日本山岳会百周年 ● 日本山岳会北海道支部四十周年 ∴∴ ∴∴\∴言 ∴∴∵∴: :∴∴∴∴∴∴∴∴ ∴一 ∴一 ∴∴∴∴「∴ ヾ i:ニー ◆一 ・轍i藤潔i 麗譲態欝懸.≡撥畿撥藻類緩紫馨還送≡畿怒藍麗態躍躍躍躍 :=〉■ヽ ∴∴ぐ∴.∴∴ ヽヽ. 懸遙≡薫蒸慾≡≡一芸灘慈一二〝擬態畿鷺繋緩綴※器鸞鰯蟻 第35号 平成17年4月発行 一言 一∴∴一∴ ∴∴∴∴∴∴∴ ∴一∴ .ト∴∴..∴.「∴. ‘=緩饗、一・くま ∴\∴ 社団法人日本山岳会 北海道支部 札幌市北区北7条曲6丁目 キクノビル(株)北斗警備 長谷川雄助気付 日本山岳会北海道支部事務局 電話(011)738−8211 振替02790−7−16937番 境山南から下ホロカメットク山への分水嶺(撮影・鈴木貞信) 発行者 新妻 徹 編集人 滝本幸夫 素新 図「歌 名 育 四 遙 第三十 山高 日 日 北日1支 擬醒課懸離 し緒。おラ員′′別 学毒需りイ 律露語墨∴離狛緩 作地の状め立iみ、た四にえ 坂撃沈いハ、、 本;;てむ〟iPi考題…て轡 直: ;に .一一−● 行16 1515 14 131210 9 9 8 7 6 5 4 3 2 ー1− 北海道支部は昭和四十四年 七月二十日に再出発しました が、日本山岳会百周年記念誌 の編集に際して、昭和二十四 年三月六日の発会式からの経 過を当然のこととして含め支 部長会議で報告して了承され ましたので、通算して今年が 四十周年になります。 日本山岳会百周年記念の年 でもあり、二十一世紀の展望 として歴史的な平成十七年で す。国内 ます。その歴史を支えてきた 背景に、太い人間の絆を感じ、 遣しい年輪の素地となる三S の不易語を確認したいのです。 「∴∴:∴∴∵ ・′i撒講読雷 鐙懸、・・:予 報惣態‘撥’ ・.−緩 ∴∴∴.∴ ∴ 毅 なものとして表現しています が、私はこの基調を今回の中 央分水嶺踏査に感じています。 GPS ︵地球的測位法︶を活 用して日本側地系から世界測 地系に移行した経緯度測定を 実施しながら踏査しています が複雑な地形では、やはり体 験に基づいた情報が貴重です。 高度情報化社会であっても実 感できる情報は少ない現状で す。だからこそ中央分水嶺踏 1− 、、‘■滋 ∴∴ それは﹁政治・宗教・商売﹂ るバックボーンを形成するも のSであり、趣味の世界に三 Sを持ち込んではいけないと いうIACの人の和を尊重す のであると思います。国境な き医師団が世界各地で活躍さ れていますが ﹁政治・宗教・ 図を見て 夜空の星 事業の大 ンプ地点 を見てキャ は 一一一2− プロジェ 査 ∴膏一∴ :∴∴∴∴ 「∴∴∵ ∴一∴∴∴.∴∴一: ∴ ≡鞭_ii鰯懸怒繋 翳 懇懇談総、く 醸麟醗議 ∴: \∴ 綴= ∴∵∴「 クトであ 妻 日本山岳会北海道支部長 新 るという 、 地 を確認 す ゆっくりとした思考を背景に、 増え、森の成長と同じように、 と関連させて、一人一人の胸 げており、IACの三つのS 資本﹂からの三S信条をかか 登山を原点に引き戻す行為で あり、自分の足で歩いてこそ 得られる情報は信用度の高い ものです。五感で体得した情 報を共有する仲間が少しつつ の奥に位置、、つけて欲しい基本 理念の伝承事項です。 ﹁星の王子様﹂を一九四三 インデストラクティビリティ 自分が定めた目標を達成した ときの感動、あの登頂の感激 を同質のものを北海道支部の ド・サンテグジュペリは、 ﹁出会って別れても共に過ご した時間は消えない。大切な にしたいものです。 年に出版したアントワーヌ・ ンデストラクティビリティ ものは目に見えない﹂と、イ ︵indのSutruCtibiHity︶ を不滅 分水嶺クオペツ東尾根を辿る 分水嶺上に資える巨岩・割石 武華山一武利岳への分水嶺 (撮影・長谷川雄助) 雄鉾岳の手前(撮影・漆崎 隆) (撮影・助田梨板子) る中央分 水嶺踏査 は、昨年 から全員参加の趣旨で推進し ていますが、静かに成長して いる自然児学校の運営と、山 岳文化を発信している山岳図 書に親しむ集いの着実な継続 を嬉しく思っております。 日本山岳会のクラブ・ライ フは多様性のある統一という 秩序感でユニークな活動を継 続してきたと、多くの先輩か ら聞かされてきましたが、北 海道支部ルームの蔵書からも、 貴重な歴史を知ることができ 日本山岳会百周年記念事業中央分水嶺踏査・支部会員活躍中 北海道支部を創立四十周年に 変更した経緯 高 澤 光 雄 調査した資料を当時活躍されていた 会員にお送りし、追懐しながらその 経緯を教示いただいた。 会員名簿については東京本部に二 度訪れて調べ、その結果を﹃ヌプリ﹄ 三十二号から﹁日本山岳会入会の初 てマイクロフィルムで調べ上げた。 売した。この倶楽部の名誉会長は村 上善彦氏︵日本山岳会北海道支部創 立者初代支部長︶ で、その集会で可 知会長が日本山岳会北海道支部の強 化策を説明され、その時に二人が入 会された。 村上善彦氏の資料は、戦中、戦後 の山岳界の動向、支部設立経緯や運 営を綴った簿書は、札幌市資料館に 保管されている。また、それを裏付 けするために、当時の北海道新聞と 北海タイムス記事を図書館に日参し 会に参加し、会長の可知邦成氏の知 遇を得る。日本山岳会﹃山日記﹄昭 和二十八年一月刊を、東京出張の折 り若渓堂の坂本矩祥氏にお願いして 勤務先の丸善札幌支店に送付しても らい、札幌山岳倶楽部の集会時に販 日本山岳会電百周年に し た 。 日本山岳会北海道支部は、昭和二 十四年三月六日に発足したが四年後 に解消した。その経緯は﹃ヌプリ﹄ 前号に詳細を発表したので、そちら を参照いただきたい。 この支部が存続していた四年間を、 再発足以来現在まで数えてきた通算 年に、加えるかどうかについては、 平成十五年四月五日の支部総会で、 私が提起して累々と説明。明年度の 総会で賛否を諮ることにした。翌十 六年四月十日の支部総会で、出席者 全員の同意が得られ、本件は承認さ れ た 。 そもそもこの四年間を通算年に加 えるかどうかの発端は、平成十四年 六月に本部の百年史編纂委員会から 北海道支部関係の資料調査を仰せつ かり、﹁山岳﹂ ﹁会報﹂ ﹁山﹂ などの 関連語事一覧の送付を受けた。その 中で昭和二十四年発足前後の事項に 疑問を抱き、本格的な調査に乗り出 私は昭和二十七年四月、札幌山岳 倶楽部が募集した砥石山の残雪登山 てからは立ち消えになってしまった。 期会員﹂と題し、三回にわたって連 載した。 昭和三十五年に常任評議員で ﹁山 岳﹂編集者の望月達夫氏が札幌に転 勤となり、会員有志の昼食会を毎月 一回札幌駅近くの食堂で催し、山行 もなされ支部再建の機運は高まって いた。それも三年後に東京に戻られ 日本山岳会創立六十五周年を期し て、支部のない地域に支部設立をと、 支部担当理事だった深田久弥氏が再 三にわたって来遺して説得された。 相川修氏や若手会員が再建に努力さ れたが、支部が一度消滅した経緯も あり、当時は北大山岳部・山の会が 日本山岳会を代行していただけに、 敢えて支部の必要性がなく、なかな か進展しなかった。 当時、私は医学書販売員として札 幌医科大学進学課程生物学教授の伊 藤秀五郎氏や衛生学教授の金光正次 氏へは頻繁に訪れていた。また極地 評論家の加納一郎氏からは極地探検 の洋書が出るたびに注文を頂戴して いた。そんな面識があるという理由 から、支部設立の調整役に指名され 。 た まず北海道山岳界の重鎮である加 納氏を訪れ、経緯を説明して打開策 を懇願した。加納氏は﹁十年程前に 伊藤秀五郎氏らと望月達夫氏の在札 中に支部を作っておけばよかったと 述懐され、今回の支部設立について の動きについては薄々感ぜられ、伊 藤氏や坂本直行氏から電話をいただ いていた。現在お骨折りの方々に非 常に敬意を表している﹂と承諾され、 支部長に南極越冬隊で活躍した中野 征紀氏を推された。 この意向を伊藤、金光両氏に伝え て支部は再発足した。したがってそ の時点で昭和二十四年にさかのぼっ て支部設立年にすることは到底でき る状態ではなかったし、立ち会った 私にも責任がある。 その経緯については﹃山岳﹄七十 八年 ︵昭和五十八年︶ に ﹁北海道支 部十五年のあゆみ﹂として詳記して おいたが、再発足に至るまでの道程 は容易ではなかった。 幸い今回の支部総会で承認され、 日本山岳会百周年の記念すべき年に、 北海道支部が四十周年という歴史を 刻み、再認識されたことに、先人の 労苦に報いられたものと満足してい 。 る 早速、ネットワーク委員会の鈴木 和夫氏にデークーを送り、支部紹介 欄﹁支部の先人達﹂ に登録済の九氏 に加え、新たに入会順に山崎春雄第 二代支部長、村上善彦初代支部長の 顔写真、自筆署名と年譜を入力して いただき、私の責務を果たした。 3 顧みて 神原 照子 旦晶山脈に初めて足を踏み入れた のは昭和四十二年のペテガリ岳束尾 根であったが、以来三十八年間、飽 きることなく現在も通い続けている。 小さなポコ山も含まれている。 その結果、大小取り混ぜ一二二座 を踏破したが、盟主として聾える幌 尻岳を筆頭に、一番低いところでは 振内町岩知志に位置する三〇二㍍の 一九六七㍍峰は、山脈中、幌尻岳、 北から順に一九六七㍍峰、一八五 三㍍峰、一八二三㍍峰、一八三九㍍ 峰、一四八三㍍峰である。 ためらわず、頂に立つことをお勧め シ山まで行ったならば、あの急登に 八ノ沢カールから一気に突きあがる 山嶺は、険しい旦昂の稜線を象徴し 相応しい道程であると感じた次第で 岳からヤオロマップ岳を経て夏道を 登ってみたが、やはり長くて険しい 山稜は、旦品の名峰に辿り善くには 縦走途上に踏まれることが多い。カ 一八二三㍍峰も単独で登られるこ 下した位置にあり、単独で登られる ことは殆んど無い。主稜線の縦走途 上に踏まれることが多く、私は二度 ムイエクウチカウシから南下し、一 ウシ山とコイカクシュサツナイ岳の さがそう感じさせたのかもしれない が、最近になって一八三九㍍峰から 望んだときは、ビラミグルで素晴ら しい端整な姿で望まれた。 稜線上は這松を掻き分けて行くし かなく、傷だらけの山行になるだろ う〇 一八三九㍍峰は、多くの岳人を惹 きつけて止まない旦品でも二 二を 争う名峰である。 実測値が一八四二㍍であっても一 八三九㍍峰が正式な山名になり〝イッ パーサンキュー〟 と呼ばれている。 昭和五十九年五月、雪を伝い、シ ビチャリ山を経由して頂に立ったが、 最近になりコイカクシュサツナイ 長いペテガリ岳束尾根から見たと 。 す 最後の一四八三㍍峰は所謂、早大 尾根の中間に位置している奇峰であ 。 る きは、わが目を疑うほどの絶壁を持っ て望まれた。 実際登ってみるとその薮の酷さは 半端なものではなく、山頂直下は見 登った証に、山頂には名前入りの た通りのスラブであった。 テープを結んできた。山の異物にし かならないテープであるが今回だけ はそうしてみたい往復八時間の薮漕 ぎの末に獲得できた貴重な一座であっ 。 た 他にもまだ三角点があっても、名 前の無い山が旦品山脈には沢山ある。 それらの山々を網羅して一四〇〇㍍ 以上の山顛六十四座を極めたが、一 人で生まれてくることができないよ ことが出来なかったが、シビチャリ のである。 旦晶の山に同じ価値を見出し、同 じ方向を目指した仲間がいた結果な \ ○ うに、一人の力で登った分けではな 山から登れたことがとても嬉しいこ 山頂直下の這松の海には泣かされた。 ガスと小雪が舞う申、山の姿を見る とであった。 カムイエクウチカウシ山につぎ第三 したい一座である。 ているようだ。カムイエクウチカウ 位の高峰である。 ピパイロ岳分岐から二・三キロ南 しか立っていないが、ピパイロ岳山 度しか立っていないが、この時はさ ほどの山とは思っていなかった。若 ムイエ とが殆んど無く、カムイエクウチカ 頂からは実に大きく聾えて見える山 である。 初めて雪積期に縦走した昭和五十 年、この山の下りにビピッた記憶が 蘇 る 。 一八五三㍍峰はカムイエクウチカ ウシ山とのコルを挟んで南にあり、 通称〝ビラミット〟と呼ばれている。 コルから見上げると、見事な四角錐 が天を突き、踏み入ることが躊躇さ れるほ ど気高 クウチ から望 む と 、 4 もっとも、易しいルートからでは あるが、その多くは道も無く、沢を 遡り、薮を漕ぎ、雪を伝った山が大 半を占めている。 旦昂の山名はアイヌ語が多く、水 源とする川の名前を冠したものが多 いのはそのためである。昔は川を遡っ てしか山に登れなかったから、川と 山は一体ものであり、川一本で一つ めに無名峰ができたようだ。たとえ 三角点の標石が設置されていても山 名が無く、標高値で呼ばれているも カウシ く肇え ていを のがある。 山の北 またカ 一九九四年八月の北海道新聞、十 勝版には旦晶山脈の無名峰五座が紹 介されていた。 しか山の名前が付けられず、そのた 1839m峰 一カムエク南西陵より− 牧 慎太郎 ﹁日本百名山﹂といえば、深田久 弥氏による名著だが、深田氏自ら後 のほかに、ウべべサンケ、二ペソツ、 営業時間 AMlO:00−PM7:00 提斑,心塘秀吉葦 札幌店 〒001−0012 札幌市北区北12条西3丁目 TEL札幌(011)726−1235(代表) 白石店 〒003−0026 札幌市白石区本通1丁目南 TEL札幌(011)860−1111 旭川店 〒070−8045 旭川市忠和5条4丁目 TEL旭川(0166)61−1930 縫製工場 札幌市西区西野12条8丁目8−13 TEL札幌(011)661−8774 本三百名山︵案︶﹂として発表され、 会員による検討を経て、昭和五十三 年版にて三百座を確定している。ち なみに、﹁日本二百名山﹂ は、同好 の士により設立された深田クラブに よって昭和五十九年に刊行されたも ので、﹁日本三百名山﹂ の後になっ て選定されたものである。 そして、私も不惑にして日本三百 名山のうち半分を超える山々に登る ことができたが、ここで改めて強調 しておきたいことがある。それは、 定休日 月曜(白石店は水曜) 登山と山スキー用品専門 記に﹁北海道では九座挙げたが、そ と書き記している。 あ る 。 北海道の山々の全国に卓越した素晴 らしさである。北の大地では森林限 界が低く、千メートルを超えれば高 山の趣があり、豊かな積雪は美しい お花畑を形づくる。私が本州で一番 好きな山は黒部五郎岳であるが、そ の雄大なカールとお花畑の魅力が、 北海道の山々を彷彿とさせるからで しも当たり前のことではなくなって 日本三百名山のうち北海道からは 二十五座が選定されているが、日本 国土の二割を超える面積を占め、豊 かな大自然に恵まれた北海道には少 なすぎる感じもする。日本三百名山 の選定にあたっては、深田久弥氏の 挙げた山の ﹁品格﹂﹁歴史﹂﹁個性﹂ が基準とされており、おそらく山の 歴史が尊重されているからであろう。 しかし、高度情報化社会を迎え、大 都市への人口集中が一層進むこの時 代、人々の心を癒す自然の豊かさを 抜きに山の魅力を語ることはできな いのではなかろうか。深田久弥氏が 日本百名山を選定した昭和三九年、 それは私が生まれた年でもある。そ れから四十年、日本は高度経済成長 やバブル崩壊などを経て大きく様変 わりした。アクセス道路や山小屋も 整備され、大衆観光化が進む中で、 山に豊かな自然が存在するのは必ず しまった。日本百名山についても、 大勢の登山者がそのピークを目指す ため、オーバーユースの問題にさら されている。こうして考えてみると、 しさをいつまでも保ってほしいと願っ 人々が押し寄せかねない名山の選定 基準に﹁自然の豊かさ﹂を加えるこ と自体、むしろ野暮なことかもしれ ない。北海道の山々が、その素晴ら ている。 ︵会員・支部会友︶ ー5− 石狩岳、ペテガリ、芦別岳、駒ヶ岳、 樽前山などは有力な候補であった。 ただ、私はそれらの山を眺めただけ で、実際には登っていないという不 公平な理由で除外したことは、それ らの山に対して甚だ申し訳ない。﹂ 私も北海道の山々に魅了され、二 十世紀最後の会員として日本山岳会 に加えていただいたが、平成十四年 四月に東京へ転勤してから目標とし たのが深田百名山の踏破であった。 あまり意識することはなかったが、 それまで四十三座に登っていたので、 それから二年半後、昨年九月に南ア ルプス光岳にて残り五十七座を完登 することができた。そして、深田百 名山にとらわれず、もっと幅広く魅 力に溢れた山々に登りたいと思って 注目したのが﹁日本三百名山﹂ であ る。わが日本山岳会の編纂による ﹁山日記﹂ の昭和五十二年版に ﹁日 黒部五郎岳山頂にて筆者 高山植物を 守るため ︶︺ ヽ′リヽ 樋口 みな子 近年、北海道の各地で高山植物の 盗掘が頻発し、貴重なお花畑が荒れ 果て、絶滅寸前になってしまった植 物もあります。 ジウムが開催されたのです。シンポ ラの会が、アポイ岳はアポイ岳ファ を受けて、夕張岳はユウパリコザク シソウ、ダイセツヒナオトギリ、レ のは十二種類、ヒダカソウ、キリギ リソウ、オオヒラウスユキソウ、フ タナミソウ、キバナノアツモリソウ、 罰則についても少し厳しくなりま ヤチランです。 した。﹁違法に捕獲した場合や登録 を受けずに特定希少野生動植物の売 買を行った場合などは、最高で一年 以下の懲役又は五十万円以下の罰金 の処罰の対象となることがある﹂と また二〇〇三年から、道から委託 変わりました。 海道、後志支庁、島牧村︶が集まり、 大平山の自然を守るにはどうしたら いいのか話し合われました。翌日は 調査登山を大平山高山植物保護対策 協議会の行政の立場の人たちと、各 地で山の自然保護に努力している人 たちとの合同で行いました。 写真家の梅沢陵さん、高山植物が 専門の佐藤謙先生も、高山植物を守 るためには、登山道の付け替えが必 行政機関︵環境省、森林管理所、北 月に開かれ、高山植物盗掘防止ネッ トワーク委員会の加盟団体と、関係 。 す 大平山では登山口近くまでトンネ ルが開通しようとしています。昨年 二回目の大平山現地フォーラムが六 ないストックによる植生への影響で る踏みつけや、ゴムキャップをつけ 起きています。オーバーユースによ パトロールの地道な努力で盗掘は 少なくなりましたが、新たな問題が とも重なり、報告がなかなか届かず 苦慮しています。是非とも主旨を理 解いただきご協力お願いします。 域を日本山岳会北海道支部が高山植 物保護のパトロールを行っています。 支部では三十五人が登録してパトロー ルしていますが、昨年は分水嶺踏査 ンクラブが、そして大雪・十勝の山 私たちは、﹁北海道高山植物盗掘防 二〇〇二年に私たちの運動が実り、 十分とはいえませんが、北海道希少 野生動植物の保護に関する条例が定 ています。 加による登山者への普及啓発を行っ 止ネットワーク﹂ の活動を始めるこ とにしました。私は、その事務局を 担当しています。ちなみに長谷川雄 助事務局長は三代目になります。 ネットワークはこのような目的に 賛同し、道内各地で盗掘防止のため の様々な活動を行う﹁ネットワーク 参加団体﹂により支えられています。 団体が加盟しています。ネットワー 具体的には、盗掘防止の監視パトロー ル、登山や自然観察の際の呼びかけ や、会員メンバーへの情報提供といっ た諸活動を行う自然保護グループ、 山岳関係団体などです。現在五十一 ブンソウ、シソバキスミレ、ユウバ 指定希少野生動植物に指定された ク委員会の委員長は、日本山岳会会 員でもある、北大教授小野有五さん で す 。 私たちの活動に呼応するように、 関係行政機関でもいくつかの取り組 リコザクラ、ウルップソウ、ユウバ められました。 みが行われるようになりました。 ンペーンを行っています。日高支庁 九十八年四月、北海道営林局は、 国有林である夕張岳で、登山道の保 護柵や、木道設置などの緊急対策を 本格実施すると発表しました。また 北海道庁は、この年の六月から、礼 文島、アポイ岳、夕張岳、大雪山を 重点地域とし、道警ヘリコプターと 連携しての監視や、盗掘防止のキャ と様似町で組織するアポイ岳保全対 策協議会は、市民のボランティア参 6 特に九十七年に、夕張岳とアポイ 岳で組織的とも思われる大量盗掘が 発生しました。このことに危機感を 持った、市民グループが中心となっ て、九十八年三月に札幌で高山植物 保護と盗掘防止のための全道シンポ ジウムには道内各地の自然保護・山 岳関係団体のほか、関係行政機関、 一般市民も含め三三〇人もの参加者 があり、この問題への関心の高さが うかがえたのですが、それと同時に、 盗掘防止のための監視強化、道民お よび登山者等の意識啓発、条例制定 を含むいっそうの対策推進といった りました。 多くの課題があることも明らかにな そこで、この成果と経験を発展さ せ、道内各地で高山植物等の盗掘防 止と保護の活動に取り組む市民グルー プが連携して、北海道の貴重な自然 遺産である植物を守っていくために、 ウスユキトクヒレン 要であると、ポイントごとに具体的 な変更箇所を確認しました。 大平山は気特のいいブナの樹林帯 から、九十九折の急斜面が続きます。 第二ピークの岩場からの厳しい登り にはオオヒラウスユキソウが足元に あり、登山者の踏みつけによる被害 が大きいことが分かりました。ガレ 場で落石も怖いです。この日も、先 を行く人が岩を踏みはずして落石、 ものすごい勢いで転がるさまに背筋 が寒くなりました。夏山ガイドには 紹介されていませんが、インターネッ 連ねることができ、この支部会報に て一文を書く機会を頂いた。私は現 在、北海道大学大学院で山岳環境問 題の改善についての研究をしている。 今回は、登山行為に起因する山岳の 自然環境悪化という問題の事例と対 策を紹介する。 トで、情報がすぐさま受け取れる今、 平山は、いつまでも静かで、素晴ら しい高山植物の宝庫であって欲しい アツモリソウ、テガタチドリ、オオ 簡単に登れない山があってもいいの と思います。入山規制も必要かもし れません。山を愛するひとりとして、 ソウが少なくなっているのです。大 アツモリソウやオオヒラウスユキ ヒラタンポポも咲いていました。 高山植物の宝庫であることは本州の 登山者も知っていて多くの人が登っ ています。高山植物帯の迂回の必要 性を実感しました。それでは、せっ かく高山植物が目的で登る人にとっ ては残念という声が聞こえそうです。 でも全ての花が見れなくなるわけで はありません。高山植物に付加をか です。一昨年より一週間遅い登山だっ たからでしょうか?高山植物の量、 種類の多いのに感激でした。珍しい ダメージとなっている。植生がなく 登山者が歩くこと自体が登山道への から、自然を守って行きたいですね。 ︵自然保護委員︶ ではと思います。山をいつまでも美 しいままで楽しむために出来ること しかし十勝連邦の美瑛富士避難小屋 けない登り方を考えようというもの ており、用を足すためにハイマツや のようにトイレのない場所も存在し きてし まうと降雨や雪解けによってミズミ チがで 出してしまう。一度、溝になってし なると土壌固定作用が弱まり、雨や 踏圧への耐性がなくなり、土壌が流 植物帯に踏み込む登山者も多く、裸 地化の問題とも開通している。携帯 トイレは立山や早池峰で有名だが、 実際にはあまり普及していない。大 雪山で無料配布を行っていた上川支 庁も今年限りでそれを打ち切るとい う。しかし利尻山のような閉鎖され てしま まい侵 食が促 進され 啓蒙活動の拠点。南ア仙丈ヶ岳避難小屋 川口 恵典 山岳環境の悪化という憂慮すべき 問題が、登山者の問で認知されるよ 登山行為によって発生する山岳の 自然環境への悪影響を﹁山岳環境問 た環境ではかなりの普及を見せてお り、現地では環境改善を喜んでいる 発議 題﹂と私は総称して、そう呼んでい る。最も知られている問題がし尿処 理問題、つまりトイレ問題である。 とは非 滋 うになって久しい。トイレ問題に始 ﹁知っている﹂と答える。しかしそ という話もある。 しい。 常に難 めるこ な場所は多い。大雪山の裾合平や黒 岳周辺、利尻山は場所によっては四 m以上も登山道が深く操れている。 い、侵 食を止 この原因は様々だが、基本的には我々 登山道の侵食・拡幅の問題も深刻 いた。最近ではバイオトイレや携帯 トイレなどの取り組みも普及してお 特に山小屋や幕営地では、古い方式 ではし尿を垂れ流している場所もあ り、土壌や水質の悪化が懸念されて り、状況は改善の兆しも見せている。 ∴∴∴∴ まり、植生の踏み荒らし、登山道の 侵食などについて多くの登山者は れが実際には﹁どのように﹂起こっ ており、﹁どうすればいいか﹂を知っ ている登山者は残念ながら殆ど出会 うことはない。今夏、長谷川雄助事 務局長の特別のお取り計らいがあり、 伝統ある日本山岳会の会員に名前を 、∴ 、、… ∴1㌦、∴: ∴∴ ∴∴子 慾〝〝 ∴∩∴/ ∴∴∴∴孝牽∴.\簸∴率孝莞∴擁率霊.∴荻.享 議鰯鶏饗蟻灘灘醗騒繊“懇畷罵欝・、綴態綴懸鱗 ∴ パトロール中の筆者。緑岳をバックに また近年ではストック利用者が激増 しており、石英のカバーを外して利 したトイレ、これらを利用して宿泊 こうした山岳環境問題の現状と対 策について、一般登山者に啓蒙活動 を行っている場所がある。南アルプ スの仙丈ケ岳避難小屋である。二〇 〇〇年秋に最新の設備を有する山小 屋に生まれ変わったこの避難小屋は、 もはや避難小屋の域を逸脱した。一 五六枚の太陽電池パネル、二十基の 風力発電、完全に循環処理を可能に こうした取り組みが今日の日本の山 岳界には存在するのである。私はま だ登山を始めてようやく十年と少し という若輩ではあるが、栄光ある日 本山岳会の一翼を担わせて頂けるの であれば、こうした情報の発信源と しても尽力する所存である。我が国 ファベット表記し、DZなどと呼ん 誤りが多く、毎年合宿する山岳部で は自分達で測量した地図を使った。 地形が複雑なため目ぼしい処はアル 一九四〇年代の五万﹁十勝岳﹂は 交えたエゾマツ林もすぼらしい。 なす錦、何時もその見事さは新鮮で ある。色、、つく潅木と白い立ち枯れを メットクだが、BのtOtならメトック 奥山︾らしい。今の地図は上ポロカ がある。上ポロは上富良野の奥山で はないが、十勝からは回り込む奥山 の上流の山。アイヌ語辞典︵萱野茂︶ の山岳界をリードする皆様方のお力 になれれば幸いである。 ︵北海道大学大学院生︶ メ雪はゾンメルシーで自由に滑れる。 だ。今はもう正確な地図があるのに、 者に山岳環境問題に関する講習会が 今夏、実施された。仙丈ケ岳を愛す る会と、その母体であるNPO法人 南アルプス研究会のメンバーが自前 の冊子を配布して約一週間の講習会 を実施し、延べ二四〇名の宿泊者が 参加した。仙丈ケ岳の自然環境とそ の諸問題、それらへの幾つかの改善 策としての小屋の存在。幸いにして 会は非常に好評の内に幕を閉じた。 富良野、美瑛、十勝、上ホロと夢中 用している人が殆どだ。これは特に トラバ ー ス 道 な ど で 登 山 道 を 崩 壊 さ しめることだろう。 せる一因になっている。侵食・拡幅 の問題については多くの対策がある が、重要なのは一般登山道を歩く場 合はそこから外れないという最低限 のルールを守ることの重要性を知ら 僕に山を教えてくれたのは十勝岳 だ。毎年十二月、山岳部は十勝岳で 冬山合宿をした。上富良野から荷物 を馬棒に託して中茶屋まで歩き、そ で登った。一人で晩秋に来たことも うバスがあったのに、黄に色づくカ ある。卒業しからも何度も来た。も 注ぐので ︽トカップ乳房︾という。 さて山の名前のトカチは十勝川の 源。これは川口が二つになって海に まだこの記号が使われている。 ︽ポロカ︾ の北へ流れ、上ポロはそ 美瑛は ︽ピイエ︵硫黄で濁る︶ 脂 ︵の様な川︶ ︾、富良野は ︽フラ・ ヌ・イ臭・持つ・川︾ で、いずれも 火山に関するが上ポロは違う。十勝 川はトムラウシ川と合流後商流する が上流は西へ折れ、支流ポロカ十勝 川はさらに南へ回り込み中流とは逆 ラマツと暗い針葉樹林の上に白く輝 く聾える上ポロ北壁と八つ手岩、白 い砂礫、ハイマツの緑と真紅のナナ く山を見たさに、スケッチしながら カマドや枯れたお花畑の黄色が織り ている。 の足跡と狩の小屋掛けを見たと記し る。ここもその一つで武四郎は雪上 たアイヌは特別な山しか名を付けな いのにはるかな奥山になぜ名前を付 けたか。これも地図で解った。この 付近に低い峠がいくつかある。松浦 武四郎は安政五年三月美瑛川からフ ラノ川へ越え、富良野岳南西の峠か ら原始が原を横断しさらに十勝へ越 えた。冬上川から鹿が越える峠があ だ。僕達は上ポロカメトックと呼ぶ し手作り地図もそうなっている。ま ポロカ・メトック上・の・ポロカの・ になる。アイヌ名は ︽ペナケ・シ・ に、︽メトッ華のtOt奥山︾というの こからザックを担いで登る。初めて 野 田 四 郎 スキーを履く僕はやっとヒュッテま わざわざ歩いたこともあった。 僕はもう昔のような山登りができ ない。しかし望岳台や旧噴火口まで 車で行けるから息子の車で秋を見に 行く。旧境の紅葉はすぼらしい。黒 再訪する。里はもう蕗の墨が出てい るが山はまだ深い雪。だが春のザラ で登ったが、深々と雪に埋まる針葉 樹林は関西育ちの僕には珍しかった。 次の目から上級部員は山へ、僕らは スキー練習。合宿最後の目は冬には 珍しく晴れて穏やかだった。僕達も 振子沢を遡り、N鞍部からアイゼン でやせたOP尾根を通り、上ポロに 登らせてもらった。切り立つ雪の襲、 十勝川上流の大樹海。この冬の十勝 岳連峰が僕を山の虜にした。 さっそく翌五月、先輩のGさんと 8 名 保 の町並みが遠くまで見渡せます。思っ たより作業もはかどって四段目まで 積んだところでこの日の作業は終わ りました。冬の問も登る人の絶えな いこの山には、次々と頂上を目指し てくる人がイグルー作りの作業を興 味深げに見守っていました。続く二 十九日は朝から作業開始です。残り 八段のブロックを手馴れた手つきで 次々と積んでゆきます。前回積んだ リとスコップを使って雪のブロック を切り出してゆきます。接着面に隙 ションは良好です。一目目に数段積 ブロックが程よくしまってコンディ 毎年三角山山頂で初日の出を迎え るのか支部の恒例となっていますが この行事に欠かせないのがイグルー です。年末、山頂でのイグルー作り にはじめて参加しました。十二月二 十六日十一時少し前、山頂に到着す ると既に作業は始まっていました。 既に何度か踏み固めた所からノコギ ロックを円形につないで並、べて行き けるのも最小限で済むのです。北海 道においては昭和十四年にイタリア 人のマライー二が手稲山山頂に作っ たのが最初と言われており以後北大 山岳部では冬山山行の中でイグルー による野営が度々行われてきたとい うことです。軽くて丈夫に改良され たテントや登山用具が簡単に手に入 る現在でもイグルーはテントでは得 られない安心感と暖かさを与えてく れるものとして見逃すことは出来ま せ ん 。 快適で安全なイグルーを手早く作 るにはどの位の大きさのブロックを どのように積んで行けば良いのか、 無駄のない効率的なイグルー作り方 法を新妻支部長の指揮のもとで毎年 なり完成まであと一歩となりました。 きかけた頃最後の一段を残すのみと ドームの天井部分に三角形に切った 最後のブロックをのせて完成です。 夕日を受けて出来上がったばかりの ま す 。 イグルーが美しく輝いていました。 さっそく持参した甘酒で乾杯をして 互いの労をねぎらいました。完成し たイグルーは、内径約二メートルで 中には雪の腰掛けとテーブルもあり 二〇〇五年の元旦は、生憎の雪模 様でしたがイグルーを囲んで頂上を 訪れた仲間達と新年を祝いました。 ︵ 会 友 ︶ 第四回 ﹁山岳図書に親しむ集い﹂ 無事終えました。参加者は総勢二 パの原書翻訳等興味ある講演を今後 十二名でしたが、小森会員のヨーロッ も続けて行きたいと思います。 C・Dカンニンガム著 講演・演題﹁アルプスの開拓者たちL 翻訳 小森 昭 会員 演題﹁羊蹄山の歴史を探る﹂ 高澤 光雄 会員 実行委員長 中村 善吉 会員 特別報告﹁中央分水嶺踏査経過報告し ルーム委員の日曜日当番出勤につ いては、今後も続けて行きたく感謝 しご協力お願い申し上げます。 9 間ができないように台形に切ったブ イグルーの基礎が出来ます。積雪は \∴ 繰り返し作りながら定着させてきま した。午後三時過ぎそろそろ日も傾 ∴:一∴∴調∴ 余り多くはないものの雪は程よくし \− :∴ ̄∴ ‘淑孫_人 i∴ ・’緩 まっているのでブロックの出来具合 はまあまあです。積雪量が多ければ んでおいてから二日目で残りを積ん で完成させるという新妻支部長の方 式は出来上がりから見ても、作業の 能率から見ても非常にいいもので、 二月の三角山三合目でのイグルー作 ロックで作る簡易住居のことをいい ます。極北のツンドラ地帯でアザラ シ等を捕獲しながら移動生活を送る るのです。ドーム型をしたこの住ま いは力学的に見ても非常に安定して おり、表面積を最も小さくする半球 ですが、この日は一段しかとれませ りにも生かされました。 そもそもイグルーとは極北に住む 何段も掘り下げてブロックをとるの んでした。 彼らは冬の問このイグルーで生活す 型なので外の厳しい気候の影響を受 i撥 灘 絨 先住民のイヌイットの人達が雪のブ 新妻支部長を中心に高橋宣也さん、 樋口みな子さん私の四人で作業をし ていたところ、常連さんらしい登山 者の方が2人登ってきました。最初 は見ていたのですが﹁面白そうです てくれました。お天気も良く三一一 ね﹂といいながらブロックの切り出 しから運搬をほとんど最後まで手伝っ メートルの山頂からは藻岩山や札幌 ∴譲∴詰∴∴∴描∴ ∴∴㌻霧∴∴ 完成したイグルーの前で。左から2人目撃者 ネ岳にせまりながら、やはり悪天候 にはばまれ失敗しました。その一ケ 髪尾根を上り、高所露営はCl、C 2共に雪洞にする新機軸で、ルベツ した。翌年昭和十六年三月下旬、朝 比奈英三、橋本誠二先輩が、通称長 失敗。一月十二日、佐瑠太の駅に出 て、初めてペテガリ隊の遭難を知り 一同愕然としたという経緯がありま ジの形成が悪く、予定通り進めず、 ました。沢の結氷状態、スノーブリッ つの厳冬期末登頂のイドンナップ岳 を夏の偵察の後、旦局側から入山し た。私共予科三年生四名は、もう一 ︵一九四〇︶ の同じ形式の試みで、 必ずや成功すると思われる準備、計 画と学部生のみの精鋭のメンバーで したが、誠に悲しい結果に終りまし の後計画のみで中止に終った年を経 て、次が遭難の起った昭和十五年 の猛烈な悪天候に失敗しました。そ 十二年︵一九三七︶部をあげての極 地法による挑戦でしたが、稜線上で みが始まりました。当時の過去十年 の問、初めは少人数、精鋭のメンバー でのいくつかの試みは、少人数では 無理だという結論が出ました。昭和 北大山 会 A 村 白 熱 ペチカリ吾 厳冬期初登頂 遥か 私の満八十七歳の誕生日、孫娘の ︵はじめに︶ 作ってくれたバースディケーキを前 にしている時、原稿依頼の電話をも らいました。第二次大戦中の登山に に知られることはなかったではなか ついて、小泉旧は ﹁そんな時代にも 大学生だけは特別扱いだったようで、 北大の今村昌耕らは一九四三年一月、 旦品山脈のペテガリ岳︵一七三六︶ に登頂している。この山は三年前の 冬に北大のパーティが挑んだが雪崩 で八人が死亡するという事故があり、 北大山岳部にとって因縁の山であっ た﹂。林偽は ﹁冬のペテガリ岳 ︵中 略︶ に登れたことが当時の日本登山 界に何程のプラスするものを残した であろうか、恐らく当時は既に戦況 も悪く、この登山の成功は殆んど世 ろうか﹂。原稿の依頼は初登頂に関 することでした。以上でまず時代認 識をして頂けたと思います。 ︵ペテガリ岳厳冬期登山史︶ 遭難後の私達の初登頂といきなり ではなく、歴史的経過のあらましを 記します。夏山の数々のぺテガリ登 山の記録があり、次に冬を目ざす試 月後の四月末から住宮省三と私は、 前記二先輩と同じルート、方法で入 山し、五月四日に積雪期のペテガリ 岳頂上を踏むことが出来ました。か くして来るべき厳冬期登頂のルート の偵察が出来ました。昭和十七年の 一目しか晴天はなかったことを知り、 登山期はメンバーの編成が出来ず、 沈黙の一冬でした。豊似の原野から 毎日日高山脈を見ておられた坂本直 行先輩の情報では、登山期にたった う○ 入山していても失敗に終ったでしょ 昭和十七年︵一九四二︶十二月三 ︵ 初 登 頂 ︶ 十一日、二個所に分かれていたスキー 合宿を終えたメンバー五名は、上札 内小学校男澤先生宅に集結した。登 頂隊二名、サポート隊三名という編 成で、機動性のあるパーティでした。 天候が許せば、サポート隊も二次の 登頂を目ざす計画でした。明けて昭 和十八年の元旦かち行動を起し、二 日には、前々からの場所に快適なB Cを設営できた。戦時中最後のチャ ンスに登頂を果したい為、食料は二 週間分用意したが、一部は中継基地 に残し、必要に応じBCから補充に 取りに行く計画であった。天候に恵 れ三日には前日の偵察にもと、、つき、 一挙に国境線の稜線に登り、早くも イグルーのClを作ることが出来た。 積雪は良く締まり、薪切り鋸で具合 良くブロックを切り出すことが出来、 五人で一時間半で完成した。積雪状 一因でもあったと思われる。ここで 態等でイグルーを作り得ない場合は 雪洞を考え、C2は初めから雪洞を 考えていた。イグルーを厳冬期稜線 上の高所露営に実用化出来たことは、 恐らく初めてのことで、登頂成功の メンバーを紹介すると、登頂隊は佐 藤弘と私で、当日からイグルーに泊 り、サポート隊は渡辺良一、荘田幹 夫、上杉寿彦で、夕暮時に我々に期 待をこめた言葉を残してBCに下っ て行った。この日は多少の吹雪が日 高側から吹いていた。これまでに無 駄なく、迅速に行動出来て予定を一 日節約できた。︵ここからは登頂隊 の記事で︶一番気がかりの天候はも ンは爪先さで歩ける積雪の好条件に う一両日は続くと考えられ、アイゼ C2までの前進、荷運び、雪洞作り よりは、一挙に頂上往復のアタック 方式が天候を考えると有利で、登頂 の可能性を高めると考えた。根損は、 昭和十六年五月にC2から十二時間 で往復し登頂出来た経験をもとに、 私の頭の中にかねてあったことで、 現場でその考えを持ち出せる状況、 環境があったこともあり二人の考え は一致した。体調は二人共良かった が、今までの疲労回復に四日はヤオ 10 ロマ′ノブまでの偵察に止めた。五日 に二時頃起き、当時の燃料はアルコー ルバーナーで、かなりの水を作り、 餅の雑煮を食べ、二人のテルモスに 紅茶を詰め、身拓を整えてイグルー の外に出た。満天の星がきらめき、 わずか旦昂側から風が吹いていた。 三時二十五分出発。前日の安全な場 所をえろんで歩いたアイゼンの跡を ライトを頼りに国境線を前進。ヤオ ロマップ、四時四十五分。一五九九 までの中間の癌を越してから夜が白 み、一五九九、七時〇〇分。ここで ヤオロマップの頂上から漸次シュビ チャリ山、一八三九とモルゲンロー をし休息した。天候は益々確実な晴 天となり、気温も割に温かかった。 ルベツネ、九時三十分。予定より早 かった。Cカール鞍部からの登りは、 あったが、ペテガリ頂上には二人一 雪がしまっておらずぬかるところも 緒になって登頂。十一時十分。ひと 時の後に帰路につき、Cカール最低 鞍部でほっと一息休息。待望の登頂 を果し得たことを実感し、奇くも三 年前の遭難と同じ五日であったこと を思い出し、思い出を語りあった。 ここで毎回同じ物であるが、カンパ ン、バター、チーズ、熱たかい紅茶 で三回目の食事をした。帰路も幸い 平穏で順調に予定の時間に夫々を通 つけ踏跡を黙々とたどる。さすがコ 過。ヤオロマップを越してライトを イカクの登りは長く感じた。そして ぎ初登頂を果たし得た事を無言の中 に報告した。イグルー、十八時三十 分。今日一日十五時間のアルバイト を無事終り目的を達成出来た満足感 にひたりながら、疲れていた為か四 回目の食事は少量しか取れず、お互 い言葉少なく、安らかな寝についた。 六日、サポート隊は晴天の二日間に 登頂の期待感を持ちながら予定通り 食糧、寝具を持ち国境線に登って来 た。既に相当下からヤッホーを交し 登頂を知らせた。渡辺の手配による と登る我々の感激も一入であったが、 上から知らす彼等の声も喜びに溢れ ていたとある。荘田は三日BCに下 る途中に暑いので一時スキー帽をぬ いだ為に両耳の凍傷を起し、翌朝鶏 卵大の水泡となったので一時手当の 後、単独で帰札させていた。昨日を 頂点として天候が崩れ出しており、 二次の登頂をあきらめ、この日にヤ オロマップ、七日は一八二三に登頂 し、夕方BCに下りて来て合流し、 ら、早稲田大学山岳部の十五名のパー 一ケ月にわたり苦闘の後ペテガリ岳 ティが、ヒマラヤ遠征の準備訓練と してペテガリ岳束尾根を前山のブッ シュ漕ぎの段階から、極地法により あったかもしれないと思うことがあ 第二登を果たしている。遭難後の或 る時期︵多分十七年︶ に、早稲田大 学山岳部より、北大山岳部にペテガ リ岳登山に関し、其の後の部の意向 の打診の照会があり、北大山岳部と して意志表示の返事をし、先方も心 良く了解したという経緯があった。 もし我々が戦中最後のチャンスを失 敗していれば、早稲田隊の初登頂が る。当時を思うと責任の重かったこ とと、大きなものに、又多くのもの に守られて幸運にも成功したと思い、 あったと思っている。戦後の登山の それは先人達から受継がれて来た山 登の精神と、技術的伝承のおかげで 復興は目ざましく、世の中は登山ブー たなあと旧世代の私は考えています。 中にクリアー出来ていたことはよかっ 帰る準備をし、八目に里に出て、男 澤先生御一家に喜んで頂き歓待を受 け、今回の山旅を無事終えることが 出来た。 ︵あとがき︶ 戦中、戦後の暫らくは当然の事な がら登山の空白時代であったようだ。 戦後登山界の復興の草分けのように、 ムと言われいる今日です。私の属し た北大山岳部も、時期的に早稲田の 出足には遅れたようですが、道内の みならず海外遠征に、よりむずかし く困難な登山を発展的に展開してい る後輩達に讃美を送りたいと思いま す。その前に、部として十年の経過 のあるペテガリ岳厳冬期登頂を戦時 昭和二十二年︵一九四七︶ の暮れか 11 トに染まる雄大な景観をあかず眺め た。ここから先の登りは岳樺の木登 りを例のように強いられる部分があ り、これを越した癌で二回目の食事 人の冥福に捧 げ、志を引継 ンリードを故 うカメラーデ びにつけ、歌 しみにつけ喜 遺族の方も加 わって大勢で 建設したケル ンに到達。悲 先輩を隊長に、 月、中野長髪 遭難の年の八 国境稜線のケルン AACHの旗がたなびく ︵ 最 後 に ︶ ペテガリ岳を目ざして遭難に合わ れた諸先輩、御遺族の方達、又関係 者の多くの物故者、及び私達のメン バーの中でも既に四人が故人という 現状で、夫々の方達に時代がかった 言葉ですが、この小文を奉げたいと 思います。且つ追憶を廻らせて下さ る機会を提供して下さった方々に感 謝致します。尚追加として、節目毎 に追悼会があり、二〇〇〇年には六 十周年の会が札幌と十勝サホロリゾー トで催されたことも報告致しておき ま す 。 ㈲佐瑠太騎 旧国鉄時代の昭和19 年迄。その後は現在の富川輝に 改 名 。 引用文献 ㈲ 小泉武栄登山の誕生中央新書 ㈲ 林 和夫北大山岳部五十周年 記念誌− 北大山の会 参考文献 1 北大山岳部々報 八号 2 山岳 第四十四年第二号 日本 山岳会 ペテガリ岳冬期登警吏− 北大山岳部 3 あの頃の山登り北海道の山と人 からウベベサンケまでを縦走し、丸 山が活火山であることに驚愕したこ とが想い出される。丸山が活火山で あったことの話題は、今かまびすし さて深田久弥氏の件である。 ヽ1 0 この件は平野さんと図った。この 前年﹁日本百名山﹂が世に出、その いに憤慨した二人は、ならば当然登っ 中にニペソツの名前がないのに、大 てもらわねばならないということに なって行く。若気の至りというべき ﹁行かざるぺけんや目上との一つ返 か。しかし深田さんもさすがである。 事であった。 かくしてその年の八月、久弥は帯 広の地へ舞い降りた。僕等は、まだ 豊似在住であった坂本直行さんを交 えて、久弥来道を歓迎した。 ニペソツ登山の他に、講演会や地 元岳人との語らいの場などがセット されたのは当然のことである。写真 はその地元岳人との会合の風景であ る。旦品が地元有識者?の問で北海 アルプスと改称される話が流布され たことがあり、その事が話題になっ た時、もしその様なことがあるので あれば、諸君等は松明行進をしてで も反対ののろしをあげなくてはいけ ない、と声を大にしておられた。勿 論私も参加はするがねと付け加える ことも忘れてはいなかったが。懐か 滋 「 ∴ ぺ∴: ∴ ∴ 綴慾’i ノ/ ・“一誌 ∴ 四十年前の瞑 滝本 幸夫 北海道支部が設立されて四十年に なるという。引き続いた四十年では ない異質の年数ではあるが、その経 緯を知ればむ、べなるかなとも思う。 四十周年の記念号なのだから、何 か少しでも四十年に関連した記事を 書かせてもらおうと考えてみたが、 仲々思いつかない。されば支部が設 立された四十年前の僕は何をしてい たか。思えば何やら関連深い出来事 が浮かび上がってきた。 四十前というと昭和四十年。何と て登ってもらった年である。深田久 深田久弥さんをニペソツへお呼びし 弥さんと支部設立の因果関係は深い。 その頃の僕は帯広で山の会を結成 して、仲間達と細やかに山歩きを楽 しんでいた。平野明さんや長谷川雄 助さん、また鈴木貞信・和夫ご兄弟 などが一緒であった。平野さんは支 部結成初期からの幹部で、長い間事 務局長も務め、今日の支部の育ての 主でもあり、また長谷川さんや鈴木 君は、今、支部の屋台骨となって活 動の中心になっているお歴々である。 橋本誠二 4 イグルー①北大山岳部々報 二二号 米山 悟 5 ②山岳文化二〇〇四第二号 長谷川さんとは前年に、ニペソツ きらめくメンバーではないか。 日本山岳文化学会 高澤光雄 ∴∴∴ しいエピソードである。 ニペソツ登山を契機に久弥はどん どん北の山へと入った。石狩岳や音 更山、南暑寒岳、暑寒別岳、更に富 良野岳、芦別岳、六千軒岳、駒ヶ岳 と続く。その間、帰路は必ず札幌へ 出て有志と懇談。支部担当理事の肩 書きを背に支部の設立を説得された。 氏の情熱に動かされるように支部設 立の機運は足早にやってくるのであ 。 る こう考えてみると昭和四十年の久 弥来道が、支部再設立の強い引き金 になったものと、四十年前の出来ご とを振り返ってみて思うのである。 この年、僕も日本山岳会へ入会させ て頂いた。 ー12− 一一一一一一諜 ∴∴∴ 藤一 ∵. /〕 鰯 一∴ 「∴ ’類;・ 翳 ∴∴ ∴点上!∴「 ∴∴ 、:・ ̄: ∴∵ 鷲態:・ ∴∴ 籍 :高.「. ∴∵ ◆ 「.∴ ‘灘繕撥 \∴ 辛. 考ノー“ ∴∴∴∴:∴∴: ′i: 誓∴! 「∴ ∴:子∴∴.∴ 欝 ◆− ∴∴子 言.∴: ∴∴ 遜 騒 課 ∴∴ ∴ 漆 与∵∴ 慾罵綴 享∴饗 ∴ ∴ ∴∴ ∴ 亨 ※総 ∴∴ 綴懸懸 ∴ ∴ ∴∴ 窮絡終盤..\ 深田久弥・坂本直行氏を囲んで(昭和40年8月) ﹁おはようございます﹂ ﹁みんな 元気?﹂猛暑続きの札幌から逃れる ように訪れた八月七日朝の新冠町若 園の自然児学校会場では、五歳の坊 やから中学二年の男女生徒らまで二 十人が笑顔で鶴岡節子、漆崎隆、漆 崎裕子、浅利欣喜のスタッフ四人を 迎えた。 今年︵平成十六年︶ で五回目のキャ ンプは前年未曾有の台風十号水害と 打って変わり、八月五日開校以来晴 天続きで熱中症対策など心配された ほど。しかしサポートする向井成司 実行委員長、新妻徹学校長、松本健 チーフリーダーら二十七人全員が元 気で、旦晶の自然に伸び伸びと溶け 込んでいた。 日程の三日目﹁しおり﹂を見て驚 いた。わが家の校区・山の手小学校 の児童が五人も参加しており、〝長 老〟 こと堀圭大君や森拓真・恭平君 兄弟とは一町ほどの近所。新妻校長 の話では、札幌・西区の三角山登山 の交流が縁で参加しているとのこと。 私は三十数年前、幼稚園児の娘・真 ルで即席ラーメンをつくり、前後し 理を連れて夏の三角山に登り、ツヘ て登頂した男児たちにもふるまった ことを思い出した。永い年月を超え 日程表は盛りだくさんで、まず携 て 〝長老〟 たちに親しみを感じた。 帯トイレの使用を説明、ウエストロー プの結び方、地下足袋とわらじの着 装、新冠川支流でのザイル操作によ る徒歩訓練など、大人の指導員講習 も顔負けの指導が続き、初めは緊張 と戸惑い気味だった子供たちが、旺 盛な集中力で技術を体得し、意気揚々 に、キャンプにかけるひたむきな熱 と引き揚げた。炎天下、子供たちの 目線で語りかける松本先生らの姿勢 意を感じた。 五十人近い大所帯の食料担当は畠 山通子、古城より子、大畑博子のお 母さん三人。前年の水害で水浸しに なった松本さんの小屋を長谷川雄助 さんらが修理したあと、給食づくり に励んだ。車で買い出しから調理、 あと片付けまで四日間、ゆっくり休 む暇もなく、熱気のこもる室内での おいしい料理を次々と提供し、裏方 の大役を果たして皆から感謝された。 地元農家などからの差し入れも有 難かった。大量の牛乳、卵やトマト、 ピーマンなどに加え、三日日夜のバー ベキューには飲み物も届けられ、キャ ンプファイヤーも盛り上がった。 日程の四日目は、子供たちが楽し みのパン作り。松本さんのお宅の村 に向かい、水害で保水力を失った跡 地で植林の大切さを実感した。昼食、 閉校式のあとレコードの湯で入浴、 解散した。後半二日間のみの参加だっ たが、張り切る高齢者スタッフに比 べて、若手の協力の少なさが気になっ された。うれしいことに、この間に た。社会で現役世代に四日参加の日 程は無理か。 七月のIAC東北・北海道集会で、 平山善吉会長は、新妻道支部長の五 年間にわたる自然児学校の活動報告 に対し﹁継続は力なり﹂との評価を 〝小さな三角点〟となり、人脈のネッ 指導を受けた子供たちに、自主研修 の動きがみられるとのこと、三角山 などを原点に育った子供たちが、 トワークを張りめぐらし、活動の輪 を広げてはしい。そして何年かあと lACスタッフ、サポーターとして、 に、大きく育った 〝三角点〟 たちが、 植樹や登山道整備にも活躍してくれ ることを期待したい。 牽叢書 “ ̄ t 13 綴 脚お園蟻.辱 認諾二諾続 祥出巌叢まで㍗ ∴ゴ∴ル:o∴ ーコール軍部0 株式奮 葦漸漸酪謝罪酪‘ ̄ ̄誓 謹選胸囲 l 減 纏鰯 _l .+ 離職麟g i、窪で ′Pヽ) 画∴∴. 姿 ≒ 東: 誘総 人消 ′ 涼; 、● ■、 ,・− ○‘1’ ̄謹..’撥潔. 繍 く .−;, 泌態繍麟総撥 、二品一一謙一沸教高 一一 誌漆黒言一一十二一品一二諒一読や告動燃慈i間1−ざ 綴蜜 せしまLklI 雪誓 ̄iとお得た ▲ Sm  ̄ ̄敦葵細腰  ̄− ′ 8m 名誉会員 フオスコ・ マライーこ氏を悼む 高澤 光雄 れ、捜索に駆けつける途中でマライー ニ氏と遭遇、一緒に現場まで同行。 マライー二氏は下山して遭難現場の 模様をいち早く伝えた。 厳冬期ペテガリ岳にイグルーを作っ て初登頂に成功したのは昭和十八年 一月五日、北大山岳部の今村昌耕、 佐藤弘の両氏であった。爾来、イグ ルーは北大山岳部の冬山登山で実用 化されていった。 マライーニ氏はイタリアの山岳雑 ルーで過ごした記事や器用な人なら 誌で、モンブラン頂上で一週間イグ そして、三月十五日にマライーニ このパーティーにマライーニ氏は 社員寮に宿泊されて居られ、何回か そこにアイヌ関係の本をお届けした ことがあった。その時に﹃山岳﹄第 の抜刷りを頂戴した。 七十六年掲載﹁イタリアの山の本﹂ また、丸善画廊で世界各国の新聞 を航空便で取り寄せオリンピック記 事を展示。マライーニ氏は英文﹃J APAN﹄を出版されたので、その サイン会を二月九、十日に催し、多 彩な来場者で賑わった。その折り、 著書﹃ガッシャブルムカラコルムの 峻峰登頂記録﹄ に署名してくださっ スコ・マライーニ写真展−東洋への 昭和五十七年十二月四日、ホテル ニューオータニで日本山岳会晩餐会 が催され、マライーニ氏が出席され ていて驚き、久しぶりの邁進を喜び あった。同六十三年十一月に日本山 岳会名誉会員に推挙された。 平成十四年四月二十九日から六月 一日まで、北海道立文学館で﹁フォ 。 た るオリンピックのガイドブック作成 隊長を務め初登頂に導いた。 昭和二十九年に日本山岳会入会。 私が坂本直行氏の紹介でマライーニ 氏と初めて会ったのは昭和四十二年 三月、用件は五年後に札幌で開かれ ズクーシュのサラダラール峰の遠征 で資料を探していたが市販本が少な く、何とか探して欲しいとの事だっ た。その時は私の所持本二十冊ばか り役立てていただいた。 昭和四十七年のオリンピック開催 時に、真駒内の選手村に訪れたり、 植田木材工業㈱の植田英次社長とは 学生時代から嘱懇の仲だったので、 現在のりんゆう観光㈱社屋ビル隣の るものがあった。 涯を閉じられた。北海道の冬山登山 にイグルーをもたらした功績は大な フィレンツェの病院で九十一歳の生 平成十六年六月八日、イタリア・ 援することになった。 道−﹂が開催され、弟子屈の山岳写 真家・水越武会員の取りなしで、こ の催しを日本山岳会北海道支部で後 ︵ひげべら︶﹂を発表している。 昭和十六年三月、京都大学イタリ ア語科の講師となり、戦時中は名古 屋郊外で軟禁、終戦とともにイタリ アに帰国。昭和三十三年にガッシャ ブルム峰遠征隊に参加。翌年、ヒン リアから論文﹁アイヌのイクパスィ 留学中に白老、二風谷、美幌など を訪れ、アイヌの踊りなど貴重な風 俗写真を撮影し、昭和十七年にイタ イグルーを一時間以内に作れるのを 思い出し、札幌の自宅の庭で北大生 の宮沢弘幸氏と実験を重ね、昭和十 五年一月二十七日に手稲山、二月十 六日に芦別岳、三月十日に十勝岳で 実際にイグルーを作って報道陣に公 開した。 当時の北海タイムスは ﹁ペテガリ ぬものがあった。若しエスキモー式 遭難は雪崩であったが、テントを運 び上げた登山家の苦労は筆舌に尽さ 雪小屋が利用されていたならば、従 来の犠牲者たちは幾多救われていた したが、一月五日、コイカクシュ札 と思う﹂と報じている。 内沢第五ノ滝付近で雪願に遭遇、八 氏はアルプスでの登山経験を生かし、 冬の記録のなかった十勝岳から大雪 山への縦走を企て、美瑛の沢でイグ ルーを作って一泊。翌十六日は暴風 雪を突いて十勝岳に達したが、この 日は青函連絡船が欠航するほどの嵐 で、止むなく断念して白銀荘に下っ 人が埋没死するという痛ましい惨事 を惹き起こした。 コイカクシュサツナイ岳への登りは 参加する予定であったが、生まれた ばかりの娘が発熱し二日遅れて出発。 た。挫折したとは一手え、同行した宮 沢氏はイグルーで安眠できた体験記を 新聞に連載しその意義は大きかった。 月を北大医学部解剖学講座児玉作左 衛門教授のもとで留学生として過ご し、アイヌ民族の研究のかたわら登 山に没頭した。 昭和十四年暮れから北大山岳部員 十人が冬季未踏のペテガリ岳を目指 氏は、昭和十三年暮れから三年四カ イタリアのフォスコ・マライーニ 「フォスコ・マライ一二写真展」 ポスター・チラシに掲載した写真 提供=北海道立文学館 無理だと判断して引き返えした。 広尾村で農業を営んでいた坂本直 行氏が、ウナ電でこの惨事を知らさ 14 <写真説明> 北海道支部三十周年の晩餐会で雪山 賛歌のかえ唄として ﹁四十周年めざ クに入れて愛用して欲しいと 海道支部の小さな﹁歌のしお ン・ビューピル︶ のスローガンを英 語印刷で表紙にした。第二号の一貫 は山の四季︵北大山岳部︶とし、大 尉の遺言、チロルの射手、郵便馬車 の扱者、山の友、新人哀歌、ぼくら の故郷の七曲に楽譜も縮小印刷した。 象としたアルプス一万尺、一日の終 二〇〇三年の第三号は小中学生を対 り﹂をポケットやハンドバッ して楽しく登ろう!﹂と表紙に印刷 り、スインク・グローバリィ、アク 思っています。 ト・ローカリイと我等みな山の民 した。二〇〇二年は国際山岳年であ しいと思いながら一つの区切 歴史のある歌、想い出の唄、 そして替歌など、いろいろな 唄を思いつくままに二〇〇一 年から編集してきたが、第五 号となり今後も誰か続けて欲 ︵ウィー・アー・オール・マウンテ みどりの山を楽しく登ろう﹂を何回 わり、静かな湖畔など自然児学校で 使用しやすい内容とし、雪山賛歌の かえ詞で ﹁日本山岳会自然児学校、 も合唱した。 図書ル8ム筒距㈲現況剛 重複図書を各ブロックに配置 平成十二年一月、秀岳荘金井哲夫社長の ご好意により白石店に支部ルームを開設。 ところです。 本部から二百二十五冊の寄託図書、その 後、多数の会員からの寄贈もあり、現在で は二千三百冊︵雑誌除く︶ に達し、春から 秋にかけて毎週日曜午後にオープンして、 一般来店客の便宜を図っています。 ルーム委員も、これだけ貴重な山岳図書 を集め専門的知識を身につけながら、整理 と来客の対応に当たっています。破損図書 の修理、雑誌の製本等が課題です。又重複 本については、昨年を第一回目として、道 東ブロックへ雑誌類を含めて、一六〇冊を 配置した。今年は道北ブロック ︵美幌町︶ へ、六十冊搬入しました。更に道南へと拡 大して行きたく、図書の寄託をお願いする 尚、ルーム基金とし平成十一年十二月発 足以来十六年十二月末現在八十二名︵重複 者あり︶ で金額二六万七千円に達しており ます。今後共図書の寄託と同様特段のご協 力お願いします。 ルーム基金募金者︵敬称略前掲識者除く︶、 井後幸太郎、向井成司、吉野勝夫、沼崎勝 洋、浅利欣喜、宮崎初恵、吉野勝夫︵三回 目︶、滝本幸夫、澤田良子、山本治美、高 橋宣也、高橋桓志、鴫原義昭、八木沼陽子。 ︵ルーム委員長 高橋桓志︶ 15 りとして振り返ってみた。 きた。しかし、一年に一冊と 第一号を二〇〇一年の発行 とし、二〇〇五年で第五号と なる訳だが内容は北海道に限 定していない。編集といって もA三版を八分の一に折り表 紙と裏表紙を除くと六曲しか 収容できない。発行は夏季交 流会か晩餐会のタイミングに あわせてきたが、一年間で都 合の良い時に発行できれば良 いと思って気楽に取り組んで のは難しいもので、自分が知っ 思っていても六∼七曲を選ぶ ンルは幅広く、奥が深い3焚き火を 囲んで合唱する機会、山小屋で唄う 機会が少なくなってきたからこそ北 日本民謡を中心にしてみたが歌のジャ ﹁山鳥の唄﹂ とし、そうらん節など 今年の第五号は酉年なので表紙を いている。 宗谷岬、森の小人、一人の山男と続 た﹂を一∼二頁とし、くじら祭り、 昨年の第四号は日本山岳会百周年 記念﹁中央分水嶺踏査﹂ にふさわし い歌として高村光太郎作詞﹁歩くう ている唄、自分の想い出だけ の唄では意味がないし当然の ことながら独断は避けたい。 宴会や二次会などで希望は出 るが、原曲が不明であったり、 歌詞が一番しかわからなかっ たりで、多くの苦労もある。 第一号は、山への祈り、山賊 の歌、山 ︵北島三郎︶、山の 子の歌、山男の歌、岳人の歌、 オホーツクの舟歌の七曲とし、 ●鱗「.:畿「●子 新刊書紹介 素晴らしさ幸運な登攣 京極紘一著 す。冬になればそれらは氷雪と雪崩 に守られて一層困難さを増します。 また、多くの岩場は脆い岩・革付・ 潅木の混合で、アルプスの岩壁のよ うなすっきりした登馨とはまた別種 の困難性に満ちているのが常です。 そんな岩壁の代表格、芦別岳の巨 大な ﹁1︵ガンマー︶ ルンゼ左腹奥 てトレースされたのは一九六七年 壁﹂が、著者京極民らによって初め の記録は貴重です。特にウシュバ下 山の折、負傷者と共に四夜もの岩壁 ビバークをするあたりは、当人の筆 五十座の記録などもまとめたいと ﹁あとがき﹂ にあり、期待しており で明らかにされたのは初めてで、読 む方もつい力が入りました。 万年青年の著者も今年定年退職の 年齢に達しました。﹁わが足跡を息 子に伝えたい﹂というのか本書出版 の動機だそうです。今後も、ヒマラ ヤ・アラスカ・中国など海外登山の ことや、道内千五百メートル以上百 ︵昭和四十二年︶でした。この前後十 年⋮⋮昭和三十年台半ばから四十年 台半ばまで⋮⋮は、北海道登山史の 中でも﹁登撃の時代﹂といえるほど多 本書に出てくる道内の岩壁を目指 す人は、今では決して多くありませ ん。登山が若者から中高年世代の手 に移り、﹁百名山﹂など有名峰ハント を志す人が大半になったからです。 そんな人たちには本書の内容は無縁 リークライマーたちは当時とは別種 の登撃を目指しているようです。そ 存在すると思っています。しかし ﹁登撃の時代﹂の熱気は去り、若いフ はそう悲観的ではなく、新しい目と 心で見ればまだまだ新鮮なルートは う種切れになったのでしょうか。私 かもしれません。でも、これらのルー ま す 。 くのルートが登られた時期で、京極 氏はその中でも多くの場面で主役を つとめたのです。1奥壁以外、同じ 芦別岳の夫婦岩南峰リッジ積雪期、 利尻山西壁Aフェース、嵯︵きりぎ し︶山嵯大壁、層雲峡や大雪山の氷・ トを登った記録は少ないけれど最近 も残されており、それらのことも本 書中に幾つか紹介されています。 北海道の山での新たなルートはも 北海道の山を主な舞台とした新し い本をご紹介します。著者の京極紘 一氏は﹁北海岳友会﹂の主軸メンバー として永く活躍され、わがJACの 会員でもあります。この本は、京極 岩壁など、同じ頃の初登攣記録が本 書に収録され、いずれも飾らない率 直な筆致で、思わず引き込まれる部 分も随所にあります。 巻末のカフカズでは、一九六八年 氏の登山日誌の中から、岩と氷のルー トの登攣ばかりをピックアップして カフカズ山脈はグルジア共和国にあ り、著者たちが訪れた当時はソヴィ エト連邦に含まれておりました。最 近は海外登山の対象としてはやや縁 遠くなっている地域ですから、本書 ウシュバ南峰西壁、一九七四年シヘ リダ北壁の二登馨が語られています。 編まれたもので、ほとんどが道内で の初登撃の記録。それにカフカズで の二つの登撃を加えてまとめられて います。これまで、北海道では岩場 の個人的な登馨記録だけで構成され た本はなかったと思いますし、内容 の大半は本書のために初めて書きお ろされたもので、登山史から見ても 大変に貴重な一冊となりました。 高度が低く、概してなだらかな北 海道の山にも、岩の山、大きな岩壁、 鋭い岩稜などが各地に存在していま れはそれでいいでしょう。だが、み んなが熱い心で山に向かっていたあ の頃⋮⋮マイカーもなく夜行列車で 出かけた時代、ゴアテックスの雨具 ルの登馨靴もエイト環もフレンズも も、軽量のガスコンロも、ラバーソー ナッツもなかったあの時代。だがそ ﹁素晴らしく幸運な時代﹂であった⋮︰ れは登るべき未踏ルートに事欠かぬ と、本書読了後、郷愁めいた感慨を 覚えたものでした。︵安田 成男︶ 記 支部長から﹁来年は四十周年を控 えているから記念号を﹂とヌプリの 編集をおおせつかった。大々的なこ メインの原稿を何にするかの一点 ともない普段通りのヌプリである。 につきる。頭を捻って辿りついたの か今村昌耕さんのペテガリ初登の記 んも賛成してくれた。今村先生とお 録である。委員の竹内さんも樋口さ 知り合いであったことも幸いした。 六十年前のインシデントが、実に 瑞々しく活字に踊っていた。その他 るレポートも貴重な提言であり記念 樋口さんや川口君の環境問題に関す 号に重みを増した。今、支部は中央 このヌプリでちょっと一息を〓︰︵T︶ 分水嶺の踏査に全力を上げている。 16
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