五 戒 ・・・ 小野 円定

法
話
<法
話>
五
戒
小野
Ⅰ
円定
はじめに
人間禅には入会式に唱える大切な「五戒」があります。
一、嘘をついてはいけない。
一、怠けてはいけない。
一、やりっぱなしにしてはいけない。
一、我儘してはいけない。
一、ひとに迷惑をかけてはいけない。
五戒は昭和23年、人間禅創立者 耕雲庵立田英山老大師がお創りになられ
たものです。人間禅の前身、両忘会時代大切にされた、次のお言葉が基に
なったと思われます。
・虚偽は卑しむべきの罪悪。
・怠惰は憐れむべきの罪悪。
・専横は憎むべきの罪悪。
・正直者は損をすると歎かすより為政者の罪はなく、利口者は得をす
ると思はすより指導者の恥はなし。
・大なる面積を乱雑に耕せんよりは、小なる地域を丁寧に耕すに如か
ず。
五戒の大切さについて、妙峰庵孤唱老師(第二世総裁)は『人間禅』誌
第87号の中で、次のように述べておられます。
わが人間禅に五戒がある。まことに簡潔にして素朴であるが、誰か真
摯に照顧して慚愧なしと言い得るや?
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おもうに平常の生活の上で、
これ以上の人間形成への実践行程はない。お互いに自戒履践につとむ
ると共に、家庭に職場に掲げて膾炙せしめ、日々の生活の生きた目標
たらしめよう。
又、
五戒はやさしく表現されており見ればわかる。子供達の躾として食事
の時唱える事を勧めているが、五戒は人間禅の真髄である正しく・楽
しく・仲よくと表裏の関係にあり、人間としてのあるべき姿である。
と人間形成の為に、高く位置づけておられます。
正しく・楽しく・仲よくとは、老大師が深い見地から唱え出された究極
の世界楽土の姿であり、人間禅精神の根幹となるものです。以下、
「正しく
・楽しく・仲よく」と表裏の関係に位置する五戒について、考えを述べて
みたいと思います。
Ⅱ
嘘をついてはいけない。
一般的には人をだまさない、ごまかさない正直という事ですが、正しく
・楽しく・仲よくの正しくに当たります。
「正しく」とは、規律を守る、約束を実行するという事ですが、深く見
れば、自然のまま、ありのまま、何も飾らない純粋な姿の事です。私達は
「真理に合掌する」と言います。
真理とは人間が作り出したものではなく、絶対不変のもので、これほど
正しいものはありません。故にこの段は真理通りに生きるという事で、五
戒の土台となり、最も重要な処であります。
『論語』述而篇「吾無隠爾」を取り上げます。
【孔子曰く、二三子よ。我れを以って隠せりと為すや?
吾れ爾に隠す
ことなし】
「皆の者よ。何かわしが隠し立てでもしているように思う者があるかも
知れぬが、わしは何一つとしてお前たちに隠し立てはしておらぬぞ。日常
の行住坐臥の上において、大道の妙用を露堂々と示しておる。真っ向この
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通りであるぞ!」
この語について妙峰庵老師は、
「洪川老漢著『禅海一瀾』において、この
聖語の深旨に就いて孔子の肚を看破しておられます。私は無隠の二字を、
無上の境涯として参ずるものである。」と述べておられます。
又、良寛様の句と言われる<裏を見せ表を見せて散る紅葉>
良い処も
悪い処も、すべてをありのままに、そのままさらけ出す。これがこの段の
本質と思います。
Ⅲ
怠けてはいけない。
一般的には陰ひなたをしない、忠実という事ですが、正しく・楽しく・
仲よくの楽しくに当たります。
「楽しく」とは、趣味を楽しむとか、友人と会話するとかに使いますが、
深く見れば、現実のありのままの姿に、苦楽を超えて喜びを感じ、自己に
納得がいき、満足のできる人生を送る事で、私達はこれを「自己の仏性に
合掌する」と言います。
この段に関連して、陰徳について取り上げます。
磨甎庵劫石老師(第三世総裁)は、
『磨甎』の中で「陰徳を積む」と題し
て、次のように述べておられます。
禅の修行というものは、畢竟、心を磨くものである。公案により知
見が開け、坐禅により定力が養えても、本当の心の蕊底から徳を輝く
ためには、言葉ではなく、明徳を築くものがなければならない。
室内を終えたといっても、如何に公案になり切ろう、三昧に打入し
ょうとしても、それが本物たり得ないのは業障の為にさまたげられて
いるからである。最後の私心というものが、まだ洗われていない為で
ある。その点で大事なのは、人の見ていない処で、孤りの処で独りを
慎み、陰徳を積むという事である。理では心の業障は洗われない、心
は磨かれないのである。銘されねばならない。
禅では、その人なりの修行の香りが出なければ、修行は本物ではないと
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言われます。人の見ていない処で怠けない、陰徳を積む。その香りが利他
行につながります。肝に銘ずる処であります。
Ⅳ
やりっぱなしにしてはいけない。
一般的には始めたら途中で諦めない、最後までやり抜く事ですが、正し
く・楽しく・仲よくの楽しくに当たります。
人間禅では物事を始めるとき、
「段取り・真剣・尻拭い」を厳しく言われ
ます。この三要件が揃って初めて物事が完結した事になります。何事を為
すにも大切な要件です。
この段は三要件の尻拭いの事で、老大師は「尻拭いは目前の坒事より、
一生の大事に至るまでの要訣なり」と述べておられます。人生の最期を迎
えるときの備えを、今の内から心掛けておけよ、人生をやりっぱなしで終
らしてはいけない、という事です。
最期の覚悟について、妙峰庵老師は『人間禅』誌第92号の巻頭言で、次
のように述べておられます。
人生再度来たらず。人の命は今生を以って限りとする。しかも生死
は入息出息の間、今をも期し難い。覚悟や如何?芭蕉翁云く“昨日の
発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句
一句として辞世ならざるはなし”と。茶人曰く“一期一会”と。正受
老人云く“天下の一大事とは今日唯今の心なり”と。古人先聖の上来
一句、相い共に肺肝に銘すべし。
以上、嘘をついてはいけない、怠けてはいけない、やりっぱなしにして
はいけないの三段が自利に当り、次の我儘してはいけない、ひとに迷惑を
かけてはいけないの二段が利他に当たります。
Ⅴ
我儘してはいけない。ひとに迷惑をかけてはいけない。
一般的には勝手な事、人の嫌がることをしない事ですが、正しく・楽し
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く・仲よくの仲よくに当たります。
「仲よく」とは喧嘩をしない、助け合うという事ですが、深く見れば、
世の中には単独のものはなく、相互に関連し依存し合って存在しており、
その中で自他の畦をなくし、
「お互いの仏性に合掌する」というのが、仲よ
くであります。
老大師は次のように述べておられます。
・己れの欲せざる処、他に施さば罪悪となり、
・己れの欲する処、他に施さざれば吝嗇となる。
・己れの欲せざる処、他に施す勿れと道徳は教え、
・己れの欲する処、他に施せと宗教は叫ぶ。
道徳的には三段目「己れの欲せざる処、他に施す勿れ」という処です。
勿論道徳を守る事は大切な事であります。只、禅の立場から見れば、四段
目の「己れの欲する処、他に施せ」という一段深い立場になります。
美味しいと思ったら、他にも勧める。これが利他行の基本となります。
Ⅵ
吾我の念を拭い去る。
老大師は「人間形成の為には、五戒を本当に行じさえすれば、それで十
分だ。」と、高い境涯について述べておられます。その為には、吾我の念を
完全に拭い去らなければならず、わずかでも残っていれば、人間形成は完
結しないのであります。
吾我の念について、磨甎庵老師は『磨甎』の中で「袴を新調し思う」と
題し、次のように述べておられます。
先般新調した紬の袴の色が強く茶味を帯びて派手のように思われ
る。袴をつくるとき暗くならないように配慮したつもりでいたが、つ
い私念(吾我の念)が出て恥ずかしい限りである。道人として、道を
養い、学貧を行じ、道を伝える根本の道心に欠ける処があり、一般の
社会の色に染まり、正念を打失していたように思う。これを思うにつ
け、衣服のみでなく、食べ物も、住居も、用いる器も、書物もその一
つ一つに、自らの心が発露され、その境涯が示される。
公案の工夫は勿論大事であるが、日常生活の一こま一こまに、やは
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り道人、人間禅としての本当の工夫が滲み出なければならない。清掃
されない室内や、庭、汚れたままの衣服や身の回りをそのままにして、
どんなに坐禅しても、その琢磨されていない世情に汚染されている心
の姿に、見る者が見れば、はしたない事が分かる。今回この袴の事が
天からの戒めである。
と日常生活での工夫の大切さと、吾我の念を拭い去る難しさを述べておら
れます。
Ⅶ
終わりに
禅は最終的には自利利他の修行であって、五戒には自利と利他の両方が
含まれております。従ってこの五段がすべて行じられて、初めて人間形成
の完成につながります。一つが欠けても完成した事にはならないのです。
自利と利他は別々なものではなく、一体だからであります。
五戒は日常生活の中で当り前のように、自然に行じられる迄磨き練り上
げなければならないのです。私達修行者は座禅の修行を基本として、現実
の日常生活の行動指針として五戒を行じ、吾我の念を拭い去り、そして、
人間形成の完成を目指していくのです。
只、吾我の念を最後の一点まで拭い去る事は、難中の難であります。在
家禅は職場の事、家庭の事等々、その中で修行を進めていく事は、実は大
変な事であります。
論語に【楽在其中】
(楽しみその中にあり)という語があります。修行も
先に進みますと、そういう境地が開けてきます。現実の荒波に揉まれなが
ら、禅の修行に励み、人知れず「五戒」を行じていく。正にその中に楽し
みを見出すのです。
「人間形成」を人生の最高の生き甲斐として位置づける
のです。
そして、立教の主旨第一項【人間禅は自利利他の願輪を廻らして、ほん
とうの人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする】。これを目
指していくのが、私達修行者の正しい姿であります。
合掌
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■著者プロフィール
小野円定(本名/平四郎)
昭和21年生まれ、千葉商科大学商経学部卒。
(株)ワンビシ ア
ーカイブスを平成15年定年退職。昭和42年人間禅立田英山老師に
入門。現在、人間禅師家。庵号/鸞膠庵。
<法
話>
継続は力なり
中村
慈光
私の好きな言葉は「継続は力なり」です。
私の所属する熊本道場にも女性の修行者(禅子)が増えて賑やかになっ
てきました。社会生活を送りながら修行を続けていくのは、男女ともに大
変なことですが、特に女性は結婚すると家事の他、育児、親の介護などい
ろいろ修行が困難になるときがあります。
私の今までを振り返って、少しでも禅子のみなさんのお役にたてればと
思って、お話しさせていただきます。
禅
熊本大学の学生時代に入門しました。卒業後は故郷の大分県の教員採用
試験を受けて、日田郡の小学校に2年半勤務しました。1学年1クラスの
小さな学校で、担任をした2年生の子供達に、給食の後の昼休みに数息観
をしてみせたら、「お地蔵さんごっこ」と言って喜んで真似していたこと
を思い出します。
道場の毎月の例会は、当時は日曜日の早朝からでしたので、土曜日に日
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