であり、
その現象の原因もすでに述べたとおりである。
このことの打開策は、これに対する市場を創設もしくは開拓することである。
しかしすでに市場性を失っている製品に再び市場を与えることは不可能であると考えられるが、
インドネシアにおける染色生地バティックの例はこれに該当するのではないだろうか。
東南アジアにおけるろうけつ染め(蝋纈染)はバティックとして知られるが、特にインドネシア、
マレーシアのものは有名であり、インドネシア・ジャワ島伝統のものは「ジャワ更紗」として日本
でもよく知られている。これは従来ジャワ島住民のものであったが、オランダからの独立以後、多
民族の集合体であったインドネシアを統合する文化的紐帯としてスカルノに採用された。スカルノ
は若手デザイナーに、従来の地域性に捉われないバティックを作成させ、また学校教育の場におけ
*8
る着用や公務員の着用を奨励して、インドネシアの「国民服」としていった。
このことも相まっ
てバティックは、一地方の伝統工芸から脱却し、2009年10月 2 日にはユネスコの世界無形文化遺産
に認定されるまでになった。現在では旧来的な意匠に囚われない斬新な作品も多く作り出されるよ
うになっているのである。
Mayasari Sekariaranti氏デザインの現代的バティック
Mayasari Sekariaranti氏提供
Asia Japan Journal 10 (2015)
77
柴田德文
これは、政府が率先して大きな市場を創設した一例となろう。しかしこのような方法が日本の伝
統工芸に適用できるとは考え難い。これとは逆に、行政などの力を借りない方法を模索することが
重要である。
しからば従来存在していなかった市場を開拓するにはどのようにすべきだろうか。それにはまず
伝統工芸に用いられる素材・原料・技法の卓越性を見出すことが必須である。代替品に対してそれ
が絶対的優位に立っている資質を見出し、それの活用を模索することである。その一例として和紙
を見てみたい。
現在和紙には一定の需要があり、多くの伝統工芸よりも消滅の危機にさらされていないように思
われる。和紙には主として書や絵画などの芸術作品での需要がある程度存在する。用途別の生産統
計が見当たらないため正確なことは述べられないが、今日の和紙業界を支えているのはこの需要で
あると思われる。しかしこの市場は決して大きいものではなく、また将来拡大傾向にあるものでも
ない。現状維持が精々で、むしろ縮小傾向にあるのではないだろうか。しかし和紙が持つ素材とし
ての優秀性は、絶滅させるにはあまりにも惜しいものである。当然和紙産業の当事者はこれを認識
しており様々な試みをしている。結論的に述べれば、筆者はその試みの中でも、建築資材としての
和紙の用途、すなわち壁紙や内装材、壁面装飾など、に将来の発展を見出せないかと考えている。
和紙の壁面材は吸湿性や吸音性に富んでおり、従来の石油由来の内装材に比して健康面でも有望な
素材である。羽田空港第二ターミナルのオブジェ、衆議院議長公邸の内装などにその一例が見られ
る。この面での需要が掘り起こされれば量的な拡大も望め、産業界全体の経済的発展が可能となる
であろう。なお和紙の持つ特性を生かした例として、日本高度紙株式会社の電解コンデンサがある。
電解コンデンサのセパレーターとして和紙が用いられているのである。
高級消費財としての伝統工芸
もうひとつ有望なものとして高級消費財の製造がある。それは美術品のような一点ものではない
が高品質で、またある程度の数量を生産するが工業製品のような大量生産ではなく、そして製作の
過程のどこかである程度卓越した手作業を必要とし、それゆえに国外の同様の製品製作者が模倣す
ることが出来ないものである。既述のように伝統工芸が持つ技術は非常に高度であり、他国のそれ
の追従を許さないものである。したがってそれの特性を生かしながら、しかもある程度の規模の生
産が行え、それによってその製品を作るための生産ピラミッドを構成する関係者全体に経済的恩恵
を与えられるものである。
これによる製品は、類似品に比して相当高額となるものである。たとえば通常価格の50から100
倍程度で販売しうるような製品である。 そのような製品を求める市場は当然ながら国内ではなく海外を念頭に置くべきである。つまり美
術品市場と同様に海外の購買者をターゲットに製品作りをしなければならない。
これの一例として挙げうるものにスイスの機械式高級時計がある。時間を知るための道具として
はごく安価に入手できるものがその50倍100倍の価格で販売され、そしてそれに対する需要が存在
していることは周知のとおりである。
それではわが国の伝統工芸製品のうちで何がそのような発展をできるのか。以下その試みの例を
見てみよう。
78
Succession and Development of Traditional Handicrafts : Its Future
ジャパン・ハンドメイドの試み
ジャパン・ハンドメイドとは京都の伝統工芸にたずさわっている生産者による異業種のコラボレ
ーションである。これに参加しているのは、西陣織の細尾、茶筒製作の開化堂、桶などの木工の中
川、竹細工の公長齋小菅、金網つじ、磁器の朝日焼である。これは国際市場向けの新しいデザイン
で伝統的手法を適用する京都の工芸職人の新しい共同作業である。*9
この活動は、それぞれの製造者が伝統的に培ってきた技術を用いながらも、従来にとらわれない
まったく新しい意匠の製品を製造することである。その際その製品が海外市場に求められるもので
あるかを、市場側に立ったコーディネータに判定させているのである。具体的にはデンマーク人の
コーディネートによっているのである。
これにより、例えば西陣織では17世紀からの長い伝統を持つ「細尾」は、従来皇室、貴族、寺院
などよりの注文に応じて一点物の織物を製造し、高額で販売してきた。しかしその後それらの製造
に加えて、帯・着物などの問屋業も行ってきた。
しかし今日それらの和装関連商品は衰退の一途をたどっている。そこで細尾では海外の需要に応
え、独自の織機を開発して建築内装用の織物や室内装飾材、そして洋服用の生地などを製作し販売
している。これらは海外市場から高く評価され製造が注文に追い付かない状況にある。
また、開化堂の製品はフォションなどヨーロッパの紅茶やコーヒーメーカーの正式の容器に指定
されている。中川の製品は、ドンペリのオフィシャルなワインクーラーとして認定されている。公
長齋小菅、金網つじ、朝日焼きもそれぞれ伝統技術を生かしながら海外市場の嗜好にあわせた製品
を送り出し、好調な売れ行きを誇っている。
いずれも伝統技術に基づいていて他国が模倣できない製品を、高額で販売しているのである。
金網つじのバスケットと開化堂のパスタケース
(著者撮影)
Asia Japan Journal 10 (2015)
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柴田德文
結論
伝統工芸には上記のように存続・発展の方途が十分存在する。すなわち収入が見込める産業に転
換することである。ただそこで留意すべきことは、伝統工芸は幾層にも重なった産業の集積の上に
立っているということである。原材料の栽培・採取、それの加工・成形など、製品の完成まで幾多
の人手を経て成り立っている。収入が見込めるとは、この各段階に携わっている人々に、生産に見
合う収益をもたらすことである。生産の一段階が途絶すれば産業全体が消滅してしまうことになる
のである。そこで産業全体に携わる人々を支えることのできる規模の収入をはかることが必須であ
る。そのためには、検討してきたように高級消費財の生産が最も適していると考えられる。美術工
芸品の生産もそれを前提に、技術の向上を目的として行われるべきであろう。
このことはここで今更指摘するまでもなく、関係者の全てが認識しているところであろう。問題
はそれが現実に移されないところにある。それにはいくつかの理由が存在するだろう。当事者に新
しい世界へ踏み込む勇気が欠如していること。勇気があっても、それを実現に移す現実的な方策が
得られないこと。海外のニーズや嗜好をどのようにして見出すか、その方法が分からないこと。販
路をどのように開拓するのか分からないこと、など。
しかしそれらは努力によって解決可能である。また換言すれば、努力のない産業にはいかなるも
のでも未来はないのである。細尾の社長、細尾真生氏は講演会の中で「伝統とは革新の連続」*10と
述べて、努力の不可欠性を指摘した。まさに至言である。
* 1 ジョセフ・ナイ著、山岡洋一他訳『スマート・パワー』日経新聞社、2011 年 117 頁
* 2 通産省の用語には「伝統的工芸」と「的」の文字が入っているが、本稿ではこの規定にとらわれずに「伝統工芸」
として取り扱う。
* 3 伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和四十九年五月二十五日法律第五十七号)
* 4 日本伝統工芸展運営委員会 『第 61 回 日本伝統工芸展図録』「趣旨」
* 5 一般財団法人伝統的工芸品産業振興協会のホームページ「青山スクエア」http://kougeihin.jp/home.shtml
* 6 同上
* 7 伝統的工芸品産業の振興に関する法律
* 8 戸津正勝 「インドネシアにおける民族文化と国民統合― BATIK の変容過程を中心として」『国士舘大学教養論
集 第 28 号』国士舘大学教養学会、平成 1 年、60 -78 頁
* 9 「Japan Handmade」の“ Introduction”から
* 10 平成 26 年 10 月 25 日国士舘大学アジア・日本研究センター・AJ フォーラム『伝統産業の継承と革新』
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アジア・日本研究センター活動概要一覧(2014年3月〜2015年2月)
< AJフォーラム23 >
「伝統産業の継承と革新」
日時:10 月 25 日(土)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A306 教室
講師:細尾 真生(特定非営利活動法人てこらぼ 副理事長、京都経済同友会 副代表幹事、株式会社細尾 代表取締役)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
< AJ研究会>
「地域行政課題としての外国籍等児童生徒教育― 参加型アプローチによる研修の試行― 」
日時:3 月 7 日(金)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A308 教室
講師:小池 亜子(政経学部)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
「構造転換の世界経済と東アジア共同体への課題」
日時:11 月 15 日(土)
場所:世田谷キャンパス中央図書館 4 階 AV ホール
講師:平川 均(21 世紀アジア学部)
コーディネーター:土佐 昌樹(21 世紀アジア学部)
< AJワークショップ>
「多文化なまちづくりのための実践 ― いちょう団地の場合― 」
日時:12 月 4 日(木)
場所:町田キャンパス 30 号館 301 教室
講師:早川 秀樹(多文化まちづくり工房 代表)、グェン・ファン・ティ・ホアン・ハー(多文化まちづくり工房 副代表)
コーディネーター:河先 俊子(21 世紀アジア学部)
<国際シンポジウム>
「日本語教育から見た国際関係」
日時:8 月 2 日(土)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 B304 教室
講師:若菜 結子(横浜国際教育学院)、河合 梓美(内蒙古師範大学)
氏原 名美(ビシケク人文大学)、安達 祥子(トルコ国立ボアジチ大学)、アントン・アンドレエフ(ソフィア大学)
嶋津 拓(埼玉大学)、金 孝卿(大阪大学)
コーディネーター:河先 俊子(21 世紀アジア学部)
Asia Japan Journal 10 (2015)
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アジア・日本研究センター活動概要一覧(2014年3月〜2015年2月)
<国際シンポジウム>
Strengthening the Value and Development Culinary Arts, Body Treatments and
Traditional Herbs of the Royal Palace in the Industrial Age of Transnational Culture
日時:2 月 19 日(木)〜 21 日(土)
場所:セブラスマル大学、マンクネガラン王宮、カスナナン王宮
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
<研究会合>
「インドネシアと日本:服飾伝統を中心として」
日時:3 月 5 日(水)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 B 棟 3 階会議室 B
講師:Insana Habibie(Fine Art Limaran Batik、インドネシア)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
「ジャワ王宮(伝統)文化に関する研究会
― マンクネガラン王宮・カスナナン王宮を中心として―」
日時:3 月 14 日(金)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A308 教室
講師:Sahid Teguh Widodo, ph.D.(セブラスマル大学)、KPH.S.Basarah Soerjosoejarso(マンクネガラン王宮)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
「日中友好の糸口を考える―吉野作造の事跡から―」
日時:4 月 11 日(金)
場所:町田キャンパス 30 号館 303 教室
講師:大川 真(吉野作造記念館 館長)
討論者:尾崎 順一郎(東北大学大学院)
コーディネーター:竹村 英二(21 世紀アジア学部)
「今、時代はホスピタリティ産業へ」
日時:6 月 3 日(火)
場所:町田キャンパス 30 号館 303 教室
講師:力石 寛夫(トーマス アンド チカライシ株式会社 代表取締役)
コーディネーター:大森 節夫(21 世紀アジア学部)
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アジア・日本研究センター活動概要一覧(2014年3月〜2015年2月)
<研究会合>
「ジャワ王宮文化研究会」
日時:6 月 3 日(火)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A 棟 2 階会議室 A
講師:柴田 德文(政経学部)、戸津 正勝(アジア・日本研究センター客員研究員)
ミヤ・ドゥイ・ロスティカ(アジア・日本研究センター客員研究員(PD)、政経学部非常勤講師)
M・ジャクファル・イドルス(国士舘大学大学院政治学研究科博士課程)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
「研究ノート:明治初期発券銀行の論点」
日時:6 月 19 日(木)
場所:町田キャンパス 30 号館 301 教室
講師:高橋 伸子(21 世紀アジア学部)
コーディネーター:原田 信男(21 世紀アジア学部)
「釋奠研究の現状と問題点」
「時習館の釋奠をめぐる諸問題」
日時:7 月 2 日(水)
場所:町田キャンパス 30 号館 201 教室
講師:James McMullen(オックスフォード大学)、李 月珊(東北大学大学院)
コーディネーター:竹村 英二(21 世紀アジア学部)
「ジャワ王宮文化研究会」
日時:7 月 12 日(土)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 B 棟 3 階会議室 B
講師:柴田 德文(政経学部)、戸津 正勝(アジア・日本研究センター客員研究員)
ミヤ・ドゥイ・ロスティカ(アジア・日本研究センター客員研究員(PD)、政経学部非常勤講師)
M・ジャクファル・イドルス(国士舘大学大学院政治学研究科博士課程)
谷 美和子(ジャワ王宮舞踊研究家)、山村 真美(ジャワ王宮舞踊研究家)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
「ゼッカ以前、ゼッカ以後―アマンのリゾート革命とは何だったのか ―」
日時:7 月 24 日(木)
場所:町田キャンパス 30 号館 201 教室
講師:山口 由美(旅行作家、『アマン伝説 創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命』著者)
コーディネーター:梶原 景昭(21 世紀アジア学部)
「今日から使えるホスピタリティ」
日時:10 月 21 日(火)
場所:町田キャンパス 30 号館 303 教室
講師:安東 徳子(サービスビジネスコンサルタント、マレッジライフプランナー)
コーディネーター:大森 節夫(21 世紀アジア学部)
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アジア・日本研究センター活動概要一覧(2014年3月〜2015年2月)
<研究会合>
「郭沫若と日本」
日時:10 月 31 日(金)
場所:町田キャンパス 13 号館 404 教室
講師:藤田 梨那(文学部)
コメンテーター:大川 真(吉野作造記念館 館長) コーディネーター:竹村 英二(21 世紀アジア学部)
「日本の近代化と周縁」
日時:12 月 19 日(金)
場所:世田谷キャンパス中央図書館 4 階 AV ホール
講師:西川 武臣(横浜開港資料館 副館長)、中村 英重(札幌市史調査員)、朝倉 敏夫(国立民族学博物館 教授)
コーディネーター:原田 信男(21 世紀アジア学部)
「ジャワ王宮文化研究会」
日時:1 月 17 日(土)
場所:世田谷キャンパスメイプルセンチュリーホール 5 階第 1 会議室
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
On Hospitality
日時:1 月 30 日(金)
場所:町田キャンパス図書館 4 階グループスタディ室
講師:Urša Teslić Čož(Infuzija d.o.o. 代表取締役)
コーディネーター:田中 恭一(アジア・日本研究センター客員研究員)
「日本の近代化と情報ネットワーク」
日時:2 月 17 日(火)
場所:町田キャンパス 30 号館 201 教室
講師:岩下 哲典(明海大学 教授)
コメンテーター:西川 武臣(横浜開港資料館 副館長)
コーディネーター:原田 信男(21 世紀アジア学部)
<講演会>
「インドネシアと日本の伝統文化の現状と課題」
日時:3 月 3 日(月)
場所:京都東山いきいき市民センター
講師:Insana Habibie(Fine Art Limaran Batik、インドネシア)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
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アジア・日本研究センター活動概要一覧(2014年3月〜2015年2月)
<地域交流>
着物と香道の会
「きく よそおう」
日時:6 月 21 日(土)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A308 教室
講師:一般社団法人キモノプロジェクト(着物)、東京香りと文化の会(香道)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
世田谷市民大学
「生まれるアジア、老いるアジア」
連続講義 9 月 8 日〜 12 月 22 日(12 回)
梶原 景昭、土佐 昌樹、青柳 寛、藤田 梨那、松岡 環、関谷 元子
鶴川祭
「インドネシア教室」
日時:10 月 18 日(土)、19 日(日)
場所:町田キャンパス 12 号館 1 階学生休憩室
講師:ミヤ・ドゥイ・ロスティカ(アジア・日本研究センター客員研究員(PD)、政経学部非常勤講師)
楓門祭
「香道体験」
日時:11 月 3 日(月・祝)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A305 教室
講師:安井 愛(蓮翹舎師範)
コーディネーター:柴田 德文(政経学部)
< AJ 総会>
日時:5 月 24 日(土)
場所:町田キャンパス 30 号館 2 階華道実習室
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AJ フォーラム 23
伝統産業の継承と革新
日時:2014 年 10 月 25 日(土)
場所:世田谷キャンパス 34 号館 A306 教室
講師:細尾 真生(特定非営利活動法人てこらぼ 副理事長、
京都経済同友会 副代表幹事、株式会社細尾 代表取締役)
コーディネーター:柴田徳文(政経学部、アジア・日本研究センター センター長)
当日は、AJセンターの研究員を中心に、21名が出席してフォーラムが開催された。冒頭、柴田セ
ンター長から、京都・西陣織の製造・卸売を世界的に展開する「株式会社細尾」と同社代表取締役
社長で講師の細尾真生氏の紹介があった。
引き続き、講師の細尾氏から、伝統産業の技術や価値の継承にかかる課題と展望などについて、
以下のとおり、同社における事業展開をもとにしたお話しをいただいた。
1.西陣織と「細尾」の創業
京都の先染め織物「西陣織」にいう「西陣」は、応仁の乱時に西軍(山名宗全側)が本陣を置い
たことにちなむ京都の地名である。西陣織の技術は、渡来人の秦氏に由来し、1200年前より京都の
皇族・貴族や富裕層の支持を受けてきた。
「細尾」は1688年(元禄年間)、京都西陣において織屋として創業。1922年(大正12年)、問屋業
(卸売)に業態転換をした(1995年に製作部門を復活)。
2.講師・細尾真生氏の略歴
細尾氏は、大学卒業後、大手商社に入社。入社4年目にイタリア・ミラノのアパレル会社で勤務。
細尾氏が見るイタリア人気質は、第一に「人の真似を嫌う」ことである。イタリアにおいて、オリ
ジナリティとアイデンティティが問われる環境に身を置いてきた細尾氏は、家業の西陣織を外部の
目で見直すことができ、西陣織の美しさと技術の高さを再評価することができた。
1982年、4年間のミラノ勤務の後、細尾氏は京都に戻って家業を継ぐ道を選んだ。イタリア滞在時
に得た経験と人脈を活かし、のちに、西陣織の新たな可能性を探ることになる。
3.「細尾」における技術の継承と文化の発信
細尾氏が京都に戻った当時、呉服市場は 2 兆円の規模であった。「ガチャ万」という業界用語があ
Asia Japan Journal 10 (2015)
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るほどの好景気だった。
西陣織には26の製作工程があり、工程ごとの分業体制のなかで職人の技がそれぞれ受け継がれて
きた。しかし、その後、生活様式の変化などで国内呉服市場の規模はピーク時の2兆円から2000億円
台に縮小。工程ごとの分業体制では、職人の後継者育成が困難な時代に突入した。
1995年、技術の継承に危機感を覚えた細尾氏は、分業体制の技術を社内に取り込んで内製化し、
製造部門の機能を復活させた。職人の雇用と技術の継承に努め、業態を製造・卸売業に再転換した
のである。
2000年に社長を継ぐが、その2年後には創業以来初の赤字に陥る。そのような状況下、細尾氏は経
営を根本から考え直し、
「文化を売る」という経営理念を定め、2004年から海外へ西陣織文化を発信
し始めた。
2005年には、「京都プレミアム」(京都の伝統産業のブランド価値向上と市場開拓を目的としたプ
ロジェクト)に参加。
2006年からは、パリのライフスタイル国際見本市「メゾン・エ・オフジェ」に出展を始めた。し
かし、出展から3年間は商談が成立しなかった。
それでも、国際見本市開催期間中は、製造部長の金谷氏を中心に、出展している他のメーカーの
展示品を調査し、どの企業も手がけていない西陣織オリジナルの技術の可能性を確信することにな
る。その技術とは、一つは、箔(金箔や銀箔)を塗った和紙を裁断して糸と織り込む技術、もうひ
とつは非常に強い撚りをかけた糸(撚糸)にのり付けして織る技術(後で蒸気を当てると糸が縮ん
で凸凹の模様ができる)である。
この3年間の国際見本市においても、ただ同じものを出展していたわけではなく、どうすれば西陣
織という文化をヨーロッパ市場でビジネス展開できるのか、顧客の反応を探りながら作品の改善と
技術の研究を続けたのであった。
4.技術を基盤にした新たな挑戦
生産・売上げが回復しない中で、周囲からは「価格設定が間違っている」「これまでのやり方では
価格競争に勝てない」と非難される状況が続き、細尾氏にとって「一番苦しかった時期」を迎える。
細尾氏は「モノづくり」の基本思想に立ち戻って考え抜いたすえ、高い技術をもつ西陣織にはそも
そも価格競争という発想は存在しないことに気づく。そして、
「織物のフェラーリでいこう!」と決
心した。つまり、オリジナルの技術をもとにブランドの価値を高める事業戦略を定めたのであった。
転機が訪れたのは、メゾン・エ・オフジェに出展4年目の2009年。ルイ・ヴィトン、シャネルなど
のブランドのブティックを手がけるインテリアデザイナー、ピーター・マリノ氏からオーダーがあ
った。「クリスチャン・ディオールの店舗の壁紙に西陣織を使いたい」という製品開発のオファーで
あった。
マリノ氏から送られてきたデザインは、鉛を溶かしたような凸凹が無数にあるメタリックかつ立
体的なデザインであり、しかも、壁紙にするためには150センチ幅の生地を織らなければならなかっ
た。西陣織の帯は32センチ、広い丸帯でも70センチの幅しかなく、従来の西陣織からは想像もつか
ないデザインであったが、これで金谷部長の職人魂に火がついた。箔や撚糸を使ったオリジナルの
技術をもとに、新たな技術開発を進めるあいだ、金谷氏はむしろ楽しさを感じるようになり、その
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伝統産業の継承と革新
間、後継者も育ち始めた。技術の粋を集め、 2 年後、150センチ幅の西陣織の織機を開発することに
成功した。
完成した生地はマリノ氏から絶賛され、その後、シャネル、ルイ・ヴィトンなど、世界中からオ
ーダーがくるようになった。
国外の市場にも目を向けて、西陣織をグローバルに通用するテキスタイルとして発想し直したこ
とで、同社の織屋としてのオリジナリティも高まった。細尾氏は、同社のオリジナリティとして次
の3つをあげる。①技術の完全差別化、②小回りが効く。つまり、小ロットに対応でき、顧客の要求
以上のことができる、③デザインからサンプル織物の提示までの期間が世界一速い。従来1か月かか
った期間を1週間に短縮でき、コストも低減した。
5.物質を超えた価値づくり
近年、同社では、一流ブランド店舗やラグジュアリーホテルの内装用の注文が増えている。その
事業展開には“more than textile”
(織物以上)という考えが根底にある。織物という「物質」を超
えた「価値」を創造することである。細尾氏は4つの価値をあげる。①着物をベースにした価値、②
インテリア分野における価値づくり、③ファッション分野における価値づくり、④アート分野にお
ける価値づくり、である。ファッションやアートの領域では、ファッションデザイナー三原康裕氏
とのコラボレーションにより、2012年のパリコレで発表するなど、新たな展開に挑んでいる。この
ように、製造部門が様々な価値を作り出す可能性を秘めた「潜在市場」となっている。
6.伝統産業のポテンシャルとこれからの伝統産業人の使命
「伝統産業・工芸は、実は、最先端の技術を保有している」と細尾氏は考える。すなわち、自分た
ちの足元にある有形無形の資産を見つめ直し、掘り下げて活かしていくことが重要なのであり、そ
して、事業の継承・発展を社会の発展や幸福につなげていくシステム、つまり「食えるやり方」を
構築していくことがこれからの伝統産業人の使命である、と細尾氏は力説する。西陣織は技術の継
承ができなければ存続できない。前述のように、同社では、すべての工程の技術を内製化し、技術
の継承と雇用の維持・創出に成功してきたのである。
7.文化の組み合わせ
これまで京都の伝統産業は先祖の遺産で食べてきたが、「今後は100年食べていける文化・価値の
創造が必要である」と細尾氏は考える。京都の文化とヨーロッパ文化がぶつかり合った時、今まで
京都になかった新しい文化・価値が生まれる。同社においても、「文化の組み合わせ」が新しい作
品・技術の開発や新たな市場の開拓につながった。
しかし、同社のような挑戦を試みる同業者は少ない。多くの西陣織産業人は、伝統産業の内なる
閉鎖的ネットワークの中で活動している。細尾氏は、これを打ち破る方法もまた「文化の組合せ」
であると説く。細尾氏も当初は「京都」や「日本」のイメージを打ち出すことを考えていたが、欧
米人が良いものを評価する言葉“It’
s cool!”には、日本風な柄よりも、技術の高さを評価する指向が
ある。良い物は文化を超えて一つの舞台で融合できるのであり、
「文化の組合せ」を異業種間や海外
との間で図ることにより、京都の伝統産業には大きな展望が開けるのではないか、と細尾氏は考え
Asia Japan Journal 10 (2015)
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る。
このような展望に向けて、細尾氏は、30歳代、40歳代の若い人たちに期待をかけている。これま
で西陣織の工程は分業であったが、若い職人には一つのプロジェクトの全工程を任せることで、デ
ザインが製品になることの喜びを感じてもらい、高いモチベーションをもてるように工夫をしてい
る。工房では、金井部長をはじめとする経験豊かなベテラン職人に志の高い若手職人も加わって、
日々フル稼働で数台の織機を動かしている。
8.技術・ブランドと信頼ベースのネットワーク
西陣織は、元来「織物のフェラーリ」だった。つまり、技術やブランドを大事にしてきた。細尾
氏は、業績の改善を図るなかで、そのことを再認識したのであった。
各種工業製品が大量生産と大量販売で競争をする時代は、長い歴史の中のほんの短い期間にすぎ
ない。ことに京都の各種産業に目を向ければ、伝統産業ではない業種(例えば、電子機器、セラミ
ック等)においても、技術やブランドが高く評価をされてきた歴史がある。
京都の伝統産業、西陣織の「細尾」は、細尾氏による改革以降、高い技術に裏打ちされた新たな
価値を生み出してきた。後継者の細尾真孝氏も、西陣織による革新的なファブリックの開発に積極
的に取り組み、伝統産業の革新に挑戦し続けている。
最後に、細尾氏は、技術やブランドへの信頼に根ざしたネットワークを内外に構築していくこと
の重要性をあらためて説かれた。
講演後、数多くの質問が寄せられ、質疑応答のあと、柴田センター長からの閉会の挨拶、ならび
に細尾氏からの同社の現場訪問を歓迎する旨の挨拶があった。
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国際シンポジウム
日本語教育から見た国際関係
日時:2014年8月2日(土)
場所:世田谷キャンパス34号館B304教室
コーディネーター:河先 俊子(21世紀アジア学部)
プログラム:
開会挨拶 三浦 信行(国士舘大学学長)
センター長挨拶 柴田 德文(政経学部、アジア・日本研究センター センター長)
報告1「インドネシア人に対する教員養成の試み」
若菜 結子(横浜国際教育学院)
報告2「中国・内モンゴルにおける日本語教育の展開」
河合 梓美(内蒙古師範大学)
報告3「頭脳流出―日本語教師のジレンマ―」
氏原 名美(ビシケク人文大学) 報告4「トルコにおける日本語教育の諸相」
安達 祥子(トルコ国立ボアジチ大学)
報告5「ブルガリアにおける日本語教育―ソフィア大学日本学専攻の例に着目して―」
アントン・アンドレエフ(ソフィア大学)
報告6「日本語教育から見た国際関係の理解―オーストラリアの場合―」
嶋津 拓(埼玉大学)
全体討論 金 孝卿(大阪大学)
司会進行 河先 俊子(21世紀アジア学部)
三浦 信行
本日は国士舘大学アジア・日本研究センター主催のシンポジウムが開催されますことを光栄に存
じます。
本日のシンポジウムでは、各国でどのような日本語教育がされているか、また、日本語教育が国
Asia Japan Journal 10 (2015)
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際関係にどのような影響を与えているかについて考えていただきたいと思います。そして、日本語
教育から国際関係を逆照射することにより、国際関係の新た側面に光を当てることができればいい
と考えております。
柴田 德文
本日は暑い中お集まりいただきまして、お礼を申し上げます。
20世紀は戦争の世紀であったといわれます。その考え方の主流をなしていたのは、ヨーロッパの
キリスト教的な考え方、白黒二分主義でした。では、21世紀を平和な世紀するために、我々はどの
ような哲学、考え方を持つべきでしょうか。アジア・日本研究センターでは、アジア的な混沌の中
に見出される調和に、そのヒントがあると考えます。日本もアジアの文化を代表する哲学を持って
います。それぞれの哲学は、言葉で運ばれますから、日本の哲学の中に何かヒントを見つけ出して
いくためには、日本語を皆さん方に学んでいただくことが重要だと考えております。
河先 俊子「趣旨説明」
今回のシンポジウムは、日本語教育を、国際関係の中で行われる一つの現象とみなして、国際関
係との相互作用、相互浸透を見ていくことを目的としています。日本語教育は国際関係の影響を受
けるだけではなくて、国際関係をつくりかえる可能性があるというのが、相互作用、相互浸透の意
味です。日本語教育に関わる人々の認識を通して、相互作用の様相を明らかにしていきたいと思い
ます。
政府間、企業間というマクロレベルの国際関係だけではなく、個人の間のミクロレベルの国際関
係も日本語教育に影響を及ぼしています。ただし、日本企業が進出すれば日本語教育が活発になる
とか、日本のアニメが世界中に広がれば日本語学習者が増えるという簡単なことばかりではありま
せん。日本語を教える人、学ぶ人、日本語教育に関わる方針を決定する人たちが、国際関係をどの
ように認識するのかによって、日本語教育の行われ方が変わってきます。つまり、これらの人々が
国際関係をどう認識するのかが重要です。
さらに、国際関係を人々がどのように認識し、その中で日本語教育をどのように位置づけるかは、
将来の国際関係をつくり変える原動力にもなります。例えば、日本国内で日本語を教えている人の
中にも、ただ日本語を教えているだけではなくて、日本人と日本に住んでいる外国人との関係を改
善しようとしている人々がいます。つまり、日本人側は強者、外国人側は弱者という不平等な関係
を改善して、対等な関係で日本語教育を行おうとしています。このような人たちの日本語教育を通
した働きかけによって、将来の日本社会は外国人にとってもう少し住みやすい社会に変わっていく
ことを期待します。
報告1:若菜 結子「インドネシア人に対する教員養成の試み」
世界の日本語学習者数で見ますと、インドネシアは世界第 2 位であり、非常に多くの人が日本語
を学んでいると言えます。インドネシアの日本語学習者のほとんどが高校生です。彼らの学習動機
は、第 1 に、アニメ、漫画、コスプレ等のポップカルチャーです。第 2 に、ラーメン、たこ焼き、
弁当等の食文化も学習動機になっています。
92
日本語教育から見た国際関係
高校生の学習者が急増したことで、インドネシアでは多くの日本語教師が必要とされています。
ただし、現状では日本語をしっかり教えられる現地の先生があまり育っていません。ですから、リー
ダーとなる日本語教師の養成や未来の高校教師の養成が求められています。
国際交流基金の派遣事業として、インドネシアにも「日本語上級専門家」「日本語専門家」「日本
語指導助手」等が派遣されています。私も日本語指導助手の立場で中部ジャワのスマラン国立大学
に派遣されていました。
スマラン国立大学では、2005年に日本語教育のプログラムが始まりました。ここで日本語を学習
している学生のほとんどが、高校の日本語教師になることを志望しており、実際に卒業後、高校の
日本語教師になる人が大半です。ですから、日本語の授業だけでなく、日本語教授法、授業計画、
評価法等の日本語教育関連科目の授業が行われています。また、教育実習では、実際に大学生が、
高校で教育実習を 3 カ月間行います。その他に一般科目として、教育学等も学んでいます。
大学生が高校で教育実習をする上で、いくつか問題点があります。まず大学側としては、インド
ネシアの中部ジャワの高校数が非常に多くて、高校のレベルや先生の質を把握することが難しいと
いうことがあります。かつ毎年受け入れ先が変わりますので、教育実習の時期になると大学の先生
方が非常に忙しくて大変だということもあります。次に、実習生側としては、大学で学んだことが
教育実習で実践できないとか、高校の担当教諭が指導してくれない、あるいは間違った指導を受け
ることがあるというクレームがあります。また、学級崩壊をしている高校もありますので、クラス
コントロールに苦労する学生もいるようです。さらに、受け入れ側(高校)の問題としては、時々
ではありますが教育実習生のレベルが低いために授業に支障が出るとか、高校の先生自身の日本語
のレベルあるいは教授レベルの問題により、実習生を指導できない等があります。
このような問題を踏まえ、今後、高校と大学が連携していくのが理想のかたちではないかと思い
ます。実際に、教育実習終了後に、高校の先生と大学の先生が集まって、教育実習の反省会が行わ
れたことがあります。さらに、その反省を踏まえて、実習を受け入れる高校の先生を対象に、大学
と高校が協力してワークショップを開いたことがあります。
このように連携することで、日本語を学ぶ高校生が、よい高校の日本語教師と出会って、「日本
語って楽しいな」と思い、大学に入って日本語教師を目指す。そして、卒業後、高校の先生になり、
その先生の授業を受けた高校生が、大学生になり日本語教育を学ぶという、よいサイクルができれ
ば、今あふれている高校生の学習者が、どんどん社会に出て行くのではないかと考えています。
報告2:河合 梓美「中国・内モンゴルにおける日本語教育の展開」
まず、中国国内における日本語教育の実施状況についてお話しします。中国国内の教育機関数は
1,800、教師数は16,000人、学習者数は100万人を超え、全世界で第 1 位となっています。中国の日本
語教育の歴史を見てみますと、1978年の日中国交正常化により中国国内の多くの大学で日本語教育
が開始されました。1980年代になりますと中等教育、次に高等教育での日本語教育シラバスの整備
が始められました。1990年代には、シラバスに準拠した教材が出版され、日本語は英語に次ぐ第二
の外国語の地位を確立しました。2000年代に入り、職業大学といわれる短期大学における日本語学
部が増加し、また第二外国語として日本語を履修する学生も大変増えました。現在では、日本の留
学生の60%を中国人が占めています。
Asia Japan Journal 10 (2015)
93
次に、私の住む内モンゴル自治区についてお話しします。内モンゴルは、中国の北に位置し、民
族は漢民族の他に、モンゴル族、満州族、回族等が暮らしています。青年海外協力隊からボランティ
アとして、日本語教師が 4 名、作業療法士が 1 名派遣されています。内モンゴル自治区内の在留邦
人は極めて少ないです。在留邦人の多くは教師や日本語教師、留学生です。日系企業は全くと言っ
ていいほどありません。ですから、学習者が日本語を学んでも自治区内で生かすことが大変難しい
ようです。
内モンゴル師範大学での日本語学科設立の経緯ですが、1990年以降、内モンゴル自治区内での日
本語学習者が増加したため、日本語学科が設立されました。日本語学習者が多くなった理由は、 1
つ目に、満州国で日本語教育が行われていたことが挙げられます。満州国崩壊後も内モンゴル東部
では日本語を話せる人が多く、日本語教師になることのできる人材が確保されていたのです。 2 つ
目に、モンゴル語と日本語の類似性が挙げられます。モンゴル語は、日本語と同じく、膠着語であ
り、SOV型の言語です。そのため、モンゴル族の学生の多くが、外国語として日本語を選択します。
3 つ目に、留学費用がアメリカやヨーロッパに比べて安く、ビザが下りやすいため日本語を選ぶ人
もいます。
内モンゴル師範大学の履修科目は、主に日本語精読、日本語視聴、日本語読解です。他に選択科
目として、日本思想史、日本語作文、日本地理、中日訳、蒙日訳等々さまざまな授業が行われてい
ます。私が担当しているのは、日本語視聴と日本語実践のクラスです。日本語視聴は、聴解の練習
を目的とした授業ですが、会話もできるような教材を選んで授業を行っています。日本語実践の授
業では、実際に教室の外に出て、買い物や道案内の練習等もします。
内モンゴル師範大学の学生たちの進路は、進学では、内モンゴル師範大学、内モンゴル大学、北
京第二外国語大学等があります。留学先では、東京外国語大学、東海大学、広島大学等さまざまで
す。就職では、日本語教師、政府機関、中国企業、日系企業等があります。
教育現場で工夫していることは、日本人や日本社会との接触場面が非常に少ないため、年に数回、
北京やモンゴルの大学から講師を招いて授業を行ったり、日本語学部の卒業生で、現在日本の大学
に留学している先輩の帰国に合わせて交流会を行ったりしています。
歴史を振り返ってみますと、日本語を学びたいわけではないけれども日本語を学ばなければいけ
なかった時代がありました。しかし、今は学生たちが日本語に興味を持って日本語を学習してくれ
ています。そのような学生と共に私も勉強させていただいています。
報告3:氏原 名美「頭脳流出―日本語教師のジレンマ―」
2013年10月現在のキルギス共和国の日本語学習者数は約1,000名で、日本語教師はネイティブ 8
名、ノンネイティブ38名で、合計46名です。
キルギスの主な日本語教育機関の 1 つに、キルギス日本センター(キルギス共和国日本人材開発
センター)があります。その他、高等教育機関(大学、大学院)や、初等中等教育機関「シュコー
ラ」があります。また、最近の傾向として、キルギスの 7 つの州の自治体付属の子ども教育センター
等でも日本語を学ぶことができるようになっています。さらに、日本の日本語学校に当たる民間ラ
ンゲージスクールがあります。
最近、
「シュコーラ」の学習者が急激に増えています。つまり中学生や高校生を中心とした年少者
94
日本語教育から見た国際関係
の学習者が増えているということです。一方で、大学生で日本語を勉強する人たちが少なくなって
います。最近のキルギスの教育省の方針は、大学統廃合、定員削減、専門的な部門の閉鎖の傾向に
あります。ですから、大学での日本語教育は、今後、機関の数が減っていくかもしれません。
キルギス共和国のこれまでの日本語教育を振り返ってみますと、第一段階として、1991年にキル
ギスが独立してからの10年間は、日本語ブームの時代でした。その内の最初の 5 年間は、日本企業
を退職された方々などがボランティアで何人もいらして、キルギスの日本語教育の礎を築いてくだ
さいました。そして、1995年に日本センターが開設され、本格的な日本語教育が始まりました。続
いて、1999年にはキルギス共和国日本語教師会が発足し、現在に至るまでキルギス共和国での日本
語教育普及活動の中心的な役割を担っています。
そして、第二段階として、その後の10年間は、教師会が作文コンクールや弁論大会、教育セミナー
等に取り組んだ時代です。また、JOCV(青年海外協力隊)の活躍の時代でもありました。2000年
には、キルギス共和国にJICA事務所が開設され、それと同時にJOCVの派遣が開始されました。2003
年にはキルギスに日本の大使館が、翌2004年には日本にキルギス共和国の大使館が開設されました。
それを反映して、2005年から学生も教師も含めて日本留学による日本での研修の機会を持つように
なりました。
2010年からを第三段階としますと、現在はキルギスにおける日本語教育の転換期になります。先
ほどお話ししましたように、日本語教育の比重は、大学教育から初等中等教育に移ってきています。
つまり、年少者の日本語教育を充実していけば、日本語教育はどんどん発展していく可能性があり
ます。そのためには、教員不足を解消していかなければなりません。教員がいなくなる前に、教員
を養成する必要があります。また、従来は誰がどこで日本語を学んでも、同じような教科書、同じ
ような授業の進め方でした。しかし、年少者に対しての教育、大学生で日本語を学ぶ人への教育、
そして社会人への教育と、授業内容、教材も再検討していく必要があります。
日本語教育の側から要請して、教材をどんどん開発していくことはできます。しかし、キルギス
には根本的な問題があります。それは、教員待遇です。教員は国家公務員ですから、国家機関で働
く者の待遇改善が進まない限り、教職に就こうという人は減っていく一方でしょう。
今、最前線で後進の指導を行っている日本語教師は、頭脳流出の手助けをしているのではないか
という悩みを抱えています。人材育成をしているはずなのに、育った学生がどんどん日本に行って
しまい、キルギスに残らないからです。キルギスでは、教員は食べていけないのが現実です。しか
し、日本語教師が転職を考えた場合に、キルギスには転職先がありません。官公庁はコネと賄賂の
社会であり、民間企業はそもそも日本語を必要としていませんので、行き先は日本だけです。今は
キルギス共和国の日本語教育の危機と言えます。教えれば教えるほど人材がいなくなってしまいま
す。しかし、教えなければ、日本に対して興味も湧きませんから、日本語教育は必要ないことにな
ります。その結果、人材不足になり、日本語教育の意義は失われてしまいます。
キルギス側の問題は別として、日本側の課題として、日本国内の国際化が必要です。これから近
い将来、異文化の背景を持った人たちが大勢日本にやってきて活躍してくれるはずです。そのとき
に、日本語教育を受けた人たちが日本語のエキスパートとして橋渡しの役を担ってくれるはずです。
日本の社会が、多文化社会への準備をするときに、日本語教育が日本人の国際化につながるのだと
いう視点も持ってもらいたいと思います。日本はこれから国内の国際化の時代に入りますが、キル
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ギスは、これから国際社会に羽ばたき、知名度を上げる時代に入ります。その中で、キルギス人の
日本語エキスパート、そしてネイティブの日本語教師が共に日本にとって貴重な存在になります。
キルギスの日本語教育の転換期、第三段階を良い方に向けていきたいと思います。
報告4:安達 祥子「トルコにおける日本語教育の諸相」
現在、トルコで日本語を勉強している人は約2,000人です。教育機関数は、ほとんどが高等機関教
育、つまり高校あるいは大学の機関です。2,000人の中で、現在、日本に留学している人は約80人と、
かなり少ないです。 トルコにおける日本語教育の歴史についてお話しします。1986年にアンカラ大学に初めて日本語
日本文学科が設置されました。その 2 年後に、ボアジチ大学に日本語講座が設置されました。これ
は学科ではなく選択科目としての位置づけです。日本語講座が開設される機関は、年々増加傾向に
あり、現在では10弱に増えました。また、大学以外に、高校や小中一貫校でも日本語を教えるとこ
ろが増えています。
私が所属しているボアジチ大学の日本語教育は大きく 2 つあります。 1 つは、学部生対象の日本
語講座です。これは、位置づけとしては選択科目の 1 つですから、何学部の学生であっても自由に
とることができます。翻訳学部と歴史学部の学生は、言語を何か 1 つ選んで 4 年間あるいは 2 年間
履修しなければなりませんが、その中の 1 つに日本語が最近入りました。
もう 1 つは、2012年に開講された大学院生対象の日本語授業です。この授業は、アジア研究修士
課程に属しています。アジア研究修士課程は夜間の講座ですので、社会人も参加することができま
す。また、 1 年制か 2 年制かを選択できます。 1 年で卒業する人の場合は、論文はありません。ア
ジア研究修士課程の研究対象は、日本、中国、韓国、インド等かなり広く、このうち日本分野を選
択している学生が日本語を勉強しなければならないということです。2014年 5 月現在で日本分野専
攻に所属している学生は、初級が 3 名、中級が 2 名です。
学習動機について調べましたところ、学部生は、ポップカルチャー(アニメ・漫画)の影響、あ
るいは親日感情を持っていることが動機になっている学生が多かったです。トルコには親日家が多
いといわれています。また、将来の就職に役立てたいという人もいて、翻訳・通訳をしたいとか、
日系企業に就職したい、日本で就職したいという人もいます。大学院生は、いずれ日本で勉強した
い、博士をとりたい、日本の会社とメールでやり取りがしたい(社会人)、日系企業に就職したい、
日本で就職したいという動機を持っている人が多かったです。
習得の速さについては、ボアジチ大学の学生に限って言いますと、「話す・聞く」技能が、「書く・
読む」よりもよくできる学生が多いです。その理由として、トルコ語は日本語と同じ膠着語ですし、
語順が同じSOV型言語であることが考えられます。トルコ語でまず考えて、単語さえ分かっていれ
ば、順番に並べていきますと自然な文がつくれます。しかし、非漢字圏ですので、漢字に弱い人が
多いです。トルコ人にとっては漢字がネックだという話をよく聞きますので、どの機関でも「書く・
読む」に力を入れて指導しているようです。
ボアジチ大学には、「日土クラブ」(ニットクラブ)があります。そこでは日本から留学に来てい
る学生と、日本語を勉強しているトルコ人の学生が一緒に活動をしています。その活動の中で日本
人相手に日本語で説明しなければいけない場面がかなり多くなり、日本語を勉強しなければいけな
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日本語教育から見た国際関係
いというモチベーションアップにつながっていると思います。
日本語学習者の卒業後の進路については、2000年代前半までは、日本語を勉強しても日本語を生
かす場がない、就職先がないという問題がありました。しかし、2010年以降、トルコに進出する日
本企業が増加し、卒業生の日本企業への就職が増えてきています。日本企業が増えれば、日本語を
学習している人の受け皿が増えますので、さらに日本語学習をする人のモチベーションアップにも
つながると思っています。日本にある企業に就職するということではなく、トルコにある日系企業
に就職することは、自国への貢献につながります。トルコという国に対して、日本語を使って貢献
できるような場が今後も増えていくことを期待しています。
報告5:アントン・アンドレエフ「ブルガリアにおける日本語教育―ソフィア大学日本学専攻の例
に着目して―」
かつて共産主義の時代にあっては、ブルガリアにとって、日本は資本主義国の中でも特別な存在
でありました。「人間の顔のある資本主義」といいますか、見習うべきところがたくさんある国と考
えられていました。そのような文脈において、1967年にブルガリアの日本語教育が開始します。最
初の日本語講座は、ソフィア大学の一般公開講座でした。第 1 回目の授業には500名近くの受講生が
殺到したそうで、当時のブルガリア人が、いかに日本あるいは日本語に関心があったかがうかがえ
ます。当時のブルガリア人が日本人と接触する機会はゼロに近く、日本について何一つ知らない状
態でしたが、だからこそ好奇心、あこがれが盛り上がっていた時代だと言えます。
1989年のベルリンの壁の崩壊を受けて、東ヨーロッパの共産政権が軒並み崩壊します。東側の国
民は民主化の新しい時代に大変な期待を寄せました。1990年にはソフィア大学に日本語学(後の日
本学)の専門課程が設置されました。私も日本語学講座の第一期生です。当時、私が日本語につい
て持っていたイメージは、それまで学んできた英語とは全く違い、文字も何通りもあって、非常に
変わった表記を持った言葉だということです。そのような言葉への好奇心が先行して、私は日本語
を学ぶこととしました。現在、私が教えている学生たちも、言葉そのものへの関心が学習の動機に
なっていることが多いようです。
1994年には、ヴェリコ・タルノヴォ大学で日本語教育が開始され、ほぼ同時にソフィアの第18総
合学校でも日本語教育が開始されました。
1990年代は、民主化への期待に満ちた時代でしたが、国民の生活水準は良くなりませんでした。
しかし、2000年代に入ると、経済も安定してきて、余裕が出てきました。そのような状況を受け、
民間の学校でも日本語教育が始まりました。さらに大学の中の講座も多様化が進みました。そして、
2013年に、ソフィア大学に日本語・日本文化の修士課程が開講されました。今後の流れとして、専
門の大学院も増えていくのではないかと予想しています。
ブルガリアの日本語学習者の合計は1,570名です。学習者数の内訳を見ますと、初等教育が30%、
中等教育が57%と高く、高等教育機関は10%未満です。この点については、中学・高校での日本語
教育と大学の日本語教育は、目標も中身も違うことをご理解いただきたいと思います。つまり、学
校で行う日本語教育は基本的に日本語に触れる程度の教育が多くて、大学での日本語教育はかなり
高度な日本語能力を基本にしているということです。
ソフィア大学の日本語教育の目指していることは、あらゆる業界で活躍できるような、日本語に
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堪能でかつ日本事情・日本文化を深く理解する人材を育てることです。少し欲張りなようですが、
とにかくその言葉、そして、それを取り巻く文化、その言葉が生み出した文学等を徹底的に学び、
それを完全に身につけることが目標になっています。
ソフィア大学の学生にアンケート調査をしましたところ、日本語学習経験がある人は20%未満で、
非常に少なかったです。よって、出発点を入門に設定しています。また、日本語専攻に入ってくる
学生の 4 分の 3 ぐらいが語学系の高校を卒業していることが分かりました。おもしろいことに、62%
が「私は昔から他の子ども・若者とは少し違う人間だ」としています。要するに、「みんなと一緒で
いいや」という人よりも、マニアックな人たちが入ってくる傾向があります。気になるのは、
「卒業
後にやりたい仕事がはっきりわかっている」とした学生が少ないことです。卒業後に就きたい仕事
の分野としては、語学教育や研究よりも、国際関係の仕事に従事したいという回答が多かったです。
ブルガリアで日本語を習う人にとって、日本語はただの道具ではなく、自分のアイデンティティー
の一部であり、大変大切なものなのです。ですから、我々も彼らをがっかりさせないように努力し
なければならないと、今回の調査結果を見て改めて感じました。
報告6:嶋津 拓「日本語教育から見た国際関係の理解―オーストラリアの場合―」
オーストラリアで日本語を学んでいる人は約30万人で、世界第 4 位となっています。また、人口
に占める日本語学習者の割合は約1.2%であり、韓国と並んで世界有数の数字です。
オーストラリアの日本語学習者は、全体の96%が小学生から高校生までの子どもたちであり、日
本語を学んでいる大学生と社会人はわずかしか存在しません。
ただし、オーストラリアで日本語を学んでいる小学生、中学生、高校生は、日本語を勉強したく
て勉強しているわけではありません。オーストラリアの連邦政府や州政府の言語教育政策や教育行
政の影響がとても大きいのです。日本の漫画やアニメが好きだからという理由で日本語を学んでい
る人は少数派です。
オーストラリアの言語教育政策として、 1 つは、オーストラリアの国語である英語教育に関する
政策があります。もう 1 つは、英語以外の言語(LOTE ・Languages Other Than English)に関す
る政策があります。さらに、LOTEに関する政策には 2 種類あります。その 1 つは、「多文化主義」
の観点から、LOTE教育の振興を図ろうとするものです。もう 1 つは、オーストラリア経済の拡大
を図るため、LOTEの中でもアジア語の教育を強化しようとするものです。
まず、多文化主義の観点からの言語教育政策についてお話しします。オーストラリアは、第二次
大戦後、非英語圏からの移民を受け入れることとしました。そして、オーストラリア政府は、非英
語圏の人々に対して、オーストラリアで生活するのに必要な英語教育を実施します。また、彼らが
母語を継承していくための機会も提供します。それは、自分の親や先祖の言語を受け継いでいくこ
とは、人間としての「権利」であるという考え方からです。しかし、移民たちが母語を継承してい
くことに税金を使うのはおかしいという意見が出てきました。そこで生まれたのが、言語は「資源」
であるという考え方です。すなわち、移住者たちが母語を継承していくことで、オーストラリアは、
彼らの母語能力を経済的な国益追求のために活用することができるという考え方です。
LOTEという考え方は、もともとは極めて多文化主義的な考え方から生まれたものです。しかし、
LOTEという考え方は、英語と英語以外の言語を分け、英語以外のすべての言語を同じ土俵に上げ
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日本語教育から見た国際関係
る考え方でもあります。すなわち、まず英語に特権的な地位を与え、他のすべての言語は英語の前
に平等であると考えます。序列をつけないということになりますと、英語以外のすべての言語は競
争関係に置かれます。
そこに「資源」としての言語という考え方が加わりますと、
「資源」としてオーストラリアの経済
的な国益追求に最も役に立つ言語は何かという疑問が生まれます。1980年代から1990年代は、その
答えが日本語でした。1980年代は日本がバブル経済に向かっていた時期です。1990年代は、バブル
経済こそはじけたものの、オーストラリアからの輸入やオーストラリアへの投資、あるいはオース
トラリアを訪問する日本人観光客の数が伸びていた時代です。したがいまして、日本語教育を強化
すれば、オーストラリアの経済的な国力が拡大するとみなされました。
もう 1 つ、アジア語重視政策があります。1980年代から1990年代にかけて、オーストラリアでは
アジア語教育を振興するための政策が相次いで策定されました。中でも重視されたのが、日本語、
中国語、韓国語、インドネシア語の 4 言語です。これらはオーストラリアの経済成長に必要な言語
として「優先言語」に指定されました。
すなわち、日本語は1980年代以降、
「資源」としてオーストラリアの経済的な国益追求に最も役に
立つLOTEとみなされたと同時に、オーストラリアに経済的な利益をもたらすアジア語の中でも「優
先言語」の一つに指定されました。この時期にオーストラリアでは日本語学習者数が爆発的に増加
しました。
しかし、学習者数が増えれば増えるほど、日本語教育が拡大することに対する批判の声も聞かれ
るようになりました。その 1 つは、日本語はオーストラリアの経済の役に立たないという立場から
の批判です。すなわち、「日本語は難しい言語だ。ビジネスで使えるようになるまで時間がかかる」
とか、
「日本語は国際語ではない。それよりも英語教育を拡充すべきだ」等々です。また、初級レベ
ルの日本語では日本人とのビジネスはできないから、それよりも日本のビジネスマナーや商習慣、
あるいは日本社会の状況や日本文化を理解することのほうが重要だという意見もありました。
さらに、オーストラリアの国家としてのアイデンティティーの観点からの批判も見られました。
オーストラリアは「ヨーロッパ」の国なのか、
「アジア」の国なのかという議論です。オーストラリ
アはヨーロッパ文化を継承した国であると認識する立場の人は、学校教育ではヨーロッパ語である
フランス語やドイツ語の教育を重視すべきだと考えたわけです。
現在では、オーストラリアで日本語を学ぶことは変なことや珍しいことではなくなり、学校で教
えられるのが当たり前の、
「普通の言語」になりつつあります。このことはオーストラリアだけでは
なく、他の国々、特に太平洋を取り巻く国々においても言えることだと思います。1980年代頃から、
特に初等・中等教育レベルで日本語教育を実施してきた国では、21世紀に入ってから、日本語は、
経済と結びついた「特殊な外国語」から「普通の外国語」になりました。すなわち、日本語教育が
海外で「確立」
(establish)されたと言えると思います。今後は日本語学習者の急激な増加は望めな
いかもしれません。しかし、多くの国で日本語教育が確立された、あるいは定着したのは間違いな
いでしょう。ただし、それは同時に日本語学習ニーズを持たない学習者が増えることでもあります。
この30年ぐらい、日本語学習者のニーズの多様化がいわれてきましたが、現在はむしろ無ニーズ化、
ニーズを持たない学習者が増えています。それがある意味で「普通の外国語」になるということで
もあると思います。
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金 孝卿「全体討論」
大変示唆に富むお話を伺いました。私は、大阪大学で留学生に対する日本語教育に携わっていま
す。彼らが日本の大学で習得した専門知識や日本語の力を発揮して、日本人、そして世界の人々と
共に生きる社会で自己実現をしてほしいと願っています。
しかし、自国を離れ、日本語を使う者として生きていく中で、日本語を使えばすぐに幸せがやっ
てくるというものではないことも実感しています。最近、海外から優秀な人材を日本に呼びたいと
いう声が聞かれますが、一方で、ヘイトスピーチの問題や、外国人の社会保障の問題等があります。
そのように変化する社会に、先生方が関わってこられた学生さんも身を置く可能性が高いと思い
ます。彼らが世界に出たときに、複雑なグローバル社会で、どのように活躍していけるでしょうか。
嶋津
日本の労働人口は将来約4,000万人に減るといわれています。そのときに移住者を受け入れるかど
うかが、国民的な議論になってくると思います。財界は既に「移民1,000万人構想」を打ち出してい
ます。長期的には移住者を受け入れていくことになるでしょう。今までは「海外で日本語を学んで
くださってありがとう」という感じでしたが、これからは「ぜひ学んでください。そして日本に来
て下さい」という状況になるかもしれません。
さらに、よく「多文化共生社会」ということがいわれていますが、最も理想的な多文化共生社会
とは、どのような出身、民族、言語、宗教の人であっても、競争に参加できる社会です。すると、
むしろ競争は激化します。つまり、多文化共生社会とは、
「多文化競争社会」でもあります。その競
争に負ければ、差別などの問題が出てくると思います。ですから、あまりにも過度な多文化競争社
会でない多文化共生を、日本が築いていけるかが鍵になると思います。
アンドレエフ
外国語を資源とかツールとして考えることもできますが、アイデンティティーをかたちづくる要
素として考えることもできます。私は、海外で学ばれる日本語を、必ずしもツールとして考える必
要はないと思います。そもそも日本語を学ぶ学生の多くは、日本語を使った仕事をしたいわけでは
ありません。 4 年間日本語を学んだ学生には、
「あこがれの対象であった日本がモノになった」とい
う充実感があります。「自分は日本語ができる人間だ」というアイデンティティーを手に入れたとい
うことです。日本語が自分のかけがえのない財産になったわけです。
生きている中で手に入れたものは、それがツールであろうが、自己満足を覚える個人財産であろ
うが、何かのかたちで必ず生きてきます。頭脳が日本に流れてしまうという、キルギスのお話があ
りましたが、私は構わないと思っています。その次はまたキルギスに戻ってくるかもしれないから
です。
安達
日本語教育に限らず、言語教育というのは言語を教えるだけではなく、文化や社会的なことも教
えるものだと思います。
100
日本語教育から見た国際関係
うちの大学では、日本語を使って何かのテーマについて話し合ったり、あるトピックについて調
べる活動をしています。例えば、日本は時間にきっちりしていていますが、トルコではそうではあ
りません。そこで、時間に対する考え方についてディスカッションしますと、学生は「時間を大切
にするということなんて、今まで一度も考えたことがなかった」と言います。「遅れたら遅れたでい
いじゃないか」という人が多いのです。日本語教育は、そのようなものの見方、大きく言いますと、
価値観に影響を与えることがあると思います。
国際社会で活躍できる人は、ものの見方が豊富な人ではないかと感じています。一つの側面から
しかものを見られない人は、国際社会に出ても「なぜこうなんだ?」と葛藤することが多いですか
ら、活躍しにくい面があります。日本語教育に限らず、言語教育をする中で、国際社会で活躍でき
る人材が育っていくのではないかと思います。
氏原
アントン先生がおっしゃったように、何か得たものは、必ずその人の幸せにつながるというのは、
本当にそうだなと実感しています。私自身、大学に進学する際には、とにかくロシア語とつきあっ
ていきたいということで、ロシア語が勉強できる大学を選びました。そのときに、ロシア語を生か
して何かしたいとは考えませんでした。卒業してから12年ほどたって、何かロシア語に引かれるも
のが残っていて、またロシア語をやり始めたわけです。ですから、自分が何となく引かれているこ
とをやること自体が幸せなのだというのは、よく分かります。
学生たちも、日本語を勉強し始めるとニコニコしてきます。日本語は人を笑顔にさせてくれると
ころがあるのかなと思います。ですから、個人の幸せというところで、あまり気にしなくてもいい
のではないかという考え方には賛成です。
もう 1 つ、日本語教育が世界を広げるということです。例えば、中央アジアでは弁論大会が盛ん
です。弁論大会の場に居合わせて感動するのは、そこに集まっている20歳前後の人たちの間では、
日本語が共通語になっていることです。ユーラシア大陸でも、アフリカ大陸でも、地球上のどこに
でも日本語人がいます。このことは、外国語が苦手な日本人にとってとても心強いことです。
日本語教育ということで、少しでも日本語の種をまいて、それが育てば本当にうれしいですし、
花が咲くのが楽しみです。
河合
私が帰国する前にワールドカップがあって、もちろん中国でもとても盛り上がりました。そのと
き、日本人のサポーターが、負けたにもかかわらずゴミ拾いをした話が教室で話題になりました。
そこから、ゴミの分別、そしてリサイクルの話に広がっていきました。「2020年に日本でオリンピッ
クがあるときに、中国人が負けてもゴミを拾うぐらい、ゴミ拾いが当たり前になったらいいね」と
いう話を学生たちとしました。日本語を通して、今の汚い状態がいけないなとか、それをよくして
いきたいと考えるようになってくれたらうれしいと思います。そのような日本のいいところは、ど
んどん広げていける日本語教師でありたいと思います。
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101
若菜
インドネシアの場合、日系企業も多く進出していますし、観光ガイドとして働く場もあります。
また、少子化で労働者が少ない中、日本で戦力として働いてくれているインドネシア人も多くいま
す。ですから、みんなそれぞれ好きなことをしていて、いいのではないかと思います。
現地の日本語教師という点から言いますと、今までは日本語を教えるのが上手な先生が求められ
ていたと思います。しかし、現在、インドネシアの教育省では、
「人間力を育てる先生」を目標に掲
げています。ですから、教師も、ただ教えることができればいいということではなく、求められる
ものがどんどん変わっていくのだと思います。
金
貴重なご意見をありがとうございました。皆さんのお話を伺って、日本語教育は、ミクロな関係、
マクロな関係のどちらにも影響を与え得ると思いました。まず、日本社会の変化そのものに影響を
与える可能性を感じました。過度な競争にならないように気を配りつつ、日本語教育に携わる者と
して、世の中の変化につき合っていくといいのではないかと思います。また、自分自身が広い世界
を持つことで、ミクロな関係をよりつくりやすくするという意味で、日本語教育はミクロなレベル
の国際関係にも貢献できると感じました。むしろそちらのほうが強いのではないかという印象を受
けました。
そして、先ほどのインドネシア政府の「人間力を育てる教師になってほしい」という政策に、日
本語教育がどのように貢献していけるかを考える視点も忘れてはいけないと感じました。
河先
これで本日のシンポジウムを終わりにしたいと思います。
ここで一つでも気がついたことや、考えが深まったことを、学生の皆さんが持ち帰っていただけ
れば大変有り難いです。 7 人の先生方には貴重なお話を伺うことができたと思います。どうもあり
がとうございました。
102
AJ ワークショップ
多文化なまちづくりのための実践
―いちょう団地の場合―
日時:2014 年 12 月 4 日(木)
場所:町田キャンパス 30 号館 301 教室
講師:早川 秀樹(多文化まちづくり工房 代表)
グェン・ファン・ティ・ホアン・ハー(多文化まちづくり工房 副代表)
コーディネーター:河先 俊子(21 世紀アジア学部)
河先 俊子
きょうは「多文化まちづくり工房」代表の早川秀樹さんと、副代表のグェン・ファン・ティ・ホ
アン・ハーさんに来ていただきました。
「多文化まちづくり工房」は、外国籍の人たちが多い神奈川県いちょう団地で、文化や言語の異な
る人たちが一緒にまちをつくっていくことを目的とした活動をなさっています。その活動や問題点
等について、お二人にお話を伺っていきたいと思います。
最初はゲームから始めるということですので、皆さんぜひ参加してください。
<ゲーム>
背中に張り付けられた色の異なるシールを目印に、言葉を使わないでグループを作るというゲー
ムを行いました。
「一切口を開かずにグループを作る」という説明だけを受けて開始した1回目のゲー
ムでは、言葉というコミュニケーション手段のない中で、どのようなグループを作ればよいのか、
参加者の中に戸惑いが見られ、積極的に動きまわることができず、グループを完成させるのに多く
の時間を要しました。「同じ色のシールを貼った人同士のグループを作る」というルールの分かった
2 回目のゲームでは、より早くグループを完成させることができましたが、参加者の中には、どの
グループに入ったらよいか分からない人、ひとりぼっちになってしまった人、背中を見て周りの人
に首をかしげられたり、笑われたりして戸惑う人がいました。
早川 秀樹
このゲームは、特に答えのあるゲームではないのですが、考えるヒントにしていただきたいと思っ
ていろいろなところでやっています。
ゲームをしていて皆さんも感じたと思いますが、自分が何で笑われているのか分からないのに、
周りから笑われることは結構きついことです。
Asia Japan Journal 10 (2015)
103
例えば、 2 色のシールが張ってある人を「どっちでもないよ」とはじき出してしまうか、 2 つの
文化を持つ人として、その間をつなぐ存在とするかは、周りの人たちの考え方次第で決まります。
周りの人がどう受け止めるかによって、彼はプラスの存在になるかもしれませんし、一歩間違える
と、はじき出されて、とても嫌な立場になってしまうかもしれません。
外国籍に限った問題ではありませんが、社会の側から選別されて、自分だけは違う存在だといき
なり分けられてしまうようなことがあります。私たちは日常生活でマイノリティの側に立つことは
あまりないですから、普段は気にしないことが多いです。しかし、このようなゲームの視点を持っ
ておきますと、日常生活の中で何かそれに近いシーンを見つけたときに、少し相手に感情移入でき
ると思います。
わたしが活動している「いちょう団地」は、神奈川県の横浜市と大和市にまたがるところにある
団地です。南北に1200メートル、東西に350メートルぐらいの敷地に79棟の団地が建ち並んでいま
す。世帯数もかなり多くて、全部で3,500世帯ぐらいあり、その中で生活をしているのは約3,300世帯
です。昭和40年代に建てられた県営住宅で、広さは 3 畳、 4 畳半、 6 畳ぐらいの間取りが多く、少
し小さめの団地です。
この団地の第一の特徴は、外国籍の人の世帯数が非常に多いことで、今は全体の24%になってい
ます。どのような外国籍の人が住んでいるかと言いますと、まず中国帰国者、つまり中国残留孤児
で日本に帰国してきた人、その人たちの親族、後から呼び寄せられた子どもたちやその孫たち等で
す。それから、ベトナムやカンボジアから来たインドシナ難民の人たちが多く住んでいます。
第二の特徴は、日本人住民が高齢化していることです。いちょう団地の中にある小学校では日本
人の子どもが減り続けていて、逆に外国籍の子どもの数はどんどん増えています。平成25年には75%
が外国にルーツを持つ子どもになっています。今年は飯田北小学校との統合により、日本人の子ど
もの比率が上がりましたが、日本人の子どもたちはどんどん減っていきますので、数年後には、ま
た外国籍の子どもの比率が上がっていくと思います。
NHKの『特報首都圏』という番組で、日本で最先端を行く地域ということで、いちょう団地が取
り上げられましたのでご紹介します。
<番組ナレーターの声>
この団地をみつめますと、日本の将来の姿を考える上でのさまざまなヒントや課題が見えてきま
す。例えば、ゴミの出し方などの団地のルールを示した看板は、日本語だけでなく、中国語、ラオ
ス語、ベトナム語、スペイン語、カンボジア語と 6 カ国語で書かれています。団地内の食料品店に
は、ベトナムのフォーや、中国のビーフンなど本国から直送された食材が並んでいます。団地のコ
ミュニティハウスでは、中国伝統の踊りが行われています。
今、日本に暮らす外国人はおよそ200万人で、その数は年々増加しています。私たちは彼らとどう
向き合えばいいのかを考えなくてはならない時代になりました。
『特報首都圏』では、17年前にこの団地を取材していました。当時、団地に住む日本人は、言葉も
習慣も違う外国人との生活に戸惑っていました。
いちょう団地ができたのは、昭和40年代の高度経済成長期です。人口の増加が進む中、神奈川県
104
多文化なまちづくりのための実践―いちょう団地の場合―
が比較的収入の少ない人でも入れるように建設しました。それからおよそ10年後、ベトナムやカン
ボジア等から多くの難民が来日しました。難民の永住を支援する施設が近くにあったため、家族を
呼び寄せていちょう団地に住むようになったのです。さらに、中国残留孤児や働き口を求めてやっ
てきた日系ブラジル人も入居しました。
当時、外国出身者の世帯が急増し、団地の自治会は大きな壁に直面していました。日本人住民
と外国人との間には、ほとんど交流がなく、自治会の運営も行き詰まっていたのです。
あれから17年、いちょう団地は大きく変わっていました。団地で行われている放送は 4 カ国語で
伝えています。日本語が分からない外国人のために自治会が始めました。内容は団地内の行事や地
域のお知らせなどです。当初は外国人の協力がなかなか得られなかった自治会活動ですが、粘り強
く参加を働きかけた結果、今では清掃や防犯パトロールなどを一緒に行えるようになりました。
早川
私たちは、今からちょうど20年前の1994年に日本語教室を始めました。私が大学に入ったばかり
のころ、何人かの仲間で日本語教室を立ち上げたのが最初です。今では夜の日本語教室に、20 ~ 30
人ぐらいの人が集まって日本語を勉強しています。さらに朝の日本語教室や、ベトナム語教室もやっ
ています。
外国籍の人が日本に来て最初に困るのは日本語だろうという思いつきで始めたのですが、やって
いきますと、仕事を終わってから教室に来る人たちが多く、その中でいろいろな課題が見えてきま
した。そして、やはりこれは必要な活動だなということで20年間続けてきたわけです。
まず、外国籍の方が、仕事をしていてきついと思うのは、どのようなことですか。
グェン・ファン・ティ・ホアン・ハー
1 週間は昼間の勤務をして、次の1週間は夜の勤務というように、交互なことです。あとは、賃金
が安いです。
早川
非常に不規則な生活になりやすい職場で働いている方が多いです。また、新たなもっといい環境
の職場に行きたいと思っても、日本語ができなければ行けないという課題があります。
例えば、インドシナ難民として初期に日本に入ってきた人たちは、難民を支援する施設で日本語
を勉強して地域に入ってきました。しかし、その後で呼び寄せられた人たちは、ダイレクトに団地
に入ってきて仕事を始めます。ですから、ほとんど日本語を学ぶ機会もないままに、ともかく急い
で仕事に就かなければ生活できないということで、友達から紹介してもらって仕事に就くわけです。
すると、勤務が不規則であったり、低賃金であったりする職場になりやすいです。
そのような人たちが、仕事が終わってから日本語教室に来るのですが、 2 週間に一度しか顔を見
せないこともあります。理由を尋ねると、
「先週は夜勤でした」と言う人がたくさんいます。その意
味で、日本で安定して勉強していく場を確保するのは難しい状況です。
日本語が身につかないと、例えば、学校ではどのような問題が起きやすいでしょうか。
Asia Japan Journal 10 (2015)
105
グェン
例えば、学校のお知らせを保護者が見ても内容が分からないことが多いです。すると、重要な個
人面談の日に親が来なかったりします。内容が分からないだけでなく、どうしても仕事の休みをも
らえないとか、休んだらすぐにクビにされてしまうのでなかなか休めずに、学校に行けないという
保護者が多いです。
早川
休みにくい職場であることと、土日や祝日も外国人は関係なしに仕事に出なければならないこと
が多いです。
病院に行くときは不安だと思いますが、どうでしょうか。
グェン
病院の場所自体、どこにあるのか分からないというところから始まります。また、病院に行った
ところで、お医者さんに「説明したってどうせ分からないでしょう?」という目で見られ、お医者
さんがきちんと説明をしてくれません。でも、日本人が一緒について行くと、お医者さんは熱心に
説明してくれます。
早川
日本語が分かる、分からないが、普通の生活ができる、できないの境目になっているということ
で、とにかく少しでも日本語ができるようにすることが大事です。
もう1つ、日本語を学ぶのはもちろんですが、人と接点を持つことも大事だと思います。教室に来
るようになって、自分が伝えようとする言葉を相手が分かろうとしてくれたり、自分に何かを伝え
ようとして絵を書いたり、辞書を引いたりしてくれる人がいることが、生きていく支えになったと
話してくれた中国人がいます。皆さんもそうだと思いますが、ただ仕事をして、お金をもらって、
ご飯を食べていれば生きていることになるかといいますと、そうではありません。日本語教室をす
ることで、人とのつながりをつくっていくことが、大きな役割だと思っています。
次に、日本語教室をやっていく中で子どもたちとの関わりがどんどん増えていきました。そこで、
最初に受験の問題が出てきました。日本に来て数年の子どもたちが、日本語ができなかったり、中
学校の勉強についていけなかったりして高校に行けないケースが非常に多かったのです。何とかそ
の問題を解決したいということで、受験教室を始めました。
高校受験、大学受験を体験して、どのようなところで大変でしたか。
グェン
私は中 2 のときから早川さんの教室に通わせてもらって、受験勉強も手伝ってもらいました。一
番困ったのが、どの高校に行くかです。親に相談しようと思っても、親も学校のことは分からない
ですし、どのような学校があるかも分かりませんでした。そのときに一番頼れたのが、日本語教室
のボランティアの先生たちです。大学生のお兄さん、お姉さんたちでしたので、いろいろ相談に乗っ
てもらいました。その後、大学受験もいろいろ手伝ってもらいました。今思えば本当にお世話になっ
106
多文化なまちづくりのための実践―いちょう団地の場合―
たなと思っています。
早川
親が日本の受験システムも分からないということで難しい面があります。例えば、弟が熱を出し
たから期末テストの1日を休んで病院に連れて行った子がいました。お母さんに「テストは 3 日間あ
るから、1日休んでもいいんじゃない?」と言われて、行かざるを得なかったということでした。親
たちとしては、日本の教育システムがどのようなものなのかよく分からないので、自分たちの価値
観でものを考えてしまうわけです。すると、子どもたちとの間に距離ができたり、子どもたちが負
担を背負い込んだりしてしまいます。そこで、何とか力になれるようにということで受験教室を始
めました。ただ受験のときに始めても間に合わないということで、今では、中学生や小学生を対象
にした学習教室や、小学校入学前の子どもを対象にしたプレスクールをやっています。
これは、プレスクールを始めた理由でもありますが、日本で生まれているからといって、彼らは
日本語だけで生活してきているわけではありません。親たちは朝から晩まで仕事をしていて、子ど
もだけが家にいるケースもあります。保育園に預けっぱなしというケースもあります。ですから、
親からの言葉の吸収が非常に少なくて、日本語にしても母語にしても、言語力が発達しきらないケー
スが多いのです。同時に難しいのは、彼らは日本語を第1言語として話していますので、日本語にハ
ンディがあるという意識が少ないです。すると、自分がばかだから分からないのだという結論になっ
てしまって、中学生ぐらいになると自分で努力していくことができなくなってしまいます。その意
味で、とにかく早い段階から少しずつ言語力を高めることで変化があるのではないかということで、
プレスクールに取り組んでいます。
また、私たちは相談活動もやっています。去年1年間で1,600件近くの生活相談がありました。ベ
トナム語、カンボジア語、中国語の通訳がいますが、 9 割はベトナム語での相談です。相談活動を
始めたきっかけは、学習教室をやっている中で、子どもたちから、役所や学校からの書類について、
「これ、どうやって書くの?」と聞かれることが多かったからです。親たちも書けませんから、一番
日本語の分かる中学生ぐらいの子どもたちは頼られてしまいます。病院に弟を連れて行くとか、役
所の手続きを頼まれるとか、そのようなことをやっているうちに、徐々に親子関係が逆転してしま
うケースがあります。例えば、親にもっと勉強しなさいと注意されても、子どものほうは「どうせ
自分がいなかったら何もできないじゃないか」となってしまいます。そこで、何とか親たち自身の
力で、子どもに頼らずに問題解決できるように、親たちのサポートができる場をつくりたいという
ことで相談活動を始めました。
相談事業と同時に、中国語、カンボジア語、ベトナム語で情報発信を行っています。団地放送も
そうですが、簡単な情報誌をつくって各戸に配っています。その中で、このような相談の場がある
ことを宣伝して、できるだけ生活の中で状況が悪化しないうちに相談してもらい、解決していこう
としています。
他に、スポーツ交流として、毎週日曜日にサッカーをやっています。夏場は30人ぐらい、冬場は
20人ぐらいが集まっています。また、団地のバレーボール大会やソフトボール大会にも出るように
しています。そのような場で外国籍の人たちが一緒になって走り回っていると、日本の人たちにも
「日本人とあまり変わらないんだな」という気持ちを持ってもらえますから、スポーツを通して交流
Asia Japan Journal 10 (2015)
107
することは大事です。
さらに、
「あいさつロードプロジェクト」として、それぞれの国を象徴する絵と、それぞれの国の
あいさつを子どもたちと描いたりしています。みんなで共通の風景をつくっていくことで、
「いちょ
う団地がふるさとなのだ」という意識を育てていきたいと思っています。
「TRYangels」は、防災訓練のサポートをするグループです。多言語でAEDの取扱い等を紹介し
ていますと、最初は見ていただけの日本人の高齢者の方が、少しずつ参加してくれるようになりま
す。地域で活動している姿を見せながら、高齢者の人たちとの関係づくりも行える場として、この
活動は大事だと思っています
毎年10月の「いちょう団地祭り」は、皆さん大変楽しみにしています。当初はなかったベトナム
のお店や中国のお店がどんどん増えて、今では日本のお祭りとは思えないような団地のお祭りに
なっています。ただ、外国人の側も楽しむだけではなく、一緒に準備や片付けをしてつくりあげて
いくことが必要です。ですから、外国籍の子も日本人の子も巻き込んで、準備と片付けに力を入れ
て活動をしています。
最後に、私どもはボランティアを常に募集していますので、興味のある方はご連絡いただければ
有り難いと思います。
河先
では、これで終わりにしたいと思います。きょうはお忙しい中、お時間を割いて来ていただきま
した。どうもありがとうございました。
108
International Conference
Philological and Exegetical Studies of Classical Texts in
18th and 19th Century Japan:A Comparative Approach
Organizer: European Association for Japanese Studies
Sponsor: Japan Society for the Promotion of Science (Kaken-hi)
Date: 27th to 30th, August, 2014
Venue: University of Ljubljana, Slovenia
Chair: Eiji Takemura (Professor, School of Asia 21, Kokushikan Univerisity)
Panel: Hiroyuki Eto (Professor, Tohoku University)
Takayuki Ito (Professor, International Research Center for Japanese Studies)
現在継続中の科学研究費補助金事業(課題名:
「考証学・言語の学、そして近代知性-近代的学問
の「基体」としての漢学の学問方法」<課題番号25370093 >)、ならびに東京大学東洋文化研究所
個別課題「中国古代テクスト研究と西欧のフィロロギー-18世紀日本の文献学的・書誌学的学問
方法の比較研究」の中心的課題の一つである日本漢学の考証学的・文献学的達成についての研究が、
ヨーロッパ日本研究協会(European Association for Japanese Studies)に採択され、同学会の国際
研究大会において報告の機会をいただいた。以下に報告題目、報告者名、abstract等を付記する。
Overall abstract (Takemura):
Much research has already been done on Tokugawa Confucianism, predominantly on
Japanese scholars’ study of Song Neo-Confucian (Shushigaku) cosmology and philosophy, but,
inadequate attention has so far been paid to an important element of Japanese Confucianism; that
is, to an aspect of scholarly development that may be termed ‘evidential research’ . Many Japanese
historians still believe that the historical research in Japan started at the time when the Rankean
methods were “imported” to Japan in the Meiji period (1868-1911), though such historians of
modern Japan as Shigeno Yasutsugu (1827-1910) and Kume Kunitake (1839-1931) identified the
root of Japanese evidence-based historical research in late-Edo to Bakumatsu Confucian evidential
scholarship (Kangaku), and the recent scholars such as Sato Masayuki and Margaret Mehl have
touched upon this.
In fact, the modern evidential scholarship in Japan evolved from the scholarly developments
in the mid-Tokugawa period, namely, a substantial advancement in classical philology (and/or
‘textual criticism’ ), historical chronology, ritual studies, and linguistic approaches to texts, all of
which are crucially important genres of modern historical research. These developments initially
owed a great deal to the scholars of Ken'en (Sorai) and ‘classicist’ (Kogaku-ha) schools in the lateseventeenth and early eighteenth centuries, which was further advanced by independent evidential
Asia Japan Journal 10 (2015)
109
scholars of the second-half of the eighteenth century who vigorously adopted the increasingly
influential Qing (1644-1911) evidential scholarship (清代考拠學), that saw a massive evolution in
Qianlong (乾隆) and Jiaqing (嘉慶) periods. On the other hand, it was such a remarkable book as
『七經孟子考文』compiled by Yamanoi and Nemoto (published in 1731) that decisively set the
direction of Qing China empiricism in the eighteenth century. So, it was indeed an intellectual
exchange between the both sides of East China Sea that enhanced the massive evolution of
evidential scholarship in East Asia. The Bakumatsu evidential Confucianism helped develop the
scholarly foundations of such influential Meiji intellectuals as Kume Kunitake, Nishi Amane, and
even Nakamura Masanao, usually considered a Shushigakusha, who played a critical role in their
absorption of new knowledge. Further, this scholarly foundation remained influential as
methodological ‘basso continuo’ even among the historians of the late-twentieth century.
The panel comprises a language and philological studies specialist with profound knowledge
of c.18th German philologists such as F.A. Wolf and A. Boeckh, a Sinologist specialising in Qing
China empiricist scholarship, and a Japanese intellectual historian. The chair would like to assert
that this would probably be the first occasion in this field that the mid-to-late Edo language and
philological scholarship is to be studied in depth by well-informed academics of these respective
disciplinary backgrounds in comparative perspective, that involves some least-known rare
historical and antiquarian materials only available in Japan.
Abstract (Takemura): The mid-to-late Tokugawa philology and empiricism
The text study methods that embraced meticulously detailed philological and bibliographical
research, and the study of pre-Han language - words, grammatical structure, and phonetics peculiar
to the ancient Chinese - evolved in the first half of the c.18th in Japan. Amongst them, Yamanoi
Kanae, Nemoto Bui, and Dazai Shundai, the Sorai disciples, Ito Togai of Kogaku-ha, and Nakai
Riken were the key figures. Standard of philological studies improved dramatically in Japan in the
second half of that century, thanks largely to the massive increase of Ming and Qing Confucian
texts through which the Japanese scholars further reinforced their exegesis.
Meticulously detailed the Qing philologists’ text critique might have been, the scholars in
China seldom openly casted doubt over the ‘originality’ of such classical texts as 論語, 詩 and 書.
This scholarly attitude is arguably contrastive to, for instance, Ito Jinsai’s denial of Chu His’s
assertion of 大学 and 中庸 as Confucius’ own work, and his detailed text critique of 論語, and
Nakai Riken’s critical examination of 今文 and 古文尚書 texts that embraced highly ‘objective’ text
critique that is comparable to the critique of classical Greek texts by Giambattista Vico of c.17th
and August Boeckh of c.19th in Europe.
Intellectual history of Tokugawa Japan infer the significance of Neo-Confucian scholarship (
朱子学 in particular) that helped develop the modern intellectual foundations in Japan. However,
no study of these fields has as yet revealed which specific elements of the Confucian text study
had helped develop intellectual foundations and in what specific way. The presenter will focus
primarily on Nakai Riken’s study of 尚書, that illustrates elements of in-depth text critique of
Chinese classics in c.18th Japan.
Abstract (Eto): Intellectual Parallelism of Kokugaku and Philologie: From Perspectives of
New Kokugaku Scholars in the Meiji Era
In 17th-century Japan, kangaku and rangaku thrived through rigorous language study,
110
Philological and Exegetical Studies of Classical Texts in 18th and 19th Century Japan:A Comparative Approach
particularly textual interpretation of Chinese and Dutch books. Against such an intellectual trend, a
fierce nativist reaction gained ground as kokugaku movement in 18th-century Japan. With a
philological and exegetical rigor to examine the original meaning of Japanese classical literature
and ancient writings, kokugaku scholars insisted on a return to yamatogokoro from foreign
influence (i.e., karagokoro) in order to identify and appreciate traditional value of Japanese
mentality and morality. Their inductive method provided a model of language and cultural studies
for many succeeding generations of scholars.
Among these kokugaku scholars, the achievement of Motoori Norinaga (1730-1801) deserves
special attention, who conducted a linguistically-oriented investigation of ancient Japanese thought
and culture and re-evaluated mononoaware of the ancient Japanese people to refute the claims of
Chinese influence introduced at a later stage. By means of studying the ancient language and
literature, Norinaga contrived to understand intuitively the world that the ancient people
experienced. This attitude parallels the approach of German philologists of the 19th century, which
we find in the definition of Philologie made by August Boeckh (1785-1867) as Erkennen des
Erkannten.
The presenter will 1) examine distinctive features of the kokugaku school of 18th-century
Japan in the framework of Japanese intellectual history with special emphasis on Norinaga’s
attitude towards his philological and exegetical approach to the ancient Japanese language and
culture and 2) examine significant connection between language study and national identity by
comparing the kokugaku movement of 18th-century Japan with Philologie of 19th-century
Germany, particularly focusing on perspectives of new Kokugaku Scholars in the Meiji Era.
Abstract (Ito): The reassessment of the Q’ing scholarship and the Bakumatsu empiricism
(translation: Takemura)
The Qing empiricism is arguably the culmination of the long, complicated, nonetheless, everlasting evolutionary process of Confucian scholarly methods in China that started roughly in the
former-Han period (BC2). It affected the neighboring scholarship that included the one in Japan,
and was indeed the chief methodological ingredient of the so-called ‘Kyoto China Studies’ (京都支
那学) of modern Japan.
This Qing-derived Kyoto Confucianism had long been taken for granted as ‘ standard ’
Confucian scholarship, and, for this very reason, it tended to have been perceived merely as a
‘ method ’ rather than a scholarship that involves philosophy and the study of ideas. Meiji
‘philosophers ’ such as Inoue Tetsujiro had turned to Sung and Ming Confucianism, for they
believed that those were more compatible with, or, familiar to, Western philosophy and the history
of ideas.
However, the recent studies by Yu Ying-shih, Benjamin A. Elman, Kai-wing Chou, Chen
Zuwu, and Chang So-an present a different picture. Further, the recent Japanese intellectual
currents vividly illustrate the reflection of late-Ming scholarly achievements within Qing
empiricism, elements of peculiar Confucian metaphysics that are different from those of Sung and
early-Ming, and even inclination toward pragmatism among Qing scholars that has until recently
been considered rather alien to the empiricist scholarship of the era. The presenter would rather
argue that the stereotypical image of Qing empiricism is the projected perception that was
envisaged by the Meiji empiricist scholars.
Asia Japan Journal 10 (2015)
111
さらにつづけて、2014年9月2 ~ 3日には、ケンブリッジ大学にて、科研費国際研究集会を、ピー
ター・F・コーニツキー同大学ロビンソン・カレッジ副学寮長と共同で開催した。報告者、報告題
目は以下のとおり。
International Study Session
Confucian and Other Sources of Evidential Research in East Asia
Organizers: Eiji Takemura (Professor, School of Asia 21, Kokushikan University)
Peter F. Kornicki (Vice Warden, Robinson College, Cambridge University)
Sponsor: Japan Society for the Promotion of Science (Kaken-hi)
Date: 2nd to 3rd, September, 2014
Venue: Robinson College, Cambridge University
Tuesday, 2 September
〔each session comprises 50min. presentation and 20min. discussion〕
10:30– 11:40
Okawa Makoto
‘An evidential study of ‘ancient Japan’ in the Tokugawa period:
The case of Arai Hakuseki’
「近世日本における古代日本の考証― 新井白石の所説を中心として―」
Discussants: Peter F. Kornicki, Miyata Jun
11:50 – 12:50 Lunch
12:50 – 14:00
Miyata Jun
‘Koda Shigetomo and the evolution of historiography in modern Japan:
The incorporation of traditional scholarship and the modern historical methods’
「幸田成友(1873-1954)の歴史研究法 ― 知的基盤の整理を通じて―」
Discussants: Sato Masayuki, Okawa Makoto
14:30 – 17:30
Archival research @ Needham Institute
19:00 – 21:00
Dinner
Wednesday, 3 September
10:30 – 11:40
Ozaki Jun’ ichiro
‘The Qingdai Wupai(淸代吳派)and their study of Shangshu (尚書)’
「清代呉派の尚書学について」
Discussants: Ito Takayuki, Takemura Eiji
11:50 – 12:50 Lunch
12:50 – 14:00
Sato Masayuki
‘The Transformation of the concept of history (歴史) in 19th century Japan’
「19世紀日本における『歴代之史としての歴史』から『ヒストリーとし
ての歴史』への移行」
Discussants: Miyata Jun, Ozaki Jun’ ichiro
14:30 – 17:30
Inspection of Aoi Collection, Cambridge University Library
112
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1.投稿は原則として国士舘大学アジア・日本研究センター研究員に限ります。ただし、外部から
の投稿については、編集委員会で採否の決定をおこないます。
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研究ノートについては、英語のタイトルと 700 語以下の要旨をつけてください(場合によって
は日本語で 800 字程度)。またキーワードを 5 つ以内であげてください。
5.原稿の体裁は横書きを原則とします。
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7.校正は著者校正を原則とします。審査制度を設けており、掲載決定後に校正段階での誤植以外
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by referees. Associate Editors of the journal may also participate in the review process as needed. Please note that in
case there is a large number of submissions, many manuscripts cannot be accepted for publication.
4. Contact Information:
Asia Japan Research Center
1-1-1 Hirohakama, Machida City
Tokyo District 195-8550 Japan
Email: [email protected]
Next submission deadline is October 31, 2015
■著者一覧
(掲載順)
片岡 龍
Ryū Kataoka
東北大学大学院文学研究科准教授
Associate Professor at Graduate School of Arts and Letters, Tohoku
University
河先 俊子
Toshiko Kawasaki
国士舘大学 21 世紀アジア学部准教授
Associate Professor at School of Asia 21, Kokushikan University
中山 雅之
Masayuki Nakayama
国士舘大学 21 世紀アジア学部准教授
Associate Professor at School of Asia 21, Kokushikan University
柴田 德文
Tokubumi Shibata
国士舘大学政経学部教授
Professor at Faculty of Political Science and Economics, Kokushikan
University
■編集後記
いろいろなものが国境を超えて移動する。石油、雑貨、肉、コーヒーなどの輸入品から、映画、ドラマ、音楽といっ
た大衆文化。大量に買い物をする外国人観光客も最近話題になっている。これらの人やモノ、文化はこちらの必要
に応じて受け入れていると言ってよいが、中にはこちらの意思とは無関係に入ってくるものもある。伝染病や黄砂、
PM2.5 などである。観光客や外国の大衆文化の流入は好意的に受け止められるが、
これらの招かれざる客は「厄介者」
として見られがちである。しかし、強制的に「厄介者」を受け入れたが故に、送り手側との密接な関係性を意識す
るようになり、対話が始まることもある。ヨーロッパでは酸性雨に対して北欧諸国が中心となって粘り強い交渉が行
われ、やがて規則や規範のシステムが国家間に共有されて強化されていった。自発的に受け入れたか、強制的に入っ
てきたかは別として、送り手側の存在の重大さや分かちがたい関係性が意識されるようになるのではないだろうか。
また、生命に危険を及ぼすようなものであればなおさら、相手との対話を促す強力なインセンティブとなるかもしれ
ない。黄砂や PM2.5 も、国際的な対話を促し、国際的な協働の場を広げて協力関係を強化するきっかけとなること
を願いたい。
(chaos.a.d.)
昨年はフルマラソンに 2 度挑戦し、2 度ともなんとか完走した。よくいわれるように、30 キロを過ぎてからが地獄
の苦しみになるし、当分はハーフだけにしておこうと自分の年齢にいいきかせている。50 歳を過ぎてからのマラソ
ン道楽だが、この歳になると登山やジョギングくらいしか手の出せるスポーツがない。経験からいえば、スポーツは
野球やラグビーなどチームでやるもののほうがやはり面白い。しかし、そういうものは学校を卒業したとたん手の届
かないものになる。歳をとっても不可能ではないが、やろうとすればそれはとてもコストの高いものになる。お金の
話ではない。学校スポーツがその典型だが、日本のチームスポーツは特定集団へのディープな帰属から離れて存在
しないからだ。歳を重ねなおさら他人の干渉を嫌うようになると、
人はますますチームスポーツから縁遠くなる。いっ
さいの集団主義的な重しを取り去って、高齢者が気楽にチームスポーツを楽しむことのできるような時代にならない
ものか。関係のない者同士が休日にさっと集まり、つかの間のチームプレーに打ち興じ、夕方さっと気持ちよく解散
する、そんな光景は望めないものか。未来の日本にたいする密やかな夢想である。
(vertigo)
オックスフォード大学といえば現在、タイムズ高等教育調査の世界大学ランキングなどでも毎年トップ 10 入りし、
世界最高水準の学府の一とされ、常に全世界から俊秀が集う学問の中心である。また、ボローニャ、パリ、サラマ
ンカと並ぶ欧州で最も古い大学としても認知されているが、十六世紀末から十七世紀前半ぐらいのオ大は、イングラ
ンド自体が「辺境」であったこともあり、古典研究・文献の蓄積も大陸の主要大学に大きく劣る、あまり重要視され
ていない一地方大学であった。また、十九世紀中葉においても、当時多くの面で「知の中心」であったドイツの諸大
学と比べても、オックスフォードは基本的には“教養大学”であり、専門研究のための学府と呼ぶにはほど遠かった
のは、当時この大学で教鞭をとっていた Mark Pattison なども書き記すところである。しかしその反面、
「辺境」で
あるが故に、宗教的なしばりなどから自由な研究が行なわれていたのも、この大学においてである。Isaac Casaubon
は十六世紀後半〜十七世紀はじめに主にフランスで活躍した学者であるが、宗教戦争まっただ中のフランスから十七
世紀はじめに迫害をのがれて渡英した。学の中心であったパリ大からの亡命であったが、当時のオックスフォードで
は、英国国教会派、ユグノー、カルヴァン派、ルター派、そしてユダヤ教信者が相争うことなく、極めて「自由に」
文献批判を行なっていた。そしてまさにこの地で Casaubon は、宗教史の「決定版」とされていた Cesare Baronio
の Annales Ecclesiastici の、緻密で「公平な」原典の吟味をもっての大いなる批判を敢行したのである。Casaubon
の文献批判は、
「中心」であったパリでは不可能であった。古典的或は伝統的学問の蓄積とは別軸の、
「精緻」で「体
系的」な「文献研究」は、この辺境の大学においてむしろ進歩的であったのである。
(E.T.)
国士舘大学 アジア・日本研究センター
セ ン タ ー 長:柴田德文
副センター長:河先俊子
専 門 委 員:梶原景昭 澤田正昭
平川 均 飯田昭夫
岡田保良 柴田英明
林 倬史
運 営 委 員:柴田德文 河先俊子
土佐昌樹 井岡大度
砂田恵理加
AJ Journal 10
平成 26 年度 アジア ・ 日本研究センター紀要
編 集 委 員 :河先俊子 土佐昌樹 竹村英二
発 行 者:国士舘大学アジア・日本研究センター
〒 195 − 8550
東京都町田市広袴 1 丁目 1 番地 1 号
デ ザ イ ン :CORAL
ART WORKS
印 刷 所:野崎印刷紙器株式会社
発 行 日:2015 年 3 月 20 日