王太子妃になれなかった婚約者 【連載版】

王太子妃になれなかった婚約者 【連載版】
Ash
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︻小説タイトル︼
王太子妃になれなかった婚約者 ︻連載版︼
︻Nコード︼
N1534CV
︻作者名︼
Ash
︻あらすじ︼
王太子が妹に心移りして婚約を破棄された令嬢。これは傷付きす
ぎた彼女が幸せになる話である。
1
婚約破棄について sideデボラ︵前書き︶
短編が説明力不足だったことをはじめにお詫びします。
短編では捨てられても別に愛する人ができた”ざまあ”話でしたが、
こちらではデボラの父やサリー、王太子などの周辺の人々を深く掘
り下げて書いていきます。
2
婚約破棄について sideデボラ
﹁王家からお前とコーネリアス王太子との婚約破棄の連絡があった﹂
侯爵を務める父の、暗く陰鬱とした書斎に呼び出され、告げられた
内容に私は﹁ああ、やっぱり﹂と思ってしまいました。
すべ
私は王太子妃になるには、それ以前に侯爵令嬢であるにはあまりに
も地味すぎたのです。
周りを動かし、コントロールする術などとてもできない性格でした。
あわよくば私の代わりに婚約者に成り代わろうと王太子に群がる令
嬢たちを諌めたり、追い払うことのできなかった私。
代わりに追い払ってくれていた、明るく人気者の妹。
王太子が妹に惹かれていくのもわかりました。
でも、私と王太子の婚約は家同士の契約だから、私は見ているしか
ありませんでした。
﹁代わりに、オーガスタとの婚約を申し込まれた。我が侯爵家とし
てはどちらの娘でも構わないが、虚仮にされた礼はせねばならん。
それはわかっているだろう、デボラ?﹂
猫の子を気に入ったか入らなかったで取り替えるように、婚約の相
手を姉から妹に取り替える。それだけでも失礼な話ですが、父が言
っているのは侯爵家に対してそのようなことを行ったという、侯爵
家の面子の問題です。
﹁はい﹂
3
私を守ってくれた妹を私は苛めなければいけない。
私の陰口を潰してくれた妹を罵らなければいけない。
私に向けられた嘲笑を止めさせた妹を嘲笑わなければいけない。
私は妹の恩に仇で返さなければいけない。
﹁これはオーガスタにも必要なことだ。姉の婚約者を盗るなど、言
語道断だ。侯爵家の恥だ﹂
私に虐められることで罰を受けたのだと、免罪符になるのだと知っ
たのは、ずっと後になってからでした。
それを初めから知っていたとしても、私は父の言葉に従って、妹を
虐めたでしょう。
父はどこまでいっても侯爵でしかなく、私は侯爵令嬢でしかありま
せん。
スペア
父と私はこの点ではとても良く似ています。社交性については妹が
受け継いだのでしょう。
母は私同様、大人しいタイプです。他の既婚婦人は跡取りと次男が
生まれると公然の秘密として愛人を作りますが、侯爵夫人としての
振る舞いを完璧にすることに全てを打ち込んでしまっているのでそ
ういった醜聞とは無縁です。
父は父で、侯爵としての責務を積極的に担っていますので、愛人に
構う時間は無いようにも見えます。
そうでなければ、眉間に消えない縦皺など無いでしょう。
﹁はい。お父様﹂
私が返事をすると父は既に手元の書類に目を通しています。
自分がいないもののように扱われるのは辛いですが、父には侯爵と
4
しての仕事があります。
侯爵の仕事は忙しいです。
領地経営や投資、王宮での政に関わる仕事などすることは多岐にわ
たります。
政以外では代理人を置けばいいのですが、代理人が不正を行わない
という保証はありません。それに分野ごとに専門家を配置したほう
が効率的にも良いので、各種の専門家に専門的事項を任せて報告さ
せると共に複数の監査役からも報告を上げさせています。
そして、代理のきかない政においては責任の重い役目を負います。
私は父の仕事を邪魔するわけにはいかないので、早々に退室しなけ
ればいけません。
﹁失礼致しました﹂
私はお辞儀をした後、静かに扉を開け、退室し、音を立てないよう
に閉めます。
﹁お嬢様﹂
父の書斎の外で私を待っていた侍女のサリーが気遣わしげに声をか
けてきました。
零れ落ちんばかりの豊かな胸に蜂のような見事な腰のくびれを持つ
サリーは、男装すれば麗人と言われる美貌の持ち主。
暗闇の中でも彼女の蜂蜜のような濃い金髪が輝いているように見え
ます。美人は何か特殊な魔法でもかかっているのでしょうか?
サリーを見ていると自分が恵まれ過ぎていることに気づきます。
明るく元気な妹に、仕事のできる美貌の侍女。私には勿体無いもの
ばかりです。
5
﹁婚約破棄されたわ。オーガスタと結婚したいそうよ﹂
﹁そんなっ。あれほど王家に嫁ぐために頑張ってきたというのに・・
・﹂
サリーは俯いて声を曇らせます。
﹁私はどちらでも構わないわ。王家の人間になって、華やかな場所
に出ないで済むのよ? どちらかというと、幸運だったわ。コーネ
リアス様のことは嫌いではなかったけど、あのままだったら妹と浮
気する夫を持つことになったのだから﹂
﹁お嬢様・・・。お嬢様はお綺麗です。オーガスタ様とは比べ物に
ならないくらいお美しいのですから、別の縁談もありますよ﹂
サリーは熱を込めて私に言います。
サリーの宝石のような青い瞳を見ていると、こんなに美しいサリー
が言うことです。
根拠はありませんが、サリーが言うことが本当のような気がしてき
ます。
でも、私はもう、縁談は懲りごり。
﹁王太子に捨てられた元婚約者に? そんな話はないと思うわ﹂
﹁そんなことありませんよ﹂
そう言うサリーの笑顔が眩しくて堪りません。
やはりサリーの美貌には何か魔法がかかっているのかもしれません。
私には直視できません。
目が潰れそうです。
これが凡人と美人の違いかもしれません。
私は思わず目を逸らしてしまいます。
6
私の前に屈んだサリーは私の両手を自分の両手で包み込みました。
サリーは殿方の平均身長よりやや高いくらいの身長をしていますの
で、女性としては大柄な部類に入ります。
そのせいか、大人に諭される子供のような気がしてきます。
﹁大丈夫ですよ、お嬢様﹂
下から覗き込むように言われてしまっては、私はサリーを見るしか
ありません。
私はサリーの美貌という名の視覚の暴力から逃げられないのでしょ
うか?
﹁お嬢様の良いところは必ず誰かの目に止まっています。ですから、
お気を落とさないで下さい﹂
﹁サリー・・・﹂
サリーの微笑みには温度でもあるのでしょうか?
心にじんわりと染み込んできて、温かくなるような気がします。
これは何か物理的な作用があるとしか思えません。
鼻の奥がツンとしてきます。
﹁サリーはお嬢様の味方ですから、お嬢様はいつも笑っていて下さ
い﹂
私はサリーの言う通り、笑おうとしました。
顔が強張ったかのように痛いです。
どうやら私の顔は笑いたくないと抵抗するようです。
私は無理矢理、頬に力を入れて口角を上げます。
7
サリーは私の左手を解放して、強張った私の頬を撫でます。
﹁お辛い思いをしたばかりだったのを失念しておりました。差し出
がましい口をきいて、申し訳ありません。お嬢様はお嬢様が思うよ
うになさっていて下さい﹂
﹁サリー?﹂
﹁泣きたい時は泣いて下さい。笑いたい時に笑って下さい。サリー
はお嬢様がいつも笑っていられるように、頑張りますから﹂
﹁ありがとう﹂
私はサリーに抱き付きました。
屈んでいるのに抱き付くと言っても、頭を抱え込むと言ったほうが
正しいですが。
コーネリアス様のことが嫌いでなかったのは本当です。
自分に能力がなくて婚約を破棄されたのも仕方がないと思います。
サリーは気を落とさなくていいと言ってくれますが、コーネリアス
様から暗に﹁いらない﹂と言われてしまったようで悲しいことには
変わりません。
私にもっと魅力があれば、こうならなかったのでしょうか?
私が私だから駄目だったのでしょうか?
妹とコーネリアス様に惹かれ合うものがあったのがいけないのでし
ょうか?
私に魅力があれば、コーネリアス様はオーガスタに惹かれなかった
のでしょうか?
8
婚約破棄について sideデボラ父
上の娘が出て行った後で、私は婚約破棄を記した王家からの手紙を
取り出す。
王家からの手紙には娘に告げなかった部分がある。
”マールボロ侯爵長女デボラとの婚約を破棄し、マールボロ侯爵次
女オーガスタを王太子の婚約者とする。それに伴い、長女デボラは
王太子の側妃とする。”
仲の良い姉妹の娘たちなら正妃と側妃になっても問題はない。
それはデボラが正妃であっても変わらない筈だ。
今までのようにデボラの足りない部分をオーガスタが補い、オーガ
スタの足りない部分をデボラが補うことはできた筈なのに、どうし
て二人を取り替えるのかわからない。
デボラ一人では無理なこともオーガスタがいれば乗り越えられるの
に、今更、何故・・・?
初めからオーガスタを婚約者にしていれば、婚約を破棄された娘、
正妃から側妃に下げられた娘、とデボラが見下されることはなかっ
た。
初めからオーガスタを婚約者にしていれば、デボラは他に嫁ぐ道も
あった。
太陽の光のようなオーガスタと月の光のようなデボラ。
明るく優しいオーガスタと慎ましく優しいデボラ。
春の日のようなオーガスタと雪解けの日のようなデボラ。
輝かんばかりのオーガスタと静謐を湛える神秘的なデボラ。
色彩は全く同じなのに異なる印象を持つ、美しき我が娘たち。
9
オーガスタにばかり目に行くかもしれないが、デボラにも良い点は
たくさんある。
オーガスタは人気者だが周りを振り回すところがある。
デボラはそれをわからないように先手を打って被害を抑える。
デボラは無邪気なオーガスタの引き起こす騒動を労を惜しまずに収
める。
全ては愛する妹のために。
侯爵家としての勤めを熟知しているのもデボラだ。
オーガスタは完璧ではない。
デボラも完璧ではない。
完璧な人間はいない。
だから、人間は間違いを起こす。
デボラが何をしたというのか?
汚辱にまみれ、正妃になれなかった女として一生、後ろ指を指され
なければならない何をしたというのか?
デボラがオーガスタを虐めることで、デボラが側妃となる可能性は
低くなるだろう。
デボラが側妃となる必要はない。
デボラはデボラであればいい。
オールドミス
嫁に行けなくてもいい。
老嬢として、王都か領地の片隅で暮らしていけるように取り計らお
う。
今回のような政治的な思惑以外での婚約破棄をされては、結婚との
縁が切れたと言ってもいいのだから。
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妹虐め sideデボラ︵前書き︶
今回も短くてすみません。
11
妹虐め sideデボラ
妹を虐めなければいけない。
これはとても気が重いものです。
私の妹はとても良い子です。
私の至らない点ををいつもさり気なくカバーして、守ってくれてい
たのです。
エメラルド
そんな妹を虐めなければいけないなんて・・・。
プラチナブロンド
同じ白金髪をしていても、同じ緑の目をしていても、妹はとても美
しいです。
それでも、私は妹を虐める気にはなれません。
コーネリアス様との婚約の件もどうでもいいです。
ですが、父の言葉は絶対です。
侯爵令嬢として、私は妹を虐めなければいけません。
本当は嫌ですが、やらなければいけません。
どんなに離れていても、妹の姿は一目でわかります。
私は急いで逃げようとしますが、生憎ここは我が家の屋敷の廊下で
す。
並ぶ扉の先は全て部屋で逃げ込んでも袋の鼠です。
今、来た方向に急いで戻るしかありません。
走らないように、音を立てて妹に気付かれないように、できるだけ
12
急ぐしかありません。
﹁デボラお姉様?﹂
悲しげな妹の声を背に、私は自室に逃げ込むべく足を動かします。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめ
んなさい。
虐めて、ごめんなさい。
せめて我が家では貴女を虐めさせないで。
私の愛する妹である、貴女を。
無視する形になってしまったとしても、私は貴女に辛くあたること
も、罵ることもしたくないのです。
13
王宮夜会 sideデボラ
私の婚約が壊れた後も世界は変わらず動き続けています。
王宮で行われる夜会にも変わりはありません。
まだ婚約式を済ませていない妹ですが、コーネリアス様のエスコー
トで出かけているので事実上、婚約者第一候補と目されています。
・・
以前からコーネリアス様は婚約者である私の妹ということでエスコ
ートして頂くことはありました。
しかし、今は私と婚約破棄をし、妹だけをエスコートしているので
す。
・・・・・・・
それを遠くから見る私。
・・・・
遠くから見ることになる私ではありません。
何故なら、コーネリアス様にエスコートされている妹を虐める為に
私は彼らの出かける先に出没しているのです。
今夜、既に虐め終わった私はコーネリアス様に慰められている妹の
姿を目に納め、両親と共にいます。
私の役目を知っている両親は、私の外出する際には必ず付いてきて
くれます。仕事の忙しい父は正式な夜会など社交的に重要な催しで
しか一緒になることはないのですが、母は昼の散策だろうが小さな
集まりだろうが一緒です。
両親が側にいれば風当たりも表立ってはきつくありません。
前なら妹がいつも側にいて、王太子の婚約者だからという妬みから
守ってくれました。
今は王太子に捨てられた婚約者という嘲りから、両親が守ってくれ
ます。
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ザワザワと妹のいるあたりが騒がしくなります。
コーネリアス様がいるというのに、妹に嫌味を言いに来た令嬢たち
がいるのでしょうか?
﹁ああ、陛下がお見えになった。私たちは挨拶をしてくるからここ
にいなさい﹂
父の言葉で、国王夫妻がおなりになったことを知りました。
そんな父の眉間にはいつものように深い縦皺。
これがなければ金髪の美丈夫だったことが窺えるのですが、豊かな
プラチナブロンド
金髪をした眼光鋭い人物にしか見えません。
対する母もやはり金髪の一種の白金髪で、妹に似た目鼻立ちのしっ
かりした美人です。母に妹が似ているのでしょうが、私にとっては
母が妹に似ているという印象があります。
そして、私は父に似ています。
﹁一人にするけど、大丈夫かしら?﹂
私を残して挨拶に行くことが心配なのか、母は顔を曇らせます。
﹁お気になさらないで、お母様。今の私は妹イビリのデボラですわ。
家柄だけの婚約者のデボラではありません﹂
母を安心させようとニッコリ笑ってそう言うと、母に涙ぐまれまし
た。
何故でしょう?
母は私の手を掴みます。
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﹁デボラ・・・。やはり置いていけないわ。一緒に行きましょう﹂
ああ、母はやはり妹に似ている。
妹もこう言って、いつも側にいてくれました。
二人は親子だから言動も似ていると考えさせられます。
﹁駄目です。私は王家のご不興を買った身。陛下に会わせる顔があ
りません﹂
﹁何を言っているの。ご不興は買っていないわ。婚約を取り消され
ただけなのよ?﹂
﹁私は婚約を取り消されるような何かをしてしまったのよ、お母様﹂
﹁貴女は何も悪くないわ、デボラ﹂
それは王家への批判とも受け取れる言葉です。
このような場で口にしていいものではありません。
私はすぐさま打ち消さなければいけません。
我がマールボロ侯爵家が王家への叛意を僅かとも持っていると噂さ
れれば、お父様の政敵以外にも引きずり降ろそうと考える慮外者が
出てきてもおかしくありません。
﹁それはお母様が私の母親だから、そう見えるのです﹂
﹁お母様はいつでもデボラの母親よ。娘が辛い思いをしている時に
何もしてやれなくて辛いのが母親という生き物なの。だから、一人
で抱え込まないで︱︱﹂
﹁行くぞ、チェルシー﹂
父は有無を言わせぬ一言を放ち、私の手を取る母の手を自分の腕に
かけさせ、さっさと歩き出しました。
こうなると母は父に従う以外、方法はありません。
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エスコートを振り払って、私のところに戻るのは目立ちます。
私は母の失言がこれ以上出なくなったことにホッとしました。
しかし、まだ安心はできません。
周囲のおしゃべりに耳を澄ませます。
どうやら、先程の母の発言は気の毒な令嬢とそれを心配しすぎる神
経質な母親の会話だと好意的にとられたのか、誰の耳にも届いてい
なかったのか、周りでは取り上げられていません。
ひとま
まだまだ油断できませんが、一先ず、目に見える危機は去りました。
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王宮夜会 sideデボラ
両親が国王夫妻に挨拶の為に立ち去っても、話題の渦中にいる私に
近付いてくる者は幸いにもいませんでした。
おかげで、私は周囲から聞こえてくるおしゃべりや噂話に聞き耳を
立てることに集中できます。
所謂、壁の花です。
本来ならダンスのお誘いがなくて、壁際にいるしかない︵ダンスス
ペースは部屋の中央部分なので︶未婚女性のことをそう言うのです
が、今の私もその資格があります。妹を虐めれば役目は終わります
から、ダンスの時間まではいませんし、壁紙と言ったほうが似合っ
ているかもしれません。
﹁レディ・デボラの妹虐めにも困ったものね﹂
とある貴婦人が溜め息を吐き、別の貴婦人がそれに応えます。
﹁仕方がないんじゃない? よりによって、コーネリアス様が妹を
選んだせいで婚約を取り消されたのだから。コーネリアス様にあた
るわけにもいけないし、元凶がすぐ側にいたらそちらに向かうのも
当然だわ。だいたい、婚約が早くに決まっていたからって、お高く
とまっていたほうが悪いのよ。諦めの悪い令嬢がコーネリアス様に
纏わり付いていても何もしないんだから﹂
﹁その代わり、レディ・オーガスタが代わりにあんなに頑張ってい
たでしょう? 彼女にコーネリアス様の気持ちが向くのも仕方がな
いわ。それをどうして素直に祝ってあげられないのかしら?﹂
﹁自分がなると思っていた王太子妃の座を奪われた腹いせね。大人
しそうに見えていたのは上辺だけで、今の姿が本性なのよ。コーネ
リアス様も婚約を破棄なさって運が良かったわ。あんな恐ろしい性
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格の女が国母の地位に就くなんて怖くて堪らないわ﹂
﹁国母になれるかどうかはわからないじゃない。王子が生まれなか
ったり、自身が早くに亡くられたりすれば、別の人物が国母になる
わけだし﹂
﹁でも、王妃として戴く相手が恐ろしいことをする人物であって欲
しくないわ﹂
夜会やお茶会などの社交の場でこういう会話はよく耳にします。
会話をしているのは既婚未婚紳士淑女を問いません。
婚約破棄されたばかりの頃は妹を責めていたものでしたが、今では
私が悪者です。
母に告げた”妹イビリのデボラ”は今では私の二つ名になっていま
した。
姉の婚約者を盗った妹と哀れな姉という評判は、父の思惑通りに妹
を虐める姉とそれに耐える健気な妹にすり替わったのです。
ああ。
嫌々、社交に参加した甲斐もあったというものです。
妹を虐める為に参加するというので更に気が重かったのですが、妹
の為になるというのなら致し方ありません。
コーネリアス様をそれなりに想うことしかできない私よりも、相思
相愛の妹のほうが婚約者に相応しいのは当たり前です。
妹を虐めるのは辛いですが、私はその御役目を精一杯するだけです。
私が決意を新たにしていると、黒髪の華やかな令嬢が近付いてきま
す。
ああ、嫌だ。
レディ・ウィルミナです。
リザルフォント公爵に降嫁した国王陛下の姉から生まれた彼女は、
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王太子妃候補として名乗りを上げながら、血縁が近すぎるのを理由
に外されたというのが気に食わないらしく、私が婚約者であった間
は幾度も嫌味を言われたものです。
そのせいか、私は彼女に苦手意識しかありません。
逃げようと思いましたが、足に根が生えてしまったかのように足が
動きません。
誰かに助けを求めたくても︵今の評判の悪い私に誰が助けてくれる
のかはわかりませんが︶、視線すら彼女から逸らすことができませ
ん。
だ、誰か・・・。
声も出し方を忘れてしまい、彼女が近付いてくるのをただ冷たい汗
を流しながら見ているしかありませんでした。
20
王宮夜会 sideデボラ
﹁ご機嫌いかが、レディ・デボラ?﹂
レディ・ウィルミナの声を聞くと背筋が震えます。
もう、どうしようもありません。
気力だけでどうにか笑顔を作りますが、自分でも硬く強張っている
のがわかります。
私の肩書がただの侯爵令嬢に戻って既に何週間も経っていますし、
その間に同じ催しにも参加していたのに、妹に嫌味を言いに行くこ
とはあっても私の存在を無視していたレディ・ウィルミナが今頃、
何の用でしょうか?
﹁お久しぶりでございます、レディ・ウィルミナ。お変わりはあり
ませんでした?﹂
﹁お変わりがあったのは貴女の方でしょう? 王太子の婚約者から、
元婚約者になったのだから。それも婚約者の座を妹に奪われるなん
て、なんて無様なの! 婚約者の座を同じように誰かに与えたいな
ら、わたくしを推薦して下さっても良かったのではなくて?﹂
婚約破棄もその後の婚約者選びについて、私にも寝耳に水の出来事
だったことを責められました。
私が関知していないことは伝わっていないのでしょうか?
それともコーネリアス様の婚約者である私たち姉妹が仲良くしてい
たせいで、妹がコーネリアス様の目に留まったことを指しているの
でしょうか?
コーネリアス様の目に留まりたくても、コーネリアス様の婚約者と
21
なってからはレディ・ウィルミナには嫌味しか言われたことはあり
ません。
そんな態度をとるレディ・ウィルミナの側にはいられませんのに、
私と一緒にいた妹のようにコーネリアス様の目に留まれるとどうし
て思われたのかわかりません。
﹁婚約者の件はコーネリアス様がお決めになったことですから、私
には何とも言えません。婚約者でなくなったのも唐突なことでした
から﹂
﹁あらあら。余裕ね。貴女の家は姉が妹になろうと王太子妃を出せ
るのだから構わないでしょうが、貴女は結婚できなくなりましたの
よ?﹂
﹁今回のことがありましたので、私はそれに希望を持っておりませ
ん。きっと、結婚に向いていないのでしょう。コーネリアス様もそ
れにお気付きになったのだと思います﹂
﹁そんなことを言っているのは今のうちだけよ! 貴女の妹は王家
から侍女が派遣されていないんですからね!﹂
﹁王家から侍女?!﹂
何のことでしょう?
レディ・ウィルミナの言葉をそのまま受け取れば、我が家には王家
から侍女が派遣されていることになります。
しかし、私にはその記憶もなければ、心当たりもありません。
通常、他家から派遣される使用人と言えば、家の内情を探る密偵の
代名詞です。
我が家は疑われていたのでしょうか?
あんなにも職務に実直な父が?
﹁コーネリアス様が貴女と婚約するにあたって、貴女の身を案じて
付けた侍女よ。おわかりにならない? コーネリアス様が本気なら
22
貴女の妹にも王家から侍女が派遣されるはずなのに、そんな素振は
ないわ。貴女の家で侍女の配置換えはなかったかしら?﹂
私の身を案じて付けた侍女?!
初耳です。
コーネリアス様との顔合わせは王妃様主催のお茶会という形でコー
ネリアス様の歳に近い他の貴族の子息令嬢と共に何度も行われまし
た。
おかげでいつ見染められたのかもわかりませんし、婚約者の通達を
受けた時は驚いたものです。
私の何が良かったのでしょうか?
そのお茶会には妹も参加していましたが、その当時では幼すぎてコ
ーネリアス様の目に留まらなかったのでしょう。
それにしても、我が家の侍女事情はこのところ変わりません。
配置転換も一年くらい前に行われたのが最後です。
他家からの密偵などを警戒した結果、使用人の雇入れには非常に気
を遣っておりますから、誠実で長く働けそうな方を選んでいると、
配置転換も年に一度くらいしかありません。
﹁それはわかりかねます。︱︱王家から侍女が派遣されたという話
は本当なのでしょうか?﹂
﹁当たり前ですわ。わたくし、その話を聞いた時に悔しくて眠れま
せんでしたもの!﹂
﹁申し訳ありません。私はその話自体聞いたことがありませんでし
たので・・・﹂
﹁ただの噂話だったということかしら? レディ・デボラ、眠れな
かったわたくしの睡眠時間を返しなさい!﹂
なんて無茶苦茶な・・・。
23
呆れてものが言えません。
24
王宮夜会 sideデボラ
﹁・・・﹂
﹁聞いてますの?!だいたい、貴女はいるのかいないのかわからな
い人なんですから、いるならいると主張しなさい。貴女だと思って
何回、彫像に話しかけたかわからないわ﹂
そんなこと言われても私にどうしろと・・・?
彼女の弁を信じるなら、彫像を私と間違えたらしいです。
自嘲気味に自分を壁紙だと称しましたが、まさか他者から室内装飾
の一部と間違えられていたとは思ってもいませんでした。
改めて他者から室内装飾品だと認識されていることを知らされ、頭
が真っ白になります。
どうしましょう。
何も考えられません。
﹁前から思っておりましたけど、なんでそんなに地味なドレスです
の?いくら位の高い貴婦人に合わせるのが普通だとはいえ、貴女に
合わせた服装をしていたら舞踏会がお葬式になってしまうじゃあり
ませんこと?貴女がようやく、ただの侯爵令嬢に戻ってくださった
おかげで、綺羅びやかなドレスが着られるようになりましたわ﹂
ドレスコードは確かに決まっていますが、不文律のものもあります。
主催者より派手にならないこと。
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これは主催者と同じ色のドレスを着ない、ということでもあります。
お茶会など昼間に行われる社交で事前にどの色のドレスを着るのか
探っておかなければいけません。
また、王族と色が被るのもよくないことです。
高位貴族の実力者には人気者でもないのに自分のドレスと色が被っ
たり、派手だと感じるドレスを着た人物を敵視する方もいますから、
そちらの情報収集も必要になってきます。
・・・これが私の社交場に出たくない理由の一つです。
すっかり忘れていましたが、コーネリアス様と婚約していた時期の
私は実力者だと見なされていました。
レディ・ウィルミナの仰る通り、私のドレス選びのせいで地味に装
うしかなかった令嬢も多かったことでしょう。
何度もレディ・ウィルミナの﹁みすぼらしい﹂との忠告に従って、
王子の婚約者らしい色のドレスに変えたのはそれがあったからです。
﹁申し訳ありませんでした。レディ・ウィルミナ﹂
﹁わかればいいのよ、わかれば。最近ようやく、貴女が妹さんの側
にいる時だけは存在感が出てきたのだから今の調子でいなさいな、
レディ・デボラ﹂
それは妹を虐めている時しか目に入らないということでしょうか?
そんなのは御免被りたいです。
早く、妹虐めをしなくていいようになるといいのですが・・・。
妹虐めのことを思い出すと、また気が重くなってきます。
顔から血の気が引くのがわかりました。
26
﹁はい、レディ・ウィルミナ﹂
レディ・ウィルミナは私の返事に満足したようです。
立ち去る彼女を見送り、安心したあまり急に疲れに襲われた私は新
鮮な空気を求めて近くの窓からテラスに出ました。
胸に吸い込む空気は冷たくて不快感はありますが、頬に当たる風は
昂った私の神経を宥めてくれます。
謝ったとしても修復できない状態になる前に妹虐めは終わるといい
のですが・・・。
妹の幸せの為とはいえ、これからの人生を妹に禍根を持たれた形で
生きていきたくはありません。
いくら愛し合う人と一緒になれるとは言っても、その他の人間関係
︵それも家族︶とうまくいっていないのは幸せにケチが付けられて
いるようなものです。
妹の幸せには一点の曇もあって欲しくはありません。
あの子は皆を愛し、愛されるのが相応しいのですから。
憂いの素などあってはいけません。
愛し、愛される・・・良い言葉です。
私とコーネリアス様では無理なもの・・・。
妹とコーネリアス様だからできること。
私にもそんな相手ができるのでしょうか?
いつか私を愛してくれる人が現れるのでしょうか?
そのいつかが、どれくらい先になるかわかりませんけど。
今の私は妹イビリのデボラですもの。
殿方に好意など持たれる筈もありません。
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自嘲的な笑いが溢れます。
そう言えば、王家から派遣された侍女とは何だったのでしょう?
おおやけ
レディ・ウィルミナのお母上は陛下の姉王女。レディ・ウィルミナ
は公には知らされていないことを知っているのかもしれません。
しかし、コーネリアス様が私の為に派遣したらしい侍女についてど
う考えても思い当たるところはありません。
もし、レディ・ウィルミナの言う通りなら、妹にも王家から侍女が
派遣される筈です。
王家から非公式に派遣されている侍女の存在をご存知か、侍女は王
家からの密偵なのか、それとも元々侍女など派遣されていないのか。
この件は父と話さなくてはいけません。
それにしても、蒸し暑い室内と違って夜風が気持ち良いですね。
手摺りに凭れて夜の闇に包まれた庭園を眺めていると、近くで窓の
開く音がします。
誰か出てきたようです。
折角、夜風に吹かれるのを楽しんでいたのに・・・。
出てきた人物に気付かれないように、私はテラスに置かれた植木鉢
の陰に隠れることにしました。
﹁デボラ﹂
耳慣れた声に私の心臓は跳ねます。
何故、彼がここにいるのでしょう?
どういう理由で?
28
何で今更?
コーネリアス様︱︱
ああ、父の言いつけを守れば良かった。
私は自分の軽率な行動に後悔するしかありませんでした。
29
王宮夜会 sideデボラ
つや
艶やかな黒髪に聡明そうな灰色の目。筋の通った鼻梁に形の良い薄
い唇。
コーネリアス様はいつ見てもお美しい方です。
そう、このような時も。
婚約破棄されて何週間も経っているというのに、それでもコーネリ
アス様の顔には見とれずにはいられません。
しかし、今は苦痛に耐えているかのような表情をしておられます。
お身体をどうかなさったのでしょうか?
心配になってきます。
私の心配を他所にコーネリアス様の口から出てきた言葉は驚くよう
なものでした。
﹁デボラ、すまなかった﹂
たやす
王族は容易く謝罪しないものです。
何故なら、王族が何をしても、何を誤っても、彼らが正しいからで
す。
そして、王族の謝罪は受け入れてはいけません。
王族の謝罪で受け入れて良いのは公爵として臣下になった元王族の
み。
王族の謝罪を受け入れてしまえば、彼らが間違っていると思ってい
るのだと明言しているも同然です。
王族が間違っていると明言することは謀反の疑いをかけられ、一族
郎党根絶やしにされても文句が言えません。
30
王族の誤りは指摘しても良いですが、それを本人に気付かれないよ
うに行うのがマナーです。
・ ・・
・ ・ ・・
・
・・
・ ・ ・・
うっかり、気に障って謀反の疑いをかけられては堪ったものではあ
りません。
あくまでもご本人が過ちに自ら気付き、ご意見を変えて頂かないと
いけないのです。
﹁仕方がありませんわ。いつか仰られるとは覚悟していましたし﹂
﹁覚悟?﹂
コーネリアス様は怪訝そうな顔をされました。
妹に惹かれているのをご自分ではお気付きにはなっておられなかっ
たようです。
﹁ええ。いつからかコーネリアス様はオーガスタと会話を楽しまれ
るようになりましたわ。それまでは妹がいても気にかけてくださっ
ていただけでしたのに﹂
私の言葉を聞いているうちにコーネリアス様は苦虫を潰したような
顔をなさいました。
﹁・・・私は楽しそうだったか?﹂
﹁ええ、それはとても﹂
コーネリアス様の額にできた縦皺が深くなります。
﹁そう見えたなら、すまない﹂
﹁謝らないで下さい。そのおかげで私は婚約破棄をされる覚悟がで
きましたもの﹂
﹁それはどれくらい前からだ?﹂
31
せん
﹁申し上げても、詮のないことですわ﹂
コーネリアス様は私に向かって右手を伸ばし、私の頬を掌で包み込
みます。
私は息が詰まりました。
その掌の温かさが、苦しい。
こんなことは許してはいけないことです。
でも、この温かさに心癒やされるものがあります。
﹁教えてくれ。どれくらい前から私はお前に辛い思いをさせていた
んだ?﹂
﹁辛い? 辛くはありませんわ。元々、王太子妃の条件が一番合っ
たのが私だったというだけではありませんか。一時でも王太子の婚
約者という立場に居られたのですから、名誉に思うことはあっても
それ以外にはありません﹂
﹁デボラ。それなら何故、お前は泣いているんだ?﹂
﹁泣いている?﹂
﹁泣いていないのならその目から溢れているのは、頬を伝っている
のは何だと言うんだ?﹂
コーネリアス様に言われて、私は自分の右の頬に手を遣りました。
指先に濡れた感触があります。
何故、涙が?
政略結婚だとばかり受け取っていて、自分の感情とは向き合ってこ
なかったツケでしょうか?
32
でも、婚約を破棄されて傷つくほど、私はコーネリアス様のことを
愛していなかった筈です。
婚約破棄の書状が届いた時ですら何ともなかったのに。
それなのに何故、今頃になって?
もしかして、コーネリアス様と妹が会話を楽しむようになってから、
私は自分の気持を無理矢理押し殺して無視してきたのでしょうか?
それともコーネリアス様に愛されることを諦めたのでしょうか?
わかりません。
コーネリアス様に婚約破棄され、代わりに妹が婚約者になったのを
あんなに冷静に受け止められたのに。
あの時の感情は嘘だったのでしょうか?
コーネリアス様に捨てられるとわかっていて自分を守る為に作り出
した気持ちだったのでしょうか?
私の、今の私の気持ちは作りものなんでしょうか?
自分の感情が滅茶苦茶になってしまい、自分でもよくわかりません。
私は本当にコーネリアス様のことを愛していたのでしょうか?
﹁結果的にどうであれ、私はデボラに辛い思いをさせる気はなかっ
た。こんなふうに泣かせることから守りたかっただけだ。それなの
にお前を泣かせてしまう。確かにオーガスタと話しているのは楽し
かった。だからと言って、デボラに苦痛の時間を耐えさせてまで話
したかったわけではないんだ﹂
﹁これ以上、何も言わないで下さい! お願いです! これ以上は
33
っ!﹂
必死に言い募るコーネリアス様の顔を見ていられず、私は背中を向
けました。
妹と一緒にいて楽しかったと言いながら、コーネリアス様は私に辛
い思いをさせたくなかったと仰ります。
婚約者がその場にいるのに、その婚約者の姉妹とはいえ別の女性と
会話を楽しむだけでなく、それが楽しかったと認め、婚約者の気持
ちを傷つける気はなかったのだと仰られても信じられません。
﹁私はいつも傍にお前がいて欲しんだ、デボラ。どんな形であろう
と。守りたいんだ、お前を﹂
まだコーネリアス様が包み込んでいるかのように左の頬が温かい。
その熱が幻であることはわかっています。
わかっていますが・・・
私はその白々しい言葉を何故かとても信じたいと思ってしまったの
です。
34
王宮夜会︵回想︶ sideデボラ
そう言えば、私の社交界デビューもこの王宮で行われた夜会でした。
昼間の社交は既に参加しておりました。
妹と一緒だったので嫌味も少なく、私はどうにかコーネリアス様に
相応しい女性として精一杯振る舞っていました。
しかし、夜の社交は今回が初めてです。
私が大人の一員として認められた、そんな大切な第一歩は侯爵の娘
社交界デビュー
というだけで王家主催の夜会でなければいけませんでした。王太子
の婚約者であるという理由でも、他の夜会を初めての夜の社交は許
されておりません。
今夜、妹は出席できません。
私は失敗しないか、コーネリアス様に失望されたりはしないかと神
あつら
経が張り詰め、自室を歩きまわっていました。
今夜の為に誂えた白いシフォンドレスの裾がヒラヒラと軽やかに翻
デビュタント
ります。
未婚女性一年目の色は決まっていませんが、白系の色や淡く明るい
色が良いとされています。
とても綺麗で、私にはもったいないくらいでした。
襟ぐりもデイドレス︵昼間用のドレス︶と違い、胸元も背中も大き
く開いています。このイブニングドレスの着用を許されることこそ
が大人になったと認知された証です。
あれほど早く大人になってコーネリアス様の隣に立ちたいと思って
いたのに、私には恐れ多くてまだまだ着たくなかったイブニングド
35
レス。
ああ、今日という日なんか来なければい良かったのに。
そんな私を気遣ってサリーは声をかけてきました。
﹁お嬢様。お飲み物でも如何ですか?﹂
飲み物も喉を通りそうにない私は首を振りました。
﹁いいえ﹂
﹁では、歌でも歌いましょうか? それともピアノの演奏でも?﹂
サリーは気晴らしになるものを提案してきてくれました。
しかし、神経の昂っている私にはいつも好きだった音楽が煩わしく
感じました。
﹁いいえ﹂
﹁それでは、ダンスでもしますか?﹂
その一言に私は足を止めました。
﹁ダンス?﹂
社交界デビュー
今日は初めての夜の社交です。
社交界デビュー
ファーストダンスは非常に重要なものです。ましてや私はコーネリ
アス様の婚約者。王太子の婚約者としての、初めての夜の社交での
ファーストダンスは失敗など許されないものです。
36
誰よりも完璧に踊らなければいけないファーストダンス。
コーネリアス様の婚約者である私に課せられた試練の一つです。
﹁ええ。ダンスのおさらいです。緊張も解れますよ﹂
微笑むサリーの美しい顔に私の張り詰めた神経が緩みます。
サリーの笑顔には癒しの効果があって、本当に助かります。
そして、サリーの笑顔を見ていると私もつられるように笑みを浮か
べてしまいます。
﹁そうね。コーネリアス様に披露する前にもう一度練習しておきた
いわね﹂
﹁では、お嬢様﹂
優雅に差し出される手に私は手を預け、サリーのリードで踊り出し
ました。
長身のサリーは男役も堂に入っています。長身のコーネリアス様よ
りは低いですが、殿方と同じくらいの身長のサリーの視線は同じく
長身の私よりやや高いくらい。
自分たちとあまり変わらない背丈の私と小柄な妹であれば、妹が好
まれるのも道理です。あの子は明るく、楽しく、それでいて小さく
て可愛らしい妖精なのですから。
身長があまり変わらないおかげだけでなく、サリーのダンスの技量
も確かです。
伴奏もないのに私は無理なく、楽しくステップが踏めました。
37
何も考えず、身体を預けてステップを踏む。次の動作はサリーの巧
みなリードがあるので気にせず、サリーの美貌を眺めながらただダ
ンスを楽しんでいるうちに、色々なことが思い出されてきました。
思わず吹き出してしまうと、サリーが柳眉を顰めます。
﹁お嬢様?﹂
﹁昔、ダンスのレッスンがうまくいかなかった時もサリーはこうし
て付き合ってくれたでしょう?﹂
同じように昔を思い出して懐かしむサリーはあの頃と変わらないよ
うな気がします。
たった数年前ですが、サリーは昔と変わらず若々しいです。
﹁ええ。そうでございますね。あの頃のお嬢様はお小さくのにあん
なに厳しいダンスのレッスンを受けているのを見ているほうが辛い
くらいでした﹂
﹁何を言っているの? オーガスタは未だにサリーの肩ぐらいしか
ないじゃない﹂
﹁オーガスタ様にはオーガスタ様の、お嬢様にはお嬢様の魅力があ
るのですよ﹂
﹁・・・。サリー。よくわからないわ﹂
﹁お嬢様にはわからなくても、お嬢様の魅力はわかる人がわかって
いれば良いのです﹂
38
﹁まったく、サリーはいつもそうね﹂
﹁当たり前です。サリーはお嬢様の為にいるのですから﹂
ただでさえ美しい顔で蕩けるような表情をされると堪ったものでは
ありません。
それも私はダンスを踊っているのですから、30センチも離れてい
ないくらいの至近距離です。
﹁サリー・・・。殿方の前でそんな表情をしては駄目よ? ただで
さえサリーは美人なんだから、以前みたいに大変なことになるわ﹂
私がそう言うと、サリーは表情を曇らせました。
﹁それが仰りたかったのですか? あのダンス教師のしつこさには
本当に参りました。お嬢様にダンスのレッスンをしているよりもメ
イドたちを追っかけているほうが多かったのですから﹂
﹁メイドたちと言っても、ほとんどサリーだけだったじゃない﹂
サリーの表情はますます曇り、苦虫を噛み潰したようになりました。
﹁・・・お嬢様、思い出させないで下さい。︱︱ダンスの時はもっ
と楽しいことを話すのがマナーですよ﹂
サリーの困った顔は珍しいです。
私が何を頼んでもこんな表情をすることはありません。
私はそんなサリーの困った顔を見ているのが好きです。
サリーはダンスや教養をはじめ、侍女をしているには惜しいくらい
39
何でもできます。
私には勿体無い人材です。
何でも笑って許してくれるサリーだから、私はサリーの困った顔が
見たくなるのです。
見たくなるからといって、これは良いことではありませんよね。
﹁ごめんなさい、サリー﹂
私が素直に謝るとサリーはいつも許してくれます。
﹁お嬢様・・・。今夜はどうしても外出しなければならないのが残
念でございます。こんなに美しい装いで社交界デビューされるのは
お嬢様にとって良いことなのか、悪いことなのか・・・﹂
心配し始めるサリーが可笑しくて私は笑いを堪えられません。
﹁良いことに決まっているわ。だって、コーネリアス様に恥をかか
せずに済むもの。︱︱でもね、サリー。このドレスで最初にダンス
を踊ったのがサリーだということは、コーネリアス様には内緒よ?﹂
クスクスと笑いながら私がそう言うと、サリーは目を細めて同じよ
うに笑いながら言いました。
﹁ええ、内緒にします。サリーとお嬢様の秘密ですよ﹂
40
王宮夜会︵回想︶ sideデボラ
サリーとダンスのおさらいをしたおかげで、私はコーネリアス様を
笑顔でお迎えすることができました。
私の白いドレス姿にコーネリアス様は軽く目を見開いて、﹁綺麗だ。
よく似合ってるよ﹂と仰って下さいました。
ベスト
ですが、私の目にはコーネリアス様のお姿のほうが綺麗だと思いま
した。
裾の長い上着
濃紺に金糸の刺繍が入ったジャストコールに揃いのジレと脚衣。そ
の服装は黒髪のコーネリアス様を思慮深く見せています。
﹁どこもおかしくありませんか?﹂
﹁どうしてそんなことを、デボラ?﹂
サリーと話していた時と異なり、コーネリアス様の前では自信が揺
らいできました。
何故ならサリーはあくまで私の侍女で、侯爵家の人間なのです。身
内に甘くなってしまうのも仕方がありません。
完璧な王子であるコーネリアス様の婚約者として認められるには、
高位貴族の令嬢として相応しいだけではいけないのだから。ただで
さえ私は高位貴族の令嬢としてあるまじきことに取り巻きのご令嬢
がおりません。
お茶会などで取り巻きだと思われているのは、皆、妹の取り巻きな
41
のです。
﹁サリーが心配だと言うものですから、おかしな点でもあるのかと・
・・﹂
言葉を濁らせる私にコーネリアス様は励まして下さるかのように微
笑んで下さいました。
﹁そんな心配はいらないよ。こんな時、婚約者としてデボラをエス
コートすることのできる特権があって良かったと思う。今夜の夜会
はデボラの為にあると言っても良いくらいだ﹂
﹁本当ですか?﹂
コーネリアス様は灰色の目を眩しそうに細めました。
﹁ああ。お前を婚約者に選んだあの時の自分を褒めたい。︱︱私以
外とは踊るなよ?﹂
お世辞だとはわかっておりますが、そんなことを仰られると本気に
してしまいます。
コーネリアス様は罪作りな方です。
﹁ですが・・・お父様とは踊ってもよろしいでしょうか?﹂
﹁マールボロ候は仕方がないか。娘の社交界デビューで踊らないと
いうのもおかしいしな。私とマールボロ候以外は駄目だぞ。従兄弟
も兄もだ﹂
その独占欲が嬉しくて、それでいて気恥ずかしくて思わず苦笑して
42
しまいました。
”コーネリアス様はきっとお前を独占したがるぞ”
兄が手紙で書いていた通りです。
﹁はい﹂
﹁ところで兄と言えば、カーティスはどうしたんだ?﹂
﹁兄は父の代理で領地におりますわ﹂
﹁妹の社交界デビューだというのにか?﹂
﹁兄からの手紙によれば、私の社交界デビューの日はコーネリアス
様に譲るそうです﹂
コーネリアス様は溜め息を吐いた後、苦笑なさいました。
﹁まったく。領地から出たくないだけのくせに、よく言う﹂
確かに兄は都よりも領地にいることを好んでおります。
高位貴族とのやり取りも苦手だと言っていましたし、そんなところ
は私と似ています。
でも、実際は次期侯爵として遜色ない対応をしております。
兄は私に気を遣ってくれているのでしょう。
﹁兄が譲ってくれたのにそんなことを仰らないで下さい﹂
兄を庇う私にコーネリアス様は目を光らせて仰りました。
43
﹁譲って貰う必要はない。私は婚約者で王子なんだぞ?﹂
﹁婚約者よりは兄のほうが優先順位がありますわ。それにこんなこ
とに王族の権利を使わないで下さい﹂
・・・・・
﹁こんなこと? 婚約者とダンスを楽しむのは重要な事じゃないか﹂
こんな言葉をかけられて嬉しくない者がいるでしょうか?
私は嬉しさのあまり夢見心地でした。
コーネリアス様からこんな言葉をかけられて私のような状態になら
ない筈がありません。例え、婚約者がコーネリアス様でなくても、
私はその夜、地に足が付かなかったでしょう。
いつ、王宮に向かったのか。
いつ、ダンスをしたのか。
ダンス中、どんな話をしたのか。
何一つ覚えていません。
あんなに心配していたファーストダンスすら、どうだったのか記憶
に無いのです。
幸せに胸がいっぱいすぎて私は夢を見ているようでした。
そう。
幸せ過ぎて気付かなかったのです。
その幸せが如何に脆く、儚いものなのかこの時の私は気付いていな
44
かったのです。
無知は罪だと誰かが言ったそうですが、その時の私は知らなかった
のです、幸せはいつまでも続かないことを。
幸せは打ち寄せる波のようなもの。幸福の絶頂にいたのなら、波が
引くように崩れ去るのみ。
初めての夜の社交でイブニングドレス姿をコーネリアス様にお見せ
て褒められたその一ヶ月後。
いつものように私と妹がコーネリアス様を訪ねた王宮でお茶を楽し
もうとした時。
執務の合間に現れたコーネリアス様は妹から目が離せない様子でし
た。
それはたった一瞬だったかもしれません。
でも、私にはわかりました。
コーネリアス様は妹に恋をしたのです。
イブニングドレスとは比べ物にならない、慎ましやかな社交界デビ
ュー前の少女が着るデイドレス姿の妹に︱︱
45
王宮夜会 sideデボラ
アレを思い出してはいけません。
アレだけは思い出してはいけないのです。
お願い、アレだけは・・・
私は必死に自分に言い聞かせます。
アレを思い出したら、私は立っていることなどできません。
私は自分の足でここに立っている。誰にも何者にも侵されず、普段
と変わらぬ姿を見せる。
それだけが私に残されたプライドだから。
コーネリアス様がオーガスタに恋したことも、コーネリアス様に婚
約破棄されたことも、オーガスタにコーネリアス様の婚約者の座を
奪われたことも、そのどれも私は傷付いていない。
そのどれも私を傷付けることはできない。
傷付いたりなんかしない。
傷付けさせたりなんかしない。
私はオーガスタにはなれない。
オーガスタのようには振る舞えない。
オーガスタのようには美しくない。
だからと言って、私は傷付けてもいいの?
私なら傷付けてもいいの?
私はマールボロ侯爵令嬢。
マールボロ侯爵の長女。
46
マールボロ侯爵の上の娘。
高位貴族の令嬢らしく無様な姿は晒してはいけない。
何事にも沈着冷静に対処しなくてはいけない。
婚約破棄されようが、元婚約者が妹と婚約しようが、取り乱しては
いけない。
・・・・・
・・・
但し、我が家を馬鹿にしたその行為の代償を妹に支払わせなければ
いけない。
・ ・ ・ ・ ・ ・・
しかし、妹を選んだのはコーネリアス様でした。
・・
・・
・ ・・
・ ・ ・・
・・・・・
・・・・・
・・・
・・・
・・・
・・
・ ・ ・・
・・・
妹は私とコーネリアス様の間に入り込む気などありませんでした。
・・
妹は私を傷付ける気などありませんでした。
・・・
妹は私を裏切る気などありませんでした。
・ ・ ・・
・ ・ ・ ・ ・ ・・・・
・・・・
そして私は、妹に裏切られていないことを知っています。
・ ・ ・ ・ ・ ・
何故なら、妹は私を愛し、私は妹を愛しているのだから。
私たち姉妹の間に入り込み、亀裂を作ったのはコーネリアス様なの
だから。
私たち姉妹を理不尽な苦しみに突き落としたのはコーネリアス様で
す。
どうして、私を婚約者に選んだのでしょうか?
どうして、私を婚約者に選んでしまったのでしょうか?
レディ・ウィルミナが近い血縁だからと忌避されていなければ、私
が婚約者に選ばれることもなかったのに。
レディ・ウィルミナが婚約者に選ばれていれば私たちはこんな苦し
みを背負わずに済んだのに。
47
それなのに何故、今頃になって私にお声をかけたのでしょう?
コーネリアス様は何故、お声をかけたのでしょう?
コーネリアス様は私に何を求めていらっしゃるのでしょう?
妹に優しくしろと仰られても、今はまだ妹に優しくすることはでき
ません。
それ以外のことは私には思い付きません。
私を苦しめるのは、もうやめて頂けないものでしょうか?
私が何をしたというのでしょうか?
私にはマールボロ侯爵令嬢として立場を守るプライドしか残ってい
ません。
それすら、貴方は私から奪いたいのですか、コーネリアス様?
48
王宮夜会 sideデボラ父
国王夫妻に挨拶をしようと向かう私のところに、先に下の娘を連れ
た王太子がやってくる。
正しい判断だ。婚約者であろうがこの場ではまだ王家の一員となっ
ていない人物は同席することができない。王太子は上の娘とは婚約
までしていたが、下の娘とはまだその段階ですらない。
﹁マールボロ侯爵﹂
﹁これはこれは、殿下。ご機嫌麗しゅう。何か御用でしょうか?﹂
何食わぬ顔で応じると王太子は眉を寄せる。
﹁デボラにどうしてあのような真似をさせておく? あのままでは
自分の評判を落とすだけだ。ひいては結婚だけでなく、招待もされ
なくなるぞ?﹂
早口に捲し立てる王太子の様子に私は内心ほくそ笑む。
心配しているのは上の娘の身の上ではなく、自分の側妃にできるか
どうかということなのは丸わかりだ。いくら事実上の貴族社会から
の追放を匂わせても、王太子の望みが薄くなっていることに変わり
はない。
ひとえ
﹁申し訳ございませんが、これも偏にオーガスタが後ろ指を指され
ずに王家に嫁ぐためのもの。どうかご容赦下さい。ただでさえ、我
がマールボロ侯爵家は娘の婚約を破棄され、姉妹が略奪したと嘲笑
を受ける立場でございます。このままにしておくと貴族の中にもマ
ールボロ侯爵家を蔑ろにする者も出てきてはオーガスタとの婚約も
49
立ち消えとなりましょう。王家が望んでいるのは、貴族を抑えられ
る立場のある後ろ盾を持った王太子妃、王妃。今は上の娘に泥をか
ぶって貰わねばなりません。それが最上の手ですから﹂
﹁でも、それではデボラお姉様が・・・﹂
チェルシー
下の娘は妻に似て無邪気だ。それが良い点でもあり悪い点でもある。
無邪気。
悪く言えば無神経。
自らをコントロールして自制するべきところを自制できないとも言
う。
何故なら、本人はそれを悪いことだと認識できないから。認識させ
るのは大変だが、認識してくれれば同じ過ちは犯さない。
上の娘はいつも下の娘の無邪気さが引き起こすトラブルを未然に防
いできた。
しかし、下の娘は自分が侯爵家の令嬢だという意識が欠け過ぎてい
る。
親しみやすい反面、馴れ馴れしく、権威に欠ける。
他国の者からどれほど侮られる存在となるか、それを恋に浮かれた
王太子は考えていない。
﹁デボラは侯爵家の一員として心得ているから心配は無用だ。殿下
はお前を正妃にとお望みなのだぞ﹂
﹁私はデボラお姉様が”妹イビリ”などと呼ばれるのは耐えられま
せん﹂
50
優しさはいつも表面に見えるだけのものではない。
下の娘の優しさは表面に見えるものだけだ。
気遣ってはいる。
優しい振りや気遣っている振りなどの口だけや偽善の薄っぺらい優
しさとは違うものの、時には成長を促すために厳しくすることも必
要だということを理解していない。
無邪気さ故に。
﹁オーガスタ・・・!﹂
妻の声に含まれる憤りを私の腕に絡ませている手を軽く叩いて宥め
る。
まず
この場では拙い。
﹁お前はデボラが何も耐えていないとでも思ったのか?﹂
上の娘の社交界デビューの翌年、下の娘も社交界デビューを迎えた。
あの夜のことは忘れられない。
王太子は婚約者ではなく、下の娘と一晩中踊り続けた。
姻戚関係ができるのだから、一曲二曲ぐらいは踊るかもしれないが、
下の娘が親族以外と踊れなくしたのだ。婚約者の時と同様に。
それが何を意味するかはわからぬ筈もない。
それともそこまで愚かなのか。
それからは夜会の度に下の娘と踊る。
上の娘はいつもそれを見ていた。
姉妹をエスコートして現れ、最初の一曲を義理とばかりに婚約者と
踊り、あとは下の娘と一緒に笑い合っている。
51
コーネリアスと言う男はそういう人間だ。
そして、それに気付かないオーガスタもそういう人間だ。
恋に浮かれて立場を忘れているだけならまだいい。
しかし、下の娘は子供の頃からそうなのだ。
上の娘を正妃として相応しくないと判断するなら、下の娘は更に相
応しくない。
上の娘を支えていく気概もなく、恋に溺れて下の娘を正妃にと望ん
だのは王太子だ。
せめて、自分の恋した相手ぐらいは支えていってほしいものだ。
﹁いいえ。デボラお姉様はいつも辛そうな表情をしていますもの。
私に意地悪をしている時すら泣きそうな顔で。私はもう、デボラお
姉様にあんな表情をさせたくないんです﹂
﹁優しいなオーガスタは。だが、そんなに気に病むな。私が何とか
する﹂
﹁・・・﹂
貴方には優しさの欠片も無いようですがね、殿下。
口から出そうになる言葉を飲み込む。
望めば何でも与えられ、甘やかされきった王太子にかける言葉はな
い。
下の娘すら、姉の不幸の上に築かれた自分の幸せに疑問を持たない。
下の娘が気にするのは、姉の表情だけ。その立場も何も理解してい
ない。
52
﹁ご令嬢をお返し致します、侯爵﹂
﹁ありがとうございます、殿下﹂
私と王太子の間には温かな空気はない。私が気難しい人間だからと
いうこともある。
そのような元からないものは、下の娘の社交界デビューの時に完璧
に縁がなくなった。
下の娘の尻拭いを喜んでしたいという奇特な人物は多数いるが、こ
の方の在位中は国が荒れることだろう。
今はできるだけ距離を置いて、下の娘が結婚したら跡取り息子に任
せて隠居しておくか。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
国王夫妻と王太子への挨拶も終わり、デボラのところに戻ろうとす
るが避けられない挨拶が多々ある。
手短に済ませることを心がけながらデボラの様子を横目で確認する。
一人でテラスへと出て行く姿に憤りは感じない。
かな
むしろ、よく耐えたほうだと思う。
国王夫妻への目通りも適わぬほどの悪評。
それを背負い、周囲の噂にも一人で耐えたのだ。
私たちが戻るのが遅くなって、避難場所を求めても仕方のないこと。
適切ではないにしても、必要なことなのだから。
53
王太子にチラリと目を遣る。伯爵との話が弾んでいて気付いていな
さそうだった。
国王夫妻への正式な挨拶は伯爵までの高位貴族しか許されていない。
何故なら、子爵や男爵は貴族とは言っても比較的に新しい爵位だか
らだ。
街を外敵から守り、治める力を持つと認定されて封じられるのが伯
爵位を持つ者の条件である。その麾下にいる存在や、王家直属の部
下、高位貴族の爵位継承者などに大盤振る舞いされるようになって
生まれたのが子爵や男爵である。
伯爵位までしかなかった時から世も変わったものだ。
あの時代なら、王位も容易に変わった。
王太子だろうが国王だろうが暗殺されることなど日常茶飯事だった。
貴族のほうが王家より力を持っている時代もあった。
しかし、今は王家に権力が集中している。
にく
逆らうどころか、叛意ありと思われる言葉を口にするだけでも危う
い。
生き難くなったものだ。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
王太子が下の娘を迎えに来るにはまだ時間がかかるのだろうと思っ
ていた。
54
王太子が一人で会場を横切って行くのが見え、ヒヤリと背筋が寒く
なった。
あの方向は・・・
﹁チェルシー。オーガスタを頼む﹂
妻の手を解き、下の娘を預けて私もできるだけ急ぐ。
﹁あなた? ・・・わかりました﹂
上の娘が姿を消したテラスに王太子の姿もまた消えるのを目にし、
悪い予感が当たったのだと苦い思いがした。
早く、上の娘を助け出さなければ。
あの娘に側妃の話があることを聞かせてはいけない。
側妃でもなく、侯爵令嬢でもなく、貴族でなくてもいい。
誰の妻にならなくてもいいから、幸せになって欲しい。
それが今の私と妻の、上の娘への願いだ。
55
王宮夜会 sideデボラ
﹁殿下?﹂
青年期と思われる殿方の声が入り口からします。
﹁そこにおられるんでしょう。この私の目は誤魔化せませんよ﹂
その声にコーネリアス様の気配が離れました。
助かりました。
本当に助かりました。
この方には感謝してもしきれません。
﹁殿下。一人で姿を消されては困ります。折角、レディ・オーガス
タとの婚約が整ったというのに別の女性とこんなところにおられて
は・・・﹂
私の窮地を救って下さったのはリザルフォント公爵令息のリオネル
様でした。あのレディ・ウィルミナのお兄様です。
栗色の髪に切れ長の緑の目をしたリオネル様はコーネリアス様にと
ってもお兄様のような存在で、何度もお話した際にも面倒見の良い
方だとお見受けしました。
もし、妹が嫁ぐならこの方が良いと思っていた方です。
妹の取り巻きになってしまうような流されやすさもなく、父が母を
導いているように妹を導いていける方だと思っておりました。
﹁ご無沙汰しております、リオネル様﹂
56
﹁レディ・デボラ? どうして貴女がこちらに?﹂
﹁暑かったものですから涼んでおりました﹂
﹁そうか。お邪魔して申し訳ない。そう言えば、このところ、ご一
緒していても顔を合わしていなかったな。貴女はすぐに帰ってしま
われるから﹂
﹁いえ、評判の悪い私がいつまでも場に残っては皆様に不快な思い
をさせるだけですから﹂
ウィルミナ
﹁不快だなんてそんなことを言うものではない。こちらこそ、先程
も妹が失礼な真似をしたと思うが、許してもらえると助かる﹂
れっき
リオネル様が頭を下げようとなさるので、私は急いでそれを止めま
した。
公爵令息ですが、リオネル様は歴とした王族の血を引いておられる
第4位王位継承者なのです。
﹁そんな、畏れ多いことをなさらないで下さい﹂
コーネリアス
﹁妹だけなく、従兄弟のことも申し訳ない﹂
﹁リオネル!﹂
﹁まだこちらにいたのか、コーネリアス。早く戻れ。ついでにマー
ルボロ侯爵を連れて来い﹂
私的な場でのリオネル様は、コーネリアス様のお兄様の代わりをし
57
ているだけに弟扱いしました。
﹁しかし・・・﹂
﹁お前とレディ・デボラが一緒にいたと印象付けたいのか? レデ
ィ・オーガスタとの婚約はなくても良いのか?﹂
﹁・・・わかった﹂
不承不承と言った体でコーネリアス様はリオネル様の言葉を受け入
れます。
流石、コーネリアス様のお兄様です。
・・・。
コーネリアス様も妹との婚約話をフイにしたくないようです。本当
に助かりました。
コーネリアス様は渋々、室内に戻ろうとしました。ガラス戸に手を
かけ、こちらを振り返ります。
﹁デボラ。オーガスタを苛めるのはやめろ。それは自分の価値を下
げるだけだ﹂
そう言って、私の返答も聞かずに室内へと戻るコーネリアス様を私
とリオネル様は見送りました。
?
リオネル様はまだここに居られるんですか?
58
王宮夜会 sideデボラ
﹁あの、リオネル様? お戻りにならないんですか?﹂
どうして、コーネリアス様と一緒に戻って下さらなかったのでしょ
う?
一人になりたかったのにコーネリアス様は現れるは、リオネル様は
け
現れるは、散々です。コーネリアス様は私の気持ちすら乱していき
ました。
お
リオネル様は私の目をまっすぐに見ました。その真剣な眼差しに気
圧されそうです。
﹁しばし、話し相手になってもらえるか、レディ・デボラ?﹂
否とは言わせない雰囲気のリオネル様の言葉に私は頷きました。
﹁ええ﹂
先程、リオネル様自身が仰っていたように、婚約間近の妹以外の女
性とコーネリアス様が一緒にいるところを迎えに来たように見えて
はいけないのですね。
コーネリアス様は妹との婚約話が流れるのを嫌って大人しくお言葉
に従ったくらいです。
妹の手を取る為に私と婚約破棄までしたのですから、今更、私との
仲を邪推されて破談を避けたいのでしょう。
私はコーネリアス様にとって本当に都合の悪い存在なのだと実感し
ました。
59
コーネリアス様が本当に好きになった相手との仲を邪魔する悪者。
足元に視線を落とすと、スカートの前を両手で掴んでいるのが見え
ました。
無意識のうちに掴んでしまったのでしょう。
力が入るあまり、掴んでいるスカートの部分は皺になりそうです。
ごめんなさい、サリー。
サリーに皺伸ばしの手間を掛けさせることに気付いて心の中で謝っ
ておきます。
﹁ウィルミナとコーネリアスの二人のことは本当に済まない。あの
二人が血縁の近さを理由に婚約できなかった為に、レディ・デボラ
には何年も嫌な思いをさせた挙句、今度のことだ。血縁の近さから
婚約候補としては順位が下から数えたほうが早い現実を受け入れら
れないウィルミナにしろ、婚儀も半年後に迫った時点で婚約者を取
り替えるコーネリアスにしろ、我儘過ぎる﹂
リオネル様の強い語気に私は慌てて否定します。
﹁そんな・・・! そんなことはありません。私がもっと社交的に
振る舞えれば、コーネリアス様にもレディ・ウィルミナにもご迷惑
をおかけせずに済んだのに﹂
リオネル様にとってコーネリアス様とレディ・ウィルミナは同じ王
族。それも弟妹として可愛がっておられたのです。
ただの侯爵家の娘にすぎない私はその言葉を真に受けて肯定などで
きよう筈もありません。
60
﹁今度の婚儀の日程にしても本来ならレディ・デボラが17歳にな
ったら行われる筈だったものを、コーネリアスが何度も延期した末
に決定したものだろう? それなのに何故、コーネリアスを庇う?﹂
コーネリアス様と私の婚約破棄にリオネル様も思うところがあった
ようです。
お気遣いはありがたいのですが、身に余るものです。
しかし︱︱
﹁すべて、私が至らないからです。8年経っても、王妃教育を身に
付けられない私が悪いんです﹂
物覚えの悪い私は何年も前から既に見切りを付けられたのでしょう。
それでもお優しいコーネリアス様は私との婚約を解消されようとは
なさらなかったのです。妹に心を奪われていたとしても、私が自分
の能力の限界に気付いて自ら婚約解消を申し出ることを待っていた
ひとえ
のかもしれません。
それも偏にコーネリアス様の温情、故に。
私にはそれがわかっていなかったのです。
コーネリアス様が妹に心を移したと、そればかり見ていて。
惨めな自分が周りから可哀想だとは見られたくないと、そればかり
気にしていたのです。王太子の婚約者の名に相応しい振る舞いを気
にかけ、コーネリアス様の思い遣りに気付かなかったのです。
﹁それは違う。貴女は充分な成果を出していた。婚儀が遅れたのは
本当にコーネリアスの我儘のせいだ。あいつは貴女にもレディ・オ
ーガスタにも良い所を見せたいと、婚約の解消を切り出せなかった
のだから。それがこの結果なのだから救いようがない﹂
61
﹁・・・﹂
﹁自由の身になった貴女には新たな結婚相手を探す権利がある。コ
ーネリアスのことを早く忘れて、自分の幸せを考えて欲しい。貴女
が新たな幸せを手に入れることで吹っ切ってやらねば、コーネリア
スはまたも馬鹿な真似を繰り返し、貴女の人生を引っ掻き回すに違
いない﹂
﹁それはどういう意味ですか?﹂
﹁レディ・オーガスタは親しみやすい反面、男を侍らしたままにし
てしまう。それが何を意味するか、王妃教育を受けた貴女にもわか
るだろう?﹂
﹁・・・!﹂
友達感覚で殿方を侍らしても許されるのは婚約者も定まっていない
未婚の娘か、未亡人だけ。それも求婚者という立場で。
夫以外の殿方の影のある妻というのは、夫に軽んじられている存在
か、自ら不貞を公表しているものなのです。
王妃の役割は自国の女性の頂点に立つ者として、彼女らの尊敬や制
御、協力が必要です。殿方の制御や協力は王が取り付け、国を纏め
上げていきます。
つまり、王妃の周りには王以外の殿方の影があってはいけないので
す。
例外として護衛はありますが、それ以外の殿方を妹はどうするつも
りなのでしょうか?
62
あの子は性別を問わず、囲まれている子です。皆があの子を取り囲
まずにはいられない子です。
その姿を諸外国やこの国の要職にある者が見れば、軽んじられます。
誰もがあの子の魅力の虜になっていれば些細な事と言ってのけられ
ますが、外交や水面下での遣り取りでコーネリアス様があの子の傍
を離れた隙に、あの子に取り入って、あの子の意見を誘導すること
も可能です。
事実、そのように王の寵姫に取り入って、政治を私物にした人物が
歴史上にも、諸外国にもいます。
音を立てて血の気が引くのがわかりました。
﹁コーネリアスの気が変わらないうちに身の振り方を考えてくれ﹂
﹁それは・・・﹂
姉妹の取り換えがまた起きるということですか?
声にならない私の問いにリオネル様は頷きました。
﹁貴女は地獄を見てきた。またそれを見せるのは忍びない﹂
﹁しかし、妹との婚儀は・・・﹂
﹁姉妹の取り換えという醜聞に婚約はすぐには発表できなかったが
そろそろだろう。婚儀を挙げるまでには別の令嬢に気が移るだろう
しな﹂
リオネル様は手近にある枝に手を伸ばして言った。
63
﹁それは一体・・・?﹂
リオネル様が鼻で笑った気配がしました。
﹁何、気にすることはない﹂
これ以上は尋ねてはいけないようです。高位貴族とはいえ、一貴族
の娘が詮索してはいけない領域のようです。
﹁・・・﹂
も
お話を聞いた分には、妹とコーネリアス様の婚儀は行われないよう
な感じでした。そこまでコーネリアス様の気持ちが保たないと暗に
示されているようです。
あのコーネリアス様の気持ちが冷めるなんて・・・私の時はそうで
したが、妹の時もあるのでしょうか?
それもあと1年もしないうちに。
私との婚約期間が長かっただけに妹との婚約期間は短いと思います。
妹の人柄は既に知っていますし、国王夫妻も何度もコーネリアス様
の婚儀が流れるのも好まないでしょう。
王妃教育は結婚後も継続して行われることに違いありません。
リオネル様は何を考えられておられるのでしょう?
いえ、リオネル様は何を企まれておられるのでしょう?
コーネリアス様の廃嫡でしょうか?
それとも、妹との婚儀の阻止でしょうか?
64
知らず知らずのうちに乾いた喉を潤そうと飲み込んだ唾の音が耳に
響きます。
﹁デボラ?﹂
テラスの入り口からする抑え気味の父の声に私の身体から力が抜け
ました。
﹁お父様﹂
﹁おお、デボラ。そこにいたのか﹂
私に歩み寄る父。
﹁マールボロ侯爵。リオネル・ユーグ・マチェドニアです﹂
デボラ
﹁?! マチェドニア卿ではありませんか。上の娘に付いていて下
さり、ありがとうございます。この大変な時期にこれ以上の醜聞は
困りものですからな﹂
リオネル様の存在に気付いていなかったのでしょう。
父の声には最初、驚きが満ちていました。
﹁そうですね。ただでさえ、周りが煩いだけに今はただ時が過ぎ去
ってくれるのを待つのみです﹂
気遣うようなリオネル様の声音に、父もその真意を汲みました。
﹁そうですな。静かになってくれれば良いのですが、こればかりは
65
いかん
がた
如何ともし難いもの︱︱デボラ?﹂
﹁はい、お父様﹂
父がつかまりやすいように腕を作ってくれたので、私はそれに手を
置きます。
﹁マチェドニア卿。娘のことでは重ね重ね感謝致します。この御礼
はまた別の折りに。では﹂
リオネル様に借りを作ってしまったとは!
父の言葉を聞くまで忘れていました。
申し訳なくて父の顔を見上げる私に、父は小さく首を横に振って、
何でもないと伝えてくれます。
コーネリアス様に婚約を破棄され、マールボロ侯爵家の名に泥を塗
っただけでなく、リオネル様に借りまで作ってしまうとは・・・私
は何たる役立たずなんでしょう。
﹁では、またお会いしましょう。マールボロ侯爵、レディ・デボラ﹂
意気消沈する私を連れ、父は母のもとに戻りました。
そして私たちは妹を残して、王宮夜会を後にしました。
66
サリー
サリーは帰宅したデボラの様子を不審に思った。
不用意な言葉をかけないように留意して、デボラの寝支度を整える。
デボラの髪にブラシをかけている間、様子を窺った彼女はその虚ろ
な目に気付いたがそっとしておくことにした。
ベッドに上がったデボラに上掛けを掛けると、彼女は重大な何かを
受け入れるかのような厳かな面持ちで目を閉じる。
夜会に参加していないサリーには今夜の事情まではわからない。
夜会でデボラに何があったかのか、それを知ることができたのなら
この時のサリーなら何物でも差し出しただろう。
いや、何を差し出してもは言い過ぎだが。
それに語ってくれる相手もいない。
すべてはデボラの心の中。
サリーは眉を寄せてデボラの静謐に満ちた寝顔を眺めていたが、瞬
きを一つして溜め息を吐き、この国の言葉ではない言葉で呟く。
﹃良き夢を︱︱﹄
言葉が空気に溶け込んでいくのを見届けてからサリーは部屋を後に
67
した。
68
︻閑話︼小さな王妃のお茶会 side???
高位貴族の子どもたちを呼んでの王妃主催で行われるお茶会では、
子どもたちはお近付きになる為に王太子に近付ける者と近付くこと
が出来ずに遠くから眺めている者に分かれる。大きくなったら後者
の女の子は壁の花と呼ばれるようになる。
そして彼女は後者だった。
色とりどりなドレスに身を包んだ女の子たちの中で、癖のない白金
の髪を背中に流し、同じ色の髪の妹と思わしき少女の動向を見守っ
ている彼女は、一人だけ景色から切り取られているように見えた。
ああ、彼女だ。
私には一目でわかった。
彼女が私の全てであると。
彼女の妹は同じように王太子に近付けない子どもたちに次々と声を
かけていき、王太子抜きで勝手にお茶会を楽しみ始めた。
まるで主催者のように振る舞うその様は小さな王妃だった。
親に連れて来られてはいるが王太子に近付けずに遠巻きにしていた
子どもたちは、急遽開かれた小さな王妃とその姉のお茶会にお呼ば
れしてしまったのだ。
彼女は妹たちが大人たちに見咎められないよう彼女自身の小さな身
体で大人たちの視界を遮るように立ち、
69
﹁まあ、なんて美味しそうなお菓子なの?! オーガスタ、見て!﹂
と、お茶菓子に手を伸ばして、口に放り込んだ。
その行為は無作法だった。
主催する王妃の開会の言葉も待たず、王太子への挨拶もまだ全員は
終わっていない。
﹁あまりにも放っておいたから、小さなお客様が別のお茶会に参加
してしまったわ﹂
と王妃は笑って許したが、眉を顰める者がいなかったわけではない。
ここに来ているからには、もう、子どものしたことで済まされるこ
とでは許されないのだから。
私の気持ちは決まっていた。
だから、父に自分の望みを告げた。
侯爵令嬢デボラが王太子の婚約者になったのは数日後の事だった。
70
一夜明けて sideデボラ
ああ、良い匂い。
紅茶?
酸味と爽やかな苦味の匂いにつられて目を覚ますと、ベッド脇にテ
ィーワゴンとサリーの姿がありました。
﹁サリー?﹂
麗しい顔をした金髪の侍女は私の呼びかけに微笑みを深めます。思
わず私の心臓は跳ねました。
慈愛に満ちたサリーの笑顔は寝起きの私の心臓には優しくないもの
のようです。
美しいのも考えものですね。
同性から見てもうっかり見惚れてしまうサリーの笑顔はどうにかな
らないものでしょうか?
そんな私の心の中を知らないサリーは眩しい笑顔のまま、朝の挨拶
をしてきました。
﹁おはようございます、お嬢様。本日は暑くもなく、寒くもなく、
素晴らしいお散歩日和でございますよ﹂
一瞬、窓の方を見たサリーが少し目を細めて険しい表情をしました。
﹁そう?﹂
私は手近な窓に目を遣りました。窓からはカーテン越しに昼に近い
強い日差しが差し込んでいました。
71
王都での生活では夜の社交生活に適応する為に起床はお昼近くにな
ってしまいます。領地では朝に起きるものですが、日付が変わって
も続く催しで夜通し起きていることもある王都の生活は自然とリズ
ムが違うのです。
兄が王都を嫌うのもこの生活リズムが理由の一つです。
カーテンを開けるサリーの身体で外の様子は窺えません。
部屋の住人が目を覚ますまでカーテンを閉めたままにしておくこと
は普通のことです。そして、サリーが私の起床でカーテンを開ける
ことはおかしなことではありません。
しかし、順序が違います。モーニングティーを淹れ、それをベッド
で部屋の住人が頂いている間にカーテンを開けるものです。もしく
は、モーニングティーと着替えが終わってからするか。
私はサリーが窓の方を見たサリーが浮かべたあの表情を見ています。
窓の外、もしかして庭に私には見せたくない光景でも広がっている
のでしょうか?
たとえば妹とコーネリアス様が庭にいる、など。
・
あり得ないことではありません。二人は婚約しているのですから。
私も婚約していた時は三人で庭を眺めていたものです。
私は妹と共にいることが当たり前でした。いつも一緒でした。
怖いもの知らずな妹が色々な人に話しかけていくのを眺めているの
が私は好きでした。そんな妹が困ったことにならないように姉とし
て見守っていることは、引っ込み思案な私にはとても楽しいことだ
ったのです。
それが、いつからか苦しいものになりました。
妹が楽しそうにしていれば私も幸せだったのに。
それは私の幸せではなくなりました。
私と妹の世界にコーネリアス様を加えた三人の世界が私を除いた二
人の世界になってしまったばかりに。
72
私と妹の世界では私はコーネリアス様を受け入れていました。しか
し、あの子にとってコーネリアス様が自分を構ってくれるようにな
っただけとしか認識されていないにもかかわらず、コーネリアス様
は妹に熱を上げ、妹だけを自分の世界に入れ、私を受け入れてはく
れませんでした。
私にはそれが耐えられませんでした。
いつの間にか私はコーネリアス様を自分の所有物だと考えるように
なっていたのでしょう。それともあの方に好意以上のものを持って
いたのかもしれません。
どちらにしろ、私はコーネリアス様の無意識の拒絶に傷付くように
なっていました。コーネリアス様にとって私はマールボロ侯爵家の
後ろ盾を得るに道具にすぎないというのに、思い上がっていたので
す。
私が窓からティーワゴンに視線を向けました。
薄くて軽い繊細なデザインのティーセットも良いですが、サリーは
手でしっかりと持て、ほどほどな重さがにあるものを用意したよう
です。白百合をイメージしたような白一色の六角形のティーカップ
やシュガーポットやミルクポットとティーポット。それに柄に百合
の意匠が付いたティースプーンを始めとした小物。
﹁それなら外に出てみようかしら﹂
妹とコーネリアス様が庭にいるなら、それを見せないようにサリー
が外出を促すのもわかります。
ただ、買い物ならわかりますが、何故、散歩なのかはわかりません。
散歩すると言えば、私が避けたい︵サリーが顔を合わせるべきでは
ないと考える︶相手のいる我が家の庭か、王都内の公園。王都を王
侯貴族や彼らを相手に商売をする地域と庶民の生活する地域に分け
るように流れているエヴァンス川の畔、それか王都の側にある森く
73
らいしかありません。
﹁そうです。こんな日に引き篭もっているのはよくありません﹂
窓の側を離れたサリーがティーワゴンに近付きながら力強く言いま
した。
自分が提案したことだけにサリーは非常に喜んでいるようです。
サリーには何やら思惑があるようですが・・・。青い瞳を宝石のよ
うに煌めかせて、輝くような笑顔を浮かべているサリーを見ても何
もわかりません。
私の為だとはわかっていますが、どのようなことを考えているのか
気になります。
74
一夜明けて sideデボラ︵前書き︶
紅茶の淹れ方はフィクションです。
75
一夜明けて sideデボラ
私がサリーの思惑を推し量っている間、サリーは慣れた手付きでお
茶の用意をしていました。
ティーカップから零れないのが不思議なくらい注いだお湯を一度は
別の容器に捨て、ティーカップの縁をリネンで二周拭うと今度はテ
ィーポットから紅茶を注ぎます。次は3分の1だけ。
これは他家で行われたお茶会で気付いたことですが、サリーがお茶
を用意するのは時間がかかります。お茶を用意する侍女というのは
非常に手際の良い者が選ばれます。とは言っても、サリーや当家の
侍女の手際が悪いわけではありません。
・
他家の侍女とサリーとではお茶を用意する方法が異なっているので
す。
・
・ ・
たかがお茶の用意とは言え、サリー以外にこのような方法をする貴
族の家の侍女は見たことがありません。それはコーネリアス様とお
茶を楽しむ時に王宮の侍女がしてくれる方法です。
そう言えば、レディ・ウィルミナの仰っていた王家から派遣された
侍女とはサリーのことかもしれません。
あの時は誰なのかわかりませんでしたが、こうしてお茶を用意して
メイド
いるところを見ているとそれがあながち間違っていないような気が
します。
レディス
サリーは高位貴族の女主人付侍女だと聞いたことがありました。そ
れ故に様々なことを知っている、と。
王妃教育を受けている時も、私は実の姉のように慕っていたサリー
から注意を受けた点やサリーのすることに慣れていたおかげで何度
も助かりました。
よく考えてみると、サリーは王宮で王族付きの侍女をしていたのか
もしれません。
76
﹁サリーは王家から遣わされてきたの?﹂
一瞬、紅茶の入ったポットを手にしていたサリーが身を震わせ、手
元が狂いましたが紅茶は零れることもなく、ティーカップに注がれ
ます。
﹁いいえ﹂
何事もなかったかのようにサリーはティーカップの紅茶を口に含み、
ティーカップの残った紅茶を先程のお湯のように捨てます。
サリーがしているのは毒味です。ティーカップの縁に付けられた毒
すら口に含んで確認しているのです。
﹁でも、そのお茶の用意の仕方は王宮のものだわ﹂
﹁お嬢様は王族に嫁ぐ身。王族と同じ待遇が相応しいものです。サ
リーは昔、高貴なご婦人に仕えていた経験がありますので、それに
従ったまででございます﹂
﹁コーネリアス様に嫁ぐのは私ではないわ。オーガスタよ﹂
﹁そうでございますね﹂
別のリネンでティーカップの縁を拭い、サリーはもう一度、ティー
ポットから紅茶を注ぎます。
﹁それなら、私にこのような手間のかかる方法を使わなくてもいい
のよ?﹂
77
﹁お嬢様の身を案じるサリーのしたいようにさせて下さいませ。い
くら王太子様の婚約者ではなくなったとはいえ、お嬢様はマールボ
ロ侯爵令嬢でございます。念には念を入れておかなければ﹂
﹁私の身を害しても何もならないと思うけど・・・﹂
言い淀む私にサリーは再び注いだ紅茶の入ったティーカップとソー
サーを差し出しました。
﹁お言葉ですが、お嬢様。お嬢様は麗しいお姿をしていらっしゃい
ます。王太子様という婚約者がいなくなった今では、マールボロ侯
爵家の後ろ盾も得られると注目を集めている存在なのです。若い独
身の紳士たちはそんなお嬢様を放っておく筈がございません﹂
サリーは私付きの侍女なせいか、私のことをいつも持ち上げて励ま
してくれます。身内贔屓なその発言の半分くらいは真に受けてはい
けません。
現に私はコーネリアス様に捨てられていますから。あの方を繋ぎ留
めておくほどの魅力はなかったのです。
紅茶の良い香りに寝起きの頭がしっかりしてきます。
﹁そうは言っても、サリー。私に声をかけてくるのは愛人のお誘い
ばかりよ?﹂
一口で口の中に広がる馥郁たる香り。
冬の寒い朝など、温かなベッドの中で楽しむこの一時は最高の贅沢
です。
﹁旦那様の目論見が功を奏しているからです。放蕩者共は遊びだか
らと気軽に声をかけてきますが、結婚を考える殿方は虐めをするよ
78
うな淑女を好みません。いくら絶世の美貌を誇ろうが、世界一の持
参金があろうが、猛獣の檻の中で暮らしたいと考えるような者はお
りませんから﹂
父は我が家の面子を保つ為だと申しておりましたが、このようなこ
とを想定していらしたとは思いもよりませんでした。
妹虐めは嫌ですが、放蕩者やら社交界と縁を切れるなら続けたい気
がしてきます。
早く、社交界から姿を消して、穏やかな日々を過ごしたいものです。
﹁その言い方だと虐めをする淑女は猛獣だということになるわ﹂
﹁その通りです。優しいお嬢様はご存知ないでしょうが、少しでも
良い結婚相手を探している猛獣は何をしてくるかわかりません﹂
﹁私に何かって、そんなことある筈もないわ。サリーは私のことを
過大評価し過ぎよ﹂
王太子に捨てられた婚約者が落ち目でないとすれば、何を落ち目と
いうのでしょうか?
そんな落ち目の人物に危害を加えようと考える者などいないという
のに。
﹁お嬢様はご自分のことがわかってらっしゃらないから、そう思わ
れるのですよ。お嬢様やオーガスタ様のようなご令嬢は奇特な性格
だと言われるほど稀少なのですから﹂
﹁そうかしら?﹂
﹁はい。高位貴族のご令嬢であればその身分を振りかざす者もおり
79
ますし、下位貴族のご令嬢は実家への援助が必要となりますから、
高位貴族は勿論、爵位持ちや裕福な人物に嫁ごうと母親共々、高位
貴族のご令嬢以上よりもあの手この手を使って必死です。泊まりが
けのパーティーなどでは狙っていた殿方と令嬢を一室に閉じ込めて
一夜を明けさせ、無理矢理結婚を迫ることなどよくあることですか
ら。その他にも多数の目撃者の前で口付けや抱擁をしたりして、紳
士として責任をとらせる方法はいくらでもあります﹂
貴族の結婚というのは家同士の繋がりですから、家同士が対等に取
引できるのなら本人の意志など構うことはありません。
サリーが言うような場合、双方の家に利益のあるものではなく、ご
令嬢の魅力で家同士の繋がりができるというものなのでしょう。
無理矢理結婚を迫るやら、責任をとらせるやら、確かに淑女のやる
こととは思えない例がサリーの口から出てきたのは気のせいでしょ
うか?
﹁・・・。そんな、はしたない真似を本当にするご令嬢がいるの?﹂
﹁お嬢様にはご理解できないかもしれませんが、そのような方法を
とられるご令嬢はよくおられます﹂
﹁・・・﹂
信じられません。
信じられないあまり、頭を左右に振ってしまいます。
王太子の婚約者という立場であった為に私には無縁の世界だったの
でしょうが、それでも信じられないことです。
お茶会や夜会で顔を合わせたことのあるご令嬢やご婦人たちがそん
なことをしているとは、私にはとても信じられません。
80
ばち
呆れて物も言えない状態の私にサリーは説明を続けます。
いち
﹁ご令嬢はふしだらな評判を覚悟した一か八かの賭けをし、殿方は
ご令嬢の名誉を守って紳士たる高潔な態度をとらされるのです。こ
こで殿方が拒否すれば、殿方も放蕩者や未婚令嬢を近付けてはなら
ない人物という評判を得ます。そうなると、いざ結婚したいご令嬢
が出てきても、ご令嬢の父君に求婚の許しを得られない可能性が出
てきます﹂
﹁それではそのご令嬢と結婚しない限り、殿方もご令嬢も悪評の為
に結婚もままならなくなるのね﹂
﹁そうです。殿方の場合は断ると紳士らしくないと言われ、結婚に
は不利になりますから、放蕩者やらそれなりの年齢になっている者
以外はそのまま結婚する羽目に陥ります。ですから、これは結婚の
罠と呼ばれております。お嬢様の場合、マールボロ侯爵家の権力や
持参金、お嬢様の美貌を目当てに結婚に追い込もうとする者が出て
くることが憂慮されます﹂
﹁先程の話とは逆ですわね﹂
﹁はい。お嬢様にはそれだけの価値が有るのです。そして、そのよ
うなことを狙っているのは没落した家だけでなく、ご令嬢たちが狙
っている殿方も含まれます﹂
﹁まさか。どの令嬢でも選べる人物がどうして私のような不良物件
を欲しがるのかしら? 悪くすればコーネリアス様のご勘気に触れ
るようなことを﹂
コーネリアス様に捨てられた私のような者を。
81
人見知りをし、社交には不向きな引っ込み思案な私などを。
それどころか、あの子とコーネリアス様の間にあった邪魔者として
忌み嫌われているかもしれない私を。
﹁ですから、お嬢様は価値が有るのです。生きている人とは思えぬ
妖麗なお姿に奥ゆかしい性格、王太子様との婚約は破棄されても次
期王太子妃の姉で、ご実家は王太子妃のご実家でもあり、飛ぶ鳥落
とす勢いのある家なのですから。お嬢様は今の結婚市場で一番有望
な令嬢なのです﹂
なんということでしょう。このように恐ろしい結婚市場で私が狙わ
れているとは。
そして、結婚の罠。
これがサリーの勘違いであれば良いのですが・・・。
82
一夜明けて sideデボラ
﹁それは大袈裟すぎるわ、サリー﹂
私は苦笑してみせました。
サリーは心外だとばかりにその麗しい顔を顰め、若干、胸を張って
みせます。豊かな胸が強調されて、同性であるにもかかわらず、私
の目はそちらに引きつけられました。
プラチナ
﹁大袈裟なのではございません。お嬢様はご自分をご存知ないので
エメラルド
す。月の光を紡いだかのような白金の髪。水面に写った豊かな森の
ような深緑の瞳。森の奥深くにある泉の女神か月の妖精かと思う顔
立ち。お嬢様がただの人間として息をしていることは今でも信じら
れません。いつか神か精霊の世界に戻ってしまわれるような、そん
な風情すらあって、サリーは気が気ではございません﹂
サリーの言葉からすると人間には見えていないようです。
女神や妖精と言われても困りますし、その上、別の世界に姿を消す
ことなどできません。
私はただの人間に過ぎません。
社交では過剰なまでに互いに褒め合うのが礼儀ですから、女神だの
精霊だの妖精だの姫といった呼称はよくあることです。しかし、サ
リーの口からそう言われるのと、お世辞だと受け流せない何かがあ
ります。
女神・・・と言われても面映ゆいばかりですし、妖精と言われても
思い当たる節もございません。 いつも思うことですがサリーの目には私はどう映っているのでしょ
うか?
83
お伽話に出てくる魔法使いのように、魔法でも使えると思っている
のでしょうか?
青。
碧くて蒼い、色。
困っている私の目に青いサファイヤが飛び込んできました。どうや
らサリーが上から私の顔を覗き込んでいたようです。
﹁お嬢様はサリーが申し上げることが信じられないのでございます
か?﹂
サリーの目の中心は藍色で、それを青いコーンフラワーに似た明る
い青色が縁取っているものでした。
その蒼さに魂が吸い込まれてしまいそうな美しい色です。
私は意識を保つだけでも大変でした。
その目を見ていると、サリーのいうことが全て本当のように思えて
きます。
﹁そんなつもりはないわ。でも、私はそんな大層な人物ではないも
の・・・﹂
ブルーアイズ
なんとかそれだけを口から絞り出します。
それでも、サリーの碧眼から目が離せませんでした。
﹁そのようなことをご自覚されているお嬢様はお嬢様ではございま
せん。ご自覚なさっておられないから、お嬢様なのです﹂
眉を顰めたまま、僅かに目を伏せたサリーは私を痛ましげに見まし
た。
84
私はサリーの言うように、自分の姿を正当に評価できていないので
しょうか?
私の容姿はサリーの言うようなものでしょうか?
﹁そんなことを言っても、サリー・・・﹂
﹁出すぎたことを申し上げたこと、お許し下さい。サリーはお嬢様
にお嬢様自身をご理解頂きたいのです。お嬢様が如何に優れている
かを﹂
またもや再開されるサリーの過剰なまでの持ち上げに私は居た堪れ
なくなって、手にしていたティーカップに口を付けることで返事を
しませんでした。
﹁・・・﹂
小さく溜め息が吐かれる音がしました。どうやら、私はサリーに呆
れられてしまったようです。
﹁今日のお嬢様はいつにも増して、ご自身のことを過小評価なさっ
ておいでで、サリーは歯痒い思いをしております﹂
﹁サリー・・・﹂
シーツの上から視線を上げると、悔しげに顔を歪めているサリーが
いました。
﹁あの方がすべてではございません。お嬢様にはお嬢様の魅力がご
ざいます。お嬢様はマジパンがお好きでございますよね?﹂
85
マジパンは軽い食感とジャムを挟んだケーキまでは甘くはない甘み
が食べるのを止められないほど美味しいお菓子です。嬉しいことに
このマジパンはお茶菓子の定番で、お茶会だけでなく普段のお茶の
時間でも様々な形や色で作って目でも楽しませて貰っています。
我が家の菓子職人は毎日のように趣向を凝らしたマジパンを作って
くれて、私と妹を楽しませてくれたものです。
それも今はできません。
私は妹を虐めなければいけない身。妹とお茶の時間を楽しむことな
ど叶いません。
それに屋敷で虐めている妹と顔を合わせるほどの神経を私は持って
おりません。
父に命じられた妹虐めができなくなってします。
侯爵家の令嬢として、我が家が侮られないようにしなければいけな
のです。父が侯爵として我がマールボロ家を守るように、私もマー
ルボロ家を守らなければなりません。
大切な妹を傷付けても・・・。
﹁ええ。つい、食べ過ぎてサリーに怒られてしまうくらい﹂
婚約破棄されるまではそのことで何度もサリーに怒られました。
それくらい、私はマジパンが好きでした。
妹を傷付けなければいけない私は、マジパンを食べないことにしま
した。
マジパンを食べると、妹を虐めていなかった頃を思い出してしまう
ので。
﹁お嬢様がマジパンを食べ過ぎてしまうように、ヌガーを食べ過ぎ
てしまう方もおります。それと同じことでございます。自分が好き
86
な物だからといって、十人が十人とも、同じものを好むとは限りま
せん。また、食べ過ぎれば好きな物も飽きて嫌になるというもの。
それに気付かず、起こされた短慮の被害者がお嬢様なのでございま
す﹂
ヌガーは妹の大好な物です。
子どもの頃から妹はヌガーは時間をかけて少しずつ食べていました。
そうするほうが美味しいと言っていたことすら思い出せます。
私はヌガーをいつも歯に引っ付けてしまい、食べるのが苦手でした。
サリーもそれを知っていたから引き合いに出したのでしょう。
それとなくコーネリアス様のことを当てこすりしていますが・・・。
﹁サリー・・・。ありがとう。慰めてくれて﹂
サリーは納得いかないとばかりに憮然とした表情をしました。
﹁お慰めしているのではございません。事実を申し上げただけでご
ざいます﹂
﹁いいえ、慰めの言葉よ。事実ではないわ。事実は私が如何に魅力
も才能も能力もないかということだけ﹂
私はティーカップの中の紅茶に映る自分の顔を見つめました。
サリーが言うことが事実なら、聡明なコーネリアス様が私を妃に相
応しくないとされない筈。
王妃教育に時間のかかりすぎる私では駄目なのでしょう。
社交が苦手な私では無理なのでしょう。
私は王太子妃には相応しくない娘。
87
決して、︱︱ではない。
誰かが私の両肩を掴みます。
その手をぼんやりと辿って行くとサリーがいました。
どうして、サリーが泣きそうな顔をしているの?
おとし
﹁お嬢様! ︱︱今までは黙っておりましたが、お嬢様は以前のお
嬢様ではございません。今のお嬢様はご自分を貶め、すべてを諦観
なさっておいでです。あの方がオーガスタ様を選ぼうが選ぶまいが、
サリーの知ったことではございません。お嬢様を傷付けたことに変
わりはないではありませんか!﹂
サリーを宥めようとしました。しかし、口から出てくるのは別の言
葉。
﹁サリー。そんなことを口にしてはいけないわ﹂
今、サリーが私の肩を掴んでいるように、理由もなく主家の人間の
身体に触れるのはいけないことです。
今、サリーが主家の人間に関してぞんざいな発言をしたこともいけ
ないことです。
今、サリーが王太子を、王族を批判する言葉もいけないことです。
﹁何故でございますか? お嬢様がこのようにご自身を卑下なさる
ようになってしまったのに、何故、あの方の横暴を批難してはいけ
ないのでしょうか? あの方が諸悪の根源でございます! 元凶で
88
あるのに、何故、お嬢様がそこまで庇われるのですか?!﹂
サリーの言葉が私の耳から耳へと通り過ぎ、心を滑っていく。
﹁それでもよ。全部、私が悪いの。捨てられてしまうような価値の
無い私が悪いのよ・・・﹂
﹁何を仰られるのですか! お嬢様には何の落ち度もございません
! ︱︱あの愚かな者が悪いのです!﹂
柳眉を釣り上げるサリーを私は窘めます。
下の者を窘めるのも主人の務め。
﹁サリー、それ以上は︱︱﹂
﹁お嬢様はあの方を買いかぶり過ぎでございます。あの方の言動に
傷付く必要はございません。そのような価値は、あの方こそ持って
おられないのですから。心の傷を癒やす魔法があったなら、お嬢様
の苦しみをこのように長引かせたりせずにすむのに・・・﹂
サリーに揺さぶられながら、私はその青い宝石のような目と目を合
わせる。
﹁サリー。魔法が使える人間はお伽話にしかいないわ﹂
サリーは一瞬、目を見開くと、私の肩から手を離して目を伏せまし
た。
﹁・・・そうでございましたね。魔法を使える人間はお伽話の中だ
け。︱︱ご無礼をお許し下さい﹂
89
﹁サリー・・・﹂
私にはサリーが何を言いたいのかわかりません。
今、何故、お伽話にしかいない魔法を使う人間の話をするのか、私
には理解できません。
紅茶は手の中ですっかり冷めてしまいました。
サリーに言えば淹れなおしてくれるでしょう。
﹁・・・﹂
しかし、私は冷めた紅茶を飲み干しました。
この冷めた紅茶は私と同じもの。
王太子にとって価値が無いから要らないと捨てられた私と同じよう
に冷めて価値の失くなった紅茶。
目を閉じたサリーも私のような価値のない人間を見たくはないので
しょう。
﹁サリー。おかわりを﹂
私はサリーの顔を見ずにティーカップを差し出しました。
﹁かしこまりました。朝から不快なお話でお耳を汚してしまい、申
し訳ございません﹂
何かを堪えたような声でサリーはそう言うと、私の手の中からティ
ーカップの重みは消えました・・・。
90
一夜明けて sideコーネリアス
マールボロ侯爵家の庭園。王宮よりは比べ物にならないくらい狭い
もっと
タウンハウス
マナーハウス
が、侯爵家の庭園だけに他の貴族の庭園とは格別のものがある。
尤も、ここは都の別宅であって、領地にある本宅とは大きさは比べ
物にならないほど狭い。
この風景をかつて彼女と共に眺めたことがある。
オーガスタは全身で喜びを表しながら笑うが、彼女は控えめに微笑
むだけ。
髪の色も眼の色も同じで、芸術の神か自然の神が描いたような顔ま
でよく似ている。笑うと花が咲くように見えるところまで同じだ。
花は違うが。
それなのに、私の傍に居るのはオーガスタだけだ。彼女はここには
いない。
オーガスタと一緒にいるのは心地良い。全面的に私を信頼してくれ
ているからだろうか?
いつからそう感じるようになったのかはわからない。それまでは彼
女と私の世界に割り込む邪魔者だった。
王太子である私には幼い頃から義務がある。長ずるにつれて増えて
いく義務の合間をぬって、彼女と過ごす一時にオーガスタは必ずい
た。私が彼女と二人きりで過ごすべき時間をオーガスタは奪った。
妹を溺愛している彼女はいつもオーガスタを連れていて、時々、私
は彼女とオーガスタの世界の邪魔者ではないかと思うくらいだった。
たしな
私は彼女と話したいのに、いつも話すのはオーガスタだった。オー
ガスタは私の倍は話していて、彼女は時折オーガスタを窘めながら
微笑んで見ていた。
91
ファースト
オーガスタが社交界デビューをする時、﹁妹を頼みます﹂と彼女は
言ってきた。
その後、ダンスのある催しではいつも最初のダンスの時に彼女は言
う、﹁妹を頼みます﹂と。
オーガスタと一緒にいるのは心地良い。オーガスタはいつも私を優
先する。彼女のように私よりも姉妹を優先させたりはしない。
責任が重くなるにつれ、私はオーガスタの明るさに救われるように
なった。
彼女はオーガスタのように社交的ではなく、夜会ではよく虐められ
てどうすればいいのかわからずに途方に暮れていた。オーガスタは
彼女に1年遅れて夜会に出るようになると、母鳥が雛を守るように
彼女を守った。
それを見て私は彼女に王太子妃ひいては王妃は無理なのではないか
と思うようになっていった。
美しいだけなら彼女以外にも美しい令嬢がいる。従姉のレディ・ウ
ィルミナのように。
この国の貴婦人の頂点に立ち、他国との外交にも携われる人物。そ
ねた
ひが
れが王妃に求められる資質。
女性特有の妬みや僻みを軽くあしらえなければいけない。
それができない彼女には王妃は無理だ。
苦手なものを強要させれば、彼女はいつか壊れてしまうことだろう。
だから私は︱︱オーガスタを正妃にして、彼女を側妃にすることに
した。
その判断に誤りはない。
ただ一つ誤算があるとすれば、あんなに仲の良かったオーガスタを
彼女が虐めるようになってしまったことだけ。
92
﹁コーネリアス様﹂
呼ばれてオーガスタを見れば、不安そうな表情をしていた。
彼女もそうだったが、私はオーガスタにもそのような表情や苦しげ
な表情をさせたくはない。
昨夜は彼女で、今朝はオーガスタか。
私の思いとは裏腹に二人に不本意な表情をさせてばかりいる。
﹁どうかしたのか、オーガスタ﹂
﹁コーネリアス様。︱︱コーネリアス様は私をデボラお姉様の代わ
りに望んだのではありませんよね?﹂
﹁勿論、私はお前を望んで婚約をしたのだ。デボラの身代わりだと
は考えたことはない﹂
﹁本当でしょうか? 本当に私はデボラお姉様の身代わりではない
のでしょうか? 私自身を望んで頂けているのでしょうか?﹂
﹁私の言葉を疑うのか、オーガスタ?﹂
﹁申し訳ございません。デボラお姉様は私を虐めるか無視なさるよ
うになるし、私はどうしたらいいのかわからないのです。私がお縋
りできるのはコーネリアス様だけです。そのコーネリアス様まで私
のことをおざなりにされているかと思うと耐えられなくて・・・﹂
侯爵夫妻は婚約を破棄してから彼女につきっきりだ。
オーガスタが心細く思うのも仕方がない。
そんな風に思わせてしまうなど、私はなんと罪深いことをしてしま
ったのだろう。
93
﹁それはすまなかった。オーガスタ、私はお前を愛している。それ
に偽りはない﹂
﹁デボラお姉様の身代わりではありませんよね?﹂
﹁デボラとは婚約を破棄したのだ。身代わりである筈がないだろう
?﹂
﹁私だけを愛して下さっているのですね?﹂
﹁ああ。愛している、オーガスタ﹂
目の端で辻馬車に乗り込む彼女の姿が見える。
侯爵家の馬車ではなく、辻馬車を呼んでまで使う理由はなんだろう?
不審に思いながら、私はオーガスタを抱き締める。
やま
ここは人目も望める侯爵家の庭園だ。婚約者同士なのだから、何ら
疚しいことはない。
94
外出 sideデボラ
外出の支度をして玄関ホールに着きましたが、お母様の姿はありま
せんでした。
婚約が破棄されてからはどこに行くのでもいつも母が付き添ってく
れていたので、その母の姿がないことが私の気持ちを掻き乱します。
﹁サリー。お母様はご一緒ではないの?﹂
私は後ろから付いてきているサリーに振り返って尋ねます。
﹁はい。本日はお嬢様お一人でございます﹂
﹁・・・っ!﹂
ショックのあまり、まるで頭を叩かれたような気がしました。
何故、お母様はご一緒して下さらないの?!
口から母を責めるその言葉が出ないようにするのが精一杯でした。
母に見捨てられたような、そんな気すらしてきます。
しかし、それは私の甘え。
母には母の、侯爵夫人としての仕事があります。
その仕事を今まで調整して、哀れな私に付き合ってくれていたので
しょう。
95
とも
﹁お嬢様お一人では心細いと思いますが、本日の供は私が務めます
のでご安心下さい﹂
とも
﹁でも、サリー。外出するというのに供はあなた一人で良かったか
しら? 護衛か従僕でも必要だったんじゃない?﹂
モーニングティー
男手は必要だと思います。
朝のお茶の時間に聞いた結婚市場や結婚の罠が本当なら、この屋敷
を出ることは非常に危険な気がします。
仮に本当に私に結婚市場で人気があるなら、両親の目の届かない外
出中に何かある筈です。
﹁ご心配いりません。命に替えても私がお守り致します。これでも
私の父は騎士。剣の心得はございます﹂
そう言えば、サリーの素性を聞いたことはありません。王都にある
侯爵邸で雇われたのですから、それなりの家の出ではあることはわ
かります。
これが領地で現地採用されたのなら、身分は下がってもその周辺の
出であることはわかります。
サリー自身が語らないせいか、侍女としてはかなり特殊な知識まで
有していたのにも気付かず、王宮で働いていたことすらレディ・ウ
ィルミナに指摘されるまで思い付きもしませんでした。
それにしても、サリーが剣を使えるとは思いませんでした。
﹁サリーが剣を?﹂
サリーは自信に溢れた顔で頷きます。
96
・
・・
・・
﹁我が家は女系で、父に息子らしいことをしてあげられる者がおり
ません。ですから、私と兄弟たちは父に剣を習ったのです﹂
﹁女だてらにサリーたちが剣を習ったのね﹂
﹁はい。父はとても喜んでくれました﹂
﹁そうでしょうね。ご子息がいないのは騎士であるお父様にとって
寂しいことでしょうし。でも、サリーのような親思いの娘たちに恵
まれて、お父様もお幸せね﹂
﹁そうでございますか?﹂
私のような不出来な娘とは大違い。
身分だけで王太子の婚約者に選ばれた娘。
侯爵である父の身分がなければ選ばれる筈もない娘。
折角、王太子の婚約者に選ばれても、当の王太子の心を繋ぎ留めて
おくことすらできない娘。
サリーなら、美しくて機転の効くサリーなら王太子の心を繋ぎ留め
ておくことはできたでしょう。
﹁ええ。︱︱サリーのように優しくて、美しくて、優秀な娘がいる
のですもの﹂
それを聞いたサリーは何とも言えない複雑な表情をしました。
﹁・・・そうですね﹂
サリーたち姉妹が父親にとって自慢の娘で私と正反対だということ
97
に私は苦い思いに沈み、サリーのその表情と声音の意味までは考え
ませんでした。
﹁私とは大違いの自慢の娘たちでしょうから・・・﹂
口調まで自嘲気味になってしまいました。
﹁お嬢様。そのような弱気にならないで下さい。お嬢様はどこに出
しても恥ずかしくない素晴らしいご婦人です。旦那様も奥様も、若
様やオーガスタ様もそう仰る筈です﹂
私に注がれるサリーの温かな眼差しが手に触れることができるもの
なら、私は触りたいと思いました。
それはとても気持ち良いものでしょう。
手放すのが惜しくなるほど心地良い手触りがする筈です。
できれば、それを宝石箱の中にでも仕舞っておいて、気鬱になった
時に取り出したいくらいです。
﹁サリー・・・﹂
﹁ささ。出かけましょう。出かければ気分も変わります﹂
柔らかく笑いかけてくれるサリーに私は頷きました。
﹁そうね、サリー﹂
今は気分転換の外出をするところなのですから。
決して、見たくないものから逃げる為に外出するのではありません。
ですが、屋敷の外に停まっていたのは我が家の馬車ではありません
98
でした。
貴族の持ち馬車ですらありません。
街中によく走っている辻馬車です。
我が家には幾つもの馬車があるのに何故、これが我が家に?
貴族によっては馬車を帰してしまって帰れなくなった場合や馬車が
足りないなどの理由で使うこともありますが、辻馬車は厩舎を持た
ない上流∼中流階級が使うことが多い乗り物です。
﹁これは・・・?﹂
﹁お嬢様の安全面を考えまして、本日は辻馬車で向かいます。馬車
だけお借りして、御者はマールボロ家の御者が致しますのでご安心
下さいませ﹂
サリーの言葉に御者台の傍に立っている我が家の御者が帽子をとっ
て軽くお辞儀しました。
99
外出 sideデボラ︵前書き︶
短くてすみません。
100
外出 sideデボラ
﹁ここは・・・?﹂
連れて来られたのは一軒の家の前。
周りのレンガ造りの建物に埋没するような家で庭は裏にあるようで
す。
馬車の中では行き先をはぐらかされ、教えてもらえませんでした。
﹁ここはどこなの、サリー?﹂
そこは慰問で訪れる孤児院のある地域とは空気は違いますが、我が
マールボロ家のような貴族の邸宅が多く立ち並ぶ地域でもありませ
ん。庶民的ではなく、王侯貴族を相手に商売をする地域や図書館、
こちら
王都の中心に広がる公園の付近のような印象があります。
エヴァンス川の貴族街側、なのでしょうか?
﹁私の実家です﹂
﹁サリーの実家? どうして、ここに?﹂
﹁今、遠い親戚が他国から来ていまして、親戚の話でも聞けばお嬢
様の無聊が慰められるかと﹂
﹁他国の?!﹂
貴族と言えども、他国にはおいそれとは出かけられません。特に私
のような未婚令嬢はそんな機会もありません。
101
コンパニオン
貴婦人の話し相手でもなければ、未婚の婦人が外国に赴くことなど
大使のご令嬢でないかぎり、嫁入りの時だけです。
いかん
﹁はい。しかし、如何せん、親戚は貴族ではありませんから、お見
苦しい点もあるかと思います﹂
サリーはそう、申し訳なさそうに言いますが、他国の土産話は貴族
や平民の区別なく、人気があります。
吟遊詩人が引っ張りだこなのもそれが理由です。
﹁気にしないで、サリー。楽しみだわ﹂
﹁そう言って頂けると助かります﹂
玄関前の短い階段を上がり、サリーはドアに付いているドアノッカ
ーを叩きました。
中で足音がし、近付いてきたのが聞こえてからサリーが大声で言い
ました。
﹁私です!﹂
﹁どちら様ですか?﹂
高い女性の声が返ってきました。
﹁サリーです﹂
﹁すぐ開けるから、ちょっと待ってね﹂
サリーが答えると女性がそう言い、ドアの鍵を開ける音がしました。
102
ドアの奥から出て来たのは見事な金髪のややたれ気味の目をした美
女。年齢はサリーと同じくらいに見えます。着ているドレスは質素
な物ですが、彼女の美貌を曇らすどころか引き立てています。
そして、どことなくサリーと似ている顔立ちをしています。
サリーの姉妹でしょうか?
﹁サリー。お帰りなさい﹂
彼女は満面の意味を浮かべて、サリーに抱き付きました。
﹁只今、戻りました。母上﹂
﹁?!﹂
母上?!
母上ということはサリーの母親、ということですよね?!
姉妹ではないということですよね?!
姉妹にしか見えない、この美女がサリーの母親なんですか?!
義理の母親とかではないんですよね?!
驚きのあまり、私は何度か瞬きをしてしまいました。
目が丸くなっていたり、口を開けていたり、思ったことが声に出て
いないことを祈るしかありません。
103
外出 sideデボラ︵後書き︶
サリーの言う﹁貴族ではない﹂は貴族の常識を知らない人、という
意味です。
104
外出 sideデボラ
高位貴族らしくない姿を晒してしまったかどうかはわかりませんが、
サリーのお母様?はサリーのことしか目に入っていないようなので
ひとまず安心しました。
では、サリーはと言うと、嫌そうなのを隠そうともしない顔で苦笑
いしています。そして、私ともお母様とも視線を合わせたくないの
か、目が泳いでいます。
﹁あなたって子は、なかなか顔を見せないんだから! 久しぶりに
顔をよく見せてちょうだい﹂
サリーのお母様?は抱き締めるのをやめて、サリーの両腕をつかん
で顔を見ました。二人の身長はサリーのほうが高いようです。お母
様?は私と同じか、それよりも少し高いくらいかもしれません。
サリーは・・・珍しいことに慌てています。
悪戯の見つかった小さな子どものようにおかしいくらい挙動不審で
す。
﹁は、母上。お客様がいらっしゃるから︱︱﹂
声が引き攣っています。
こんなサリーを見るのは初めてです。
サリーはいつも優秀な侍女然としていて、慌てふためく様は見たこ
かお
とがありません。私ができることはせいぜい、わざとサリーにとっ
て嫌な思い出を口にして困った表情を引き出すくらいです。
﹁客? そういえばそう言っていたわね。お客様を連れて帰るって。
確か、今、勤めている家のお嬢様だったわよね?﹂
105
そう言いながらサリーのお母様?は顔だけ私のほうに向けました。
両手はサリーの腕から外されていません。逃がす気はないようです。
﹁そうです。︱︱お嬢様、母のサニーです﹂
諦めきった様子でサリーは自分の母親に紹介してくれました。
まさかサリーの腕をつかんだまま挨拶する筈はないと思いましたが、
先程からの様子ではそうとも言いきれません。サリーのお母様はど
うなさるのだろうかと私は興味をひかれました。
なんてことはありません。
サリーの腕を放し、私に向かって体ごと向き直ってくれました。
﹁初めてお目にかかります。私はサリーの母親で、サニー・ホーン
ビーと申します。どうぞ、よしなに﹂
サリーのお母様は貴族やそれに仕えている者特有の礼儀正しい言葉
遣いとお辞儀をしました。
サリーは父親が騎士だと言っていましたから、母親も貴族かそれに
準じる出身なのでしょう。
騎士とは一口に言っても、その出身は様々です。
上は爵位持ちやその継承者。多くは爵位のある家の次男以下が自立
の道として就くことが多いです。そして、父親が騎士︵騎士は一代
限りの身分︶なので同じく騎士になる者。下は貴族の後見人が付い
て騎士になる者。これは使用人の子どもが主人を守る為になること
が多く、それ以外には資質を見出された平民です。
我が国も昔は騎士団を抱えている家もありましたが、今は王家か国
境付近に領地を持ち、王家に絶対の忠誠を誓っている辺境伯ぐらい
106
しか騎士団は所有していません。それと言うのも、隣国からの侵略
に備えている辺境伯以外に武力を持たせておくと、いつ王家に逆ら
う気になるかわからないという理由からです。
辺境伯も辺境伯と言うだけに、伯爵位でしかありません。それ以上
の爵位を与えて、権力が集中することを避けるというもの。
しかし、辺境伯と言うのはその地方では王家と同様の権力を有する
家です。その地方の他家は辺境伯の指示に従って、軍事費や兵とし
て男手を差し出さねばなりません。
先程、申し上げたように騎士団は王家と辺境伯しか持っていないの
で、騎士の養成もその二つ以外では行われておりません。私兵とし
て騎士団は持てませんが、護衛として騎士を私兵に持つことは許さ
れています。
また、護衛騎士に訓練された私兵を持つことも許されています。
ただ、騎士団ではないので、騎士の身分を持っている者以外は私兵
の身分は平民でしかありませんし、その家が与えることのできるの
は金品だけです。有能な騎士は手柄を立てて、一代限りの身分より
上の爵位を望める王家か、そこから派遣される形式になっている辺
境伯を選びます。
・・・王妃教育で得たこんな知識も今はもう、意味のないものです
が。
気を取り直して、サリーのお母様にご挨拶しなくては。
﹁サリーのお母様ですか。お若くいらっしゃるのでとてもそうとは
思えませんでした。てっきり、サリーの姉妹かと思ったくらいです
わ﹂
今のように並ばれると、本当にそういう風にしか見えません。
107
サリーのお母様はやや垂れた目のせいかおっとりとした印象ですが、
サリーは父親似なのか涼やかな目元をしています。
こわば
あら、サリーの顔が強張っています。
﹁あら。ふふふ・・・。そう、若いというわけでもございませんよ﹂
サリーのお母様は口元を手で抑えながら言いました。
﹁そんな。ご謙遜を。どう見ても、サリーと変わらないくらいにし
か見えませんわ﹂
サリーの口の端が引き攣りました。
﹁お褒めの言葉を頂けて、嬉しゅうございます﹂
﹁お世辞ではありませんわ。本当に姉妹にしか見えませんもの﹂
サリーの顔が完全に引き攣っていますね。
これはこれで面白い顔です。
﹁嬉しい事を言って頂いて、光栄でございます﹂
﹁こちらがマールボロ侯爵家のご令嬢、レディ・デボラ様です﹂
挨拶が一段落し、引き攣った顔を無理矢理、笑顔にしようとして失
敗したサリーが私を紹介しました。
この調子なら、サリーのお母様と話していれば、サリーの取り澄ま
108
かお
した表情以外をいくつも目にすることができそうです。
﹁マールボロ侯爵の長女デボラ・アイリス・マールボロと申します﹂
私の顔に自然と笑みが浮かびました。
109
外出 sideデボラ︵後書き︶
サリー・・・ガンバ
110
外出 sideデボラ︵前書き︶
投稿ミスで前話が数分、こちらと入れ替わっていました。申し訳あ
りませんでした。
111
外出 sideデボラ
サリーが目を丸くしました。
何か物珍しいものでも見たのでしょうか?
私はそれを確認したいのですが、サリーのお母様と話していること
もあり、目も動かせません。
もどかしいです。
﹁いつもサリーがご迷惑をお掛けしております。サリーはちゃんと
やっておりますでしょうか?﹂
﹁迷惑なんかかけていませんわ。寧ろ、私のほうがサリーに世話を
焼かせてしまって﹂
私は自嘲気味に小さく横に首を振りました。
私が至らないばかりに本当にサリーには世話をかけています。
甲斐甲斐しく世話を焼くその姿はまるで第二の乳母。乳母のマリー
ベルが仕事を取られて鼻を鳴らすこともあるくらいです。
こんなに不出来な私に、よく見限ることもなく仕えてくれていると
思います。優秀なサリーなら他にも引く手あまたでしょうに。
﹁レディ・デボラ。サリーは使用人ですから、お気になさらないで
下さいませ。そう仰って頂けるとサリーも使用人冥利に尽きます﹂
﹁そうですよ。そんなことを仰って頂けただけで私は果報者です﹂
サリーとそのお母様は笑顔でそう言ってくれました。
美女二人の微笑みは眩しすぎて、周囲が輝いて見えます。
その上、二人の言っていることが本当のような気もしてきました。
112
これは一体どんな現象なんでしょうか?
凡人な私にはわかりかねます。
﹁・・・﹂
気が付くと私は首振り人形のように何度も頷いていました。
今まで似たようなことはあっても、それはとても恐ろしいものだか
ら逆らえないというものでした。
しかし、これは違います。
この二人の言うことは信じられる、そんな気になるものでした。
どうして、そんな気持ちになったのかわかりません。
何が起きたんでしょうか・・・?
私は内心、首を捻ってしまいました。
あるじ
﹁サリーは幸せ者ね。こんなに褒めてくれる女主人がいて﹂
﹁ええ。とても幸せです。幸せすぎて、何か悪いことでも起こらな
いか心配なくらいです﹂
﹁そうよ。気を付けなさい。良いことがあれば、その後は悪いこと
があるものだから﹂
﹁確かにそうですね。良いことが遭った後には良くないことが起こ
るもの。今度もそうなって欲しくないんですが・・・﹂
﹁人生で使える運は決まっているというから、運が良い時と悪い時
は同じだけ来るものなのよ。運が良い時ばかりを選べないわ﹂
﹁選べたらこんなに苦労はしないのに。不公平だと思いませんか?﹂
113
﹁サリー。苦労しないですむことのほうが不公平よ。人生は酸いも
甘いもあるから輝くの。片一方だけだと輝くことはできないわ。そ
れだと歪みきってしまうか、自ら壊れていくことでしか自分を守れ
なくなるのよ﹂
﹁それでも選べていたら、と考えられずにはいられないんですよ、
母上﹂
﹁考えるだけ無駄よ、サリー。あなたは考えて、選択した結果が今
なんでしょう?﹂
﹁ええ、そうです。今の結果は私が選んだ末のもの。別の選択肢を
選べば良かったと今は後悔しています﹂
そう言うとサリーは俯きました。
﹁なら、文句なんか言えないじゃない﹂
その言葉が頭にきたのか、顔を上げたサリーの目に憤りが宿ってい
ました。
﹁こうなるとわかっていたなら、私は選ばなかった。だって、そう
でしょう? 私の選択がお嬢様をここまで苦しめるとは思ってもみ
なかったんです﹂
﹁あなたがいることで救われた面もある筈よ、サリー。直接的に関
与していないなら、あなたが気に病むことじゃないわ﹂
114
外出 sideデボラ
人生の幸運の話、でしょうか?
ですが、どうして私の名前が出てきたのでしょう?
ゲスト
それどころか、サリーの選択がどうして私を苦しめる結果になるの
でしょう?
まったく、意味がわかりません。
ホスト
二人は何を話しているのでしょうか?
招待主が招待客を放ったらかしにして招待客の使用人と話し込んで
いるのは、本来なら非礼を咎めなければいけない場面ですが、私は
二人の会話が気になったのでそのままにしておきました。
﹁それはそうですが・・・﹂
言葉を濁し、サリーは私のほうを一瞥します。
私は黙っておくことにしました。
何か余計なことを口にして、二人の話している内容を聞き逃すわけ
にはいきません。
﹁すんでしまったものは仕方がないのよ、サリー。今が最悪ならそ
れ以上悪い事は起きないもの﹂
﹁底ならいいんですが、あの方は予想外のことばかりなさるから、
わからないんですよ﹂
今が最悪で、更に悪いことがあるかもしれない?
その最悪な状況にいるのは私のことでしょうか?
でしょうね。
115
捨てら
王太子から婚約破棄されたと言うのは、どんな女性にとっても最悪
な状況かもしれません。
しかし、サリーはそれすらもまだ底だと考えていないんでしょうか?
まだ悪くなる余地があると考えているようですが、それは一体・・・
?
﹁どういうこと?﹂
﹁実は、お嬢様があの方の婚約者になった背景には王妃様の意向が
あったのです。お嬢様なら王太子妃に相応しいとお考えで、あの方
の意志は気に留めておられませんでした﹂
﹁!!﹂
驚愕のあまり私は息を飲みました。
もう少しで声が出るところでした。
サリーが王族付きの侍女をしていたと今朝、聞いたばかりでしたが、
私が婚約した当時の経緯まで知っているとは思いませんでした。
サリーは私が婚約してすぐに私付きの侍女として、マールボロ家に
雇われました。
王家の思惑まで知った上で私の側にいるということは、レディ・ウ
ィルミナの言う通り、王家から派遣されたとしか思えません。
何故、私には王家から派遣されて来たことを否定するのかわかりま
せん。
サリーは何を考えているのでしょうか?
﹁じゃあ、王太子様はレディ・デボラのことを気に入って話が進ん
だのではないのね?﹂
116
ゲスト
信じたくはなかったことをサリーのお母様は口にしました。
招待客である私をいない者のように扱うのは先程も思ったように咎
めるべきところです。しかし、ここで水を挿せば知らなければいけ
ないことを知らないままでいることになります。
万が一の可能性に縋って、私はコーネリアス様を信じようと思いま
す。
今までは自分の思い違いだと逃げていましたことでしたが、立ち向
かわなければいけません。
社交界から追放されて、いつまでも嘆いて生きていたくはありませ
んから。踏ん切りをつけて後ろを向かずに生きていくか、それとも
コーネリアス様を想って我が身を儚くするか。
元々、そういう気持ちを抱かれていないならそれはそれで構いませ
ん。
馬鹿な私が一人で舞い上がって空回りしていただけですから。
でも、お願いです。
サリーがコーネリアス様が私のことを想ってくれていることを言っ
てくれますように。
﹁そうなのです。あの方はお嬢様のことなど見ていなかったのです﹂
サリーの言葉が頭の中を何度も繰り返されます。
呆然としている私の耳にサリーとそのお母様の会話は続きます。
﹁それは・・・、王太子様はその時いくつくらいだったの?﹂
﹁12歳になられていました﹂
﹁12歳・・・。それならまだ女の子に興味がないのも仕方がない
117
わ﹂
それを聞いて、いつの間にか床に落としていた視線をサリーのお母
様の目に上げます。
サリーのお母様は励ますように私に微笑みかけて下さいました。
﹁ええ。交流を深めるようになって次第にお嬢様のことを気にかけ
るようになっていきました。そして、傍からでも二人がうまくいく
ことと誰もが考えるようになりました。だから、誰もがあのような
心変わりが信じられなかったのです﹂
思っていたように、コーネリアス様も私のことを想っていて下さっ
ていたようです。
私は安心すると同時に、あの時の痛みを思い出しました。
コーネリアス様は私を愛してくれていた。
でも、私ではなく、オーガスタを選んだ。
オーガスタに私に向けていた愛を向けてしまった。
﹁サリー。レディ・デボラが・・・﹂
﹁私は何もしなかったのに。あの男は勝手に︱︱﹂
﹁ちょっと、玄関先で何、話し込んでんのよ? お客ならさっさと
入ってもらいなさいよ、サニー﹂
家の奥からまた金髪美女が現れました。
今度は金の巻き毛を顔の両側の目の高さで結わえた、ややつり上が
118
ったヘーゼルの大きな目をしています。
胸元を見るとサリーやサリーのお母様とは違い、標準的な膨らみで
す。
くだけた言葉遣いをしているこの方がサリーの言っていた親戚なん
でしょうか?
ストーカー
﹁あたし、アグリ。うるさい求愛者から逃げ回っていて、困ってい
た時にサリーが来ないかって声をかけてくれたから、この家に来た
サリーの親戚。あんたは? サリーの連れ? それともサリー?﹂
119
外出 sideデボラ
私はその新たな人物を呆然と見てしまいました。
彼女のような口調で話しかけられたことがない私はそれが衝撃的で
した。
ぼんやりとした動きの悪い頭では彼女の言っていることをすぐには
理解できませんが、次第に理解できるようになりました。
ストーカー
彼女の名前はアグリ。
求愛者?
ストーカーという言葉が聞こえましたが、私は最初、聞き間違いか
と思いました。
ストーカーに追い掛け回されている、ということでしょうか?
ストーカー云々は今は考えないとして、サリーが声をかけたという
ことは、サリーに招かれたんですよね?
つまり、サリーとは以前から交流があったということですよね?
そして、サリーの親戚ですよね?
それに間違いはないですよね?
なのに、どうして彼女は私をサリーだと思っているんでしょう?
コーネリアス様のことで思い悩んでいたことなど吹き飛んでしまい
ました。
先程、サリーは言っていなかったでしょうか。他国の親戚が来てい
る、と。
サリーは他国にいる親戚と連絡まで取って招いたということでしょ
120
うか?
何の理由があってそんなことまで?
﹁あなたの言う通りだわ、アグリ。助かったわ。私ったら、サリー
サロン
と久しぶりだったから、お客様を放ったらかしにしてしまって・・・
。では、みんなで居間に移動しましょう﹂
サリーのお母様は彼女にそう言うと、申し訳なさそうな顔で私に向
き直りました。
﹁申し訳ありません、レディ・デボラ。こんな場所で立ち話に付き
合わせてしまって。どうぞこちらに﹂
サリーは今日の外出をどこまで計画していたのでしょう?
そう、それはいつから計画されていたのか。
昨日今日の話ではない筈です。
他国にいる親戚と遣り取りをして、こうして実家に招くことができ
るということは、少なくとも一ヶ月以上前から彼女と連絡を取り合
っていたということです。
﹁・・・﹂
サリーが何を思って彼女をこの国に招き、私をここに連れて来たの
か、思案していて返事をし遅れました。
﹁お嬢様﹂
私がまだ思いに耽っていると思ったのか、サリーがさり気なく誘導
してくれます。
それに従いながら、私の中でサリーへの疑惑が黒いインクの染みの
121
ように広がり始めました。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
サロン
サロン
アグリとサリーのお母様を先頭に私たちは居間に移動しました。
居心地の良さそうなファブリックの置かれた小さな居間の思い思い
の席に着くと、サリーのお母様は謝ってきました。
﹁狭くて申し訳ありません、レディ・デボラ﹂
招かれて出かけた家々とは大きさがそもそも違うのですから、部屋
サロン
の大きさなど気になりませんでした。
それよりも居間があるということ自体が驚きでした。サリーのお母
サロン
様が来客の応対に出てきたのですから、当然、使用人もいないのだ
から、居間があるとは思ってもみなかったのです。
﹁いいえ、お気になさらないで。できましたら、デボラと呼んで下
さい。私もサニーと呼びますから。それと、話し方も普段遣いのも
のにして下さい﹂
あの破天荒な彼女の口調が、私たちの会話の中で非常に浮いてしま
わないようにするには、そう申し出るしかありません。
また、サリーのお母様の言葉遣いも慣れていないのか、所々、古め
かしく、堅いものです。堅い言葉遣いは好感が持てるものですが、
ひどくぶっきらぼうに聞こえることもあります。
122
﹁ありがとう。そう言って頂けると助かるわ、デボラ﹂
﹁私もデボラって呼んでいい?﹂
アグリが元気良くそう言いました。声まで跳ねまわりそうなくらい
です。
この人は初対面が初対面だったので、エネルギーの塊のような印象
があります。どことなく、妹と同じ感じがします。
﹁勿論よ、アグリ。サリーもそうして﹂
サリーとはよく軽口をきくことはありますが、サリーの言葉遣いは
いつも主人に対するものです。
﹁わかりました、お嬢様﹂
これではいつもと変わらないような気がします。
しばらく話していれば、その変化もわかるかもしれません。
私はサリーの真意を探さなければいけないのです。
十年近く私に仕えてくれていた、私に一番近い侍女に全幅の信頼が
置けない、という疑惑があります。
答えによっては、サリーとは距離を置かなければいけません。最悪
の場合、解雇も視野に入れなくてはいけないのですから。
﹁改めて。よく来てくれたわ、デボラ﹂
﹁ありがとうございます、サニー﹂
﹁もう一度言うことになるけど、あたしはアグリ。サニーとサリー
123
の親戚よ﹂
﹁はじめまして、アグリ﹂
﹁よろしくね、デボラ。ねぇ、デボラって、サリーが仕えているお
嬢様なのよね?﹂
興味津々といった体で、アグリは話しかけてきました。
彼女は裏表どころか、感情を隠したり、取り繕ったりできない性格
ようです。
開放的すぎるところがありますが、妹と似た特性です。
﹁ええ。そうです﹂
﹁王子様に取り替えられたあの令嬢なの?﹂
ズキリと胸が痛みました。
取り替えられたなどと言われているのでしょうか?
捨てられたと言うよりもまだ良いような気もしますが、本当に私は
猫の子のような扱いです。
﹁・・・取り替えられたというのは?﹂
明確な答えは避けて、アグリに話を続けさせます。
﹁この国に来るまでサリーがそんなこと教えてくれなかったからさ
ー。街をブラブラしていたら耳に入ってきたのよ。︱︱女好きの王
子様が婚約者を取り替えたって﹂
124
取り替えた・・・。
街ではそんな風に言われているのね。
でも・・・
﹁女好きだなんてそんな・・・。コーネリアス様はそんな方ではな
いわ﹂
﹁でも、そう言っていたわよ。で、デボラがその婚約者と同じ名前
だったから、そうなのかなーって﹂
アグリは本当に取り繕うところのない人のようです。
﹁アグリ!﹂
サリーのお母様がアグリを咎めました。
﹁申し訳ございません。口の聞き方も知らなくて。アグリの申した
ことはお聞き流し下さい﹂
サリーは私に謝ってきました。
言葉遣いは変わらないようです。
﹁いいのよ、サリー。︱︱アグリ。王太子に捨てられた婚約者、そ
れは確かに私よ﹂
﹁え?! 王太子なの? ただの王子様じゃないの? 王様になっ
ちゃう人なの?﹂
﹁残念ながら、そうなのよね。︱︱ごめんなさい、デボラ﹂
125
サリーのお母様が疲れたように溜め息を付きながら言いました。
サリーのお母様にまでそんな表情をさせるということは、コーネリ
アス様に対する民衆の評価は低いのでしょうか。
﹁いいえ。気にしないで。今は妹の婚約者だもの﹂
﹁姉妹で取り替えたって言うのも本当だったんだ。うわー。もう、
サイテーだね。さっさと忘れて、次の恋人探したほうがいいよ。と
いうか、私のストーカー、いらない?﹂
﹁﹁アグリ!!﹂﹂
サリーとサリーのお母様が大きな声を出しました。
126
ダンス sideデボラ
久しぶりのダンスであるにもかかわらず、私は緊張するどころか楽
しくステップを踏んでいました。パートナーのリードが良いおかげ
で、自分が一枚の羽にでもなったかのように身も心も軽やかに感じ
ます。
この素晴らしいダンスパートナーはキリル・アレル・ストラットン
辺境伯。赤みがかった金髪は刈り込み、やや目尻の下がったサファ
イアブルーの目。無表情のあまり人形のようにすら見える顔立ちを
しております。辺境伯とだけあって幼い頃から鍛錬を重ねているせ
いか、肌は日焼けしており、身長はコーネリアス様よりも高く、ス
ラリとした印象があります。
名残惜しいことに曲が終わってしまいました。
辺境伯様はダンスフロアから両親の所へとエスコートして下さいま
す。
騎士の一人として暮らしていると言っても過言ではない辺境伯様は
淑女に対する礼儀は表情と会話以外は完璧でした。
会話がないほうが純粋にダンスを楽しんでいた私にとっても助かり
ました。
﹁レディ・デボラ。またお誘いしてもよろしいでしょうか?﹂
﹁ストラットン様がそう仰ってもらえるなんて光栄ですわ。是非、
またご一緒致します﹂
辺境伯様は父に何か言いたげな目を向け、父が頷くのを確認しまし
た。
127
﹁では、またお会いしましょう。レディ・デボラ﹂
私の手をとって指先に口付けを落とす様は背筋がゾクッとなるほど
妖艶でした。
これは貴族にとってただの挨拶の一つにすぎません。
ですが、サリーから口付けの意味を教えられていた私は頬が熱くな
りました。
口付けられるのが指であろうが、手の甲であろうが、掌であろうが、
大差はないのです。
貴族の殿方は淑女への挨拶として、相手を褒め称えなければいけな
いのですから。
そう。このように手に口付けを落として、相手に魅力があると思わ
せなければいけません。
つまり、殿方は社交の挨拶の一環として、口説くのが礼儀なのです。
それが出来て一人前。
そしてそれを上手くあしらえて淑女も一人前、と言うことです。
コーネリアス様としかこの挨拶をしたことのない私は他の方との挨
拶にまだ慣れておりません。
と言いますのも、婚約中は王太子の物という立場でしたし、婚約破
棄後は両親の手前、許可を貰おうとして却下される人物ばかりでし
た。
辺境伯様はそういう意味では別格の扱いを受けています。
交友のあるグループへと戻って行かれる辺境伯様の後ろ姿から目が
離せませんでした。
128
﹁レディ・デボラ。私と踊って頂けますか?﹂
驚いてその声のしたほうを見ると、リオネル様が右手を差し出して
立っておられました。
辺境伯様のことに集中していて、周りが見えていなかったようです。
﹁喜んでお受け致します、リオネル様﹂
私はリオネル様の手を取ります。
ザワリと周りで音がしました。辺境伯様がダンスを申し込んで下さ
った時もそうでした。
何かあったのかと思い、さり気なくあたりを目だけで確認しますが
特に変わったところはありません。
そのまま、リオネル様はダンスフロアへと導いて下さいました。
まだパートナーの入れ替えをしているせいか、ダンスフロアに出て
いるカップルはまばらでした。
あたりは何事もなかったかのように談笑の声に包まれています。
リオネル様は私がコーネリアス様の婚約者であったことから身内だ
と判断されておられるらしく、コーネリアス様と同様に私も接して
下さっていました。
もう私はコーネリアス様の婚約者ではないのですが、リオネル様に
とっては癖なのかもしれません。
それとも婚約破棄されたのだからと態度を急変させては私が傷付く
のではないかと気遣って下さっておられるのでしょうか?
どちらにしても、リオネル様のおかげでもう一曲、踊れるようです。
﹁貴女がダンスをするとは珍しい。それもあのストラットンが相手
とは更に興味深い組み合わせだ。実に興味深い﹂
129
曲がないせいか、離れていてもリオネル様の声がよく聞こえます。
﹁辺境伯様が王都にいらっしゃるのは稀なことですから﹂
辺境伯様は領地で騎士団を率いて他国に睨みを効かせていらっしゃ
る方です。
ですから、王都にいることは非常に稀です。
いつの間にか来ていて、招待状を出そうとした時にはいない。そん
な方です。
﹁辺境伯の立場としてはそうそう領地を離れられないのも当然のこ
とだが、あの男がダンスを踊れるという事のほうが驚きものだ﹂
﹁確かに辺境伯様がダンスをなさるのを見たおぼえはありませんわ。
浮いた噂もありませんし、辺境伯としての職務に忙殺されておられ
て、結婚まで考えられなかったのかもしれませんわね﹂
﹁貴女はストラットンを好意的に見ているようだな﹂
﹁リオネル様?﹂
﹁あの男と踊るのは楽しかったか?﹂
何が仰りたいのかわかりかねます。
﹁? ええ。 リオネル様? 何が仰りたいのですか?﹂
﹁ストラットンは男色家だという噂がある。相手はいつも連れてい
る従者だとか﹂
130
﹁?!﹂
リオネル様は今なんと仰ったのでしょうか?!
そして、それは本当にリオネル様の口から出てきた言葉なのでしょ
うか?
思わず、リオネル様の顔を確認しました。
そして、辺境伯様がいるあたりをチラリと横目で見ました。会場の
中でも辺境伯様の身長では埋没しようがなく、ご友人と歓談されて
いる姿が見受けられます。
ようやく曲が奏でられ始めました。
リオネル様は滑らかなリードをして下さいます。
しかし、会話は滑らかではありませんでした。
私の心は戸惑いで波打っています。
﹁刺激が強過ぎたらすまない。だが、女に興味を示した事のないあ
の男が貴女にダンスを申し込んだ。その事実だけを見て欲しい。万
が一、貴女にコーネリアスの子どもができていれば、あの男にとっ
ても、レディ・デボラ、貴女にとっても好都合な事だと思わないか
?﹂
イントロ
曲の挿入部であるにもかかわらず、私は叫んでしまいました。
﹁私はそんな事はしていません!﹂
曲が途切れました。
私は自分のしでかしてしまったことに気付き、急いで周りに頭を下
げます。
131
曲を中断させるとは高位貴族以前の問題です。
今すぐ床が裂けて私を飲み込んでくれないものかと思いました。
二、三拍置いて、曲が再び奏でられ始めます。
﹁もしも、の話だ。そうでなければ、あの男と貴女の行動に説明が
つかない﹂
﹁そんなことを仰られても困りますわ、リオネル様﹂
﹁レディ・デボラ。それなら心が弾むような何か楽しい事でもあっ
たのか?﹂
﹁心が弾むような楽しい事・・・?﹂
私が思い出すことと言えば、サリーの親戚であるアグリとの他愛も
ないお喋り。彼女との会話はまるで妹と話しているかのような気分
にさせてくれました。
いえ、妹とも違います。
ストーカー
アグリはビックリ箱のような人物です。
自分の求愛者はいらないかと言い出したり、突拍子もないことを口
にしてきて、彼女が本気であればあるほど私は笑わずにはいられま
せんでした。
どうしてアグリがそんな発想をするのか、私にはわかりません。
彼女の発言にサリーは表情どころか、顔色を変えるのも当たり前で、
言葉遣いも乱れてしまいます。そして、サリーのお母様は途中から
私と一緒に楽しむようになりました。
サリーに対する疑惑はありますが、それを気にしてしまうと、アグ
リに会いにはいけません。彼女はサリーの実家にいるのですから。
私はサリーへの疑惑には目を瞑って、アグリとの楽しい時間を満喫
132
することにしました。
屋敷に戻る頃にはサリーに元気がなくなっていることも、疲れたよ
うな溜め息を吐くようになっているのも、日常的に見られるように
なりました。
思い出すだけであの時の楽しい気持ちが蘇ってきて、自然と笑顔に
なります。
﹁ええ。ありました。新しくお友達ができました。彼女と話してい
ると時間も忘れてしまいますのよ﹂
リオネル様は緑の目で何かを探るように私を見ました。
﹁だからコーネリアス以外を選んだのか﹂
﹁リオネル様。今、何か仰りましたか?﹂
﹁いいや。貴女がこうして前を向いて進んでいく姿が見れて、私は
嬉しい﹂
そう言うと、リオネル様は柔らかく微笑まれました。
133
ダンス sideデボラ︵後書き︶
作者はリオネルを贔屓することにしました回。
アグリは・・・話が進まないので、もう出てきません。
新たな登場人物は辺境伯。そのうち、彼も贔屓します。
134
ダンス sideデボラ父
上の娘が誰かと踊る姿はもう二度と見られないものだと思っていた。
デボラは婚約者であった王太子を立てて、他の者とは踊ることはな
かったのだ。
下の娘が夜会でダンスを踊れるようになると、初めの一曲以外は壁
際に佇んで見ていた。
ずっと。
ずっと。
気が遠くなるほど見ているしかなかった。
上の娘はエスコートしてきたのは婚約者ではあったが、それは王太
子だったから。
顔を強張らせ、血の気が失せた顔を途中から化粧で誤魔化して待ち
続ける上の娘。
王太子の婚約者だからと、弱音一つ吐かずに立ち続けた。
影でその姿を笑う者もいた。
嫌がらせも受けていただろうに、それを隠そうとしていた。
守るべき者を守ることすら気付かない愚かな権力者の為に。その愚
かな者を、幻想を信じて愛していたのだろう。
デボラが踊った相手は一人はキリル・アレル・ストラットン辺境伯。
衆道の噂もある、王家にも匹敵する権力者。王太子が彼の機嫌を損
ねれば、この国の守りの要がなくなる。もう一人は王太子の従兄弟
でリザルフォント公爵令息リオネル。王位継承権を持つ人物。
これが政治的に何を意味するかなど、どうでもいい。
上の娘が誰かと踊れるようになる。
135
それが重要だった。
相手のことは構わない。
義理立てする相手もないことに上の娘が気付いてくれただけでいい
のだ。
しかし、そうは思わない者もいる。
筆頭は︱︱デボラにかかる黒い雲の色の目をした諸悪の根源。
何事もなければいいが、と願うが、その願いは数刻もしないうちに
無残に打ち砕かれた。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
”近日中にマールボロ侯爵長女デボラを貴族籍から除籍する。王都
から追放し、王都の外に居を構えて王太子の訪れを待つように”
アレは、上の娘をどこまで貶めれば気が済むのか?
アレが王都内に複数の愛人を囲っていることはわかっている。
身分が低いから側妃にはできず、かと言って、アレが気にかけてい
る存在には知らせたくはないと愛妾にもしない。
屋敷の者も総出で、上の娘の耳には入らないようにしていた。
下の娘の耳にも入っていないだろう。
姉妹で欲しいのなら、どうしてあのままの形で手に入れなかったの
かわからない。
136
どうして、躾がうまくいかないからと下の娘の縁談をまとめてしま
わなかったのだろうと自分の判断を悔やんでならない。
そうすれば、姉妹の立場の取り換えなどは起きなかった。
婚約者と引き離してまで高位貴族の娘と強引に婚約することまでは
国王夫妻も許さないだろうから。
高位貴族の令嬢でも王族なら婚約者と引き離して我が物できるとい
う、悪しき前例ができてしまうのを彼らも望んでいない。それは国
王と王太子の治世と輝かしい業績に汚点を残すもの。
あくまで婚約者がいないから、王太子の婚約者にすることができる
のだ。
そうでなければ、姉妹の立場を変えることも許さなかっただろう。
仰せの通り、王都の外に家を用意しよう。
二軒の家を。
一軒は王太子の指示通りに、アレが訪れるのを待つ空っぽの愛人の
家を。
もう一軒は上の娘を隠す為に。
137
ダンス sideデボラ父︵後書き︶
そして民衆が女好きだと言っていた根拠がコレ。
クズ王子のクズは今日も安定しています。
138
ダンス︵前書き︶
字下げとデボラsideのsideがいらないというご意見があっ
たので、今回からそうしていきます。
139
ダンス
妹虐めを始めた私ですが、各家で行われる催し物への招待状は届
きます。侯爵家の令嬢で、王太子の婚約者候補の筆頭となった妹を
持つ私に招待状を送らない、という選択はどの貴族もできないから
です。
招待主が嫌だと思っていても、王太子がエスコートする妹を呼ん
でおいて私を招待しないとなると、侯爵家に対する非礼になり、つ
まるところには将来の王太子妃の実家への非礼と目されてしまいま
す。
かと言って、私に招待状を出せば、出席した妹を虐める光景が繰
り広げられるのです。
各家としては王太子が来なくても招待状に姉妹共々、欠席の連絡
が来るのが一番良い結果となります。
コーネリアス様のご忠告もあり、私が社交界にいる期限が設けら
れるのも時間の問題です。
多少、妹の出席する催しを欠席して、アグリと話に出かけても問
題はないと思います。
それに付き合わされているサリーは非常に嫌そうな顔をしていま
すが、自業自得です。アグリを呼んだのも、私をアグリと会わせた
のも、サリーなんですから。
サリーの実家に向かう馬車の中で、いつもならこれからアグリに
振り回される覚悟でもしているような表情をしているサリーが険し
い顔をしていました。
﹁どうかしたの、サリー?﹂
140
私が声をかけると、サリーは優秀な侍女の仮面を付けました。
﹁大丈夫です、お嬢様。お気になさらないで下さい﹂
そうです。
もう、サリーの﹁大丈夫です﹂は信用できません。
サリーは私を騙しています。
アグリの発言からそれが発覚したというのに、何も言ってきませ
ん。弁明すらありません。
それとも私が気付いていないとでも思っているのでしょうか?
サリーが私の知らない何を知っていてそんな表情をしているなら
聞き出さなくてはいけません。
それが信頼できなくなったサリーに対する対応の仕方です。
サリーの言葉を乳母と同じように無条件で受け入れてきましたが、
二心を抱いているとわかった今ではそれはもうできないことなので
す。
﹁気にするなと言われても、気になるわ。そんな怖い顔をして、ど
うしたの?﹂
﹁つまらないことです。お気になさることはありません﹂
にべもなくサリーは言いました。今までのサリーならあり得ない
ことです。
これは何かあったに違いありません。
絶対に聞き出さなくては。
﹁それはあなたが決めることではないわ。私がつまらないかどうか
決めること。私はあなたの主なのよ、サリー﹂
141
﹁昨夜、お嬢様はダンスをなさったとお聞きしました﹂
私が夜会でダンスをすることが悪いとでも言うような口調が耳に
付きます。
﹁ええ。夜会での社交にダンスは付きものですもの﹂
﹁今まではあの方以外とは踊りませんでしたよね?﹂
サリーの言う通りです。
何故、昨日に限って別の方、それもお二人と踊ってしまったのか
自分でもわかりません。
一人はリオネル様なのでわかります。
あの方は私も兄として慕っていることは父も知っておりますし、
アグリのおかげで私もようやくダンスも踊る気になれたのですから。
しかし、辺境伯様は違います。
父は何故、あの方が私にダンスを申し込むのを許したのでしょう
か?
普段なら父はダンスの申し込みを許可しないのに、何故だったの
でしょうか?
辺境伯様がダンスをするとは思ってもみなかった相手だから、と
いう理由ではないようです。
そして、私は辺境伯様のダンスの誘いに頷いてしまった。
リオネル様と踊った後も父は何も仰らなかったので、父の許可が
あったのだと思います。父の許可がなかったとは考えられません。
コーネリアス様以外と踊ったことがなかったことをご存知のリオ
ネル様が、辺境伯様と踊る私を見て心配なさって申し込んで下さっ
たのでしょう。
142
私の踊った相手が便宜結婚を必要とする辺境伯様だから。
リオネル様も心配性ですね。
﹁それは・・・コーネリアス様が婚約者だったもの。それ以外の方
と踊るのはコーネリアス様に失礼だわ﹂
妹が出られるようになってからはコーネリアス様は妹と踊りまし
たが。
﹁あの方はそうではないのに?﹂
﹁コーネリアス様は王族だから社交の責務は仕方がないわ﹂
我ながら苦し言い訳です。
妹が出られるようになってからは妹だけでしたのに。
﹁お嬢様は王太子の婚約者であっても、侯爵家の令嬢。侯爵家の令
嬢として社交の責務もお有りだった筈なのでは?﹂
﹁・・・﹂
それは言われると困ります。
サリーも私がダンスに、社交全般に不安を抱えていることは知っ
ているのに、耳の痛いことばかり言ってきます。
サリーは私が不審に思っていることに気付いているのでしょう。
その上で、こうしたことを言ってきているのでしょう。
私たちの間に信頼関係はもう、ないのでしょう・・・。
わきま
﹁身の程を弁えず、失礼致しました﹂
143
以前なら何ともなかったその言葉が胸に突き刺さりました。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
互いに何も話さず、憂鬱な気分のまま、サリーの実家に到着しま
した。
玄関のドアを開けてくれたのはサリーのお母様でなく、見るから
に使用人とは思えない長身の黒髪の殿方でした。歳は父と同年代の
ようで、薄い水色の目は猫のように目尻が吊り上がっています。
質素な服装をしていますが、広い肩幅と機敏な動きは彼が騎士で
あることを隠しきれていません。
その顔はどこかで見かけたことがあるような・・・。
﹁ようこそ、デボラ﹂
殿方の後ろから出てきたサリーのお母様はそう言って歓迎して下
さいました。
﹁この方は?﹂
﹁彼はローランド・パース。サリーの父親です﹂
ローランド・パース。
ローランド卿。
144
身分の違う女性と暮らす為に爵位継承権を放棄したというパース
公爵家の三男です。
何度か夜会で嫌がらせを受けて困っているところを助けて下さっ
た恩人でもあります。
﹁ようこそ、レディ・デボラ。我が家へ﹂
﹁さあさ、入って、デボラ、サリー﹂
サリーのお母様に案内される私の後ろでローランド卿とサリーが
話す声がします。
﹁サリー。話があると聞いたが?﹂
﹁はい。実は、父上にお願いがあって︱︱﹂
﹁デボラ。アグリもあなたの来るのを楽しみにしていたのよ﹂
サロン
陽気なサリーのお母様の言葉で私の注意はそちらに向きました。
サリーのお母様は居間のドアを開けていました。部屋の中は既に
お茶の用意がされていて、アグリは寛いでいました。
テーブルの上を見たところ、ティーカップの数からサリーのお母
様やローランド卿も一緒に居たのだとわかりました。
私が部屋の中に入ると、背後でドアが閉められました。
サリーとローランド卿の通り過ぎる足音が聞こえますが、話し声
は聞こえませんでした。
どこか別の部屋で話すのでしょうか?
廊下で歩きながら話せないということは、二人は他人︱︱私に聞
かれたくない話なのでしょう。
サリーとローランド卿はしばらくして居間に来ました。
145
その日のアグリとのお喋りは、サリーとローランド卿の遣り取り
が気になって楽しめるものではありませんでした・・・。
146
ダンス
プラチナ
寄り添う白金と黒の姿が次々と夜会に出席した人々の間を動いて
いきます。
社交好きな妹は自分と同じか、それより少し上の層に。コーネリ
アス様は老若男女の別け隔てなく、挨拶に訪れる者や用事のある相
手と会話していました。
そんな姿が一段落し、妹は仲の良い友人たちと話しているか、コ
ーネリアス様と踊る頃。
それは私の出番︱︱妹を虐める時間を意味すます。
私は両親のもとを離れ、歓談中の妹たちのところへ向かいました。
思い思いのドレスに身を包んだ淑女たちと凝ったデザインにクラ
ヴァットを結った紳士たちの踊っているダンスフロアを横目に、私
はいつものように妹のところに行き、”妹イビリ”をするのです。
今日は通りがかりに飲み物を配っている給仕のメイドに声をかけ
ました。
﹁一つ、頂戴﹂
﹁レディ。それは・・・﹂
グラスに入っているのは淑女が飲むと眉を顰められる殿方用の酒
精の強い飲み物。
レモネードや酒精の弱いワインやフルーツベースのワインなどで
あれば、給仕のメイドも困惑した声を上げなかったと思います。
﹁大丈夫よ。私は飲まないから﹂
147
﹁レディ、差し出がましい口をお許しを﹂
招待客とメイドでは身分が違い過ぎます。
招待客が何をやっても、使用人はそれに否とは言うことは許され
ていないのです。それが今回のような親切心からでも、招待客の心
一つでクビになることもありますから。
﹁安心なさい。私が間違えないようにしてくれたのでしょう?﹂
﹁はい・・・﹂
謝罪する給仕のメイドからグラスを受け取り、歩を進めます。
私が妹まであと5メートルというところで、話をしていた同年代
の殿方の言葉が途切れ、盛り上がっていた空気が一気に冷めました。
私の妹虐めを警戒した雰囲気に飲まれてしまわないよう、勇気を振
り絞ります。
王家に蔑ろにされた我が家の面子と妹の評判を守る為。それがど
ちらか一方なら私はしません。侯爵家の令嬢であり、妹を愛する姉
だからこそ妹の前途に差す陰りを払わなければいけないのです。
毎日のようにそう、自分に言い聞かせていました。
そうして苦い思いで行っていたことも、慣れてきたのかこのとこ
ろ言い聞かせなくてもできるようになりました。
﹁オーガスタ。貴女、何をやっているの?! いい加減に殿方を侍
らすのはやめなさいとあれだけ言っていたのに、どうしてできない
の!﹂
148
﹁お姉様﹂
妹はハッと目を見開き、エメラルドグリーンの瞳を揺らしていま
す。
私の心も揺れます。
しかし、ここは心を鬼にして言わなければいけません。
それがこの子の為になることなのですから。
﹁そんなことで王太子妃。行く行くはこの国の王妃になれるとでも
思っているの?!﹂
妹の取り巻きの一人で上級文官のエルリン卿が私を睨みつけなが
ら仰りました。
﹁レディ・デボラ。毎度毎度、よく変わらないことを言えますね?
それなら貴女にも言いましょうか。﹃言いがかりをつけて来るの
はいい加減にして下さい﹄と﹂
﹁そうですよ、レディ・デボラ。ウィンターの言う通りです﹂
エルリン卿に続いて口を開いたのはドアーズ卿。彼は自分では何
も調べようともせずに好き勝手言う、口だけの人物です。
まあ、妹の取り巻きに収まっている時点でエルリン卿も大差ない
人物なのですが。
﹁言いがかり? 本当のことではなくて? オーガスタの味方をす
るのは勝手ですが、それでご自身の底の浅さを露呈していると思わ
れませんこと? オーガスタのどこが王太子妃に相応しいとお思い
になるの、エルリン卿? 人の言葉尻に乗ることしかできないので
すか、ドアーズ卿?﹂
149
あたりは騒然となりました。妹の取り巻きは騒ぎ立て、それを見
ている人々は物見高に囁き合っています。
サリーに見捨てられた日からの私はひと味違います。
サリーに冷たくされて気付きました。
私は侯爵令嬢としては有るまじきことをしていることに。
あるじ
サリーも人間です。
仕える女主人が私というだけなのです。
サリーにはサリーの思惑があって私に仕えているということを忘
れていました。
サリーのような優秀な侍女が、王族付きの侍女だった経歴を捨て
て、まだ子どもだった私に仕えてくれていたのです。
なにがしかの理由がないとおかしいことです。
それを気にも留めていませんでした。
王家から王太子妃に相応しい教育を受けられる下地を作るように
派遣されてきていてもおかしくないのに、そうではないと言ってい
たのに、私は気付こうとしなかった。
不審に思いたくなかったという理由で。
それは高位貴族である侯爵令嬢には許されない失態です。
妹にしてもそう。
私よりも優れているからと、私はいつも妹の影に隠れることを選
んでいました。
姉なのに、私は一人でコーネリアス様とお会いすることができず、
妹の同席を願ってしまいました。
妹は私を愛していたから、同席してくれていました。
妹より劣っていると思っていたから、マナー破りの妹の言動を咎
150
めることはしなかったのです。
私が社交を苦手とするように、妹はマナーを苦手にしていると、
甘やかしていました。
すべては私が悪かったのです。
自分も妹も甘やかして、それでも侯爵令嬢なのだと驕り高ぶって
いたのですから。
私は侯爵令嬢として王太子妃に相応しくない妹の躾をしなければ
いけません。
父や母が妹の躾に失敗したのは私のせいです。
妹の社交性に卑屈になった私の責任なのです。
だから私はサリーに見捨てられたあの日から、社交界に出入りで
きる残された少ない時間を使って王太子妃に相応しいマナーを妹に
身に付けさせようとしています。
﹁デボラ﹂
コーネリアス様の声であたりは静寂に包まれました。
妹の隣りにいたコーネリアス様が子どもの悪戯が成功した時のよ
うな笑顔を浮かべます。
﹁なんでございますか、コーネリアス様?﹂
﹁オーガスタを王太子妃に迎えたくても、お前のような身内が居て
はままならん。貴族籍を取り上げることに異論はないな﹂
息を飲む音が大きく聞こえました。これは一人だけのものでなく、
複数から上がっていました。
151
緊張のあまり、私には自分が息を飲んだかどうかもわかりません。
コーネリアス様の発言の形式は質問をとっていますが、これは事
実上の貴族籍の剥奪です。
民衆と同じ生活をしたことのない貴族にとって、貴族籍の剥奪は
生命が奪われるに等しい行為です。
コーネリアス様は私に死ねと?
私の顔からは表情が失くなったと思います。
﹁その上で王都から追放とする。未来の王妃の姉を母国から追放す
るのは忍びないから、国内に留まることだけは許そう﹂
追い打ちをかけるようなコーネリアス様の言葉と、妹のほうから
の複数の拍手が聞こえてきます。
そして、音が大きなざわめきとして戻ってきました。
目は開けているのに、物がよく見えません。
どこに焦点を当てたらいいのかわかりません。
﹁レディ・デボラ﹂
両肩を誰かがつかんで私を立ち上がらせます。
どうやら、体から力が抜けて座り込んでしまったようです。
私はもう、”レディ”ではなくなったのに、とぼんやりと思いま
した。
152
﹁レディ・デボラ。さあ、ご両親のところにお送りしましょう﹂
声の主を見ると、それは辺境伯様の端正な顔がそこにありました。
辺境伯様に支えられながらよろける足で両親のもとへ戻り、私は
両親と共に夜会を退出しました。
招待主へ辞去する挨拶もしませんでしたが、招待主もそれは求め
ていなかったと思います。
私の手からいつの間にか落ちた飲み物とグラスが使用人によって
素早く後片付けされるまで、私が社交界に居たという証になりまし
た。
153
ダンス sideコーネリアス
デボラが追放されてほどなく、私とオーガスタの婚約を発表した。
デボラの時のように婚約破棄を狙っている令嬢もいるようだが、
マールボロ侯爵と内々に結婚式をデボラと予定していた日で合意し
た。
花嫁はどちらも同じ色の髪と眼の色をしていて、身長もデボラの
ほうが高かったので、ウェディングドレスもオーガスタに合わせれ
ばいいだけだ。国内では大きな混乱もない。
この日程も私の王位継承に必要な時期のものだから、そろそろ延
ばすわけにはいかない。この結婚を境に、私は父の補佐をする割合
が高くなる。引き継ぎを充分にする為にデボラとの結婚は早めに設
定されていたが、私にはその決心がついていなかった。
婚約者であるオーガスタとのお茶の時間。
オーガスタの取り巻きたちに邪魔されないこの時間が好きだ。
オーガスタと一緒にいると私は王太子としての重荷も感じること
なく、一人のコーネリアスという人間でいられる。
これはとても重要なことだ。
人は皆、私を王太子としてしか見ない。デボラもそうだった。
だから私はこうしてオーガスタと過ごす時間を心待ちにしている。
﹁コーネリアス様。どうして、デボラお姉様を追放してしまったの
? デボラお姉様の行方がわからなくなって会えないくらいなら、
私が耐えていれば良かったわ。そうすれば、デボラお姉様がどこに
いるかだけはわかったのに・・・﹂
憂える姿もオーガスタは美しい。明るい表情も良いが、こうした
154
表情もまた良い。
ふさ
デボラがオーガスタを虐めるようになってから、オーガスタはだ
んだん鬱ぐようになってしまった。
﹁オーガスタ。あれは仕方がないことだ。態度を改めないデボラを
社交界から追放しなければ、お前との婚約もできなかったんだぞ。
侯爵家の令嬢ともあろうものが妹に嫉妬して虐めを行うなどあって
はいけないことだ。それでも、お前の姉でなければデボラは追放せ
ずとも済んだ。王族の伴侶の親族に問題があってはいけないからな﹂
﹁私が、コーネリアス様に望まれたのがいけなかったのよ。コーネ
リアス様はデボラお姉様と婚約していたもの﹂
﹁私は自分の気持ちに嘘が付けない。オーガスタを求めながら、デ
ボラを正妃に迎えることなどできなかった。オーガスタこそが私の
隣に相応しいとわかっているというのに、デボラを正妃に迎えられ
る筈がない﹂
デボラでは駄目なのだ。
社交を苦手とする彼女が国と国との牽制の飛び交う社交が出来る
筈もない。その神経を磨り減らして、命を縮めるのがせいぜいだ。
オーガスタのような社交を苦手としていない性格でないと正妃は
駄目なのだ。
王の代行などは優秀な側近でもできる。だが、正妃として社交界
を泳ぎまわり、他国との交渉においてはその魅力や手腕で弱いとこ
ろから切り崩す、それだけは正妃が行わなければならない。
これをデボラに出来るとは到底、思えなかった。
だから後宮に篭っていられる側妃にしようとしたのに、マールボ
ロ侯爵のせいで貴族籍から除籍する羽目になった。
忌々しい。
155
数日前、屋敷へとオーガスタを訪ねた時のマールボロ侯爵と書斎で、
二人で交わした会話が蘇ってくる。
﹁申し訳ございません。私には翌日、デボラを王都の外に移してか
らどこにいるか皆目、見当がつかず・・・﹂
言葉を濁すマールボロ侯爵に私は疑いを捨てきれない。
マールボロ侯爵は私の命令にまた抗おうとしているのではないか、
と。
デボラと婚約破棄した時もそうだ。
私は側妃にと望んだにもかかわらず、マールボロ侯爵はその命令
を無視したかのようにデボラに妹虐めをさせて、二人の後宮入りを
邪魔しようとした。おかげでデボラを側妃にできず、愛妾どころか、
王宮の外で囲わなければならない。
﹁デボラを乗せた馬車が王都を出たのは間違いない。王都の門番が
それを確認している。問題はそこから先だ。マールボロ侯爵家の馬
車は王都の門を出た後、王都周辺の領地をすべて巡っている。これ
は各領地の税関が証言している。どの領地に匿った?﹂
王都は門番、各領地の街には街に入る者に対して税を取り立てる
徴税官がいる。そこと各領地を結ぶ道の途中に作られた税関で取り
立てられた税は領主の収入だ。
税関を多く作れば一時的には収益は上がっても、人や物の移動が
滞って停滞する。税関が少なければ人や物の移動が活発になるが、
そうなるまでに収益は低い。
デボラを乗せた馬車の行方は多くの税関で見かけられている。
156
﹁本当にそれが皆目、検討もつかない次第でして・・・。御者も何
故、領地を巡っていたのか、わからないと申すばかりなのです﹂
後は隠した、隠していないの水かけ論だった。
結局、デボラの居所はつかめない。
思い出すと余計に忌々しい。
﹁コーネリアス様?﹂
﹁どうかしたのか、オーガスタ﹂
﹁何やら険しい顔をしていたようなので、心配になりました。大丈
夫ですか?﹂
デボラに会えないとあんなに嘆いていたと言うのに、私のことを
気遣ってくれるのか、オーガスタ。
﹁なんでもない。難しい問題が頭をよぎっただけだ。今はオーガス
タと一緒にいるというのに、無粋で済まない﹂
157
ダンス sideデボラ父2
上の娘がいなくなった。
王都からの追放を告げられた翌日、私はデボラを馬車に乗せて王
都の外に用意した家に向かわせた。
私はアレに命じられていた家ではなく、遠回りをして同じ領内の
村にある家へデボラを案内するよう御者に言い含めておいた。
マールボロ侯爵家に忠実な御者はその指示に従ってくれたのだろ
う。
デボラが私の用意した家にいないことに怒り狂ったアレは、私だ
けでなく、デボラとダンスを踊った辺境伯やリオネル卿の関与を疑
った。
そもそも、私がデボラを向かわせたのはアレに告げた家などでは
ないから、いないのは当然だ。
匿うつもりで用意した別の家なのだから、これは予想しているこ
とだった。
特に、私とは親しくもなかった辺境伯があの追放宣言の際に上の
娘を連れて来てくれたことで、彼はこの事件では犯人と目されてい
るのではないだろうか?
一人では歩けないほど憔悴しきったデボラを連れて来てくれたこ
とを辺境伯に感謝しているからこそ、迷惑はかけられない。
デボラの失踪は私が計画していたことだった。私の共犯として辺
境伯が疑う根拠となる為、辺境伯には後日改めて礼をすることにし
ている。
時期としてはオーガスタとの結婚でこの騒ぎが立ち消えてからで
158
いいだろう。
アレも真っ先に辺境伯のところを探ったに違いない。個人的趣向
があるとは言え、彼は人格者のようだから私の頼みがなくても上の
娘を哀れんで保護してくれるだろう。花嫁探しをしているようだか
ら、彼の領地で別人に仕立て上げて娶ってくれるかもしれない。
そう言えば、先代の辺境伯夫人を見たことがない。辺境伯の領地
で生まれ育ち生涯そこから出ることなく、夫の後を追うように亡く
なったと聞いている。
辺境伯ならデボラを表に出すこともなく守り切れるだろう。
それに辺境伯の領地はこの国の守りの要だ。余所者を拒む排他的
な場所ではアレの捜索も遅々として進まないだろうし、国王もその
ような些細な事で辺境伯の機嫌は損ねたくはないだろうから、探る
ことを止めるかもしれない。
王家がいくら力を持っているとは言え、現に他国からの侵略を防
いでいるのは辺境伯家だ。蔑ろにして敵に回すには相手が悪い。そ
して、それを代行出来る者もいない。
辺境伯家の者は遠距離でも意思の疎通ができる能力を持つと言わ
れている。
その魔法のような異能は彼ら以外は持っていない。だから、彼ら
が領地から出たがらなくても誰も気にしない。彼らはそこで国の守
護をしているから。
リオネル卿に関してはアレにとっても兄代わりの従兄弟で、問い
詰めることをアレができる筈もない。問い詰めたところで彼はアレ
にとって耳の痛い説教をするだろう。
そのようなことを苦労や面倒を嫌うアレが望んでする筈がない。
そういう意味ではリオネル卿に匿われていると気が楽だ。秘密裏
に娶ったとしても、アレは彼に強くは出られない。
159
問題は辺境伯もリオネル卿もデボラが置かれている立場を知らな
い、ということ。知っていれば、助けてくれていたかもしれない。
貴族
籍
私が二人に相談していれば、このように気に病む展開はなかった
のだろうが、私は一人でなんとかしようとしてしまった。
からの除
籍
国王夫妻ですら私が立てさせたデボラの悪評を利用してアレの生
贄にすることを選んだというのに。
しかし、デボラは隠れ家のほうにもいなかった。
アレが人を遣って探しているのに見つからないことを口にしたそ
の報せが私を動揺させる。
では、上の娘は今、どこにいるのか?
上の娘が今、どこでどうしているのか、それを知らなくて唯一、
良かったことはアレにいくら問い詰められた時だ。私自身が知らな
いのだから答えようがない。
アレは人を遣って我が家の馬車の動きを調べたようだが、私もデ
ボラが隠れ家にいないと知って各地の税関や街の徴税官に人を遣っ
て尋ねさせた。
上の娘と一緒にデボラの侍女サリーの行方も知れない。
サリーはローランド卿の息女だ。
ローランド卿は愛する女性と生きる為に爵位継承権を棄てたこと
から愛に生きる貴公子として民衆の間でも名高い。ローランド卿と
彼の愛する女性の間には何人かの娘に恵まれ、仲良く暮らしている
ことは有名だ。
王族女性の身辺警護を担当する侍女であったサリーが付いていれ
160
ばデボラの身は安全だと思ったが、まさかサリーも失踪するとは・・
・。
父親であるローランド卿から預かっているだけに申し訳が立たな
い。一言謝罪が必要なのはわかっているが、今、連絡を取って、ア
レに勘ぐられてまずい。
ローランド卿
上の娘に出されている命令を知っているサリーが困っている時に
頼るのは父親しかいない。
愛人
そこをアレが抑えてしまえば、デボラには貴族の令嬢としては悲
惨な日陰の身の運命が待っている。
サリー
アレは幼い頃に自分の周辺にいたかもしれない侍女には気付いて
いないようだ。まだ、サリーとローランド卿の関わりにも気付いて
いないかもしれない。
しかし、念には念を入れておかなくては。
デボラの侍女は父親似である。髪と目の色さえ変えれば、父娘だ
とすぐにわかるくらい似た目の形をしている。
それに気付かれれば終わりだ。
上の娘を助けたいのに助けられない。デボラが助けを求めるとこ
ろと接触して協力できないのが歯痒い。
最善の策がデボラの為には何もせず、その行方を探すだけとは何
たる皮肉だ。
誰が犯人であるにしろ、デボラを安全な場所で匿ってくれればい
い。そうでなかった場合は考えたくない。
それでも最悪の場合を考えて、裏の人身売買には目を光らせてお
かねば。
王族女性の身辺警護を担当する侍女であったサリーが一緒なのだ
から無事であると思いたい。
161
サリーが犯人に協力をしていない限り、デボラを守り続けてくれ
るだろう。
私はそれを願わずにはいられない。
162
ダンス sideコーネリアス2
﹁デボラお姉様はまだ見付からないのでしょうか、コーネリアス様
? デボラお姉様に会いたい・・・。デボラお姉様に出席して頂け
ない結婚式なんかには出たくない・・・﹂
涙ながらに嘆く白金髪の美少女。
私との結婚が迫り、王宮で暮らすことになったオーガスタだ。
幸せいっぱいの筈の彼女は何故か泣き暮らしている。
オーガスタ
原因は貴族籍から除籍され、王都を追放された姉の行方がわから
ないこと。
その姉デボラを守る為に社交的な彼女を正妃にと望んだのに、今
日も私たちの結婚式に参列しにきた他国からの王族や使者との会談
や園遊会を欠席し、こうして宮殿中の布を濡らそうとしている。
すさ
今のオーガスタには私を心安らかにしてくれるところはない。
それどころか逆にその美しい容姿を見ても心が荒むばかりだ。
こんな筈ではなかった。
こんなことになる筈ではなかったのだ。
想定外の事態に舌打ちしたくなるのも仕方がない。
舌打ちをどうにか抑えて、優しく諭す。
﹁私だけではなく、マールボロ侯爵も手を尽くして探してくれてい
る。明日の結婚式までに見付かれば、連れてくると約束する。だか
ら泣き止んでくれ、オーガスタ。愛らしいお前の目が真っ赤じゃな
いか﹂
﹁でも、コーネリアス様。デボラお姉様がいらっしゃらないんだも
163
の。デボラお姉様のお顔が見たいわ。デボラお姉様に大丈夫よと髪
を撫でて貰いたいわ。どうして、デボラお姉様を追放してしまった
の? デボラお姉様から貴族籍を取り上げて、私の侍女にしてくれ
たらよかったのに・・・﹂
貴族籍を取り上げて自分の侍女にして欲しい?
どこまで常識を知らないのだ。
貴族でなくなった途端、他の貴族の女性からデボラがどんな仕打
ちを受けるのか考えたこともないのか?
高位貴族の令嬢からただの平民の身分になったデボラは男爵令嬢
にすら逆らえない身分になる。今までの妬みからどんな嫌がらせを
されるかわからない。結果的に死に至る真似をされるかもしれない
恐れがある。
だから私は側妃にできなくなったデボラを愛妾ではなく、愛人と
して王都の外に囲うことにしたのに。
それを自分の侍女にして欲しいなど、自分の兄弟を使用人にでき
るその神経が信じられない。
その上、更にそのような屈辱的なことをどうしてしたいと思うの
か?
表裏もなく、明るく愛らしい性格だと思っていたが、本当は性格
が悪いのではないだろうか?
デボラのことを姉と慕っていたのではなく、都合の良い相手だと
利用していたのではないのだろうか?
姉の婚約者だった私に婚約破棄をさせ、自分を選ぶように仕向け
ていたのではないだろうか?
疑惑が次々と浮かんでくる。
とてもではないが、これ以上、平静を装って話してはいられない。
164
この悪魔は私を騙して、デボラと別れさせ、デボラの立場に成り
代わったのだ。
今、口を開けば責めるだけでは済まない。
明日はもうコレとの結婚式だ。
今更それを取り止めるには遅すぎる。
﹁済まないが、コレを頼む﹂
私は扉の傍に立っていた侍女に悪魔の世話を頼むと、ソレには言
葉もかけずに立ち去った。
頭の中で怒りがグルグルと回り続ける。
本当なら、私と結婚するのはデボラだったのに。
悪魔のせいでそれができなくなった。
あの悪魔のせいで。
165
ダンス sideコーネリアス2︵後書き︶
身勝手の一言に尽きます。
実際はゲームやストーリーの強制力なんかありませんでした。
本日もクズ王子はクズ王子です。
166
選択︵前書き︶
デボラが一話目の状態に戻っています。
167
選択
私は妹を虐めたことで王太子に責められ、実家から絶縁され、王
都を追放されました。
やはり父はどこまでいっても侯爵でしかなかったのです。
それでも父は父で、私に王都の外れ︵外れなので、王都ではあり
ません︶にある小さな家と生活費に充分な額のお金をくれました。
今は侍女のサリーと一緒にそこで暮らしています。
私が暮らすことになった家はサリーの実家よりも小さく、厨房と
居間と食堂が一つになった部屋と寝室が三つしかありません。その
大きさもすべての部屋を合わせても、寝室と居間から成る屋敷にあ
った私の部屋よりも小さい気がします。
厨房と居間と食堂が一つになった部屋はサリーに言わせてみれば、
厨房の脇のテーブルで食べている気がするそうですが、私は一日の
大半をそこで過ごすので居間と呼ぶことにしました。
私たちはそこで夕食を終えた時にサリーが突然、サリーのお父様
とお会いした日のことを語り出しました。
あの日、サリーが不機嫌だった理由。それは父が朝一番に秘書を
呼びつけた内容に関わりがありました。
父は秘書に王都外に私が住む家を用意するように命じたのをサリ
ーは偶然、耳にしたそうです。つまり、私が王都の外への追放され
ることはあの日にはわかっていたことだったのです。
前夜、私が辺境伯様やリオネル様とダンスをしたことは使用人の
間では有名だったそうです。
そこに秘書に命じた内容から、サリーは家族と別れる準備をしな
168
ければいけないと思ったのだとか。そこでローランド卿を呼び出し
たそうです。
ただ王都の外に追放するなら、領地にあるマールボロ侯爵家の屋
敷に行かせればいいことなのに、秘書への命令からサリーは私が貴
族籍から外される可能性に気付きました。
かし
私が王太子の婚約者となったのは王妃様の意向だったそうですが、
王太子は私の王太子妃としての瑕疵を理由に何ヶ月も説得したとサ
リーは王宮に勤める複数の知人から聞いたそうです。
婚約破棄をし、貴族籍から除籍して、王都外に追放。
これでは父も私を領地にある屋敷に送ることはできません。それ
は私がマールボロ侯爵家と未だに繋がりがあることを意味してしま
い、私にされた仕打ちを恨みに思って何かを企むとマールボロ侯爵
家は疑われ、処罰さえ与えられかねません。
王太子妃の実家であればこそ、その処罰を免除してもらうわけに
はいきません。それをしてもらえば、綱紀を乱すことになります。
ですから、手紙の遣り取りもできず、領地と王都を行き来する途
中に顔を見せてくれる程度の繋がりしか持てません。
それが私の社交界と縁を切る方法だったのです。
以前、結婚市場の花形と目されているのだとサリーは言っていま
したが、実情はこんなもの。
サリーがアグリを呼び寄せたのは、王太子によって蔑ろにされて
いる私を気遣ってのことでした。
確かにアグリには非常に救われました。
アグリのことを思い出すと心が温かくなります。
ズキリと心の何処かが痛みました。
・・・。
サリーを疑ってしまったことが申し訳ないです。
169
家は街の治安が良い場所にあるとは言え、若い女二人です。気軽
ではありますが、無防備のような気もします。
屋敷で多くの使用人に囲まれて暮らしていた身には人気の少ない
家は心細く感じます。
そのことをサリーに告げてみたところ、サリーは笑って言いまし
た。
﹁王族の女性の侍女として警護を担当していましたから安心して下
さい。デボラ様のことはこの身に換えてもお守りしますよ﹂
﹁女性でも警護ができるの?﹂
﹁剣が使えますからね。それに厳密に言えば、私は女性ではありま
せんから。その証拠に腕は太いですよ﹂
袖に隠されている肘より上を触った感触は固くて、太さも私の手
ではまわりきれないほどです。
﹁腕は、確かに太いわね﹂
﹁でも、女性ではないというのは・・・?﹂
﹁私は女性でも男性でもあるのです。母方にはそういう体質の者が
生まれやすくて、女性として育てられるのが慣行になっています。
そのように育てられましたから、女性の装いをすることに違和感を
持っていませんし、男性の筋力を持っていますから女性の警護に最
適なのです。父に習った剣術のおかげで一人や二人くらいの襲撃者
なら撃退できますしね﹂
170
平然とサリーは答えますが、その内容をすぐには理解できません。
私は同性でも羨ましいサリーの豊かな胸元に目が行きました。
この胸は本物なのでしょうか?
女性でも男性でもあるとは、一体どういうことなんでしょう?
そういう体質に生まれやすいというのも謎です。
サリーのお母様もそうなのでしょうか?
そう言えば、サリーには姉妹もいた筈です。彼女らはどうなんで
しょうか?
疑問はたくさんあります。
取り敢えず、
﹁お父様はこのことをご存知なの?﹂
﹁旦那様は王族の女性の警護を担当していたことはご存知ですよ。
王太子の婚約者であるお嬢様に警護を付けるのは当然ですから﹂
﹁でも、オーガスタには︱︱警護の騎士が付いていたわ。﹂
﹁そうでしょうね。私のように警護のできる侍女の数が少ない以上、
王族が優先されます。王族になるまでは騎士の警護で我慢するしか
ありません﹂
王太子の婚約者は婚約者にすぎない。
王太子妃になるまでは交換のきく存在でしかない。
まるでサリーはそう言っているかのように見えました。
171
﹁どうして私にはサリーが派遣されて来たのに、オーガスタには派
遣されて来ないの?﹂
私は以前した質問をもう一度しました。
﹁私が派遣されてきたわけじゃないからですよ。私はデボラ様の側
にいたくて、マールボロ侯爵家に仕えることにしたのですから﹂
聞いてはいけない。
聞いてはいけないのに、聞かずにはいられない。
まるでお伽話にある﹃開いてはいけない扉﹄を開いてしまう人物
のような気持ちになりました。
それは主のおかげで恵まれた環境を手にした人物が、主が唯一つ
禁じた扉を好奇心から開けてしまう話。それによって、主から見放
され、命すらも落としてしまう話。
これ以上、聞いてしまえば、お伽話の人物同様、後悔する結果し
かないと漠然とわかっています。
しかし、私は聞かずにはいられませんでした。
﹁それはどういう意味?﹂
﹁言葉通りの意味ですよ。私はこうしてデボラ様の側にいたかった
のです。そして、デボラ様にとって代えがたい存在になりたかった﹂
晴れやかな笑顔でサリーは言いました。そこには何の邪な感情は
見い出せません。
﹁私にとってデボラ様はかけがえのない存在ですら、あの方のよう
172
に取り換えなどしません。時間はいくらでもありますから、ゆっく
り考えて下さい。ここには社交界も貴族の思惑も関係ありませんか
ら﹂
かけがえのない存在。
それは私がとても欲しいものでした。
誰かにそう言って欲しかったもの。
コーネリアス様がそう思って下さっていたと思い込んでいたもの。
﹁選んでいいの?﹂
王太子の婚約者になることは私の意志ではありませんでした。そ
れは王妃様の意向でした。
侯爵家の令嬢で、まだ子どもだった私には選択権はありませんで
した。
﹁ご自由に﹂
妖麗に微笑むサリーのその顔を見て、彼女が彼でもあることなど
信じられませんでした。
173
選択︵後書き︶
サリーもデボラにあの事実は告げません。
174
選択
朝からの訪問者と会う為に私が居間に行くとそこには辺境伯様が
いらっしゃいました。私やサリーだけでなく、来客用の予備の椅子
も四つあるというのに、辺境伯様は立ったままでした。
﹁お久しぶりです、レディ・デボラ﹂
目礼するその人はよく観察しても辺境伯様で間違いありません。
やや垂れ気味の目をした端正な顔なのに無表情で人形のように見
えるのはこの方ぐらいでしょう。
﹁・・・どうして辺境伯様がこんなところに?﹂
私がおかしなことでも言ったのか、辺境伯様の雰囲気が少し和ら
ぎました。
﹁王太子が結婚したからその帰りです﹂
他国に睨みを効かせている辺境伯様がわざわざ王都に足を運んだ
のですから、それは本当のことでしょう。辺境伯様が私に嘘を吐く
謂れはありません。
元婚約者と妹が結婚した・・・。
実際にそれに参列した人物に言われて初めて、それが現実だと認
識できました。
あの二人にとって私は過去の人間であるように、貴族籍を外され
た私にとって元婚約者も過去の人間。本来なら笑って二人を祝福し
なければいけなかったのに、私にはできませんでした。
175
父の言うように妹虐めをすることで多少でも私は妹を盗った元婚
約者に対して、自分の気持ちを裏切った怒りを発散していたのでは
ないかと思います。家名や妹の為と言うのは父が付けてくれた口実。
いくら心苦しくても、良心の呵責に悩まされようとも、私は妹に
怒りをぶつけていた事実は変わりません。
﹁ええ、それで。こうして、お顔を拝見することが出来て光栄でご
ざいます、辺境伯様﹂
辺境伯様は頷き、サリーの顔に目をやりました。
﹁従兄弟の顔も一度は目にしておきたかったので﹂
﹁サリーが?﹂
﹁サリーの母と私の父は腹違いの兄弟なのだ。ああ、こちらの口調
で構わないか?﹂
﹁ええ﹂
﹁そう言ってくれて助かる﹂
言われてみれば確かに辺境伯様の目はサリーのお母様と似ていま
す。母親譲りの眼の色をしているサリーとまったく同じサファイア
ブルー。
顔立ちも性別の差はありますが辺境伯様とサリーのお母様は似て
います。二人が似ていることからそれは辺境伯家の特徴なのでしょ
うか。
逆にサリーは色彩は母親に、あとは父親似なのでしょう。
176
﹁サリーは知っていたの?﹂
﹁はい、一応。両親の惚気話を子守唄代わりに聞いていましたから﹂
惚気話を子守唄にしてしまうのはどうかと思います。
それにしても、サリーは同じ祖父を持つ自分と辺境伯様との境遇
の違いに何か思ったことはなかったのでしょうか?
女性でも男性でもあるサリーは貴族の血を引く平民。対して辺境
伯様は王家と同じように騎士団を持つことを唯一許された辺境伯家
の当主。
サリーも普通に一つの性別で生まれてきていれば、それが男性な
らローランド卿のパース家か、辺境伯家の一員として生きていたの
でしょうか?
どちらにしろ、どちらの家の血を引いていることでプラスになる
パワーバランス
ことこそあれ、マイナスになることはありません。それどころか、
パース家と辺境伯家の繋がりができたと目され、今の政治的な均衡
が崩れることになります。
サリーのお母様がただのローランド卿の妻という立場だと考えて
いたので気付きませんでしたが、辺境伯家の人物だと判明したから
にはこの二人が一緒に暮らしていることには別の意味を持ちます。
ローランド卿が爵位継承権を放棄していますから気にも留められて
いませんが、これは大事です。
﹁そうなの・・・。私だけが知らなかったのね﹂
﹁デボラ様がお気になさることはありませんから。両親もそこは気
にしておりませんから﹂
﹁気にしておけ。お前たち姉妹と叔母は辺境伯家の庇護を受けてい
177
るのだから、それを忘れてどうする?﹂
﹁今まで特に庇護を受けた記憶はないのですが﹂
﹁今まではな。これからはわからん﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁レディ・デボラはあの王太子の元婚約者だ。今までは貴族籍があ
ったが、今はただの平民。それと共にいるお前の身も良心的な貴族
の屋敷や王都の治安の良い場所と異なり、危険に晒されている。辺
境伯領ならまだしも、それ以外の場所ではお前のような者にとって
気の休まる場所はないだろう﹂
辺境伯様のお言葉を聞いていると、サリーにとって今の暮らしは
問題があるようです。
私ではなく、サリーに問題があるということは、サリーの性別の
ことでしょうか?
昨日、サリーから教えられて我に返った後、私も気付いたことが
あります。
サリーのような性別は聞いたことがありません。”体質”と言え
ばいいのかもわかりませんが、それにサリーのあの美しい容姿です。
厄介事を引き寄せると考えてもいいくらいです。
﹁・・・﹂
﹁それはサリーの”体質”のことを言っているのですか?﹂
私は考えているのか何も言わないサリーに代わって聞きました。
178
﹁そうだ。その”体質”は母系遺伝で、特異性から我が辺境伯家で
庇護し、我が辺境伯領では公然の秘密として扱われている。余所者
には明かされることはない。それが辺境伯領での掟だ﹂
﹁私に辺境伯領で飼い殺しにされろと仰るのですか?﹂
サリーは感情を抑えた声で言った。
私にはサリーが何を考えているのかはわかりません。
サリーが辺境伯領で暮らすことになれば、私はここに一人になっ
てしまいます。
今は護衛も兼ねていると自称しているサリーが一緒にいるので大
丈夫ですが、一人で暮らすとなるとどうすればいいものでしょうか?
自分のことばかりですが、この街で私はサリーと共に出かける以
外はでかけたことがありません。二人で出かけない買い物や用事は
サリーが一人で済ませてしまいます。
﹁飼い殺しではない。叔母上のように庇護を受けろと言っているだ
けだ。レディ・デボラもここではいつか王太子に見付かる。辺境伯
領なら、お前たちを匿えるのだ﹂
﹁それには条件があるのでは?﹂
サリーが用心深く訊いています。
従兄弟だというのに、いえ、貴族は従兄弟でも信用してはいけま
せん。それぞれの思惑があるのですから、親子兄弟でそれ以外の絆
がなくては信用はできません。
﹁条件はないが頼み事はある﹂
辺境伯様は取引だということをあっさりとお認めになりました。
179
﹁私にできることですか?﹂
﹁貴族として生まれていないお前には出来ない。レディ・デボラ、
貴女に頼みがあります﹂
辺境伯様は私のほうを向いて言葉遣いを直しました。
﹁私ですか?﹂
﹁レディ・デボラ、私と結婚して頂けないでしょうか?﹂
180
選択
﹁・・・何故、私に?﹂
辺境伯様は殿方がお好きな方だとリオネル様からお聞きしたこと
があります。そんな辺境伯様の妻にということは、後継ぎだけが目
的なのでしょう。
家同士の政略結婚をする貴族の結婚から見れば、辺境伯様のよう
に後継ぎを設け、家を守っていく夫婦関係など普通です。それ故に
夫婦共に愛人がいることもありますが、我がM家はそうではありま
せんでした。それとなく父は母を支え、母も父の足を引っ張って迷
惑をかけないように心がけ、忙しい中でも家族の交流はありました。
私もコーネリアス様と支え合うのだろうと思っていました。
﹁貴女は貴族として生まれ育ってきた。ただ、妻を娶ればいいとい
うだけなら平民から選ぶこともできるが、私はそれを望まない。貴
女を私の妻にと考えたのは、王太子の婚約者として教育を受けてき
たのが大きな理由だ。平民出身では私の不在時に対処は期待できな
い。名ばかりの妻なら尚更だ﹂
﹁名ばかりの妻?﹂
この方は跡継ぎが必要なのではないんでしょうか?
﹁ああ。妻もいないのに後継ぎの子どもがいてはおかしいだろう?
後継ぎを設けることはできるが、それは貴女が産む必要はない。
貴女には子どもの母親として、子どもと他の人間に演じて欲しいだ
けだ﹂
181
妻は貴族でなければいけないと仰ってた理由からすると、子ども
の母親は平民なんでしょうか?
それではリオネル様の仰っていた﹁殿方が好き﹂というのには当
て嵌まりません。
それにこの言い方では産みの親から子どもを取り上げると言って
いるようなもの。
辺境伯様という方を私は誤解していたのでしょうか?
﹁子どもを母親から取り上げて、自分の子どもの振りをしろと?﹂
﹁ああ。貴族ではよくある話だ﹂
確かに本妻が後継ぎをもうけられず、愛人に産ませた子どもを本
妻の子どもとして育てることは貴族にはよくある話です。
偶然、目に入ったサリーは辺境伯様を睨みつけておりました。サ
リーは私の視線に気付くと表情を和らげて﹁任せてくれ﹂とばかり
に頷きました。
﹁貴族ならよくある話でも、デボラ様には良くない話です。それよ
りも気になったことが一つあるのですが、先程、王太子に見つかる
と仰っていましたがそれはどういうことでしょう?﹂
﹁王太子はレディ・デボラの追放後、その行方を探しているのだ。
自分で追放しておいて何をしているのかわからないが、関所やら街
の徴税官のところに人を遣ってさがしている。元婚約者であるレデ
ィ・デボラには失礼だが、王太子の側妃には誰がなるかという話ま
で結婚式の間も話題になっていたくらいだ。今更、レディ・デボラ
を探す理由があるとすればろくでもない理由だろうな﹂
﹁コーネリアス様の悪い噂なら聞いたことがあります。ですが、私
182
にはもう関係はないでしょう。コーネリアス様は理想の女性を見つ
けたのですから﹂
辺境伯様の青い目には軽蔑の色がありました。表情がないように
見えて、この方の感情は目に浮かびやすいのかもしれません。
﹁同じ理想の相手を見つけたにしても、サリーとは大違いだな﹂
﹁え?﹂
理想の相手?
サリーの?
﹁っ!! 何故それを!﹂
取り乱したサリーに対して辺境伯様は肩を竦めて見せました。
顔の表情はともかく、それ以外のことで感情をよく表す方のよう
です。
サニー
﹁私がここをどうやって知ったと思う? 全部、お前の母に聞いた。
元々はお前のことではなく、王太子のことで王宮の侍女に上がって
いるお前たち姉妹なら何か知っているだろうと、お前の母から聞き
出してもらおうとした時にお前だけは王宮ではなく、王太子の婚約
者を理想の相手だと定めてしまって、そちらに働きに行ってしまっ
たとな﹂
それって・・・
﹁!! 王太子の婚約者を理想の相手って、私のことなの、サリー
?!﹂
183
﹁ええ。母の言う通りですよ﹂
苦虫を噛み潰したような顔でサリーが投げやりに認めました。目
元と耳が赤いです。
私の心臓が踊りました。
その音が聞こえていないか二人の様子を窺いましたが、サリーは
気まずそうな顔をしていますし、辺境伯様は顔だけは無表情です。
﹁私の妻になることで他に聞いておきたいことはあるか?﹂
呆れたような目で私たちを見ながら辺境伯様は仰りました。
﹁・・・。辺境伯様。あなたは私を愛しては下さらないのでしょう
か?﹂
父と母のようにお互いを思いやって支え合う関係にいつかはなり
たいと思います。
コーネリアス様はそうではありませんでした。
不甲斐ない私をコーネリアス様は切り捨ててしまわれた。
あのようなことを人生を共にする相手にだけはされたくありませ
ん。
私にはそのようなことは相応しくありません。理想の相手として
サリーに認められた私には。
私が自分を卑下することは、私を認めてくれているサリーの意見
を馬鹿にしていることです。
サリーは待遇も格段に違う王宮勤めを私の側にいる為に辞めて来
てくれたのですから。そんなサリーの選択すら、私は無意味なもの
と見なすわけにはいきません。
184
﹁私が貴女に捧げられるのは友情だけだ﹂
﹁愛は?﹂
﹁友人としてしか愛せない。だから、愛人は作ってくれて構わない。
その愛人がサリーなら好都合だ。その子どもに辺境伯を受け継がせ
ても構わない。私もサリーも同じ辺境伯を祖父に持っているからな﹂
﹁血筋的にはよくてもそれは私が嫌です。それに辺境伯様。あなた
が私に申し出されている名ばかりの妻というのは、相手の女性を馬
鹿にしすぎています。失礼です。それはわかっているのでしょうか
?﹂
﹁都合の良い話だとはわかっている。あの王太子の婚約者だったの
だから、貴女は私の話を受け入れる負い目があると思ったのだが、
そうではないようだな﹂
﹁それは勿論、そうならないようにしてきましたから﹂
﹁なら、思惑は外れたか﹂
サリーに淑女が結婚前にして良いことと悪いことを教えて貰いま
したが、サリーは同性ではなかったんですよね。
と言うか、リオネル様にしろ、サリーにしろ、辺境伯様までご婦
人ではないからか下世話なことを考えていて、私はとても不愉快で
す。
殿方とはこのような生き物なんでしょうか?
﹁まあいい。レディ・デボラ。私を選べば以前のような生活に戻る
ことができる。だが、選ばなければこの生活やそれよりも下の生活
185
をおくることになる。貴族として育った貴女にその覚悟はあるのか
?﹂
186
選択︵前書き︶
一日空いてしまい、申し訳ありません。
187
選択
﹁申し訳ありませんが、辺境伯様のご期待には添えません。支え合
う相手に愛して貰えない、そんな惨めな生活をするなら、私は今ま
での生活で構いません﹂
﹁やはり駄目か。サリーの”体質”を知っていて、万が一、と思っ
たが﹂
﹁どういう意味ですか?﹂
﹁この”体質”がどのような危険を招くか気付・・・かないな。普
通の令嬢なら﹂
﹁危険?﹂
サリーが蒼白な顔をしました。それによって私は辺境伯様が本当
のことを仰っていることがわかりました。
サリーが青褪めるほどのこと、それは・・・?
﹁この”体質”のように普通の身体ではない者は見世物小屋で見世
物にされる。特に、この”体質”の者はサリーのように容姿の優れ
た者が多い。倒錯趣味の好事家どころか、金と権力に明かせて手に
入れようとする者はこの国に限らずいくらでもいるだろう。コッラ
ドの皇帝だけでなく、うちの王太子もな﹂
﹁!!﹂
千人の美女が後宮にいると言うコッラドの皇帝なら、他国に珍し
188
い美女がいると聞けばありえる話です。
そしてコーネリアス様は私の元婚約者なんですけど。
コーネリアス様は平民の間では女好きで知られ、結婚式の間も側
妃の話題が出ているようですからありえなくはないと思います。
それにしてもコッラドの皇帝だけでなく、コーネリアス様まで引
き合いに出されるとは・・・。
辺境伯様はコーネリアス様がお嫌いなのでしょうか?
﹁この”体質”を明かすとはそういうことだ。辺境伯領なら何とか
対処できるが、それ以外でこの”体質”を知った誰かに売られる危
険がある﹂
呑気なことを考えている暇はありませんでした。
サリーの”体質”を誰かに知られれば、サリーの身に危険がある
なんて。
﹁売るだなんて・・・。この国では人身売買は禁止されているじゃ
ありませんか、辺境伯様﹂
辺境伯様は諦めたように目を瞑って、首を横に振りました。
相変わらず無表情のままなので異様な光景でした。
﹁情けないことにいくら法で取り締まっていても、裏では取引され
ているのが実情だ。逃げ出せないように薬まで使われることもある。
それはどの国でも変わらない﹂
﹁そんな・・・﹂
私の顔から血の気が引きました。
189
﹁だから代々の辺境伯はこの”体質”の者を庇護しているのだ。そ
れを利用できる時に備えて﹂
﹁利用できる時?﹂
﹁この”体質”の者は成人すれば人間より老いにくく、長寿だ。生
き字引としてこの国の真の歴史を語り継ぎ、戦術や武術を引き継ぐ
仲介者にもなる。時には兵士として戦うこともある。それが彼らの
在り方だ﹂
老いにくく、長寿であるということは不老長寿と呼ばれるもので
しょう。
美しくなる品物や若返りの効能を謳った品物は婦人だけのお茶会
でもよく噂になりました。
若返りは一種の不老不死を求めることではないのでしょうか?
そうとなれば・・・。
サリーのような普通ではない”体質”は先程、辺境伯様が仰って
いたような目的でも、不老不死を求める者にとっても手に入れずに
はいられない存在。
その存在が知れれば、辺境伯様の危惧しておられることが起こる
ということ・・・。
庇護を口実に同じ”体質”のサリーを辺境伯領へと招くというこ
とは︱︱
﹁有事があればサリーにも戦えと?﹂
﹁それが辺境伯領の掟だ﹂
190
﹁・・・!﹂
辺境伯様は端的に仰りました。
辺境伯様にとって、いえ、辺境伯にとってはそれが普通のことな
んでしょう。
使えるものは使い、国を守る。その為に庇護を与えておく。
﹁”体質”を明かすということは、それだけの危険と引き換えに自
分を知って貰うということだ。それだけの信頼を相手に与えるとい
うこと。一種の隷属だな﹂
﹁隷属、ですか﹂
﹁そうだ。私がここまで明かすのも、貴女がサリーから”体質”を
明かされて隷属されているからだ。この”体質”は辺境伯領の秘密
の一つ。レディ・デボラ。貴女がこの秘密に関わったからこそ、私
はそれに関する秘密を打ち明けているのだ。これもまた私が庇護す
べきサリーに関わること。貴女が辺境伯領の秘密を漏らせば、サリ
ーと同じ”体質”の者が危険に晒され、サリーの”体質”を漏らせ
ばサリーに危険が及ぶ。それに辺境伯領の秘密を漏らした場合、私
は貴女を容赦しない。貴族でも王太子の庇護もない貴女が消えたと
ころで誰も気に留めない。そのような貴女が隷属しなければいけな
い相手が誰だか、わかるな﹂
サリーに”体質”を明かされたことで私はサリーの生殺与奪権を
与えられ、辺境伯様が辺境伯領の秘密を明かすことでサリーと同じ
”体質”の者の生殺与奪権を与えられ、辺境伯様は私の生殺与奪権
を持っているということ。
﹁・・・辺境伯様ですね﹂
191
﹁その通りだ、レディ・デボラ﹂
私は辺境伯様と結婚することを拒否できないということなのでし
ょうか。
勝手に秘密を話して、それを種に脅してくるなんて信じられませ
ん。これが貴族のやることなのでしょうか?
貴族がやらなくても、辺境伯のやることなんでしょう。
卑怯な!
私が答える前にサリーが答えてくれていました。
﹁だからあなたの妻に、という話ならお断りです。それとこれとは
話が違います﹂
﹁お前の為だというのがわからないのか、サリー?﹂
﹁そんな気遣いは不要です﹂
﹁辺境伯領育ちでないと、どうしてこうなってしまうのか・・・。
理想と現実は違う。人間は裏切るつもりがなくても、謀ったり、秘
密を漏らしてしまう生き物だ。簡単に情にほだされて痛い目に遭う
のはお前なんだぞ、サリー﹂
酷い言い方です。
辺境伯様は人間は裏切るものだと疑ってかかっておられるようで
す。
辺境伯様のような立場なら裏切られるのも普通なもしれませんが、
その考え方はあまりにも哀れです。
192
私も貴族の家に生まれたので、足の引っ張り合いには気を付けて
おりました。確かに使用人に関しても採用する基準は厳しかったと
思います。
それでも、辺境伯様程までは疑うことはありませんでした。
﹁私はデボラ様を信じています﹂
サリーは何の躊躇いもなく言いました。
私は自身が危険に晒される秘密を打ち明けたサリーに庇われてい
ます。
﹁サリー・・・﹂
﹁お守りすると申し上げたでしょう﹂
私を安心させるかのように微笑むサリー。
﹁私を信じてくれるの?﹂
﹁愛する貴女を信じなくて誰を信じるのですか。おかしなことを仰
りますね、デボラ様﹂
﹁ありがとう、サリー﹂
私は思わずサリーに抱き付きました。サリーの見事な胸が邪魔で
うまく抱き付けませんでしたが。
サリーも私を抱き締めてくれました。
﹁なら、私は引き下がるしかないな﹂
193
平然と言う辺境伯様にサリーは腹を立てているようでした。
﹁当たり前のことを言わないで下さい。あなたも辺境伯なら、私た
ちの性質ぐらいわかっているでしょうに﹂
・・・・・・・・
﹁ああ、わかっているとも。理想の相手を見つけたら相手に隷属し、
裏切られても尚、一生、相手に恋い焦がれる哀れな性質はな。︱︱
サリー、しがらみに縛られないお前を羨ましく思う﹂
二人は会ったこともなかったようですが、サリーの”体質”には
詳しいようです。
辺境伯様は代々のお役目柄、知っているかもしれませんが、サリ
ーはお母様が王都で暮らしているところを見ると、辺境伯家の出身
のお母様にでも聞いたのでしょうか?
﹁? 何を言っているのですか? 逆に私はあなたが羨ましいです
よ。あなたの父親はあなたを辺境伯にした。それだけであなたが望
めばデボラ様を手に入れることができる。あの男から守ることがで
きる立場にいるじゃないですか﹂
それを聞いて私は本当にサリーが辺境伯様だったら、と想像して
しまいました。
地位も私への想いも父が問題視することはないでしょう。一部、
言動に問題ありすぎますが、それも表立たなければ。
﹁このような立場を私は必要としていない。その為に捨てなければ
いけない物もある﹂
﹁・・・﹂
194
﹁そんな目で見ないでくれ。私は辺境伯として生きることに誇りを
持っている。お前の父のように家を捨てず、支え合うことでしがら
みを残した我が父の判断を恨んではいない。お前の母はローランド
卿に家を捨てさせたことで自らを責めているが、我が母はそうしな
くて済んだ。母が己を責めるのは私のことだけ。私は気にしていな
いというのに﹂
﹁あなたは強いですね・・・﹂
﹁両親が良かったからな。お前もそうだろう、サリー﹂
自分の両親を褒められて、照れ臭いのかサリーは苦笑しました。
﹁あなたには勝てません﹂
あなど
﹁お前に勝って貰っては困る。辺境伯を名乗るものは簡単に負ける
わけにはいかない。そうでなければ、相手に侮られてしまう﹂
二人は目の前で握手を交わしそうな雰囲気です。そして、辺境伯
様は相変わらず無表情です。
結局、辺境伯様は何をしにいらしたのでしょう?
私は漠然とそう思いました。
私に求婚しに来たのか、従兄弟であるサリーを一目見ようとやっ
て来ただけなのか、どちらが主な目的なのかわかりません。それど
ころか、私にサリーを売り込みに来たのかと思えるくらいです。
私たちはしばらく話をし、辺境伯様はお帰りになる時に言いまし
た。
195
﹁困ったことがあれば言ってくれ。力になる﹂
﹁大丈夫ですよ。しがらみのあるあなたを巻き込みたくありません﹂
よしみ
﹁従兄弟なのに水臭い。︱︱だったら、レディ・デボラ。貴女に困
ることがあれば、私を頼ってくれればいい。義理の従兄弟の誼でな﹂
サリーの取り付く島のない返答を聞いた辺境伯様は私に言いまし
た。
﹁そのような状況にはさせません!﹂
﹁ありがとうございます﹂
辺境伯様はサリーの返事を見事なまでに無視しました。
﹁レディ・デボラ。貴女は自分を知らなすぎる。サリーだけでなく、
貴女自身も同じ危険に晒されていることを自覚しておいたほうがい
い。貴女は若く美しい娘なのだから、サリー同様、人攫いの目に留
まらないように気を付けなくては﹂
辺境伯様は本当に警戒心が強い方です。
私のことまで心配して下さるのは嬉しいですが、私にはそんな魅
力はないというのに・・・。
﹁そんな必要はありませんわ、辺境伯様。私はサリーのように美し
くありませんから。それで婚約を破棄されたんですよ﹂
﹁王太子は逃げただけだ。守ることを放棄したに過ぎない﹂
196
﹁それはどういうことですか、辺境伯様?﹂
﹁辺境伯と言うのは守ることが仕事だ。ローランド卿のように守る
こともあれば、我が父のように守ることもある。危険の多い自分か
ら離すことで守ることもあれば、反対に傍や内に閉じ込めて守るこ
ともある。自分の傍から離すということは、信頼関係が強くなけれ
ば相手の心を傷付ける行為でしかないから﹂
﹁・・・﹂
﹁要はデボラ様は若く美しい。そしてあの男はただの女好きの臆病
者ということです﹂
﹁それを言ったら身も蓋もない﹂
さ
﹁それで充分なのです。デボラ様がそれ以上、お心を割く必要はな
いのですから﹂
憮然とそう言うサリーの表情を見ていると笑いがこみ上げてきま
す。
サリーが可哀想なので声が出ないように口元を抑えますが、肩が
震えるのは止められません。
﹁では﹂
そう言って、辺境伯様は玄関のドアから出て行きました。
﹁キリル様﹂とダークブロンドの背の高い男が辺境伯様を呼び、﹁
帰りも二人だ、アベル﹂と答える辺境伯様の声が聞こえてきます。
アベルと呼ばれた男は辺境伯様の側近か従者なのでしょう。
197
﹁辺境伯に幸せが訪れればいいのですが・・・﹂
サリーが零した呟きが気になりました。
﹁サリー? それはどういうこと?﹂
﹁別れ際、辺境伯は以前のデボラ様と同じすべてを諦めた目をして
いました﹂
悠然と立ち去る辺境伯様の後ろ姿からは到底、信じられない話で
す。
サリーに急かされるまで私は信じられない気持ちで辺境伯様とそ
の従者の姿を見ていました。
198
選択︵後書き︶
贔屓しようとすると辺境伯はフラグを次々と建築していってしまい
ました。回収せずに物語が終わるフラグまでしっかり立てていくあ
たり、彼は次のクズヒーローになる気満々のようです。
199
選択
”体質”を明かしてからサリーは以前にも増して私に優しくなり
ました。
あの美しい青い目を煌めかせて、私を見つめてきます。
本人は恋人気取りのようですが、私にはサリーが犬に見えてなり
ません。意味もなく身体に触れてくるところなど、勢い良く振られ
た尻尾を当てられている気がします。
辺境伯様が仰っていた隷属の意味はコレでした。
確かに隷属です。隷属しているとしか思えません。
しかし、何故、犬なんでしょう?
女性だと思っていた侍女が男性でもあって、一緒に暮らしている
のに求愛されていたら、ほだされるのも時間の問題でした。
何と言っても、相手は私のことを一番良く知っている人物です。
私を感情的にどう攻めればいいのかも熟知しています。
私を籠絡させることなど赤子の手をひねるようなもの。
気付いた時には子どもができていました。
子供の父親は正式には”女性”ということになっている為、この
子は非嫡出子として生まれてきます。
貴族籍から外された私が実家と連絡をとっては迷惑だと思い、マ
つわり
ールボロ侯爵家への連絡はサリーにして貰っていましたが、そろそ
ろ長引いた悪阻が治まり、これ以上、身体の身動きが取りにくくな
る前に父と母に手紙を出そうと思いました。
離れて暮らしていても、私たちは血が繋がっています。その血が
200
受け継がれた孫が生まれるのですから、私から知らせないわけには
いきません。
この国では郵便は国が運んでくれます。商店や旅の商人に託すと
いう場所もありますが、ある程度の規模がある街なら国が請け負う
窓口があります。代金は安くて確実に届けてくれますが、その分、
遅いです。
配達を商いにしている所に頼めば、早さや正確さによって高額に
なっていきます。
父は生活費をくれていましたが、これから家族も増えますし、無
駄遣いはできません。
それに遅くても正確に届く国の制度を利用したほうが、配達をす
る国の職員から手紙を受け取るのですから、受け取る際には私との
繋がりはわからないでしょう。万が一にも私が手紙を出したこの街
の窓口の職員も、私のことなど記憶に残らないでしょうし。
手紙を出した日は買い物などの用事でサリーが私を置いて出かけ
ていました。
そういう時は近所に住むご婦人方に一緒にいてくれるようにサリ
ーは声をかけてくれます。
私もそうしてもらえると安心です。どうも妊娠してから、一人で
いるのが心細くなってしまって。
しかし、その日に頼まれたご婦人はお孫さんが突然、訪ねて来た
ということで帰ってしまいました。
わずら
サリーの手を煩わせず、自分の手で手紙を出そう。
したた
そう思って私は父と母に宛てて認めた手紙を手に家を出ました。
この家でサリーと暮らすようになってからは、サリーと一緒の時
しか外に出たことはありませんが、郵便物を取り扱ってくれる役所
201
の窓口までは買い物などで何度も通った道の途中にあります。これ
くらいなら今の私一人でも辿り着くこともできます。
私は近所の人や顔馴染みのお店の人に挨拶をしながら、役所に向
かいました。
久しぶりに見た私の姿があまりにも変わり果ててしまったせいか、
皆さん、一目で私だとは気付かれないようでした。
そんなに変わってしまったでしょうか?
丸い大きなお腹で足の先は見えませんし、着ている服も妊婦が過
ごしやすいドレスになったので別人に見えるのも仕方がありません。
役所の郵便を扱う窓口で手紙と代金を渡し、やり遂げた達成感と
私は来る時よりも軽い足取りで無事に家に戻りました。
202
選択 sideコーネリアス
オーガスタは毎日のように泣いて湿っぽくなってしまった。
元々、私とデボラの間を引き裂いた悪魔なので、顔を合わせずに
済むならそれはそれで構わない。
どうせ今日も後宮の自室で泣いているか、庭園か王宮内のサロン
で呼び寄せた取り巻き相手に泣き言でも言っているのだろう。
今では仕事ができないのも、うまくいかないのも、全部、デボラ
のせい。結婚前のようにデボラのことを恋しがっていることなどな
い。果てには﹁どうしていなくなったの?﹂とまで言い出す始末。
ねじ
それを取り巻きたちは﹁オーガスタは悪くない。悪いのはオーガ
スタを虐めたデボラだ。デボラは性格が捻くれているから王宮の者
たちが意地悪をするように根回しをしていったのだ﹂と慰める。
オーガスタが正妃の仕事もまともにできない、やろうともしない
ので、側妃を娶ることに何ら遠慮を感じなかった。
側妃を志願してくる者は多く、結婚式の日ですら娘を勧められた
くらいだ。
おかげで私の後宮には正妃を迎えてから一年も経たずに側妃が三
人いる。
三人目はオーガスタの取り巻きだった令嬢だ。名前は・・・何だ
ったかは知らない。
赤みがかった茶色の髪に黒曜石のような黒い目を持つ女だ。身長
はデボラよりやや低いくらい。
荒れた気分のまま午後の執務を始めるのが嫌だったので、彼女を
初めて召し出したが、近寄っただけで身を捩って部屋の反対側まで
逃げ出した。
203
﹁やめて下さい、殿下﹂
これではまともに話しかけることもできない。
この気分を癒やして貰おうと呼び出したのに、会話すら拒むとは。
私の気分は更に荒れる。
﹁何を勘違いしているかはわからないが、お前の今の身分はなんだ
?﹂
女は考えるように小さく首を傾げるが、今の私には考えなければ
今の身分を理解していないことに頭が痛くなってくる。
﹁コーネリアス王太子の・・・側妃です﹂
嫌そうな顔で答える女がどこの令嬢だったか、私はようやく思い
出す。
﹁その通り。今はもうヒョードル伯爵令嬢ではない。私の側妃だ﹂
﹁しかし、私はオーガスタ様を裏切ることはできません!﹂
裏切る裏切らないと言う前に、その人物の夫に嫁いでいるのがわ
かっているのか?
正妃や他国の王女ではないから後宮に入るだけのものだったが、
この女は側妃として後宮に入った意味がわかっていないらしい。父
親であるヒョードル伯爵はどのような教育をしてきたのだ?
それとも、オーガスタの取り巻きと化して思考能力も失ってしま
ったのだろうか?
オーガスタはマールボロ侯爵家が教育を失敗した為に、婚約をさ
せていなかったぐらいだ。それを見抜けずに騙された私が言うのも
204
何だが、オーガスタは令嬢として必要な教育は受けていないという
のに、人心を惑わす能力だけは長けている。
﹁成程。わかった。夫である私ではなく、正妃であるオーガスタの
顔を立てるのだな。ヒョードル伯爵にはそう伝えておこう。行って
いいぞ﹂
﹁ありがとうございます﹂
夫に呼び出されて来るだけだと思っているとは素晴らしい妃だ。
かつてのオーガスタのように話術で慰めることも、デボラのよう
に側に居て癒やしを与えることもできないとは・・・。
﹁ついでに王宮からも出て行ってくれ﹂
無能な女だ。
﹁?﹂
﹁お前は私の側妃としてこの王宮に入ったのだ。側妃しての勤めが
果たせぬなら、出て行くのも筋だ。そんなこともわからないのか?﹂
﹁そ、それは・・・﹂
﹁それに折角、私の側妃に立てたのに、勤めを果たそうともせず出
戻って来た娘を迎え入れるほどヒョードル伯爵が甘いと思っている
のか?﹂
側妃を送り込もうとする貴族の思惑は王子の外祖父となることだ。
孫である王子が国王にでもなれば、一族の栄華は極められる。
205
他国であればそのようなことを言ってはいられない。
この国は他の国と違って、他国との繋がりが薄いが、この周辺国
など血縁関係で二重三重に結びついてる。
しかし、それによって他国からの口出しが容易になっている。争
いは大きなものがなくて良いが、政治を他国の思惑を汲んだものに
しなければいけないのは辛い。
それもこれも、叔父の国、叔母の国、従兄弟の国、祖父母の国と
の関係を考えなければならないからだ。どこかとこじれれば別のど
こかともこじれてしまう。
外祖父がどうであれ、その一族のせいで別の国々と事を構えるな
ど、愚の骨頂だ。
つまり、この国の貴族に生まれて、娘を持つことができれば、外
交などを気にせずに一族を繁栄させることが可能なのだ。
それを捨てる馬鹿はいない。
娘が望まなかったからと出戻って来た場合は追い返すか、修道院
に送るのが普通だ。それどころか、勘当して放逐することで王家の
怒りを宥めようとする家もある。
ヒョードル伯爵もそのどれかを選択するだろう。
﹁・・・﹂
﹁貴族の結婚は義務だ。貴族の妻の役目は家を盛り立て、跡継ぎと
なる子を産むこと。側妃もそれと大差はない。どうやら、お前はそ
れを忘れてしまっていたらしい。正妃の友人であるお前だからこそ、
側妃に相応しいとお前の父・ヒョードル伯爵が言ってきたから側妃
に加えてやったというのにこれではな・・・﹂
オーガスタの取り巻きをしに後宮までやって来ただけの女は妃に
は相応しくない。
206
﹁!! そんな! お父様が?!﹂
本当にヒョードル伯爵は娘に何と説明して側妃にさせたのだ?
もしかして本当にお客気分で後宮に滞在しているのか?
﹁側妃になりたいと申し出ている者もいるのだ。お前の代わりにそ
の者に部屋を与えよう。さあ、出て行け﹂
﹁殿下! お待ちを!﹂
ようやく、家に帰されれば何が待っているのか気付いたらしい。
﹁済まないが本当に出て行ってくれ。側妃であることを拒否したの
だから、これは承知していたことだろう?﹂
﹁殿下!!﹂
叫ぶ女を気に留めずに、側近を務めるクレイグが開いたままのド
アの前で形ばかりに小さく頭を下げた後、入室して私に耳打ちする。
﹁コーネリアス様。デボラ様らしき人物が目撃された街で、手紙を
受け付けた窓口の係が手紙の宛先がマールボロ侯爵家であることを
覚えておりました。また、デボラ様の絵姿を見せたところ、非常に
よく似ているとの証言がいくつも寄せられております﹂
デボラを捜索させている時にマールボロ侯爵がデボラに隠れ家を
用意していたことが発覚した。伝手を使ってわからないようにした
ようだが、犯罪者の根城になっていないかという名目で空き家や住
人の変わったばかりの家を虱潰しに探しまわった結果、発見するこ
207
とができた。愛人を住まわせる為に手に入れたと言っていたが、愛
妻家のマールボロ侯爵が普通の民家を手に入れる理由がない。それ
に若い女性向けに内装が整えられていたことから見ても、あの家は
デボラの為に用意された家だった。
すべ
だが、当のデボラは見つからなかった。
為す術もなく時間だけが流れていたのだが、突然現れた謎の美女
の噂を拾って来た者がいた。貴族だったか、手の者だったかは忘れ
たが、その噂の真偽を探らせた結果がクレイグのこの報せだ。
﹁そうか。デボラの確認が取れたのか。わかった。これから数日の
スケジュールを調整してくれ﹂
私は無礼にも縋り付いてくる女を無視してクレイグに指示を出し
た。
しかし、クレイグは不思議そうな顔をしている。
﹁コーネリアス様?﹂
﹁何を間の抜けた顔をしている。デボラを迎えに行くに決まってい
るだろう?﹂
私は女を力づくで引き離し、デボラを迎えに行く用意をしに自室
に戻った。
208
選択 sideコーネリアス︵後書き︶
親の言いなりに嫁ぐのが当たり前である貴族の令嬢が結婚式の後で
嫁ぐのを嫌がり始めた。出戻れば実家で不遇な生活が待っているこ
とにも気付かず、気付いた時には夫に結婚解消されていた、そんな
感じです。
珍しくまともなことを言ったクズ王子。それでも安定のクズです。
209
選択 sideコーネリアス含む︵前書き︶
全年齢の短編の後半部分です。変更点はほとんどありませんので、
お読みになった方は飛ばして下さって構いません。
210
選択 sideコーネリアス含む
﹁どうかしたの、サリー? お客様?﹂
サリーが玄関先で何やらもめているようです。
﹁大丈夫です、デボラ様。ただの押し売りです。すぐに追い払いま
す﹂
私は心配でしたが、サリーが大丈夫だというので編み物をします。
この近所に住むご婦人方から、編み物を教えて頂いて以来、私はそ
ればかりしています。
嗜みとしての刺繍も好きですが、編み物は格別です。
妹の結婚式には出られませんでしたが、甥か姪が生まれる時に使え
る贈り物はできそうです。
でも、今は︱︱この子の物を。
大きさの変わらない自分のお腹を撫でると、自然に笑顔が浮かびま
す。
やはり愛する人との子供っていいですね。
子供は愛し合う者同士の間に、誕生を待ち望まれて生まれて来るの
が一番です。
どこまでこの子に幸せを与えられるかわかりませんが、せめて生ま
れてくる前くらいは幸せでいさせたいです。
211
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
﹁と、言うことでお引き取り下さい﹂
豊かな胸に細い腰、そして肉付きの良い臀部。そのどこをとっても
女性にしか見えない侍女がコーネリアスの気に障る。
どこがどうして、と明確にわかるものはない。
襟ぐりからチラリと覗く胸の膨らみからしても、相手は女性のはず
だ。
涼やかで、どこか少年のようにも見える顔立ちのせいだろうか。
﹁デボラに会わせてくれ﹂
﹁それはできません。お嬢様は今や貴方様の婚約者ではございませ
んので﹂
その通り。
デボラは元々王家に入るには繊細すぎた。
大胆不敵でも、冷静沈着でもない内気な彼女では無理だったのだ。
﹁ああ、お前の主の妹の夫だ﹂
それはデボラを守るために得た繋がり。
﹁それなら尚更にございます。お嬢様は既に侯爵家とは縁の切れた
お方。天涯孤独の身でございます。素性の知れぬ方と会わせるわけ
にはいきません﹂
﹁私ほど身許が確かな者はいない﹂
﹁お嬢様はとても欲張りでそれでいて謙虚な方です。今更、貴方様
212
のお目にかかりたいとは思わないでしょう﹂
﹁それはお前が決めることではない﹂
﹁嫌いではないとは仰っていましたが、妹と浮気するような男と結
婚せずに済んだとお喜びでしたよ﹂
﹁!!﹂
﹁お帰り下さい﹂
女にしては長身の侍女は優雅に頭を下げる。
その身のこなしはただの女のものではない。
明らかに騎士と所作が似ている。
しかし、その中にどこかで見た覚えがある。
よくよく顔立ちを見てみると確かに片鱗が窺える。
﹁お前はローランド卿の︱︱﹂
﹁庶出の娘にございます﹂
優秀な人物が独身のままでいることは少なくない。
特に貴賤結婚すらできぬ相手がいる場合は、結婚していなくても庶
出の子供がいる。
両親に死に別れているくらいならまだいい。
親の顔や名前すらわからぬ、貴族以外の相手との結婚を許してくれ
る貴族社会ではない。
ある意味、自分とデボラもそうだった。
王家に嫁ぐにはふさわしくない性質を持つ女。
﹁お帰り下さい﹂
この侍女は自分の両親の例から、わかっているのだろう。
213
﹁わかった。帰る﹂
214
選択
﹁デボラ様。私が付いていますから、あと少しだけ頑張って下さい﹂
私は何時間も続く痛みで意識が朦朧としていました。そんな私の
手をサリーは両手でつかんでいてくれます。
いき
﹁ほら、もうすぐ生まれるから。もう一度、息んで﹂
近所の子沢山な上に、その手で取り上げた数でも有名なご婦人の
声。
痛みと苦しみで身も心もボロボロです。
早く終わって欲しい。
唯その一念で乗り越えるしかありません。
私は経験豊富なご婦人の言葉に従おうとしました。つかんでくれ
ているサリーの手に爪を立てていることにも気付きませんでした。
﹁ん゛ん゛∼∼∼!!﹂
﹁ほら、頭が出てきた。もう大丈夫だよ﹂
ズルリと身体の中から出てくる感触と共に、身体が脱力しました。
猫の声?
﹁生まれたばかりなのにさっさと産声を上げるなんて、すごく元気
の良い子だね﹂
﹁生まれましたよ、デボラ様。よく頑張りましたね﹂
215
ねぎら
近所のご婦人とサリーの労う言葉が痛みで疲れきった私の頭の中
を何の意味もなく回り続けます。
﹁生ま、れた・・・?﹂
鸚鵡返しに私が繰り返すと、空気が柔らかくなりました。
しかし、達成感からくる心地良い眠りが私の意識を刈り取ってし
まいます。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
次に目が覚めた時、傍にいたのはサリーだけで、近所のご婦人は
いませんでした。
サリーは少し窶れたような様子でした。
私が苦しんでいる間、ずっと傍についていてくれたせいかもしれ
ません。
﹁サリーだけ? 赤ちゃんは?﹂
﹁隣にいますよ﹂
くる
顔をもう少し動かして視線を落とすと、寝台で横になっている私
の隣に産着に包まれた赤ん坊がいました。
﹁この子が? この子はサリーと同じ”体質”?﹂
216
生まれたばかりの我が子を一目見て無事かどうかよりも先に気に
するものがあるというのは不思議な気分ですが、この子がサリーと
同じ”体質”なら、お産を手伝ってくれたご婦人に口止めをするだ
けでは済みません。サリーとこの子を守る為に、この街から出てい
かなければなりません。
この家は父が用意してくれたものですからそのまま住めましたが、
父に迷惑をかけるわけにはいきませんから、次の家は自分たちで見
つけなければいけないのです。
住み良さそうな村か街まで行って、宿に滞在して家を探さなけれ
ばいけません。
早く行動しなければいけないのに、私の身体は怠く、強烈な眠気
があります。
﹁大丈夫ですよ。この子は普通に生まれてきています。私の”体質
”は母系遺伝だと言いませんでしたか?﹂
﹁じゃあ・・・。男の子? 女の子?﹂
﹁デボラ様のご自身の目で確かめて下さい﹂
﹁眠いの、サリー・・・。確かめられないくらい眠いの・・・。ね
え、その子の顔を・・・見せてくれないかしら・・・?﹂
﹁わかりました﹂
サリーが赤ん坊を両手で抱き上げて、私に顔が見えるように見せ
てくれました。
赤ん坊は身体のどこもかしこも小さくて、産着から見えている手
217
も顔も真っ赤な色をしていました。薄く生えている髪は白っぽい色
をしています。
プラチナブロンド
﹁髪は私と同じ白金髪・・・? それとも・・・、サリーのような
金髪になるのかしら・・・?﹂
サリーは赤ん坊と私の髪を見比べます。
﹁私たちの髪の色は同じ系統なので、髪の色はもうしばらくしない
とわかりませんね﹂
﹁眼の色は・・・?﹂
﹁眼の色はまだ確認していません。私の青か、デボラ様の緑か、そ
の二つの混ざった色なのか。今から楽しみです﹂
楽しげに目を細めて語るサリーを見ていると、私は胸が一杯にな
ってきました。
一年前には思いもよらなかった光景です。
私とサリーが恋人になり、子どもが生まれるなんて・・・。
サリーなんか同性だと思っていたのに、女性として育てられた女
装した男性のような女性なのですから。女性なのか男性なのかわか
りません。
本人は男性だと自覚していても、胸が。
胸を見てしまうとどうしても、女性にしか見えません。
この美しくて、男性か女性か文字通りよくわからない人物が自分
と愛し合う恋人で、今はその子どもまでいる。
﹁サリー・・・﹂
218
何かを思い出しそうな気がしました。
とても大切な何かを。
ですが、それを思い出す前に眠気がまた強くなってきます。
﹁デボラ様?﹂
﹁良いものね・・・。ああ・・・、眠いわ・・・﹂
このまま、死んでしまったほうが良い。
何故か、眠りに落ちる前にそう思いました。
幸せはいつまでも続かない。
幸せは打ち寄せる波のようなもの。幸福の絶頂にいたのなら、波
が引くように崩れ去るのみ。
昏い光を目に宿した娘が頭の片隅でそう呟いていました・・・。
219
選択
﹁どかせろ﹂
﹁おやめ下さい!! 何を考えていらっしゃるんですか!!﹂
来客の応対に出たサリーの叫ぶ声がします。先程の玄関のドアを
叩く音はいつもとは異なっておりました。
何か異常事態でも起きているに違いありません。
聞いたことのある声が聞こえたような気もします。
誰の声だったのか私が思い出す前に私の腕の中にいたユーリがぐ
ずりだします。
居間の私用の椅子で寛いでいた私は、ユーリをあやしながら立ち
上がり、玄関のドアへと近付いて行きました。
両手を広げてサリーが家の中に入れないようにしているのは、数
人の男たち。その中に見覚えのある顔が何人かおります。
﹁コーネリアス様?﹂
一番見覚えがあるのは元婚約者であるコーネリアス様でした。彼
の側近でもあるクレイグ様の姿もあります。
﹁おお、デボラ。久しぶりだな。お前は益々、美しくなって。こん
な小さな家には到底、似つかわしくないな﹂
笑顔でコーネリアス様はそう仰られますが、サリーに声を荒げさ
せるようなことをしていたのです。
警戒しなければいけないと思った時に、腕に抱える重さが気にな
220
りました。
私が守ってあげなければいけない一番弱いユーリを危険に晒して
しまうなんて。
ほぞ
内心、臍を噛みました。
冷静に。
冷静に対処しなくては。
私は彼らを家に入れないようにしているサリーの腕に手をかけま
した。
﹁デボラ様・・・﹂
﹁大丈夫よ﹂
気遣わしげな様子のサリーに腕を下ろさせ、私はサリーの前に出
ました。
﹁・・・ご無沙汰しております。このようなところでは何ですので、
どうぞこちらに﹂
私は居間に彼らを案内し、上座の席をコーネリアス様に座って頂
きました。他の方々はコーネリアス様の後ろに立たれ、既に平民で
ある私はコーネリアス様の正面に立つサリーの横に立ちました。
﹁ところで、コーネリアス様。今回のご訪問はどのようなご用件で
しょうか?﹂
221
﹁ああ、これか? デボラを迎えに来たのだ。華やかな王都を離れ
て、こんな小さな家で辛かっただろう。そろそろ王都に戻っても誰
も気付かないから安心しろ﹂
王都から追放したというのに、秘密裏に王都に戻すと言うことで
すか。
﹁王都からの追放はそのままなのですか?﹂
﹁ああ。それはすぐには何とかできない。王子でも生まれればいい
のだが、その機会がなくてな﹂
コーネリアス様に王子がおられないことは私も知っています。
王女なら側妃や愛妾の方が産んだそうですが、肝心の王子は未だ
に恵まれておりません。
この頃は正妃であるオーガスタとの仲も思わしくないとか。
王子も正妃以外から生まれると噂されております。
それに噂で聞くには婚約前と変わらぬ様子の妹は平民たちの間で
は酷いものになっておりました。
女好きの王太子に、男好きの王太子妃
二人が侍らす人間で今日も王宮に列ができる
自分も加えてくれと列ができる
女好きの王太子に、男好きの王太子妃
二人のどちらかに気に入られる為に
顔に自信のある奴は王宮に行く
222
女好きの王太子に、男好きの王太子妃
二人が侍らす人間は競い合う
どちらに気に入られれば上か競い合う
こんな歌ができるくらいです。
初めて聞いた時には驚きました。
平民たちがこんなにも噂していようとは思ってもみませんでした。
﹁それは・・・。ですが、今の生活にも慣れましたから、私のこと
ではお気を遣う必要はございません﹂
﹁そうはいかない。デボラがこんなところで苦労しているのは見て
いたくない﹂
苦労はしていないんですが。
私は傍らに立つサリーの顔を見上げます。サリーは優秀な使用人
らしく無表情を装っていますが、コーネリアス様を見る目付きは険
しいものになっていました。それでも、私の視線に気付いて、元気
付けるように頷いてくれます。
サリーは溺愛してくれていますし、子どももいますし、親子三人
幸せに暮らしています。
家族総出で買い物に出かけたり、料理を作ったり、ユーリが立て
るようになったら自然の多い田舎に移ろうという話も出ているくら
いです。
父と母、兄や妹とは会えませんが、それでも今は幸せです。新し
い家族が私にはおりますから。
223
しかし、そんなことを馬鹿正直に申し上げるには今の状況は危険
すぎます。
女性にしか見えないサリーに対して暴力も辞さない言動をしてお
られるコーネリアス様が危険でない筈がありません。
普通なら、胸に抱えられている赤ん坊に目が行く筈ですが、今は
コーネリアス様の注意が私に向いていて、ユーリに向いておりませ
んので、できるだけそうしておきましょう。
ユーリに注意が向くような余計なことはしないようにしなくては。
﹁そう仰って頂けて光栄ですわ、コーネリアス様。︱︱今は貴族籍
から離れたというのに、先程から無礼にも御名を呼んでしまい、大
変、申し訳ございません﹂
﹁そんなことを私たちの間で気にする必要はない。私とデボラの仲
ではないか﹂
そんなことを仰られても、私は貴方に捨てられた元婚約者です。
令嬢に付き纏われない為の盾としての婚約者です。
そうでなければ、結婚式を数カ月後に控えたあの時期に婚約破棄
などする筈もありません。
それに今は貴族籍すら離れたただの平民です。
その平民が王太子の御名を呼ぶことなど︱︱
﹁恐れ多いことに存じ上げます﹂
コーネリアス様の視線が私の顔から動きました。
私はユーリを隠そうと、ユーリの顔を私の胸に押し付けるように
して身構えました。
224
かしこ
﹁そう畏まるな、デボラ。︱︱っ!!﹂
笑顔が見たこともないような形相に一転します。
コーネリアス様が席を立ったのだと私が認識したのは、椅子の倒
れる音がしてからです。
コーネリアス様は机を回ってくると私につかみかかってきました。
コーネリアス様につかまれた肩が音を立てていないのが不思議なく
らい痛いです。
相手は王太子です。侯爵令嬢だった時なら兎も角、今は平民であ
る私には何もできません。
サリーも横で剣呑な空気を出しているかもしれませんが、サリー
が何かすればコーネリアス様の連れに殺されるかもしれません。
この国では貴族が平民に何をしてもよいという国ではありません。
それでも、貴族と平民の間には身分による大きな差があるのです。
王宮で侍女をしていたサリーはコーネリアス様に手を触れただけ
で、どんな口実を設けられるのかわかっているので黙っているので
しょう。
﹁他の男の子どもなど産むとは私を馬鹿にしているのか?!﹂
前後に激しく揺さぶられる私はユーリのことだけが気がかりでし
た。
近くで聞こえる男性の大きな声︱︱怒鳴り声にユーリは泣き始め
ました。
うるさ
﹁五月蝿い! ソレを黙らせろ! 側妃にして社交を行わずに済む
ねた
ようにしてやろうとすると、妹虐めをし始めて貴族たちの顰蹙を買
って貴族籍から逃れる。愛妾では他の側妃たちにやっかみや妬まれ
るだろうからと囲って愛人にしようとすれば、行方をくらます。デ
ボラ。お前を大切にしたいという私の気持ちが何故、わからない?﹂
225
ユーリを宥めようとする私を引きずるようにコーネリアス様は家
の奥に行こうとします。
﹁おやめ下さい! デボラ様に何をなさるおつもりですか!﹂
サリーも後から追いかけて来て、先回りすると、コーネリアス様
の進路を阻むように止めに入りました。
流石に王太子に対して、平民が手を出すことはできません。
﹁この状況でわからないと言うのか? それともお前が代わりにな
ると言うのか﹂
﹁私が身代わりになります﹂
﹁サリー!!﹂
私は血の気が引く思いでした。
サリーには人には言えない秘密があるというのに。
それなのに、私の身代わりになると申し出ているのです。
そしてサリーの意識は女性ではありません。
﹁私は美女しか相手にしない! お前は自分の顔を鏡で見たことが
あるのか?! その程度の顔では相手にもならん!﹂
︱︱?!
コーネリアス様は何を言っているのでしょう?!
サリーの容姿はどう見ても金髪の美女です。涼しげな目元が中性
的に見せているところもありますが、美しさに変わりはありません。
この端正な顔立ちがコーネリアス様にはどのように見えているの
226
でしょう?
私が混乱している間もコーネリアス様とサリーの言い合いは続き
ます。
﹁デボラ様に無体を働きたいのなら私がお相手すると申し上げてお
ります!﹂
﹁お前では相手にならんと言っているのがわからないのか! 侍女
の分際で生意気な!!﹂
﹁私はデボラ様をお守りすると誓っているのです! それに、その
子どもは私の子どもです!﹂
﹁お前の子だと?! お前のような顔の女を相手にするような物好
きな男がいるとでも言うのか?!﹂
﹁ええ、おりますとも! 辺境伯のキリル様です!﹂
サリーーーー!!!
はしたないことに私は叫び出したい気持ちでした。
確かに辺境伯様は困ったことがあれば力になると仰っていました
が、こんな時にその名前を勝手に使っていいものじゃないわ!!!
辺境伯様、申し訳ございませんーーー!!!
227
選択︵後書き︶
サリー:︵辺境伯の﹁困ったことがあったら∼﹂を思い出した︶
サリー:︵心の声﹁今です!﹂︶ええ、おりますとも! 辺境伯の
キリル様です!
後でそれを聞いた辺境伯の心情:orz
228
選択
サリーの突拍子もない発言に私の肩をつかむコーネリアス様の手の
力が抜けました。
その隙に私はサリーの後ろに隠れました。
﹁あいつは男だけだと思っていたが、女はお前のような顔しか駄目
だとはつくづく物好きだな﹂
コーネリアス様も辺境伯様の噂はご存知のようです。リオネル様も
ご存知のようでしたし、これは殿方の間では有名なことなのでしょ
うか?
サリーの美貌がどうしてコーネリアス様にはわからないんでしょう
か?
何故・・・?
﹁物好きで結構です!!﹂
それにしても、サリー・・・。
このことは後で辺境伯様に謝っておいたほうがいいです。
一緒に謝りますから、謝りに行きましょう。
﹁それが本当だと何故思う? 辺境伯はデボラに興味を示していた
のだぞ﹂
ああ、ダンスに誘って下さったことですね。
﹁キリルはデボラ様が私のお仕えする主人だとご存知だから、気に
229
かけて下さっただけです﹂
サリー、そこまで否定しなくてもいいと思うんだけど。
貴方は恋人の周りからの評価がそんなに低くても良いの?
オマケ扱いで良いのかしら?
﹁そんな筈はないだろう。デボラだぞ? お前とは違うんだ。誰も
がデボラに注目する。どんなにそっとしていても、耳目を集めずに
はいられない。それがデボラだ。辺境伯も惹かれない筈がないだろ
う?﹂
それは誰のことでしょう、コーネリアス様。
それなら私と婚約破棄したりしませんよね?
私はそんな大層な人物だと言う自覚は一度もありませんし、コーネ
リアス様はどうかなさったのでは・・・?
﹁キリルはそんな人物ではありません!﹂
確かに。
そんな美醜で考えを変えるような方ではありませんでした。
辺境伯様はどちらかと言うと仕事以外には興味がない方で、実用重
視の契約結婚、便宜結婚大歓迎と言う変わった考えの持ち主です。
﹁いいように使われて、それでも辺境伯を庇うのか。あいつも良い
紐付けをしたものだ﹂
コーネリアス様はサリーと顔がくっつきそうなほど近付き、言いま
した。
﹁侍女、良い事を一つ教えてやろう。男というのはいい女がいれば
230
誰でも手を出したいものだ。その為なら手段は選ばない。用済みに
なってあいつに捨てられて泣かされる前にそれがわかってよかった
な。私に感謝したくなったろう?﹂
﹁皆が皆、殿下と同じ基準を持っているとは思わないで下さい。不
快です。キリルにも失礼です﹂
ほとんど距離がないと言ってもいいほどの距離で、二人とも目を逸
らすことなく話しています。
不穏な空気しか漂ってきません。
﹁辺境伯は一年ほど前に妻を娶ったそうだぞ﹂
それはおめでたいことです。
今度、辺境伯様にお目にかかった時にお祝いの言葉を贈らなければ。
その奥様とはやはり契約結婚や便宜結婚だったのでしょうか?
思いがけず耳にした辺境伯様の近況に私が思いを巡らせている間も、
コーネリアス様とサリーの会話は続いていきます。
﹁それがどうかしましたか? 別れた後に誰と付き合おうが、結婚
しようが、私には関係ありません﹂
﹁子どももいるのに別れるような男を庇うのか?﹂
﹁子どものことは知らせていません。この子は私の子どもです﹂
噛み合っていないように見えて、辺境伯様のことを利用した以外、
サリーは嘘は言っておりません。
231
﹁信じられない話だな﹂
﹁それが殿下とキリルの違いです﹂
﹁私を愚弄するのか?﹂
﹁間違えました。辺境伯であるキリルと殿下の違いです﹂
﹁それは何が違う?﹂
ワーカーホリック
﹁辺境伯は辺境伯でしかないということです。仕事中毒。仕事の虫。
働き蜂﹂
﹁辺境伯が働き蜂と言うなら、差し詰め、私は獅子だな。代わりの
ある者とかけがえのない者。比べることも馬鹿らしい。興が失せた。
デボラ、行くぞ。付いて来い﹂
﹁殿下?﹂
何故、コーネリアス様とご一緒しなければいけないんでしょうか?
私はもう、平民です。
貴族ではありません。
臣下ではありませんから、王太子に従う理由はございません。
﹁愛人として囲われるのだから当然だろう﹂
コーネリアス様が何を仰っておられるのか、私は理解したくありま
せんでした。頭が拒否します。コーネリアス様の言葉はまず、音と
して頭の中を巡りました。次に滅茶苦茶な文節で区切られ、その不
232
自然な区切りが自然な区切りに直されていきます。
身体がブルブルと震えました。
頭が真っ白になって、何も考えられません。
高位貴族の令嬢として生まれた私にとって、未婚のうちに誰かの愛
人になることなど考えられることではありませんでした。そんな申
し出は恥ずべきことです。マールボロ侯爵家の令嬢であった私は家
名とその権力で拒絶することができました。
しかし、貴族籍を失った今の私はただの平民。王族や貴族どころか、
裕福な商人の申し出に拒絶出来るだけの身分や権力はありません。
だからと言って、サリーとのことは恥じてはおりません。恥知らず
な申し出とこれは違います。
サリーは人には知られたくない秘密を打ち明けてまで私を信じる選
択をしました。
自分の命と引き換えに想いを告げたサリーと同等の犠牲を払って愛
人を作る人物がいるでしょうか?
そんな人物は愛人なんか作りません。
愛人にはそんな犠牲は払わないのですから。
﹁デボラ様﹂
怒りは力を与えると言いますが、私の場合は身体から力が抜けまし
た。腕に抱えていたものを落としそうになったところをサリーが代
わりに持ってくれました。そして、私の身体を左腕の中に抱き込む
ようにして、支えてくれます。そうしてもらわなければ私は立って
いることもできない有様でした。
体中から熱がどんどん逃げていきます。
﹁サリー﹂
233
サリーの顔を見上げれば、その秀麗な顔は怒りに歪んでいました。
﹁お気を確かに。私が付いております。隙を見て逃げますので、ご
辛抱を。それまでは私が必ずお守り致します﹂
サリーは口元を私の頭に寄せてコーネリアス様に聞こえないように
小声で言いました。それは傍目からも慰めているように見えますが、
サリーには何か考えがあるのでしょう。
私は少し落ち着きました。
そして、サリーが右腕で持つ私が取り落としかけたものがユーリだ
ったことに気付きました。
私は、我が子を抱いていることを忘れていたのです。
愕然としました。
次に今度は自分に対する怒りがこみ上げてきました。
私は私が命に代えても大切に守らなければいけないこの子の存在を
忘れたのです。
私が茫然自失としている間に優秀な使用人らしい感情の窺えない表
情をしたサリーはコーネリアス様と交渉しておりました。
﹁殿下。どうしても、デボラ様をお連れするなら、私も一緒に参り
ます。デボラ様に不自由がないように過ごして頂くには、私がお世
話をして差し上げねばなりません﹂
﹁サリー!! 貴方まで来ることはないわ! 貴方はユーリを︱︱﹂
234
今度こそ、この子だけは守らなければいけない。
いくら感情で我を忘れていたとは言え、我が子のことを忘れるなど
私は母親失格です。
私は母親として残された最後の使命感からサリーに言いました。
﹁お守りすると誓った言葉を裏切らせないで下さい﹂
サリーは怒りを押し殺した静かな声で言いました。
﹁わかった。数時間とは言え、男に手を借りてデボラに恥ずかしい
思いはさせたくないからな﹂
私の意志を無視した呑気な男の言葉に殺意を抱きました。
その穏やかでない私の脳裏に泣き出したユーリをあやすのに必死で、
聞き流していた言葉が蘇ってきました。
正妃では無理だからと側妃にしようとしたこと。
側妃にできなくなると、愛妾にはできないから愛人にしようとした
こと。
この男の自分勝手な考えに私は何度も人生を振り回されていたのか
と悔しさを感じました。
それでも、この子を連れて逃げ出せそうもありません。
この男だけでなく、この家の中にはこの男の連れが何人かおります
し、家の外には家の中以上に敵がいることでしょう。
私はサリーを信じて時を待つことにしました。
235
選択︵前書き︶
マイノリティに対する配慮に足りない表記があるかもしれませんが、
実際のマイノリティの方を貶める意図はございませんのでお許し下
さい。
236
選択
王都に向かう馬車の中では厳しい顔で無言だったサリーですが、あ
の男に案内された家の一室で私たちだけになると窓に近付いて鍵を
開け、こちらに戻って来て口を開きました。
﹁では、逃げましょう。デボラ様、一つだけ約束して下さい。どの
ようなものを見ても大声を出さないと﹂
居心地良さそうに整えられた女性用の部屋ですが、あの男が用意し
たかと思うと吐き気がしてきます。
これ以上、この部屋どころか、この家にいたくない私はサリーの逃
亡宣言に喜んで頷きました。
﹁わかったわ、サリー﹂
前に手を着こうとしたサリーの姿は見る見るうちに変わっていきま
した。結わえていた髪は解かれ、服は肌と同化し、顔が伸び、手足
や身体も伸びました。肌の色も大理石のような白さへと変化してい
きます。
﹁サリー、これは・・・っ?!﹂
私の目の前でサリーは金の鬣を持つ白馬になってしまいました。
これ
﹃馬が私の真実の姿なのです﹄
私の頭に届いてきたそれが声ではないことに始めは気付きませんで
した。
237
﹁サリーは馬、だったの・・・? いえ、馬は人間なんかにはなれ
ない。サリーのお父様はローランド卿ですし、お母様のサニーも人
間だったわ・・・﹂
﹁デボラ様、お気を確かに。お迎えはそろそろ到着する筈です﹂
常識を覆すサリーの正体に混乱する私とは逆に馬?であるサリーは
冷静でした。
﹁迎え・・・?﹂
その瞬間、部屋の窓が音を立てて開きました。
あまりのタイミングに恐怖しました。
﹁デボラ? 大丈夫か? ︱︱何故、ここに馬が?﹂
窓から入って来たのはリオネル様でした。
﹁リオネル様。どうして、このようなところに?﹂
﹁コーネリアスが不審な動きをしていると辺境伯から報せがあった﹂
﹁辺境伯様が?﹂
﹁辺境伯の情報は気持ち悪いくらい正確だな﹂
﹃デボラ様。どうぞ、マチェドニア様とお行き下さい﹄
﹁サリー?﹂
238
﹃マチェドニア様と行けば、デボラ様はマールボロ侯爵家に帰れま
す﹄
﹁サリー? サリーはどうするの? その言い方だと貴方が一緒じ
ゃないみたいじゃない﹂
﹃私は︱︱﹄
サリーは私の腕の中にいるユーリの産着を口で咥えて、自分の首の
付根あたりの背中に乗せました。
ユーリは私の心の支えです。私は馬車の間もユーリを抱きかかえて
いました。そうしていなければ、怒りと屈辱に耐えられませんでし
た。
﹁何をするの、サリー?﹂
﹃この子は私が連れて行きます﹄
﹁サリー?! どうして?!﹂
﹃私は男でも女でもないだけでなく、化け物なのですよ。こんな気
持ち悪いの身体を持つ私でもデボラ様は恋人として受け入れて下さ
った。でも、子どもまで受け入れなくていいのです。今は受け入れ
られても、いずれは化け物との間にできた子として厭わしく思うよ
うになるでしょう。それくらいなら、私が連れて行きます。それが
誰にとっても一番良いことなのです。この子にとっては、実の母親
に疎まれたり、父親が化け物だと蔑まれません。デボラ様は化け物
に騙されて過ちを犯しただけだと考えたほうが楽に生きられるでし
ょう。その過ちの証を見ているよりはそのほうが心穏やかに生きら
239
れる筈です﹄
﹁そんな風には思わないわ﹂
サリーは仕方がないとばかりに首を振りました。
﹃いずれ、そう思うようになります。そうなった時、今の私の判断
が正しかったと感謝なさるでしょう﹄
﹁そんなこと言わないで。何故、そう言うことを言うの﹂
ことわり
﹃それが現実なのです。理なのですよ、デボラ様﹄
﹁それは現実じゃないわ、サリー。現実は私が決めることよ。サリ
ーの考えていることはただの妄想だわ﹂
私がサリーのほうに足を踏み出すと、まるで近付かれたくないよう
にサリーも一歩、後ろに下がります。
﹃妄想ではなく、これが一番実現されやすい未来なのです﹄
﹁サリーは未来がわかるの?﹂
﹃違いますが、こういった場合、︱︱﹄
﹁それなら勝手に決めつけないで。私は貴方を選んだの。選ばされ
たんじゃないの。サリーしか頼れなから選んだわけじゃないわ﹂
﹃しかし、︱︱﹄
240
﹁サリーは言ったわ。私の傍にいたいから王宮を辞めたって。私を
つ
守ると誓ってくれているじゃない。それなのに、貴方はいなくなる
というの?! どうやって、私をこれから守るの?! 私に嘘を吐
いて欺いていたの?!﹂
つ
﹃違います! 嘘は吐いていません!﹄
﹁嘘はいらないの。優しい嘘でもいらない。私には誠実でいて、サ
リー。私に必要なのは誠実さなのよ。だから答えて。サリー、貴方
は私を守ってくれると誓っているのよね?﹂
﹃はい﹄
﹁傍にずっといてくれるのよね?﹂
﹃・・・﹄
﹁私を愛してくれているのよね?﹂
﹃はい﹄
﹁なら、私を見くびらないで。貴方が愛することを選んだ私は、貴
方自身が卑下するその身体も、貴方が化け物だと称する正体も、そ
れが貴方の一部でしかないことを知っているわ。私が愛した貴方の
心は化け物じゃない。今もこうして人間ではない自分を化け物だと
怯えている優しい人よ。自分が化け物だから、人間として生まれて
きた子どもが虐げられると考える貴方のどこが化け物なの。ただの
子を思う良い親じゃない﹂
私はサリーに近付きました。今度はサリーも逃げませんでした。
241
﹁もっと、自分に自信を持って。そして私を信じて、サリー。自分
が愛されることを信じられなくても、私を信じてくれればいいから。
だから私の傍にいて、サリー﹂
私はサリーの首に腕を回して抱き締めました。
﹃こんな化け物が傍にいてもいいのですか?﹄
﹁傍にいるだけじゃないわ。私たちは家族なのよ。今までと同じよ
うに暮らしましょう﹂
﹃傍にいるだけでなく、今までと同様の関係を受け入れてくれるの
ですか?﹄
﹁当たり前でしょう﹂
﹃わかりました。ですが、それはマールボロ侯爵家の皆様と二度と
会えなくなることでも構わないでしょうか?﹄
﹁それは・・・。︱︱家族に会えなくなることは辛いわ。でも、成
長すれば自分が家族を作るものよ。それまでの家族と離れ離れにな
るのも、距離的なものだけじゃないわ。子どもの時に家族を失って
しまう人だっているもの﹂
﹃デボラ様・・・﹄
馬になってもサリーの美しいあの青い目は変わりません。
﹁二人の世界を作り上げているのはいいが、今の状況を思い出して
242
くれ。呆れて辺境伯がいなくなってしまったじゃないか﹂
私たちが感動に浸っているのをリオネル様が邪魔してきました。
そうです。
今はあの男がいつ戻ってくるのかわからない状況でした。
﹁辺境伯様がいたのですか?﹂
﹁ここに連れて来た張本人だ。︱︱手助けはいらないな?﹂
﹃ええ﹄
﹁では、私は先に行かせてもらう﹂
そう言って、リオネル様は窓の外に消えてしまいました。
﹃デボラ様。私たちも行きましょう﹄
﹁わかったわ﹂
リオネル様と同じように窓から出ようと、窓に向かいました。
﹃そちらではありません。こちらに来て下さい﹄
窓からではないの?
馬であるサリー。その背でサリーの鬣を握り締めてご機嫌なユーリ。
逃げるにしても方法がわかりません。
﹁私はどうすればいいの? ﹂
243
﹃背中に乗って下さい﹄
乗れと言われても、乗れません。
私も貴族の嗜みとして馬には乗れますが、補助もなく一人では乗れ
ません。跳ねっ返りやじゃじゃ馬でない限り、嗜みのある淑女は一
人で馬に乗らないからです。
﹁サリー・・・。私、補助なしでは馬に乗れないわ﹂
乗りやすいようにサリーは前脚を折り畳んで、低くしてくれました。
落ちそうになったユーリはそれを遊びの一つだと思ったのか、喜ん
でいます。
私はどうにかサリーの背中によじ登りました。
﹃首につかまっていて下さい、デボラ様﹄
私が首につかまるとサリーは立ち上がり、窓に向かって歩き出しま
した。
私たちが住んでいた家の部屋よりは大きい部屋ですが、壁際から馬
が何歩か進めばそこは壁です。
窓にぶつかる、と私が目を閉じた次の瞬間、空気が変わりました。
驚いて目を開けた時には私たちはあの男の家ではなく、サリーの実
家であるローランド卿の家の見慣れた居間にいました。
244
選択︵後書き︶
”王宮夜会”のリオネルの不穏な発言と”選択”の辺境伯の発言か
らこうなるとお気付きになったでしょうか?
リオネルはデボラが追放されてから辺境伯領に出かける用事があっ
て、協力関係になっています。ですから、サリーが馬でも驚いてい
ません。可哀想にリオネルの精神は奇想天外の辺境伯領に慣らされ
てしまいました。
245
選択
ローランド卿とサリーのお母様。その二人にどことなく似ている
金髪の娘たち。そして、アグリがいました。
﹁サリー、久しぶり∼!﹂
久しぶりに顔を見たアグリが馬上にいる私に飛び付いてきました。
﹁アグリ?! どうして貴女がここに? それにどうして? さっ
きまでは別の家にいたのに・・・?﹂
セントール
﹃私は人馬ですから、移動の魔法に長けているんです。ただ、自分
の知っている場所か、誰か目印になってくれる者がいないと行けな
いのが難点で、馬車で移動している間にアグリを呼んだのです﹄
﹁あたしたちは一族の者となら、どんなに遠くにいても意思の疎通
ができるんだよ﹂
﹁???﹂
理解が追いつきません。
サリーが馬?であることはわかっています。それを受け入れまし
たから。
セントール
でも、人馬?
移動の魔法?
一族同士で意思の疎通?
246
お伽話の世界に迷い込んでしまったようです。
サリーが馬?であるだけでも信じられないのに、お伽話に出てく
る魔法まで出てくるとは・・・。
・・・。
﹃すみません、父上﹄
﹁いつかはこうなると思っていたから気にするな、サリス。サニー
と生きることを選んだ時点で、国を捨てる覚悟もできている﹂
﹃父上・・・﹄
情報を整理しようとしている私の下︵?︶でサリーがローランド
卿と話をしています。
﹁それよりも、お前と私の関係に気付いて追手が来ないうちに急ご
う﹂
﹃はい﹄
母系遺伝だと聞きましたし、サリーのお母様も姉妹たちも馬?な
んでしょうか?
その疑問はすぐに答えが出ました。
﹁サニー。ジュリー、メアリー、シャーリー﹂
ローランド卿が声をかけるとサリーのお母様と姉妹たちが心得た
ように動き出します。先程、サリーがしたように前の床に手を着く
ような姿勢を取り、姿を次々と変えていきました。
金の鬣を持つ白馬たちがこんなにいると、部屋が非常に手狭に感
247
じます。これでまだアグリも馬?になっていないんですから、更に
部屋が窮屈になるんですよね。
ユーリはたくさんの馬の姿を喜んでいます。
馬車の中では緊張した空気の中でもさっさと眠ってしまうし、こ
の子は案外、大物です。
ローランド卿は白馬たちの一頭に近寄って、鞍や鐙もない裸馬に
そのまま乗ってしまいました。
騎士であるローランド卿は馬には慣れているでしょうから、裸馬
でも大丈夫でしょうが、妻と娘さんたちの見分けが付いているので
しょうか?
﹃アグリ﹄
﹁は∼い﹂
サリーが声をかけるとアグリは渋々、私から離れて、同じように
白馬に変じました。
セントール
﹃これから人馬の村に向かいます。嫌でしたら、辺境伯領でも良い
セントール
バイコ
ですよ。辺境伯ならあの男から隠し通すだけの力がありますから﹄
セントール
﹁人馬の村?﹂
バイコーン
ユニコーン
﹃私たちは二角獣と言われる人馬の一種です﹄
バイコーン
﹁二角獣?﹂
ーン
聞き慣れない単語です。一角獣は聞いたことがありますが、二角
獣など聞いたことがありません。
248
セントール
ユニコーン
﹃有名な人馬と言えば、万能薬になる角で有名な一角獣ですが、あ
ちらがの象徴するものが”男性”なら、私たちは”女性”を象徴す
る存在なのです﹄
一角獣がこんなところで出てきました。
一角獣の角は万病に効く最高級の薬として知られています。その
為、一攫千金を狙う傭兵や荒くれ者が一角獣狩りをして返り討ちに
遭う話は昔話で聞いたことがあります。その際に囮となった娘が純
潔なら攫われ、そうでなければ怒りを買って惨たらしく殺されるそ
うです。
﹁一角獣・・・。まさか、一角獣のことをこんなところで聞くなん
て・・・﹂
﹃これから実物が見られますよ﹄
そうです。
私は一児の母親なんです。
純潔じゃないから、一角獣に殺されてしまいます。
﹁サリー。私、殺されてしまうわ﹂
バイコーン
ユニコーン
そう言えば、サリーたち二角獣は大丈夫なんでしょうか?
サリーのお母様は完全に一角獣に殺される基準を満たしています
よね?
﹃そんなことさせませんよ。デボラ様をお守りするという誓いは破
らせません。それに一角獣狩りの囮ではないんですから、大丈夫で
すよ﹄
249
サリーはそう言ってくれますが・・・。
・・・。
﹁一角獣狩りの囮? 囮だけ?﹂
﹃ええ。そうじゃないと、村人は皆、独身男だけになってしまいま
す。さあ、早くしないとアグリを見失ってしまいます﹄
気付くと白馬は最後の一頭だけで、それも姿が消えかけています。
あんな風に私たちも移動したのでしょうか?
そしてこれから移動する時も。
﹃行きますよ﹄
視界が闇に包まれたかと思うと次の瞬間にはまた別の場所にいま
した。
今度は室内ではなく、森に包まれた村の広場のようです。
広場の周りの幾つかの建物以外は木々に紛れるように点在して立
っています。それ以外は領地にあった村と変わらない普通の村のよ
うに見えます。
﹁ここは?﹂
セントール
﹁人馬の村へようこそ、デボラ!﹂
人の姿に戻っていたアグリが心から歓迎してくれました。
私は金髪美女の中に一人だけいる黒髪のローランド卿を見ながら、
彼が乗っていた白馬は本当に妻だったのか気になりました。
﹃人間が来ることのできないここでは、もう、外に出る時もデボラ
250
様の姿を偽る魔法は必要はありません﹄
﹁姿を偽る魔法?﹂
﹃デボラ様は美しすぎて人目を引きすぎるのです。王都から追放さ
れた後、あの男が探していることは知っていましたので、出かける
時は魔法をかけさせて頂きました﹄
﹁!!﹂
私は一度だけ、一人で家から出かけたことがあります。
子どもができたことがわかり、父と母に手紙を出しに行った時で
す。
その後、見たこともない美女が街に現れたという噂を聞いて、サ
リーに一目見たかったのか尋ねてみたことがあります。サリーは﹁
デボラ様がいるので見る必要はありません﹂と言っていました。あ
の美女が私なら、サリーが見に行く必要がないのもわかります。
・・・。
もしかして、サリーにもその魔法はかけられていたのではないで
しょうか?
あの男がサリーを見て、﹁お前のような顔の女﹂と言っていたの
はそのせいかもしれません。
﹃貴女を選んで、私は男性として生きることにしたのですから、こ
の村で長生きして下さい、デボラ様﹄
﹁サリー? それはどういう意味?﹂
バイコーン
﹁二角獣は生涯でたった一人を選んだら、性別を定めてその相手が
251
死ぬまで生きていくんだよ。相手が死んじゃったら、後を追う。そ
んな種族なんだよ∼﹂
アグリが楽しげに怖いことを教えてくれました。
﹁サリー!﹂
﹃そろそろユーリの為にこの村に移住しようと思っていましたが、
まあ、少し早くなったくらいですし、構いませんよね﹄
呑気に独り言に頷いているサリーの鬣を引っ張って注意を引きま
す。
﹁アグリが言ったことは本当なの?!﹂
﹃私が化け物でも構わないと仰ったのはデボラ様ですよ?﹄
私が気にしているのは化け物かどうかではありません。
﹁私が死んでも、後は追わないで﹂
サリーが私を追って死ぬ、それが嫌でした。
私が死んだとしても、私の分も代わりにユーリが一人で生きてい
けるまで見守っていて欲しかったのです。
私だけでなく、サリーまで私の後を追って死んでしまっては、ユ
ーリが両親に死なれて可哀想すぎます。
苦笑して、サリーは言ってくれました。
﹃わかりました﹄
252
と。
253
エピローグ sideサリス
太陽は万物を温め、全ての陰りを消し去る。それを魅力に思う者
もあるだろう。しかし、強すぎる熱は灼き尽くし、容赦ない光は有
象無象の区別なく暴き出す。
月は熱がない。光も弱すぎてないかもしれない。しかし、見えな
くても影響を与える。凍えるかもしれないが、その寒さを気にしな
ければその美しさと優しさに触れることができる。
太陽は灼かれても耐え得る強さがなければ近寄ってはなならず、
月は凍えても耐え得る強さがなければ近寄ってはならない。
あの男は灼かれても耐え得る強さがなかった。
だから、あの男は手に入れた太陽に灼かれ、涼を月に求める人生
を送ることになる。
では、月を手に入れた私は?
凍えても耐え得る強さを持つ私は熱い愛で月の凍てついた心を溶
かす。
あの男が身分をどう振りかざそうが、月は永遠に私のもの。
あの男の弱さが月を手放させたのだから。
折角、私が攫うことを諦めて月の傍に寄り添い続けることを選ん
だというのに馬鹿な男だ。
254
エピローグ sideサリス︵後書き︶
次のエピローグはざまあです。
255
エピローグ sideリオネル
ドアをノックする音に私は執務机に置かれている書類の文字を追
うのを止め、視線を上げた。
どうやら書類に目を通すのに集中していて、辺境伯の先触れどこ
ろか入室にも気付かなかったらしい。
開けたドアをノックして注意を引いた辺境伯がそこにいた。
﹁? 辺境伯か。コーネリアスはどうだった?﹂
辺境伯は人身売買を取り締まる途中で王太子の座を失ったコーネ
リアスの領地に用が出来て赴いていた。
コーネリアスが王太子の座を失った主な理由は正妃であったレデ
ィ・オーガスタの手綱すら締めることが出来ず、他国の貴族との密
通や男漁りを許し、離婚する羽目になったからだ。本人にも女好き
の噂があるおかげで民衆に嫌われたと言うのも理由の一つになって
いるかもしれないが、実際は正妃への断固とした対処の出来ないこ
とに業を煮やした貴族から見捨てられた、と言うのが理由だ。
当の正妃は取り巻きの一人とさっさと再婚してしまい、王太子で
はなくなったコーネリアスの側妃は降嫁し、コーネリアスはクレメ
ンテ公として
新たに与えられた領地を一人で治めることになった。王太子とし
て教育されてきたのだから、それくらいはできるだろう。
﹁残念だが、私が到着する前にクレメンテ公の館が賊に襲われて全
焼してしまった﹂
256
辺境伯は淡々と報告する。
辺境伯にとっては、コーネリアスのはどうでもいい存在だった。
それはコーネリアスだけに限ったことではない。辺境伯にとっては
王家だろうが、王族の誰だろうが、そうなのだ。
辺境伯であるキリル・アレル・ストラットンとはそういう人物だ。
辺境伯として生きるキリルにとって守るべきは国と民衆である。
そこに王侯貴族は含まれない。それはあまりにもあっさりとした、
それでいて明確な事実である。
だから辺境伯には私の気持ちがわからない。
﹁何てことだ!﹂
慌てる私とは反対に辺境伯はドアを閉めて、これ以上、会話を漏
らすのを止めた。
ここまでの会話を辺境伯は多くの者に聞かせたかったのだ。
﹁この結末のどこが悪い?﹂
﹁かつて、この国の王太子だった者が賊の手にかかって亡くなるの
は外聞が悪い﹂
﹁マンドラゴラに踊らされて、盗賊と手を組んで一つの村を皆殺し
にした、と言うのが露見するよりはマシだ﹂
﹁一つの村を皆殺しにしただと! そのようなことは聞いていない
ぞ!﹂
お伽話に出てくる魔物のことは後でいい。あれは引き抜かれる時
に悲鳴を上げて聞いたものを死に追いやるだけだ。
257
それよりもコーネリアスがしたとされる犯罪のほうが重要だ。
コーネリアスは馬鹿ではないのだ。馬鹿では。
にな
従兄弟は少し自分に自信がないだけだった。それがデボラとの婚
約破棄を招き、転がり落ちるようになっていった。その一因を担っ
たのは私だ。
﹁人身売買を取り締まり中に発覚したのだから仕方がない。クレメ
ンテ公の領地で確認が取れてから報告しようと思ったのだ﹂
コーネリアスの領地に行くことは連絡して来たのだから、辺境伯
は事前に報告する気などなかったのだろう。
﹁ところが確認に赴いたら、領主の館が焼け落ちていた﹂
﹁本当にそうなのか? お前は仕事に忠実すぎる。それにだいたい、
その仕事は王家の仕事だろう﹂
﹁残念ながら、王家お抱えの騎士団は魔物狩りが大捕り物になって
しまう。他国のように魔物の存在を表沙汰にするなら兎も角、そう
でないなら、魔物の知識のある私のほうが適任だ﹂
他国は騎士やら傭兵が依頼を受けて魔物を退治しているが、この
国では魔物使いである辺境伯の情報網で魔物を探し出して公になる
前に対処している。その為、魔物の存在をお伽話でしか知らない国
民が多い。
﹁辺境伯・・・﹂
﹁民衆に噂を流して王太子の座から引きずり下ろした人物が何を言
う?﹂
258
﹁私はこの国に人生を捧げることを選んだだけだ﹂
﹁それは私も同じだ﹂
同じようでいて、私と辺境伯は違いすぎる。
﹁お前はそれを逸脱している﹂
﹁国を守るは辺境伯の役目。民を治めるは王家の役目。私は役目に
従ったまで﹂
武力で国を守ることは辺境伯の仕事。
外交で国を守ることは王家の仕事。
国を治め、この国の人間からこの国の人間を守るのは王家の仕事。
王族から国を守るのは辺境伯の仕事。
﹁なら、オーガスタを何故、野放しにする?﹂
﹁あれはあれでまだ役に立つ﹂
﹁彼女は国の機密を漏らしたんだぞ﹂
﹁と、言うことで、離婚にしただけだ。あのクレメンテ公も味方を
残さないようによく工夫したものだ﹂
コーネリアスの正妃は再婚前に離婚理由が理由だけに実家から勘
当されている。それでも取り巻きの一人は親戚の反対を押し切って
再婚に踏み切ったそうだ。
だが、貴族は社交界で生きるもの。
259
実家の後ろ盾もなく、他国に国を売ったとされる女で、王太子を
その座から下ろすことになったのが原因で国王夫妻の怒りまで買っ
た人物を夫の権力だけで支えきれる筈もない。
夫ですらようやくその現実に打ちのめされ、離婚することとなっ
た。
デボラの場合から推測すると、マールボロ侯爵家はオーガスタの
為に静かに暮らせるだけの用意はしているようだが、今度は商人と
の結婚話があるらしい。
離婚理由が今度の社交界には知らされていないのだから社交生活
はそれなりに確保できるだろう。
﹁それだけオーガスタへの失望が大きかったのだろう﹂
﹁レディ・デボラを得られなかったクレメンテ公の八つ当たりだな﹂
﹁・・・﹂
オーガスタに悪意も何もない。
すべては誰にとっても悲劇だったのだ。
デボラにもオーガスタにもコーネリアスにも。
コーネリアスが女好きとされる根拠も、他の王子たちや貴族も似
たり寄ったりだ。
﹁マンドラゴラに操られたクレメンテ公と村人たちがマンドラゴラ
の取り合いをした挙句、クレメンテ公は盗賊の手を借りて村人を皆
殺しにしたのだ。盗賊が売り払った村の生き残りがいなければ、私
もまだ気が付かなかったかもしれない﹂
辺境伯の語るマンドラゴラの所業から私がお伽話で知るマンドラ
260
ゴラとは違う性質のものだとわかる。人間を操る話など聞いたこと
もない。その上、争わせるなど・・・。
﹁・・・。そのマンドラゴラは?﹂
﹁既に処分した﹂
コーネリアスが村人を皆殺しにしたと言うなら、マンドラゴラは
コーネリアスの所にいた筈だ。それを処分したということは、盗賊
の手で殺された筈のコーネリアスはやはり辺境伯に消されたのだろ
う。
﹁どうして、そんなものがこの国に・・・?﹂
ユニコーン
ユニコーン
﹁どの国にでも魔物は現れる。国という概念は魔物にはないからな。
一角獣の角が薬として出回っているように、一角獣もマンドラゴラ
も好きな所に出没する。人間が目を逸らしているだけで、魔物は実
在するのだ。魔物の中には人間に紛れて暮らせるものもいるからな﹂
﹁ローリーのようにか?﹂
その名を思い出すと胸が酷く痛む。
本人の望み通り、私は忘れていたほうが幸せだったのかもしれな
い。しかし、彼女への想いを妹のように思っていたデボラにすり替
えられていたのは許せない。
忘れたまま、コーネリアスが女好きと噂された所業をしていたほ
うが良かった。彼女への想いを汚されるよりは。
﹁私もそうかもしれないぞ?﹂
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﹁悪い冗談はやめてくれ。偶然、辺境伯が魔物使いだと知ってしま
っただけでも充分、頭が痛いのに、その本人も魔物だとは考えたく
もない﹂
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エピローグ sideリオネル︵後書き︶
お読み下さってありがとうございました。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1534cv/
王太子妃になれなかった婚約者 【連載版】
2016年3月12日13時52分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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