No.109 Center for Ecological Research NEWS センター員の紹介 特別寄稿 第 51次南極地域観測隊に参加して 大園享司 2009 年 11 月∼2010 年 3 月 の 約 4 ヶ 月 間、第 51 次日本南極地域観測隊に陸上生物チームの夏隊員 として参加した。現地では、南極大陸の沿岸部に点 在 す る 露 岩 域 を い く つ か 巡 り、そ こ に 生 息 す る 菌 類の多様性と生態的機能を明らかにするための生 物試料採取を行った。本稿では、今回滞在した露岩 域 の 様 子 と、露 岩 域 に 暮 ら す 生 き 物 た ち の 生 態 を 簡単に紹介したい。そして私自身の研究テーマや、 陸上生物チームの観測内容を報告する。 今 回 の 観 測 隊 参 加 に 際 し て、国 立 極 地 研 の 神 田 啓史先生、工藤 栄先生、内田雅己先生、田邊優貴子 博 士 に は 準 備 段 階 か ら 現 地 滞 在 中 ま で、た い へ ん お世話になりました。産総研の星野 保先生には南 極 の 菌 類 に 関 す る 情 報 を 提 供 い た だ き ま し た。生 態研センターのスタッフの皆様には熱帯生態学分 野 か ら の 南 極 行 き に も か か わ ら ず、い ろ い ろ な 面 で ご 理 解 と サ ポ ー ト を い た だ き ま し た。こ の 場 を 借りてお礼申し上げます。 ●南極大陸の露岩域 南極大陸は地球上でもっとも寒冷かつ乾燥した 気 候 下 に あ り、陸 地 の 大 部 分 が 大 陸 氷 床 に 覆 わ れ て い る。氷 床 の 厚 さ は 平 均 で 2500 m、場 所 に よ っ ては 4000 m を超えるという。沿岸部や山地部には 写真 1.ラングホブデ雪鳥沢の様子.リュッツ・ホルム 湾沿岸域でもっとも植生が豊かな地域の 1 つ 大園享司(おおその たかし) ・現職:京都大学生態学研究センター・准教授 ・専門分野:菌類生態学 氷 に 覆 わ れ て い な い 地 域 も 存 在 す る が、そ の 面 積 は南極大陸(面積 1,400 万平方キロ)全体の 2∼3% に す ぎ な い。こ の 氷 に 覆 わ れ ず 母 岩 が 露 出 し て い る地域は露岩域とよばれる。露岩域が、南極に生息 する数少ない陸上生物の生活の舞台となっている。 南 極 大 陸 は か つ て の ゴ ン ド ワ ナ 大 陸 の 一 部 で あった。ゴンドワナ大陸の気候は温暖・湿潤で、木 生シダ類や裸子植物が繁栄しており、6 千万年前に は南極大陸にも森林があったと考えられている (Ochyra et al. 2008)。現在、アフリカ、インド、南 ア メ リ カ、オ ー ス ト ラ リ ア な ど と な っ た 陸 塊 が 分 裂・移 動 す る の に と も な っ て、南 極 大 陸 の 孤 立 と 寒冷化が進んだ。少なくとも最近 400 万年のあいだ は、南極大陸は厚い氷床に覆われていたという。し かし最終氷期のあと現在に至る約 1 万年のあいだ、 氷 床 は 縮 小 傾 向 に あ り、こ れ に と も な い 露 岩 域 が 出現した。露岩域は、氷床の後退による陸地の上昇 (ア イ ソ ス タ シ ー)に よ っ て も 出 現 し た(極 地 研 1986)。 日本の昭和基地はリュッツ・ホルム湾とよばれ る 場 所 に あ り、南 緯 69 度、東 経 39 度 に 位 置 す る。 周 辺 に は 昭 和 基 地 の あ る オ ン グ ル 諸 島 の ほ か に、 ラングホブデ、ブレードボーグニッパ、スカルブス ネ ス、ス カ ー レ ン な ど と よ ば れ る 露 岩 域 が 点 在 し て い る。こ れ ら 露 岩 域 に お け る 生 物 学・生 態 学 調 査が、私たち陸上生物チームの仕事である。 ●露岩域の生物たち 南極は北極と比較にならないほど生物相が貧弱 である(極地研 1982)。南極大陸に自生する陸生の 維管束植物はナンキョクミドリナデシコ(Colobanthus quitensis)と ナ ン キ ョ ク コ メ ス ス キ(Deschampsia antarctica)の 2 種のみであり、いずれも比較的低緯 度の南極半島に分布している。しかし今回、私が訪 れ た リ ュ ッ ツ・ホ ル ム 湾 の あ る 大 陸 性 南 極 に は、 こ れ ら 維 管 束 植 物 す ら 自 生 し な い。主 な 一 次 生 産 者は、蘚苔類(コケ)、地衣類、藻類およびらん藻類 で あ る。こ の う ち も っ と も 頻 繁 に 認 め ら れ る の が 地 衣 類 と 藻 類・ら ん 藻 類 で あ る。こ れ ら の 生 物 は むき出しの母岩や岩石上といったもっとも過酷な 生育環境下に定着している。 蘚苔類、特に蘚類は、継続的な水分供給があり、 土 壌 が あ ま り 移 動 せ ず、風 が 当 た り に く い よ う な 谷 間 や 岩 陰 で ヒ ッ ソ リ 暮 ら し て い る。リ ュ ッ ツ・ 21 Center for Ecological Research NEWS No.109 BAS)のウェブサイトにまとめられている(Bridge et al. 2009)。菌 株 の 分 離 報 告 や 記 載 論 文、低 温 環 境 に 関 連 し た 菌 類 の 生 理 的 な 研 究 が 多 い よ う だ。 そ の 一 方 で、多 様 性 の パ タ ー ン や 生 態 機 能 に 関 す る研究例は比較的少ない。私は、露岩域に点在する コ ケ 層 に 注 目 し た。モ リ モ リ と 厚 く 堆 積 し た コ ケ 層 を 丁 寧 に む し り 取 っ て み る と、層 の 断 面 構 造 を 観察することができる(写真 4)。断面は、色と組織 の構造の違いにより、肉眼でだいたい 4 層に区分す ることができた。つまり、最表層は緑色のシュート からなる層、その下の赤色のシュートからなる層、 続いて黒化した層、さらに最下層は、分解を受けて 写真 2.空腹のヒナに追い立てられ必死に逃げるアデリー ペンギン(左)、真剣な面持ちのユキドリ(右) ホルム湾周辺では、7 種類の蘚苔類が確認されてい る(神田 1987)。このうちよく目につくのがオオハ リ ガ ネ ゴ ケ(Bryum pseudotriquetrum)と ヤ ノ ウ エ ノアカゴケ(Ceratodon purpureus)である。これら は 純 群 落 の ほ か に 混 在 す る 場 合 も あ る。ラ ン グ ホ ブ デ の 雪 鳥 沢 に は、立 派 な コ ケ 群 落 が 谷 に 沿 っ て 広 範 囲 に 分 布 し て い る(写 真 1)。こ こ は 南 極 特 別 保 護 地 域(Antarctic Specially Protected Area、略 して ASPA)に指定されていて、環境大臣の行為者 証 の な い 者 の 立 ち 入 り が 禁 止 さ れ て い る。こ れ 以 外 に も、私 が 訪 れ た と こ ろ で は ラ ン グ ホ ブ デ の 四 つ池谷、スカルブスネスの指輪谷、姫鉢池周辺、ス カ ー レ ン の ま ご け 岬、そ し て リ ュ ッ ツ・ホ ル ム 湾 から約 500km 離れたアムンゼン湾リーセルラルセ ン 山 地 な ど で、モ リ モ リ 豊 か な コ ケ 群 落 が 一 面 に 広がる様子を観察した。 動物はアデリーペンギン、ユキドリ、オオトウゾ クカモメ(通称トウカモ)などの鳥類がよく目につ く(写真 2、3)。アデリーペンギンとユキドリ は 陸 上 に 営 巣 す る が 海 で 採 餌 す る。ト ウ カ モ は ア デ リ ー ペ ン ギ ン や ユ キ ド リ を 狙 っ て、こ れら鳥類の営巣地の周辺をいつもウロウロし て い る。あ と 海 辺 で は、海 産 の ほ 乳 類 ウ ェ ッ テルアザラシがゴロゴロと昼寝しているのを 時おり見かけた(写真 3)。 ●菌類の多様性と生態的機能 南 極 産 の 菌 類 に つ い て は、チ ェ ッ ク リ ス ト と 文 献 が 英 国 南 極 調 査 所(British Antarctic Survey, 22 葉が脱落しシュートが細くなり、基質(砂やシルト) と 混 合 し た 暗 灰 色 の 層 で あ る。こ の よ う な コ ケ 層 下 層 に お け る 分 解 に は、分 解 者 微 生 物 で あ る 菌 類 が 関 与 し て い る に 違 い な い。ま た 表 層 の 緑 色 部 や 赤 色 部 に も、生 き た 植 物 細 胞 か ら の 浸 出 物 な ど を 利 用 し て 生 活 す る 菌 類 が い る か も し れ な い。そ こ で コ ケ 層 の な か に 生 息 す る 菌 類 の 種 組 成、多 様 性 と 分 解 に お け る 役 割、お よ び リ ュ ッ ツ・ホ ル ム 湾 地域における地理的な分布パターンなどを調べる 研究計画を立てた。現地滞在中に訪れた 6 露岩域の 計 39 地点で、285 点のコケ試料などを採取した。試 料は日本に持ち帰り、現在、生態学研究センターに てその分析を進めているところである。 こ こ で 興 味 深 い の は、コ ケ の 生 息 地 に は 動 物 由 来の養分供給の影響を受けている場所が多いとい う 事 実 で あ る。露 岩 域 の 土 壌 は 窒 素 な ど の 養 分 物 質 に 乏 し く、そ れ に よ り 植 物 の 物 質 生 産 は 大 き く 制限されている。ところがそこに、海で採餌する動 物の活動にともなってフンや死骸が供給されると、 海由来の養分物質が利用可能となりコケ群落の発 達 が 促 進 さ れ る よ う だ。そ の よ う な 現 象 が 認 め ら 写真 3.威嚇のポーズをとるオオトウゾクカモメ(左)、 海岸でゴロ寝中に眠そうな顔を上げるウェッテルアザラシ(右) No.109 Center for Ecological Research NEWS れ る ユ キ ド リ の 営 巣 地、ペ ン ギ ン の 集 団 営 巣 地 (ルッカリーとよばれる)近傍、アザラシの死骸付 近 と い っ た 場 所 で も コ ケ を 採 取 し た。そ れ ら を 分 析 す る こ と で、海 由 来 の 養 分 物 質 の 供 給 が 菌 類 の 多様性に及ぼす影響についても検討できるかもし れない。 写真 4.コケ層の断面.スカルブスネス姫鉢池付近で採取 過 去、私 は 今 回 と 同 じ よ う な コ ケ 層 の 菌 類 多 様 性研究を行ってきた。2003 年と 2004 年にはカナダ・ エルズミア島の北極域(北緯 81 度)で、優占する 2 種(イ ワ ダ レ ゴ ケ Hylocomium splendens と シ モ フ リ ゴ ケ Racomitrium lanuginosum)の コ ケ 層 に お け る菌類相を調べた。また 2005 年にはカナダ西部の 針 葉 樹 林(北 緯 48 度)で、林 床 生 の Oregon beaked moss(Kindbergia oregana)の 菌 類 相 を 林 齢の異なる森林で比較調査した。今回、南極で採取 したコケ層の菌類データを北極や温帯林のデータ と 比 較 で き れ ば、南 極 の 菌 類 相 の 特 異 性 や 他 地 域 と の 類 似 性 に つ い て 検 討 で き る か も し れ な い。結 果が楽しみだ。 ●陸上生物チームの仕事 南 極 で は 野 外 調 査 中 の 単 独 行 動 は で き な い た め、 基 本 的 に 複 数 で 行 動 し、お 互 い の 調 査 を 協 力 し て 行うことになる。現地では、陸上生物チームの隊員 がそれぞれ担当するプロジェクトテーマである物 質循環研究、湖沼観測、植生・土壌モニタリングな どを手伝いつつ、自分の作業に取り組んだ。なかで も 湖 沼 観 測 は、過 去 10 年 以 上 に わ た り 陸 上 生 物 チ ー ム が 継 続 し て き た テ ー マ で、コ ケ 坊 主 と よ ば れる湖底植物群落の発見など興味深い成果が得ら れている。この湖底のコケ群落は、リュッツ・ホル ム湾沿岸の露岩域の湖沼群でしか見つかっていな い。今 年 は 湖 面 か ら の 湖 底 植 生 の コ ア サ ン プ リ ン グ に 加 え て、潜 水 に よ る 湖 底 植 生 の サ ン プ リ ン グ と 通 年 観 察 用 の ビ デ オ シ ス テ ム の 設 置 を 行 っ た。 潜 水 オ ペ レ ー シ ョ ン で は、私 も ボ ー ト に 乗 り 込 ん で 湖 面 か ら 潜 水 を 支 援 し た。今 ま で 陸 上 で し か 仕 事 を し て こ な か っ た の で、南 極 湖 沼 の 調 査 に 参 加 できたのは新しい経験で、いろいろ勉強になった。 私 た ち 陸 上 生 物 チ ー ム は、約 2 ヶ 月 の 現 地 滞 在 期 間 の ほ と ん ど を、フ ロ も 水 道 も な い 隔 離 さ れ た 露岩域の観測小屋で自炊・寝泊まりしながら過ご した。途中、補給と試料輸送で南極観測船「しらせ」 に戻ったのが 3 泊、昭和基地に滞在したのは 4 泊だ け。現地滞在中にはブリザードにも遭遇し、小屋で の 待 機 を 強 い ら れ る 日 も あ っ た。こ の た め 日 程 的 に 慌 た だ し く 忙 し い 現 地 調 査 の 日 々 と な っ た が、 そ れ で も 病 気 も 大 し た ケ ガ も せ ず、毎 日 の 野 外 作 業 を 明 る く 楽 し く で き た の は、ず っ と 行 動 を 共 に したメンバー、内田さんと田邊さんのおかげです。 最 後 に な り ま し た が、お 二 人 に 重 ね て お 礼 申 し 上 げます。 参考文献 Bridge PD et al. (2009) List of non-lichenized fungi from the Antarctic region. http://www.antarctica. ac.uk/bas_research/data/access/fungi/index.html Ochyra R, Lewis Smith RI, Bednarek-Ochyra H (2008) The illustrated moss flora of Antarctica. Cambridge University Press, Cambridge. 神田啓史(1987)南極昭和基地周辺の蘚苔類.国立 極地研究所. 国立極地研究所編(1982)南極の科学 7,生物. 国立極地研究所編(1986)南極の科学 5,地学. 23
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