岩手県の三陸沿岸北部。 田野畑村は人口 3700人ほどの小村だ。 海

・の中心にいた。
畑は無医村。看護師の資格を持っていた岩 し、大阪から移り住んだ。そのころの田野 さんは戦後凄む潔くこの寺の住職Aj結線
立地可能適地調査を実施して、立地可能適 積極的に取り組んでまいる」 「大境模電源
と取りざたぎれるよ古になった。 査を委託する。そして明戸が「有力候補」
田野畑村役場のそばにある宝福寺。岩見
県は重点の財団法人に原発立地の適地調
岩見ヒサさん(97)はそのとき、反対運動
「原子力を含む大規模電源の立地促進に
月、県議会でこう述べた。 よると、中村直知事(当時)はこの年の10
「岩手県磨慢」(岩手県議会発行)に
を舞台に二分された。争点は原発立地。 震災だけではない。81年、村人はこの明戸
防潮堤は、そのことを語る」と話した。 つくられたものにも限界がある。決壊した 課の渡辺謙克主任主査は「命を守るために 認められた。遺構計画に携わる村政策推進 とにした。今年2月、整備費の国費負担も
明戸の砂浜と防潮堤が語る歴史偲、先の
30人を超え、明戸でも1人が亡くなった。 と、震災で命を奪われた人や行方不明者は トの塊がへその破壊力を伝える。村による 超えた。砂浜に横たわる巨大なコンクリー
東日本大桑光で襲った津波は高さ20㍍を
から守るため、J96 年に完成したo
78㍍の「明戸防潮堤」。明戸地区を津波 た防潮堀が見えてきた。高さ9㍍、長さ3、 なく、断崖の切れ目に広がる砂浜と脅
「断崖クルーズ」の観光船に乗るとほど
こ を「海のアルプス」.とよぶ。 奇岩・怪石が連なる絶景で知られる.人は と、それを太平禅の荒波が浸食してできた 地殻変動で陸地が20㍍rb隆起した断崖 370人ほどの小村だ。海沿いは長年の
岩手県の三陸沿岸北部。田野畑村は人口
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上田俊英
(編集委員)
防潮堤の栂 原発拒んだ女性たち 抑抽
くに避難しているのかもしれない」 原発ができていたら、われわれ侶いま、遠 .「大切なの唱_金だ旧では庖小.垣長一 せていたのか。畠山さんは亭つ。 のとき、村の女性たちの心の中で花を咲か 「勇気」 「情熱」 「団結」。その精神があ
さんのことをよく覚えている。
剣に向き合っていた」
畠山さんによると、1摸の精神の原点は
「岩見さんたちは毎日、原発の問題と真
(7)は、原発反対を訴えていたころの岩見 で、村職員を長くつとめた畠山雷脈さん
一漢を率いた畠山太助の5代目の子孫
った」白感が、いま村の観光を支える。 設されることはなかった。岩見さんが「酔 後、適地と連れた佃塊域も含め、原発が建 かどうかは、わからない。岩手県ではその
をも巻き込み、要求の大半を認めさせた。 挟」とよばれるこの民衆蜂起は仙台藩まで 岡藩に対して一漠を起こした。「三閉伊一 期の19世紀半ば、人びとは2度に知枕崎盛
田野畑は「一挟」の地でもある。江戸後
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岩見さんたちの反対運動が奏功した め
かに、田野畑の各はなかった。 原発の適地とされた三陸沿岸の4地域のな
朋年3月∵県は調査の酪果を発表した。
う」.女性たちは「反対」を買い時 してきたか盾 .工汚れの庖い自然を守ろ まる。健康な暮らしを求め、苦楽をともに
しかし、女性たちは岩見さんのもとに集
ど。交付金は魅力的だったに違いない。 潤した。当時、村の予算規模は20億円ほ れ ば「31鳳5千万円」が交付されると強 ん在と岩見さん.県側は、原発が建設さ
「村の男の人たち照僧とんどが賛成で
のが原発立地の動きだった。 協儀会の会長になった。そこに降っで卦矧
保健所を定年退職後、村切傭人団体連絡
その自然の美しさに酔っていました」 等本当の川、本当の花がある。わたしは
が点在し、120 人余が暮らしていた。 頼まれる。村内には当時、12の戦後開拓地 兄さんは、村から「開拓地の保健指導」を
と思うことは、なんでもやった。 教室。そこの人たちの健康の向上に必要だ 産の介添え、病人の世話'育児指導、科挙 保健婦」として開拓地に歩いて通った。出
「つらくはなかった。田野畑には本当の
岩見さんは保健師の資格も取り、「開拓