農業から地域コニュニティへ「ジョイファーム小田原編」

この文書は、パルシステム連合会発行(2008年7月発行)の著書「パルシステム産
直物語」に掲載された内容を一部編集して掲載しています。
著作権の関係で、個々にお読みになることは可能ですが、転送・転記等はしないでくだ
さい。
「産直」が地域をつくる。人をつくる。生き方を変える
「いつも口にしている」食べもののふるさとを訪ねるパルシステムの産地交流。参加者
は自分たちの食卓に並ぶ野菜や米、肉、魚介類などが、育まれている場に直に触れ、それ
を生み出している人々と語り合うことで、食べものは豊かな自然や生命とつながっている
こと、自分自身もその自然の一部であることを実感する。
自然や生き物を相手にする農業の価値は、「効率」や「均質」といった「ものさし」では
うまくはかることができない。けれど確かなのは、これから先もずっと、食べものをつく
る場、食べものを育み、つくる人たちが「元気」でいられるような社会でなければ、私た
ちが安心して口にできる食べものを手に入れたり、平和で安定した暮らしを営んでいくの
はむずかしいということだ。
農業の問題は、農業者だけの問題ではない。それは、この日本に、地球に生きている人
間も含めたすべての「いのち」の問題なのだ。
パルシステムの「産直」は、「食べる人」「つくる人」という立場を超え、関わる者すべ
てが「生活者」としての視点で、農業の根幹に据えた社会システムや持続性の高い食生産
のあり方を模索してきた。そんな取り組みの成果がいま、それぞれの「暮らしの現場」で
徐々に形に現れ始めている。
農業から地域コニュニティへ「ジョイファーム小田原編」
最初は「経済基盤」が欲しかった
「こんな景色、俺らには当たり前だったわけよ。灯台下暗しってこのことだよなぁ」
眼下に広がる小田原の町並みとその向こうに続く駿河湾、そして、見事な富士の山。そ
の絶景を見渡しながら、ジョイファーム小田原(以降、ジョイファーム)代表の長谷川功
さんはつぶやく。
「交流事業始めてさぁ、たくさんの人がここに来るたびに『なんて素晴らしい所なの』
って感動してくれるんだよ。そんなの聞いていると、どんどんこっちにも誇りがでてきて
なぁ。産直を通して、 ここにしかない価値ってやつに気づかせもらったし、これをなんと
かして守らなきゃって気になってきたんだよな」
(長谷川さん)
ジョイファームは、神奈川県小田原市周辺の農家で組織されたグループ。30年近い産
直の歴史のなかで、環境や安全性に配慮した持続可能な農業をパルシステムとともに模索
し、実践してきた産地の一つである。
ジョイファームが「産直」を事業の柱にしようと考えたそもそもの動機を、
「ただただ切
実に安定した経営基盤が欲しかっただけさ」と長谷川さん。
その背景には、当時の日本のみかん農家を取り巻く環境変化があった。1960年代に
新植したみかんが一気に市場に出回るようになったことや、日本人の果物消費が多様化し、
みかんの需要が期待したほどには伸びなかったこと、輸入自由化(および輸入枠拡大)な
どにより、1970年代に入り、みかんの生産過剰が問題になり始めていたのだ。とくに、
グレープフルーツの輸入自由化が始まった翌年の1972年には、豊作も重なってみかん
価格は大暴落。当時「みかん危機」という言葉が盛んに唱えられたが、それまで活況を呈
していた小田原のみかん産業でも、廃園に追い込まれる農家が急増していた。
逆境のなか、長谷川さんらは曽我地区を中心とする農家グループ(後のジョイファーム)
が活路を見出そうと考えたのが、消費者と直接つながる事業形態=産直であり、そのアプ
ローチ先が江戸川生協(現・パルシステム東京)だったのだ。
「雑誌で共同購入モデルケースとして江戸川生協が紹介されている記事を見て、これ
だ!って」
(長谷川さん)
事業家としての長谷川さんの「読み」は見事に的中した。温州みかんから始まった取引
はパルシステムの拡大と並行して順調に伸び、農産物だけでなく、ブルーベリージャムや
梅干しなどの加工品にまで広がった。当初の見込み通り、ジョイファームは産直によって
経営基盤を盤石なものにすることができたのだ。
「産直疲労」の時期も…
首都圏近郊という地の利は商品の行き来もスムーズにしたが、それと同時に、組合員と
の交流活動も活発にした。年に一度、5月に玉ねぎ収穫体験なども盛り込んだ「オニオン
祭り」をはじめ、ブルーベリー、みかんの収穫体験、農業を学ぶ「たんぼの学校」「畑の学
校」「果樹の学校」
「ハーブの学校」など、いまでは3000人近い人々が小田原の交流に
参加している。
しかし、30年近くの産直の歴史のなかで、こうした「交流」の部分が「商品事業」と
同じように順調に発展してきた、とは必ずしも言い切れない。
オニオン祭りなど単発のイベントは会を重ねるごとにマンネリ化してくるし、一般論と
しても、直接の商取引とは別の「交流」に抵抗をもつ生産者も少なくない。
地元の産地ということで、ジョイファームとの交流活動を中心的に担ってきたパルシス
テム神奈川ゆめコープ理事長(現・元理事長)・斎藤文子は、「当初はイベントに参加する
組合員のなかに『お客さま感覚』が目立ち、また、ジョイファーム側も組合員との交流を
『接待』ととらえるような感覚があった」と振り返る。
「イベント的に楽しむことだけを目的にしているから、組合員のなかには連絡もないま
ま欠席したり、不満や文句ばかりを言う人たちも…。最初は『商売だから』と笑顔で対応
している生産者も次第に、
『畑に出たいのに、なんで組合員の相手をしなきゃいけないのか』
と負担感ばかりが募ってきてしまう。いわゆる『産直疲労』ですね」
こうした交流をめぐるトラブルや葛藤から互いに対する信頼感まで損なわれ、「産直」そ
のものが立ち行かなくなる例も少なくない。
しかし、小田原を舞台にした交流は、見事に「産直疲労」の時期を乗り越えた。いまで
は生産者、消費者の枠を超えた農業を核とした地域のコミュニティづくりが、この地で始
まっている。
「産直疲労」を乗り越えさせ、小田原での交流を地に足のついた取り組みへと
進化させたきっかけの一つが、農業体験講座「たんぼの学校」だった。
(オニオン祭りは、2015年度も継続して開催します)
「たんぼの学校」で交流参加の意識が変わった
2002年、パルシステムは、パルシステム神奈川ゆめコープ、ジョイファームなどと
ともに、
「小田原と緑の交流推進協議会」を発足。2004年に設立したNPO法人小田原
食とみどりを実行部隊として、食農教育・環境教育の視点を加味した事業に取り組んでい
る。
「田んぼの学校」も、そのなかの農業体験プログラムの一つ。田んぼ初心者から就農希
望者まで体験度に応じ様々なコースを展開している。
たとえば、
「田んぼの学校初級者コース」では、田植えから収穫まで米づくりの基本を地
元の稲作農家の指導のもとに学ぶ。入門編といえども、田植えは小田原独特の「田植え定
規」を使った手植え。稲刈りも手作業で行い、その後竹干しをし、最後に、全コース合同
で収穫を祝いながら「もちつき」をする、と本格的な農作業が体験できる。現在年間の参
加費は、初級が大人一人6000円、子ども一人3000円、中級になると1家族1万3
000円だ(現在の参加費はご確認ください)
当初から有料化は予定していたものの、金額については慎重に討議を重ね、初年度は1
家族3000円と設定した。ところが実際に開講してみると、この金額では農地の借地譜
代、インストラクターへの謝礼をはじめとする経費を賄いきれないことが判明。経費の不
足分は協議会が補てんすることになっていたが、「採算が取れないようでは続けていけな
い」と、翌年度には早速参加費を改訂した。金額が高くなることが参加意欲に水を差すの
ではとの懸念もあったが、ふたを開けてみれば初年度を上回る応募があった。
「従来の生協主催の交流の場合、参加費はせいぜい1000円程度。その感覚でいうと、
この金額を『高い』と感じる人もいるでしょう。でも、たんぼの学校については『お金を
払ってでも参加したい』という意欲的な人が集まっている。逆に、お金を払っている分、
関わり方も真剣になるようです。参加者をできるだけ運営に参画させるしくみをつくった
こともよかったようです」
(パルシステム神奈川ゆめコープ組合員活動支援グループ・谷地)
。
「親子共々とても貴重な体験をしました。この貴重な体験をこのまま終わらせてしまう
のはもったいないと、私自身は考えています。農業なんて無縁と思っていましたが、そう
ではないことがわかりました。我が家は男3人ですので、誰かしら“その道”に進む子が
いても、などと思ったりもしました」
「子どもたちも田んぼという所を思う存分味わい、満喫していたように感じました。こ
の経験が今後の成長の糧になることは間違いないと思っています。成長していく途中で、
田んぼをふっと思い出し、考えてくれることも多々あると思います。私自身も、食に対し
て深く知りたいという気持ちが大きくなりました。口に入るものがどこで、どのように大
きくなってこの形になり、自分の口に入ってくるのか。大切にいただいていきたいです」
これからは、2006年に「たんぼの学校」の初級コースに参加者が綴った感想だが、
この文章からも、田んぼの体験者の食や暮らしのあり方そのものを見直すきっかけになっ
ているのがわかるだろう。
「たんぼの学校」の企画運営に携わってきた斎藤も、「最初は恐る恐るという感じで、こ
ちらから一生懸命声をかけて行動を促していた参加者が、体験を重ねるごとに自信に満ち
あふれ、次に何をしようかと自ら主体的に動くようになった」と、参加者の変貌ぶりに目
を見張る。
「農地」を「食べものを生み出す場」として残したい
「私もここで田んぼ作業を自分でやってみて、農業とはすごい仕事だとわかった。気象
条件によっても、場所によっても、水によっても、とにかく毎年、一つとして同じことが
ない。そんな農業のむずかしさおからだで感じた時に、農業者の強さ、偉大さに改めて感
服し、これを絶対に絶やしてはいけないと思った」と斎藤。
その斎藤が危惧しているのは、首都圏に近い、つまり立地のよさから、小田原の生産者
が、逆に後継者を育てることにいまひとつ本気になれないように見受けられることだ。
「勤めようと思えば勤め先もあるし、土地も高く売ろうと思えば売れる。何をやっても
食べていける、という意味で、
『土地は残すが、どう使うかは子どもに任せる』という傾向
が強いようだ」
小田原の地を「農地」として残していきたい。農業者に誇りを持って農業を続けていっ
てほしい。そのためには、自分たちには何ができるか。
「いま神奈川の自給率は3パーセントで、東京はわずか 1 パーセント。いざとなったら
首都圏民は飢えざるを得ない。こんなにも食環境が不安定な今だから、小田原でできるだ
けいろいろな作物を輪作して、土地の力が強まるような農業を持続させていきたい。農地
を資産として捉えるのではなく、食べものを生み出す場として考えていきたい」
折しも電車で1時間圏内のところには、人生のセカンドステージを迎えようとしている
人が大勢いる。同じ時代を生き、思いを共有できる人々と共同しながら、小田原の自然を、
農業を、文化を通して、人としての本当に豊かな生き方を追い続けていきたい。
その思いは長谷川さんも同じだ。
「みかん山に立つと思い出すのは、野草のおやつ代わりにし、木の枝でチャンバラをし
て、暮れるまで走り回っていた子ども時代。遊具やゲームがなくたって、全然飽きずに1
日過ごせる。そんな遊び場を、いまの子どもたちにも提供したいなぁ」と長谷川さん。
「ここのコミュニティを守り、この地で農業を継続させていくこと。そのためにも、俺
らだけじゃない、たくさんの人に助けが必要だと思う」
(パルシステム静岡では、2012年度から富士市芝川町の遊休農地を利用して『里山酒
米ぷろじぇくと』を展開しています。大人一人5000円の参加費をもとに運営をおこな
っています。ぜひ登録をお願いしたいと思います)
大地とともに心を耕せ「無茶々園編」
正月よりも大事な「秋祭り」
柑橘の産直産地・無茶々園のある愛媛県西予市明浜地区では、毎年秋風が吹くころにな
ると、人々がソワソワし始める。10月下旬に、村の守り神を村人で手で祀(まつ)る「秋
祭り」があるからだ。
牛鬼の切りまわし、お神楽、踊り、巫女舞…。祭りが近づくと、毎晩太鼓の音が響き渡
り、練りに出る子どもも大人も練習に余念がない。準備を重ねるうちに、徐々に気分も高
揚し、地域がはなやいでいく。
祭りの日は無礼講。ちょうちんが下がった家は解放され、用意された大皿いっぱいの山
海の幸を堪能しながら、昼中から夜遅くまで飲んでしゃべり続ける。
「私は3軒しか回れなかったけど、10軒もまわった友人もいるんですよ。町全体が一
つになって、エネルギーも塊みたい。もう、楽しくて楽しくて!」
職員有志数人と2007年の祭りを堪能した商品企画部のGは、いまも興奮冷めやらぬ
様子で祭りの感動をいきいきと語る。もともと観光目的の行事ではないが、毎年、この雰
囲気を味わいたくて、祭りの日に合わせて無茶々園を訪ねるパルシステムの職員や組合員
も少なくないのだ。
「ここでは正月よりも秋祭り。このためにみんなで生きているようなもんよ。家を出た
子たちもこの時ばかりは神輿をかつぎに帰省するけん、人口はいつもの3倍にもなるんよ」
と無茶々園の大津清次さんは解説する。
秋浜は、松山から国道56号線を南下すること約1時間半。みかん栽培のほかにちりめ
ん漁、真珠養殖などの漁業を営む小さな町だ。面積の7割は20~30度の傾斜地。陽光
まぶしい海岸線とだんだん畑のわずかな平地に、家々が慎ましく佇んでいる。
典型的な過疎地域。しかし、多くの農村が高齢化や就農人口の激減という問題に直面し、
集落を維持することがむずかしくなっているいま、ここでは常に「次世代」を見越したロ
マンあふれるチャレンジが繰り返されてきた。そのチャレンジを牽引し、従来の村おこし
の発想をくつがえす再生プランを次々に打ち出してきたのが無茶々園だ。
「兎追いしふるさと」が永遠でいられるように
「構想自体はずいぶん長いこと待っとったんやけど、やっと3年ぐらい前から、農業だ
けやない地域づくりのためにのしくみが整ってきたんよ」(元代表・片山さん)
いまから34前、手探りで始めた農薬や化学肥料に頼らないみかん栽培。
「安全」
「自然」
志向のなかで徐々に仲間を増やしていったが、その一方で、「学校出た子どもに親が、『こ
こにおっても将来がないから出ていけ』って言う」
(片山さん)地域の現実を目の当たりに
し、片山さんたちは痛感した。
これから単に無茶々園のみかんづくりを広めていくだけでは不充分や。どんなに時代が
変わっても、
『兎追いし、小鮒釣りし』故郷が永遠でいられるように、子どもがいきいきと
育ち年寄りが気持ちよく枯れていける、そんな町を再生しなければ」
地域再生のために無茶々園が掲げたテーマは二つ。一つは安定した経済基盤を築くため
の「生産の拡大」
。そしてもう一つは、人を含めた「社会インフラの充実」である。
前者のためには、集団出づくり(住まいから離れた場所で生産活動を行うこと)の場を
研修センターから車で2時間ほどの場所に確保し、柑橘以外の作物の実験栽培に着手。ま
た、地元の加工業者と組んで、味噌や海産物など、
「あくまでも生産者の名前で売る」加工
食品の開発を進めている。
西日本地域で活動する有機農業者とのネットワークを組んで、有機農産物の販売ルート
拡大を目指すのも、異常気象の影響もあって生産収入が安定しないという現実に少しでも
突破口を開きたいという願いからだ。
また、
「社会インフラの充実」のためには、在宅介護を充実させるために講座を開いて「2
級ヘルパー」を養成したり、新規就農者の受け入れ・育成を行う「ファーマーズユニオン
天歩塾」を組織し、都会からやって来た若者たちに「この地で農業者として自立していく
ための」術を伝授している。
約1年前に結成された「妄想(孟宗竹)コンドル会」の活動もユニーク。メンバーは、
主に60代以上の「じいやん」たち。炭焼き、椎茸の原木栽培など、暮らしのなかで培わ
れてきたモノづくりの知恵や文化を見直し、無茶々園がこだわってきた「エコロジカルな
町づくり」を次世代に継承することを目指す。
「産直やると、人は育つよ」
「私は無茶々園に入った年に東京で1ヶ月研修させてもらったけん、そのときに、いま
パルシステムで活躍しているいろんな人たちに会っているんよ。それがすごい勉強になっ
たし、そのときの関係がいまでも大事な財産になっちょる。お互い場所は離れていてもお
んなじように年とっていって、いつまでもこうやって付き合える。産直はつまるところ『人』
だよな」と大津さん。
自分自身が、そうして都会の消費者との交流によって得た気づきの大きさを知る大津さ
んは、次世代を担う若者にも、多くの人々と触れ合う機会がいかに貴重かを説く。
毎年のように、パルシステムの職員の研修を受け入れているのも、「違いう仕事」「違う
環境」
「違う考え方」をもつ人々との出会いによって、無茶々園の若手にも、改めて自分の
いる位置、していることの意味を自ら問うてほしいと願うからだ。
「自分の子どもって育てられないって言うやろ。だいたい親の言うことなんて聞かんし
…。逆に親の言う通りに動くようなら、その程度だよな。その点、他人のほうが冷静にも
のを言えるし、いわれたほうも聞く耳をもつ。だから、産地とパルシステムも、お互いに
人を育て合えばいいと思うんよ。産直やると人は育つよ。それが醍醐味じゃ」
「まずは祭りに来んっしゃい」
世の中に向けて常に強烈かつ先進的なメッセージを発信し続けてきた無茶々園。
「大地と
共に心を耕せ」
「世界の家族農業と田舎文化を守れ」――理念や活動方針に掲げる骨太の言
葉は、家族とともにみかんをつくり、みかんを売り…という土地に根ざした労働や暮らし
から沸いてきた実感そのものである。
「町づくりちゅうと、すぐよその人にお金を落としてもらうことを考えがちやけど、う
ちらはあくまでも農業をベースに、それでも若者たちが出ていかずに生きていける故郷と
は何かを考えた。
「生まれた場所やけん、いっぺんも明浜を離れたいと思ったことはない」という片山さ
ん。
「格差社会」が流行語ともなっている現代日本。
「正直言って、みかん農家の収入はじり
貧状態。働いても生計が立たないワーキングプアは人ごとではないんよ」(大津さん)。だ
からこそ、改めて経済基盤強化の必要を感じるとともに、経済ではかることができない心
豊かな生き方、暮らし方を実現できる場所として「明浜」の価値を都市の生活者にも発信
し、共有していきたい。
「まずは祭りにきて感動してほしい。まず自分が感動しないと伝え
ることもできんけん」
若者が誇れる職場「ポークランド編」
産直から「いのち」を意識するように
「私たちは、いのちをつかさどる食べものを生産する仕事に携わっている、その自覚を
常に忘れないようにしています」
「このように考えるようになったのは、パルシステムと産
直を続けてきたからです」
2007年夏、パルシステムの職員を対象にした学習会で、講師として招かれた豚肉の
産直産地、秋田県のポークランド社長・豊下勝彦さんはこう口火を切った。
十和田湖の秋田県側に位置するポークランドは、総敷地面積30ヘクタールに巨大な豚
舎が林立し、現在もなお新しい豚舎を建設中。全体で年間出荷頭数11万3000頭とい
う大規模かつ勢いのある養豚場である。
産直が始まった1998年。以来、一般の流通ではなかなか経験ができない「消費者と
の顔が見える関係」を味わってほしいと、組合員との交流の場に積極的に若手を送りだし
てきた。
「おいしい肉をありがとう、と直接言ってもらえることがどれだけ彼らの励みにな
っているのか。食べる側の方と直接会えるなんて、普通、あり得ないことですから」
ポークランドでは、特定の病原菌をもたなSPF豚と微生物を利用したBMW(生物活
性水)技術を融合させる画期的な飼育法を導入。ICタグを耳につけて個体情報を管理す
るなど、その技術や管理手法の先進性は業界でも注目されるほどだ。
また糞尿を堆肥化して無農薬の野菜栽培にチャレンジしたり、町の生ごみの堆肥化を進
めるなど資源循環の中心的役割を果たしながら、徹底して地域との共存にこだわってきた。
「若者が働きたいと思う」職場づくり
もともとJAかづのの金融課長だった豊下さんは、同JAが中心となり、「生産から加
工・販売まで」の一貫養豚生産プロジェクトを立ち上げたとき、その交渉鵜能力を見込ま
れて畜産課長に異動。そして1995年2月、有限会社ポークランド設立と同時にJAを
辞め、同社の社長に就任した、という経歴をもつ。
養豚場を引き受けた時から豊下さんが目指したのは、養豚に対する一般的なイメージ=
3K(
「きたない」「くさい」「きつい」)を払拭し、「若者が定着できる職場にする」こと。
そのためにも、畜産課長時代、養豚場への地元からのクレームのほとんどが糞尿処理に関
するものだったという記憶を思い起こし、糞尿のリサイクルを想定したシステムづくりを
急務とした。当初は5人の苦しいスタートだったが、BMW技術を取り入れたSPF豚の
生産が軌道に乗り、豚肉の品質が評価されるにつれ、徐々に人材が集まるようになった。
現在社員数は96名人。勤務は8時半から17時、週休2日。月給制でボーナスも支給
と、普通のサラリーマン並みの勤務体系で、平均年齢28歳の若者たちが働く、活気のあ
る職場となっている。
「最近はとくに地元からの採用やUターン就職が増えてきました」と
うれしいそうに語る豊下さん。
「何のために豚を飼っているかといえば、畜産を中心にこの地域をもっと元気に、いき
いきしたいところにしたいのです。そんな夢を、パルシステムとの産直が後押ししてくれ
ている。地元の若者が就職してくるということは、そうしたわれわれの取り組みを地域も
評価してくれていることの裏返しですよね」
『日本のこめ豚』で、自給率向上を目指す!
いまポークランドとパルシステムは、次世代の日本の農業、食料につながる一大プロジ
ェクトに挑戦している。それが、豚の飼料への国産米の利用だ。
化石燃料からバイオ燃料へとアメリカがエネルギー政策を転換したことで、世界的に穀
物価格が急騰。それによりこの「飼料米」の挑戦はにわかに注目されるようになった。し
かし、そもそもパルシステムがポークランドとともにプロジェクトをスタートした背景に
は、カロリーベースでついに40パーセントを割り込んだ日本の自給率を引き上げたい、
という切実な願いがあった。
かつて、
「庭先養豚」の時代とはことなり、現在、養豚の飼料はほとんど輸入穀物に頼っ
ている。たとえば、豚肉の国内生産量は全消費量の50パーセント強とされているが、こ
のうち国内産の飼料の割合は10パーセントのみであり、純粋な意味でいえば豚肉の自給
率はカロリーベースでわずか5パーセントにすぎない。
パルシステムの畜産産地ではこれまでも飼料の自給率向上に努めてきたが、基本的には
コスト面や安定して入手できるという点から、多くの部分を輸入飼料に頼らざるを得ない
のが現実だった。
「そのあたりの状況をなんとか少しでも変えたい、という思いがあった。とくに日本で
はお米はつくりやすく、連作もできるありがたい作物なのに、減反で耕作放棄地や休耕田
が増えている。輸入穀物への依存を少しでも減らすとともに、日本のお米の消費量を1パ
ーセントでも2パーセントでも増やすようなことにチャレンジできないか。そんなことを
考えたとき、だったら国内での消費量が多い豚肉のところで、飼料として与えてみようじ
ゃないかということになった」
(株式会社パル・ミート前島雄三)
飼料米を栽培するのは、岩手県「JA北いわて」と秋田県「JAかづの」館内の転作田。
ポークランドではこの二つの産地で栽培された飼料米を出荷前約70日間の仕上げ期に、
えさの10パーセントに配合して豚に与える。
2006年から9パターンの与え方で実証実験し、それぞれの肉のペーハーや保水性な
どの理科学評価、官能評価、食味評価など、専門的手法を駆使してデータを積み上げ、実
用性をチェック。こうしてできた『日本のこめ豚』は2008年2月のカタログに新登場
し、
「肉がやわらかい」
「甘みが濃い」など、組合員からの評判も上々だ。
「コストだけの問題なら、
『代替』として輸入米を使うこともできるが、一時の代替案に
とどまらず、長い目で飼料自給化を目指したい。私たちの『いのち』を支える食料の多く
を輸入に頼ったままでは、暮らしの安心は実現できない。何らかの事情で価格が高騰すれ
ば、今回と同じ問題が起きかねない。畜産の一連の事態は、先に顕著化しただけのこと。
ただの代替えではなく、自分たちの食糧を飼料も含め『自給』することにしっかり取り組
みたい。
「暮らしに安心を」――豊下さんの言葉には、
「食べもの」という「いのちに関する仕事」
に携わる者としての使命感があふれている。
魂ふるわす「農的生活」『石塚美津夫さん編』
団塊世代にこそ体験してほしい
37年前、JAささかみの職員として、パルシステムとの産直や交流事業にどっぷり浸
かってきた石塚美津夫さん。その目に、
「産直のいま」はどう映っているのだろうか。
「いま、なんでもそうだけど、安さとか効率とか、そちらのほうが優先されるでしょう。
都会の消費者からは『有機がいい』
『安全がいい』という声も聞こえてくるけど、なんだか
頭で考えているだけに思えてしまう。どちらかというと権利の主張ばかりで、リスクや負
担を共有していこう、という姿勢ではないように感じるんだよね」
もともと生活協同組合とは、組合員が自分の暮らしを自分の手でつくっていくための組
織であり、そこに関わるすべての人が問題や課題を共有し、それを乗り越える方法をとも
に考えていく・・・そんな組織だったはず。それがいま、生産者と消費者、メーカー、職員と
組合員・・・のように、何とか対立する関係として語られる局面が多いのはどうしたわけだろ
う。
その問いへの一つの答えとして、石塚さんは「土のぬくもり、風の匂い、水の冷たさ・・・
どんなに知識を詰め込んでも、頭で理解しても、現場でなくては得られない実感がある。
だからこそ、産地にもどんどん足を運んでほしい」と言う。
「俺はね、農薬や化学肥料を使わない米づくりを始めてから、年ごとに自分の田んぼに
生き物が増えてきたことに素直に感動した。それまでは、田んぼは小さいし、不便だしな
んて不満もあったんだけどね。有機を始めて、それこそ何十年ぶりかに俺の田んぼの上を
蛍が舞っているのを見て、
『この環境を守れるのはいましかない』と切実に感じたのさ。だ
からこそ、
『農的な生活』を自分のからだで体感し、肌でその価値をつかんでほしいんだ」
石塚さんが米の背景にある「物語」を伝えることにこだわるのも、都市にも共感してく
れる仲間を一人でも多く増やしたいからだ。
「都市と田舎のコミュニティが共通の価値観でつながることができたら、日本はまだま
だ大丈夫だと確信しているよ」
本当の「豊かさ」って?
2006年1月、石塚さんの取り組みを報道などで知り、新潟市などから「有機農業を
応援したい」
「自分の手で米をつくってみたい」と団塊世代の消費者グループ10数人が訪
ねてきた。そのときの喜びを石塚さんは自身のブログでこう語っている。
「私の家の奥にはちょっとした棚田があり、耕作放棄地もかなりあります。その耕作放
棄地で有機農業をやりたいということなのです。私は感激しました。農業委員会というと
ころへ行って、耕作放棄地の耕作権を借りる手続きをしました。私は昨年まで有機農業を
110アールやっていて、このへんが限界だろうと感じておりました。私には土地を借り
る権利はあっても手間がない、彼らには手間はあっても土地を借りる権利がない。つまり、
利害が一致したのです。彼らは谷津田を『夢の谷ファーム』と名づけて、毎週土日になる
と汗を流し楽しんでおります・・・(以下省略)
」
ブログには、夢の谷ファームを舞台に、米づくりやログハウスづくり、えごま、大豆な
どの栽培に勤しむメンバーの姿が、ささかみの四季折々の景観とともに紹介されている。
決して楽な作業ではないが、どの顔もじつにいきいきしているのが印象的だ。
笹神地区の出湯温泉下、国道290号沿いにたたずむ、廃校となった出湯小学校を再利
用した郷土資料館(旧笹神郷土資料館)
。かつて子どもたちのにぎやかな声があふれていた
だろう体育館や教室・廊下にはいま、石器時代から昭和期までの考古学上貴重な石器や木
簡、地質学上の研究の成果、そして昔懐かしい農機具や民具などが所狭しと並ぶ。
都会から来訪者を石塚さんはこの場所へ誘うことが多い。そんなとき、静かな木造校舎
の展示室で、置かれている展示品の一つひとつについて、その用途や歴史を熱く語る石塚
さん。
「いまは何でも買えば手に入る時代だけど、ここに来ると、昔の人はわら1本を無駄に
せず、知恵を出していろんな物を作ってきたことが改めてわかる。俺は何かを考えるとき
は、暇見てここを訪ねて、昔の人のパワーをもらいに来ることにしている。ささかみの農
民魂や伝統と文化が詰まった場所なんだ。ここに来て目を輝かせるタイプと、なんだかつ
まらないと思うタイプ、人は二つ分かれるね。あんたはどっちかな・・・」
「暮らし」を自分の手に「取り戻そう!編」
「産直」と「手づくり食提案」の共通項とは?
1月には味噌、3月はちらしずし、5月はぬか漬け、らっきょう、そして6月には梅酒・
梅干し・・・。これはパルシステムが季節ごとに商品カタログやホームページを通じて紹介し
ている「手づくり食提案」だ。なかでも6月はもっともテンションの高くなる「梅月間」。
シーズンが明けるとともに誌面には早々と「初夏の保存食カレンダー」を掲載し、梅シロ
ップ・梅酒・梅干し・・・と週替わりで商品とレシピ提案を行う。山場となる梅干しの企画の
商品供給週には、土曜日に一日「手づくり梅干し電話相談」を開設、梅生産者やベテラン
組合員が手取り足取りアドバイスでフォローアップする、という力の入れようだ。
それほど手間がかからない台所仕事も、時間と追いかけっこしているような毎日にはな
かなかなじまないものだが、本当においしくて、安心できるものを口にしたいと思えば、
やはり自らの手をまめに働かせるのがもっとも確実な方法だ。また食べものは決して画一
的に手に入るmのではなく、一つひとつに物語があるものだということも、
「自らつくる」
ことを通して知ることができる。
季節を楽しむ、旬を取り入れる、暮らしにメリハリをつける・・・。保存食づくりにもさま
ざまな意味があるが、共通するのは、いずれも「自分の暮らしを自分で彩る」ということ。
パルシステムは「産直」を通して食や社会のあり方の見直しを訴えてきたが、その根底に
ある思想は、
「何ものにも強制されない、お仕着せでない、自分らしい暮らしを自分の手で
つくる」こと。
「産直」と「手づくり保存食提案」とは一見まったく別の取り組みのように見
えるが、
「暮らしを自分の手で取り戻す運動」という意味で、根っこのところではつながっ
ているのである」
「手づくり」を通して、主体的に生きることを知る
経験者たちはさらに腕を振るってもらおうと、2006年からは「手づくり梅干し品評
会」を開催。自家製の梅干しにエピソードを添え、送料自己負担で送ってもらうという企
画である。当初は内部にも「送料まで負担して送ってくる組合員がいるだろうか」といぶ
かる声もあったというが、予想に反して150件近くも応募があり、ここから一時選考を
通過した組合員15組が梅の産直産地がある小田原に招かれ、最終審査会が開かれた。
2006年度の品評会で「庭の梅の木賞」に選ばれたJさん(パルシステム東京)は、
義父が疎開先から移植した自宅の梅の木になる実で、25年間、梅干しを漬け続けている。
品評会が催されるのを知り、
「せひともおじいちゃんの梅の木を自慢に行かなくちゃ」と
勇んで応募。最終審査会では「産直梅を買ったことがないので、
『場違いだったかなぁ』と
後悔しかけた」ものの、
「わが家の梅物語」をしっかりアピールした。
「会場では農家の方に梅の剪定についてアドバイスを仰いだり、梅干しを褒めていただ
いたり・・・たのしかったですよ」
「参加者は20代から70代と幅広い世代におよび、なかなに赤ちゃんを連れてご夫婦
で参加された方もいた。一粒ごとに個性のある作品を並べ、にぎやかに交流しながら梅干
しの後ろにあるそれぞれの物語が披露された。
『地味な台所仕事に日の目があたる機会にな
れば、と思い切って応募しました』という入賞者の言葉がとても印象的だった」と語るの
は、パルシステム手づくり提案をしてきた栗田典子だ。
栗田は、こうした立体的な仕掛けは組合員に暮らしの近くにある地域生協との連携を深
めることでさらに進化していくことができる、それこそが本来の生協の役割ではないか、
と言う。
本当においしいもの、信頼できるものとは誰かが、どこかで一方的に用意してくれるも
のではない、つくることかに自ら関わることが、どれほど豊かなことであるということに
気づかせてくれるが、
“手づくり”です。でも家庭で、まして女性だけが食卓づくりを担っ
ている現実のなかではなかなか歩み出すゆとりがない。だから産地交流や地域での場があ
ることが、外側から揺さぶりとなり、きっかけにとなるのっだと思うのです。
パルシステムの産直は「豊かな関係」づくり
パルシステムでは、9年前からテレビコマーシャルを流している。ここ数年はおなじみの
「こんせん君」のキャラクターが登場し、思わず口ずさんでしまうような快適なリズムで、
「♪さんさんさんちょくパルシステム」というフレーズが連呼される。
15秒という限られた時間に込めたワンメッセージは。産直。パルシステムがいかに「産
直」を存在の根幹に据え、こだわりをもって大事にしてきたのかがえるだとう。