青い目の人形と岐阜の子供たち

♪青い目をしたお人形は
迷子になったらなんとしよう
アメリカ生まれのセルロイド
優しい日本の嬢ちゃんよ
日本の港に着いたとき
仲良く遊んでやっとくれ
いっぱい涙を浮かべてた
仲良く遊んでやっとくれ♪
私は言葉がわからない
︵野口雨情作詞、本居長世作曲︶
この﹁青い目の人形﹂という歌は、昭和になって日本の子供たちの
間で大流行しました。こんな﹁人形交流の歴史﹂があったからです。
人 形 は、県 内 各 地 の 主 な 小 学 校・幼
校 へ 配 ら れ ま し た。人 形
稚 園、岐 阜 市 で は 金 華・京 町・明 徳
小などの
が贈られた学校ではそれぞれ歓迎会
が開かれ、お礼の手紙を出しました。
明徳小学校・児童代表の手紙
﹁花のような愛らしいお人形さんをお贈り
下 さ い ま し た ご 好 意、厚 く お 礼 申 し 上 げ
私たちの学校へもそのお人形さ
ま す。 …
ん が い ら っ し ゃ い ま し た。す る と、お 人
大 正 時 代、ア メ リ カ に は 多 く の 日
雛祭りに間に合うように日本へ送り
手 紙 や パ ス ポ ー ト な ど を 持 た せ て、
千 体 の 人 形 に 手 縫 い の 洋 服 を 着 せ、
ア メ リ カ の 人 た ち が 応 え、約 1 万 3
メリカのお嬢さん方、いつまで
を送ることを信じてください。まだ見ぬア
形さんは、とこしえに日本の国で幸福に日
あ
マ ア ー﹄と 泣 き ま し た。 ︵
…中 略︶ …
なたの国と私の国との間を結ぶ友情のお人
形 さ ん は お 国 が こ い し く な っ た の か﹃マ
本 人 が 住 ん で い ま し た。そ の 頃 の ア
も仲良くいたしましょう﹂
人形交流の歴史
メ リ カ は 不 景 気 で 失 業 者 が 溢 れ、低
出したのです。
︶頃 に は、岐 阜 県 で も﹁青 い 目
こ の よ う に し て、1 9 4 3 年︵昭
館に保存されていることが明らかに
﹁ミス岐阜﹂がクリーブランド美術
ました。
和
な っ た の は、1 9 9 3 年︵平 成 5︶。
岐阜︵ギフ子︶﹂が誕生しました。
こ う し て 岐 阜 県 の 答 礼 人 形﹁ミ ス
﹁ミス岐阜︵ギフ子さん︶
﹂
﹁ミ ス 岐 阜﹂の 手 足 は 自 由 に 動 き、
着 物 は 友 禅 縮 緬 で、帯 は 金 糸 丸 帯 を
胸 高 く 締 め、小 さ い 口 元 が ほ ほ え ん
で い て、そ れ は 愛 く る し い 人 形 で し
た。履 物、傘、鏡 台、針 箱、箪 笥、
長持などの美術品も持っています。
月8日に明徳小学校で人形送別
会 が 盛 大 に 行 わ れ ま し た。校 長 か ら
ギフ子さんの身の上やアメリカに行
く 使 命 に つ い て 説 明 が あ り、一 同 起
立して児童代表が﹁惜別の辞﹂を述べ、
同 校 で 作 ら れ た﹁送 別 の 歌﹂を 女 生
…
徒が歌い、最後のお別れをしました。
しかし …
。
…
人形のたどった運命は
︶に は 米 英 な ど
後 中 国 と の 戦 争 を 拡 大 し、つ い に
日 本 は、1 9 3 1 年︵昭 和 6︶以
1 9 4 1 年︵昭 和
と も 戦 争 を 始 め ま し た。そ れ に 伴 い
それは﹁クリーブランド人形・セー
ラ﹂、そ し て 1 9 9 6 年︵平 成 8︶2
月 末 同 校 へ 贈 ら れ て き た﹁新 青 い 目
︶ア メ リ カ・カ ン ザ ス 州
の 人 形・マ リ リ ン﹂、さ ら に 2 0 0 3
年︵平 成
の 女 性 か ら 贈 ら れ た 友 好 人 形﹁ス ー
ザン・キブソン﹂です。
米 親 善・友 好﹂の 心 が、今 も、岐 阜
1927︵昭和2︶年に始まった﹁日
の子供たちの中で続いているのです。
昭和2︵1927︶年、アメリカ
から岐阜県に贈られた235体の
﹁青い目の人形﹂が、今も残っている
注
のは、八百津・和知小の﹁バッテロ
ー﹂と﹁メリーブランナー﹂︵上麻
生小・現在は大垣の個人所有︶の2
体だけです。
行の文献を元に、長縄幸弘さん
○この文章は、多くの文献や資料、特
︵元明徳小学校教諭・実行委員会事
下 さ い﹂と お 別 れ の 言 葉 を 述 べ ま し
http://book.geocities.jp/
gifurekisi/rekisitop.htm
TEL 058︲231︲6726
﹁お話・岐阜の歴史﹂
代表
後藤
征夫
岐阜市歴史博物館ボランティアガイド
まとめました。
に﹁ミス岐阜﹂里帰り実行委員会発
再び、明徳小で﹁送る会﹂。
そ
…して今
務局員︶の協力を得て、後藤征夫が
仲良くするためのお使いとしてアメ
5月末に﹁里帰り﹂した﹁ミス岐阜﹂
日再び米国のオハイオ州に戻
ることになりました。
月
リ カ へ 出 発 し た 人 形 が、今 帰 っ て き
り 出 さ れ る と、大 き な 歓 声 と 拍 手 が
そ こ で、
起 き ま し た。児 童 代 表 は﹁ア メ リ カ
で 大 事 に し て も ら っ て よ か っ た ね。
児童代表が、﹁米国で仲良く暮らして
﹁ミス岐阜姉妹人形壮行会﹂が行われ、
月6日明徳小学校では
戦 争 が 起 き、い ろ い ろ 心 配 し た こ と
年前に
現 在、明 徳 小 学 校 の 玄 関 に は 3 体
た。 か け て 修 復 さ れ ま し た。そ し て 9 月
みかけています。
の﹁青 い 目 の 人 形﹂が 飾 ら れ、微 笑
米 人 形 交 流 展﹂で は、新 し く 作 ら れ
ミス岐阜
(ギフ子さん)
賃 金 で 働 く 日 本 人 は 嫌 わ れ、次 第 に
両国の関係は悪くなっていきました。
長く宣教師として日本に住んでい
答礼人形を贈ることが決め
りたいという申し出も多く、
学校からは返礼の品を送
1 9 2 7 年︵昭 和 2︶3 月 2 日、
ら れ ま し た。岐 阜 県 で は 児
岐阜に贈られてきた
﹁青い目の人形﹂
リ カ の 子 供 た ち が 友 情 を 深 め れ ば、
ア メ リ カ か ら 日 本 に 贈 ら れ た﹁青 い
童から集めた寄付667円
た ギ ュ ー リ ッ ク 博 士 は、日 本 と ア メ
大人になってからも仲良く暮らせる
目 の 人 形﹂の 内 1 1 9 体 が、岐 阜 県
銭で人形を作ることにし
は ず だ と、日 本 の 子 供 た ち に ア メ リ
歓 迎 展 覧 会 が 盛 大 に 開 か れ た 後、
庁にやってきました。
博士の呼びかけに約260万人の
ようになりました。﹁バッテローはス
な い。処 罰 さ れ て も い い か ら 一 人 で
国 民 生 活 は 厳 し い 統 制 下 に お か れ、
守 ろ う﹂と、裁 縫 室 の 押 入 か ら 蚊 帳
パ イ じ ゃ な い。人 形 に 何 の 罪 が あ ろ
学 校 で は、﹁大 東 亜 共 栄 圏﹂建 設 に
を 取 り 出 し て 人 形 を 包 み、理 科 室 の
う。火 あ ぶ り や 竹 槍 で 突 く の は 忍 び
邁 進 し、天 皇 の た め に 身 命 を 捧 げ る
あらゆるものが戦争のために総動員
生き方こそ日本人の最高の生きる道
岩石標本箱の下に隠しました。
されるようになりました。
と教えられました。また、日本は﹁世
界 に 一 つ の 神 の 国、世 界 に 輝 く エ ラ
イ 国﹂と さ れ、敵 対 す る 国 の 文 化 は、
の人形は憎い国アメリカからの贈り
それを受けて草の根の活動として﹁ミ
年ぶり、答礼人形
﹁ミス岐阜﹂の里帰り
物 で あ る か ら、叩 き 壊 せ﹂と い う 声
た﹁妹 人 形﹂、ア メ リ カ・オ ハ イ オ 州
ド 人 形・セ ー ラ﹂と 共 に 展 示 さ れ ま
ス 岐 阜﹂里 帰 り 運 動 が ス タ ー ト。市
そ し て 1 9 9 5 年︵平 成 7︶5 月
者がありました。
,000人もの見学
した。期間中13
年前に送別
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が、
﹁妹人形・あゆちゃん﹂とともに、
迎 会﹂が 行 わ れ、﹁日 本 と ア メ リ カ が
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ま し た﹂と、ト ラ ン ク か ら 人 形 が 取
会 が 行 わ れ た 明 徳 小 学 校 で﹁帰 国 歓
帰 り が 実 現 し ま し た。
日、
年 ぶ り に﹁ミ ス 岐 阜﹂の 里
が多くなりました。
﹁男 性 教 師 が﹃鬼 畜 米 英﹄と 言 い な
が ら、校 舎 の 裏 で ヘ レ ン と い う 名 の
人 形 を 叩 き 壊 し た﹂、﹁敵 愾 心 高 揚 の
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でしょう﹂と語りかけました。
そ の 後﹁ミ ス 岐 阜﹂は、
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話 を 聞 か さ れ た 後、約 4 0 0 名 の 全
校児童がひとりひとり人形を蹴飛ば
し た﹂と い う よ う な 話 が 残 っ て い ま
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日から岐阜髙島屋で開催された﹁日
製作された東京の人形店で3ヶ月を
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す。
各地の人形が処分されているとい
う噂があちこちで聞かれるようにな
り、加 茂 郡 八 百 津 町 和 知 小 学 校 の 水
谷 先 生 は、﹁青 い 目 の 人 形・バ ッ テ
ロ ー﹂に つ い て も 身 の 危 険 を 感 じ る
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八百津・和知小のバッテロー
「ミス岐阜」
の帰国歓迎会(明徳小にて)
か ら 新 し く 贈 ら れ た﹁ク リ ー ブ ラ ン
ことさら差別・排斥されました。
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4
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カの人形を贈ることを考えました。
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2
VIVO
VIVO
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民の募金も行われました。
昭和18年の新聞記事
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