井手みえこ さんを偲んで

―訃報―
井手 みえこさんを偲んで
植 村 猶 行
卒業と同時に記者として日本農業新聞社に入社した貴女
が、初めて私をお訪ねくださって、「ガーデンライフの編
集部に入りたいが…」と話されたのには驚きました。創刊
5年目で、その年も新入社員を1人貰って、総勢7人にな
ったばかりで、応じることができませんでした。
その翌年海外旅行が解禁になり、アメリカ西海岸の花事
情視察が実現し、総勢131名で、貴女もご一緒に出掛けま
2001年9月花葉会総会にて
したね。
を受け、父親が出征したので同年の夏、葉中他の親類があ
園芸文化協会で協力
一方私は、社の了解を得て、昭和40年に6園芸文化協会
る伊良子岬に疎開した。疎開先の家は地域の温室園芸の指
の理事に就任し、常務理事だった上司の小松崎英男氏と共
導的役割を果たしており、後に井手みえことして仕事をす
に、会報の編集を担当していましたが、誌名を「園芸文化」
るにもお世話になった。
品川区で三ッ木小、伊東中学で過ごし、川崎市の向ヶ丘
と改題して月刊化した折、貴女にお手伝いをお願いしまし
遊園に転居して、ここから都立明正高校、千葉大学に通っ
たね。
その後、貴女も協会の参事に就任し、日本橋三越本店の
「花の文化展」や、新宿御苑の「園芸文化展」の企画や設
た。高校で文芸部、卓球部で、なぜ園芸学部を選んだのか
理由はよく分からない。父は法律関係だったが、母は化学。
一族は理系、工学系が多く、姉が生物部で採集した植物の
営は勿論、記録誌の編集まで手伝っていただきました。
標本づくりを年中手伝わせていたことも関係あるかもしれ
大阪花博‘90でもまた
平成2年4月1日から9月30日までの183日間、大阪市
ない。入試が終って問題一つ間違ったのが合否の境目だと
の鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」では、私
言っていたが、落ちたと思っていたら4月1日になって補
が政府苑の花と緑担当のプロデューサーで、貴女は電通・
欠合格の連絡が来た。本人曰く正真正銘のビリ入学、卒業
東急エージェンシー合同の専門家集団の一員として、展
はビリから3番目だと自慢していた。
示・運営の計画立案と推進などの仕事に参画し、昭和62年
学生時代には晴海でしばしば開かれた大規模な国際見本
12月11日から平成2年11月30日までの間に、24回ものプロ
市のアルバイトで、美大生にもぐりこんで模型作りや図面
デューサー会議を開いて精力的に討議検討しましたね。特
かき、展示などを体験していた。学生の頃、古在由重氏が
に貴女は「フラワーワールド」の担当者として、大変苦労
父親と同じ大学に移ってこられ、子供たちがクラスメート
されましたが、その過程で多くのことを学び、以後の活躍
だと親同士話題にしたと聞いている。
1967年卒業後、農業新聞就職は、本人の文学趣味と専攻
の基礎となったように思われます。
が生かせたスタートだった。その後出版界と園芸との組み
意志の強い男勝り
貴女の努力と意志の強さは抜群で、常人の遠く及ばない
合わせは、学部の強力な人脈のおかげで、先輩に引き立て
ところ、俗に言う男勝りで、稀に見る逸材でした。「花葉
ていただき、自分の感性と環境を軸に時代の方向を自然に
会」でも2001年に岩佐吉純幹事長の後を受けて代表幹事に
たどって行けた。1972年カナダ留学、カルガリーやアルバ
抜擢されましたが、病を得て、その真価を発揮できなかっ
ータ大学等の講座で先住民と民俗学的植物誌に目を向ける
たのは、返す返すも残念です。ご冥福をお祈り申し上げて
ようになった。
姉妹の中で最も気が強く、勝負事にも強かったのに、つ
筆を擱こう。
ましく生活を楽しむだけで、全般に不確かなことは決して
○井手 三重子(いで みえこ)の履歴
手を出さない。良くも悪くも受けた教育の科学的訓練の結
1944年 昭和19年1月2日 東京都品川区生まれ
果であると言っていた。巨大資本を動かせる立場だったら
四人姉妹の次女
何をしたか、やらせてみたかったと家族としては思う。
太平洋戦争のさなか、生地西品川は日本で最も早く空襲
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(姉 井手 暢子)