高齢期をみる目

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序 章
高齢期をみる目
「人生 50 年」とうたった織田信長が本能寺の変にたおれてから 400 年あま
り,現在では,50 年ではなく 80 年を前提に,人の一生を考えるようになっ
た.2005 年(平成 17)の日本人の平均寿命は,男性が 78.6 歳,女性が 85.5
歳であった.男性の 79.2%,女性では 90.1%が,70 歳の誕生日を迎えること
ができる.信長が思いもしなかった長寿社会,だれもが高齢期を迎えられる
社会を実現できたのである.
有史以来,長寿は万人の願いであり,親は子の,子は親の長命を願ってき
た.長寿はまさに寿(ことほ)ぐべきことで,日本では還暦,古稀,喜寿な
どの長寿を祝う習慣が今日に伝えられている.平均寿命が伸び,ほとんどの
人が高齢者になれる社会の到来は,本来喜ぶべきことなのである.
ところが,人類未踏の長寿社会を実現した現在の日本では,長寿の価値は
下落してしまったように思われる.老いは病気や介護問題とセットで語られ,
人口の高齢化は常に危機感をもって語られている.
しかし,自分の周囲の人々に目を向けるならば,元気な高齢者が多いこと
にまず気づかされる.そして,新しいタイプの高齢者の登場を認めることも
できるはずである.
いまから 30 年ほど前,アメリカの社会老年学者 Neugarten, B. L.1)は,新
しいタイプの高齢者の登場を指摘し,彼らを「若い老人(young−old)
」とよ
んだ.ヤング・オールドを「年とった老人(old−old)」から区別させるのは,
年齢ではなく,健康と経済水準,そしてライフスタイル(lifestyle;生活様
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式)の違いである.日本では,急速な平均寿命の伸びと年金制度の成熟が,
新しいタイプの高齢者の登場を準備してきた.平均寿命の伸びは高齢期の健
康水準の上昇を意味し,年金制度の成熟は,高齢期の経済的安定を保障する
からである.このため日本でも,ヤング・オールドとよぶにふさわしい新し
いタイプの高齢者がすでに登場しており,ベビーブーム世代の人々が高齢期
を迎えるときには多数派を占めることになる.しかし現在のところ,多くの
人が新しいタイプの高齢者の登場を認識するには至っていない.
本書は,最新の社会老年学の成果,特に日本の高齢者について得られた知
見を提供して,現在の日本の高齢者の実像について明らかにし,さらに新し
いタイプの高齢者の登場と新しい高齢期の生活の可能性を示すことを目的と
している.
1 .老化の社会的側面
老いはすべての生物に訪れる.すべての生物が身体の老いを経験し,それ
から逃れる術はない.しかも人間は,身体の老いとは別に,もう 1 つの老い
を経験する.子どもが心身の発達と同時に社会生活の変化を経験し,社会的
にも発達していくのと同様に,人生の後半において,人は定年退職などの社
会生活の変化を経験する.それが,社会生活の面での老い,老化の社会的側
面(social aspects of aging)2)である.
エイジング(aging)は,文字どおり齢(よわい)を重ねること,歳(age)
をとることを意味する.しかし,誕生から個体の成熟に至るまでの前半生の
変化をエイジングとよぶことはなく,エイジングという語は,成熟期をすぎ
てから死までの間の変化を指して使われている.それゆえ,訳語としては
「老化」や「加齢」「高齢化」などの語が与えられる.しばしば「老化」と訳
される senescence には衰退の意味が含まれているのに対して,エイジングは
歳をとることのみを意味する価値中立的な語である.
加齢に伴う社会生活の変化は,もっとも一般的には,社会的地位・役割の
変化として把握できる.人はだれでも多くの集団や組織に所属し,そこで何
らかの位置づけ(社会的地位)を得て,その地位にふさわしい行動(社会的
役割)をするように期待されている.そこで,ある人の社会生活のありよう
序章 高齢期をみる目 15
は,その人がどのような社会的地位にあり,どのような役割を与えられてい
るかによって規定される.しかも,地位と役割は年齢に応じて社会的に配分
されているため,ある特定の年齢の人々のみが,ある特定の地位・役割の変
化と,それに伴う社会生活の変化を経験することになる.たとえば,定年退
職と職業生活からの引退,子どもの独立,配偶者との死別などは多くの人が
人生後半で経験するライフイベント(life event)であるが,これらは壮年期
の生活の中心を占めていた社会的地位と役割(職業上の地位・役割,家族内
での配偶者や親の地位・役割)を失うという地位・役割の変化と,それに伴
う生活の変化である.
一般に,成長・発達の過程での社会生活の変化が新しい地位・役割の獲得
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ヒトの寿命
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生物,特に動物の生きる年数を寿命(life
span)といい,類比的に器物の耐用
�
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年数をさして寿命ということもある.あらゆる生物に,その種に固有の生きられ
� る年数の限界があり,それを限界寿命(maximum life span)とよんでいる.また, �
� 生物学的に可能な生きられる年数の限界と自然界で達成可能な生きられる年数の �
� 限界を区別して,前者を生物学的寿命(biological life span),後者を生態学的寿命 �
� (ecological life span)ということもある.生態学的寿命は生物学的寿命より短く, �
� 多くの個体が生物学的寿命近くまで生存できているのは,一部の先進国における �
� ヒトと犬・猫などのペット動物のみであるといわれている.
�
ほ乳動物の限界寿命には大まかな法則性があって,大型の体重の重い動物,脳
� 重量の重い動物,あるいは性的成熟に時間を要する動物ほど限界寿命が長いとい �
� われている.ヒトは象や鯨ほど大型の動物ではないが,その限界寿命は長く,お �
� およそ 120 年ほどであるとされる.旧約聖書のアダム(930 歳)やスコッチ・ウ �
� イスキーの商標になっている「パーじいさん(Old Par)」(152 歳)など,120 歳 �
� をはるかに超えて生きた人の話が伝えられているが,それらはすべて神話や伝説
�
であって,確実な歴史的事実ではない.
� 平均寿命(life expectancy at birth)は,死亡の状況に変化がないことを仮定し �
� たときに,0 歳のものが平均してあと何年生きられるかを計算した値である(コ �
� ラム 10 参照).当然のことながら,平均寿命が限界寿命を超えることはありえな �
� い.ヒトの平均寿命がどこまで伸びうるかについてはいくつかの説があるが,85 �
� 歳を大きく超えることはないと考えられている.
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の結果であるのに対して,人生後半での社会生活の変化は,地位・役割の喪
失の結果であることが多い.実際には,祖父母の地位・役割など,高齢期に
入ってから新たに獲得する地位・役割もないわけではないが,それらはどち
らかというと副次的なもの,あまり重要ではないものとみなされがちである.
壮年期の人々の多くは,仕事や子どもとの関係など自分の生活の中心を占
めている活動が失われるときを,
「老後」の始まりとみなしている.高齢期を
重要な活動の喪失と結びつけて考えることは,老いに対する否定的(negative)
な態度の反映でもある.そして,老いに対する否定的な態度の持ち主は,一
般に人口高齢化について悲観的であるし,自分自身の老いについても悲観的
になりがちである.
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ライフイベント
�
�
個人の生活や人生に影響する出来事をライフイベント(life
event)という.こ
�
�
� の語の用法には,定年退職のような人生の節目となる大きな出来事を指すときと,
�
電車の遅れなどの小さな出来事(日常いらだちごと daily hassle とよばれる)を指
� すときがある.また,本人がストレスを感じる出来事をストレスフル・ライフイ �
� ベントというが,この場合にも大きなライフイベントを指すときと小さなライフ �
� イベントを指すときがある.
�
大きなライフイベントは,社会的地位と役割の変化を意味し,生活に大きな変
�
�
� 化をもたらす.入学,就職,結婚,子どもの誕生は多くの人が人生前半で経験す �
� る大きなライフイベントであるが,いずれも新しい地位・役割の獲得を意味し,
�
大きな生活の変化を伴っている.他方,人生の後半で多くの人が経験する定年退
� 職と職業生活からの引退,子どもの独立,配偶者との死別などの大きなライフイ �
� ベントはいずれも地位・役割の喪失であって,人生前半のライフイベントと同様 �
� に大きな生活の変化をもたらす.地位・役割の変化に応じて生活を再編成してい �
� くことがライフイベントへの適応であるが,適応の容易さは条件によって異なり, �
� 人生の前半でも後半でも,容易に適応できる人とできない人がいる.
�
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序章 高齢期をみる目 17
2 .高齢者観
1 )日本人の高齢者観
高齢者や老いに対して人々が抱く意識や態度,イメージなど(以下,これ
らを総称して「高齢者観」とよぶ)は,その社会で高齢者がおかれている状
況を反映し,同時にその社会での高齢者の処遇に影響する.また,高齢者観
は高齢者自身の自己概念や適応,生活設計にも大きな影響を及ぼす.
現代の日本人の高齢者観が否定的であることは,多くの研究者によって繰
り返し指摘されている3).たとえば,日本で初めて行われた高齢者観の国際
比較研究でも,日本の大学生は,アメリカ,イギリス,スウェーデンなどの
大学生と比べて否定的な高齢者観をもっていることが明らかにされている4).
高齢者は「気難しい」「頑固だ」
「自分勝手だ」といった否定的なステレオタ
イプに同意する人は日本の大学生に多く,反対に,高齢者は「親切だ」
「誠実
だ」
「知恵や知識がある」といった肯定的(positive)なステレオタイプに同
意する人は少なかった(図 1)
.この研究が行われたのは 1950 年代後半であ
るから,日本人の高齢者観は,最近急に否定的になったのではなく,かなり
以前から否定的だったといってよい.
高齢者観に関する研究の多くは大学生を対象として行われてきた.大学生
の高齢者観は,一般に「温かい」
「優しい」などの情緒的な特性や親和性の次
元ではやや肯定的であるものの,
「強い」
「早い」などの力動性や生産性の次
元ではきわめて否定的なことが知られている.欧米の研究でも,
「親切」
「知
恵がある」「親しみやすい」などの特性では肯定的であるが,
「魅力がある」
「不平・不満をいわない」
「進歩的」などの特性では否定的に評価されがちな
ことが報告されている.
大学生以外を対象とした研究では,小中学生の高齢者観が,取り上げる次
元にかかわりなく肯定的で,特に祖父母との良好な関係を経験した児童では
肯定的なことが明らかにされている.しかし,児童の高齢者観は,年齢が高
くなるのに伴って徐々に否定的になる.成人を対象とした高齢者観の研究は
少ないが,中高年や高齢者自身の高齢者観は,青年よりも一般に肯定的であ
るとされている.したがって,現在の日本の社会では,幼いときには肯定的
であった高齢者観が,青年期にもっとも否定的になり,その後に肯定的な方
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出典:引用文献 4)より作成.
図 1 ステレオタイプに同意した大学生の割合
向に変化していくと考えてよいであろう.欧米の研究でも,若年者ほど高齢
期を否定的に評価し,成人では中立的もしくはやや肯定的であるとされてい
る.
女性より男性で,また学歴など社会経済的地位の高い人ほど,その高齢者
観は否定的で,特に力動性や生産性についての評価が低い.青年,男性,そ
して社会経済的地位の高い人は,一般に強さや早さ,あるいはそれらに基礎
づけられる達成度を重視する傾向にあるから,力動性や生産性,達成度を重
視すればするほど,老いや老いた人々についての見方が否定的になりがちだ
序章 高齢期をみる目 19
ということができる.幼時に肯定的であった高齢者観が,青年期に否定的に
なり,その後やや肯定的になっていくのは,成長・発達に伴う基本的な価値
観の変化に起因することであるのかもしれない.
2 )社会の近代化と高齢者の地位の低下
現代社会で高齢者がおかれている境遇を批判的に論じる際にしばしば用い
られる論法が,近代以前の社会との比較である.前近代社会における農業・
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老年下位文化
�
�
否定的な高齢者観が支配的な社会では,高齢者自身もまた,多かれ少なかれ否
�
�
� 定的な高齢者観にとらわれている.否定的な高齢者観をもった高齢者は,自分が �
� 高齢者であるという事実のゆえに自尊感情や満足感の低下を経験し,自分の老い
�
を受容し,適応するのが困難になる.しかし,老いに対してより肯定的な下位文
� 化(社会の一部の成員のみが有する全体社会の文化とは部分的に矛盾し,対立す �
� る文化)が存在し,それを共有することができれば,自分の老いを受容するのが �
� 容易になるであろう.
�
によれば,高齢者は,高齢期に特有の身体的ならびに経済的問題
Rose,
A. M.
�
�
� に直面し,さらに否定的な高齢者観にさらされるため,みずからの境遇について,
�
全体社会の定義とは異なる定義を与える独自の下位文化(老年下位文化 aged sub� culture)を生み出す.そして,自分たちの年齢集団への結束を高め,年齢集団意 �
� 識(aging−group consciousness)を発達させて,自分たちの境遇の改善を求める �
� 運動を始めるに至る.
�
� 一般に下位文化の形成は,仲間との緊密で排他的な関係を前提とすることから, �
� 高齢者が他の世代の人々から切り離されている高齢者住宅や退職者コミュニティ �
� において,老年下位文化に関する研究が行われてきた.そして,そのような集団
�
では,高齢者がよりよい社会的統合と人間関係を維持し,より肯定的な自己概念
� と高齢者観をもっていることが明らかにされている.しかし,そのような集団の �
� 成員であっても,年齢集団意識を発達させ,全体社会のエイジズムに対抗するま �
� でにはなりにくいとされている.
�
【引用文献】
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� 1)Rose AM:The subculture of the aging;A topic for sociological research. The �
Gerontologist, 2:123−127(1962).
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1)
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手工業・自営業と近代社会における工場制工業・雇用労働,前近代社会の大
家族と近代の核家族,自発的な引退・隠居と強制的定年退職,長老に対する
尊敬と高齢者蔑視の風潮が対比的に取り上げられ,特に日本では儒教的な敬
老思想と若者中心文化が対比される.そして,それらの対比の上に立って,
近代以前の社会では高い地位を与えられ,尊敬されていた高齢者を,蔑視し,
厄介物扱いしている現代社会の問題性が指摘される.
このような通俗的な解説に,ある意味で基礎を提供してきたのが「老化と
近代化の理論(aging and modernization theory)
」とよばれる一連の研究であっ
た.安定した社会では経験が貴重であることから高齢者の地位が高いが,変
化の激しい近代社会では,柔軟性や順応力が重視され,過去の経験にはほと
んど価値がなくなっている.そこで,社会の近代化に伴って高齢者の地位は
低下し,尊敬されなくなるというのである.このような「老化と近代化の理
論」の説明に合う事象は少なくないし,強さや早さ,生産性を重視するのは
近代社会の特徴であるから,否定的な高齢者観の存在を「老化と近代化の理
論」に沿って解釈することができるかもしれない.
しかし,近代化に伴う高齢者の地位の低下という「老化と近代化の理論」
の主張を支持する証拠は少なく,むしろそれを否定する証拠の方が多い.た
とえば,世界の各地にさまざまな棄老・殺老の風習が記録されており,近代
以前の社会では,高齢者の間引きがかなり広範に行われていた可能性がある.
あるいは意図的な棄老・殺老でなくとも,食料や生活資材の不足から,実質
的にはそれと同様のことが起こっていたであろうことは疑いえない.また,
世界各地にさまざまな敬老説話が伝えられているが,一般に教訓的な説話や
規則の存在はそれと正反対の事実がたくさんあったことの証拠であるから,
敬老説話の存在も,それに反する事態の存在を示すものと考えなければなら
ない.そして,未開社会を対象とした文化人類学の研究によれば,長老を非
常に大切にしている未開社会は確かに存在するが,それらの社会にあっても
すべての高齢者が等しく敬われ,大事にされているのではない5).敬われる
のは,心身が頑健で,社会に役立つ高齢者のみであって,そうでない高齢者
は蔑まれ,社会の物質的な貧しさのゆえに,場合によっては捨てられたり,
殺されたりしているといわれる.
近代以前との比較は,
「近代以前」としていつの時代を指し,社会のどの階
序章 高齢期をみる目 21
層を考えるかによって,当然異なった結論を導く.しかし,近代以前との対
比を行う通俗的な解説は,ほとんどの場合,寿命や生活水準,生産様式の違
いなどの基礎的な事実を見逃したり,それぞれの社会のなかでの階層分化を
無視したりするなどの過度の単純化に陥っているのである.
3 )敬老精神
Palmore, E.6)は,日米の高齢者の比較を通して「老化と近代化の理論」の
検証を試み,これが誤りであるとの結論に達している.Palmore によれば,
現在の日本は近代化の進んだ社会であるが,伝統的な敬老精神のゆえに高齢
者が大切にされ,社会からの離脱を強要されていない.たとえば,家族の食
卓では老親が先に給仕されるし,入浴も優先される.また,バスや電車には
高齢者のための優先座席(シルバーシート)が設けられているが,これらは
すべて伝統的な敬老精神の表れであって,高齢者が非常に大切にされている
ことの証拠だというのである.
ところが,Palmore が開発した老化についての知識尺度を用いた研究では,
日本人が,アメリカ人やオーストラリア人よりも,老いについて誤って否定
的に考えていることが明らかにされている.多くの日本人は,歳をとればだ
れもが寝たきりや認知症になったり,無能力になったりすると誤解しており,
その誤解の上に立って,老いを否定的にみているのである.
Palmore が肯定的に評価した日本人の敬老精神と,否定的な高齢者観が共
存するメカニズムは,副田7)によって説明されている.副田によれば,高齢
者に接するときの人々の態度にはタテマエとホンネがあり,さらにそれらが,
行動する主体としての高齢者と,客体としての高齢者について用意されてい
る(表 1).客体としての高齢者についてのタテマエは敬老精神であるが,ホ
ンネは軽蔑と無関心である.他方,主体としての高齢者については,
「枯れた
老人」「賢者としての老人」というのがタテマエで,ホンネは「愚かな老人」
「子どもじみた老人」である.
タテマエとホンネのいずれが本質的であるかはいうまでもない.タテマエ
は,それと正反対の現実(ホンネ)を隠蔽するために作られた虚構であるに
すぎない.それにもかかわらず,タテマエの部分だけをみて,ホンネの部分
をみないことから生まれたのが,敬老精神のゆえに日本では高齢者が大切に