目 次

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はじめに ⒡⒢脳を理解する近道、それが昆虫だ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
目 次
昆虫はすごい ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
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戦略/反射とプログラム行動/行動戦略は状況に応じて変化する/
フェロモン/匂い源の探索は超難問/匂い源を探索するための行動
どうやってフェロモン源を見つけ出すのか ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
/大きさの世界/異なる環境世界を知るために計測装置を使う
環境世界/感覚の世界/複眼/視力/見える色/偏光/時間の世界
動物によって異なる環境世界 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
げられる?/小さな脳で優れた適応力を発揮
地球は昆虫の惑星/昆虫の感覚能力/ゴキブリはどうして素早く逃
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カイコガが操縦するロボット/昆虫操縦型ロボットでカイコガの適
応能力を調べる
昆虫の体はセンサだらけ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
昆虫の鼻/昆虫の一般臭の受容体の遺伝子/昆虫のフェロモン受容
体の遺伝子/サイズを生かした感覚器と脳の設計
脳をつくってロボットを動かす ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
昆虫の神経系/胸だけあれば羽ばたける/昆虫の脳をつくるモジュ
ール/昆虫のニューロン/ニューロン1つにガラス微小電極を刺す
/光らせてニューロンを調べる/光がフェロモン刺激の代わりにな
る!/ニューロンデータベース/匂い源探索行動をおこす神経経路
/直進、ジグザグターン、回転を指令するニューロン/前運動中枢
の構造/㍊個のニューロンで前運動中枢の神経回路を再現する/ま
ずは領域間のつながりと結合強度を推定する/標準脳を用いた精密
な神経回路モデル/標準脳/標準脳につくった神経回路を﹁京﹂ス
ーパーコンピュータで動かす/神経回路モデルで動くロボット/適
応的な行動を生みだす神経回路モデルへ
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サイボーグ昆虫 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
﹁サイボーグ昆虫﹂誕生/サイボーグ昆虫の意味/脳の機能を理解
し、予測し、操作する未来へ
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イラスト 川野郁代
おわりに ︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰︰
もっと詳しく知りたい人へ 謝辞 107
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はじめに
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はじめに ⒡⒢脳を理解する近道、それが昆虫だ
昆虫というと、好き嫌いが大きく分かれる。チョウやトンボを追いかける昆虫少年のよう
に、その姿形に魅せられてコレクションするほどに好きな人と、﹁虫﹂と聞いただけで、不
気味で怖い、気持ち悪いと思ってしまう人だ。ゴキブリや蚊にいたっては、かわいそうなも
ので誰からも好まれることがない。
昆虫を使って研究をしていると﹁昆虫博士ですか﹂とか、﹁子どもの頃から虫が好きだっ
りんぷん
たんですか﹂とよく聞かれる。実は大人になるまで虫が怖くて、小さい頃は触ることもでき
なかった。手についたガの鱗粉にはおぞましささえ感じて、とても昆虫少年のように虫とは
友達になれなかった。ところが、研究を通じて昆虫と接するうちに、その姿形のもつ意味の
深さや美しさ、昆虫がもつたくさんの不思議な能力のすばらしさに驚かされ、どんどんと魅
せられていった。そして、気がつけば、昆虫からたくさんのことを学び、生物としての人間
のありかたということも教えられた気がする。
これから話すのは、こんな世間一般の多くの人には嫌われがちな昆虫が、実は、脳科学や
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産業応用の分野で活躍しているという、おそらくみなさんが、まったく考えもしなかった昆
虫の話である。昆虫というのは、接し方やとらえ方でこれだけ違って見えるということを紹
介したい。
本書で主に登場する昆虫はカイコガだ。カイコガというのは絹をつくるので有名な昆虫で
ある。1970年代頃まではカイコを飼育する養蚕農家は全国にたくさんあったが、今では
絹の生産が中国やインドに移ってしまったので、ほとんど見かけることはなくなった。しか
し、カイコガは古くから日本で飼育されていたため、さまざまな研究にも使われてきた。今
でも、生命科学研究のモデル生物となっている。
生命は﹁億年前にこの地球に誕生し、単細胞生物から多細胞生物へ、そして昆虫などの節
足動物やヒトへと進化した。動物は自然が織りなす環境の情報を適切にとらえて生き抜くた
めの情報処理装置として、脳を進化させた。
わたしたちヒトの脳は、1000億もの膨大な数のニューロンという細胞からできてい
る。そして、ニューロンが複雑につながり情報処理の基盤となる神経回路ができている。
1000億ものニューロンがつながっているわけだから複雑なのはいうまでもない。さらに
は、ニューロン間のつながりは、強くなったり弱くなったりと時々刻々と変化する。この本
を読みながらみなさんはいろんなことに考えを巡らせていると思うが、その間にも脳は刻々
はじめに
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と変化している。脳の研究の難しさはそういうところにある。だから、これまでの生物学の
方法でおこなってきたように、ニューロンまでばらばらにしてそのしくみを調べるという方
法では、脳本来のはたらきやしくみを明らかにするのは難しい。
そのようななか、欧米ではニューロンからヒトの脳を再現しようという﹁ヒューマンブレ
イン・プロジェクト﹂や﹁ブレイン・イニシアチブ﹂といわれるプロジェクトが始まった。
前者がスーパーコンピュータを利用した大規模なシミュレーションを中心とし、後者は分子
からニューロン、行動にいたる実験と理論からの展開を考えているようだが、いずれのプロ
ジェクトも、1つ1つのニューロンや複雑な脳の神経回路の情報処理のしくみを把握して、
アルツハイマー病やうつ病、自閉症などの治療法を確立することを目指している。脳のよう
に複雑なしくみの理解には、それを作ることによって理解するという方法が重要になるのだ。
ところが、1000億ものニューロンをどうやって再構築するのか、また多数のニューロ
ンの活動を1つ1つのニューロンからどのようにして同時に測定するのかなど、技術的な課
題も多いのが現状だ。
わたしたちは2000年頃から、ヒトよりもずっと少ないニューロンからできている昆虫
の脳を使って、ニューロン1つ1つから脳のモデルをコンピュータ上につくることで、その
しくみが理解できないだろうかと考えて研究を進めてきた。そしてその対象に選んだのがカ
イコガである。カイコガであれば、ニューロン1つ1つを調べることも、遺伝子改変技術や
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スーパーコンピュータ、ロボットなど、最新のあらゆる科学技術を投入することもできる。
このような研究は、脳のしくみを理解するばかりではなく、自然が進化を通してつくりあ
げた脳という情報処理装置を、どこまで人工的につくりあげることができるかというチャレ
けい
ンジでもある。また将来ヒトの脳のモデルをつくり、治療に役立てるための試験台になると
考えたのだ。
脳の構築には、﹁京﹂というスーパーコンピュータを利用している。コンピュータに脳の
コピー モ(デル を)再現することによって、脳をつくる1つ1つのニューロンの活動が手に取
るように見えてくれば、﹁あっ、脳のここはこういうふうに動いているんだ。脳のここはこ
んなはたらきをしているんだ﹂ということが確認でき、さらには未知の脳のはたらきを予測
することも可能になるかもしれない。また、脳の一部に障害があったとき、﹁ここのニュー
ロンの配線を変えると、元通りにはたらくかもしれない﹂ということをコンピュータ・シミ
ュレーションで予測し、その予測にもとづいて本物の脳を治療する。そんなことが将来、実
現するかもしれない。
ところがそのようなことを、ヒトのような非常に複雑な脳でおこなうのはまだ技術的に難
しいし、倫理問題もある。だったらこのような研究ができる昆虫から始めて、技術的にどこ
まで可能か、また問題点や課題は何かを明らかにして、このような研究の基盤を整えていく
ことが大切と考えたのだ。
はじめに
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昆虫を使って、脳をつくり、理解し、活用する研究を進めるなかで、新しい方法も編み出
されてきた。それが、﹁昆虫が操縦するロボット﹂であり、昆虫の脳の信号で動く﹁サイボ
ーグ昆虫﹂なのだ。まだ誰も達成したことのない脳をつくるというチャレンジのために昆虫
が使われているのだ。
1 昆虫はすごい
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昆虫はすごい
きる。これは昆虫も同じだが、さらにわたしたちには想像できないような感覚能力ももって
ヒトは匂いや味、光、音、あるいは風など、環境下のさまざまな信号を感じとることがで
昆虫の感覚能力
昆虫はさまざまな環境下で生息できる多様な能力をもった生物なのだ。
ちの半数以上を占めるのが昆虫なのである。地球が⒜昆虫の惑星⒞といわれるゆえんだ。
生息している。地球は多様な生物で満ちあふれているのだ。そして驚くべきことに、そのう
1種に過ぎない。ところが地球上には、記載されただけで、180万種類もの多様な生物が
うか。生物の種は学名で表され、わたしたちヒトは⒜ホモ・サピエンス⒞というが、たった
地球上には、私たちヒトも含めて、どれぐらいの種類の生物が生息しているかご存知だろ
地球は昆虫の惑星
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いる。
たとえば、環境下には、ヒトの眼では検知できない偏光や紫外線が含まれているが、ミツ
バチの複眼には偏光や紫外線を検知できる視細胞がある。ミツバチはこの能力により、たと
え太陽が雲に隠れていても、青空がわずかにでも見えれば正確に太陽の位置がわかる。
コオロギのオスはリーリーと鳴いて、交尾相手のメスを呼び寄せる。これを誘引歌という
が、メスはオスの歌の特徴的な周波数に敏感に反応する聴覚器官をもっている。また、夜行
性のガはわたしたちには聞きとれない超音波に反応し、天敵のコウモリの攻撃を回避してい
る。
カイコガのオスは、わずか170個というごく微量のフェロモン分子が触角に当たるだけ
で、メスの匂いを検出し、メスの居場所を探し出すことができる。
このような能力は数え上げたらきりがない。
ゴキブリはどうして素早く逃げられる?
次に紹介するのは筆者の研究室が協力してNHKの﹃ためしてガッテン﹄という番組でお
こなった実験だが、昆虫の能力を示すよい例だ。ここではゴキブリが登場する。
ゴキブリの天敵のひとつはカエルだ。のそのそと近寄ってきて舌をベロッと出してゴキブ
リを捕食する。そのときに、ゴキブリは、1秒間にわずか1センチメートル程度 た(だし、加
1 昆虫はすごい
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図 1 ゴキブリの逃げ足の速さの秘密は尾葉にある.尾葉
に生える毛で風を感じ,敵の接近を察知する.
速度はェセンチメートル/秒/秒程度 と
)
いう、わたしたちにはとても感じるこ
とのできない弱い風を感じてカエルの
接近を察知し、素早く逃げる。
この風をゴキブリはどこで感じてい
るのかというと、尾葉という器官であ
る 図( 1 。) もし自宅でゴキブリを見つ
けたらぜひ捕まえて見てもらいたいが、
ゴキブリのお尻には、触角よりは短い
が、1対の突起があるのがわかる。そ
れが尾葉だ。尾葉を拡大すると、たく
さんの毛が生えているのがわかる。こ
の毛が動くことで、風を感じることが
できる。わずかな風でこの毛が動き、
ゴキブリは敵が来たことを察知して逃
げるわけだ。
さらに驚かされるのが、その反応の
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つ
速さだ。ランプが点いたら素早くボタンを押すという実験をすると、速い人でも0 2秒ほ
どかかる。陸上競技では医学的根拠にもとづいて、合図から0 1秒以内に反応した場合は
フライングと判定されるようだ。ヒトは刺激があってから反応するまで0 2秒くらいかか
るわけだが、なんとゴキブリは0 02秒で反応する。わたしたちよりヮ倍も速いのだ。
NHKの番組でこの実験をおこなったわけは、実は、ゴキブリは丸めた新聞紙で叩けるか
という問題へのチャレンジだった。丸めた新聞紙を持って、ゴキブリに狙いを定めて動かそ
うとすると風がおこるが、その瞬間に風はゴキブリに届いている。その風をゴキブリは十分
に感知できるようだ。だから、新聞紙を振り下ろし始めた瞬間にゴキブリは尻にある尾葉で
それを検知し、0 02秒後には動き出すことになる。新聞紙が振り下ろされたころには、
ゴキブリはすでに安全な場所まで移動しているというわけで、新聞紙を振り下ろしてもゴキ
ブリは叩けそうにないという結論だ。
風を素早く感じることができる機能、こういった能力には、それを感じるセンサ 感( 覚器
官 も
) そうだが、同時に脳の処理が速いことも重要になる。以下では、このような昆虫の脳
について紹介していこう。
小さな脳で優れた適応力を発揮
ヒトの脳の写真はよく見るだろうが、昆虫の脳を見たことのある人は少ないだろう。ヒト