4 始めに 年(大正2 大正2年)4月の終わり、 わり、日米新聞の 日米新聞の記者鷺谷精一はテキサス 記者鷺谷精一はテキサス州 はテキサス州サンアントニオ から国境 から国境の 国境の町イーグルパス行 イーグルパス行きの列車 きの列車に 列車に乗った。 った。目的地はリオグランデ 目的地はリオグランデ対岸 はリオグランデ対岸の 対岸の町、コアウ イラ州 イラ州ピエドラス・ネグラスで、 ピエドラス・ネグラスで、彼には二人 には二人の 二人の同伴者がいた 同伴者がいた。 がいた。一人はコアウイラ 一人はコアウイラ州知事 はコアウイラ州知事で 州知事で 四年後、 四年後、革命の 革命の動乱を 動乱を制して大統領 して大統領に 大統領に就任するベヌスティアノ・カランサの 就任するベヌスティアノ・カランサの参謀 するベヌスティアノ・カランサの参謀バルデス 参謀バルデス、 バルデス、 もう一人 もう一人はベヌスティアノの 一人はベヌスティアノの甥 はベヌスティアノの甥サリナス・カランサであった。 サリナス・カランサであった。車中ヴァルデスから 車中ヴァルデスから突然 ヴァルデスから突然「 突然「君 は銃器など 銃器など持 など持っていないだろうね」 っていないだろうね」と問われた鷺谷 われた鷺谷は 鷺谷は持っていると答 っていると答えた。 えた。サンアントニ オの友人 オの友人が 友人が護身用にくれた 身用にくれた短銃 にくれた短銃が 短銃が荷物の 荷物の中に入っていた。 っていた。「国境ではアメリカ 国境ではアメリカ軍 ではアメリカ軍の兵士が 兵士が厳 重な検査を 検査を行い、銃器が 銃器が見つかると厄介 つかると厄介な 厄介な問題になる 問題になる」 になる」とバルデスの警告 とバルデスの警告を 警告を聞いてから鷺 いてから鷺 谷の頭の中はそのことで一杯 はそのことで一杯であった 一杯であった。 であった。 列車はメスキートや 列車はメスキートや樫 はメスキートや樫の低木がまばらに 低木がまばらに生 がまばらに生えた荒野 えた荒野を 荒野を南に向かっていた。 かっていた。春先に 春先に咲く色 とりどりの野花 とりどりの野花の 野花の季節は 季節は終わり、 わり、すでに夏 すでに夏の気配すら 気配すら感 すら感じられた。 じられた。列車は 列車は意外に 意外に早くイー グルパスに到着 グルパスに到着した 到着した。 した。大きな荷物 きな荷物を 荷物を担いだ二人 いだ二人の 二人の同伴者の 同伴者の後に続いて橋 いて橋の袂まで来 まで来て、検 問所は 問所は無いのかと思 いのかと思ったが、 ったが、検査官は 検査官は橋の中央に 中央に居た。心配していた 心配していた検査 していた検査は 検査は簡単に 簡単に終わり、 わり、 幸い何事もなくメキシコに 何事もなくメキシコに入国 もなくメキシコに入国した 入国した鷺谷 した鷺谷はほっと 鷺谷はほっと胸 はほっと胸をなでおろしたが、 をなでおろしたが、インターナショナ ル・ブリッジを渡 ル・ブリッジを渡ったその瞬間 ったその瞬間から 瞬間から、 から、自分の 自分の行動が 行動が一部始終アメリカの 一部始終アメリカの諜報機関 アメリカの諜報機関により 諜報機関により監 により監 視されていたことには気付 されていたことには気付かなかった 気付かなかった。 かなかった。 1913 二月ほど 二月ほど前 ほど前、革命政府大統領フランシスコ・マデロと 革命政府大統領フランシスコ・マデロと副大統領 フランシスコ・マデロと副大統領ピノ・スアレスがジェネ 副大統領ピノ・スアレスがジェネ ラル・ビクトリアノ・ウエルタによって暗殺 ラル・ビクトリアノ・ウエルタによって暗殺され 暗殺され、 され、メキシコの政情 メキシコの政情は 政情は混迷を 混迷を極めていた。 めていた。 加州では 加州では排日土地法 では排日土地法、 排日土地法、1913 The California Alien Land Law が制定され 制定され、 され、カリフォルニア 日系人はもとより 日系人はもとより、 はもとより、日米関係の 日米関係の前途に 前途に暗い影を落としていた。 としていた。こうした中 こうした中、在留日本人の 間でメキシコへ でメキシコへの関心が 関心が一挙に高まり、 まり、日米新聞は 日米新聞は連日メキシコ関 メキシコ関連記事をトッ 記事をトップ をトップで報じ ていた。 ていた。メキシコ人 メキシコ人が反米であり、 であり、親日であることを強調 であることを強調し 強調し、さらにこれを利 さらにこれを利用してアメ リカに対 リカに対して一 して一矢報いんとする論調 とする論調が 論調が盛んであった。 であった。更に、メキシコ人 メキシコ人が日本人に対して 好感情を 感情を持っているのは単 っているのは単に米国に 米国に対する面当 する面当てではなく 面当てではなく、 てではなく、メキシコ人 メキシコ人は日本人を同一種 同一種 族と考えていること、 えていること、それに日 それに日露戦争で 露戦争で小国日本 国日本が大国ロシアに 大国ロシアに打 ロシアに打ち勝ったことで益 ったことで益々彼 らは日 らは日本を称え慕っているのである、 っているのである、と当時の 当時の加州在住邦 加州在住邦人 住邦人は考えていた。 えていた。 メキシコ移民 メキシコ移民を 移民を最初に 最初に提唱したのは 提唱したのは 1891 年 5 月、外務大臣に就任した 就任した榎本武揚 した榎本武揚であっ 榎本武揚であっ た。彼はヨーロッパへ ーロッパへ留学したときの 留学したときの経験 したときの経験から 経験から、 から、領土の 領土の狭い日本が人口問題を 問題を解決するに 解決するに は移民しかないと 移民しかないと考 しかないと考え、就任後間もなく 就任後間もなく移民課 もなく移民課を 移民課を設立した 設立した。 した。その頃 その頃サンフランシスコ領事 サンフランシスコ領事 から、 から、メキシコ政府 メキシコ政府が 政府が国内の開発手段として 開発手段として外国人 として外国人移民 外国人移民を 移民を積極的に 極的に受け入れているという 話があり、 があり、調査団が派遣された 派遣された。 された。その報告 その報告をもとに 報告をもとに、 をもとに、横浜のメキシコ 横浜のメキシコ領事 のメキシコ領事に 領事に斡旋を 斡旋を依頼す 依頼す ると共 ると共に、在メキシコ藤田 メキシコ藤田領事 藤田領事代理 領事代理を 代理を通じてメキシコ政府 じてメキシコ政府農商務殖民 政府農商務殖民大 農商務殖民大臣マヌエル・フェ 5 ルナンデスにも申 ルナンデスにも申し入れた。 れた。 メキシコ政府 メキシコ政府は 政府はゲレロ州二 レロ州二箇 州二箇所、チャパス チャパス州 パス州八箇所 八箇所の官有地を払い下げると回 ると回答した。 した。 中でもチャ でもチャパス チャパス州 パス州はコーヒ はコーヒー栽培に 栽培に適した好条件 した好条件の 好条件の地であると推薦 であると推薦してきた 推薦してきた。 してきた。榎本は 榎本は慎重 を期し、殖民協会から 殖民協会から二人 から二人を 二人を現地調査に派遣した 派遣した。 した。派遣された 派遣された一人 された一人、 一人、根本正 根本正はチャパス チャパス各 パス各 地を調査して、 して、ソコヌスコはこの上 コヌスコはこの上なく地 なく地味豊かで 味豊かで、 かで、コーヒ コーヒー栽培で 栽培で巨額の 巨額の利益が 利益が得られ るだろうと報告 るだろうと報告した 報告した。 した。榎本は 榎本は二人目、 二人目、橋本文蔵農学士 本文蔵農学士を今度は 今度は農学的見地 農学的見地から 的見地から調 から調査するた め派遣した 派遣した。 した。彼は報告書 報告書の中で、ソコヌスコ郡 コヌスコ郡エスクィントラ付 エスクィントラ付近はコーヒ はコーヒー栽培と 栽培と牧畜、 牧畜、 蔬菜づ 蔬菜づくりに好条件 くりに好条件の 好条件の環境にあり、 にあり、殖民には 殖民には最適 には最適の 最適の地であると結論 であると結論付 結論付けた。その結果 その結果、 結果、愛 知県と兵庫県からの 庫県からの契約移民 からの契約移民 29 名及び 名及び岩手県と 岩手県と愛知県からの自 からの自由移民 6 名が 1897 年(明 治 30 年)3 月 24 日、横浜からアメリカ 横浜からアメリカ船 からアメリカ船ゲ-リック号 リック号で出発し 出発しチャパス チャパス州 パス州ソコヌスコを目 コヌスコを目 指した。 した。このメキシコ最初 このメキシコ最初の 最初の移民団を 移民団を「榎本移民」 榎本移民」と呼ぶ。途中船 途中船を乗り換えたアカプ えたアカプル コで一人 コで一人が 一人が死亡、 死亡、プエルト・マデロで上陸 エルト・マデロで上陸し 上陸し、熱暑の 熱暑の中を二週間あまり、 あまり、重い荷を担いで 歩き、やっと目的地 やっと目的地にたどり 目的地にたどり着 にたどり着いたのは 5 月 19 日であった。 であった。 一行が 一行が驚いたのは、 いたのは、開墾地 開墾地は岩だらけ だらけの斜面で 斜面で、既にコーヒ にコーヒーを植 ーを植える時期 える時期は 時期は過ぎてい た。何よりも致 よりも致命的であったのは 命的であったのは、 であったのは、送られてくるはず られてくるはずの資金が 資金が届かず、同行した 同行した団長格 した団長格の 団長格の 技師は 技師は資金を 資金を求めて日 めて日本へ帰ってしまった。 ってしまった。この榎本植民 この榎本植民地 榎本植民地は事実上、 実上、わずか三ヶ月で崩 壊した。 した。しかし、 しかし、艱難辛苦を 艱難辛苦を乗り越えて残 えて残った愛 った愛知県出身 県出身有馬六太郎、 有馬六太郎、山本浅次郎、 山本浅次郎、鈴木 若、岩手県出身 岩手県出身照井亮次郎、 照井亮次郎、宮城県出身 宮城県出身高橋熊太郎、 熊太郎、清野三郎の 三郎の六人は共同で事業を興し、 出身地の 身地の三河と 三河と奥州の名前を取って「 って「三奥組合」 三奥組合」と呼び、メキシコにおけ メキシコにおける日本人移民の 移民の 基礎を 基礎を築いたのである。 いたのである。 1 2 3 年と 1900 年に行われたメキシコ国 われたメキシコ国勢調査 勢調査によると、 によると、メキシコに住 メキシコに住んでいた日 いた日本人 はそれぞ はそれぞれ 22 人、41 人であった。 であった。 世紀が 世紀が変わると、 わると、いわゆ いわゆる出稼ぎ 出稼ぎ移民が 移民が移民会社 によって大 によって大量に送られるようになった。 られるようになった。これは悪化 これは悪化する 悪化する日米関係 する日米関係と 日米関係と深いかかわりがある。 いかかわりがある。 米国西海 米国西海岸 西海岸で日本人労働移民に 労働移民に対する反 する反感が高まるのを受 まるのを受けて、1900 年 8 月、日本政府は 政府は 米国本 米国本土および およびカナダへ カナダへの ダへの労務移民を 労務移民を自粛した。 した。 この時点 この時点で 時点で、ハワイ ハワイ及びメキシコへ メキシコへの労務移民はまだ 労務移民はまだ禁止 はまだ禁止されていない 禁止されていない。 されていない。そのためにメキ シコに大 シコに大量の労務移民が 労務移民が送り込まれることになる。 まれることになる。二年後、 二年後、日本政府は 政府は規制を若干緩め 若干緩め、 以前移住して 移住して、 して、帰国していた者 していた者への再渡航、並びに移住者の家族の 家族の米国へ 米国への渡航を許可し 許可し た。しかし、 ルーズヴェルト しかし、ハワイから ハワイから大 イから大量の移民が 移民が本土へ移動したため、 したため、1907 年 3 月、ルーズ は大統領令 大統領令により、 により、ハワイあるいはメキシコを ハワイあるいはメキシコを含 イあるいはメキシコを含む第三国経由の 経由の移民の 移民の受け入れを禁止 れを禁止し 禁止し た。米国政府は 米国政府は、大統領令 大統領令が遵守されるよう 遵守されるよう日 されるよう日本政府に 政府に協力を求めたため、 めたため、これを受 これを受けた 日本政府は 政府は 1908 年の夏、アメリカと紳 アメリカと紳士協定を結び、パスポ パスポートの支給 ートの支給を 支給を外交官、学生、 貿易関係者 貿易関係者に 関係者に制限したためメキシコへ したためメキシコへの労務移民も 労務移民も中止されることになった。 されることになった。 1895 4 メキシコ移民 メキシコ移民が 移民が送り込まれた先 まれた先は、大別すると三 すると三つの地 つの地域で、オアハ オアハカ、ベラクルース両 ベラクルース両 6 州にまたがるテワ にまたがるテワンテペ ンテペック地 ック地峡沿いにあるオ 峡沿いにあるオハ いにあるオハケーニャ ーニャ、ブエナ・ヴィスタなどの甘蔗 ブエナ・ヴィスタなどの甘蔗 耕地、次に、コリマ州 コリマ州のコリマ鉄道建 のコリマ鉄道建設 鉄道建設、そして、 そして、北部コアウイラ州 コアウイラ州エスペ エスペランサスやフ エンテスなどの炭鉱 エンテスなどの炭鉱地 炭鉱地帯である。 である。 5 熊本移民会社は 熊本移民会社は 1901 年(明治 34 年)以降、12 回合計 回合計1,242人 242人、コアウイラ州 コアウイラ州の鉱区へ 鉱区へ、 東洋移民会社 東洋移民会社は 移民会社は 12 回に亘り計 3,046 人を北部鉱山及び 山及び炭鉱へ 炭鉱へ、大陸移民会社は 陸移民会社は 4 千人以 上を主としてオハ としてオハケーニャ ーニャ甘薯耕地 甘薯耕地やコリマ鉄道 やコリマ鉄道へ 鉄道へ送り込んだ。 メキシコにやって来 メキシコにやって来た日本人移民の 移民の正確な数を割り出すことは難 すことは難しい。 しい。「日本人メキシコ 移住史 移住史」は、移民会社三社以外 移民会社三社以外に、小規模 小規模に移入された出稼 された出稼ぎ 出稼ぎ移民もあり 移民もあり、 もあり、キューバの砂 ーバの砂 糖耕地 糖耕地労働者 労働者として渡 として渡航途次、居座り移住した 移住した者 した者、ペルーからの北 ルーからの北上組み 上組み等々を合わせる と、1908 年(明治 40 年)契約移民が 契約移民が打ち切られるまで、 られるまで、推定一万 定一万人の日本人移住者 移住者がメキ シコに渡来 シコに渡来したとしている 渡来したとしている。 したとしている。特に 1906 年と翌年の二年間に 二年間に全体の 全体の九割近 九割近い数の契約移民 が殺到した 殺到した。 した。 殆どの日 どの日本人は最終目的地をアメリカにしていたため 終目的地をアメリカにしていたため、 をアメリカにしていたため、到着間もなく 到着間もなく職 もなく職 場を離れて北 れて北へ向かった。 かった。しかし 1908 年、アメリカは日 アメリカは日本人に対して門戸 して門戸を 門戸を閉ざしたた め、多くが密 くが密入国を断念してメキシコ 断念してメキシコ北 してメキシコ北部に留まった。 まった。革命が 革命が勃発した 1910 年の国勢調 査によると日 によると日本人は 2,216 人、動乱の 動乱の舞台となったアメリカに 舞台となったアメリカに隣接 となったアメリカに隣接する 隣接する州 する州に、全体の 全体の六割 がいた。 がいた。 6 7 8 年代の初め、八十歳以上 十歳以上のメキシコ 以上のメキシコ在 のメキシコ在住日系人をインタビ 日系人をインタビュ をインタビューし、 ーし、その記 その記録を出版 した村 した村井謙一の「パイオニア列 パイオニア列伝」、そして 、そして日 そして日本人メキシコ移住 メキシコ移住史編纂委員 移住史編纂委員会 史編纂委員会の「日本人メ キシコ移住 キシコ移住史 移住史」に登場する 登場する日 する日本人は、親切なメキシコ人 なメキシコ人から助 から助けられ、 られ、九死に一生を 一生を得た、 と語っている人 っている人が少なくない。 なくない。一見して 一見して日 して日本人と見分け 見分けの付かない中国人 かない中国人は 中国人は逆に、メキシ コ人の激しい憎 しい憎悪の対象となった。 となった。1911年 1911年5月、マデロ革命 マデロ革命の 革命の最中、コアウイラ州 コアウイラ州ト レオンで中国系 レオンで中国系住民六 中国系住民六百 住民六百人余りの半数 りの半数近 半数近くが、 くが、僅か数時間の間に、革命兵士と 革命兵士と住民によっ 住民によっ て惨殺された。 された。1930 年代にはソ にはソノラ、 ノラ、シナロアを中心 シナロアを中心とする 中心とする北 とする北西部で数千人 数千人の中国人が 中国人が州 外追放となり 追放となり、 となり、さしもの繁栄 さしもの繁栄を 繁栄を誇った中国人 った中国人社会 中国人社会が 社会が壊滅した。 した。アメリカへ アメリカへ逃げ込んだ中国 人を、移民局 移民局はサンフランシスコまで無 はサンフランシスコまで無料で送り届け、多くが現 くが現地妻と子供を 子供を連れて帰 れて帰国 した。 した。しかし、 しかし、多くのメキシコ人 くのメキシコ人妻は既に結婚していた夫 していた夫の家族と 家族と一緒に暮らすことにな った。 った。ラサロ・ ラサロ・カルデナス大統領 カルデナス大統領は 大統領は窮状を 窮状を見かね、日中戦争開 日中戦争開始 戦争開始直前、引揚げ船を送って中 って中 国在住 国在住メキシコ人 メキシコ人を救出した。 した。 1970 9 「日墨交流史」 墨交流史」は中国人が 中国人が経済的成功を 成功を収めていて、 めていて、メキシコ人 メキシコ人から妬 から妬まれたことを最 まれたことを最大 の理由としている 理由としている。 としている。日本人は数の上で中国人より 中国人より遥 より遥かに少 かに少なく、 なく、共同生活 同生活をしてもせ をしてもせいぜ い数人単位 人単位であり、 であり、メキシコ各 メキシコ各地に分散していたため、 していたため、目立つ存在ではなかったし、 ではなかったし、経済 的に大きく成功 きく成功した 成功した者 した者もいなかった。 もいなかった。 経済的な要因以 要因以外に、日本人への危害が 危害が及ばなかった理由 ばなかった理由として 理由として考 として考えられるのは、 えられるのは、中国 7 人はディアス政府 はディアス政府や 政府や州政府との 州政府との関係 との関係が 関係が深かったため、 かったため、ひとたび とたび革命の 革命の嵐が吹き荒れると、 れると、 たちまち革命軍の 革命軍の格好の 格好の標的となった。 となった。一方、日本人はメキシコ革命 はメキシコ革命の 革命の動乱の 動乱の最中、武器 を取ってメキシコ人 ってメキシコ人と肩をならべ をならべて戦った。 った。彼等は政府軍、 政府軍、革命軍の 革命軍の区別なく 区別なく、 なく、自らの置 らの置 かれた立 かれた立場や情況に応じて戦 じて戦闘に加わり、 わり、目覚しい貢献 しい貢献をした 貢献をした。 をした。鉱山の閉鎖で 閉鎖で職を失った 日本人が糊口を凌ぐため、 ため、イデオロギ イデオロギーに関係 ーに関係なく 関係なく革命 なく革命戦 革命戦士となった。 となった。一日一ペ 一日一ペソから一 から一 ペソ半の給金は鉱山労働者 山労働者の賃金の倍近く、食事の心配もなかった 心配もなかった。 もなかった。皆が経済的な理由の 理由の ためであったとは限 ためであったとは限らない。 らない。砲声を 砲声を聞いて血沸 いて血沸き 血沸き肉踊り 肉踊り革命に 革命に投じた者 じた者、日本人は勇敢で 勇敢で あると信 あると信じられ、 じられ、無理やり前 やり前線に連れて行かれたものも少 かれたものも少なくなかった。 なくなかった。多くの日 くの日本人が 革命戦争 革命戦争で 戦争で勇名を馳せ、ジェネラルに上 ジェネラルに上り詰めたものもいた。 めたものもいた。一人はタンピコで 一人はタンピコで医院兼薬 はタンピコで医院兼薬 店を開業していた 開業していた岡 していた岡山県出身 山県出身の横山猪和夫 横山猪和夫、 猪和夫、もう一人 もう一人は 一人は二世のアルフレド吉松 のアルフレド吉松である 吉松である。 である。 11 メキシコ革命 メキシコ革命の 革命の関が原、セラヤの合戦のあった 合戦のあった 1915 年 4 月頃、戦場の北方にあるサン・ 北方にあるサン・ ルイス・ポ ルイス・ポトシの日 トシの日本人会は、市を通過する 通過する軍 する軍隊に日本人を見付け 見付けると質 ると質問した。 した。それら 日本兵から得 から得た情報をもとに 情報をもとに革命 をもとに革命に 革命に投じた日 じた日本人を、ビヤ軍 50 名、カランサ軍 カランサ軍 230 名、既 に戦死した 戦死した者 した者 67 名と推定した。 した。また彼 また彼らは糊 らは糊口をしのぐ をしのぐために軍 ために軍隊に入るのは決 るのは決して良 して良い ことではないと、 ことではないと、日本兵に軍服を脱いで止 いで止まるよう説 まるよう説得に努めたという。 めたという。 12 母国の力が影響を与えたことも否 えたことも否定できない。 できない。日清日露の戦勝国 戦勝国と、辛亥革命後未 革命後未だ混 沌とした支那 とした支那では 支那では大 では大きな違 きな違いがあった。 いがあった。 国力の差がメキシコ人 がメキシコ人の見る目に大きな影 きな影響を 及ぼしたことを示 したことを示すエピソ すエピソードがある。 ードがある。パイオニア列 パイオニア列伝の中に、既に故人となっていた福 となっていた福 岡県出身 県出身、野上茂実の話である。 である。「・・・ 「・・・彼 ・・・彼は経済的に身の堅まるや、 まるや、色白で美人の小学校 小学校 校長を勤めていた女教 めていた女教師 女教師と結ばれ、 ばれ、ニ男一女に恵まれたが、 まれたが、同夫人は教育者 教育者たるにかかわ らす、『自分は 自分は今まで日 まで日本人は一等国民と思い、夫を敬愛していたが、 していたが、日本の惨敗でメキシ 惨敗でメキシ コ以下の 以下の三等国民になり下 になり下がった。 がった。そのような国 そのような国民と夫婦生 夫婦生活を続けるのはいやだ』 るのはいやだ』右の 理の通らぬ夫婦解 夫婦解消の詭弁をつきつ 詭弁をつきつけ をつきつけられた氏 られた氏は激怒してただ 激怒してただち してただちに離別し 離別し、以来三十余年 十余年、 子女や 子女や友人の 友人の仲介あっせ あっせんにもかかわらず にもかかわらず頑として忠 として忠告を耳にせず、彼女の家の敷居を踏 むを快しとしなかった・・・」 しとしなかった・・・」 13 14 日本人と中国人の 中国人の国民性の違いを理解 いを理解していたメキシコの 理解していたメキシコの識 していたメキシコの識者がいたことも見 がいたことも見逃せない。 ない。 二世 で日本人移民の 移民の研究家 研究家、Maria Elena Ota Mishima は著書「Siete Migraciones Japonesas en Mexico, 18901890-1978」で、1874 年、金星が地球に大接近したとき観測隊 したとき観測隊長 観測隊長と して日 して日本へ行ったフランシスコ・ディアス・コヴァルビアスの言 ったフランシスコ・ディアス・コヴァルビアスの言葉を伝えている。 えている。「・・・ 「・・・ 私は、我が国では少 では少ししか知 ししか知られず られず、一般には混同 には混同されているこの 混同されているこの二 されているこの二つの国 つの国民性の違いは、 いは、 両者の性格と習慣的 習慣的な行動精神 行動精神の違いに起 いに起因すると主 すると主張したい・・・しかし、 したい・・・しかし、中国人が 中国人が日 本人と類似性 類似性を持つどころか、 つどころか、逆にその性 にその性格とは対 とは対照的に、顔立ちは驚くほど良 くほど良く似てい る。日本人は実に、だいたい何 だいたい何時でも愛 でも愛想が良く、礼儀正 礼儀正しく、 しく、勇敢で 勇敢で几帳面 几帳面、そしてあ 8 らゆる文化を 文化を素直に受け入れる。 れる。一方中国人の 中国人の中で同じような特性 じような特性を 特性を持った者 った者は稀であ る・・・メキシコにとって中国人 る・・・メキシコにとって中国人移民 中国人移民が 移民が有益であると 有益であると考 であると考えている人 えている人は、中国人を 中国人を近くで見 くで見 たことがないと私 たことがないと私は思う。彼らには他 らには他所者と 所者と混じろうとしない欠 じろうとしない欠点がある。 がある。この国 この国では日 では日 本人は知られていないが、 られていないが、農業では 農業では確 では確実に恩恵を蒙ると、 ると、私は信念を 信念を持っている」 っている」 10 革命の 革命の騒乱とそれに続 とそれに続く政情不安 政情不安の 不安の二十余年 十余年、日本人移民は 移民は良く耐えた。 えた。しかし、 しかし、彼ら の前途には 前途には更 には更なる試練 なる試練が 試練が待ち構えていた。 えていた。太平洋戦争が 戦争が開始されると、 されると、国境から 国境から百 から百キロ、 キロ、 海岸から五 から五十キロ以内 キロ以内に 以内に住む日本人は即時退去を 退去を求められ、 められ、土地財産 土地財産をた 財産をたち をたちどころに失 どころに失う ことになるのである。 ことになるのである。 1.日墨協会・ 日墨協会・日墨交流史編纂委員会「 日墨交流史編纂委員会「日墨交流史」 日墨交流史」現代企画室P 現代企画室P146 2.Ibid. P146 3.Ibid. P161 4.Maria Elena Ota Mishima “Siete Migraciones Japonesas en Mexico, 18901890-1987” 1987” El Colegio de Mexico, 1982 CC-5 5.日墨協会・ 日墨協会・日墨交流史編纂委員会「 日墨交流史編纂委員会「日墨交流史 日墨交流史」現代企画室、P 現代企画室、P246 6.日本人メキシコ 日本人メキシコ移住史編纂委員会 メキシコ移住史編纂委員会「 移住史編纂委員会「日本人メキシコ 日本人メキシコ移住史 メキシコ移住史」 移住史」、1971,P110 7.Ibid. P110 8.Maria Elena Ota Mishima “Siete Migraciones Japonesas en Mexico, 18901890-1987” 1987” El Colegio de Mexico, 1982 CC-5 9.Evelyn HuHu-Dehart, “The Chinese in Northern Mexico” Mexico”, Journal of Arizona History History P85 10.Maria Elena Ota Mishima “Siete Migraciones Japonesas en Mexico, 18901890-1987” 1987” El Colegio de Mexico, 1982、P-12 11. 日墨協会・ 日墨協会・日墨交流史編纂委員会「 日墨交流史編纂委員会「日墨交流史」 日墨交流史」現代企画室、 現代企画室、P384 12. 日米新聞 1915 年 4 月 29 日 13. 日墨協会・ 日墨協会・日墨交流史編纂委員会「 日墨交流史編纂委員会「日墨交流史」 日墨交流史」現代企画室、 現代企画室、P411 14. 村井謙一「 村井謙一「パイオニア列伝 パイオニア列伝」 列伝」1976、P94
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