考古学セミナー資料PDF

湯沢・雄勝の縄文文化
秋田県遺跡地図等によれば湯沢・雄勝地域には158箇所の縄文時代遺跡が確認できます。それらは、
雄物川および支流である皆瀬川、高松川、役内川、そして子吉川水系の石沢川流域に分布します。縄文
時代は古い方から早期、前期、中期、後期、晩期と5期に分けられますが、158遺跡のうち、この5期の
区分がわかる遺跡が約半数あります。その遺跡を時期ごとに色分けし位置を示したのが右ペ」ジの図で
す。時期ごとの分布状況はおよそ以下の通りです。
早期の遺跡は数が限られ雄物川最上流部の岩陰やその支流上流の.、あるいは雄物川と皆瀬川に挟まれ
た山間地に位置します。岩陰や山間地にあることから、前期以降とは違い遊動性の高い生活で残された
ことが考えられます。前期の遺跡は沖積地に面した台地や、沖積地のなかの微高地上に位置しますが、
西馬音内扇状地の扇頂部など局地的にまとまる傾向があります。中期の遺跡は本流、支流に分散します
が、より流れに近い沖積地、そして逆に山間奥に入り込む場合があります。後者には石器を作るための
石材を採取した遺跡が含まれます。後期には分散傾向が強まり、かつ沖積地に立地する度合いが強まり
ます。晩期も後期采の沖積地に近い立地が認められますが、後期よりはまとまる傾向を見てとれます。
それでは、これまで発掘調査されたいくつか主だった遺跡を紹介します。
1 岩井堂洞窟(湯沢市上院内字岩井堂、早期)
県境雄勝峠に向い雄物川が山間部に入る地点の沢地にある洞窟遺跡です。昭和39年から昭和51年
まで8回にわたる発掘調査が、山下孫継氏により行われました。第1∼第4まで4つの洞窟があり、
そのうち第4洞窟では下層から貝殻の縁を押し当て文様を描いた尖った底の土器が、県内では初めて
まとまった量出土しました。縄文時代早期以前には多くの遺跡が洞窟や岩陰に残されますが、本県で
初めて発掘された代表的な洞窟遺跡で、昭和53年に国の指定史跡となりました。
2 日館遺跡(湯沢市下院内字焼山、前期)
岩井堂洞窟から東に2kmほど離れた、東に面した山裾にある遺跡です。高速道の建設にともなって、
平成22年に秋田県埋蔵文化財センターが発掘調査しました。竪穴建物跡1棟と墓坑を含む土坑群など
が見つかっています。石器に加工する石を打ち砕いて納めた土坑がいくつかあり、原石(頁岩)を採
取し遺跡に持ち込み土坑周囲で石器製作が行われていたようです。そのほか、製作途中に捨てられた
石斧も多く、同じく材料となる適当な大きさの川原石を運び込んで石斧に加工していたようです。
3 欠上り遺跡(湯沢市川連町字欠上り、中期前半)
皆瀬川に面した遺跡で現在高橋運太郎商店の工場等が立ち並ぶ場所にある遺跡です。昭和28年、早
稲田大学による発掘調査で、太平洋側、松島湾に臨む縄文遺跡として早くから知られた大木囲貝塚と
同じ種類の土器がまとまって見つかりました。その後、平成元年にも発掘調査され、やはり同じ土器
や川原石を集めた大小の遺構が見つかりました。皆瀬川の川原から5mほど高い場所ですが、川に近
く洪水の危険もないわけではありません。そうした場所に遺跡が営まれたのは、サケやマスの捕獲の
ために暫時集まったのではないか、と昭和28年当時の発掘報告では推測しています。
4 大久保(杉宮)遺跡(雄勝郡羽後町大久保字柏原、中期前半)
皆瀬川と雄物川の合流点から南に2.5kmほど離れた、雄物川左岸、西馬音内扇状地の端にある遺跡
です。昭和55年、61年に発掘され欠上り遺跡と同じく中期の遺跡であることがわかりました。見つか
ったのは竪穴状遺構や多くの貯蔵穴(フラスコ状土坑)、石囲炉などですが、それに伴ってたくさんの
土器が見つかりました。土器はやはり大木囲貝塚と同じような土器ですが、中にはごく一部、青森県
を中心に分布する「円筒上層式」が混じっています。
5 堀量遺跡(湯沢市関口字堀量、中期終末)
雄物川右岸の段丘上にある遺跡で、雄物川は遺跡の西側200mほどを南から北に流れます。高速道
建設に伴い平成13年に発掘調査されました。縄文時代中期終わり頃の集落跡で、竪穴建物跡23棟、
土坑100基などが見つかりました。竪穴建物は深鉢形土器を埋め込んだ上で、馬蹄形に石を組んだ特
殊な形態(「複式炉」と呼びます)の炉を備えています。建物跡群で囲まれたなかに広場があり、その
広場中央に集まるよう各建物跡の炉の方向は放射状にそろっています。たくさんの土器や石器が出土
しましたが、土器では縄文時代に共通の深鉢形のほか、注ぎ口の付いた浅鉢形が多いのが特徴です。
6 長蓮寺遺跡(湯沢市高松字上地、後期後半)
雄物川支流の高松川はさらにその分流である宇留院内川と合流しますが、遺跡はこの2つの川に挟
まれて西に突き出す台地の上にあります。旧高松小学校の改築に伴い、平成10年から15年まで発掘
調査が行われ、後期後半に中心をもつ遺跡であることがわかりました。直径5mほどの環状に石を並
べた遺構や、川原石を長方形に組んだ組石遺構などが見つかりました。ほかにも墓と判断される土坑
があり、これらの石を用いた遺構も墓地や墓前の祭祀に関わることが考えられます。
7 堀ノ内遺跡(湯沢市上関字堀ノ内、後期後半∼晩期前半)
堀量遺跡の南3kmの、雄物川右岸段丘上にあります。高速道建設に伴い平成15年から16年にわた
り発掘調査されました。土坑316基や土器埋設遺構75基、配石遺構28基が見つかり、後期後半から
晩期前半の墓地を中心とする遺跡であることがわかりました。人面装飾が付いた土器や水鳥などの動
物形を模した土製品、製作途中の打製石斧などを含む数多くの土器や石器が墓地脇に積み上げられた
状態で見つかりました。墓地で行われた儀礼の痕跡を示すものと考えられます。
8 鐙田遺跡(湯沢市松岡字鐙田、晩期後半)
雄物川の左岸、西側に3.3kmほど離れた沖積地上の遺跡です。遺跡のさらに西側には白山を抱く丘
陵が広がります。雄物川との間には羽後大戸川が北流しますが、もともと西側丘陵裾の伏流湧出点か
らの細流が蛇行して流れる湿地帯だったようです。昭和48年、圃場整備の工事中に発見されて発掘調
査が行われ、それまで知られない低湿地遺跡であることがわかりました。水に浸かる状況だったため、
通常では残らない有機質の遺構・遺物が良好な状態で保存されていました。遺跡西側のA地点からは
長さ15m、幅6mほどの範囲に、ミズナラ、サワグルミ、トチなどの樹木や葉を敷いた上に盛り土し
た大型の遺構が見つかり、朱塗り木製櫛や耳飾り(滑車形、耳栓状)、玉類などが出土しました。
2
渾沢・雄勝の縄文文化
遺跡地図
一早期 ●前期 ○前∼中期 ◎中期 ◎中∼後期
⑳後期■診後∼晩期 ●晩期⑳中・後・晩期●中・晩期
1_ 岩井堂洞窟〔イワイドウドゥクツ〕
㊥臼館〔ウスダテ〕遺跡
㊥欠上り〔カケアガリ〕遺跡
⑪大久保(杉宮)
〔オオクボスギノミヤ〕遺跡
堀量〔ホウリョウ〕遺跡
直感雲 霊 長蓮寺〔チョウレンジ〕遺跡
萱 ㊥掘ノ内〔ホリノウチ〕遺跡
鐙田〔アブ三デン〕遺跡
川
第3回ふるさと考古学セミナー
於)湯沢生涯学習センター
2015.10.17
湯沢市堀ノ内遺跡の調査
秋田県埋蔵文化財センター 加藤朋夏
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所 在 地:秋田県湯沢市上関字堀ノ内21外
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1.堀ノ内遺跡の概要
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調査期間:2003年8月1日∼12月18日
2004年4月14日∼7月16日
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調査面積:3′250nj
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調査の原因:一般国道13号湯沢横手道路建設事業
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出土遺物:18リットルコンテナ約500箱分
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石囲土器埋設炉2基、配石遺構28基
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フラスコ状土坑4基、焼土遺構3基、
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主な遺構:土坑 314基、土器埋設遺構75基、
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2,遺構から見えてきたこと
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・検出された旧河川跡
・子供の墓と大人の墓
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・環状にならない配石
了鼻声
・墓前へのお供えか、廃棄か
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3.大量の土器や石器は何を物語るか
−「遺物集中区」の変遷をたどる一
・「もの送り(イオマンテ)」という考え方
.・土器の接合から見えてきたこと
●
4.堀ノ内遺跡と打製石斧
籠74回 運韓と首濃徴集や区j萌資濃
・大量に発見された打製石斧とその末成品
・並べて置かれた打製石斧
・北海道北黄金貝塚の「水場遺構」との共通点
5.さいごに
・「貝塚」、「盛土遺構」、「捨て場(遺物集中区)」
・縄文文化の本質とは
アイヌのもの送り場
『蝦夷生計図説』より
4
平成27年度 秋田県埋蔵文化財センター
第3回 ふるさと考古学セミナー 資料
平成27年10月17日(土) 湯沢市生涯学習センタ一
秋ノ宮稲住の「サケ石」から
小林 克
1 発見と評価
役内川から分かれた高倉沢の右岸、標高450mほどの秋ノ宮山居野の稲住温泉で大正年間に見つかったとさ
れる。現在は院内銀山異人館の玄関ホールに展示。長径106cm、底径65cmの安山岩表面に二尾の魚形が確認で
きる。
①菅江真澄『雪の出羽路 雄勝郡四』(1823)
「…・山居野に左右衛門太郎稲荷おはしぬ。取上石といふ路のべに魚形石あり、こはむかし徳巌(※1)の
弟子なる小法師童の戯れに彫りつけたりといへり。……」
→17世紀後半頃にいたずらとして彫り込まれたこと
(※1)岩手県奥州市黒石にある正法寺の僧
②喜田貞吉 「秋田県下に発見せられた魚の石面刻文について」『秋田考古会会誌』3−5(1931)
「言う迄もなく我が古代の石器時代人は、狩猟漁業に活きた民衆であった。所謂海の幸たる魚属、山の幸
たる鳥獣は、彼らに取って最も重要なる生活の糧であった。其のなかに就いて、地方により、時代によ
って相違があったであろうとは云へ、獣類では鹿、熊、猪など、魚属ではサケ、鱒などがおもなもので
あった事を疑わぬ」
「平素魚属を多く捕獲する漁村にあっては、今もしばしば魚供養というものが行われる。漁民が自己の手
にかゝって、自己を養ってくれた魚属に対して、其の菩提を弔うものなのである。・−−(中略)一殺して
置いて其の成仏を祈ることは、子供の頭をなぐって置いて機嫌を取る様なもので、柳か矛盾の感を起こ
さぬでもなかったが、とにかくそれで彼等は殺生の罪障が滅びた積りで安心し得るのである」
→ 「サケ石」の石器時代漁労民の供養碑説
③武藤鉄城 「魚形爬刻石と供養碑一∼三」『秋田魁新報』(1939_9_22∼26)
『秋田群邑魚讃』(1940)アチック・ミュージアム
→ 石器時代製作説の支持、供養碑説の否定
…・民俗と考古の融合で過去の文化と現在の関係を解こうとする姿勢
鮭の供養硬
軟の宮村から
発見嘉た
撃牽藍藍監墨愈宴
深髄か呼郡谷豊長.谷‖軌
跡等によ等掛勝郡鍼の宮村充
先賢日から蛙熟された嘉巌
際の許をられる蝦宗養酔
托鮮謬鼓町野老熟月
掛鮭摘雛貴報路
にも魚を翻せる酔︵これはか難
散か著の網田幣野戦江眞濫転
椙の肘賽軒のこと小のことを吸
収に酔勝郡の取史が粥滋され・
また鵬の宮村彪勒川には欝か
とか利欝のとか築しそれ等
を踪び付けるとき鎖す苦騨重な
ら鰯の魚抱があり︵猫群は椙の
熟科が香取されるであら与と酎
外鞠も獲れる丁.あ塩は秒針蟻
東込んである嚢は鮭の供養
に明らかとたってゐるのでこれ 韓︶
図3 「サケ石」を報じる東京日日新聞
(昭和6年7月8日):由利本荘市教委、三原裕姫子さん提供
5
平成27年度 秋田県埋蔵文化財センター
第3回 ふるさと考古学セミナー 資料
平成27年10月17日(土) 湯沢市生涯学習センター
2 秋田県内の「サケ石」と発掘調査
①米代川、雄物川、子吉川の三河川、及び、それぞれの支流奥に位置する。
米代川 −(阿仁川)一根子・荒瀬
雄物川 −(役内川)一秋ノ宮稲住/(皆瀬川)− 【戸波】(※2)
子吉川 一(本流)− 船岡台・前杉/荒沢川 一 針ヶ岡・根城・大谷地・龍源寺
(※2)キリシタンの遺物(「イクトクス」)の可能性あり
②単独ないし複数尾の魚形を刻む
③頭部形状、背びれ・腹びれの有無、尾びれ表現法でいくつかのパターンあり。
図5 「サケ石」の魚形
表 「サケ石」の魚形属性
大 き さ (0 m )
全 長
前 杉
1 号
3 7
日 杉 2 号
日 杉 3 号
(2 8 )
杉 4 号
図4 県内の「サケ石」出土地
尾 鰭
(口 端 一 鼠 )
8 .6
8
長 さ
表 現
幅
眼
口
鰹 表 現
−
1本 】
線
−
2本 線
−
2本 線
パ テ 形
2本 線
交 差 形
5 .6
9
−
−
11
10
53
1 2 .7
10 .7
6 .3
1 4 .6
46
1 4 −5
6 .2
7
5 .6
日 杉 5 号
日 杉 6 号
(5 3 .5 )
2 2 .4
7 .2
3 .8
7 .3
日 杉 7 号
前 杉 8 号
5 5 .7
1 4 .7
5 .5
1 0 .3
4 7 .7
1 3 .4
3 .8
9 .8
−
目 杉 9 号
(4 1 .7 )
13
前 杉 10号
(16 )
6 .2
(4 2 .4 〉
1 3 .2
8 _5
8
6
日 杉 1 1号
針 ヶ岡 1 号
針 ヶ岡
2 号
針 ヶ岡
3 号
針 ヶ岡 4
号
3 0 .5
(2 5 )
18
(2 7 .5 )
大 谷 地
根 城
24
1 号
2 5 .5
根 城 2 号
1 6 .8
−
9 .6
−
−
パ チ 形
−
ー
バ チ 形
ー
パ チ 形
−
2本 線
−
4
3 .5
6 .5
(2 )
4 .5
5
3 .5
3
−
−
有
2 本 線
1 本 j線
交 差 形
−
−
交 差 形
−
交 差 形
−
−
有
−
1本 線
交 差 形
−
パ チ 形
5 .5
有
有
1本 線
交 差 形
−
有
6 .5
有
有
1 本 j泉
交 差 形
6 .5
5
9
7
背 ・腹 鰭
−
−
−
(6 )
7
尾鰭 表 現
パ チ 形
6
(3 .5 )
8
−
ー
?
−
有
26
8
7
4 .5
青巨源 寺
1 号
4 5 .5
1 3 .5
10
9
(1 1)
有
1本 線
交 差 形
青巨源 寺
2 号
6 1.5
13
18 .5
9
1 7 .5
1本 線
交 差 形
−
23
7
7
−
有
−
交 差 形
−
板 子
有
?
有
キ
第一号綾石下部穴︵
嘩遥 第毒慧
3 発掘調査
武藤鉄城 『鮭石発掘報告』(1954)
前杉遺跡の発掘
一→ 「サケ石」の周辺で縄紋時代中期の
配石遺構、焚き火跡の木炭集中を確認。
頭 部 長
胴 幅
矢島町教委「鮭石遺跡発掘報告」
(1954)第五図版に加筆
図6 前杉遺跡
「サケ石」と配石遺構
平成27年度 秋田県埋蔵文化財センター
第3回 ふるさと考古学セミナー 資料
平成27年10月17日(土) 湯沢市生涯学習センター
4 「サケ・マス」論
①山内晴男1964「日本先史時代概説」『日本原始美術1縄文式土器』講談社
山内晴男1969「縄文文化の社会」『日本と世界の歴史第1巻古代〈日本〉先史∼5世紀』学習研究社
→ 東日本での縄紋文化の隆盛を、北米北西海岸インディアンと対比し、サケとドングリを保存食糧と
したことで説明
②滝口宏・西村正衛1956「秋田県雄勝郡欠上遺跡発掘報告」『古代』18
→ 湯沢市における縄紋時代前期末から中期の遺跡をサケを中心とする漁擦で説明
「こうした場所が選定されたのは、皆瀬川を対象とした漁擦活動と関係があったのではなかろうか。定期
的に行われるサケやマスなどの漁獲に対してとられた措置ではなかったのだろうか。」
5 雄物川でのサケ漁
①久保田藩三代佐竹善処、寛文13(1673)年から元禄13(1700)年の3回雄物川沿い、大曲の網打ちを見物
(『羽陰史略』/今村編1971)。
②文化年間、九代佐竹義和が義処にならい、羽後町三輪神社に、焼いた塩鮭を奉納
(佐竹義和 『千町田の記』秋田県公文書館整理番号20−131811)
③菅江真澄 『月の出羽路 仙北郡六』(文政9年、1826)
「一 神宮寺本郷の事 ‥・蕾郷に仙童子と申候て、鮭網を掠漁り致候 往昔秋田御領鮭を漁り侯網拓を
不知申由 仙茎より参候とて旅僧の来りて、此鮭網を拓侯て鮭漁り侯事を教へ候より、‥・これゆえへ
に、鮭漁り候者をこの辺仙童子と申唱候云々 秋田御領鮭網の始まりの村の由…・」
6 サケをめぐる民俗
①新潟県を中心に分布する鮭漁に際し撲殺木棒(ナヅチ)を用いる文化
→ アイヌの「イサバキクニ」、北西海岸インディアンの”Fish Club”
→ 石川・富山の「特殊石棒」、北海道・東北の「青竜刀形石器」
‥・縄紋時代中∼後期に撲殺木棒を象徴化した石製儀器
②「サケの大助渾」…・本州日本海側北半部の各地に伝わる伝承
10月の下旬「鮭の大助いまのぼる、鮭の小助いまのぼる」の声を聞いた者に災いがふりかかるという言
い伝え
③「ハツナギリ」(※3)「ジュウニヒレ」(※4)の儀礼
「ハツナギリ」新潟県山北町に伝わる
初漁の鮭をエビス神に供え、解体に使
った藁を川に流す儀礼
1岐阜県大野郡荘川村
2岐阜県吉城郡上宝村蔵柱下垣内
3 同 上
4富山県中新川郡上市町
5盲山県富山市天神山
6石川県風味郡能都町真脇
(ほかに富山市古沢、岐阜県宮村砂畑〉
7山越郡八雲町栄浜1
 ̄ヽ8函館市西桔梗町サイべ沢D
ヽ
野村 (1985)より
「ジュウニヒレ」新潟県瀬波に伝わる儀礼、
鮭終漁の頃、捕らえた鮭の目玉、背鰭、腹
鰭、鯉蓋などを葦か萱で作った舟に団子と
ともに乗せ、水神に供えた後、海に流す
→ 北西海岸インディアンの
”First
Salmon
Ceremony”
「サケの大助諾」「サケ石」
「特殊石棒」「青竜刀形石器」の分布
(※3)菅 豊 2000『修験がつくる民俗史一鮭を吟ぐる儀礼と信仰−』吉川弘文館
(※4)赤羽正春 2006 『ものと人間の文化史 鮭・鱒Ⅱ』
7
平成27年度 秋田県埋蔵文化財センター
第3回・ふるさと考古学セミナー 資料
平成27年10月17日(土) 湯沢市生涯学習センター
7 北米北西海岸におけるサケをめぐる儀礼
(∋ Gunther,Erna1926“AN
ANALYSIS
Gunther,Erna1928“FURTHER
OF
THE
ANALYSIS
FIRST
OF
THE
SALMON
FIRST
CEREMONY‘‘
SALMON
CEREMONY“
Kwakiutl族:初漁儀礼に招かれた賓
客が食した後の骨や皮を、漁人の妻が
全て拾い集めマットに包んで海に投
げ入れる
Salish族:初漁儀礼の祝宴(feast)
の後サケの骨をその再生を願って川に
投げ入れる
独特の神話の存在
サケの国(そこではサケは人の姿を
している)に連れて行かれ、空腹時に
は子供(すなわちサケ)を梶棒で撲殺
し食べることを許された少年が、同時
にその骨全てを保存し川に流すよう注
意される。そのとおりに骨を流すと子
供らは直ちにサケとして蘇り、少年は
そのサケの群れとともに川を上り父の
村(すなわち人間社会)に戻って人々
にサケの扱い方を教えた
図8 北米大陸、サケの初漁儀礼の分布とペトログリフ
② Lundy,M.Doris1974 “THE ROCK ART OF THE NORTHWEST COAST“,SIMON FRASER UNIVERSITY
サケは北西海岸インディアンにとり重要な食料であるから、魚を描いた岩画は種類を特定できないものの
サケの傾向がうかがわれる。漁横の場に近く、潮の干満で水面に浮き沈む岩に描かれた人物さえ、神話に登
場する「サケの国」の人と見なされる表現と考えた。
8 「送り」と「共生」
北方の大陸諸民族がもつ人を含む動物観。陸獣ではクマ、魚類ではサケが代表的動物であり、強い擬人化傾
向(anthropomorphism)をもつ。
①菅 豊1990「鮭をめぐる民俗的世界」『列島の文化史』7
→ 鮭と人とが霊魂の循環で、一体化して捉えられている世界観
本州、「サケの大助津」が示すモデル
北西海岸インディアンの神話モデル
鮭の国、神の世界 川 人間の世界
興 界 川 比 界
n 貿仝
軍雪
専
l 暮
l、
′
ん′
●
げ 苦虫
鼻
買′
乍
モ
粟立
専
曇…生きた鮭●…鮭の患魂
(管隆19!拍「鮭を巡る民俗的世界1北方文化に見
要
l
l l
t、
J
ん
才
疇栗
J
栗…人間 仝…鮎の肉体
17世紀に描かれたアルタイのシャマン
t‥生きた人間 ●\=人間の霊魂
…人間の肉体 r・・鮭
.貿∴−_ 再生のモデルー」『列島の文化史』より)
図9 菅豊氏による鮭と人の民俗(族)誌モデル
②中沢新一2002 『熊から王へ』講談社
→「対称性」の世界観:人と獣とをそれぞれの生命において等価
と見なす世界観
ex.宮沢賢治『なめとこ山の熊』
→ 常に霊魂の交代が可能な世界/獣仮装の伝統
③「送り」:霊魂を異世界へ放つ
「共生」:霊魂の交代を通し共に生まれ変わる
北上市口内鹿踊り
図10 獣仮装の伝統
8