その二

ら身を孜げる以タトはなカ、った。
ふち 絶望の淵
ぐしちやん
まぶに
具志頭城跡から摩文仁の丘に連なる約4km
とさかい 現在,具志頚城跡には,「土佐之塔」・「甲斐之
こんすい
塔」・「魂粋之塔」などがあり,またその泉側崖
クリフ」(自殺の断崖)とよばれた。沖縄戦末期,
下には日本軍の地下陣地壕が残っている。
そうとう
米軍による激しい掃討戦で多くの住民や兵士が
死んだ場所である。
ともり
l?45年る月10日噴から富盛∼具志頭に進入し
私たちは海岸づたいに具志頭の方に行くつもり
た米軍に対し,「守兵ハ飲料水,食糧,弾薬ノ欠
/ ̄■■\
で,海の中を歩いて行ったんです。そこの海は波
乏二者シミツツ」,「首戦敢闘ヲツヅケ」たが,
やえせ
「昼夜ヲ分タサル猛爆撃ニヨリ」,ついにノ\重瀬
打際でも,凸凹で,浅いところがあって,深いと
ころに飲まりこんだりしながら,夜通し歩いてで
よぎ 岳・与座岳を突ノ唆された。6月21日には米軍戦
すね,夜が明けると,少し引返して,艦砲射撃を
車が摩文仁高地に進出した。南へ南へと追いつ
さけて岩の下に隠れ,夜になったら海岸線を歩い
ほうこう められ,死の彷檀を続けた多数の避難民が最後
て行って,具志頭村の与座の海岸,ギーザバンタ
にたどり着いた場所のひとつがギーサバンタで
ですね,あそこに出たんですよ。
かえんほうしや
もくぜん
あった。背後には火炎放射が迫り,目前の海に
っていました。ただあそこには,水が岩の聞から
流れ落ちてくるところがあるんですよ。そのへん
ンの繁みも岩かげも断崖の望も身を隠す住民や
一帯には,岩の下あたりに穴を掘った壕や,小さ
兵士がひしめいていた。時折り岸辺近くまで寄
な自然壕があって,避難民と友軍の兵隊がいり混
しゆうてい
っていました。ギーザバンタは最後のどんづまり
ってさた舟艇からはスピーカーで殺陣の呼び
カ、けもあった。だが,捕虜になることも許され
の地点で,眼の前の海には敵の軍艦が待ち構えて
いました。
いらは
(伊長波ヨシ子)
ず,前にも後にも逃げ場を失った着たちは崖か
/′ ̄■−・・\
断崖〟
かんてい
はおびただしい艦艇が砲火を向けていた。アダ
ギーザバンタには,死体があっちこっちに転が
しゅうへん
軍≠覇胡診㊤庖歯偏
せん
の険しい絶壁で,米兵たちから「シューサイド
‖l‖=川Ill‖==川l川Illll==川=l‖=ll川==lll‖lll‖l‖日日川川‖ll川‖‖‖‖‖l日日川‖ll川‖川州川‖日日川=川=日日=ll川川‖川‖ll川=川川IItllllll‖‖
画 ギーザバンタの断崖
それに地面には軍靴や標語の空缶類が散乱している。
囲 防衛庁防衛研修所「沖縄方面陸軍作戦」沖縄県教育委員会「沖縄県史」(第9巻)
せき
−−■■■駄】■ 地下陣地壕は,鍾乳洞を利用しツルハシで掘った人工壕となっている○カマド跡,銃眼跡があり,
沖縄峨も末期(’45.(川二なると、米軍は日本軍や・般
住民に対してさまぎまな投降勧告をした。飛行機から「生
命を助けるビラ」を撒布したり、艦船からスピーカーで
,へ
降伏を呼びかけたり、投降者や米軍二世が直接説得した。
「生命を助けるビラ」は米軍がばらまいた降伏勧告ビ
ラの代表的なもの。表に和文で「このビラを持って投降
する老には衣食を給し、適切な医療を与える」と善かれ、
裏には同じ内容の英文がある。また「このビラを持って
いる老は国際法によって良い取り扱いをせよ」という注
意書きまである。
日本軍は士気に影響するとして拾ったり、携行するこ
▲投降勧缶ビラ
とを禁じたが、やがて部隊が漬滅状態となり、避難民や
兵士にも投降する暑が多くなった。
バックナ一軍司令官から牛島司令官死の降伏勧告文(1945年6月11日)
「歩兵単珊子の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出
身の指揮官である。貴官が孤立無援のこの島で、劣勢な
兵力を率いて、長期にわたり善戦せられたことに対し、
予始めわが軍将兵は称賛措くあたわぎるものである。さ
りながら、今や戟勢は決定した。この上新たな戦闘を継
続し、有為を多数の青年を犠牲にするのは、真に忍び得
ないし、また無益である。人格高潔な将軍よ。速やかに
戦いを止め人命を救助せられよ。・・・」
だが、すでに期日は過ぎており、「多年の伝統に培わ
れた日本将兵」は「誰も真面目にこの提案を考える老は
なく」、牛島将軍も一笑に付したのであった。
(
かんこくじんいれいとう
を強いられたあげく,あるいは戦死,あるいは
韓国人慰霊塔
いしずか
平和祈念堂の隣に,マンジュウ型の石塚があ
虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。」
かんこくじんい九いとう
る。l?75年8月,韓国人慰霊塔建立費具合が建
沖縄平和祈念堂
まぶに
摩文仁丘の平和祈念公園の向いにひとさわそ
てた「韓国人慰霊塔」だ。石塚のまわりを故国
がつ
堂だ。せ界の恒久平和を祈念して沖縄平和公園
建設協合が総工費十数億円をかけて’78年相月
が欠落しがちだ。戦没者数の中にも「朝鮮人軍夫」
に開館した。
「慰安婦」などの犠牲者の数は含まれていない。
′ ̄、\
堂内の中央には,高さ12m,幅約8mの「平
旧日本軍関係の文書にも詳しい記録はみられな
家山田真山が18年間平和への祈りをこめて心血
語るとさ,もっとも差別され,それゆえもっと
をそそいで製作した作品である。台座の下には
も危険な状況へおいやられたにもかかわらず,
世界各国カ、らよせられた「世界平和の願いをこ
その犠牲の実態とその後の消息さえ不明のまま
めた霊石」がおさめてある。壁面は,平和をテ
の彼らの存在を忘れては歴史の真実を語ったこ
ーマにした絵画で埋められ,さらに別棟に附属
とにはならないだろう。
美術館もあり,芸術の殿堂という雰囲気もただ
やまだしんぎん
なわ
よわせている。
碑文につぎのように刻まれている。
畠
おき
るような印象はまぬがれない。沖縄戦の悲劇を
とう
和祈念像」が妥置してある。沖縄の代表的な画
唱0甜
い。まるで,彼らの存在そのものを無視してい
いしん
いあんふ
こく
沖縄戦の記録には韓国人(朝鮮人)への事蹟
かん
じせき
わ
ちようせん
回塊磁
しよう 掌」の形を表現したこのドームが沖縄平和祈念
の方向を梢している。
磁闇畠畠1霊の文字が刻まれた碑
びえる高さ45mの殿堂,世界7つの大陸と「合
の石がとりまき,塔の前に刻まれた矢印は故国
ばつぱつ
向かいの県立平和祈念資料館が戦争と平和の
ちようば
問埼を“学ぶ場’’としたら,ここはせ界平和へ
青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋
の“祈りの場’’といっていいだろう。
の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵,
かんなん
ねん
徴用として動員されたl有余名があらゆる敗難
/−{、
平和祈念の大観音像
「l?41年,太平洋戦争が勃発するや多くの韓国
=======‖==‖川l‖‖=日日Il=川‖川‖ll=川=‖川Ill‖lllll==t‖‖川‖川t川‖川川川‖川‖lll‖‖=‖日日川l川=川川Il川Ill川川=‖川=ll川=川=川=
画ドーム型の「韓国人慰霊塔」と守沖縄平和祈念堂」
函沖縄平和祈年堂D入場料大人500円中・高校生350円小人250円団体割引有り 会館時間午前9
時∼午後6時 年中無休 電話(09899)−7−3011
園強制連行虐殺真相調査団「第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告」
海
火乃国之培︶
、.一−て︰\
福島の塔
凸六こ師碑
げ〃加㌔脚
㌔幅‘,♂㌔珊 吋へ無
やすらかL
凸三重の塔
宮城の培
け田畑−\
摩文仁部落
⑳那覇∼糸満
⑳那覇∼糸Å柵幣ス︶
一白旗をかかげ投降する日本兵
﹁糸嘩ハスタ⊥、、ナル﹂下車
乗りかえ
命糸満∼堀川橋
√\
(
一火炎放射攻撃をかける米軍戦車
﹁平和祈念堂入口﹂下車 封
﹁健児之塔入口﹂下車統
⑮糸満∼健児之塔入口掛
﹁平和祈念堂入口﹂
工業陛児之塔
ヽ・‖ヤまく
ブーケノヒル乾
勇魂山
、・、一ご:
凸烏守の塔
神経瑠在■再訂祈念
岸  ̄
 ̄
−
−
−
−
●−
「
′ ̄ ̄ ̄
■■
摩文仁丘
つ(鹿児島
福井の塔
房総の塔
みちのくの塔
′ ̄、\
■−
人ノ、メー.
i
/′ ̄、\
のコーナーで,これはすべて体験者の証言を文
沖縄県立平和祈念資料館
沖縄県民の戦争体験を結集して,住民の眼で
字で読ませるという,型やぶりの展示方法をと
見た沖縄戦の全体像をリアルに再現し,沖縄戦
っているが,小学生までがくいいるように“本’’
の歴史的教訓を正しく次代に伝えよう,という
を読んでい
主旨で構成されたのが平和祈念資料館の展示で
る。
ある。開館はl?75年る月だが,2次の展示改善
摩文仁丘
る姿に沖縄戦体験のすごさがわか
まに
の全容を知るうえで,唯一の資料館といってよ
祈念公園として整備されている。その中心をな
いが,戦跡観光コースからはずされているため,
すのが摩文仁丘である。ここは沖縄守備軍が最
まぶに
の“観光’’ではなく,じっくり観て,感じ 考
さいご 軍の最期を象徴するような戦跡である。丘の頂
える時間をとりたい。展示は,4つの展示室で
上には,軍司令部の壕跡があり,その上に丙将
構成されている。
まつれいめい 軍を布巳る「黎明之塔」が建ち,その両辺に,国
ちよう
立墓苑や各県,各団体の慰霊塔が林立している。
展 示
この地は沖縄戦跡の中心であり,参拝者や観光
1.第32軍の展開
63名・78点の証言展示
ゆうせんかんとう
が,あまりに戦没兵士の“勇戦敢闘’’を強調す
るあまり,住民をも戦場にまきこんだ沖縄戦へ
3.根こそぎ動員と疎開
4.「沖縄語を使うのはスパイとみなす・・」
の反省がみられない,という批判もあり,碑文
5.沖縄戦の戦闘経過
の書換え運動もおこっている。
第2展示室(戦場の住民) 第4展示室(収容所から)
丘陵の上カ、らは南部戦線の全景が見渡すこと
1.鉄の暴風
1.戦争の爪あと
2.死線をさまよう
2.収容所生活
ができる。断崖を南がわに降りていくと,「沖縄
3.ガ マ
3.アピール
師範健児之塔」が建っており,さらに降りて行
しはんけんじ
さんごしよう
くと,珊嘲礁の海岸に出る。この海岸の岩穴が,
5.集団自決
追いつめられた将兵や避難民の最後の隠れ家だ
なかでもハイライトは,「阜屋武半島の惨状」
′{\
に
4.住民虐殺
った。
=l‖‖=‖‖‖‖=‖=川‖=‖=‖=川==‖川‖‖====tllll川Illl川Il=川Il‖l‖lll‖‖=‖‖l‖l‖ll‖lt‖llll=l‖l==川tl‖l川川Illlll‖‖‖==‖川=川=‖‖ll
■宏巨転出■ 沖縄戦跡国定公園摩文仁丘と沖縄県立平和祈念資料館内の「証言の部屋」
電話(09899)一7−2874
画 沖縄県生活福祉部援護課「平和への証言」靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会「戦争賛
美に異議有り!」
が
■■■■■亡一 観覧料 大人100円小・中高校生50円 団体割引有り 休館日 毎週月曜と12月29日∼1月3日
ねん
2.飛行場建設と全島要塞化
客の足が絶えることはない。ただ,各県の碑文
き
第1展示室(沖縄戦への道)第3展示室(証言の部屋)
わ
ばえん
/ ̄ ̄■■\
へい
と長参謀長が自決したところ。いわば,帝国陸
りつ
る。内容が濃密であるだけに,ここでは駆け足
留Ⅷ庖畠
うしじま 後に軍司令部をおいたところで,牛島軍司令官
−沖縄戦の全体像を学ぶ場
素通りして摩文仁丘に登ってしまう ことがあ
けん
沖縄戦跡国定公園の中の摩文仁丘周辺は平和
なわ
をへて,内容はいっそう充実してさた。沖縄戦
諺濫遥
まぶにがおか
平和祈念資料館の 設 立 坤 念
一九四五年三月末、史上 ま れ に み る 激 烈 を 戦 火 が
この島々に襲ってきました 。 九 〇 日 に お よ ぶ 鉄 の 暴
風は島々の山容を変え、文 化 遺 産 の ほ と ん ど を 破 壊
し、二〇万余の尊い人命を 奪 い 去 り ま し た 。 沖 縄 戦
は日本に於ける唯一の地上 戦 で あ り 、 太 平 洋 戦 争 で
最大規模の戦闘でありました 。
沖縄戦の何よりも特徴は 、 軍 人 よ り も 一 般 住 民 の
戦死者がはるかに上まわっ て い る こ と に あ り 、 そ の
数は十万余におよびました 。 あ る 老 は 砲 弾 で 吹 き と
ばされ、ある老は追いつめ ら れ 自 ら 命 を 断 ち 、 あ る
老は飢えとマラリアで倒れ 、 ま た 敗 走 す る 自 国 軍 隊
の犠牲にされる老もありま し た 。 私 達 押 紙 県 民 は 想
像を絶する極限状況の中で 戦 争 の 不 条 理 と 残 酷 さ を
身を以って体験しました。
この戦争の体験こそ、と り も を お さ ず 戦 後 沖 縄 の
人々が米国の軍事支配の重 圧 に 抗 し っ つ 、 つ ち か っ
とは人 間 の 尊 厳 を 何 よ り も 重 く 見
てきた沖縄のこころの原点で あ り ま す 。
”沖縄のこころ〃
て、戦争につをがる一切の 行 為 を 否 定 し 、 平 和 を 求
め、人間性の発露である文 化 を こ よ な く 愛 す る 心 で
あります。
私たちは戦争の犠牲にを っ た 多 く の 霊 を 弔 い 沖 縄
戦の歴史的教訓を正しく次 代 に 伝 え 、 全 世 界 の 人 び
とに私たちの心を訴え、も っ て 恒 久 平 和 の 樹 立 に 寄
与するため、ここに県民個 々 の 戦 争 体 験 を 結 集 し て
県
沖縄県立平和祈念資料館を 設 立 い た し ま す 。
一九七五年
︵
ノ
(1945年9月7日 嘉手納)
▼降伏調印式
/ ̄、\
沖縄戦はいつおわったかJ?
沖縄戦はいつおわったのか、いろいろを説が
ある。6日19日、6月21日、6月23日、7日2
日、9月7日等。このうち、6月23日は日本軍
の司令官牛島中将が摩文仁丘の軍司令部壕で自
決した日を記念した日で沖縄県の「慰霊の日」
にをっている。しかし、その後も各地で戦闘は
なおつづいたのであり、この日をもって沖縄戦
の終了の日とするのは現実と一致しない。6月
19日は軍司令官が指揮を打ち切った日、6月21
日はこミッツ提督の膵利宣言の日、7月2日は
米軍の作戦終了宣言の日、9月7日は日本軍の
残存部隊が降伏調印式をおこをった日。このう
ち、なぜ将軍自決の日をあえて「慰霊の日」と
したか、住民をも戦闘にまきこんだ沖縄戦の実
態とそぐわをいのではをいか、といった批判が
以前からあった。
ところが最近、将軍自決の日が23日ではをく、
22日であったとする米軍資料が発見されて話題
になった。22日にしても23日にしても、いずれ
にしても軍隊本位の記念日にをって戦場におけ
る住民犠牲が軽視される傾向がある。
′ ̄、\
J
てつけつきんのうたい
死と隣り合わせの任務
15−19才の鉄血勤皇隊員
削4年3月,第32軍が創設されて以束,県下
米軍上陸後,「留魂壕」付近にも直撃弾が落ち,
うらそえしゆり
の男女中学生たちは,学業を中断され飛行場や
学友の戦死が相次ぐ。浦添・首里の戦線では,
陣地づく りに動員された。
急造爆雷を背負っての戦車攻撃。軍司令部の首
きゆうぞうばくらい
しはん ,45年l月,師範学校男子部の生徒は,野戦集
/ (\
まぶに
摩文仁へと向かった。
摩文仁では,司令部の食糧調達や伝令と弾雨
の前で入隊式。式後,生徒全員,陸軍2等兵に
の中を飛び回り,あるいは斬込みを命令され,
任命され,半袖半袴の軍服と戦闘帽が支給され
多くの学友が戦死。6月18日,勤皇隊解散の命
た。15∼l?オの軍人として戦場に動員されたの
令が出されたが,知る学徒はタなく,結局摩文
だ。学徒たちが未成年者であったため,親の承
仁周辺で200名近い若い生命が失われた。
諾が必要があったが,なかには学校当局が印鑑
なついん
を一括してつくって凍印した例もあった。
「沖縄師範健児之塔」は,明年に生存者と師
範学校の同窓合によって建立。側には「平和の
條」があり,向かって右側が友情・真
勤皇隊本部は,軍司令部の命令を各部隊に伝達する任務
と食糧調達の任務。斬込み隊は,身体剛健な生徒を選抜,
かくらん 主な任務は敵地に侵入し背後から折込みし後方撹乱する,
そのため爆雷の使用法・敵戦車に対する肉迫攻撃要領・敵
/{\
ん中が師弟愛・左側が永遠の平和を象
おおたまさひでほかましゆぜん
戦場にかり出された生徒たち
てつけつきんのうたい
て鉄血勤皇隊の編成を梢今。3月3ほ,「留魂壕」
急造爆雷などを背負い,泥ねいと弾雨の中を
1
しゆりりゆう 城隊に動具され,首里城下に「軍司今部壕」「留
こん 魂壕」を構築。3月,第32軍は師範学校に対し
里撤退直前,司令部の食料(将校の私物も)や
徴(大田昌奇・タト間守尊縞『沖縄健児
隊』の印税な.どで建てられた)。後方に
ちはや 兵の寝込みを襲う攻撃要領の訓練を受けた。千早隊は,壕
は学徒たちが自決した壕があり,火炎
から壕へ飛び回り一般住民へ情報宣伝の任務。野戦築城隊
は,陣地構築や補強・道路や橋の修理を任務とした。自活
隊は,健児隊の食糧調達が任務で下級生で編成された。
放射で黒こげになった岩肌がなまなま
しい。海岸へ通じる逆の途中には,学
徒たちが水汲みに通った井戸もある。
=lllllll‖‖川‖=llll‖l=ll‖‖l=川‖llllllll‖‖lll‖llll=l川=川川川川Il=‖=‖‖川Il‖‖‖川‖‖‖川‖‖‖‖‖‖l州川==日日川==lllIll‖‖=‖川‖=llll‖=
些麺「沖縄師範健児之塔」と「平和の像」
嬰軍事 急造爆雷0板の箱の中に火薬を詰め,信管を入れただけの約10短の対戦車用爆弾。
囲 大田昌秀著「鉄血勤皇隊」ひるぎ社 金城和彦著「鳴呼沖縄学徒隊」原書房
一人隊模様︵計軌諾新山虻朋聖 日 ︶
鉄血勤皇隊(学校別)の動員数・戦死者・戦死率
学 校
動員数
沖縄師転学校
386
224
県立第一中学校
371
210
県立第二中学校
144
127 88.2
県立第三中学校
363
県立工業学校
94
県立農林学校
173
37
85 90.4
41
県立水産学校 49 23 46.9 那覇市立商業学校 9 72 .7 かいん/し関南中学校 81 70 86.4 県立八重山中学校 20 ロ 5.0
計
1780人
10.2
23.7
/ ̄\
本土決戦を目前にして、,45年5月22日公布の「戦時教育令」、,45
年6月23日「義勇兵役法」の発布によって、全国的に学徒隊・義勇
890人 50.0%
隊を編成。よって沖縄の学徒隊の戦場動員は、法的根拠がなく、本
土決戦にそなえての一種の実験的措置であった。
大田昌秀著「鉄血勤皇隊」より
(
一・_へ_一
が
通信隊(暗号無線、有線)
情報伝達(砲煙弾雨の中)
戦車攻撃(急造爆雷を背負って)
斬込み ︵多くの学徒隊が戦死︶
▲学徒隊が自決した壕
(詞は納骨堂)
▲学徒隊が水汲みに通った井戸
いナしい 慰霊の塔のある風景
とさこのあたりは,るいるいと無数の死体がこ
いれい
沖縄の53市町オ寸のすべてに慰霊の塔がある。
これはとりもなおさず,沖縄戦が全県下に及ん
だことを意味し,とくに南部に集中している。
ろがっていた。
住民ガ最初につ<った慰霊の塔
まわし
戦後間もなく真和志村(那覇市)民は,米軍
慰霊の塔の建立は,戦後間もないころカ、ら激戦
の命令で米須原に移動させられた。移動した
いこつ 地跡を中心に遺骨収集の形で始めたものが多
人々の目に最初に映ったのは山野に散乱する遺
い。原野,岩陰,洞窟とさまざまな場所に眠っ
体であった。食糧確保のための農作業の前に,
まず遺骨の収集から始めなければならなかった。
ていた遺骨を地域住民が中心となって収骨し
た。だから,島尻南部では部落ごとに塔が建っ
きんじようわしん
無
は,米軍に収骨作業の許可を強く要請した。当
告
時は遺骨を拾うことも反米活動とみられる恐れ
の
真和志村民(金城和信村長)と地元の人たち
かごん
ているといっても過言ではない。
ごうし
また,各塔(碑)に合葬巳された柱数は正確に
/一■■、\
わかっているのは約半数,不明(詳)がかなり
があったが,ようやく1946年2月23日許可され
あり,千名・首名単位の概数でまとめられたの
た。こうして集められた遺骨は1か所にまとめ
が多いので戦没者数を特定できない。
られ,うず高い骨の山を集いた。周囲カ、ら石を
民
の
こめすばる
かさ集め,米軍払い下げの資材を使った納骨研
地獄と化した米須原
「ひめゆりの塔」に近い「ひむかいの塔」(宮
崎県の慰霊の塔)案内標識の研から海岸の才へ
が2月27日に完成。これに「魂塊の塔」と命名
した。
こめすばる
約l加平埠な畑の中をたどると米須原の霊域に
着く。
沖縄の住民にとって沖縄戦の最後の場所はこ
の一帯であった。米軍の砲火に追われて,多く
毎年6月23日の「慰霊の日」には,この付近
の
さいごゆくえ で最期を遂げたり,行方不明となった者の遺族
告
たちを含め多くの県民が参拝する。
発
まつ 「魂塊の塔」は戦争犠牲者約3万5千柱を示巳
さやん
の住民は畳屋武半島に逃げまどい追いこまれて
った沖縄最大の慰霊の塔である。これが戦後最
いったが,身を隠す場所もないこの平坦地で,
も早く住民の手で建てられた沖縄県民の慰霊の
地叔絵図がく り広げられた。沖縄戦が終わった
′ (
無
こんばく
塔ともいうべきものである。
州‖‖川l‖==‖‖‖‖l‖=‖‖=ll‖日日‖日日Illll川川‖川‖川‖‖=ll‖川l=‖‖川=川=川‖==川‖川l‖‖l‖川‖==‖‖‖ll‖‖=川‖l==川==l‖=川】
唾子や孫に戦争体験を語りつぐ場所になっている「魂塊の塔」
帆■■■【一沖縄戦が終わった直後,米須原の畑ではカボチャのような大きなイモが収穫された。そこには人
間の遺骨がきまってあったという。
画沖縄県遺族連合会「還らぬ人とともに」金城和信先生遺徳顕彰会「沖縄の戦禍を背負ひて一金
城和信の生涯」
沖純戦の犠牲者
この軍人を上まわる住民犠牲は、国家総動員体制
沖縄戦の戦死者数はまだ正確にはつかめをい。県
援護課のまとめた資料によると右図のとおりである。
に基づく作戦思想にあった。『軍の主戦力は消耗し
てしまったが、をお残存する兵力と足腰の立つ島民
沖縄戦は激しい地上戦闘が続いたため、多くの一
般県民が犠牲になった。「県出身軍人軍属」の中に
とをもって、最後の一人まで、寸尺の土地の存する
は防衛隊・学徒隊・義勇隊をどもふくめられている
限りたたかい続ける覚悟である。』(牛島司令官)
ので正規軍人と区別しかナればならない。
いう訓示の中に“一億玉砕’’の思想が示されている。
また、終戦前彼のマラリア病死、餓死なども加え
根こそぎ動員から軍民混在の戦場にたたき込まれ
ると、県民の戦死者は約15万人に達するだろうと推
捕虜とをることも許さなかった‘捨て石作戦’’の結
定されている。当時の県人口は、約60万人だから実
果がこの住民犠牲を大きくした。
に4人に1人が戦死したことになり、軍人をはるか
に上まっている。
これらの一般住民の戦死者の多くは、南部戦線の
戦場で倒れた人たちであった。守備軍の首里から書
屋武半島への撤退にともない、避難民も米軍に追わ
れ包囲され、“鉄の暴風’’にさらされた。
さらに、敗残兵とをった日本兵によって壕を追い
出され、食糧を奪われ、スパイ嫌疑や集団自決など
の惨劇もくり広げられた。これらが住民犠牲をいっ
そう大きなものにしたのである。
遺骨が風雨さらされていた。生き残った住民は毎日の生活
に追われながらも、共同作業で遺骨を収集し、塔を建てた。
1956年から日本政府が琉球政府に委託して収骨作業がは
じめられ、復帰後は、厚生省の事業となった。
県の資料では、戟後40年間に、国・県・民間で17万9419
柱(米軍を除く)を収骨し、8千710柱が未収骨だという。
▲41年たった今でも
住民が建てた慰霊の塔とその収骨数
魂晩の塔 35,000柱 糸満市米須
昭和21年
平和の塔 10,000柱 糸満市菩屋武 昭和27年、昭和44年改修
萬華之塔 19,207柱 糸満市真壁
昭和26年
栄里之塔 12,000柱 糸満市真栄里 昭和27年、昭和43年改修
南北之塔
守魂之塔
萬魂之塔
1,700柱 糸満市真栄平 昭和28年
305柱 糸満市糸州
4,000柱 糸満市国吉
浄魂之塔 10,000柱
糸満市新垣 H
昭和31年
昭和30年
昭和32年、昭和42年改修
八重瀬の塔 1,500柱 東風平町寓盛 昭和24年、昭和43年改修
呪粋之塔 10,150柱 具志頭村具志頭 昭和28年
計
103,862柱
きやん
しつ
失,ショック,怒り……。この時,彼女たちは,
喜屋武半島に集結
はえばる
南風原陸軍病院をあとにしたひめゆり学徒隊
15∼19オのひとりの乙女に戻った。第一タト科壕
きやん
は,砲煙弾雨の中,一路阜屋武半島へ向カ、った。
では,涙で「ふるさとの歌」を歌い,l?日未明,
こちんだたかふねよぎまかペ
包帯を道しるべに,東風平・高嶺・与座・真壁
やましろなみひらいはら
/′■■■■■\
死の恐怖におののきながら脱出。第三タト科壕で
ばんさん
を通り,山城・波平・伊原に到着。途中でバラ
は,晩窄合を催し,「別れの歌」を合唱し,いよ
バラになったため,到着した日は別々であった。
いよ脱出しようとした明け方,ガス弾がぶちこ
この頃,すでに山城の自然壕に軍病院本部が置
まれ,壕内は地獄と化した。ひめゆりの悲劇は
かれていたが,病院としての機能は完全に失わ
解散命令後に始まったのである。(l?4名戦死中,
れていた。自然壕に待機していたひめゆり学徒
解散後戦死した学徒はt28名)
は,本部の梢示で本部・太田・第一・第ニ・第
三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は,小グ
あらさき
三の5か所の壕に集合。
ループ単位で戦場をさまよう。荒崎海岸におい
やえせよぎ
る月中旬,ノ\重瀬・与座岳を占領した米軍は,
つめられたグループは,る月21日,前方に敵艦
を見て,絶望的になった教師・学徒10名が手相
察機)が,薄からは艦砲が,陸カ、らは戦車砲や
弾で自決,珊瑚礁は鮮血で真っ赤に染まった。
さんごしよう
教
はくげきほうあめあられ
迫撃砲が雨霞の如く降ってきた。6f=4日本部
対照的な2つの壕
壕人口に直撃弾が落ち,病院長や伝今を受領す
現在,第三タト科壕跡の「ひめゆりの塔」は,
るため集結していたひめゆり学徒が即死。17日,
戦跡観光のメッカとなり,門前には,おみやげ
第一タト科壕にも直撃弾が落ち,学徒や看護婦多
店が建ち並び観光客でにぎわっているが,この
数が即死。第ニタト科壕も米軍に馬東りされた。
すぐ前にある第一タト科壕には関係者以タト訪れる
解散後の悲劇
人はいない。また,「ひめゆりの塔」の敷地内に,
18日,突然,学徒隊の解散命令が各壕にイ云え
⑯
きやん 主攻撃を阜屋武半島に集中。空にはトンボ(偵
の
悲
劇
ひめゆり同窓会がひめゆり体験の真実をイ云える
ばうぜんじ
られた。頼るべき組織を失った学徒は,茫然自
/(■、\
ための資料館建設を計画している。
日日=川l川l川==llllll‖=l=‖‖川=‖‖=l川‖===tl‖l川‖‖川‖l=川‖=‖‖==‖=‖川=‖=■====●●=t===‖‖‖‖1川‖‖=‖川l‖=l‖‖‘l州l
画■ ひめゆり学徒隊が自決した荒崎海岸と観光客でにぎわう「ひめゆりの塔」
−▲■■亨 ひめゆりの由来D両校の校友誌「乙姫」「白百合」からとられ,戦後「ひめゆり学徒隊」とよばれ
るようになった。
園西平英夫著「ひめゆり学徒の青春」三省堂新書 朝日新聞企画部編「母と子でみるひめゆりの乙
女たち」草土文化
私立昭和高等女学校
(でいご学徒隊)
苦しいよう!殺して、 殺 し て !
67
”ドカン〟ものすごい爆発音とともに、
けレり
(白梅学徒隊)
まっ白い煙がもうもうと立ちこ め 、 な に も 見
(なごらん学徒隊)
そのうち、あちこちから、﹁お母さーん、お
さとうきび畑
沖縄師範学校女子部県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊) 皿‖H1068 i0・279.3県立第二高等女学校
えません。﹁ガスだ!ガスだ!﹂﹁水はどこ!水﹂
ばうれい
神経はまひしているのでしょう、
︵宮良ルリ︶
(積徳学徒隊)
父さ−ん﹂﹁先生!苦しいよう!殺して!殺し
づけました。﹁水!水!﹂となりの又吉キヨさ
▲−たー■し
て!﹂本当に生き地獄です。わ た し も 叫 び つ
ん︵予科二年︶がうめいています。﹁苦しいよ
う、姉さん﹂﹁しっかりしてよ﹂﹁姉さんお先に
ね。ああ苦しい﹂その声を聞い て 、 わ た し は
廿ったい
死んでたまるか、生きるのだ、 生 き る の だ 、
おおいかぶさ
のでしたが⋮⋮いつの間にか意 識 を 失 っ て い
絶対に死なない、と自分に言い 聞 か せ て い た
ました。
しかほわ
かわう
渇きと飢えに意識がもどり、
る学友の屍を押しの
けました。やっと頭
をあげて、うめくよ
﹁水!水!﹂玉代勢
うに叫んだのです。
てこられ、わたしの
秀文先生がかけ寄っ
大域信子
わわしろのぶこ
・もいり
肩をたたいてよろこ
かた
んでくださった。﹁守
下、生きていたのか、
した
先生のくださった
よかった⋮⋮﹂
水を飲みましたが、
わたしはなにがをん
した。壕人口近くで、
やよしろのぶ 二
だかわかりませんで
あな
さん、山城信子さんがわたしを
穴のあくほど見ています。亡霊
でした。﹁みんな死んだのよ。今
だと思って、ぞっとしていたの
日で三日目よ﹂ そう言われても、
し人∴汀い
悲しくもなく涙もでません。も
ったのです。
ぬけのからの人間になってしま
ついに自決
晦J6月21日海岸まで追いつめられ
激沫二
醜扶
絆
55 28 50.9
私立横穂高等女学校
83
県立首里高等学校 (瑞泉学徒隊)
10.0
10
県立第三高等女学校
176
(ひめゆり学徒隊)
動員数 戦死者 戦死率
学 校
′へ
更に 摩文仁丘−−
/ ̄、\
沖縄陸軍病院碑
/、、、
はい
ここは,首里方面から追い詰められてきた放
マヤーガマ
やましろ
山城部落の裏の丘陵線は日本軍の陣地壕が−
しゆりいし 列に並んでいて,首里カ、ら移動してさた石部隊
ぎん 残兵や準難民の最後の隠れ家であった。?月頃,
この岩穴にはなお5′)る名の敗残兵と30数名の
準難民が“共同生活”を送っていた。2∼30m
しゆうてい
ぎわ
窟)に集団避難していた。
がやってさて殺陣をよびカ、けたり,機関銃を乱
びよう
ところが,陣地地帯が突破されると,部隊の
射していくが,岩穴の正面には小さな岩山が屏
ぶ
ふさ
将兵がマヤーガマに後退してきて,住民を軍刀
風のようにたち塞がっているので,米軍はここ
で追い出し,る0∼70名の兵隊がたてこもった。
を掃討することはでさなかった。いわば,この
そうとう
やがて,洞窟壕は米軍の馬乗り攻撃を受け,10
岩穴は,日本軍最後の“陣地’’であった。
ばうえききゆうすい
/′ ̄\
数回もの爆雷攻撃を受けて部隊は全滅した。壕
防疫給水部隊壕
ばうえききゆうすい
沖縄守備軍の第27野戦防疫給水部隊(「悪魔の
を追い出された住民は海岸のアダン林の周辺を
ほうこうえじさ 彷捜して砲爆撃の餌食になっていった。
飽食」で有名な731部隊と同様な任務を持つ)は,
やぶ
現在,琉:昧ミートの豚舎の道向カ、いの薮の中
つかへな
沖縄戦末期にこの阜屋武半島の束辺名にある人
に,洞窟がほぼ原形をとどめている。洞ロは小
ロの直径約5m,深さ柑mの円すい状の洞窟に
さいが,奥行きは垂直に40∼50mものび,一面
たてこもることになった。四方ノ\方に十数mの
が散乱している。
だ当時の遺品や不発弾が散乱している。なかで
真意iⅥ城陣地跡
も,瓶一杯詰まっているフランス製化粧グリー
ぴん
きやん
ぐしかわ
阜屋武岬の具志川城の下は大さな岩穴になっ
ている。人口の石垣囲いが今でも認められる。
くし ムや柿・手鏡・へラなどがひとかたまりとなっ
て発見された。明らかに,軍と行動を共にして
まもじゆうがん
付近には南端の海岸線を護る銃眼なども残っ
いた女性たちの遺品と思われる。壕出入り口に部
ている。
隊終焉の地の碑が遺族の手で建てられている。
しゆうえん
′【■■\
l‖川Il=川‖l‖llll=llllll川l‖川川‖=川Illl‖川‖‖ll川‖ll‖川Il1日‖=‖‖lll‖l川Il‖‖川‖llllt‖‖ll‖lt‖‖川‖川川‖川川Il=‖‖‖ll‖‖‖=l‖l‖l‖川=川‖ll
唾 沖縄本島南端の書屋武岬に建つ「平和の塔」
ii■準■ 馬乗り攻撃ウ日本軍の地下陣地(壕)に対し,米軍は地上部分を占領し壕口から爆雷・手相弾な
どを投入して,壕内にいる兵隊や住民をせん滅する米軍の戦術。
l■捌訊■ 沖縄県教育委員会「沖縄県史」(第9巻)。
せき
奥行きがヒトデ状に広がるここかしこに,いま
戦跡
に軍靴や住民の生活用品,未使用の手相弾など
せん
ぐんか
きやんみさきしゆうへん
離れた波打ち際には,毎日のように米軍の舟艇
1点在する知られざ る
住民はその後才(南側)にあるマヤーガマ(洞
∃ヨヨコヨ包⑯
(第62師団)の主陣地になったが,山城部落の
喜屋武一帯の戦闘
この一帯は南部戦線の最深部に位置し、後方は書屋武岬から荒崎
■二人小い にいたる断崖繰が天然の防壁をなしているため、最もおそい時期ま
で米軍の侵入をゆるさぬ地帯であった。そのため前線から後退して
きた数万の避難民や敗残兵が殺到、洞窟や岩陰、防潮林などに兵民
混在でひしめく状態となった。食糧も飲食水もほとんど底をついて、
飢餓と恐怖と疲労で多くの人びとは狂気の寸前まで追いつめられて
てい いた。住民虐殺事件や集団自決をども多発し、惨烈な極限状況を呈
した。
6月20∼21日にかけて米軍は火炎戦車を主力に、この最後に残さ
れた地帯に総攻撃をかけてきたが、日本軍には組織的に抵抗する戦
さ・・こlく 力はをく、米軍の一方的な殺戟の場と化した。海上からは海岸線ま
で迫ってきた舟艇から、林に追いつめられた避難民にたいして機関
日本兵に壕から追い出された住民
﹁マヤー壕にいた時は、夜にをってから家へ帰って
小学校
炊事をして、よかったわけですが、そこへ兵隊さんが
書屋武
軍刀を抜き、振りかぎして三回も釆ておったんですよ。
この陣地はわたしらが使うから地方住民は出なさいと
いってですね、まあ二回までは頑張って、出たら死ぬ
からといって、畳を持って釆て、口を塞いでですね、
派出所
国道331号
そうしたら後にをったらこの畳も兵隊さんが軍刀で切
こ は く・−, 小波蔵
りさばいてですね、もう酷いこと、地方民を圧迫して
ている。
ですね、それでみんを出たですよ。そこを出たら、ア
戟後、書尾武部落の住民が収骨し、現在の「平和之塔」に納骨され
メリカの飛行機は低空でですね、非常に危をかったん
上にも累々と死体が並んでいた。この一帯の戦没者は約10,000人。
ですよ。でも仕方ないですから、アダン実の下に穴を
掘っていたんですよ。﹂﹁沖縄県史﹂︵第9巻︶
砲の射撃が加えられた。洞矯内や岩陰には焼死体が積み重なり、路
カーブミラー
(
あ・−,さう 荒崎海岸
ノ\_
ノヽ・
人
しゆらば
修羅場と化した部落
米須の被災状況
なふひらいはらおおど
こめす
戦前,米頚部落は,波平,伊原,大度ととも
沖縄戦当時の全人口圧仏0名のうち生存者460
まぶに
に摩文仁村をつくっていた。
名(44.3%),戦死者580名(55.7%)。戦死者の
人口1200名余,さとうきび・菜たばこを作る
うち非戦闘員366名(63.8%),戦闘員108名(18.8
農家が多く,典型的な沖縄南部の農村の姿を示
%)で残りは不明である。戦死者を沖縄戦の時
こんばく すが,「ひめゆりの塔」・「ひむかいの塔」・「魂塊
期別にみると,日本軍司今部が摩文仁に撤退し
の塔」・「ずゐせんの塔」などがあり,沖縄戦の
た以後に集中している。
傷跡を深くとどめている。
また,空家を除く全戸数2I5戸のうち,一家全
滅が63戸(2?.3%),過半数以上の戦死56戸(3l.2
/一’■−■\
1?45年5月まで,米須一帯は戦線から速く離
れた後方地帯であった。住民の大部分は部落内
しゆりなは
にとどまり,これに首里・那覇方面の避難民も
加わって,付近に散在する自然洞窟で避難生活
ちゆうれい
忠霊之塔
きやん
最後の激戦地となった畳屋武半島の部落に
を送っていた。
しカ、し,日本軍が首里カ、ら撤退してくると,
この地域も戦場と化した。泉方釣3b几の摩文仁
あり に軍司令部が置カ、れ,米須城跡の壕にも部隊(有
ま
馬隊)が布陣した。6月18日ごろ日本軍の前線
が崩壊し,住民は敗残兵に壕を追い出され,−
あぴきようかんしゆらば
帯は阿鼻叫喚の修羅場となった。
/′■■■、\
%),半数以下の戦死5る戸(26.0%),戦死者が
ゼロは2?戸(13.5%)となっている。
は,何処でも納骨堂を兼ねた慰霊の塔(碑)が
建てられている。米須小学彼の正門斜向いに小
さな慰霊の塔がある
。この塔がカ、わっているの
やごう
は,塔の壁に戦没者の名前が屋号ごと刻まれて
いることである。50戸15?名を数えることがでさ
くよう
る。一家全滅の仏を供養するために米須の人た
ちが建てたものである。
‖‖‖=‖=‖‖‖=‖川‖=‖=l川‖‖=‖ll‖‖=lll‖‖l川‖川川l=ll‖l=‖‖‖==llll==1‖‖‖=‖‖‖‖‖‖川‖川l‖川‖===‖‖ll川=‖‖=川l‖=111‖==l‖‥
画
一家全滅世帯を部落民が而巳った「忠霊之塔」
車一家全滅家族ウ沖縄戦当時,県内にいた家族全員戦死した家のことをいう。
園石原昌家監修「大学生の沖縄戦記録」ひるぎ社
/′■ ̄、\
(
壕追い出しのショック
戦いに追われて壕を転々とし、心が枯れ木
のようになっていました。摩文仁国民学校
に友軍が入って釆た時は炊き出しをしたり、
供出をしたり、徴用にもいって兵隊さん達
に協力したつもりだったんですけれども⋮
首里からの敗残兵三名に壕を追い出され
たこともありました。自分達を守りに釆た
︵当時30才︶
と思った兵隊に、こうした仕打ちを受ける
大屋キミ
とは夢にも思いませんでした。
水くみ
クラガー︵暗川︶というところに水を汲み
に行ったけれども、もう死体は上から歩け
るくらいあったんです。米須の後ろに橋が
ありますが、橋の下にいた人たちは直撃を
うけてですね、手、足、頭なんかが散らば
っているんですよ。フクラシガーという井
戸が部落のまえにあるわけです。ここも水
を運ぶ途中やられたのでしょうな、四∼五
名死んでいたですよ。
この井戸は石なのか人間をのか、これを
避けて汲んだんですが、この水はいっとき
はおいしいようにあったんですが、翌日に
︵当時29才︶
なったら腐って、臭くて飲まれをいんです。
防衛隊・久保田清
。
一クラガー
′ ̄\
てしとよじ
′ ̄ ̄、\
全世帯の÷ガー家全滅
なんぎん
て第24師団のアイヌ出身兵士だった弟子豊治
いとまん
南山城祉(糸満市)を南にl加ほど下ったと
(池川市在住)がここを訪れた。弟子は真栄平
くによし
あらかき
ころに新垣十字路がある。右へ祈れると国書,
まえひらうえぐすく
まえぎと
てい の戦闘で身を挺して部落の人々を日本兵の車力、
部落が連なる。沖縄戦末期,軍民入り乱れて地
よみがえり,この地に慰霊の塔を建立しようと
獄の様相を呈したところである。
いう語がまとまった。翌66年,部落民と弟子の
じようぎい
やえせよ 米軍は優勢な火器に物を言わせてノ\重瀬・与
同胞たちが浄財を寄せ合って塔が完成。南の人
ざ
と北の人が共に甘民るという意味で「南北之塔」
日にかけて宇江城の司今部(第24師団,山部隊)
と命名された。塔は納骨堂とその上の小さな碑
を狙って集中砲火を浴びせた。
からなる。卿二は「キムンウタリ」(アイヌ語
悲劇は,このとき真栄平部落で起こった。逃げ
で山の仲間)「真栄平区民」と記されるのみで
ある。
場を失った日本兵たちは壕を求めて部落内に殺
到。一家族がやっと入っている小さな壕に銃剣
//′■\
なんばくのとう
座を突破,新垣部落まで迫り,l?45年6月l?∼20
皇軍賛美の碑文
あまみや
や日本刀を突きつけて追い出しにかかる。応じ
宇江城部落人口に第24師団雨宮中将以下幕僚
がる月30日自決を遂げた通称クラガーと言う洞
んで爆殺。部落民十数名,避難民を合わせると数
窟がある。もともと住民が水汲み場に使用して
十名がこうして虐殺された。弾雨の中に放り出さ
いたものを軍が司今部壕として用いた。現在も
しやへい れた人々は遮蔽物を求めてヤギ小屋,排水溝,岩
水が湧き出る。日本兵の一部は司令官自決後も
かんぽうえ
のくぼみなどを転々とするが,やがて艦砲の餌
なカ、ば敗残兵化して各地の壕にたてこもり,住
じき
食となる。真栄平部落民だけでも?00名中5引名
おびや 民を脅カ、していた。全員の殺陣が完了するのは
死亡(6l.2%)。58世帯(31%)が一家全滅。
8月初旬である。
アイヌ兵士と真柴平部落住民との友情の架け橋
⑯茸
ない者はその場で斬殺,または手相弾を殺げこ
酔酔
ら救った人物であった。弟子と部落民の友情が
−虐殺の地にたつ対照的なこつの塔
真栄里。左に斬れると新垣,真栄平,宇江城の
モクマオウまつさんう 壕横の木麻貴の木立の中に将兵を示巳る「山雨
よLだしげるきごう
戦後,真栄平部落民は散乱する遺骨約2000柱
の塔」が立つ(19引年建立。吉田茂の揮竜)。裏
ゆうきゆうたいぎ
/′■■■■■、
を集めて部落泉はずれの洞窟(通称アバタガマ)
い 例の碑文には「悠久の大義に生く」「永く其のイ葦
しきな に葬った。l?65年,これを識名の中央納骨堂へ
れつ
移そうという話が特ち上がっていた矢先,かつ
素朴な南北之塔とは対照的である。
こうぐんさんび
烈を伝う」といった皇軍賛美の美文が目立つ。
州‖=l=‖‖l‖川日日Il‖日日=川川l=‖=‖‖‖=‖‖‖‖‖‖‖川=‖=‖‖‖‖‖==川l‖‖‖‖===■==■=■=■=■=‖‖‖‖‖‖‖‖川l‖‖=川l=川‖‖‖=llll=l‖‖lI
函
アイヌ兵と沖縄住民の友情の証「南北之塔」
垂敗残兵化した日本兵については,22番の「白梅之塔周辺の戦跡」の項目を参照。
囲橋本進著「南北の塔」草土文化「観光コースでない沖縄」高文研沖縄県教育委員会「沖縄
県史」(9巻)
という意味です
お母さんがあんまり口がき
ハイハイ何ですか
逃げて
いみ
弟をおん
わたしのところヘ
首がユキ姉さんのうえにとんでいったので
わたしの す ぐ 下 の 妹 が 弟 を お ん ぶ し て で す ね
すぐ斬 っ た ら し い で す ね
フィフィと言ったんです
ここは何名いるかときいたが
人間でなく な る 日
だが
けないもんだから
が
きわ
ノー丁う▲刀−∴グ︻
妹のほうはですね
前新川小の門の内にひっぱられてですね
弟
これは腸がばらばらに出てお
わたしはその時
ぜんぶ出ていました
道にそったとこ牒にl並んで死んでいるのを見まし
水を汲みにでかけました
長く切ってですね
腸があちらからも出てこちらからも出ていましたが
妹は手をはをしたらしいんです
三カ所刺さ れ て い ま し て
うんと 強 く 刺 さ れ て
よなぐす く
与那城の 子 と 三 人 が
とユノ
腸や胃などが
水汲みに行きますときユキさんたちのお父さんは′ガジマルの木によりかか
二人とも大き く 腹 を 切 ら れ た と み え て
首もこん
また
坐ったまま首を斬られて
き
すよ
二うU?つ
幸重さんがねておったですよ
もうそれだけです
この井戸のそばの道に
と
水を飲まして
二人
もう 死 ぬ ま え ガ チ ガ チ
姉さん
し人げい
と言うので
と言って
︵当時19才︶
死んだんで
ガチガチしながら
前田ハル
大きな声をだして泣 い て
苦しがってですね
寝かしたんですが 一 人 は あ ん ま り
ないで楽にをりを さ い ね
ーbく
姉さんも追っていく か ら 何 も 心 配 し
はどうするつもりね
ガチガチふるえてで す ね
手をにぎって
生きていました
妹と弟とは一人 は 四 時 間 一 人 は 三 時 間
あんたも亡くなり ま し た ね
井戸まで行ったら
いど
おとうさんにたかっ て い ま し た で す ね
なに抱いて こんをにして わたしは ハッサミョー′おとうさん ここでやられ
たんですね と言っただけで もうどうすることもできません 銀バエがたくさん
お金こんをに抱いて
あぐらをか い て
すわ
って
た
禾の弟と
ったんですが 早く 死 に ま し た
二人があんまり水 を ほ し が っ た の で
のほうは
ち⊥・つ
ぶしている妹を刺し た か ら
さ
行こうとしていると ち ゅ う で
騒いで
き
日本の兵隊が釆て
/ ̄ ̄、\
▲山雨の塔と真栄平部落
(
みわ
沖縄戦の落とし子,三和村
な惨劇がくりひろげられることになる。住民や
まぶに
南部戦線の最後の激戦地となった摩文仁村,
負傷兵を追い出して,元気のある兵隊たちが奥
まかぺきやん
真壁村,畳屋武村は,人口の4割を失い,戦後は
の妥仝な場所を占領し,子どもが泣くと故に発
独立した村を再建できなくなったので,3村合
ふわ
しまつ 見されるという理由で首をしめて“始末”され
いとまん
だんまつょ
併して三和村という新村を建てた。(現在は糸満
てしまった。戦闘はすでに断末魔の状態にあり,
市に合イ削。この一帯の部落には,どこにもl
夜でも照明弾がひっきりなしにあがり,砲弾や
基ずつの納骨堂をカ、ねた慰霊の塔が建立されて
爆弾,機銑掃射が集中してくる。そういう“鉄
いる。なカ、でも,もっとも規模が大さいのが真壁
の暴風’’の真ただ中へ追い出されて,むざむざ
きじゆうそうしや
まんげ
′ ̄、
えじき
部落の「萬華之塔」だ。ブロック積みの納骨堂
弾丸の餌食になる者も少なくなかった。まさに
にはl万?000余柱の遺骨が納めてある。終戦直
弱肉強食の地獄であった。
後,村に複帰してきた人びとが第一にやった仕
勇戦敢闘を讃える砲兵山吹之塔
ほうへいやまぷきのとう
事が,部落周辺に散乱している遺骨の収集作業
ところが,後カ、ら「萬華之塔」のすぐ側に「砲
兵山吹之塔」という顕彰碑が現れた。野戦重砲
兵もー般住民も区別はない。無名戦士という言
第l連隊の戦友合が建立したもので,巨大な石
葉もあたらない。その多くは,塑難民である。
ちゆうれい
碑には「忠霊」と増する明治天皇の御製が刻ま
せんにんごう
れ,側に同連隊の戦歴と沖縄戦における“勇戦
真壁の洞窟は,誰いうとなく“千人壕’’と名
かんとう
敢闘’’を謙える碑文がたっている。連隊長がこ
さいご の洞窟の付近で最期を遂げたことにちなんで建
し寄せてさて,まるで塑難民の吹さだまりにな
立されたものだが,真壁の人びとが山野に散乱
った。阜屋武半島のほぼ中央部に位置するこの
する無名の遺骨を誰かれの差別なく納骨した
どこにも行き場がなくなったのである。洞窟の
「萬華之塔」と部隊の歴戦を顕彰せんがための
ほうへい
づけられ,戦場をさまよう避難民や敗残兵がお
部落は周囲を米軍の戦阜に包囲されて,もはや
ゆうせん
0包員
避難民の吹きだまり,千人壕
ーさまざまな惨劇の舞台
けんしようひ
であった。もちろん,納骨堂の中では日本兵も米
新しい塔とは,現在の沖縄戦跡のあり方を考え
ぐんふんざつきよ
中はたちまち軍民雑居の状態となり,さまぎま
′ ̄■、、
るうえで典型的な対照をなしている。
l==‖川=‖川Ill‖‖=‖川=‖l=‖‖‖l‖l==ll‖‖=‖=l‖l‖=川Il==l‖=ll===‖州==‖‖川==‖=川=‖‖===‖川‖l=l‖=ll‖‖川‖l‖ll‖l
■ヨ匡監駄●1万9000柱を市巳った「萬華之塔」
■■■■■【一,50年代にたてられた納骨堂には,十字架が数多く見られる。米兵たちが,しゃれこうべを持ちだ
したりしていたずらするのが目立ったため,クリスチャンなので十字架をおけば止むだろうと考
えた苦肉の策だった。
/ ̄\
ガ
マ
洞窟の中
ま
かべ
せ人に人
真壁千人壕
真壁では千人壕というのがあって、そこに入りました。
民間人はいなくて、兵隊だけがたくさん入っていました。
そしたら、アメリカ一に、迫撃砲をうちこまれて、壕の
ワクがこわされて入口がふさがれ、出入りができなくをり
ましたが、アメリカーのために、ここで友だちが一人焼き
殺されて死にました。それで、わたしたちは奥に行って、
二十日ぐらいそこで生活していました。壕の奥は水もあり
ました。負傷者は入口にいて全滅しましたが、友軍は奥に
いました。
それから、千人壕からちょっとはをれた壕にうつりまし
たが、そこは民間も友軍もごっちゃにをっていました。大
きくて、何百人も入れるので、ずいぶん大ぜいの人がいま
した。友軍よりも民間の人がずっと多かったんですが、そ
こで、大変なことを見ました。
四つか五つになっていたと思いますが、男の子がおりま
した。その子は、親がいをい、といって泣いていました。
子どもは入口のほうにいましたが、壕の上には穴があいて
いました。そしたら、友軍の兵隊が、﹁この子の泣き声が
敵に聞こえる、泣き声が聞こえたら私たちも大変である。
この子をどうするか、親はいないか⋮⋮﹂と言いました。
兵隊の声にだれも返事する人はいません。それで、兵隊た
ちが中にはいって、殺ったんです。少し明るかったんです
ね。上に穴があいていたから。連れていって、三角布で首
をしめたんです。民間の人はそれを見て、みんを泣いてい
ました。首をしめるのは現に見ましたが、怖かったもんで
すから、最後まで見ることはできませんでした。
儀問トヨ︵当時19才︶
1千人壕人口
(入口にいた負傷者は全滅した)
(
やえせ
弾よけにされた住民
た記念碑。八牽瀬島の山部隊野戦病院に配属さ
いとまん
糸満方面から進撃してきた米軍は,6月12日
れたこ高女従軍看護婦る7名は,病院部隊の解散
ごろからこの丘陵線に猛攻をかけてきた。南部
後,砲煙弾雨の中を散りぢりに逃げまわってい
戦線の戦闘は,地上と地下の戦いであった。自
たが,最後に国吉台地まで追いつめられた。る
然洞窟にたてこもる日本軍にたいして,米軍は
月22日,この壕も火炎放射器の攻撃を受け,乙
洞窟の上カ、ら馬束り攻撃をカ、け,火炎戦車,火
女たちはついに手相弾で自決を遂げた。塔のか
くによし
された。
がある。これは国書部落が建立した塔で,部落
もちこたえたのは,洞窟が深いことと,民間人
周辺で収集した遺骨約3000柱が祀られている。
逃げ場をうしなった避難民たちは道端に丸太の
カ、ったことによる。いわば,一般性民が弾よけ
ように倒れて,遺体の始末もできぬままに白骨
にされたのである。
化していたという。
終戦後も潜伏
して台地に突入していったが,洞窟の中では,
だんう
32連隊の本部がおかれた地下陣地壕で,壕内は約l00
追い出された避難民が弾雨の中をさまよってい
mの奥ゆきがあり,今でも遺骨やおびただしい
るうちに艦砲のノ吸片や銃弾を浴びて倒れていく
軍靴・兵器類の残骸が散乱している。この部隊
者など,極限状況の中でのさまざまな死にざま
は,洞ロからく りカ、えし爆雷攻撃をうけながら
があった。
も,洞窟の奥にジッと息をひそめて,連隊長以
しらうめ
せんぶくせいかん 下約50名が8月2?日まで潜伏して生還している。
ぐんか
白梅学徒隊の悲話
住 民、兵 士
「第32連隊壕」がある。山部隊(第24師団)第
絶望的な自殺においこまれる者,なお抵況して
時をカ、せぐ者,あるいは,友軍の兵隊に洞窟を
やまがた
坂道をへだてて南となりに,「山形の塔」と
し咋
う せき へん
せん
釣l週間の攻防戦の後,米軍は丘陵線を突破
っ た
が雑居しているため米軍が救出作戦に時間がか
とう
時をかせぐだけである。それでもlカ、月以上も
を 失
/′■ ■ ■、\
ばんこん
場
けいだい
境内の南隅に,「萬魂之塔」と刻まれた納骨堂
が唯一の戦法で,あとは穴の底にたてこもって
の
器・弾薬・食糧の尽さた日本軍は,夜間斬込み
うめ
窟の中から,祈り卓なった十数体の遺骨が発見
畠唱回泡⑯
て洞窟陣地をひとつひとつ潰していった。武
しら
たわらに,「自決の壕」があるが,戦後,この洞
つ.㌫
白
失政射器,爆雷,貴リン弾,ナパーム弾をもっ
ー逃げ
おう
しらうめのとうまつ 「白梅之塔」は県立第二高女の戦没者を示已っ
′ (
‖=‖‖lll‖=‖川‖‖川‖=川‖‖‖=‖‖=‖‖‖‖‖川‖川川l川‖l川‖====‖‖=‖‖ll‖l‖‖川==‖lllll‖‖川=‖川‖=日日‖‖‖川‖‖日日‖l川l
暇王■県立第二高女の戦没者を市巳った「白梅之塔」と地元住民によって収骨された遺骨を市巳った
「寓魂の塔」
−】■■■眉■ 「自決の壕」と「山形の塔」のすぐ下にある「連隊壕」に入ることができる。
■6重∋頭駅■ 読売新聞社『沖縄白梅の悲話』
﹁沖純白梅の 悲 話 ﹂ よ り
死を覚悟した。
る攻撃だった。これが 始 ま れ ば 、 人 は
げ込み、飛び出してく る も の は 射 殺 す
ソリン、手相弾、催涙 弾 を ど を 中 に 投
馬乗り−米軍戦車が壕 の 上 に 乗 り 、 ガ
そして、六月二十二日、 ﹁ 下 の 壕 ﹂ は
ではち切れそうに、黒く 、 ふ く れ て い た 。
にゆき、死体を踏んでは 転 ん だ 。 ガ ス
まった。彼女たちは、そ れ で も 水 損 み
くや井戸の周囲は、た ち ま ち 死 体 で 埋
あわせて十六人の小さを看讃
軍司令官、バックナー中将が日本軍の砲弾を受け、戦死していたのだ。繊減作戦が始まり、壕の近
ちにわかったことだが、その日、壕から南約五百メートルのところで、前線視察中のアメリカ第十
しかし、六月十八日から、艦砲と砲弾が雨のように降り注いだ。まさに、鉄の暴風雨だった。の
うとした。
た白梅隊だったが、兵を助けることで、がむしゃらに体を動かすことで少女たちは不安を打ち消す
かれ、その引き継ぎは明け方の五時だった。軍から見放され、なんの救いもをく戦場に放り出され
高い丘にあった﹁上の壕﹂とわけ、彼女たちも、上と下を交代で勤務した。昼勤、夜勤と二班にわ
だった。負傷兵は百人近くにのぼっていた。治療は﹁下の壕﹂、収容するのは約百メートル離れた小
での経験を生かし、包帯交換、飯あげ、水汲みなどに当った。兵とともにいることだけが心の支え
とんどない。だが、彼女たちは、目の前で岬く兵を黙って見てはいられをかった。富盛の野戦病院
ともhり
ての組織はをかったが、負傷兵はつぎつぎと入り込んでいた。軍医もいをい。医療器具や薬品もほ
隊となった。壕は﹁下の壕﹂と呼ばれ、衛生兵や看護婦が集まった自然壕。もはや、野戦病院とし
くにょし
﹁国吉の壕には仲間が い る ﹂ と 聞 い た 白 梅 隊 員 が 、 何 人 か 姿 を 見 せ 、
戦場に放り出さ れ た 白 梅 学 徒 隊
′′ ̄ ̄、\
一自決の壕と碑
一山形の塔の下にある連隊壕
(
/ ̄ ̄■\
一変したのどかな農村
の兵隊が丘に3人立っているのです。彼が小声で
くによしまえぎと
国吉・真栄里部落は,6月18日米軍司今官バ
『撃ってやろうか』と言うのです。すぐ近くなので,
ックナー中将がこの地で戦死したため,米軍の
くては撃ってはいけない』と言いました。かれは,
無差別幸反復攻撃をうけて多大の犠牲者がでた。
うしじまみつる
5月27日に牛島満軍司令官は,堅固な首里軍
しゆり
司今部を放棄して住民避難地域の南部に移動し
ひとりごとをいって,撃ったらその人物に当たった
のです。すると,若い将校らしき2人が抱きかかえ
て,道の下のほうにとめてあったジープに乗せて,
拡大していった。山部隊の第32連隊本部も国書
パーツといなくなったのです。」)『証言 沖縄
∼真栄里台地の地下陣地壕(現在の「山形の塔」)
戦』)そのとき松田初年兵は,バックナー中将と知
るよしもなかったが,月日と時間は,その戦死を伝
える米軍戦史と一致する。ただし,戦史では「日本
も全部残っており,住民は米軍機をみかけない
さくれつ 軍の1発の砲弾が観測所の真上で炸裂。こなごな吹
日中,東野菜類が一面に広がる畑で野良作業を
き飛ばされた岩石の1つが,バックナー中将の胸に
していた。しカ、し,一見のどかな光景もこの部
あたった。バックナー中将はその場にくずれるよう
隊の移動後,状況は一変した。
に倒れ,10分後に絶命したのである」(『日米最後
の戦闘』)とある。
6月6,7日頃カ、ら米軍の砲爆撃をうけるよ
うらそえにしはら
しゆ うになり,部落住民だけでなく浦添,西原,首
りなはまわし
里,那覇,真和志方面カ、らの避難民につぎつぎ
犠牲者がでていった。戦線がさらに南下してい
ひそ った6月ほ日,地下奥深く潜む連隊本部は米軍
を背後にする形になっていた。
パックナー中将戦死の地
バックナー中将が戦死した直後から松田初年
兵らの部隊は米軍の猛攻撃をうけ,連隊本部を
拠点に米軍と激しい戦闘が続いた。あげくのは
ふさ
てに,その壕は岩で塞がれて生き埋めにされた。
そして,バックナー中将戦死の地となった国
証言でみるパックナー中将の死
まつガ 松田初年兵は,本部壕から150m真栄里部落より
の壕に十数名で潜んでいた。その日,昼飯を済ませ
て,壕内の空気が悪いので,出入り口付近に来たら
ぎモう
監視兵が偽装して立っていた。「私が出て行くと,
かれがすかさず指をさすのです。見たら,アメリカ
′{■、
『命令もクソもあるか』『偉そうな奴を撃とう』と
た。その結果,沖縄戦の主力戦闘は南部戦線に
に移動した。首里攻防戦の頃,この付近は民家
′ ̄、、
撃ちたくてムズムズしていました。私は『命令がな
雛冨き
書・真栄里部落で,米軍は戦闘員・非戦闘員を
さつりく
問わず無差別に幸反復殺教をしていった。その結
教2
果,とくに国吉部落では一家全滅家族がでて,
ほこら いまなお示司だけの空さ屋敷が点在している。
‖‖ll==llllll=llllllll‖lll‖=l‖川Illl‖=川=川Illllllllltllllllll川‖‖lll‖‖‖l==‖l川=‖==lll‖==llllll=l==lll‖=川川=川Illll‖川川Illll=‖ll‖mt‖‖川川=1=l
■E憂弐遡凪■ いまも残る国吉の一家全滅屋敷跡
什一 バックナー中将戦死以後0米兵と住民の投降呼びかけを行ってきた人の証言では,糸満付近から
米兵の気が荒れていたという。
囲沖縄県教育委員会「沖縄県史」(第9巻)石原昌家著「証言.沖縄戦一戦場の光景」青木書店
/■\
空中に飛び散る避難民の群
頭上に突然、米軍の観測機が現れました。軍艦から大砲を撃つときの
機を見たらすぐ逃げることでした。
距離の測定をして軍艦に連結するのです。このトンボと呼んでいた飛行
私たち二人は、軍刀を手にして必死に国吉部落北側の岩山めがけて走
り出しました。
だが、をべやかま、食料を頭に乗せたり肩に担ぎ、子どもを背負った
と叫ぶのですが、も
り、手を引いている避難民は、相変わらずゆっくりと国吉から其栄里へ
﹁走って逃げろ!﹂
通じるたんぼ道、あぜ道を歩いているのです。
私たち二人は、声をかぎりに
う精神的に異常になっていて、何を叫んでも耳に入らをい様子で、をん
の目標もをいままにフラフラ歩いているのです。
あのときは、私たちでも異常な状態でしたが、住民よりは兵隊はまだ
一バックナー中将戦死碑
一かつて血に染まった井戸
※バス路線、地図は(ね参照
ましだったかもしれません。私たちは、国吉部落を突っ切って、岩山ま
でたどり着き、下の様子を見ていました。
そしたら、戦闘機が五機編隊で飛んで釆たと思うや、超低空でこの数
ちまくりました。
百人の避雉民の群をめがけてバリバリパリッと二、三回も旋回しては撃
そして、飛行機が去ったとたんに一斉に艦砲がドーン、ドーンと撃ち
込まれたのです。
丘の上から見おろしていると、夕暮れの中で、手、足、頭などが飛び散
っていくのが見えるのです。小学生の帽子が、フーツと空高く舞い上が
ったりして、もう目が当てられない状況でした。
私たちは、任務を終えて、すっかり夜にをって、同じ道を戻ってきた
のですが、夜中、照明弾が打ち上げられるので、あたりの状況は畳みた
いにくっきりと見えました。
をにしろ数百人の死体です。もう山積みみたいにをっているし、その
死体が無惨でした。弾が当たって身体のあちこちに穴があいているのが
多かったが、手、足、頭がころがっていました。もう足の踏み場がない
ったようで、どこを歩いてもぬるっとするのです。
くらいでした。でも死体をそまつにもできをいが、あたり一面血の海だ
井戸があったが、もう血でまっ赤に染まっていました。
松田定雄︵当時21才︶
(