開け、エパタ マルコの福音書7章31節~37節 2015年11月15日(日

開け、エパタ
マルコの福音書7章31節~37節
2015年11月15日(日)礼拝説教
皆さん、お早うございます。
寒くなって、まいりまして、あちこちで、芋煮会の案内が、見られるように、なって、まいりました。
先週は、私たちの教会でも、礼拝後の昼食会は、芋煮汁でした。
その、芋煮会の出席者の中、3人が、何らかのかたちで、耳の、問題を、抱えて、いらっしゃる方々であることが、知
らされ、驚きました。私も、航空中耳炎というのにかかって、耳鳴りが止むのに、3ヶ月以上、かかってしまったこと
が、ありまして、その時の辛さは、どなたにも、解っていただけず、苦労いたしました。
今日は、そんな、耳の障害と、言語の障害を、取り除いて下さった、イエスさまのことを、マルコの福音書7章31節
から、37節までを紐解きながら、ご一緒に、学んでまいりたいと、存じます。
最初に、ひとこと、お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。今朝も、あなたが、私たち、ひとりひとりを、礼拝に、招いてくださっ
たことを、心から、感謝いたします。どうぞ、あなたさまが、私たちの真ん中に立って、礼拝を、リードして、ください。
感謝して、イエスさまの、尊い御名前によって、お祈りいたします。
アーメン。
マルコの福音書7章31節。
それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラ
ヤ湖に来られた。
ツロの地方にあった、友人の家に、お弟子さんたちと一緒に、泊まっていた、イエスさまは、スロ・フェニキアの生ま
れの、女性の、お嬢さんを、癒され、それから、北へ、シドンの方に上り、そこから、デカポリスの地方のあたりの、
ガリラヤ湖に来られたと、記されて、おります。地図で見ますと、シドンから、ガリラヤ湖までは、直線距離では、そう、
たいしたことはないのですが、たいへんな、山道を通って行くことに、なって、しまいます。この後、イエスさまは、逆
に、ガリラヤ湖から、ヨルダン川を遡って、ガリラヤ湖の北にある、ピリポ・カイザリヤの村々へ、伝道旅行に、行っ
ておられますので、行きは、この山道を通らずに、ずいぶん、遠回りには、なって、しまいますけれども、シドンから
東へ、その昔、アブラハムが、初めて、カナンにやって来た時の宿場町を通って、パウロが、復活のイエスさまにお
会いした、デカポリス最大の町、ダマスコの近郊を南下して、ガリラヤ湖の南の沿岸の、デカポリスの町々、あの、
悪霊に憑かれた男に取り憑いていた、悪霊どもを、豚の大群の中へと、送り込んだ、あの、ゲラサ人の、地方へと、
向かわれたのでしょう。これは、たいへんな、遠回りで、おそらく、イエスさまは、この、平坦な道を、お弟子さんたち
と一緒に、歩きながら、弟子訓練に励んで、おられたのでしょう。
マルコの福音書7章32節。
人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。
‶耳が聞こえない人″とは、一体、どんな人のことを、指しているのでしょうか。全く、物音が、耳に、届かない人は、
もちろんですが、音は、聞こえては、いるものの、その音の、中身を理解することの、出来ない人も、含んでいるの
では、ないでしょうか。だとすれば、イエスさまの、みことばを、受け付けない耳をも、含んでいると、理解することが、
出来るのでは、ないでしょうか。‶口の、きけない人″とは、一体、どんな人のことを、指しているのでしょうか。
‶口の、きけない人″という言葉は、‶会話に苦労している人″すなわち、言語障害を、持っている人を、指しており
ます。ものを言う力は、ものを聞く力と、密接に連動しておりますので、イエスさまの、みことばを、正しく、聴けない
方は、イエスさまの、みことばを、正しく、語る、あかしすることの、出来ない方でも、あるのだと、言うことが、出来る
のかも、しれません。
マルコの福音書7章33節。
そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばき
をして、その人の舌にさわられた。
‶その人だけを″という言葉は、‶密かに″という意味の言葉です。マタイの福音書14章13節に、イエスさまが、
‶自分だけで寂しい所に行かれた″と、記されておりますが、同じ表現です。
深刻な問題の、有る、無し、に関わらず、群衆の中から、自分だけを、離し、イエスさまだけを仰ぎ、祈る時間を、持
つ必要が、私たちには、あるのでは、ないでしょうか。
‶指を″とは、誰の指のことなのでしょうか。もちろん、イエスさまの指です。イエスさまの指は、イエスさまの御霊、
すなわち、聖霊なる神さまを、指して、いるのです。イエスさまは、この男の、みことばを、受け付けようとしない耳を、
こじ開けようと、なさいました。耳を開けることが、最初だったのです。信仰は、聴くことに、始まるからです。
それから、イエスさまは、その人の、舌に、さわられました。舌は、イエスさまの、みことばを、指しております。
イエスさまは、その人に、語ることを得させようと、されたのです。その、語ることとは、自分の悩みではなく、自分の
問題でもなく、自分の体験でも、ありません。それは、イエスさまの、みことばへの、応答でなければ、ならないので
す。
マルコの福音書7章34節。
そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に 「エパタ」すなわち、 「開け」 と言われた。
‶天を見上げ″とは、上にある、見えないものに、じっと、眼を、据えることを、意味して、おります。
‶深く 嘆息して″とは、‶うめくように祈った″という、ことです。ローマ人への手紙8章26節には、‶御霊ご自身が、
言いようもない、深い、うめきによって、私たちの ために とりなして くださいます。″と、記されておりますし、へ
ブル人への手紙5章7節には、‶大きな 叫び声と 涙とを もって 祈りと 願いをささげ″と、記されておりますが、
同じ意味の、ことです。‶エパタ。開け。″私たちの耳を造られたイエスさまは、閉じてしまっている、私たちの耳に、
‶開け″と、命じて、開くことが、お出来になる、御方で、あられるのです。
マルコの福音書7章35節。
すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
この奇跡は、簡単なものでは、ありませんでした。イエスさまは、天を見上げ、深く嘆息されて、祈ってくださったの
です。祈る、すべを、知らない、私たちのために、祈ってくださり、それによって、イエスさまは、私たちの辛さを、ご
自身の身に、背負って、くださったのです。そして、私たち、ひとり、ひとりに、‶永遠のいのち″という、イエスさまに
在って、歩んで行く、いのちを、プレゼントして、くださったのです。私たちの、みことばへの耳は、開かれ、私たちの
舌を、縛り付けて来た、鎖は解けて、私たちは、正確に、イエスさまのみことばへの応答が、出来る者へと、させら
れたのです。
マルコの福音書7章36節
イエスはこのことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、
かえって言いふらした。
イエスさまは、癒された方の弱点を、見抜いて、おられました。奇跡を体験した方は、イエスさまに感謝せず、信仰を
深めることもなく、ただ、人々に、言いふらすだけに、なりやすいのです。イエスさまは、自粛を、命じられました。
恵みにあずかった者は、その恵みをもって、イエスさまに栄光を帰さなければ、ならないのです。
イエスさまを、正しく、救い主、神さまの御子であると、理解していない段階に在っては、そして、イエスさまの十字架
と復活が、まだ、成就していない段階では、イエスさまが、救い主であられるという、秘密は、隠された、啓示である
べきなのだ、という趣旨の、口止めで、あったのです。口止めされたのは、本人だけではなく、周囲の者たちも、そう
でした。でも、彼らは、イエスさまに感謝し、イエスさまに、ご栄光を帰すことよりも、感情だけで、動いて、しまったの
です。
悪意は、無かったのかも、しれませんが、無頓着で、軽率でした。知恵と、思慮とに、欠けていたのです。
私たちは、イエスさまの御声に、耳を傾けないならば、自由奔放に動いてしまう、選択をしてしまうことに、なりかね
ません。このことは、イエスさまの啓示は、信仰によってのみ、認められるべきものなのだと、いうことを、意味して、
おります。しかし、それでも、なお、イエスさまの啓示は、隠されたままではいないのです。
マルコの福音書7章37節。
人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こ
えるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。
‶この方の なさったことは みな すばらしい″これは、神さまの御子であられるイエスさまによる、新しい創造の
始まりが、告げられて、いるのです。創世記1章31節を開いてみますと、そこには、‶神は、お造りになった、すべて
のものを見られた。見よ。それは 非常に 良かった。″と、記されております。
十字架の上で、完全に、敗北して、しまったかのように、見えるイエスさまの姿に、救いを見て取る。そして、救いを、
聴き取る。その信仰が、私たちに、今、あるのか、どうかが、問われているのでは、ないでしょうか。
ローマ人への手紙の8章には、三つの、‶深い嘆息″が記されております。
第一は、22節で、‶被造物全体が、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている″という、万物の、
うめきです。
第二は、23節で、‶私たち自身も、心の中で、うめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちの からだの
贖われることを、待ち望んでいます″という、私たちの、うめきです。
第三が、26節で、御霊ご自身が、言いようもない、深い、うめきによって、私たちのために、とりなしていてください
ます″という、イエスさまの霊、すなわち聖霊なる神さまご自身の、うめきです。イエスさまの、深い嘆息は、私たち
が救われる道は、そんなにも遙かに遠く、困難であることを、示しております。
そして、遂に、神さまの御子・イエスさまは、十字架までの道を、歩み抜かなければ、ならなかったのです。
神さまの御子であられるイエスさまが、障害を背負った私たちのために、仕えて、くださって、おられるのです。
石田和男先生が、生前、‶エパタ″という本の中で、こう、記しておられます。‶わたしは、あるとき、夢を みました。
わたしは、その夢の中で、イエス・キリストに お会いしました。キリストは、わたしに 種のはいった器を渡して命じ
たのです。「そこに、この種を、まきなさい!」 わたしが、その指さす場所を見ると、そこは、なんと、コンクリートの
道路でした。「主よ、ここはコンクリートの道路です。こんな所に種をまいても、全く無駄なことです」と、わたしは主に
申し上げました。しかし、主イエスは、厳然と言われたのです。「そこに、この種を、まきなさい!」と。その時、わたし
は悟ったのです。「伝道とは、コンクリートの道路に、種をまくことなのだ」と。
お祈りさせていただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。御言葉を、ありがとうございました。
あなたの、ご栄光を、賛美いたします。あなたが、私たち、ひとり、ひとりの、耳を開いて、くださり、口をきけるように
して、くださったことを、感謝いたします。 イエスさまの御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。