シロナガスクジラの下顎骨挙上時のシミュレーション

日本セトロジー研究 Japan Cetology (18):1-7(2008)
シロナガスクジラの下顎骨挙上時のシミュレーション
新村 龍也 1) 大石 雅之 2)
Simulation study on mouth closure of the blue whale
Tatsuya Shinmura 1) and Masayuki Oishi
2)
要 旨
U 字型の吻部は、シロナガスクジラの頭骨の主たる特徴となっている。著者のひとりの大石は以
前にナガスクジラ科鯨類の下顎骨の研究で、吻部の形態と密接な関係がある下顎骨について、次
のように指摘した。シロナガスクジラの下顎骨は、水平面に置いたとき、関節部が内旋し筋突起
が上方へのびるという独特の特徴をもつ。これに対してクロミンククジラでは、間接部は内旋せず、
筋突起が上外方へのびる。両者の違いは吻部の形態に対応する。シロナガスクジラの U 字型の吻
部は下顎骨の長軸方向での内旋を必要としないが、クロミンククジラでは、口を閉じた状態で下
顎骨と V 字型の吻部との間の隙間を最小にするために下顎骨が内旋する。この状態では、クロミ
ンククジラの下顎骨の関節部は内旋することになる。つまり、口を閉じたときにはシロナガスク
ジラもクロミンククジラも関節の状態は同等である。本研究では、3DCG ソフトを使って上記の
ことを検証した。3D シミュレーションの結果、大石の以前の研究の有効性が認められ、さらにシ
ロナガスクジラ下顎骨挙上時に下顎骨がわずかに内旋することが新たにわかった。鯨類のような
巨大な頭骨について、3DCG で以上のような状況を確かめることができる。
Abstract
The U-shaped rostrum is the main characteristic feature in the skull of the blue whale,
Balaenoptera musculus . In his preceding study on balaenopterid mandibles, one of the
authors, Oishi, indicated that the morphology of the mandible has a close relevancy to that
of the rostrum, as follows. The mandible of the blue whale has unique characteristics such
as the condylar region rotating inward and the coronoid process extending upward when the
mandible is laid on the horizontal floor. In contrast, the Antarctic minke whale, Balaenoptera
bonaerensis , has a mandible showing a non-rotating condylar region and the coronoid process
extending upward and outward. The difference between the mandibles of the blue whale
and the Antarctic minke whale corresponds with rostral morphology. The U-shaped rostrum
of the blue whale requires no inward rotation of the mandible at the long axis, however the
mandible of the Antarctic minke whale rotates inward when its mouth is closed so that the
hiatus between the mandible and the V-shaped rostrum is minimized. In this situation, the
condylar region of the mandible of the Antarctic minke whale rotates inward. In other words,
the state of articulation in the condylar region is equivalent in both the blue and Antarctic
minke whales when the mouths are closed. In this study, the authors validated the evidence
noted above by using 3DCG software. The results of our 3D simulations show the validity of
the preceding study by one of the authors. Furthermore, we newly recognized the weak inward
rotation of the mandible when the mouth of the blue whale is closed. 3D computer models
enable us to conduct virtual tests on enormous materials such as whale skulls.
はじめに
鯨類は、水生適応の過程で他の哺乳類にはみられな
る摂餌機構により餌生物を含む海水を一度に大量に摂
い独自の生活様式を進化させてきた。中でもヒゲクジ
取する(Pivorunas 1979)。この摂餌機構については、
ラ類のクジラヒゲによる濾過摂餌(filter feeding)の
Lambertsen et al. (1995) が生体力学的に検討し、下顎
確立は、最も顕著な特徴のひとつである。ヒゲクジラ
骨を開閉する運動(デルタ回転)ばかりでなく、下顎
類は、さらに各系統でクジラヒゲを使った独自の摂餌
骨の長軸方向を軸とした内旋・外旋運動(アルファ回
様式を発展させた。現生ナガスクジラ類(rorquals)
転)、および関節突起の位置を内外に移動させる運動
では、「のみこみ型(engulfment feeding)」とよばれ
(オメガ回転)の組み合わせによって実現されている
1) 新潟県立自然科学館 〒 950-0948 新潟県新潟市中央区女池南 3 丁目 1-1
Niigata Science Museum, 3-1-1, Meikeminami, Chuo-ku, Niigata 950-0948, Japan
2) 岩手県立博物館 〒 020-0102 岩手県盛岡市上田字松屋敷 34
Iwate Prefectural Museum, 34 Ueda-Matsuyashiki, Morioka 020-0102, Japan
1
新村 龍也・大石 雅之
と指摘した。Kimura (2002) および木村(2005)は、
et al. 2003)。
ナガスクジラ類が下顎骨にみられる後外側に屈曲し
これまでヒゲクジラ類の形態学的研究、特に骨学に
た筋突起、内方隆起、水平枝中位部腹側縁の稜を進化
基づく研究が進展してこなかった理由として、標本化
させたことにより、のみこみ型摂餌機構を発達させた
に多大な労力が必要とされ、個体が大きくて取扱いが
と考えた。そして、祖先の系統を含むケトテリウム類
困難であること、そのために直接的な比較がほとんど
(cetotheres)では、積極的な筋肉の貢献を必要とする
不可能である点などが大きかったと考えられる。本研
効率の悪い摂餌機構のものも含まれるとした。これに
究では、そのような難点を克服するための一助として、
対して、現生ナガスクジラ類では、遊泳中の水圧の変
市販の 3DCG ソフトでナガスクジラ科鯨類の頭蓋と下
化を利用してほとんど自動的に作用する効率のよい摂
顎骨をモデリングし、パソコン上で頭蓋に対する下顎
餌機構を獲得したといわれる(Lambertsen et al. 1995,
骨の最も合理的な位置を検討することによって、大石
Lambertsen and Hintz 2004)。
(1997)が指摘した下顎骨の形態的な特性を検証する。
現 生 ナ ガ ス ク ジ ラ 科 Balaenopteridae の 鯨 類 は、
ナガスクジラ科鯨類の下顎骨は、捕鯨業者が「伝胴」
2 属 9 種(Megaptera novaeangliae , Balaenoptera
と呼称する特異な構造(緻密な非弾性的結合組織や脂
acutorostrata , B . bonaerensis , B . omurai , B . edeni , B .
肪に富む弾力性のある繊維)を介して関節突起が頭蓋
brydei , B . borealis , B . physalus , B . musculus )からなる
の鱗状骨と関節している(Lambertsen et al.1995)。
(Rice 1998, Wada et al. 2003, 大 石 ら 2004, Yamada
そのため軟組織を除去した骨格標本では関節突起は中
et al. 2006)。ナガスクジラ属 Balaenoptera の中のシ
空に浮いた状態となり、下顎骨の正確な位置を定め難
ロナガスクジラ B . musculus については、背側観で吻
く、さらに標本が大型であることで実際の標本を用い
部の外縁が U 字型を呈し、他の種が V 字型であるな
た直接的な検討がより困難になっている。パソコン上
どのちがいから、Sibbaldus ないしは Sibbaldius とし
でのシミュレーションでは、実物では困難である空間
て別属に扱われることもあった(Miller 1923, 1924,
的配置の試行を容易に実現できる利点がある。
Barnes and McLeod 1984, 大石 1997)。大石(1997)
2
は、岩手県平泉町の最後期中新世∼前期鮮新世の竜の
材料と方法
口層(大石ら 1998, 柳沢 1998)から産出したナガス
本 研 究 で は、 シ ロ ナ ガ ス ク ジ ラ Balaenoptera
クジラ科鯨類の下顎骨化石 IPMM 60016 を検討する中
musculus (Linnaeus 1758) の 頭 蓋 と 下 顎 骨 に つ い て
で、現生ナガスクジラ科鯨類の下顎骨についての比較
検討するが、国内の博物館には従来頭蓋と下顎骨がと
を行い、シロナガスクジラ Sibbaldus musculus に特有
もに保存されている B . musculus 標本はなかった。こ
の形態を見出し、IPMM 60016 を Sibbaldus sp. として、
こでは、頭蓋と下顎骨を同時に接近しやすい状態で東
これが S . musculus を含むグループに属すると考え、S .
海大学海洋科学博物館に展示、保管されている、亜種
musculus の下顎骨にみられる特有の形態は上顎骨の形
のピグミーシロナガスクジラ Balaenoptera musculus
態に対応することを指摘した。なお、シロナガスクジ
brevicauda Ichihara, 1966 を使って検証する。なお、
ラの属の扱いについては、その後に蓄積されたデータ
下関市立しものせき水族館「海響館」にはノルウェー
の検討により、後述のように Balaenoptera とするのが
のトロムソ大学所蔵の B . musculus が展示されている
適当である(大石ら 2004)。
が(下関科学海洋アカデミー 2001, 加藤 2001)、概
ヒゲクジラ類頭蓋の形態学的知識は、本研究で取り
査のかぎりではここで議論する形質に関して、B . m .
上げる B . musculus の下顎骨ばかりでなく、大石(1999)
brevicauda においても同等である。トロムソ大学所蔵
が述べたように、意外なほど整理されていない。1970
の B . musculus については、下関科学海洋アカデミー
年代の特別捕獲調査による材料から、いわゆる「ニタ
(2001) によればノルウェー沖産であり、北米東岸沖産
リクジラ」が複数の種からなることが指摘されて以来
の B . musculus USNM 49757 も合わせて、後述の Rice
(Wada and Numachi 1991)、この問題について多くの
(1998) により B . m . musculus ということになろうが、
研究者が分子生物学的に追究してきたが、分子生物学
B. m. brevicauda 以外の亜種の形態的相違については
的証拠に加えて形態学的標徴形質を使った比較をする
ほとんどわかっていないので、ここでは、B. musculus
ことによって、いわゆる「ニタリクジラ」が B . omurai , B .
と表記するにとどめる。比較のために岩手県立博物
edeni , B . brydei , の 3 種に分かれることがわかり、はじ
館所蔵のクロミンククジラ Balaenoptera bonaerensis
めて分類学的な成果が得られることとなった(Wada
Burmeister, 1867 IPMM 60434 お よ び IPMM 60435
シロナガスクジラの下顎骨挙上時のシミュレーション
を用いた。また、B . musculus の他の標本や、ミンクク
29617)。筋突起は、下顎骨を水平面に置いた場合の
ジ ラ Balaenoptera acutorostrata Lacepede, 1804、 イ
断面では、上方に向かう(大石 1997, 第 3 図 E, KCM
ワシクジラ Balaenoptera borealis Lesson, 1828、ナガ
specimen)。後側観で下顎角に対して関節突起は著し
スクジラ Balaenoptera physalus (Linnaeus 1758) につ
く内旋する(大石 1997, 第 3 図 E, KCM specimen; 図
いてもいくつかの標本を検討した。
2A, NHM 1953.11.5.2 お よ び B, NSMT 29617)。 下
頭蓋と下顎骨のモデリングには、市販の 3DCG ソ
顎骨の形態は B . m . brevicauda でも同様である(大石
フト「shade」(株式会社イーフロンティア製品)を
用 い て パ ソ コ ン 上 で 再 現 し た。B . m . brevicauda の
検討を行う前段階として、3 次元的な研究がすでに
な さ れ て い る B . acutorostrata (Lambertsen et al.
1995, Lambertsen and Hintz 2004)に形態の近い B .
bonaerensis を Lambertsen et al. (1995) や Lambertsen
and Hintz (2004) を参考に 3 次元的に再現し、3DCG
ソ フ ト「shade」 の 有 効 性 を 検 討 す る と と も に、B .
bonaerensis の下顎骨を挙上した状態の特徴から B . m .
brevicauda の下顎骨の位置の条件を仮定し、頭部に対
する最も合理的な配置を推定した。B . m . brevicauda
(MSMTU specimen)と B . bonaerensis (IPMM60434)
の 下 顎 骨 は 大 石(1997) に よ る 図 を 用 い た。B . m .
brevicauda の頭蓋は Omura et al. (1970) による写真を
図 1 Balaenoptera musculus USNM 49757 の頭蓋 . A, 背側観 ; B, 腹側観
トレースした。B . m . brevicauda の頭蓋と下顎骨のス
ケールは Omura et al. (1970) の計測値を用いてそろえ
た。B . bonaerensis の 頭 蓋 は、IPMM60434 が 標 本 作
製の過程でやや変形しているため、B . bonaerensis の
別標本 IPMM60435 の写真をトレースして用いた。
機 関 略 号 は 以 下 の と お り で あ る。IPMM, 岩 手 県
立 博 物 館( 盛 岡 )、KCM, 釧 路 市 立 博 物 館( 釧 路 )、
MSMTU,東海大学海洋科学博物館(静岡)、NHM, 自
然史博物館(ロンドン)、NSMT, 国立科学博物館(東京)、
USNM, 国立自然史博物館(ワシントン DC)。
結 果
Balaenoptera musculus の背側観および腹側観では
(図 1, USNM 49757: Miller 1924 の標本)、上顎骨の
外縁は基部から中位部までほとんど平行であり、中
位部から湾曲しながら徐々に先細りし、吻部全体と
してはいわゆる U 字型を呈する。外側観では、上顎
骨の外縁はほとんど直線的で、上顎骨の背面は平坦
で あ る(Miller 1924, pl. 3)。Balaenoptera musculus
brevicauda の外側観における上顎骨の外縁もほとん
ど直線的であるが、背側観および腹側観における上
顎骨の外縁は基部から中位部までの間ですでに先細
りがわずかに始まっている(Omura et al. 1970)。B .
musculus の 下 顎 骨 は、 背 側 観 で 全 体 と し て ほ ぼ 一
図 2 ナガスクジラ科鯨類の下顎骨関節部 . A, Balaenoptera musculus
NHM 1953.11.5.2; B, Balaenoptera musculus NSMT 29617, 左下
顎骨に押されて外側へやや回転している ; C, Balaenoptera
musculus brevicauda MSMTU specimen; D, Balaenoptera
acutorostrata NSMT 19792; E, Balaenoptera borealis NSMT
03536; F, Balaenoptera physalus NHM 1848.10.12.20
様 に 外 側 に 湾 曲 す る( 大 石 1997, 第 3 図 D, NSMT
3
新村 龍也・大石 雅之
1997, 第 3 図 F, MSMTU specimen; 図 2C)。
Balaenoptera bonaerensis の背側観および腹側観(図
3A)では、上顎骨の外縁はおおむね直線的で、基部か
ら先細りし、吻部全体としてはいわゆる V 字型を呈す
る。外側観では、上顎骨の外縁は上方に向かってきわ
めてゆるく湾曲するが、この状況は基部から中位部に
かけて目立つ。吻部の V 字型は B . musculus 以外のナ
ガスクジラ属鯨類でも同様に見られるが、B . omurai で
は外側への湾曲が目立つ(大石ら 2004, 第 5 図)。背
側観において V 字型が顕著で上顎骨の外縁がほぼ直
線的な B . borealis では、外側観においては吻の上方
への湾曲が顕著である(Andrews 1916, pls. XLI-XLII;
Nishiwaki and Kasuya 1971, pl. 1)。B . bonaerensis の
下顎骨は、背側観で後部においてやや屈曲する(大石
図 3 モデリングに用いたナガスクジラ科鯨類の頭蓋 . A, Balaenoptera
bonaerensis IPMM 60435, 標本写真をトレース ; B, Balaenoptera
musculus brevicauda MSMTU specimen。Omura et al. (1970) の
plate をトレースした。それぞれ外側観 , 腹側観を示す。伝胴の大き
さは Lambertsen et al. (1995) と本研究で作製した B . bonaerensis
の図より推定した。スケールは任意。
1997, 第 3 図 A, IPMM 60434=IPMM (330); 図 4A)。
なお、大石(1997)の“B . acutorostrata ”は分類の改
編(Rice 1998)により、B . bonaerensis となっている。
下顎骨の背側観での屈曲は B . acutorostrata でも同様
である(Demere 1986)。B . bonaerensis の筋突起は、
下顎骨を水平面に置いた場合の断面では、上外方に向
かう(大石 1997, 第 3 図 A, IPMM 60434)。後側観で
下顎角に対して関節突起はほぼ上方に位置する(大石
1997, 第 3 図 A, IPMM 60434)。後側観における下顎
角と関節突起との位置関係は、B . acutorostrata NSMT
19792, B . borealis NSMT 03536, B . physalus NHM
1848.10.12.20 でも同様である(図 2D-F)。
頭蓋と下顎骨の形態を以上のように把握して、3DCG
ソフト「shade」による B . bonaerensis のモデリング
図 4 ナガスクジラ科鯨類の下顎骨の図と 3DCG ソフトで作製した下顎骨 .
A, Balaenoptera bonaerensis IPMM 60434; B, Balaenoptera
musculus brevicauda MSMTU specimen. 断面、後側観、外側観、 背側観を示す。大石(1997)を改変。A', B . bonaerensis ; B', B . m .
brevicauda , それぞれ 3DCG ソフトで作製した下顎骨の外側観 , 背側
観を示す。スケールは任意。
を行った(図 3-5)。図 5 で再現された頭蓋と下顎骨
との配置は、腹側観において下顎骨の関節突起が鱗状
骨の関節窩の中央に位置し、上顎骨の外縁と下顎骨の
上縁との間に隙間は見られず、Lambertsen and Hintz
(2004) の Fig. 3 と酷似する。外側観において、下顎骨
の先端は上顎骨よりも前方に突き出し、吻先端付近で
は上顎骨の外縁と下顎骨の上縁との間に隙間がなくな
るが、吻後部では上顎骨の外縁と下顎骨の上縁の間に
隙間ができる。これについては、下顎の断面において
(たとえば Pivorunas 1977)、下顎後部で唇が厚くなる
ことで説明できる。以上のことから、大石(1997)か
ら引用した図を用いた 3DCG ソフト「shade」による
モデリングは、3 次元的に正確にヒゲクジラ類の頭部
を再現していると考えられる。
こ の 3DCG ソ フ ト「shade」 に よ っ て 作 製 し た B .
bonaerensis をもとに、B . m . brevicauda の下顎骨の配
置を推定するに際して、次の 3 点を仮定した。すなわち、
4
図 5 3DCG ソフトで再現した Balaenoptera bonaerensis の頭部 . 外側
観、腹側観、前側観、後側観を示す。
シロナガスクジラの下顎骨挙上時のシミュレーション
骨中部の上縁と上顎骨外縁の間に大きな隙間ができる
(図 6C)。このアルファ回転の程度で、隙間をなくすこ
とは不可能である。これらのことから、仮定した条件
内で、遊泳時の水の抵抗や、上顎骨と下顎骨の隙間を
できるだけなくすことを考えると、図 6 の B がもっと
も合理的である。
B . musculus は、他のナガスクジラ属の種に比べて
背側観における吻の幅が広く(図 1)、外側観での吻の
湾曲は非常に弱い(Miller 1924, Omura et al. 1970)。
さらに、下顎骨の下縁を水平に置いた状態での下顎角
に対する関節突起の位置は、他のナガスクジラ属の種
に比べて大きく内旋し、筋突起は上方に伸びる。大石
(1997)はこれらの特徴から、B . musculus では口を閉
じた状態でアルファ回転は弱く、この適応により他の
ナガスクジラ属の種と比べて開口部の面積が大きくな
り、このことが体格の巨大化のために効率よく働いた
と推定した。本研究の結果は、B . m . brevicauda のアル
ファ回転は弱いことを示し、大石(1997)の仮説を支
持している。
考 察
下顎骨を水平面に置いた状態で比較すると、強い
アルファ回転を必要としない B . musculus では下顎角
図 6 3DCG ソフトで再現した Balaenoptera musculus brevicauda の頭
部 . A, アルファ回転強め ; B, アルファ回転弱め ; C, アルファ回転な
し。それぞれ外側観、腹側観、前側観、後側観を示す。
に対する関節突起の位置は内旋し、筋突起は上方にの
びる。一方、挙上時に強いアルファ回転を必要とする
B . bonaerensis では関節突起は下顎角の直上付近に位
置し、筋突起は上外方にのびる。いいかえると、下顎
骨 の 挙 上 時 で は、B . musculus も B . bonaerensis も 関
1) 伝胴の大きさは Lambertsen et al. (1995) の図や本
節突起は下顎角に対して内旋した位置にあり、筋突起
研究で作製した B . bonaerensis と同程度である、2) 下
は上方にのびる。しかし、B . musculus では水平枝は
顎骨先端が前上顎骨よりやや前方に出る、3) 関節突起
外方に湾曲するが、B . bonaerensis では水平枝は外上
が関節窩の中央に位置する。これらの仮定を満たすよ
方に湾曲することになる。この状態は上顎骨のそれぞ
うに B . m . brevicauda の下顎骨の位置を検討した。
れの形態に対応している(大石 1997)。3DCG では、
その結果、
B. m . brevicauda の下顎骨は B . bonaerensis
このことが比較的に容易に検証できたといえる。B .
のように Lambertsen et al. (1995) のアルファ回転を強
bonaerensis の下顎骨の挙上時の配置から考えると、
「水
くすると、下顎骨中位部が上顎骨の高さを越える(図
平枝(horizontal ramus)」(Demere 1986) の用語は適
6A)。このアルファ回転の程度で上顎骨を超えないた
当でないかもしれない。
めには、仮定した条件よりも伝胴を大きく設定して関
今回の検証で、B . musculus の下顎骨は挙上時に弱
節突起を下方へずらす必要がある。アルファ回転を、
いアルファ回転が必要であることがわかった。大石
上顎骨の高さを越えない程度に弱くすると、腹側観で
(1997)では水平に置く想定までであったが、これに
は、下顎骨中位部の上縁と上顎骨外縁の間にやや隙間
より竜の口層産 Balaenoptera sp. IPMM 60016 は関節
ができる(図 6B)。このアルファ回転の程度で、隙間
突起が多少地圧で圧縮されているにせよ、見た印象ほ
をなくすためには、仮定した条件よりも関節突起を関
ど異常な形態ではないといえる。Demere et al. (2005)
節窩中央よりやや内側に移動させる必要がある。アル
は、IPMM 60016 が病変である可能性を述べているが、
ファ回転をほとんどなくすと、腹側観と外側観で下顎
B . musculus の関節突起の形態が認識されていない証左
5
新村 龍也・大石 雅之
ということになろう。
違いは吻部の形態に対応する。つまり、B . musculus
Rice (1998) に よ れ ば、B . musculus に は 3 つ の 亜
の U 字型の吻部は下顎骨のアルファ回転による内旋
種が認められている。それは北大西洋と北太平洋の B .
をほとんど必要としないが、B . bonaerensis では、下
m . musculus , 南 半 球 の B . m . intermedia , イ ン ド 洋 の
顎骨と V 字型の吻部との間の隙間を最小にするため
南半球と南西太平洋の B . m . brevicauda である。B . m .
に口を閉じた状態で下顎骨が内旋する。この状態で
indica についてはよくわかっていないという。ニュー
は、B . bonaerensis の下顎骨の関節部は内旋すること
ファンドランド産の USNM 49757(Miller 1924)は
になる。つまり、口を閉じたときには B . musculus も B .
B . m . musculus ということになる。Omura et al. (1970)
bonaerensis も関節の状態は同等である。ただし、今回
は、頭蓋の長さに対する吻部基部の幅は B . musculus
の検証では、B . musculus は弱いアルファ回転が必要で
と B . m . brevicauda とも 29-31% で変わらないが、吻
あることがわかった。鯨類のような巨大な頭骨につい
部中位部の幅は B . musculus で 29%、B .m . brevicauda
て、3DCG ソフトによるこのような検証は有効である。
で 25% になるとしている。いまのところ、下顎骨につ
いては B . m . musculus と B . m . brevicauda の形態的な
謝 辞
相違は見い出されていないので、Omura et al. (1970)
標本の検討に際して、山田 格(国立科学博物館)、
による 2 亜種の上顎骨の形態的な相違は、本研究の議
塩原美敞・石橋忠信(東海大学海洋科学博物館)、橋
論には影響しないと考えられる。
本正雄・山代淳一(釧路市立博物館)、P. D. Jenkins,
大石(1997)は B . musculus とその他のナガスクジ
R. Sabin, R. Harbord(Natural History Museum,
ラ属鯨類の上顎骨と下顎骨の形態的な違いを重視して
London)、C.W. Potter(National Museum of Natural
“Sibbuldus ”の属名の復活を試みたが、その後上顎骨外
History, Smithsonian Institution)
の各氏のお世話になっ
縁の湾曲がやや著しい B . omurai (Wada et al. 2003)
た。下関市立しものせき水族館に展示中の標本の概査
が新たに認識されるようになって U 字型と V 字型の中
にあたっては、石橋敏章、水嶋健司、立川利幸、中村
間的な形態のナガスクジラ属鯨類が存在することが明
清美の各氏のお世話になった。特に国立科学博物館の
らかになったことから、吻の形態の違いは系統を反映
山田 格氏にはミンククジラ頭部の解剖による知見を
したものではないと考えられるようになった(大石ら
得る機会を与えていただき、有益な議論をしていただ
2004)。上顎骨と下顎骨の形態は、むしろ食性などを
いた。本研究の初期の段階で、J. G. Mead 氏(National
反映した収斂によるものかもしれない。そうだとすれ
Museum of Natural History, Smithsonian Institution)
ば、この形質はヒゲクジラ類の様々な系統で繰り返し
には重要な示唆をいただいた。調査の一部は藤原ナチュ
出現した可能性がある。このようなことは、系統解析
ラルヒストリー振興財団およびカメイ社会教育振興財
を行う上で注意すべき問題になろう。
団の助成金、文部省による学芸員等在外派遣研修で行っ
本研究では、ヒゲクジラ類の頭蓋と下顎骨の配置を
た。以上の方々、機関に対して深謝申し上げる。
検討するにあたって、3DCG を使ってパソコン上で再
現した。この方法は、巨大なヒゲクジラ類の頭蓋の形
引用文献
態を検討する上で有効であると考えられる。この方法
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でさらに厳密な議論を行うためには、数量的な記述を
行う必要があるが、本研究のように各地に分散して所
蔵されている標本を扱う場合、初期の段階から綿密な
調査計画を立てる必要がある。
まとめ
本研究では、大石 (1997) が指摘した B . musculus に
特有の下顎骨の形態について、B . bonaerensis と比較
しながら 3DCG ソフトにより検証した。B . musculus の
下顎骨は、水平面に置いたとき、関節部が内旋し筋突
起が上方へのびる。これに対して B . bonaerensis では、
下顎骨は内旋せず、筋突起が上外方へのびる。両者の
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シロナガスクジラの下顎骨挙上時のシミュレーション
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