横浜国大 教育人間科学部長 高木まさき先生との会見記

成 24 年 7 月 15 日 発行
今年度の支部だよりの企画として、現役の国大生との座談会をぜひ実現したいと思いま
した。しかし学生さんとコンタクトを取る方法がありません。考えあぐねていた時、昨年
何回か紙上でお話を伺った茅ヶ崎の原田徳夫先生(国大 1 期)が、国語教育の高木まさき先
生と面識があると語られたのを思い出しました。そこで原田先生に高木先生への紹介をお
願いした結果、6 月 12 日に面会のアポをとることが出来たのです。その際、原田先生から
「高木先生は今年学部長だそうだね」というお話がありました。今年の友松会の新春のつ
どいの際に、そのことは参加者に話があったのですがうっかり失念していました。
6 月 9 日の理事会・評議委員会に、高木先生が来賓としてお出でになりご挨拶をされた
のですが、それをお聞きして、ぜひ会員の皆さんにこのお話をお伝えしたいと考えました。
そこで 6 月 12 日に原田先生と国大に伺った時に、高木先生にお願いして 9 日のご挨拶の
要旨を話していただきました。以下がそのお話です。
横浜国大 教育人間科学部長
高木まさき先生との会見記
友松会磯子支部 理事
黒
川
黒 川 鈴 谷
本日は公務ご多忙のところ、特別に時間を割いて頂き
まして有難うございます。今日は 9 月に実施する予定
の国大の学生さんとの座談会のお願いに伺ったのです
が、ちょうど良い機会ですので先日の友松会理事会・
教育人間科学部長 高木まさき先生
評議員会での先生のお話をもう一度伺って、一般の会
員に伝えたいと思うのですが。
高 木 分かりました。それではまず教育人間科学部の現状からお話しましょう。ご承知
のように平成 9 年 10 月にそれまでの教育学部が教育人間科学部に改組され、翌
平成 10 年 4 月に最初の教育人間科学部の学生が入学しました。
黒 川 私は昭和 35 年(1960)の学芸学部時代の卒業生なのですが、率直に言って現在の
「教育人間科学部」という名称は少し長いと感じます。またそれだけでなく「教
育学部」という名称に比べて学部の内容が分かりにくいと感じるのですが。
高 木 そうですね。確かに少し長いし、教育学部のように名称を聞いただけで学部の内
容が分かるという感じでもありません。そこでまず、なぜこのような名称になっ
たのか、教育学部との違いは何処にあるのかということから述べることとします。
まず大きな違いは、教員養成課程の学生数の大幅な減少です。それまでの教員
養成課程の学生定員 350 名に対して、それに対応する教育人間科学部の学校教育
課程の定員は 230 名となりました。
黒 川 いやあ、私たちのように教員養成課程を出て、長い年月を教育の世界で過ごした
者としては、直接の後輩に当たる学生さんの数が減るのは、何となく淋しい気が
するんですね。
高 木 その気持ちは良く分かります。しかし児童・生徒の数が減少すればそれに伴って
1
教員の数も減少せざるを得ない。教員の需要が減少を
予想されるのに、教職課程の学生数がそのままでは、
教職志望の学生たちは就職時に大きな困難に直面しま
す。それを防ぐ為には、予想される児童・生徒数の減
少に合わせて、教員養成課程の学生数を減らさざるを
えないのです。
教育人間科学部
黒
川
高
木
黒
川
事務棟
私達の言っているのは感情論ですから、実際には先生のおっしゃるようにするし
かないのでしょうね。
しかし現実にあわせて学生数を減少するだけでは、学部としての発展は無くなり
ます。そこで教育人間科学部としては、教員養成を目的とした「学校教育課程」
(230 名)の他に、地球環境課程(50 名)・マルチメディア文化課程(90 名)・国際共
生社会課程(90 名)の三つの課程をつくりました。学校教育課程と合わせると学生
定員は 460 名となって教育学部時代と比べて、それほど大きくは変わらないよう
にしました。
良く分かりましたと申し上げたいところなのですが、実はよく分かりません。
「学
校教育課程」は聞いただけで内容が分かるのですが、他の三つの課程はどんなこ
とを学び、どんなことを研究するのでしょうか。
〈上記の私の愚問に対して、学部長さんは懇切丁寧にご説明下さったのだが、私の理
解力不足でよく分かりませんでした。幸い(と言うのも変なのだが) 現在の課程は、
学部発足時と少し変わったとのことなので、この件の説明は省略します。〉
高
黒
高
木
本学部の地球環境課程とマルチ文化課程の理系と工学部とが一緒になって、理工
学部となりました。今年度で二年目になります。ただし教官の所属は理工学部と
なりましたが、このコースに所属する学生は、そのまま教育人間科学部の学生と
して卒業します。教官は両学部掛け持ちで、教育人間科学部と理工学部の指導を
しています。理工学部発足の結果、教育人間科学部でも学校教育課程(230 名)以
外は統合されて、人間文化課程(150 人)一つになりました。
川 学部にある現在の二つの課程について、お話い
ただけますか。
木 二つの課程のうちの学校教育課程については十
分お分かりと思いますので、簡単にお話しまし
ょう。この課程では全員が小・中学校教員の 1
種免許状を取得することを基本としています。
そのため、全員が初等・中等教育に関する教育
学・心理学・教科教育法・教育実習等の科目の
履修を必要としています。また各自の希望によ
教育人間科学部 第一研究棟
り、特別支援学校・高等学校の免許状を取得することが出来ます。
1 学年修了時に次のようなコースに別れ、免許状取得に必要な専門科目を学び
ます。コースの選択は学生の希望によりますが、若干の調整は必要です。
(コース名)
・教育基礎 ・心理発達 ・日本語教育 ・国語教育 ・社会科教育 ・数学教育
・理科教育 ・音楽教育 ・美術教育 ・保健体育教育 ・技術教育 ・家庭科教育
2
黒
黒
高
黒
高
黒
高
・英語教育 ・特別支援教育
川 このコース名を見ると、私達の頃の学科名とだいたい同じですね。もう一つの「人
間文化課程」とはどのようなものなのでしょう。
高 木 人間文化課程には、
「芸術文化コース」と「社
会文化コース」の二つがあります。
芸術文化コースではサブカルチャーを含め
た文芸、映像、現代アートの諸分野に関して
学びます。社会文化コースは国際社会におけ
る新たな交流と協力へのノウハウを身に付け
るための学習をします。
黒 川 この課程の学生は、卒業後どのような方面に
進むのですか。
教育人間科学部 第 2 研究棟
高 木 地方公共団体の芸術文化振興関係の部署や地
域の問題に密着した NPO など、人間文化課程の目的にあった就職先が中心です。
川 この辺りで話題を変えて、先日の理事・評議員会でのご挨拶にあった教育実習に
ついてのお話をお願いしたいのですが。
木 教育実習については、文科省や中教審がそのあるべき姿を提示しています。どう
いう提示かと言うと、これまでの教育実習では実習と通常の講義とをダブル履修
していた。つまりこれまでの制度では、教育実習の期間中は通常の学習は欠席で
なく公欠となる、これはおかしいのではないかという指摘です。つまり実習期間
中は通常の学習と実習とが重複履修になるので、
確かにおかしい。本学部は県下唯一の国立の計画
的教員養成の学部なので、この指摘には前向きに
対応せねばならない。そこで本学部では、3 年生
の春学期(4~9 月)に教育実習を行なうことにしま
した。5~6 月に小学校の実習 4 週間、9 月に中学
校での実習 2 週間を実施します。もちろんその期
間には、通常の学習は行ないません。この件につ
きましては平成 21 年頃から計画し、そのための
教育人間科学部 第 6 号館講義棟
カリキュラムを大学として作ったり、県下各地の校長会の方々にもご説明をして
了解が頂けるように努めてきました。しかしいよいよ実施となりますと、実習受
け入れ校の現場の実情と合わないという問題が出てきました。
川 それはどんな問題なのですか。
木 大学は春学期(4~9 月)・秋学期(10~3 月)の 2 期制ですが、小・中学校でも最近は
2 期制のところが多くなって、昔と事情が変わってきているのです。小学校の場
合は学校行事がかなり前期に集中していることが多いので、その関係から実習は
むしろ 10 月・11 月に来てくれた方が有難いという声が多いのです。中学では 9
月は期末テストなど、前期のまとめの時期なので、その時期に実習にこられても
困るという事情があるようです。実習についてその他にもまだ問題点があります。
川 他にもまだ問題があるのですか。それは何でしょう。
木 それは世代交代による、現場の先生の急速な若返りと言う状況です。ふつう教育
実習生の指導教官には、年齢的に円熟した実践経験豊かな先生がその任につきま
す。しかしそれらの先生たちは最近次々と職場を去り、その後をそれより若い先
生が埋めています。その結果、昔と比べて指導者自身の指導能力に余裕が無くな
3
っていると聞いています。だから実習生の指
導について昔ながらの考えでは、現場は持た
ないのではないかという心配があります。無
論、附属などは別ですが。そこでこの際に発
想を転換し、必ずしもベテラン教員が教生指
導をするというだけでなく、経験 5 年くらい
の若い先生が実習生を受け入れて、ともに勉
強するという体制を作っていくことも大切で
はないかと考えるのです。
岡沢町バス停から国大正門への坂道
このように来年度の教育実習については、
実施に当たっての問題点があるのですが、横浜・川崎・相模原・大和など各地の
校長会を回ってお話をした結果、快く協力してくださることになりました。
黒 川 本日は公務ご多忙のところ時間を割いていただき、有益なお話をお聞かせいただ
き有難うございました。お話の要旨は「磯子支部だより」誌上で会員にお伝えい
たします。ではこれで終らせていただきます。
※ 実は学部長さんのお話は、他にも「横浜附属中のデジタル教科書や電子黒板・タブ
レット型の小さいパソコンなどを使った授業の話」「国立の附属中と県立の光陵高
校が連携して、光陵の中に附属中の進学枠を 1 クラス分用意したり、附属小・中・
光陵高校・国大を通して綜合学習の発表会を年に 1 回やっている」など、大切なお
話があつたのですが、紙数の関係で掲載できませんでした。お詫びいたします。
対
談
新 制 中 学 発 足 の 頃
―「梅ちゃん先生」の 時代の 学校
語り手
聞き手
長塚
長塚 肇 (神師 昭和 19 年卒)
黒川鈴谷 (国大 昭和 35 年卒)
肇 先生
この四月から NHK の朝の連続テレビ小説で、
「梅ちゃん先生」が放送されています。時
代は戦争末期から始まって戦後の混乱期を経て、物語の現在は世間がやや落ち着いてきた
昭和 25 年頃にさしかかっています。この時代はまさに私たちの学年、つまり昭和一桁生
まれの最後と二桁生まれの最初を含む学年が、小学校(正確には国民学校ですが)を卒業し、
いわゆる新制中学から新制高校へと進む時代に、ピタリと照応しています。
この時代は物質的には最低だったが、義務教育諸学校における教育は最低ではなかった。
むしろある点では今より良かったと思います。もちろん米軍の占領下ということで、いろ
いろな問題や制約があったことは事実ですが。ただ当時私は児童・生徒としての立場で見
ていたので、本当のことは分かりません。
そこで、当時既に教師として活躍されていた長塚 肇先生にその頃の学校の様子をお尋ね
しました。以下はその記録です。なお長塚先生には、昨年度の支部だより第 2 号で「思い
出すままに(戦時下の師範学校生活の回想)」をお書き頂いております。
黒
川
長塚先生には昨年度の支部だより第 2 号で、戦時下の師範生活のお話を伺いまし
た。そのお話は昭和 19 年の暮れに陸軍に召集されるところで終っていたのです
4
長
塚
黒
川
長
塚
黒 川
長 塚
黒
川
長
塚
黒
川
が、今日はその続きからお願いします。
昭和 19 年 12 月 25 日に陸軍に召集され、茨城県取手の高射砲部隊に入隊しまし
た。昭和 20 年になると日本の敗色は濃厚で輸送船も満足なものがない状態だっ
たので外地に送られずに済んだのです。本土決戦に備えて兵士の数だけは大量に
動員されたので兵舎も足りず、取手付近の民家に分宿していました。
8 月 15 日の終戦のあとは、内地の部隊ですからす
ぐ復員できたのでしょう。
ところがすぐに帰れたわけではなく、軍隊関係の
書類を燃やしたり、階級章や襟章などを廃棄した
りしました。だが 8 月 15 日の玉音放送の後は日
本は負けたんだということで宿泊している民家で
は風呂も沸かしてくれません。一挙に待遇が落ち
てしまいました。それから 8 月の末までは何もせ
ず、利根川のほとりで釣りなどして過ごしました。
昭和 20.8.15 宮城前広場の人々
ところが 8 月 31 日になって、東京市谷の大隊本部に行けと言うのです。市谷
では部隊の人員名簿の復元作業をさせられました。
復元作業というと、その名簿は元々はあったものなのですか。
部隊の名簿ですから元々はあったのですが、敗戦で全部焼いて処分してしまった
のです。ところが進駐してきた米軍から名簿を出せと言われて困ってしまいまし
た。そこで私たち幹部候補生が市谷に集められて名簿復元の事務的な仕事をやら
されたのです。そんなわけで家に帰れたのは 9 月の半ば頃でした。そしてもと勤
めていた学校に行ったのは 9 月の 20 日頃でした。
もと勤めていた学校というと、川崎市の生田小ですね。そこにはすんなりと戻れ
たのですか。
もともとその学校に在籍のまま軍隊に行ったのですから、すぐに復帰出来ました。
しかし私の家は横浜の根岸にあるので、朝 8 時半の始業に間に合う為には家を 4
時半に出なければなりません。そして帰りは家に着くと 8 時半か 9 時になってし
まいます。軍隊に行く前には宿直室に泊まり込んでいたので良かったのですが、
帰ってからは毎日家から通ったので大変でした。そこで昭和 20 年の 12 月 31 日
に横浜の桜岡小に転勤しました。
この頃は終戦直後でいろいろ混乱していたのでしょうが、それにしても大晦日に
転勤と言うのは異例ですね。
長 塚 3 月までは、高等科 2 年の男子生徒を教えました。
当時は初等科 6 年の上に高等科 2 年があったので
す。今で言うと中学 2 年の年齢ですね。もっとも
当時は義務教育は初等科 6 年だけで、高等科は義
務ではありませんでした。生徒は男子 64 名いま
したが、実際に毎日出席するのは 49 名だけでし
た。そして 4 月からは 6 年の担任になりました。
相模湾に集まるアメリカ艦隊
黒
川
私はいわゆる疎開世代なのですが、最初は南太田国民学校の集団疎開で箱根の仙
石原に行きました。昭和 20 年の 7 月に、まさか一ヵ月後に戦争が終るとは夢に
も思わずに家中で広島に縁故疎開しました。そして 9 月から瀬戸内海の小さな島
の学校に転入したので、8 月 15 日の玉音放送は生では聞いていません。
5
その 8 月 15 日を境にして、学校もずいぶん変わったのではと思います。例えば
戦争中までは元日や紀元節・天長節などのいわゆる四大節には講堂で式があり、
校長先生が教育勅語をうやうやしく奉読したり、天皇陛下の御真影に最敬礼した
りしました。島の国民学校での生活や翌年横浜に戻って転入した大岡国民学校で
の生活を思い出しても、そういう儀式をやった記憶が無いのですが、ああ言うこ
とは敗戦を境に、一切なくなったのでしょうか。
長 塚 20 年の 8 月 15 日を境に、そういう儀式などは一切やらなくなりました。恐らく
進駐した米軍からの通達で禁止されたのではないですか。戦争が終るまでは各学
校の校庭に御真影を保管する「奉安殿」という小さな神社のような建物があった
のですが、その奉安殿も壊されました。
黒 川 私は敗戦 1 年後の昭和 21 年 8 月に横浜に
戻り、大岡小(国民学校)の 6 年に転入しま
した。ちょうどテレビの「梅ちゃん先生」
の時代ですね。弘明寺にも闇市があって賑
やかでした。大岡での二学期・三学期には
忘れられない記憶があります。当時、どこ
の学校でも行なわれた教科書の墨塗りもそ
の一つですが、その他にも幾つかあります。
例えば或る日の 5 時間目、担任の先生が教
雑然として活気があつた戦後のヤミ市
室に入ってくるなり、「今日はこれからデ
スカッションを行なう」と宣言しました。でも「デスカッション」とは初めて聞
く言葉なので皆狐につままれたような感じで茫然としていました。しかし当時の
子供は従順ですから、「先生、それはいったい何ですか」と聞く者もいません。
すると先生は、「江島、前に出てきてデスカッションを始めろ」と言いました。
級長の江島君は恐らく吃驚仰天したのでしょうが、そこは当時の子供なので「ハ
イ」と爽やかに答えて黒板の前に出てきました。
しかし江島君は私たちの方に向いて「では、これからデスカッションを始めま
す」と言ったきり、その後は一言もしゃべりません。と言うよりしゃべれないの
です。先生に「始めろ」と言われても、そもそもデスカッションなるものが一体
何なのか分からないので、何も言えないのです。先生も何も言いません。重苦し
い緊張感と沈黙が教室全体を覆いました。その後で事態はどうなったか、残念な
がらその後のことは記憶からすっぽり抜け落ちているので、語れないのですが。
後年、自分が教師になってから思ったのですが、担任の先生もデスカッション
なるものが何なのか何も知らなかったのでしょう。恐らく当時の進駐軍の「子供
たちに大いに討論させる機会を作りなさい」とで
もいう指示によって、先生達も何かよく分からな
いまま実施しようとしたのではと思いますが。こ
んな類の指令とか指示がよくあったのですか。
長 塚 確かに当時は進駐軍からのお達しの文書が時々学
校に来ました。職員は全員その文書を読んで、確
認のために捺印するのです。しかし文書には英語
をそのままカタカナに直しただけの言葉もあり、
正直に言って良く分からないこともありました。
お話の「デスカッション」もその類のことと思い
自転車式人力車 リンタク
6
黒
川
長
塚
黒
川
ます。そう言う文書の中に「ガイダンス」という言葉が使われていたら、それが
「指導」と言う意味だとは誰も知らず、ダンスの一種だと思ったという笑い話も
ありましたね。敗戦に伴う激動の中で、頼るところが無
くみんな右往左往していたのですね。
もう一つ印象に残っているのは、
「マックマナス旋風」で
す。まあ旋風とは私が勝手に付けたのですが。どんなこ
とかと言うと、休み時間に担任の先生が慌しく教室に駆
け込んできます。何かと思ったら、
「お前たちの中で地理
付図を持っている者は居るか。もし居たら先生に出しな
さい」と言うのです。
「地理付図」と言うのは今で言う地
図帳で、そこには朝鮮・台湾は日本領として赤く塗られ、 タバコを吸う戦災孤児
満州国もありました。だから禁書として学校に持ってき
てはいけないと言われていたのです。しかし子供の中には地図を見るのが大好き
な者もいて、秘かに持ってきて休み時間に見たりしていました。ところがその地
理付図が、あるとき学校視察に来た進駐軍の将校に見つかり、占領政策に反抗し
ているとのことで大変な問題になったと聞きました。当時我々子ども達の間に秘
かに広まった噂では、その学校の校長先生は馘首になったとのことでした。そこ
で先生が大慌てで地理付図を回収してどこかに隠したのでしょう。学校視察によ
く来た進駐軍の将校はマックマナス大尉と言う人で、県下の教育界では有名な人
だったようですね。なにしろ子供だった私たちが名前を知っていたくらいですか
ら。先生は会ったことがおありですか。
あります。ただ私も当時は若手の教師だったので、
「会った」というよりマックマ
ナスが話をする場に「居た」と言う方が適切ですが。その時に思ったのですが、
マックマナスの話を私たちに取り次ぐ通訳によって、ずいぶん印象が違いました。
最初の通訳と二回目に来た時の通訳は別の人で、初めの通訳は駄目でしたが二回
目の通訳はとても良い人でした。通訳はどちらも日本人の二世と思いますが。
なにしろつい一年ほど前までは、
「鬼畜米英撃滅」というスローガンを信じ込んで
いた軍国少年でしたから、戦いに負けた後ももう少し毅然としているならともか
くも、ひたすら低姿勢な先生たちの様子を見て、子供心にも「なんて情けないん
だろう」と思い、
「俺は大人になっても、先生には絶対
にならないぞ」と決心しました。でも現実にはなって
しまいましたけれどね。教師になって国語の教科書に
あるドーデーの「最後の授業」を読んだとき、この頃
を思い出しました。日本は幸いにも英語の使用を強制
されることはありませんでしたが。
ところで話は急に飛びますが、昭和 22 年度から六三
制が実施され、いわゆる新制中学が発足しましたね。
先生が小学校から中学に移られたのはいつ頃ですか。
昭和 22 年 4 月、六三制開始。男女共学始まる。
長
塚
黒
川
22 年の 4 月から新制中学が出来るというので、私はさっそく転任の希望を出しま
した。でもなかなか異動の通知がこないのです。どうも現任校の校長さんが若く
て元気が良いのを手元におきたいと考えて、私の希望を抑えていたようでした。
しかしとにかく希望が通って、22 年の 4 月 1 日から共進中学校に転任しました。
私たちは 22 年の 3 月に大岡小を確かに卒業したのですが、4 月一杯は卒業したは
7
ずの大岡小の校舎に通わされました。おかしいなあと思ったのですが、後から考
えるとどうも新制中学の校舎が決まらなくて、行くところが無かったのではと思
います。Y 校の校舎の一部を借りて、中学が開校したのは 5 月 5 日でした。共進
中はもとの共進小の校舎に出来たのですから、4 月から開校したのでしょう。
長 塚 いや、共進中も開校は 5 月 5 日でした。
黒 川 すると全市の新制中学は足並みそろえて 5 月5日に
開校だったのですかね。各校とも開校に当たっては、
大なり小なりいろいろな問題があって大変だったで
しょうからね。
長 塚 共進中の校舎は、元の共進小の鉄筋コンクリート三
階建ての建物でした。共進小の学区は空襲で壊滅し
たので、隣の日枝小の学区と合併し共進小は無くな
ったのです。だから建物はまずまず当時としては立
工場の建物を仕切った教室(大田区)
派だったのですが、実は中学が使えるのは一階にあ
る職員室と三階の教室だけでした。二階全部を女子
専修学校が使っており、そのほか Y 校の理容・美容別科も入っていました。更に
驚いたことには校内に佃煮の卸問屋があって、どんな理由でかは知りませんが
戦争中から営業していたようです。更に体育館は米軍用に接収されていました。
近くにあった米軍兵舎の兵隊が夜になるとやってきてバスケなどをするのです。
黒 川 では体育館は昼間は使えたのですか。
長 塚 いや、米軍以外は使用禁止で昼間も使えませんでした。ですから入学式は場所が
無くて校舎の屋上でやりました。生徒の座る椅子を屋上に運ぶのですが、なにし
ろ生徒はまだ一人もいないので生徒に運ばせることも出来ず、前日に職員が手分
けして屋上まで運び上げたのです。開校の時には職員が十二名しか居なかったの
でこの作業は大変でした。
黒 川 いやあ、伺ってみるとどの学校も大変だったのですね。私の母校南中学(当時は南
太田中学と言った)の入学式は Y 校の講堂を借りておこなわれたのですが、天井
を見上げると戦争中の空襲で焼夷弾が落ちて焼け焦げた跡が点々としていまし
た。また三階の教室の一つは空襲で小型爆弾でも命中したらしく、天井にポッカ
リと穴が開いていて、その下に雨を受けるコンクリート水槽が置いてありました。
校舎も荒れて酷かったが、備品も机と椅
子の他は何もありませんでした。教室を清
掃しようとしても清掃用具も無いのです。
担任の先生が私たち生徒に、
「悪いが君たち
の家の箒や塵取り、金槌や釘、雑巾・バケ
ツなど家にあるもので、学校に持ってこれ
るものは何でも持ってきて欲しい」と頼ん
取り壊されて今は無い Y 校の旧校舎
でいました。生徒たちの家庭からそういう
中央の茶色い建物が講堂
ものを持ち寄って、やっと教室掃除が出来るという状態でした。私達の家の在っ
た大岡小の学区は、
20 年 5 月 29 日の横浜大空襲ではほとんど焼けなかったので、
各家庭に清掃用具などの余裕があって持ち寄れたんですね。共進中の場合は、共
進小という学校の跡に入ったのですから、備品の状態などはそれほど酷くはなか
ったのでしょう。
長 塚 確かにある程度の備品はありましたが、それでも酷い状況でしたよ。なにしろ開
8
黒
川
長 塚
黒 川
長
塚
黒
川
長
塚
黒
川
長
塚
黒 川
長 塚
黒
川
長
塚
校に当たって役所から配給された紙は、ワラ半紙一締めだけでしたからね。出勤
簿の用紙も無くて、私がガリ版で印刷して作りました。物の無い状態は生徒たち
も同じで、傘がないために雨が降ったら休む子もけっこう居ました。
そうでしたね。こうもり傘などはあまり無くて、和紙張りの和傘を差してくる者
が多かったですね。あれは古くなるとちょっとぶつけただけで紙が切れて困りま
した。靴も運動靴などあまりなくて、下駄で通学する者がほとんどでした。
いや、下駄も無くて裸足で登校する者もいましたよ。
ところで話を元に戻しますが、先生はどんな理由で中学への異動を希望されたの
ですか。
当時はこれから六三制の新しい教育制度が始まろうとする時で、新制中学につい
てもよく分かりませんでした。私はそれまであった中等学校(旧制中学)のことを
漠然と考えていて、中学に換われば専門の教科だけ教えるのだから、時間的にも
余裕が出来てよいだろうと考えたのです。
ところがいざ共進中に赴任してみると、なにしろ校長以下 12 名しか職員がい
ないので、自分の専門の教科だけ教えて後は知らないというわけにはいかず、私
は理科が専門なのですが、それ以外に社会と体育も教えて 1 週 30 時間にもなり、
空き時間は全く無くて大変でした。
それは大変でしたね。でも小学校ではもともと全教科を教えるのですから、まあ、
同じようなものではないですか
でも例えば体育にしても、小学校と違って
内容的に高度になりますから大変でした。
私も当時は若かったからなんとかこなしま
したがね。
新制中学が発足した昭和 22 年から 2 年
たち、24 年になると世の中もかなり落ち着
いてきました。このページの写真はその年
の 10 月に行なった共進中学のバザーの写
真です。後に三人立っている先生たちの一
番左が私です。
共進中のバザー(昭和 24 年 10 月 30 日)
写真を見ると看板に食堂と書いてありますが、食堂では何を売ったのですか。私
の記憶では、この頃はまだ主食は配給制でしたが、やっとパンはクーポン券(どう
いう訳かクーポンでなく、クーポン券と言っていた)を持っていけば、小麦粉を持
っていかなくてもパン屋でパンを買えるようになり皆喜んだ、そんな時代でた。
食堂と言っても、売っているのはジュースとかサイダーくらいで、たいしたもの
はありませんでした。でもこういう行事をやるようになったのは、世の中が少し
落ち着いてきたからですね。
もう一枚の写真は教室で何か作っているようですが、何を作っているのですか。
これはこの年(昭和 24 年)の 3 月から三ヶ月間ほど行なわれた日本貿易博覧会
に共進中学が出品した星座板を制作している時のものです。
貿易博覧会は私も見学に行って、そこで見た「テレビジョン」というものに驚嘆
した記憶があります。もちろん今のテレビとは比べ物になりませんがね。でも出
品しているのは当時の日本の一流企業ばかりと思っていましたが、共進中が出品
していたとは吃驚しました。何を展示したのですか。
まあ、今でいえばプラネタリュウムのようなものですね。共進の先生ではないの
9
ですが横浜市の嘱託だった田中先生と言う方の発案で、出品することになったの
です。写真で分かるように教室を使ってかなり大きな星座板を作りました。そし
てそれをモーターで動かして、時間と共に星座が動くようにしたかったのですが、
残念ながらモーターの調子が悪くて動きませんでした。でも会場に運んで展示は
しました。
黒 川 博覧会の会場は神奈川区の反町会場と、
西区の野毛山会場とありましたが、どち
らに展示したのですか。
長 塚 野毛山会場です。でも今考えても可笑し
くなるのは、作っている時には運ぶこと
を何も考えずに作っていたのですね。だ
から完成していざ運ぼうとしたら、大き
すぎて教室の入口を通れないのです。仕
方なく一度二つに切って入口を通るよう
貿易博覧会出品物を制作する共進中生徒(24 年 3 月)
にしてから、トラックで会場まで運びま
した。
黒 川 写真には生徒が何人も写っていますが、この生徒たちが皆で作ったのですか。
長 塚 そうです。共進の科学クラブの生徒たちです。会場に納入する期日が迫ると毎晩
夜の 11 時ごろまで、子供たちと作業しました。いまそんなことをしたら家庭か
ら厳重な抗議が来るでしょうね。でも当時の父母は学校にとても協力的で、夜食
にサツマイモを差し入れたりしてくれましたよ。
黒 川 いやあ、当時の学校と家庭との関係は、今では考えられないくらい信頼関係があ
り暖かいものでしたね。古き良き時代と言いたくなりますね。
長 塚 本当にそうですね。
黒 川 ところで当時の中学の先生方の中には、実にユニークな方がおられましたね。例
えば私の中学の英語の澤田先生。この方は独学で検定で資格を取ったのだという
噂でしたが、私たちに黒板に書いたアルフレッド・テニスンの詩を朗誦させまし
た。先生が朗々と読まれる後を、私たちが口真似
をして唱えるのです。This is a pen.などとやって
いる中一の私たちに、イギリスの詩人の英語の詩
を朗誦させたんですからね。おかげて今でもこの
詩の一節は覚えています。
数学の松岡先生は、戦争中は満鉄の技師をして
いたのだという噂で、クラスの悪童が数学の時間
に「ところで先生、満鉄のアジア号の動輪の直径
はどのくらいありましたか」などと水を向けると、 日本貿易博覧会 野毛山会場入口
とたんに授業はそっちのけでアジア号の素晴らしさを滔々と語って止まりませ
んでした。理科の講師の西郊先生、美術の講師の小林先生も忘れられません。
長 塚 中学が義務教育になったので、先生が大量に足りなくなったのでしょうね。だか
ら本来なら先生にはならなかった人達が先生になって、その中にはかなりユニー
クな人も居たでしょうね。共進中にも英語の先生の中に、米軍の集会所で通訳を
していたという人などがいました。
黒 川 中学 2 年の時には生徒会がすでにあり、驚いたことに学校行事のはずの遠足の目
的地まで生徒会で決めていました。生徒会で決めることに、先生方から異議は出
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ませんでした。共進中でも同じようでしたか。
いや、共進中では遠足の目的地は教師が決めていました。私が目的地を選定する
係りをやっていたのでよく記憶しています。
そうすると、生徒たちに自主的に決めさせなさいというような指導が進駐軍から
あったわけではなく、学校によってそれぞれ異なったやり方をしていたのですね。
そうです。おそらくあなたの母校南中学では、生徒の自主性を尊重しようという
先生方のお考えがあって、そういうことをし
たのではないですか。
なるほどよく分かりました。しかしともかく
あの時代には、各学校での裁量を認め自由に
やってよいという空気があったのですね。
そう思います。
私のいた南中学では、放課後になると何人も
の生徒が職員室の先生たちのところに集まり、 南中学 2 年 秋の遠足 三浦半島浦賀にて
いろいろな事を話し合いました。忙しい先生方はたぶん迷惑だったのでしょうが、
いやな顔もせずにつきあってくれました。必ずしも勉強のことでなく、というよ
りむしろ勉強以外のことでいろいろと先生に質問したのです。当時米・ソの対立
が鮮明になってきた時期で、米・ソのどちらが正しいかなどと背伸びした議論を
している私たちに向かって、「君たちはそんなことを言っているが、日本の将来
を本当に考えるのはアメリカでもソ連でもない。それを考えるのは、僕たち日本
人しかいないんだぞ。」と静かに言われた若い先生のことは忘れられません。
いま NHK でやっている朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」の時代ですね。あのド
ラマを見ると、当時を思い出して懐かしくなりますね。
中学や高校の同窓会で同級生に会うと、皆あれを見ていますね。あの時代の町や
世の中の様子が良く描けていますが、しかし「本当はもっと酷かったよな」と誰
も言いますよ。あのドラマでも分かるように、あの頃の日本は物質的にはとても
貧しかったのですが、世の中全体が明るく活気に満ちていたように思います。教
育の世界にも今より生き生きとした活気があったのではないかと思うのですが。
明るく活気があったのは、長かった戦争の時代が終って生き残った若い人たちも
故郷の町や村に戻ってきた、さあこれからは日本も良い国になるぞと皆が感じて
いたのでしょうね。
あれから数十年たって、日本は本当に良い国になったのでしょうか。最近の日本
の政治や経済の有様を見ていると、どうも疑問に思えるのですが。原発の問題に
しても、梅ちゃん先生の時代の生活に戻れば確かに原発など要りませんが、それ
は不可能なことでしょう。根本的には、日本を将来どんな国にするかという国家
像が国民全体の合意として出来ていないということだと思います。あの時、若い
先生が私たちに言ったように「日本の将来を本当に考
えるのは、私たち日本人しかいない」のですがね。
今日は六三制発足の頃の学校の様子についてお話を伺
う予定が、いつの間にか現状についての愚痴になって
しまい、申し訳ありませんでした。願わくは数十年後
に現在を振り返って、
「あの頃が新しい出発の始まりだ
った。」と言われたいものですね。本日はいろいろお話
いただきまして有難うございました。
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昭和 30 年代卒業生の交歓会 開催の報告
友松会磯子支部の OB 会員名簿を見ると、昭和 30 年
代(つまり鎌倉時代ですが)に国大学芸学部を卒業した同
窓生が、合計 15 名おります。内訳を書くと 30 年卒(4 名)、
31 年卒(1 名)、32 年卒(2 名)、33 年卒(2 名)、34 年卒
(1 名)、35 年卒(3 名)、36 年卒(2 名)の 15 名です。
交 歓 会 参 加 の4 名
ところがこの 15 名のうち、私(黒川)が直接知っているのは 2 名だけ。後の人は顔も知り
ません。こんなことで同窓生と言えるでしょうか。そこでかくてはならじと、今回私はこ
の 15 名の方たちに交歓会の開催を呼びかけるハガキを出しました。このハガキの呼びか
けに応じて集まったのが、上の写真の 4 名です。この他にも、日程の都合がつけば参加す
るという方が、女性を含めて 3 名あったのですが、今回は残念ながら不参加でした。
6 月 26 日(火)に行なうと決め、京急上大岡駅改札口で 1 時に待ち合わせたのですが、お
互いに顔を知らないので、ちょっと滑稽なことが起こりました。1 時少し前に所定の場所
に行くと、人待ち顔に佇んでいる人が何人かいます。しかし困ったことにお互いに顔を知
らないので、果たしてその人が待ち合わせの相手かどうかよく分かりません。私が唯一顔
を知っている人は、まだ現れません。私の隣に立っている男の人が、何となくこちらを気
にしてチラチラと見ています。私はとても人見知りする性質なので、どうしようかと思っ
たのですが、企画者としての責任上、「失礼ですが、どなたかお待ちですか。」と聞いてみ
ると、やっぱり同窓生でした。二人が挨拶しているのを見て、そばにいたもう一人の人も
近寄ってきて挨拶を交わしました。まったくこんな状態で、同窓生と言えるのでしょうか
ね。最後の一人とも落ち合って、4 人で 10 階のレストランに行き、食事をしながら二時間
以上話をしました。
話題はあちらに飛びこちらに飛び、とりとめもないといえば言えるのですが、とても愉
しかったです。小学校 1 人・中学校 2 人・高校 1 人と現役時代の職
歴もバランスがとれて良かったです。こういう何の拘束もない、自
由気ままな話も良いのでは無いかと思いました。また秋にやりまし
ょうと約束して別れたのですが、友松会にはこういう自由に集まっ
て交流し、同窓の絆を深める会が必要と思います。(文責・黒川)
編 集 後 記
(H. 24. 7. 15)
黒 川
記
◆昨年 7 月 7 日に発行した磯子支部だより第 3 号で、「懐旧談 横浜国大草創の頃」を語
っていただいた生出久雄氏(国大 1 期)が、2 月に逝去されました。氏はこの何年か病と
闘っておられたのですが、少し快方に向かわれ外出も出来るようになった昨年の今頃に、
お話を伺ったのです。その後、1 月の支部総会にも出席されお元気だとばかり思ってい
ましたが、突然の訃報で吃驚いたしました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
◇「磯子支部だより」の今年度第二号(通算第 9 号)をお届けします。今年度中に(と言うこ
とは私の任期があるうちに)、OB 会員相互の交流や現職会員との交流など当面する課題
の解決に向けて、一歩を踏み出したいものですが。ともすると悲観的になります。こう
いうとき心を慰めてくれるのは、やはり蕪村ですね。幾つかの句が心に浮かびます。
・愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら ・わが帰る路いく筋ぞ春の草 ・花に暮て我が家遠き
野道かな
でも「これきりに径(こみち)尽きたり芹の中」とならぬよう頑張ります。
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