野比の里山歩きと水辺公園のハンゲショウ観賞 ガイド用説明資料

野比の里山歩きと水辺公園のハンゲショウ観賞
ガイド用説明資料
【YRP野比駅
【YRP野比駅】
野比駅】
京急久里浜線が延長され野比に駅が出来たのは昭和38年で、「野比駅」と言った。
当初は京急久里浜駅との間を2両編成の電車で折り返し運転をしていたが、次第
に周辺の宅地開発が進み利用者も多くなって行った。
平成9年に横頂賀リサーチパーク(YRP)の開業に伴い、YRPで働く研究者
や技術者の利用が格段に増し、また駅が改装されたこともあって周辺の様子は一変
した。そして駅名も、YRPの最寄駅ということで改称され「YRP野比駅」とな
った。名称に横文字を含む駅は、全国で4番目、JR以外では初めてである。
一日の平均乗降人員は約 22,000 人で、京急全線 72 駅中 29 位。
(横須賀では9駅中7位)。
【最宝寺】
最宝寺】
浄土真宗の寺で、高御蔵五明山最宝寺と言う。(土地の人は五明山と言った方が
通りが良い)。開山は明光上人。
鎌倉時代の初め頃、鎌倉に創建された。頼朝とゆかりのある明光上人は、宮中
の高御蔵にあった薬師如来を拝領して本尊とした。上人は天台僧だったが、後
に親鸞聖人に帰依して寺を浄土真宗に改めたと伝える。
室町時代の大永年間(1521-28)に、寺は鎌倉より野比へ移転した。兵乱を避け
るためとか、小田原北条氏の真宗弾圧が契機になったとか言われる。
江戸時代は、1万石の格式のある寺として扱われた。関東大震災で大本堂、鐘楼
等は全壊したものの、戦後本堂が再建され庫裡も新築された。
現在、本堂中央に本尊の阿弥陀如来、向かって右側に親鸞聖人、左側に明光上
人の掛軸がある。その側の厨子内には、もと本尊の薬師如来坐像が安置されて
いる。この像は宋風の影響を受けた、また数少ない中世の作品として県指定の
重要文化財となっている。寄木造り、玉眼入り、漆箔作り。
ここには、鎌倉・江戸時代の宝物が数多く収蔵されている。本堂正面の扁額「五
明山房」の左右にある笹りんどうの紋は、頼朝とのゆかりを示す寺の紋と言わ
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れる。
またこの寺は、4月8日の釈迦の生誕祭に甘茶がふるまわれて親しまれている。
【最蔵寺】
最蔵寺】
浄土真宗の寺で光照山最蔵寺と言う。開山は徳林上人。
鎌倉時代の貞応元年(1222)の創建で、野比では最古の寺である。最善坊徳林
は、もと京都禁中警護の北面の武士で藤原相模之介千晴と名乗っていた。僧に
なって諸国を巡回し野比に最善坊という天台宗の寺を建てたが、後に親鸞聖人
に帰依し最蔵寺と改め浄土真宗に転宗した。
第四世西林の時、近くの沼の池と呼ばれる場所にあったものを現在地に移した
とも伝える。
山門をくぐると正面に銅葺で緑色に映える本堂があり、左側に庫裏があ。本
堂は大正 12 年の大震災で倒壊し一時仮堂が造られたが、それを戦後大改築した
ものである。
本堂の扁額「慈光普照」の下にある向拝(ごはい)の扉に、上り藤の銀紋が目
につく。これは寺の紋で藤原氏に縁のある寺であったことが分かる。
本堂正面に本尊阿弥陀如来、向かって右側に親鸞聖人、左側に蓮如上人(本願寺
中興の祖)の掛軸が祀ってある。
11 月上旬には、親鸞聖人の徳を偲び報徳講が盛大に実施される。
【称名寺】
称名寺】
浄土真宗の寺で酔蓮山称名寺と言う。開山は真仏上人。
当初は真言宗一水山大塔院と言ったが、鎌倉時代の貞永年間(1232-1233)に下総
国結城の称名寺より真仏が当寺に入り寺名を称名寺に、宗派を真言宗より浄土
真宗に改めた。
天明6年(1786)火災により古文書等が焼失したが、寛政7年(1795)に再興
された。現在の建物は、昭和 45,46 年の火災後に新たに建てられたものである。
山門をくぐって正面の建物が本堂で、1階が納骨堂、2階が本堂である。本堂の
正面に本尊阿弥陀如来、右に親鸞聖人、左に蓮如上人の像が祀ってある。
本堂の向かって左側に、観音堂、鐘楼、親鸞聖人の銅像が並ぶ。
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か きつ
観音堂は初め千駄が崎にあったが、嘉吉年間(1441~43)に大嵐と火災に遭ったため
ここへ移された。行基作と伝える観音像は首だけが焼け残って、後にその
首が現在の聖観音の胎内に納められたことから腹寵り観音と呼ばれる。その由
来により古くは、小田原城主北条氏家の室の安産祈願の参詣があり、お礼のお
参りもあったと聞く。現代でも、安産の守り本尊として親しまれ信仰を集めて
いる。ご詠歌に
「いのちのびまいりておがむ観世音二世安楽といのるもろ人」
観音堂の右手鐘楼に、昭和49年製の釣鐘が掛かっている。
当寺はまた三浦三十三観音霊場の十一番札所でもある。
称名寺副住職結城麻衣子氏の法話より。
溢れかえる今の世の中。あなたの大切なものは何ですか。人それぞれ考え方
も違う。だから答えはたくさんある。
私の大切なもの。それは、人との出逢い。今、あなたに出遭えたこと。偶然
な出遭いなんてない。全てが出遭わなくてはいけなかった世界がそこにある。
浄土真宗について
浄土真宗について
①鎌倉時代以降、浄土・日蓮・禅宗等新仏教の教線拡大の中で、天台・真言の
古い密教寺院の多くは新たな宗派に転宗して再興されることになった(生き残る
ため)。
浄土真宗寺院の展開については、室町時代以前に創建された寺院は少ない。
近郊では(衣笠部会関連)、前に述べたように鎌倉時代からの伝えを持つものは三
浦半島4寺の内、最蔵寺は天台から、称名寺は真言からの転宗である。また室
町時代になると、最宝寺が鎌倉から移転した。矢部は臨済宗が、金谷は大明寺
の影響もあって日蓮宗が強く浄土真宗は入り込めなかったようだ。以上が、野
比駅周辺に浄土真宗の集中する理由である。
②浄土真宗は他の宗教と少し異なる。葬儀の香典袋に「御霊前」ではなく「御
仏前」と書くし、線香は短く切って香炉の灰の上に寝かせて焚く。頭髪を伸ば
している住職もいるし、現世利益も説かない。従ってお守り等も置いていない。
③親鸞の救済思想の中心は、悪人正機である。即ち悪事を犯した時、善人より
悪人の方が「悪いことをしてしまった」と反省することが深い。浄土真宗では、
このような悪人程救われる。
④宗派による本尊の祭り方。浄土宗では、舟形光背の阿弥陀如来像が本尊、右
に観音菩薩、左に勢至菩薩。浄土真宗では、阿弥陀如来立像が本尊、右に親鸞
聖人、左に蓮如上人の形式が多い。
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【天照大神】
天照大神】
通称「てんしょうだいじん」。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。
江戸時代の初めお伊勢参りの盛んな頃、里人の三家(げんぜむ、きゅうぜむ、さ
んぜむ)の人達が、通称お伊勢山に伊勢皇大神宮の神霊を勧請し、長沢の鎮守と
して創建したのが始まりと伝える。
伊勢神宮は、わが国の8万の神社の総親神として仰がれ約2千年の歴史を持つ。
一方天照大神は伊勢神宮の祭神で、日本国創成の日の神として昔から崇拝され
て来た。
「お伊勢参り」は、庶民にとり一生一度の大旅行であった。熊野参り、春日参
りとともに室町時代から行われ、天下騒乱が終結した江戸時代にはますます盛
んとなった。そのような社会情勢のなかで勧請されたのである。
明治6年村社となる。明治 41 年、近くの浅間・若宮・熊野・春日の各神社が当
社に合祀された。
また、本殿・拝殿の老朽化が進んだ平成11年、拝殿の屋根を銅板への葺き替え、
正面を唐破風へ改築、幣殿の新築等平成の大事業が終了した。
祭礼は、7月19日で町内の氏子全員が参加して盛大に行われる。
【四ツ田稲荷】
田稲荷】
明治時代の初め頃、四ツ田の住人が(近くの山田知朗氏の先祖とその隣の山田木
兵衛さん)、京都の伏見稲荷より神霊を勧請した。その祠を20日余りかけて持
ち帰ったものが祭神となっている。祠は家の近くにあった14坪ほどの小高い丘
に祀ったが、場所も神木も当時と変わらない。ただし、お稲荷様の下方は三方
が石垣で整備され昔の面影はない。
「四ツ田」は昔からこの地方の地名であった。
【かろうと山古墳
かろうと山古墳】
山古墳】
野比川の上流長沢四ツ田の山頂東南端に、直径10数メートルの盛土がある。古
墳時代の7世紀中頃、三浦半島の有力な豪族の墓として築かれたと推定される。
「かろうと」とは石造りの部屋のこと。当かろうと山古墳は、近くに類例がな
いことから他から移って来た有力者の墓かも知れないし、当時三浦半島に何人
もいた郡長のような豪族の墓とも考えられる。少なくとも三浦半島長のような
人の墓ではあるまい。
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調査結果、この古墳は楕円形を有する円墳で、埋葬部分は凝灰岩の切石をたく
みに組合わせた箱式石棺であることが分かった。
主軸は南北方向で、内寸法は南北 2.57 メートル、東西 0.86 メートル、深さ 0.71
メートル。4枚の切石を底板とし、西側に2枚東側に3枚垂直に立て、南北壁は
長い板石を2枚ずつ使ってその石壁の外側は別の石で支柱の役目をさせ倒れる
のを防いでいる。
のみ
幾度かの盗掘にもかかわらず、直刀・つか・鑿等数点が掘り出された。中でも
のみ
金銅装鑿状鉄製品(こんどうそうのみじょうてつせいひん)は、出土例が少なく東
日本では唯一である。現在横須賀市の自然人文博物館に保管展示中。
7世紀前半以降の三浦半島では、古墳に替わり横穴墓が盛行するが、この時期に
単独の高塚墳として築造された当古墳は特異な存在である。主体部の構造、副
葬品の内容、数少ない終末期古墳であることからその価値は高い。平成 20 年、
古墳を合む周囲の地域約4万平方メートルが横須賀市の史跡に指定された。
【横須賀リサーチパーク
横須賀リサーチパーク YRP】
YRP】
YRP(Yokosuka Research Park)は、国際的な電波・情報通信技術の発展に貢献
する研究都市である。(筑波学園都市を縮小したような所)。
1997 年、横須賀市の東京湾を望む丘陵地、光の丘に、情報通信の一大研究開発
拠点として開業した。「光の丘」という地名は、情報通信からイメージして新た
につけられたものである。広さは、約62ヘクタール。東西 1.6 キロ、南北 0.7
キロ。
現在、産学官の60を超える研究機関が進出し、基礎から最先端にいたる幅広い
研究開発活動を進めている。特にケイタイの分野ではトップランナー的存在で、
YRPはまさに移動体通信のメッカと言えよう。
昼間の就業人口は現在約 6,000 人。横須賀市の新世紀ビジョンでは、将来の就
業目標を 9,500 人としている。
YRPは国内だけでなく、世界各地のリサーチパークや大学との研究交流も盛ん
に行われ、人材育成にも取り組んでいる。海外とのネットワーク構築により YRP
の情報通信技術の利用は世界に拡がって来た。
・研究内容の
研究内容の例
生活に役立つケイタイ、高度道路交通システム、医療画像伝送システム、
生鮮食品の履歴実証等
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