47: 34-37, 2014.

さ く
たかし
朔
敬/歯学部
富士川 游・英郎・義之:学究三代
森鷗外の著作に親しみはじめたのは比較的最近で、鷗外全集を手のとどくところ
におくようになったのもこの十年ほどのことなので、わたしの鷗外経験は浅いとい
わざるをえない。そのわずかな経験のなかで、鷗外の生前の様子をえがいた文
章で、もっとも印象深く忘れられないのは、富士川英郎の『父富士川游のこと』
(高橋英郎編『読書清遊−富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫1,500円)とい
う随筆に登場する鷗外である。以下に引用するが、鷗外と富士川游の交遊のあり
ようやそれを観察する息子・英郎の三人の暖かい関係が目にうかぶようである。
大正何年のことだったろうか。その頃まだ小学生であった私は、或日父につれられて東京
神田の須田町の交叉点から駒込行の市電に乗ったことがあった。そして私たちが中央の空
席に腰をおろすと、その時ちょうど真向いの座席からいきなり笑顔をつくって「やあ」と父に
呼びかけた、ひとりの軍服姿の老紳士があった。その人は見るからに神采奕々とでも言い
たい、なんとなく異常な気高い気品が具わっているのが子供心にも感ぜられるような人であ
った。そして私は固唾をのんだまま、その心もちひらいた両脚の間にサーベルをつき、少し
前かがみになって、なにやら父と愉快そうに談笑している老紳士をじっと見つめていたが、
その人はそういううちにもときどきやさしい眼に光をたたえ、微笑みかけるようにして私の方
を見たのだった。それからやがて一高前で電車をおりたとき、父は私にいまの人が森林太
郎という偉いひとであると云って教えてくれた。そして滅多にそういうことを言わない父のそ
の時の言葉のうちには、何処となく畏敬する先輩のことを語るというようなひびきがこもって
いたようであった。
鷗外が史伝の執筆のために医史学者・富士川游から蔵書をかりたり助言をえたり
していたことは、『伊澤蘭軒』等には何度ものべられている。わたしは拙稿をはじ
めるにあたって、学生諸君にまずは『渋江抽斎』、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』をよ
んでみられることをすすめる。印刷された冊子体の場合、『鴎外歴史文学集全十
三巻』(岩波書店)が詳しい注釈と配慮された組版でよみやすいが、『蘭軒』など
は四冊にもなるので、持ち運びにはキンドルの電子本(ただし前二者のみ、0 円)
がいい。わたしはこの夏盲腸で入院したが、消灯後のベッドの暗がりのなかでペ
ーパーホワイトをつかって『伊澤蘭軒』を通読し、二周目にはいることができた。
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そもそも富士川英郎という名前をわたしがしったのは、『江戸後期の詩人たち』
(筑摩叢書)をたまたま手にしたからであった。リルケの翻訳や研究が専門の独文
学の先生だが、この本のなかには、それまで忘れられていた江戸の漢詩・漢詩人
たちに興味をもって発掘した成果が紹介されていた。わたしは頼山陽の名前くら
いはきいたことがあったが、その書物に登場する漢詩人のほとんどをしらなかった。
そこで、儒者というひとたちの存在がにわかに身近になり、儒医・渋江抽斎も伊澤
蘭軒も具体的な像をむすんだのだった。まず、最初に『鷗外雑志』(小沢書店)、
ついで『読書好日』、『儒者の随筆』(いずれも小沢書店)などをもとめてよんだが、
アマゾンのダイレクトメールで高橋秀夫編の上記随筆集をみつけて以来、これを
くりかえしよんでいる。編者のねらいどおりにみごとに上質の随筆がならんでいる。
富士川英郎自身が木下木太郎の随筆のアンソロジーを編纂したいという夢想を
つづった文章がこのなかにおさめられているが、それと同様に、編者・高橋秀夫
の著者に対する気持があらわれた書物となっている。さらに、『萩原朔太郎雑志』
(小沢書店)によって、わたしは初めて朔太郎の詩集(『純情小曲集』、『青猫』、
『月に吠える』など、いずれもキンドルで 0 円)をひらくことになった。
しかし、なんといっても圧巻は菅茶山に関するもので、『菅茶山と頼山陽』(平凡
社・東洋文庫)、『日本詩人選・菅茶山』(筑摩書房)とよみすすみ、とうとう大著
『菅茶山』上下二巻(福武書店)を注文し、わが家に古物屋でみつけた茶山の軸
をかけるまでにいたった。千頁をこえる上下巻からなる大著は退職後の楽しみに
とってある。一連の読書でおそわったのは以下のようなことになる。明治維新以降
のわが国では主として欧米の文学が翻訳紹介されていわゆる外国文学という分
野が成立したが、それと同様に、江戸時代の外国文学は漢詩であった。漢詩は
五山文学等の先駆があるものの、日本の風土にねづいて独自のレベルに達した
のは江戸後期であったらしい。現代のわたしたちが英語でメモやノートをとったり
手紙や論文をかいたりするように、江戸時代の儒者は漢文をつかっていた。そし
てそれはつい最近、たぶん明治・大正・昭和初期までつづいていたようだ。江戸
の文化は西鶴・近松やいわゆる戯作者文学や芭蕉・蕪村の俳句だけではなかっ
たということである。
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鷗外や富士川英郎の著書にたびたび出現するその父・游についてもわたしは無
知であったが、その大著『日本医學史』(1904 年初版、わたしの蔵書は 1948 年
真理社版、池見猛の印あり)をインターネット日本の古本屋でもとめて頁をひもとく
うちに、その学問としてのスケールの大きさにおどろかされた。わが国の医史学の
開祖のような人物だが、尋常なひとではない。『日本医學史』のなかには、わたし
の専門の歯科学の歴史にも天平時代にさかのぼってふれられており、くだれば伊
澤蘭軒の本家の子孫が代々福岡黒田藩の口中医をつとめ、明治になってハー
バード大学にまなび、銀座に歯科を開業したというような話もでてくる。もうひとつ
の重要な著書『日本疾病史』(平凡社・東洋文庫)は感染症の歴史的解説書であ
るが、ただ脱帽するしかない。序文は、学生諸君が腫瘍学総論で学習する藤浪
肉腫のあの藤浪鑑による。序論では解剖病理学、実験病理学、臨床病理学にく
わえて歴史病理学(疾病史)が病気の理解に必要だとあり、そういう独自の視点
でつくられた研究書である。まず圧倒されるのは奈良時代以前から慶応年間まで
の疫病年表だろう。わたしは病理学教科書の口腔粘膜疾患の章に水痘や麻疹
については記載しているが、天然痘の項はいれていない。その病気をわたしもし
らないし、すでに地球上から消失した病気だからでもある。しかし、この病気はヒト
の不治の伝染病の代表格として長い歴史があった。ジェンナーの種痘法は、開
発されてから九年後には中国につたわり、ついで日本にも広まっていったという。
お玉が池種痘所から東京大学医学部が出発したことは周知のところだが、人痘を
つかった研究もおこなわれた痘科という領域がすでに全国各地に展開されてい
て、牛痘が容易に普及できる背景が江戸期のわが国の医療に確立されていたこ
ともおしえられた。このような博学多識の<知の巨人>は日本では南方熊楠だけ
かと思っていたが、富士川游は熊楠と双璧をなすだろうと考えをあらためた。東洋
文庫版では松田道雄の解説が秀逸である。
以上のように、わたしは富士川父子二代にわたってお世話になってきたわけだが、
今年になって、新聞の書評で富士川義之著『ある文人学者の肖像 評伝・富士
川英郎』(新書館、3,888 円)をしらされ、すぐに入手した。ハードカバーの分厚い
書物であるが、これも一気に楽しくよませていただいた。著者は富士川英郎の子
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息の英文学者である。落ち着いたわかりやすい文章で、父英郎、あるいはその兄
弟や祖父游のことがつづられており、わたし自身の富士川英郎の感想と重なると
ころがあった。この著者の書物はこれしかしらないが、富士川游・英郎といういず
れ劣らぬ天才の家系で、当代の義之先生に(そしておそらくその次の世代にも)
学究の資質が継承されている事実を前にして、わたしは感嘆を禁じえない。
菅茶山の五言律詩に「但憑三世薬」(三代くらいつづいた医家の薬でないと信用
できない)という句があるが(『江戸詩人選集第四卷菅茶山・六如』、岩波書店)、
鷗外が伊澤蘭軒の四世代を詳述することをうまず継続できたのは、医者という家
業だけでなく親子にうけつがれていく共通の人間性のようなものに親近感をみい
だしたからだったのかもしれない。かれが「わたしは學殖なきを憂ふる。常識なき
を憂へない」と緊い口調で『蘭軒』をとじているのは、連載を批判していた人々に
対して、そういうことがわからないのかと歯痒がる気持があったのだとおもう。本稿
冒頭で、鷗外の史伝三編を紹介したが、このうち、富士川英郎は『伊澤蘭軒』がも
っとも面白いとしている。わたしは、途中で何度もなげだしたあとで初めて『蘭軒』
を読了したときに、その人物交流の広大さをふりかえって何度でもよみかえす楽
しみができたという充実感があった。『蘭軒』には当時の医者たちがあつまって症
例検討会をひらいていた様子も描かれているが、抽斎はあまり発言しなかったら
しい。「あのかたは医者というより儒者のほうだから」という話の段にきて、それまで
一番親近感のあった『渋江抽斎』の比重が軽くなるのを自覚した。また、一方で、
構成と仕上がり具合では『北条霞亭』がもっともよくできているともかんがえていた。
最近になって、鷗外研究家の畏友・西澤光義博士(元日本医科大学・免疫学)も
同様の意見であることをうかがい、わが意をえたりと嬉しかった。
(紹介した書物の多くは絶版だが、古本で流通しているし、図書館にいけば閲覧もできる)
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