「復興・協同」通信 No.25(2015.4.8) “定年 28 号”愛知から東北へ(6)最終回 中野 明 亘理町に派遣されて半年が過ぎた 2013 年 10 月、復興まちづくり課から上下水道課に異動にな った。上下水道課は私が加わって 14 名で、事務を担当する総務班と技術を担当する施設班の 2 つの班がある。職員は水道と下水道の担当に分かれており、私は下水道担当の技師となった。派 遣職員は私以外に、愛知県豊田市の水道担当の技術屋と新宿区役所の下水道担当の事務屋の 2 名が居る。 下水道を担当する技術屋の町職員は 2 名で、計画、設計、工事、維持管理および一般家庭の 排水設備の受付と指導など、岡崎市では 3 つの課の技術屋が担当している仕事を 2 人でこなして いる。そのうえに現在は災害復旧関係の事業が増え、さらに調査物をはじめ県や国との連絡・調 整事務が非常に多く目の回るような忙しさである。よくこれまで 2 人でやってきたものである。 私の仕事は、下水道の設計と工事の監督である。すでに発注され業者も決まっている 4 件の工 事の亘理町の監督が私に変更された。2 件は復興まちづくり課が行っている防災集団移転事業の 移転先団地に水道と下水を整備する工事である。他の 2 件は、直接震災復興とは関係ない通常 の下水道整備事業である。亘理町の下水道普及率は 74%で、まだまだ普及促進の段階である。 震災直後は、破損した下水道管の復旧に追われたがそれらも終わり、新たな復興計画のある災害 危険区域を除き、通常の事業に戻ってきている。 復興まちづくり課では補助的な役割だったが、上下水道課ではいっぺんに 4 つの工事の監督に なった。やりがいはあるが、工事の第一線の監督を務めるのは 20 数年ぶりである。この 20 年間に 設計、積算の環境はすっかり変わってしまった。以前、図面は手書きだったが、今はすべてパソコ ンの CAD ソフトを使って書いている。亘理町では無料ソフトの JWCAD を使っており、工事担当 者は CAD が使えないと仕事にならない。古本屋で JWCAD の解説本を格安で手に入れ必死で 覚えた。 また、積算も様変わりしている。以前は、電卓を使って計算し、積算専用用紙に手書きで書いた ものであるが、今は積算ソフトを使っており、パソコンに数字を打ち込むだけで、金額計算も経費 計算もいっぺんにやってくれる。使い方を覚えるまでは大変だったが、慣れてみると昔は何日もか かっていた作業を、数時間でできるようになった。ほんとうに便利な時代になったものである。 派遣の期間は 1 年が基本であるが、せっかく経験を活かせる部署に移ったのに半年では残念す ぎるので、期間の延長を申し出ると亘理町も岡崎市も了解してくれた。再任用職員では、ほかに派 遣の希望者がないらしく、岡崎市にとっても亘理町にとっても私が続投することが都合がいいようだ った。 1 岡崎から来ている他の派遣職員は 1 年で交替となり、平成 26 年度は新しい人が 3 人やってきた。 防災集団移転事業の団地造成工事が終わり土木関連事業が減るので、土木屋は 2 名から 1 名に 減り、かわりに入居の手続き事務が増えるということで事務屋が 1 名となった。建築屋は 1 名で変 わらず、全部で 3 名の職員が新た岡崎市から派遣されてきた。3 人とも妻帯者で、2 人は奥さんも 一緒である。 派遣職員は、2 箇月に一度業務報告おこなうようになっている。といっても堅苦しいものでなく、 所属している部署に顔を出すぐらいでよいが、9 月は報告書をまとめ、市長、副市長に報告する。 業務報告は出張として扱かわれるので旅費がでる。木曜に亘理から岡崎に戻り、金曜日の午前中 は、眼科で放射線の電離検査をおこない、午後市役所に行き業務報告をする。夜はたいてい友 人と一杯飲む。土曜日はとくに予定はなく実家に顔を出したり友人とあったりして過ごし、日曜日に 岡崎から亘理に戻る。 県内の派遣職員を対象にした研修会があるというので参加した。宮城県の主催で、全国の自治 体から宮城県にきている派遣職員と宮城県から県内の被災した市町村に派遣されている職員が 対象である。3 回に分けて開かれ、毎回参加者は 80 名ほどで、1 泊 2 日で県の研修センターで行 われた。1 日目は午後から宮城県の復興の現況とメンタルヘルスの 2 つの研修が行われた。夕食 時は大食堂で職種ごとに班に分かれて交流会を行った。2 日目午前中、交流会の班ごと分かれ 意見交換会を行い、午後、順番に各班で出された意見の発表をおこなった。 私が参加した班は土木技師のグループで、私のほか、宮城県に任期付き職員として採用され、 南三陸町に派遣されている人、同じく宮城県の任期付き職員で利府町に派遣されている人、東京 都の任期付き職員で南三陸町に派遣されている人、広島県から宮城県に派遣されている人の 5 名のグループである。広島から来ている人は 30 代の現役職員以外は、わたしを含め 50 代、60 代 の年寄りが集まっていた。 意見交換では、すべての点で南三陸町のひどさが際立っていた。南三陸町は、壊滅的な被害 を受け職員もたくさん亡くなった。そのため今は半数以上が派遣職員だそうである。また、防災庁 舎に詰めていた幹部職員の多くが亡くなり、ところてん方式で大幅な幹部職員の繰り上げが行わ れた結果、執行体制がしっかりしていなくて至るところで問題が山積しているようである。せっかく 高いスキルを持っていても少しも生かされないとぼやいていた。 仮設住宅に住んでいるというと同情されることが多いが、私の場合は思いのほか住み心地は良 い。2DK の間取りは家族で住むには狭いが 1 人で住むには十分である。近くにコンビニ、スーパ ー、100 円ショップなどがあり買い物にも困らない。そのうえ仮設ならではの特典も少なくない。とき どき、お米や花が玄関に置かれている。メッセージが付いていてボランティア団体の活動の趣旨や 励ましの言葉などが書いてあり、ありがたくいただく。毎年やって来る焼鳥屋はひとり 3 本ずつ焼鳥 をくれる。最初の年はごはんも付いていて一食助かった。仮設住宅の真ん中に集会所があり、とき どきボランティアの催しが行われる。歌謡ショー、手品、落語会などがあり、大掛かりな大道芸は屋 2 外の駐車場で行われた。 私は、日中は家にいないのでほとんど近所付き合いはないが、向かいに住んでいる 1 人住まい のおばあさんとは仲良くしてもらっている。煮物やおひたしなどたくさん作ったからと言ってときどき 持ってきてくれる。吉田に建築中の災害公営住宅を希望していて、8 月には引越しする予定だと 言っていた。 震災後 4 年経ち、防災集団移転事業の移転先団地造成はすべて完成し、今は建築ラッシュで、 完成した家も多い。災害公営住宅も一部完成しており入居が始まっている。それに合わせ、仮設 住宅からどんどん引っ越していっている。夜になっても明かりのついていない部屋が多くなり、駐車 場もガランとして来た。8 月になればすべての災害公営住宅が完成するので、希望すれば全員が 入れる。しかし、仮設住宅は家賃が無料だが、災害公営住宅は有料である。引っ越すめどの立た ない人以外も少なくないと言われている。 1 年の予定で愛知から東北に来たが、なりゆきで 2 年になり、さらになりゆきでもう 1 年延びた。 これですくなくとも 3 年は東北で暮らすことになった。完全に復興するのはまだまだ先であるが、今 私が住んでいる亘理町も着実に復興の道を歩んでいる。微力ながらすこしでも復興の役に立てて いるなら幸いである。 頼まれて断り切れず、1∼2 回のつもりで書き始めたのが、思いのほか長くなりました。拙い文章 を最後まで読んで頂きましてありがとうございました。 (終り) (なかの あきら:愛知県岡崎市再任用職員。2012 年 3 月に 36 年間勤めた岡崎市役所を定年退職。2013 年 4 月より宮城県亘理町に派遣。現在、亘理町上下水道課で下水道事業に従事) 3
© Copyright 2024 ExpyDoc