第3回講義= 「内陸アジアから見た近代中国」

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ASNETltA藤樹J /首動灯されJ5仰柳僅少gJ : I/11鯉の魔界#一題質・鼻元・密度-
第3I那拝義: 「内陸アジアから見た近代中開」
中ia、..(.莱(成東外川.Vi大学アジア・アフリカLi.iti文化研究所)
∵コ
この辿糸鋸抑戊の日的: 「"中川史''という枠凱みは、川民川家弧没の過疎とし七生み目さ
れた物批別ffも不断に修IA_1三され廠化されている。しかし、他方で棚史研究の現場では、
"中川史''へのIt',Jいが拙起されて既に二十年以.I:.を総ている。そこには中Ilil史と郎脚をと
った新たな領域が仙戊されている.この招業では、そうした中川j止現代史の境界線上で育
まれている様々な組みや可能性を提示する。」
⇒ "中川史"からの視軌だが"中rlq人"とは、どのようなひとをさすめか、その「雌
史」とは?だれが、.なにゆえに「醸史」を腰き、その「雌史」はなぜ「招き鵬されて」い
るのか?まず本Elのテーマでもある「内陀アジア」という地域を翰ずる。
Ⅰ. 「内陸アジア」とは、どこだ?
「内随アジア/lhnerAsia」、 「中火アジア/C倍ntralAsia」、, 「中火ユ-ラシア/Central
Eureasia」すべて炊剰榊、らの翻瓜折。外部IlrE界からの命Flであり、当捌出城に性格する
ひとびとに、例えば、現lfのモンゴルrIgのモンゴル人に「内純アジア」のイ-)三民という胤純
がどれほどあろうか。これは「東いねアジア/SoutheasLAsia」、 「射」ヒアジア/NortheastAsia」
そして「鋸アジア/lhSLAsiu」とていJl批「大破亜/GredteI・ llIast Asia」は日本人がffづ
けたものだが、 「東アジア/EastAsia」を拡大したもので、 ・曲名q)秋川性は全くなし。
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ただ「東南アジア」という地域は、第二次世界火戦中に憾合I'I町側が鮒十・'・したことに
山東するが、いまや日本や「束南アジア」細川でも定著した地域概念。だが日本外紡省で
は、 「アジア
南部,アジア部」には「束繭アジア」諸国を相当する、 「車庫アジ三第
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一・第二課」があるoもしも「正しい日水溶表現」があるのなら、 「jt大洲」のひとつの「太
平洋州」は「塞空理輿」、 「寒鍵アジヱ」と滋'i己すべきo硝鋸アジア」は英・汀iからのlMM5J
であるが、これに対して「東北アジア」、 「北媒アジアJふたつの表現が、日本では両iす
る。
「内陸アジア」に関して、清朝18'iJ城内の非(.1,i叔・非蜘抑瑚そして理沸・院Cが管柵する、つ
まりマーク・マンコールのいう「西北の弦月/Nol・thwe如ern Crescent」 (vS・ Southeastern
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Cre批ent)地梢と舶定するなら、清朝捌屯ドのモンゴル、チベット、 「中川のトルキスタン
(Chin鵬e恥rke如n)」がふくまれる.この日)仏は、ロシア誹のItcJITP壬,m川aS'An川(vH.
CpcJtH.・Im A朋1SJ)に3Li・い。
丑. 20世紀におけるrモンゴル通史」の壁間
モンゴルにも、チベットにも伝統的な「僻地」叙述はあった。だが過去から現代に至る
「民族(NiltionあるいはVolk)」の榔史は、 20 1fl胤に至って横場。 NaLionどいう判在を
つくり、 SLateの樹立をめざす、その動きがNaLionaliSm.
20 1ff:鮎Ii川'・・のチベットには、たとえば「ダライラマ13111.・伝」のような「榔史」は伽ゝれ
たが、 「チベット人」による「チベット」の雌史は現れずo他方、モンゴル(外もンゴル)
では・モンゴル人の「川凍」をめざしたゆえに、 「モンゴルの雌'h」が編纂される。本格的
な通史は、 1950年代にソ地との)帥臓策でだされたFモンゴル人民J畑‥J柁』、ついで60
年代にはモンゴル入学者のみにより『モンゴル人民)t・ffIは史.Bを舶策。古代より1921年の
「人民革命」をへてモンゴル人民共和川建川と至る、モンゴル人の歩みの総括.
他方、中国(1949咋以降は、中華人民典抑q)にもモンゴル人はおり、その数はモンゴ
ル川のモンゴル人より多い。ここで薯かれるモンゴル人の雌史とは、 「多は肱川家」、 「中国」
を仙戊する- 「民放」としての「モンゴル民族史」。両者とも苗代から19世紀中葉までの
「雌史」は中川とモンゴル人民共和川の領域を越えてえがく。だが清朝中葉以降について
は、自分たちの範城のなかだけの「榔史」。このほかソ辿邦のなかにもモンゴル系のひとび
とはいたoこちらではソ連邦史のなかの「英帥叶史」として『ブリヤート典和閥史』、 『カ
ルムーク共和帽史』が編纂された。
ではilJ''LLLr紀未からのソ迎圏社会主義国家の崩壊、モンゴルの民章化、-中川の改革・開放、
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そして超大国化は、モンゴル人に関する通史叙述にどのような虚聾をあたえたかoまたチ
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ベットに関する歴史叙述は変化したか。 ■
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臥モンゴル人とチベット人は清朝の崩壊と中華民国の養生にどう対応したか。シムラ会
強とキヤフタ会鈍の対比。
⇒ 「内純アジアから見た近代中国」へのひとつの回答
シムラ会議(1913-14年)は、英国インド政庁、北京政権、ダライラマ政権により、キ
ヤフタ会議(1914-15年)はロシア帝国、北京政権、ボグド・ハーン政権により、清朝崩
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軌織の地域秩序再構築のためおこなわれた三脚Il臥翫
(1)チベットはモンゴルに比べ、捌け淋制のなかで高度な「臼的」 (Antonomyという
意味ではないにしても)L的享イf。だが英樹Iq際Jlr柵の純がチベットにも抑し碍せ、英領イ
ンド''Itがチベットに進攻、ダライラマは外モンゴルに逃れる。 1906年、イギリスは榊gJt
のあいだで、清朝のチベットにおける宗主.柿(SuTJerainty)を組めるrly''jkを抑緋。一方、
1910年、消朝はラサへ進叩、ダライラマはインドに亡命。 . J
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(2)ロシアも英川も紳-.gJが鵬洲人の侶(..・が支妃する帝川であることは鹿乱だがロシア
はモンゴルの彼カに北);くがあるとのd乱批はじめ朴加)地鮒もイルク-ツク総何と姉愉の
大臣とのあいだで鵬洲前文,IHこよりおこなわれる。ロシア榔ことって、 「ltImell」とは「漢
人」の,6.・味。これに対して英川は紬上ル-トで清洲こ接乱射.Iilのとらえる「Chin鵬e」と
は。他力、モンゴル人もチベット人も、 11回Iit」という概念はない、抑IJ時代になってモン
ゴル語に「中川/DumdaduuluS」という蘭が川作されるo
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(3)辛亥革向のまえから外モンゴルの,I三脚ま,酬Jの対モンゴル政雄の変Aiに危機感を
もち、ロシアの援助を淡め代表川を派肥。辛亥革命がおこり、清朝が脚乗用 ると、 1911年
12 )]にはポグド・ハーン政櫛を樹正し、モンゴルの「WL;(.」を甘言。他方、辛亥革命勃発
の時点でダライラマはインドに亡か1,0 1913年5Hのrliケ射'i言」が「秋立1吊◆」とみ
なされる。 「独立」という行為に刈するI'hjH・の絡純にはJ'ftoモンゴルではポグド・ハーン政
櫛という「政府」が飢餓されるが、チベットでは従来のダライラマ政櫛が支配を緋弧
(4)インド政府はチベットの批●(.を組める丸はなく、また、すでに炎仰まr中川」の「宗
」三柵」をIrqiはしていた。だが管'i易・交3dの批火,インドの畢仝伽附をめざすoだが矧Iは
はじめから三〝会淡を設・jiiloロシア政府も「モンゴルの独立」など組めるJj式もない。消糊
の織緋他称とポグド・ハーン政臓とのあいだの.鮒iをめざす。炎輔ともに「中川」の宗∴1三
権下の.も'.・;度「I:I,1折」の承認をめざす.岬,J也はその御苑。シムラ余減ではLd終)・・川Iiでl神抑℃
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表は離脱。他方、キャフタ会.掛ま「キャフタ協定」として合音に遵する。まず日本とのあ
いだでロシアは雛三次日膚協約をむすび、内モンゴルにおける日南間勢力柳川を碓払北
京の副Irl凱収柵が軌かないのをみて、まず12年にボグド・ハーン政櫛と丁滞京協'iii'」を緋
び、ついで北京政櫛と「外モンゴル仁柵」をめぐる「翠中宣言」を縫換、さらに脳解的な
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段階としてキヤフタ会純をおこない、中洞宗主権下の外モンゴルl:_一桁が細線されるo緋果
的に三段階解決方式をとった。
⇒なぜキヤフタ会議は「成功」し、シムラ会.掛まr失敗」したか。離脱(伽こモンゴル川(そ
の国家嶺城の由剰まキヤフタ協定)は榊gJの紅ik屯のなかでtIfE:-. -I 「中川」とは別に、独;I・し
た「国民rld家(NiltionState)」を樹立できたDなぜ、モンゴルは「成功」し, 「チベット」
は「失敗」したか。
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⇒キヤフタ肋-klのイf効作とは?
⇒=q際政的上、とくにアジアの僻史、l二、三者問交渉の餌例は珍しい。三瀬・の力はIf・1等では
ない。なぜキャブタ会減は合意)捌戊に成功したかo 「成功」はロシア伽J外交の巧みさ(シム
ラ会一端の喝合は英川の拙妨さ)によるとだけはいえない.
*より詳しく、木目の品締ぷ内解をl:_!J!解するために:
間野英二、中il:正夫、伽l臥 小松久93瀬叩祁食アジア(地域からのIIf:界史、節6巻)』 (朝
日新聞社、 1992年)。
中iLl'i-.夫「"北鋸アジア''からみた"東アジア"」、浜下武志編『束アジアIII:恥の地域ネット
ワーク』 (l川I旧1-僻引ゝ 1999年)、 57-70貢o
小松久男舶『新版IH_・界各国史4 :中央ユーラシア史』、 (山川日航社、 20()0年)、近く、第4
刷が刊行される。
中見克夫舶『境野を越えて∼東アジアの周縁から∼』 (山川出版社、 2002年).
中見立夫『「満蒙間組」の惟史的梢図』 (東京大学出版会、 2013年).
中舶千枝「シムラ会議の意味をめぐって」『日本学士院紀要』第67巻節1号((2013年1月)、
1-24号。
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