お 金 の 価 値 菜穂:ねぇ博士。 「マイフェア」の台本を読んでいると、5ポンドとか 7 シリング6ペ ンスとか、いろんな金額が出てくるでしょ。これって、今の価値でいうと幾らく らいになるの? 博士:へぇ~、ずいぶん熱心に台本を読み込んでいるんだねぇ。たしかに役作りをする には、お金の価値もちゃんと押さえておくと役立つね。でもこれは厳密に調べよ うとすると、かなり難しい問題なんだ。私はこの分野は専門ではないけれど、消 費者物価指数の変化は、たしか表になって発表されている筈だよ。でもたとえば、 50 年前には贅沢品で高価だった腕時計は、消費者物価が上がったのに反して、 驚くほど値下がりしているというように、時代によって物価感覚はかわるから… …。 菜穂:そうね。でもそんなに厳密でなくていいの。大体の感じがわかれば…。 博士:では、まずこの物語の時代設定は何時ごろなのか考えよう。ブロードウェイのミ ュージカル(1956)や、ハリウッド映画(1964)では時代物として扱われている けれど、ジョージ・バーナード・ショーのピグマリオンの初演は 1913 年で、現 代劇だったかもしれないなぁ。でも取りあえず、20 世紀になったばかり、1900 ~1905 年頃としようね。英国の絶頂期、ビクトリア朝が終わり、シャーロック・ ホームズが霧のロンドンを闊歩していて、電報から電話へ、辻馬車から自動車の タクシーへと移っていく時代だ。 菜穂:お金の単位は今と同じなの。 博士:同じじゃない。今の英国の通貨単位は、ポンドとペンス。100 ペンスが1ポンド で簡単だ。ポンドという名称が世界中あちこちで使われているけれど、英国のポ ンドを特に「スターリング・ポンド」と言うんだ。通貨記号は£だ。 菜穂:じゃあ、シリングというのは何? 博士:1971 年に大きく制度がかわったんだ。シリングはそれ以前に使われていた単位 なんだよ。12 進法というか、実に複雑な通貨制度で、1ポンドが 20 シリング。 1 シリングが 12 ペンス。つまり1ポンドは 240 ペンスだったんだよ。 菜穂:ペニーというのも聞いたことがあるけど…? 1 博士:1ペンス銅貨の愛称だね。半ペンス銅貨は half-penny でヘイペニー、2ペンス は tuppence タプンスと発音する。英国英語の発音は不思議だね。それからクラ ウン。1 クラウンは5シリングだけど、1クラウン硬貨というのは重すぎて、あ まり流通しなかったらしい。 1960 年代に私は初めて英国に留学したんだけれど、 見たことがない。半クラウン硬貨はよく使ったけどね。さてクイズだ。半クラウ ンは何ペンスか? 菜穂:えっとぉ、5 シリングが 60 ペンスだから、30 ペンスってことね。 博士:そう。じゃ、半クラウン硬貨がいくつで 1 ポンドになる? 菜穂:えっとぉ、う~ん、8 つかしら。240 ペンスだから。 博士:さすが…。ロンドンの下宿でコインを睨みながら換算の練習をしたものさ。 菜穂:それで値打ちはいくらくらいなの。 博士:今の1ポンドは 170~180 円くらいで、大して高額な単位じゃない。1 ペンスは 2 円未満だ。でも私が留学していた当時は、1 米ドルが 360 円、1ポンドは 1008 円の固定相場だった。日本は東京オリンピック前でまだ貧しく、餡パン1個 10 円くらいだったから、1,008 円の1ポンドは大変な高額紙幣だったよ。 菜穂:となると、1900 年頃ではもっと話が違うわね。 博士:当時の 1 ポンドは、いろんな資料があるんだけれど、今の 20,000~40,000 円く らいじゃなかったかと思う。計算が便利になるように仮に1ポンド 24,000 円と してみると、1 シリング 1,200 円、1 ペンスは 100 円だ。ある調査によると、封 書の切手や新聞が 1 ペンス(100 円)。地下鉄はどこまで乗っても 2 ペンス(200 円) (Tuppence Tube と呼ばれていた) 。電報(最低料金)は 6 ペンス(600 円)、辻馬車 (初乗り)は 1 シリング(1200 円)。ビール(中ジョッキ)は 3 ペンス(300 円)と云わ れている。現在の金銭感覚とあまり違わないようだから、1 ポンドは 24,000 円 として話を進めても、それほど問題ないだろう。 菜穂:それじゃまず、イライザが売っていたスミレの花束の値段ね。 博士:台本から推理すると、どうも一束1~2ペンスだったようだね。最後にやけにな って籠ごと6ペンスと言っているが、何束残っていたのだろう。とにかく、一束 100~200 円てところか。ちょっと安いかも。 2 菜穂:ヒギンズが広場を立ち去るとき、教会の鐘が聞こえたので、献金の積りでイライ ザに小銭を恵んでやるでしょう。「ヒェー!こいつぁすげえ、金貨だ!」って言 っているけれど、この「金貨」というのは何? 博士:当時流通していたコインは、ヘイペニー、ペニー、タプンスの銅貨。6ペンス以 上は銀貨だね。これは今でも花嫁に贈る習慣がある。あとは1シリング、2.5 シ リング相当の半クラウン、みな銀貨だ。これ以外に、あまり使われていない、フ ローリン銀貨(2 シリング)、半ソブリン金貨(10 シリング)、1ギニー金貨(21 シリング)などというのがあったんだ。イライザがもらったのは多分、半ソブリ ン金貨じゃないかな。 菜穂:なるほどぉ。10 シリングなら、12,000 円ってこと? すごい。 「ヒェー」とでも 言いたくなるわね。じゃぁ、次ね。フランス語の個人レッスンが 1 時間 1 シリン グ 6 ペンスっていうのは? 博士:単純に計算すれば、1 時間 1,800 円。これもちょっと安いかも知れない。今、駅 前留学の個人レッスンだと 5,000 円程度らしいよ。「自国語で上品な喋り方を習 うのには、1 シリング 1,200 円以上は出せない。 」といっているね。イライザは 何を根拠にしてそういっているのか私にはわからない。 菜穂:イライザが払おうとしている 1 シリングを、ヒギンズは「百万長者であれば、60 ポンドには匹敵する訳だ。」というでしょう。これはどういう意味? 博士:これは、配られた台本の内容だけじゃ、分からないんだ。バーナード・ショーの 台本の中に 「百万長者は 1 日 150 ポンドは稼ぐ。この娘はせいぜい半クラウンだ。 150 ポンドの 40%は 60 ポンドだ、こいつはすごい。」という台詞がある。これが 元になっているんだ。つまり半クラウン(30 ペンス)の 40%が 12 ペンス(1シリ ング)というわけだね。百万長者が 1 日に 150 ポンド(360 万円)稼ぐとすれば、 年収は 13 億円だ。すごいな。一方、イライザは年収 110 万円程度ということに なる。ワーキング・プアだね。 菜穂:イライザの父親が「あんたがホントにイライザを欲しいってんなら…。見舞金 5 ポンドで手を打とうぜ。」と言うのに対してピッカリング大佐が「君、誤解しち ゃいかんよ。ヒギンズ教授の考えてることはそんな卑しいことじゃない!」って 3 たしなめる。 「よーく分かってるよ。 さもなきゃ、50 ポンド吹っかけるとこだい。」 というやりとりがあるでしょう。この金額はどうなの。 博士:今の換算率で計算すると「120 万円吹っかけるところだったが、12 万円で手を打 とう。」とういことになる。これが高いのか安いのかさすがに私もわからない。 ヒギンズ先生が文字通り「卑しい」ことを計画していたとして、今なら1月分の マンション代とお手当を併せて 120 万円という数字はありうるかもしれない。古 代ヨーロッパでは、結婚は売買の対象で、花嫁はその父親の所有物であり、それ を花婿側に売り渡すといったことが行われていた。牛5頭とかね。あるいは江戸 時代の花魁の身請け代金の相場は、花魁の格や借金の有無によって大きく左右さ れたようだけど、100 両から 1000 両程度らしい。中を取って仮に 500 両としよ う。また 1 両が現在の幾らかというのも大江戸 250 年間に 4~8万円と変化した。 これも中を取って 1 両 6 万円とすると、花魁の身請けは 3,000 万円ってことにな る。これは1月分じゃないけどね。一方ドゥーリトルが見舞金として要求した 12 万円は、1 ヶ月分のみかじめ料と考えればそれほど高すぎないような気もする ね。 菜穂:じゃぁ最後に。「立派なレディになったら、花屋勤めの支度金として 7 シリング 6 ペンス褒美としてあげよう。」っていうのについては、どう思う? 博士:これもよくわからないんだ。7 シリング6ペンスを今まで通りの方法で換算する と、9,000 円相当となる。だがレディになれたご褒美としては、あまりにも安す ぎると思わないかい? 菜穂:支度金の足しにもならないわよ。 博士:ショーのピグマリオンの台本でも「花屋の売り子になる支度金として7シリング 6ペンスプレゼントしよう」と書かれているんだが、ラーナーのマイフェアの台 本では「花屋の高級店員として日給7シリング6ペンスで人生を始められるぞ。」 となっているんだ。これだと日給 90 ペンス、つまり 9000 円なら、何時間労働か はわからないが、まぁ妥当な金額だよね。ラーナーが修正したのかもしれないね。 菜穂:うーん、いろいろなケースがあって、一概には言えないってことね。でもおおよ そはわかったわ。博士、どうもありがとう。 4
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