軍 隊 特攻機に乗り、笑顔で飛び立っていった仲間たち 小野寺 盛三郎/小野寺 多美江 銚子の連隊から復員し、闇商売で家族を支えた 信太 衛 インパール作戦に通信兵として従軍 永井 孝之 予科練除隊で助かった命 櫻井 正治 123 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 か れん かの や 小野寺 盛三郎 いかり ないか」ということで志願したのです。あの頃 あこが は、真っ白な制服に〝7つボタンは 桜に錨〟と、 みんなそれに憧れていました。 ──予科練の試験はどのようなものですか。 その当時、予科練に入るには東京大学の入試 と同じくらい難しい問題が出ると言われていま した。ですから先生には、 「お前たちみたいな 馬鹿者が受かるわけがないだろうけれど、学校 から指定されたのだから一応受けてみろ」と言 われました。願書を出した次の日から猛特訓が 始まりました。3カ月間、毎日学校が終わって から3人が居残り、先生の指導を徹底的に受け ました。特に数学に関しては、 「とにかく頭に 入れるよりも暗記しろ」ということで寝る間も 惜しんで勉強しました。かろうじて3人とも合 格したら、学校でも「お前たちみたいな馬鹿者 九段南 小野寺 多美江 た み え 九段南 特攻機に乗り、笑顔で飛び立っていった仲間たち よ ・多美江さん( 歳)ご夫婦は、 小野寺盛三郎さん( 歳) 終 戦 後 は 九 段 南 4 丁 目 で 写 真 店 を 営 み ま し た。 盛 三 郎 さ 歳 で 予 科 練 に 志 願 し、 鹿 児 島・ 鹿 屋 航 空 基 地、 パ 乗 員 と し て 配 属。 多 美 江 さ ん は 気 象 庁 と 軍 事 省 に 勤 務。 てからは東京に出てきて九段南4丁目で写真店 を営み、今は息子が継いでいます。 ──予科練を受けたということですが、試験は 自分から志願したのでしょうか。 私は当時、横浜市立鶴見工業高校へ通ってい たのですが、たまたま学校に予科練の募集がき ました。5名募集がきて、私を含め3人が受け ました。私たちは勉強があまり得意なほうでは なく、「学校から持て余されているくらいなら、 お の で ら せいざぶろう いっそのこと予科練に行ったほうがいいのでは 壮絶な予科練での訓練や特攻基地での日々などについて お話をうかがいました。 予科練で徹底的な教育を受ける ──まず、お二人のことについてお聞かせくだ さい。 私 は 大 正 ( 1 9 2 6) 年、 家 内 は 大 正 お ( 1 9 2 5) 年 生 ま れ で す。 2 人 と も 栃 木 県 小 14 山市出身です。私は 歳のときに予科練に入り、 やま 89 プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア・ ラ バ ウ ル、 愛 知・ 明 治 航 空 基 地 へ 搭 んは 89 終戦まで航空隊や航空基地にいました。復員し 16 おのでら 16 15 インタビュアー 泉 政秀(区内在勤者) 谷垣柚乃(高校 2 年生) 大須賀 龍(高校 1 年生) 124 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 がよく入った。予科練に入ったからには一生懸 連帯責任として全員に迷惑がかかりますから、 そんな状態でした。1人でも何か不備があると に 3 人 で「 入 る か ら に は 国 の た め に や ろ う!」 いうものを教育されるわけです。 絶対に悪いことはできない。それだけ団体力と げきれい 命にやれ!」と激励してくれました。そのとき と誓いました。 ──訓練で辛かったのはどんなことですか。 れはもう、普通の人には想像できないような教 と思っていたらとんでもありませんでした。そ 予科練は、茨城県の土浦海軍航空隊で1年間 教育を受けます。予科練とはもっと楽なものか ます。それを駆け足で1周すると、真冬でもさ 行場は大きく、普通に歩くと1時間以上かかり 飛行場を1周する。1周といっても霞ヶ浦の飛 飛行場に整列です。何をするのかと思ったら、 つら ──予科練とはどのようなところなのでしょう 育です。 に飛び込み、端から端まで泳がされました。中 しょうしゅう か。 真 冬 の 真 夜 中 時 頃、 非 常 召 集 が か か り ま す。非常召集がかかったら、裸にパンツ1枚で 午前中は学科、午後は体育などの実地訓練が あります。午前中の学科が始まる前には必ず試 には泳げない者がいて、班長が洗濯干し棒のよ 中でも勉強していました。 ちろん、1分や2分ではありません。真冬の真 す。やっと身体が温まってきたなと思ったら、 人全員の責任になる。連帯責任です。過失の 10 血 が 下 が っ て 腰 か ら 下 が 真 っ 黒 に な り ま し た。 ました。倒れはしなかったけれど、そのかわり みんなその場に倒れてしまう。私も3回やられ 棒で尻を叩きつけられます。3回やられた者は とも言われる)というバットを改造したような なことではへこたれないですね。 く勝つまでやらされました。ですから、生半可 なってしまいます。何もかもが勝負で、とにか 負 け れ ば 勝 つ ま で や ら さ れ ま す。 傷 だ ら け に 棒倒しです。 棒倒しも勝てば1回ですみますが、 また、1週間に2回体育の時間があり、最初 にやらされるのが騎馬戦です。それが終わると 夜中に汗が落ちてくるほどやらされるんです。 な に し ろ、 ト イ レ で か が め な い く ら い ひ ど く、 16 15 60 なまはん か 小便のときはいいけれど、大きいときは同じ班 の 者 が 2 人 一 緒 に 入 っ て 両 脇 を 支 え て く れ る、 予科練に入隊したときは体重が 貫目( キ ログラム)以上あったのですが、1カ月で 貫 内容によって1〜3回、精神注入棒(バッター 滑走路へ整列して腕立て伏せをやらされる。も 予科練では班に分かれており、1つの班がだ いたい 名です。1人でも何か過失があったら ると今度は、誰かまわず取っ組み合いの相撲で す もう すがに汗をかきます。そうすると次は防火用水 か 験がありました。前の日に勉強した内容が出さ うな長い竹で引き上げていました。水から上が 80 体験記 軍隊 予科練 正式には海軍飛行予科練習生。 昭和 年 月、水兵 服から7つボタンの短ジャケットに替わり「7つボタン は桜に錨(いかり)…」の歌とともに少 年たちのあこ がれの対象となった。 太平洋戦争末期の特攻作戦で多 数の戦死者を出した。 予科練に入隊した頃の小野寺さん 12 点以下だったら、 点に れ、安全点が 点。 80 なるまで食事もさせてもらえません。トイレの 80 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 125 10 17 11 ・ キログラム)を切っていました。食 の中ぶたに牛乳が1杯、それに必ず焼き肉が出 ました。あの頃は焼き肉と言っていましたが、 目( 事はきちんと取っていますので、それだけ訓練 今で言うステーキです。 か こく が過酷だったということです。 正 直 に 言 い ま す と、 い く ら お 国 の た め だ と いっても、こんなに辛い思いをするのなら入ら 実際に飛行機に乗って訓練するのは、半年後 です。「赤とんぼ」といって、 翼になってい 迷惑をかけるのだったらやめよう、どうせ死ぬ けない。それでもいいのか」と。一族にそんな 籍が赤字になる。それから、いっさい公職に就 脱走したら、小野寺の姓を名乗る一族全員の戸 う い う こ と だ?」 と 聞 い た ら、「 も し も お 前 が なことをしたら大変だぞ」と言うのです。「ど ち、逃げ出すという話を耳にしたけれど、そん うと相談していたのですが、ある人が「お前た り、1泊で外出できます。そのときに脱走しよ 毎週土曜日の午後から「外泊」というものがあ て、3人で脱走しようと考えたこともあります。 ンと頭を殴られます。本当に目から星が出ます いているんだ!」と後ろから精神注入棒でバー の判断で操縦する。そうしたら「貴様、何を聞 飛行場はこっちだから右旋回だろうなどと自分 示されても何を言われているか聞き取れない。 は緊張しているから、教官からレシーバーで指 乗り、教官が後ろに乗ります。でも最初のうち 動きます。1週間たつと、今度は練習生が前に 旋回」「上昇」 「下降」などと言ってその通りに 練習生は後ろに乗ります。教官が「右旋回」 「左 る練習機です。最初のうちは教官が前に乗り、 きらめました。でも、私たちの班から2名脱走 兵が出ました。外泊して行方が分からなくなっ たんです。 ──予科練の食事はどのようなものですか。 特攻基地である鹿屋海軍航空隊へ ──予科練の訓練が終わってから、どちらに配 最高に優 遇されていました。あの頃、一般的な の鹿屋海軍航空隊へ配属になりました。そのと 予科練が終わると実戦部隊といって、実際に 戦争をする部隊に配属になります。私は鹿児島 属になったのでしょうか。 兵隊さんは麦飯だったと言いますが、私たちは きは、鹿屋が特攻基地だということを知りませ ゆうぐう 麦飯なんて食べたことはありません。白米です。 んでした。 はんごう 今でも覚えていますが、朝は生卵が2つ、飯盒 たちは班ごと 班長は班長室で食事をとり、そ私 ろ に朝昼晩と当番がいて食事を揃えます。食事は かの や よ。 2 ならお国のために死のうと思い直し、脱走をあ なければよかったと思いました。あまりに辛く しょうか。 ──予科練では、飛行機に乗る訓練も行うので 25 ──想像を絶する訓練です。 56 特攻 特別攻撃隊の略称。 生還率が低い決死の攻撃、戦死 を前提とした攻撃を遂行する部隊。 第二次世界大戦に おいては、陸海軍が体当たり戦法を遂行する特別攻撃 隊が編成された。 爆弾や爆薬を搭載した軍用機で敵艦 に体当たりし自爆する航空特攻、特殊潜航艇や人間魚 雷などによる海上特攻がある。 126 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 鹿屋に行って半年くらいたってから、予備学 生が入ってきました。予備学生とは、大学在学 中で志願してくる者です。私たち予科練は1年 ご ちょう 間教育されて実戦部隊に配属になると、陸軍で いう伍長、海軍でいう 等兵になりますが、彼 らは1年で少尉に任官します。それくらい待遇 がよいものでした。そのかわり、私が今こうし て生きていられるのは、予備学生が入ってきた おかげです。そうでなければ、とっくに特攻で 飛ばされていたでしょう。予備学生は実戦部隊 に配属になったら、半年後はほとんどが特攻機 ばくだい に乗せられました。班長から、私たち予科練卒 は莫大な金をかけて教育したのだから簡単には 死なせない、というようなことを言われたこと があります。私は、予備学生が入ってきたため に助かったのです。 ──訓練日数が短い予備学生は飛行機を操縦で きるのでしょうか。 予備学生がどのような訓練をしていたかは分 かりません。ただ、飛行機の操縦だけは覚えて い ま す が、 完 全 に は マ ス タ ー し て い な い で す。 なぜなら、予備学生は目標に突っ込むことしか 教育されていませんから。空中戦もやらなけれ ばならない私たちとは違いました。 特攻隊員が特攻機に乗って涙を流している映 画がありましたが、私が知る限りでは誰1人と してそんなことはありません。あの当時、特攻 機に乗る人間は神様以上です。特攻隊員は「行っ 体験記 軍隊 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 127 てくるよ」、送り出す連中も「必ず成功しろよ」 第2部 明治海軍航空基地に配属された小野寺さん(後列右)と同僚 2 さかずき と言って、別れの盃を交わします。特攻機が飛 び立つときは、司令から全員が 列になって見 ない。それがいくつだと思いますか。みんな 歳から 歳ですよ。 19 されていますから。死ぬことを全然怖いと思わ とにかく、特攻機に乗ったら生きて帰るとい うことは考えていません。そういうふうに教育 振って飛び立っていきました。 からな。あとを頼むよ」と、みんな笑顔で手を ンジンが かかって出るとき は、「 じゃあ、行く 送ります。最初は緊張していますが、実際にエ 1 中には希望する人もいますが、ほとんどは1 週間から 日前に班単位で指定されます。例え うか。それとも自分から希望するのでしょうか。 ──特攻機に乗るときは、命令されるのでしょ 20 1 私 は 2 回 ほ ど 沖 縄 で 空 中 戦 を 経 験 し ま し た。 のですか。 ──小野寺さんも、実際に飛行機で出撃された た。 されます。だいたい指揮艦を狙うのは班長でし 狙います。中には「指揮艦を狙え」などと指定 終戦間際はほとんど沖縄です。軍艦なんてと ても無理ですから、物資を運んでいる輸送船を ま ぎわ しょうか。 ──特攻隊は、どのあたりに攻めていったので 無礼講で好きなことができます。 ぶ れいこう は自由です。「悔いのない生活をしろ」と言われ、 く というふうに言われます。そのかわり、 週間 ば私が班長だったら「小野寺班、○月○日出撃」 10 零式艦上戦闘機 52 型(海上自衛隊鹿屋航空基地史料館提供) 128 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 車もスピードを出して曲がると大回りするで は あ ま り ス ピ ー ド が 速 い と 旋 回 が 大 き く な る。 ん。グラマンのほうが速度は上ですが、飛行機 機の後ろ、つまり尾翼につかなくてはなりませ 戦 のほうです。空中戦は射撃するために、飛行 呼ばれていましたが、性能がよいのは日本の零 アメリカの戦闘機はグラマン、シコルスキーと さい。 たそうですが、そのときのお話をお聞かせくだ ──鹿屋にいたとき、ニューギニアに出兵され あってうまかったですね。 し た も の も 5 枚 渡 さ れ ま し た。 こ れ が 栄 養 も コンビーフをおせんべいみたいに圧縮して乾燥 の時間帯に飛行機に乗る場合は、間食といって し、それを口に含んで操縦していました。食事 ぜろ しょう。それと同じです。零戦はグラマンの半 せん 分くらいで旋回できました。ただ、グラマンの すが、アメリカの軍艦は対空砲火がものすごい。 艦船攻撃です。ですから輸送船を攻撃するので 私はグラマンを1機だけ撃墜しました。沖縄 の攻撃というのは、沖縄本土での攻撃ではなく、 ── 空中戦で米軍の飛行機を撃墜したのですか。 狙わなければなりません。 ンクに当てるか、後ろから5・6発で操縦士を いものにならない。ラバウルへは高雄で給油を ら、給油地である台湾の高雄が空襲に遭って使 とまったのでラバウルの本隊へ帰ろうとした ない。2カ月近くたってからようやく物資がま またま内地へ戻ってきたのです。ところが、1 資を運ぶということになり、輸送機の護衛でた ですが、潜水艦で爆撃を受けるから輸送機で物 ──鹿屋での食事はどうだったのでしょうか。 火を噴くんです。 そのとき、鹿屋からラバウルに転勤になった 者は 名いました。輸送機の護衛で帰ってきた び内地勤務になりました。 しなければ向かうことができません。それで再 あ やはり、食べ物には恵まれていました。普通 の兵隊は朝昼晩と食事の時間が決まっているで たか お 週間の予定が1カ月かけても補給物資が集まら 船全体に高射砲を装備していて、それが一斉に が起きました。それまでは船で輸送していたの バウルで補給が滞り物資が不足するという事態 とどこお ニューブリテン島(現・パプアニューギニア) のラバウルへ転勤になりました。ところが、ラ 場合は機銃弾が ミリメートルですが、零戦は で撃墜できますが、 ミリメートルだと燃料タ ミリメートル。 ミリメートルだったら1発 20 20 13 しょう。私たちの場合はいつでも食べられまし あとは全員ラバウルで戦死しました。その 名 のは6人です。 ですから6人は助かりましたが、 ぜいたく た。飛行機に乗っていると時間通りに食べられ い ねむ は靖国神社に入っています。 30 ま せ ん か ら、 特 別 で し た。 贅 沢 も し ま し た よ。 操縦するときは居眠り防止用といって、かわり 体験記 軍隊 玉という大きなあめ玉を5つくらい持って搭乗 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 129 13 24 のためにわれわれはここまできたのに、なぜや ん か ら。 で も 終 戦 を 実 感 し て、 「 こ れ か ら は、 らない」と。当時は死ぬことしか考えていませ ──その後は、どちらへ配属になったのでしょ 何でも自分でやっていくほかない」 、そう思い 終戦の日に出撃命令が出た うか。 ──それから復員したのですね。 私が復員したのは昭和 (1945)年の 月です。栃木の実家へ帰りました。東京へ行く ました。 和 ( 1 9 4 4) 年 の 暮 れ、 愛 知 県 の へ き昭 かいぐん 碧 海郡明治村(現・安城市)にある明治航空基 地へ配属になりました。「本土決戦が間近であ るから」と、鹿屋から 名、転勤命令が出たの 死んでもいいと思っていました。 生きていないでしょう。でも、あの当時はいつ んでしたが、終戦があと1カ月遅かったら私も 明治航空基地に配属になってから出撃はしませ ま る )〟 と い う 暗 号 数 字 で 呼 ば れ て い ま し た。 です。ここは特別な基地で〝二一〇(ふたひと でした。ですから、搭乗員は絶対に軍服を着て 国人に指導する搭乗員が必要だからということ いた飛行機はすべて中国へ持っていくため、中 れていました。なぜかというと、日本に残って リカ軍に捕まって中国へ連れて行かれると言わ 場合、飛行機の搭乗員は東京駅か上野駅でアメ 飛び立ったら反対にわれわれが撃墜するぞ」と 立ってはならん。そんなことしたら国賊になる。 飛び立つというときに、司令から「絶対に飛び エンジンをふかして待機していました。実際に が隊長から出ました。ですから、私たちは全機 ことになっており、それを撃墜しろという命令 ど、マッカーサーが輸送機で相模湾に着水する 明治航空基地で聞きました。「われわれは納 得しない」という空気でした。あの日はちょう か。 に、「こんなものがあったら物騒でしょうがな れくらい厳しかった。復員して帰ったらおやじ た。拳銃はパンツの中に隠しておきました。そ 今は関係ない」と答えましたが、検査されまし か」と質問されました。「あることはあるけれど、 私も東京駅でアメリカ兵に「軍隊の経験がある あってもうちまでたどり着け」 ということです。 1人でも2人でも殺して逃げろ。どんなことが 何 も 持 た な い 代 わ り に、 拳 銃 1 丁 と 実 弾 100 発を渡されました。 「万が一捕まったら、 ら分けてもらった服を着て復員しました。 こくぞく 言われ、それで中止になったのです。 そのときは残念だと思いました。「本土決戦 ──復員されたらご家族は喜んだでしょう。 川に捨てられました。 い」とすぐに拳銃はたたき壊され、弾はすべて か。 ──玉音放送を聞いたときはどう思われました ぎょく お ん ほ う そ う 帰ってはいけないと言われ、現地で農家の人か 10 ── 玉 音 放 送 は ど ち ら で 聞 か れ た の で し ょ う 20 20 19 130 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 んでお前は生きて帰ってきたんだ」と。「長男 ですが、私を見るなりおふくろが開口一番、 「な リアに抑 留されました。私が最初に復員したの 長男は終戦のときにソ連に捕まって3年間シベ た。次男はしばらくしてから帰ってきましたが、 次男は北支(中国北部)で隊長をやっていまし 私は男3人兄弟の末っ子で、3人とも軍隊へ 行 き ま し た。 長 男 は 司 令 官 と し て 満 州 へ 行 き、 腕章を付けた偉い方ともお話をしたりしてけっ 軍事省は軍関係の仕事ですが、私は主に機密 文書などのタイピストをやっていました。肩に のでしょうか。 ──軍事省ではどのようなお仕事をされていた 避難した記憶があります。 民家に入ったり、軒下に入れてもらったりして いました。空襲になると大宮駅で降ろされて、 のために死んでいないんだ」と。 ているのに、うちはどうして誰1人としてお国 くて表を歩けない。よそはお国のために戦死し れど、おふ くろは気丈な性格で、「 世間体が悪 盗も出て、 近所が荒らされることもありました。 は ぎ が 出 た く ら い で す。 進 駐 軍 の ピ ス ト ル 強 た。市ケ谷駅前も草ぼうぼうで、なにしろ追い け野原で家が3軒くらいしかありませんでし 東京へ出てきて九段南4丁目で写真店を始め ました。その当時、九段南4丁目のあたりは焼 ──終戦後はどうされたのでしょうか。 終戦後、 九段南4丁目で写真店を始める なりました。栃木の小山から東京まで通勤して が帰ってくるのはいいけれど、お前はお国のた こう忙しかったです。 よ く りゅう めに行ったんだから、白木の箱に入って帰って くるのが当たり前じゃないか」と言われたんで す。いまだにそれが忘れられません。周りでは 1 人 し か い な い 息 子 が 戦 死 す る 家 も あ る 中 で、 息子が 人戦地に行って全員帰ってきたのはう ──お母さんにそのようなことを言われたとき 家内はその頃、運輸省に勤めていたのですが、 ちだけでした。おやじはそうは言わなかったけ はどう思われましたか。 に行っていました。 て帰ってきてくれて、本当によかった」と。 した。「うち は運がよかった。男3 人とも生き たってから、おふくろがはじめて本心を言いま 夏服だと半分、飛行帽はサツマイモ1袋と交換 飛行服などの軍服はすべて食糧に換わりまし た。終戦のときは、冬の飛行服1着で米1俵、 ──終戦後の食糧事情はどうでしたか。 女1人で出歩いていると危ないから駅まで迎え し ん ちゅう ぐ ん 「 と に か く 生 き て 帰 っ て き た の だ か ら い い じゃないか」と思いましたよ。でも 年くらい ──奥さまの多美江さんにお聞きしたいのです できました。それくらい食糧が逼迫していまし ひっぱく が、戦争中はどうされていたのでしょうか。 体験記 軍隊 た。 10 私は気象庁に入り、それから軍事省に配属に 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 131 3 があり、米などの食糧が没収されてしまうんで ありました。大宮駅などで乗客全員の荷物検査 それでもたまに汽車の中で警察に捕まることが て も ら っ た り、 取 り に 行 っ た り し て い ま し た。 うと思いますが、もう少し苦労して勉強したほ は苦労を知りません。時代が違えば考え方も違 死んだつもりで頑張りました。今の若い人たち 然考えていませんでしたから、戦後はとにかく 戦争中、そして戦後の苦労は並大抵のもので はありませんでした。私も生きて帰るなんて全 ありましたらお願いします。 す。 私 も 何 回 か 捕 ま っ て 米 を 没 収 さ れ た の で、 うがいい。何でもへこたれないこと。自分がこ あの頃は、とにかく米さえあればいいという 状態でした。東京では栃木の実家から米を送っ いつか仕返しをしてやろうと思い、袋に砂を入 うだと思ったことをまっとうすること。とにか く頑張っていただきたいと思います。 れてわざと見つかるように持っていたことがあ ります。「米だろう」「いや、砂です」というや り取りはしますが、警察は車内では袋の上から 触るだけで、実際には開けて見ません。赤羽駅 で荷物が全部下ろされ、駅前に敷かれたシート の上で袋を開けるのですが、「開けてぶちまけ ても文句を言わないか」と聞くと、「文句を言 わない」と言うので、袋のひもを解いて一気に 開け、ザーッと砂をまいてやりました。そうし たら慌てて「やめろ、やめろ!」と。 ──写真店のお仕事はいかがでしたか。 当時、写真を扱うところがなく、東京の写真 の処理はほとんどうちがやっていました。とに かく忙しかったです。家内も運輸省から帰って くるとお店を手伝っていました。従業員は5人 くらいいましたが、忙しくて1週間一睡もでき ないこともありました。私は今こうやって 歳 ──お二人から、若い人たちに伝えたいことが 張ってきました。 んだつもりで何でもやりました。それくらい頑 になるまで生きていますが、戦後はとにかく死 90 写真左から、泉さん、谷垣さん、小野寺夫妻、大須賀さん 132 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 業を継いで ただけますか。 入り、昭和 (1945)年9月に復員しまし 店を閉めました。 ──ごきょうだいは何人ですか。 9人きょうだいで私がいちばん上です。私と す ぐ 下 の 弟 が 兵 隊 に 行 き ま し た。 弟 も 無 事 に 帰ってきました。幸いなことに、家族は戦争で 誰も亡くなっていません。 ──住んでいた場所とその当時の町の様子をお 聞かせください。 へい か 小学校です。軍国主義ですから、天皇陛下は神 この え 様だという教育でした。それが頭から離れない しんえいたい ですね。武道館は近衛歩兵第1連隊といって天 皇陛下の親衛隊の建物でした。たしか小学5・ 6年生のときに二・二六事件がありました。あ の日は大雪で、学校を早引けして帰ってきたと きにその様子を見たのを覚えています。各地区 から軍隊がどんどん九段へ入ってきて、九段下 の交差点は銃を立てた兵隊で大変でした。 ──九段下のあたりが兵隊だらけだったのです か。 せ い じょう そうです。政府側の応援をするために、地方 の軍隊がみんな入ってきました。当時は日本の 政情も悪かった。だから、陸軍の若い将校たち かいげん が見るに見かねてなんとかしようとクーデター ぎゃく ぞ く を起こした。今の九段会館が戒厳司令部になり ま し た。 「兵たちに告ぐ。お前たちは 逆賊にな し だ まもる 九段北 インタビュアー 松野和寛(区内在勤者) 三輪田颯真(中学 1 年生) 吉岡さくら(高校 2 年生) しょう しゅう 歳 ま で 酒 屋 を 経 営。 軍 隊 で の 経 験 や 食 糧 難 ──まず、信太さんご自身についてお聞かせい 子供の頃に二・二六事件を見る に苦しんだ終戦後の生活についてうかがいました。 85 大正 (1923)年生まれ、今年で 歳に なります。昭和 (1944)年1月に軍隊に 92 体験記 軍隊 信太 衛 銚子の連隊から復員し、闇商売で家族を支えた ちょう 92 大 学 に 通 う と 同 時 に 闇 商 売 も 行 い な が ら 家 族 を 支 え、 家 やみ 昭 和 し(1944) 年、 学 生 の と き に 召 集 さ れ、 横 須 賀と銚子で軍生活を送った信太 衛さん( 歳)。復員後は、 19 19 た。終戦後 は酒屋の商売を継ぎ、 7、8年前に 20 住まいはずっと九段北です。小学校は富士見 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 133 12 がまかれていました。 るぞ、すぐに原隊に帰れ」といった内容のビラ 持ちなのでしょうか。 ──誇らしい気持ちより、しかたないという気 ほこ ──小学校を卒業してからはどうされたのです みんな「元気で行ってきます!」と言ってい ますが、心の中ではそう思っていたのではない げんたい か。 ── 出 征 の 見 送 り は ど の よ う な 様 子 だ っ た の しゅっ せ い でしょうか。 士見小学校を卒業して、白山にある私立の け富 い か 京華中学校に進学しました。当時は旧制中学校 ですか。 かんりつ ですから5年制です。中学は私立や官立があり、 かっぽう ぎ み ん な 試 験 を 受 け な け れ ば 入 れ ま せ ん で し た。 最初の頃は国防婦人会などの女性が割烹着を 着て、旗を振りながら盛大に送り出していまし た。 で も、 私 た ち が 出 征 す る 頃 は、 「スパイが 試験勉強は大変で、私も塾にずいぶんと通いま した。 るな、そっと出征してくれ」と軍に言われまし 世 の 神 様 だ と い う 教 育 を 受 け て い る で し ょ う。 赤紙が来るというのは知っているから、「あ あ、来たな」と思いました。それまで天皇は現 ちでしたか。 ──召集令状が届いたときはどのようなお気持 に行くことになりました。 だ、私も専門部の学生のときに召集され、軍隊 はみんな憧 れてずいぶん軍隊に入りました。た ら下げて。私は志願しませんでしたが、同級生 いで1台の大砲を引っ張ります。 です。重いのは何トンとあるから、馬 頭くら 訓練で扱う大砲は、直径 〜 センチメート ルの大きなものです。だいたい センチメート 属されました。 横須賀の重砲兵連隊に入りました。 私はまず、 重砲というのは大砲のことです。砲兵として配 ── 軍隊に入ってからのことをお聞かせください。 横須賀の連隊での訓練生活 どこにいるか分からないから派手な見送りをす 中学校を卒業してからは早稲田大学の専門部 に進学しました。今で言う短大のようなもので た。そういう状況でした。 かんゆう す ね。 そ の 頃、 学 校 に は 軍 隊 が「 兵 隊 に 出 ろ 」 とよく勧 誘に来ていました。半年もしたら将校 たんけん になれますし、また特に海軍は格好いいのです だから、黙って受けるしかないです。逃げよう 大砲には榴弾砲と加農砲があります。榴弾砲 というのは、弾を飛ばすと途中でバラバラにな よ。ボタンのついた白い洋服を着て、短剣をぶ ものなら非国民と言われ、憲兵が来てすぐお縄 り、その下を歩いている人馬を殺傷します。加 だま か のんほう けんいんしゃ ルが多いのですが。大砲は牽引車で引っ張るん りゅう だ ん ほ う 8 あこが になってしまう。逃げるなんてことは絶対にで 農砲はぶつけて破裂させるものです。大砲は遠 けんぺい きません。 15 30 北の丸公園の旧近衛師団司令部庁舎 (現在は東京国立近代美術館工芸館) 戒厳司令部となった九段会館 15 134 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 ていきます。 り、また訓練。それからだんだんと位が上がっ 1期の訓練を終えると試験のようなものがあ 約3カ月間で、信号の訓練が3カ月ありました。 私は通信を担当していました。通信には手旗 信号とモールス信号があります。1期の訓練が 決めて撃ちます。 量し、それを通信班が通知し、砲士班が場所を のサイン・コサイン・タンジェントを使って測 班、砲士班の3つに分かれ、観測班は三角関数 くへ撃つでしょう。そのために、観測班、通信 密閉された閉鎖的な団体生活ですから。ネチ ネチはしていないけれど、「シャケ」 「セミ」 「ウ ──軍隊でいじめがあるのですね。 るくらい殴られました。 晩にひどいいじめを受けました。目から火が出 い、逡巡していたんです。そしたら、その日の 「お前たちは戦地に行きたいか、行きたくな いか」と上官に言われたことがあります。 「行 いうことになっていますから、絶対服従です。 す。なにしろ、上官の命令は天皇陛下の命令と ところ、寒いときは寒いところで訓練を行いま ない む はん ほう し はん ── 軍隊での生活はどのようなものでしょうか。 りました。 「シャケ」というのは、 「よし」と言 しゅんじゅん みっぺい 「セミ」は柱にかじりついている。 「ウグイスの けんすい グイスの谷渡り」など、いろいろないじめがあ へい さ きたい」と答えて本当に行かされたら困ると思 内務班というものがあり、みんなで居住する のですが、廊下が1つあってその脇に くらい うまで、 懸垂のようにずっとぶら下がっている。 き ょ じゅう 人が寝 泊まりしていました。私が行った横須賀重砲兵 谷渡り」は、ウグイスの鳴き真似をするという の部屋が並んでいます。1部屋に 〜 連隊には全部で1000人くらいいました。 なんきんむし すか。 ──訓練で辛かったことはありますか。 した。 足みたいでしたね。ただ歩いて行って帰ればよ したから、 そのときは嬉しかったですね。あと、 が面会に来てくれました。それまで音信不通で そのようなことを考えられる余裕はなかった です。でも、入隊して3カ月ほどたってから親 当しごかれました。ほふく前進が 軍隊ではつ相 ら いちばん辛 かったです。銃を持ち、地面にはい かったのでそれは楽でした。 体験記 軍隊 訓練で遠出することがあったのですが、少し遠 うれ つくばって、 〜150メートルもやらされま したが、疲れ切っているからすぐ寝入っていま 精神的ないじめですね。でも、いちばん多いの はビンタでした。 えいてい は演習、夜は銃器の手入 午前中は学科、午く後 ん じ れです。それから訓 示があって、1週間のやり しゅう し ん からは毎晩、 営庭で 分くらい軍歌を歌います。 ──軍隊にいたときに楽しかったことはありま 30 10 方などいろいろと言われます。食事が終わって 20 そして就寝です。寝具にはノミや南京虫がいま 30 すから。軍隊というところは、暑いときは暑い 第2部 近衛師団 皇室の守護と儀仗(ぎじょう)を主な任務とした旧 陸軍の師団。 全国から選抜された優秀な兵士で編成さ れ、司令部は皇居北の丸にあった。 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 135 50 銚子の連隊ではひたすら穴掘り ─ ─ そ の 後、 横 須 賀 か ら ど ち ら か へ 移 動 さ れ、 えんがんぼう び どのような訓練を受けていたのですか。 須賀に半年くらいいて、それから沿岸防備 た横 い 隊 として千葉県の銚子へ配属されました。 銚 子 で は ほ と ん ど 訓 練 は や り ま せ ん で し た。 砲台を作るための穴掘りばかりです。毎日、地 元の人を呼んで一緒に穴掘りをやりました。若 い男女がたくさん来て手伝ってくれました。大 砲といっても、もう明治式のものしかありませ ん。でも、米軍が太平洋からくるのを防備する ために、それを岩の間に据え付けました。 ──すべて手作業なのですか。 といっても、魚屋さんが そうです。穴を掘てる んびんぼう 持っているような天秤棒の両端にモッコ(ワラ で編んだ、土などを運ぶもの)を下げ、シャベ ルで土を掘って運ぶんです。さらに、靴がない は から裸足で作業を行いました。靴は米軍が攻め てきたら履 くように言われていました。 ──銚子では空襲などはありませんでしたか。 銚子も、昭和 年の7月 日にB の攻撃を 受けたんです。東京みたいな空襲ではありませ 19 29 あ 機 銃 掃 射 に 遭 っ た こ と も あ り ま す。 そ の と きは軍隊が利用していた小学校にいたのです き じゅう そ う し ゃ ンとすごい音が聞こえてきました。 私たちが就寝していたら、銚子までドカンドカ の2、3日前には水戸へ艦砲射撃がありました。 かんぽうしゃげき んでしたが、ところどころ燃やされました。そ 20 八九式十五糎加農砲(南城市教育委員会文化課提供) 136 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 とか助かりました。 もう逃げるので精一杯で、壁に張り付いてなん す ぐ そ ば で 薬 莢 が 落 ち る 音 ま で 聞 こ え ま し た。 できました。米軍の操縦士の顔が見えましたし、 が、校舎を出たときに本当に低いところを飛ん きました。若い連中は「本土 銚子の軍隊でさ聞 わ 決戦だ!」と騒いでいたらしいです。もし本土 でしょうか。 ──8月 日の玉音放送はどちらで聞かれたの おいしかったですね。 肉を砂糖としょうゆで煮てある牛缶がいちばん た。コウリャンというのは満州で食べられてい なってきて、コウリャン飯になってしまいまし 終戦が近くなってからだんだん食糧事情が悪く い ま す。 私 た ち 陸 軍 も 最 初 の 頃 は 麦 飯 で し た。 しようもないと思いました。私たちは兵隊だか 無条件降伏」と聞こえたから、これはもうどう うとう負けたのかと。そうしたら、 「全面的に ですね。そのうち「降伏」と聞こえたから、と 玉音放送を聞いたとき、最初は内容が分かり ませんでした。負けたという感じがしなかった 決戦があったら、私も命があったかどうか分か ぎょく お ん ほ う そ う ──軍隊での食生活について教えてください。 りません。 や っ きょう 銚子には海軍と陸軍がいましたが、食べ物は 大きく違いました。海軍のほうが給与もいいし、 た真っ赤な小さな穀物です。食えたものではあ ら捕虜になるのかもしれない。私には親もきょ こうふく りません。終戦の年は大干ばつで作物が採れな うだいもいるから、自分がどうなるのか、その ま ん しゅう かったから、余計に食糧がなかったんですね。 ことが心配でした。 はお酒です。ご飯を炊く飯盒の蓋に入れて飲む ました。米軍は「鬼畜米兵」なんて言われてい 穴を掘って軍事機密になっている重要書類な どを燃やしました。軍隊手帳などもみんな焼き ふた んです。まんじゅうなども1日おきに出ました。 ましたから、何をされるか分からないと思って はんごう たばこも出ましたね。私は吸わないから、まん いたんです。 た じゅうと交換していました。 らなかったと思うのですが、軍隊ではそういう いましたが、彼はシベリアへ連れて行かれて死 い おう ものも出たのですね。 島で死んだり、サイパンで死んだりいろいろで とう んでしまいました。聞いている限りでは、硫黄 体験記 軍隊 ある程度は出ました。終戦が近くなると出な くなりましたけれど。缶詰もありましたね。牛 10 き ちくべいへい ──一般市民だとお酒や甘い物はあまり手に入 ──それから復員されるまで、どうされたので ほ りょ ──軍隊でお酒を飲む機会はありましたか。 すか。 ふくいん ありましたよ。1週間に3〜4回はお酒が出 ましたね。ビールは 〜 人に1、2本しかな 麦飯が食べられて、甘い物も多かったと聞いて 15 そうして、9月 日頃に復員しました。軍隊 は紙一重です。同級生で一緒に出征した友人が いから回ってきません。私たちに回ってくるの 30 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 137 20 す。私はただ運がよくて、今こうしてここにい りにも闇市がありましたね。 でもありました。神保町から九段下に向かう通 。千葉の田舎で たばこも需要が高かったふでとす う たばこを頼まれ、芝浦の埠頭まで調達に行くこ じゅよう られるのだと思います。 やみ ともありました。芝浦は焼け野原だったのです が、夜行くと米兵がいるんです。 そこへ行き、「ギ 闇商売で家族の命をつなぐ ──終戦後の生活についてお聞かせください。 てくる。田舎に持って行くと、飛ぶように売れ ブ・ミー・シガレット」と言って5〜 本買っ 終戦後、九段下に帰ってきたら焼け野原でし た。 5 月 日 の 空 襲 で 自 宅 も 焼 け て い ま し た。 したから、しばらくは銚子で生活しました。そ 父親の実家が銚子にあり、両親が疎開していま のではないでしょうか。 ──闇商売は、警察の取り締まりも厳しかった ました。 そ かい の後、東京に戻って来ましたが、とにかく食糧 ぼ っ しゅう し 難で大変でした。千葉で農家に食料をもらった 価 統 制 令 が 敷 か れ て い ま し た か ら、 け い物 ざいけいさつ 経済警察というのがいました。千葉で米などを とうせいれい り、買ってきたり売ったり。あの頃は誰もが闇 調達して汽車に乗るでしょう。そうしたら駅に か で売ったり買ったりしていました。米をはじめ、 警察が張っていて没収されてしまうんです。千 ぶっ 味 噌、しょうゆ、油、砂糖などみんな配給です 葉からの汽車は両国駅に着きます。千葉でやら そ から、とにかく闇で売っている物を食べないと れなくても、両国駅で没収されることもありま 本もらえました。植木の脇などによく空き瓶が ル瓶の空き瓶を3本持って行けば、ビールが1 出して売っていますから、そこへ卸します。ビー 今のターミナル駅のような大きな駅には必ず 闇市がありました。闇市では露店のような店を しながら、闇商売をやっていたのですね。 ゆも統制に入っているんですね。当時は、本物 千葉はしょうゆの産地でもありますから、汽 車で運んできてしょうゆも売りました。しょう ものか分からないでしょう。 豆をまいたこともありました。そうすると誰の ろん、罰金も取られるから、車内の通路に米や こでみんな没収されてしまいます。荷物はもち 「網棚に乗っている荷物は誰のものだ」と。そ 刺さっているでしょう。あれを持って行きまし のしょうゆの容器がありませんでした。その代 ばっきん たよ。当時はたしか、卵が1個5円か6円だっ わりに1斗樽にしょうゆを入れて代用しょうゆ びん たかな。餅も2枚で5円くらいでした。サンマ という名目で販売したのです。そうしたら、本 30 もち が高くて、1尾 円しました。闇市に行けば何 ──ご両親の疎開先だった銚子と東京を行き来 み 生きていけませんでした。私も闇商売をやって した。経済警察は汽車の中に入ってくるんです。 10 いました。 25 闇市 国の統制に外れ、非合法な取り引きを行う店が集ま る市場。 終戦後、政府の統制物資が底をつき、配給制 度もおぼつかず物資が不足した。 そのような逼迫した 状況下、駅前や焼け跡、建物疎開による空き地を不法 占 拠し、 バラック建ての店 を 構えた 闇 市 が 開 かれてい た。 闇市があった神保町から九段下に向かう通り 138 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 が、しばらくしたら統制が廃止になりましたか ら罰金を徴収しにくるだろうと思っていました 張って行かれて書類を書かされました。あとか た め 警 察 に 捕 ま っ て し ま っ て。 警 視 庁 に 引 っ 物のしょうゆを代用しょうゆと偽 って販売した 喀血して、肺に空洞があいていました。昔は結 がないでしょう。 結核になってしまったんです。 実は、私はアメリカの世話になったことがあ るんです。兵隊でしごかれて、復員したら食糧 ありますか。 ──終戦後、他に何か記憶に残っていることは いつわ らよかったです。 核になったらサナトリウムなどに入り、あとは リカがよい薬を持ってきたんです。ストレプト けっかく ──そうまでしてでも食べ物を持って行かない 死ぬのを待つだけです。でも、そのときにアメ はい し といけない時代だったのですね。 マイシンという抗生物質です。あるところから かっけつ 何でも食べました。芋のツルや葉っぱまで食 べ ま し た。 も ち ろ ん、 お い し く は あ り ま せ ん。 手に入れることができ、 本打ってもらったら る の で す が、 す っ た 後 に カ ス が 残 る で し ょ う。 なものですり下ろして片栗粉用のでんぷんを取 九死に一生を得ましたが、こればっかりはアメ いましたから、医者もびっくりしていました。 すっかり治りました。結核は死の病と言われて ありましたらお願いします。 はっきりと言っておきます。 写真左から、吉岡さん、信太さん、松野さん、三輪田さん 大根おろしをするように、芋を裏ごし器みたい それをまんじゅうに入れて食べました。食えた リカのおかげだと思っています。 かたくり こ ものではなかったですが、闇市ではそれまで売 ──最後に、僕たち若い世代に伝えたいことが あれはおいしかったですね。 85 ひ さん ──きょうだいが多いと、食べ物を調達するの と れ ま し た。 ザ リ ガ ニ は た く さ ん 捕 れ ま し た が、 20 勝っても負けても悲惨です。 戦争は悲惨です。 戦 争 は 二 度 と や っ て は い け な い、 そ れ だ け は も大変だったのではないでしょうか。 私は終戦後、すぐに専修大学の経済学部に入 りました。もともとうちは酒屋ですが、すぐに ちょう た つ は商売できないですから。それで、学校に行き ながら千葉の田舎に通い、食糧を調 達してきょ う だ い た ち を 食 べ さ せ て い ま し た。 そ う し て、 昭和 (1947)年9月 日に大学を卒業し 体験記 軍隊 ことになり、 歳で閉めるまで働きました。 のうち、うちの商売が再開したのでお店を継ぐ ると聞いていたのですが、仕事が全然ない。そ ました。卒業すれば学校の先生か計理士になれ 25 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 139 22 インパール作戦に通信兵として従軍 ちゅうりゅう 昭和 (1940)年に召集。通信兵としてビルマ(現・ ミ ャ ン マ ー) の 村 に 駐 留 し て い た 間 は、 同 じ 仏 教 徒 で あ ぎ せい る 地 元 民 と 温 か な 交 流 も 持 っ た と い う 永 井 孝 之 さ ん( よ く りゅう ──永井さんは、ずっと外神田にお住まいなの ですか。 橋大学の前身)に通いました。 ちょう へ い ──軍 隊 に 入 っ た き っ か け は、 何 だ っ た の で しょう。 わずら を受けに行きました。私は学校で野球をやって 合格できるか危ぶんでいたのだけどね。軍医に こうしゅ いたとき球の当たり所が悪くて肋膜炎を患って ろくまくえん 私が生まれた頃は、神田山本町といいました。 ──ご実家は、長く続く印刷会社だそうですね。 いたので、 甲種(身体頑強で即入営できるもの) おこ 「ちょっとそこを走ってこい」と言われて広場 3代目が神田で印刷業を興したのが明治 ( 1 8 8 0) 年 で す か ら、 も う 1 3 5 年 に な り (1940)年3月に通信兵として中野に 通信全般に関わることですから、通信の方法 はもちろん、電信柱の立て方から電線の敷設ま ──訓練はどのようなものでしたか。 あった電信第1連隊に入隊しました。 和 ただあまり体は丈夫じゃないということで、昭 を走って見せたら、「まあ大丈夫だろう」 と (笑) 。 ──学校はどちらですか。 じ ん じょう 芳 林 尋 常 小 学 校、 今 の 昌 平 小 学 校 で す。 あ そこは江戸時代に加賀前田家の学問所だったん ですよ。そこから京橋商業(現・都立晴海総合 高等学校)を経て、神田の東京商業高等学校(一 15 かったですよ。 ますね。戦前は百科事典なども手がけて、忙し 13 私の家はもともと加賀藩の家臣だったそうで す が、 明 治 に な っ て 東 京 へ 出 て 来 た そ う で す。 当時は 歳になったら、徴兵検査を受けるの が当たり前でしたから。私も神田区役所へ検査 20 ビンタの受け方から教わる新兵の訓練 後の抑留生活など貴重なお話をうかがいました。 た イ ン パ ー ル 作 戦 へ 突 入。 苛 酷 な 戦 場 で の 経 験、 ま た 戦 か こく 歳)。しかしその後、所属する部隊は、多大な犠牲を出し 96 15 な が い たかゆき 永井 孝之 外神田 インタビュアー 安田律子(大学院 2 年生) 長嶋 泰(大学 1 年生) 伊藤 爽(高校 3 年生) 140 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 軍隊に入ると、初年兵はまずビンタの受け方 を教わるんです。向こうが殴ってくるとき、怖 ── 当時の思い出には、どんなことがありますか。 私たちが作った電柱が残っていますよ。 ものですよ(笑)。山中湖に向かう道路の脇には、 でを学びました。今も電線の曲げ方などうまい なっていますね。 ──昭和 (1942)年に1度、満期除隊に 宮(崇仁親王)殿下をお教えしたこともありま そのときに学んだことをもとに、陸軍士官学 校で士官候補生の教育にもあたりました。三笠 を含む暗号の解読などを専門に学びました。 たかひと いからつい逃げてしまうでしょう。しかし当た ──戦地に向かわれたのは。 日に独立有線第 仏像とお経がきっかけで村人と交流 軍隊はもう嫌だったから、 「結構です」と言っ す。 り所が悪いと鼓膜が破れてしまうから、うまい 昔は2年でしたが、私が入隊した頃には3年 に延びていました。除隊になるとき「このまま しょねんへい こと体をひねって力を逃がす方法を教わるわけ 残れば下士官になれるぞ」と誘われたけれど、 こ まく です。 て家に帰ってきました(笑) 。 こ さん へい 古参兵には悪いのがいてね、「自分も殴られ たから、殴らなきゃ損だ」みたいに考えて、 「態 度が悪い」っていうだけで殴ってくる。順番な んておかしな話でしょう。だから私は高年兵に した。「目を つぶれ、歯をくいしば れ」と言っ 昭和 (1943)年5月 なったとき、下に入ってきた人を殴りませんで て手は上げるけれど、顔のすぐ前で寸止めして 「 分 か っ た か 」 と だ け 言 っ た。 そ れ で た い て い のことは、通じるものです。 でしょうね。 上陸し、そこからは現地の人を雇った手漕ぎの 気温も 度近くある常夏の国ですから、ふまっ たく日本とは様子が違う。ニッパヤシで葺いた 船で川をさかのぼっていきました。 ── 訓練は全員、同じような内容なのでしょうか。 からもずいぶん役立ちました。 ──インドシナの印象は、どんなでしたか。 こ 日にプノンペン(現・カンボジアの首都)に うために広島の宇品港から出港しました。6月 う じな 連隊に召集され、 日にはビルマ戦線へ向か 10 理不尽なことはしなかったからね。そのとき の経験は、戦後に仕事で人を使うようになって ──永井さんは、きっと後輩たちにも慕われた 25 ──任地はどこだったのですか。 ぶんけん 小屋ばかりで、川にはワニがいましたよ。 40 はじめはラングーン(現・ミャンマーの都市 ヤ ン ゴ ン ) 近 く の 村 に、 私 た ち 通 信 兵 が 6 人 昭和 15 年、電信第1連隊に入隊した頃 (右は通校時代、左は一等兵時代)の永井さん 17 18 電柱を立てたりする建築兵と、主に通信を扱 う通信兵に分かれます。私はさらにその年の9 月 か ら、 相 模 原 の 陸 軍 通 信 学 校 へ 分 遣 さ れ て、 体験記 軍隊 部隊間でやり取りするモールス信号や極秘事項 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 141 92 20 ちゅう ざ い 駐 在 し ま し た。 そ こ で 電 線 の 補 修 な ど を 行 っ ていました。前線はその先にあり、通信が必要 な時は私たちのいる基地まで戻ってくるわけで す。 ──そこでは、どんな生活でしたか。 300人ほどの村なのですが、最初の頃はお ばあさんばかりで若い女性がまったくいなかっ た。後で聞いたら、日本兵が悪さをするかもし れないというので山に隠れていたそうです。そ れで夜になると、こっそり戻っていたと。 ──日本軍は怖がられていたんですね。 ただビルマ(ミャンマー)も、仏教国でしょ う。 私 は 家 か ら 御 守 り の 小 さ い 仏 像 と お 経 を 持って来て、自分の部屋へ置いて毎朝お経をあ げていたんですよ。それを、私の身の回りの世 話をしてくれていた村のおばあさんが見て、親 近 感 を 持 っ て く れ た ん で し ょ う ね。 そ れ か ら 徐々に気安くなってきたのか、少しずつ女の子 たちも村へ戻ってきました。 ──言葉はどうしたのですか。 向こうはビルマ語ですから、最初は身ぶり手 ぶりです。そのうち「これは米という意味だろ うな、仏像を拝むと言っているんだな」などと 推測して覚えていったんです。 ──食べ物はどうしていましたか。 米や味噌は持って行きましたし、野菜なども 補給された。その米と向こうの食べ物を交換し たりしました。暑い地方だから家が高床式なん だけど、床の下でニワトリをたくさん飼ってい 昭和 18 年 5 月に独立有線第 92 連隊に召集 142 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 日くらい煙でいぶして、それから焼いて食 たんだね。そしてゾウの肉は、現地のやり方だ 戦況が厳しくなかったから、そんなこともでき そ の 辺 り の 村 を た ば ね る 族 長 み た い な 人 が、 象牙を取りたいから鉄砲で撃ってくれと。まだ ──えっ、ゾウですか。 を食べたこともあります。 て、あれはごちそうでしたね。他には、野ゾウ が、向こうも大勢の トラやヒョウはいましめた っ た 人間がいれば怖いから滅多に出て来ない。危な ──ビルマの山中では野獣も多かったそうですが。 たんです。 通信兵はそれを直しながら電線を敷設していっ ギリス軍が電柱を立てていたのだけど、撤退す んと恐ろしい思いもしました。道路沿いにはイ た。道路はあっても断崖絶壁ですから、ずいぶ 約 カ月です。その後、前線へ向かう連絡所 だったアキャブへ赴任。そこからビルマ方面軍 げてしまった集落に運良く籾が残っていたら、 て、飢えをしのいだこともあります。住民が逃 インパール作戦 第二次世界大戦時、日 本軍によるインド進攻作戦の 名称。 主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍 事援助するルートの遮断を戦略目的とし、インド北東 部の都市インパール攻略を目指した。 昭和 年3月〜 7月初旬まで遂行されたが、補給線を軽視した無謀な 作 戦であったため、 多 数の犠 牲を出し歴 史 的な敗 北を 喫した。 19 だんがいぜっぺき うんです。しかし私たちには成分が強いんだか、 いのは少人数が出会い頭に襲われることで、が る前に自分たちで爆破していったから、私たち 腹痛を起こす仲間も多かったですよ。 ぶっとやられて引きずられて行けばもう助かり と ──他には、どんな思い出がありますか。 山中の行軍よりも厳しかったのは、草原へ出 てからの退却戦です。 「靖国街道」 (戦死者は靖 ません。 たくなって、ドラム缶を下から焚いて風呂を沸 国に祀られることから、戦死に直結する場所で た かしました。そのときも、村のおばあさんが珍 ある意)は何もさえぎるものがない草っぱらで 現地ではみんな水浴びで済ますから風呂とい うものがないんです。あるときどうしても入り しがって見に来たから、服を脱がして背中を流 すから、陸と空から砲撃されたら隠れるところ し 司令官河辺正三中将に率いられ、連合軍の反攻 それをついて米にして食べたり。川で魚を釣っ もみ 基地だったインパールへ向かいました。 たり、集落ではネズミも取って食べました。 体験記 軍隊 ──行軍は徒歩ですか? イギリス軍が輸送機から投下する食糧 (チャーチル給与)を、 決死の覚悟で拾いに行っ 餓死する方も多かったと聞きます。 が ──インパール作戦は、補給が断たれたために 身をふせて、やり過ごすしかないのです。 ともあった。それをわずかな草むらや岩の陰に まつ してやったら、「気持ちいい」と言ってましたよ。 がない。戦車が 台 台、一気に攻めて来るこ 軍に支給された石けんを使ってやったけど、石 けんで洗われたのも初めてだったでしょうね。 ネズミも食べて生き延びた 20 ──ネズミですか。 ── 村での暮らしは、どのくらい続いたのですか。 10 アラカン山脈はトラックで越えて行きまし 第2部 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 143 10 10 ── 病気で亡くなった人も多かったそうですね。 をむしって食べたものです。 ──ラングーンまでは、どうやって戻って来た ルマの竪琴』のような例は、私の周りでもたく 現地の人に混じって暮らせる人は、そうした ほうがよかったでしょう。映画にもなった『ビ うですね。 マラリアやデング熱は当たり前。しかし病気 になっても野戦病院など、はるかかなた。行く のですか。 集落の近くにいるネズミは米を食っているか ら、太ってうまかったですよ。丸焼きにして毛 のに3日も4日もかかるんです。 泰緬鉄道まで数百キロメートルを歩いて何と かたどりつき、そこからラングーンまで鉄道で しかなかった。 剣で切り取って、それを遺骨として持って帰る そのまま連合国の捕虜収容所となったゴム園に 園で終戦を迎えました。そこで武装解除をし、 戻ってきて、さらに南の方のモールメンのゴム たいめん さんありました。 たてごと 戦死にしても餓死や病死にしても、遺体を焼 いてもらえたら良いほう。多くは小指だけを短 ──永井さんは、よくご無事でしたね。 ──収容所の生活も、ご苦労が多かったのでは 翌年まで抑留されたのです。 上官にも「お前は悪運だけは強い」と言われ ました。自分でもそう思いますよ。 ないでしょうか。アーロン収容所など人種差別 いていましたか。 ──この作戦が負け戦だと、いつ頃から気がつ や電線を直して食糧の補給を受けてね。抑留の ど、じきに日本軍が反逆しないと分かってから 私の場合は、そうでもなかった。終戦から1 週間くらいはイギリス軍も警戒していたけれ 的な扱いをする例もあったと聞きます。 ずいぶん早くから、危ないとは思っていまし たよ。私たちは通信兵ですので、前線と切迫し 最後の頃には、イギリス軍とも仲良くなって一 ほ りょ たやり取りをしているのを漏れ聞いてしまいま 緒に野球をしたりしたものです。 捕虜収容所での思い出 すから。 ──収容所を出られたのは。 ないと思いますよ。 ことがない人でないと本当のところは理解でき それはね、しょうがないです。命令なんだか ら。その時の気持ちというのは、兵隊に行った な船に、元日本兵がぎっしり乗り込んでいまし そうです。3000人くらい乗れるような大き ました。ビルマから戻る第1号の交換船だった の6月に、モールメン 昭和 (1946く)ち年 くかん の港から連合国の駆逐艦か何かに乗って出発し は紳士的な待遇をしてくれたと思います。道路 ──それでも進軍を続けていたお気持ちは。 ──撤退中には、軍から離れる方も多かったそ 21 当時のミャンマーの紙幣 144 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 た。 みんな焚きつけにされてしまうんでしょう。本 トの塀さえ残っていないし、焼け残った木材も うれ ──出港した時は、嬉 しかったでしょうね。 が出ましたよ。 当に何1つ残っていない様子を見たときは、涙 乗ったはいいけれど、本当に日本に帰れるの かどうか不安でしたよ。台湾が見えてきて、やっ 隊 で し た か ら、 大 目 に み て く れ た ん で し ょ う。 らせてもらった。戦地からやっと帰ってきた兵 触っていいですか」って頼んで腕のところを触 白衣の看護師さんに「きれいですね。ちょっと て き れ い だ な あ と。 病 院 で 検 査 を 受 け た と き、 れいだけど色が黒いから、日本の人は肌が白く 日本の女性も久しぶりに見たから、きれいだ なあと思いましたね(笑)。ビルマの女性もき には、どんなことを覚えていますか? ──久しぶりの日本のお米だったでしょう。他 嬉しかったね。 大阪港から汽車に乗って名古屋に着くまで は、駅に停まるたびにおにぎりをもらったのが くれたら、家族ももっと早くに安心できたので り忘れていたらしくてね。彼がちゃんと伝えて 戻って来られた嬉しさから、その約束をすっか 私よりもずいぶん前に帰国していたのですが、 せ合おう」と約束していたのですよ。その男は と偶然に会い、 「お互いに無事で帰ったら知ら た。終戦前にプノンペンで知り合いの寺の息子 戦争中は軍事郵便で消息を知らせていました が、終戦後は収容所から連絡する方法がなかっ わってなかったのでしょうか。 ──永井さんが生きていることは、ご家族に伝 いました。 は分からない」と言われて、途方にくれてしま とほっとしたのを覚えています。 日本は敗戦国だからみんなガリガリに痩せてい しょうに。 「おやじさんはた 近くにいた人に聞いても、 まに帰ってくるけれど、今どこに住んでいるか ると思ったけれど、「意外と太ってますね」と や 言ったら、いやな顔をされたけど(笑)。 ──ご家族も、心配なさっていたでしょうね。 りましたよ。 あまりに頭に来たもんだから、帰国後に会い に来たときも「顔を見せるな」と追い返してや 焼け野原に1本残っていた銀杏の木 ──ご実家のあたりは、どんな様子でしたか。 「戦死の知らせも 後から聞いたところでは、 ないから生きているのかな」とは思っていたよ うですが。 いちょう 秋葉原の駅に着いたら、きれいさっぱり焼け て何もない。この辺りは木造家屋が多かったで 杉並の阿佐ヶ谷あたりに親戚がいると聞いて しんせき ──ご家族の消息は分かったのですか。 すから。私の家の辺りは、今もある銀杏の木が 体験記 軍隊 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 145 たった1本残っているだけでした。コンクリー 第2部 神田神社では、戦争中に神田区民が出征する時には、 武運長久を祈念して決起集会を開いていた いました。 てくれ、飯 盒でご飯を炊いて、食べさせてもら 「夜は危ないから、交番に泊まっていけ」と誘っ ら、 交 番 の お 巡 り さ ん が 話 を 聞 い て く れ て ね。 しかし見つからずに駅前でうろうろしていた い た の で、 う ろ お ぼ え で 訪 ね て 行 っ た ん で す。 だいてありがとうございました。 ──今回は、本当に貴重なお話を聞かせていた にあの時の気持ちは忘れません。 て、復興期はみんな人情がありました。いまだ 「勘定は?」 と聞くと 「あるとき払いでいいよ」 っ たら持って行けば」と言ってくれる人がいて。 はんごう ──良かったですね。 戦争の話は、これまであまり人にはしゃべっ てきませんでした。やはり実際に体験していな ふくいんへい い人には、本当のところは伝わらないと思って 末の妹が生まれていたことでした(笑)。 その後、何とか親の家を探して訪ねて行った のですが、いちばん驚いたのは、私が出征中に のうちに話せることは話しておこうと思いまし いい塩梅にまだ頭ははっきりしているから、今 もみんな死んじゃって。私も耳は遠いけれど、 復員兵と知ると、皆さん親切にしてくれたの です。 ──戦争が終わって、初めてお兄さんに会った た。 いたからです。しかしもう、靖国神社に行って わけですね。 した。 平和な時代に感謝して生きていってください。 こられたことに感謝しています。 皆さんもぜひ、 それでいいんです。今は平和なんだから、そ れを喜ぶべきです。私も日々、これまで生きて ──私たちには、想像もできないことばかりで あんばい 「 こ ん な 人 い た か な あ 」 っ て、 不 思 議 そ う な 顔して見ていたのを覚えていますよ。 人情が身に染みた戦後の復興期 ──帰国後すぐに、ご家族と印刷業を再開した のですか。 杉 並 の 家 を 売 っ た お 金 を 持 っ て 神 田 に 戻 り、 まずは父親と一緒に昔のお得意さんの所へあい さつにまわりました。すると「ご苦労さん、よ く帰ってきたな」「また仕事があったら頼むよ」 と皆さん喜んでくれました。 ──機械などは、どうしたのですか。 もとの商売仲間の方にほうぼう声をかける と、「焼け残 った機械があるから、 いるんだっ 写真左から、伊藤さん、永井さん、安田さん、長嶋さん 復員 軍の戦時編成を平時体制に戻し、召集された兵の軍 務を解くこと。 あるいは軍務を解かれて兵士が帰郷す ること。 終戦時、陸海軍の兵力は約800万人。 千島、 樺 太や内 戦のあった中 国 本 土からを除いて昭 和 年ま でにほとんどが復員した。 23 146 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 第2部 体験記 軍隊 父母とともに 古き自宅の前で 町内を一巡して出征へ 自宅下の防空壕前で、国民服姿で別れの挨拶 町内の人々とのお別れ 147 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 出征の日の記録 満期除隊後、3カ月で独立有線第 連隊に召集された永井さん。当時 の出征の日の様子を写真に収めてい ました。 92 予科練除隊で助かった命 よ か れん 代で憧れの予科練に入りました あこが 櫻 井 正 治 さ ん( 歳 ) は、 戦 後、 平 河 町 に 移 り 住 み、 社会人になってから実業団バスケットボールチームで活 続いています。 予科練に憧れて 歳で志願 かせいただければと思います。 の前の小川には魚が泳いでいました。 ました。佃島というのは、江戸幕府をひらいた し た。 私は昭和 5(1930)年に生ま れつま くだ じ ま 5人きょうだいの末っ子です。最初は佃島にい ──櫻井さんが育った場所はどちらでしたか。 ません。それを今日は話そうと思います。 ──なぜ数字をおぼえるのですか。 とだめ。それができたんだね。 受けたら受かっちゃった。試験では6桁の数字 歳の時だから 年前ですね。 「7つボタン」 わかわし の歌(「若鷲の歌」 )に憧れて、海軍士官学校を ──そこに住んでいた時に予科練の試験を受け たのですね。 時に徳川家康と一緒に来た漁師が住んだ場所な なぜって、飛行機乗りは目がよくないとだめ だからです。パッと見て分からないと。 もっと凄まじかった。これはあまり話されてい んですが、うちも先祖は浜松の網元で、江戸時 ──予科練に入るのは、東大よりも難しかった そう 代に土地をもらって移り、佃島でも船を6艘く と聞いています。 わずら らい持つ網元をやっていました。けれども私が すさ 今よく話されているのは、沖縄や広島、長崎 の こ と が 多 い で し ょ う。 し か し 東 京 大 空 襲 は す。その頃はものすごく閑静なところでね。家 学院(現・愛国学園)の前に土地を借りたんで しょうがないということで、柴又街道の愛国女 が、 病 気 で 退 役 し、 亡 く な っ た 友 た ち を 思 う 日 々 は 今 も 躍 し た ス ポ ー ツ マ ン。 10 84 ──今日は櫻井さんの戦争当時のご体験をお聞 13 歳 の 時 に 父 が 肺 病 を 患 い ま し て、 佃 島 で は 10 72 そうですね。試験は数字と飛行機訓練です。 がパパーッと出て消える。それを覚えられない 13 さくらい まさはる 櫻井 正治 岩本町 インタビュアー 千野彩佳(高校 3 年生) 谷垣柚乃(高校 2 年生) 大須賀 龍(高校 1 年生) 148 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 野県)でやりました。 メートルくらい上がっ 訓練はまずグライダーからはじまる。霧ヶ峰(長 アメリカに打ち勝って国を守ろうと考えていま す。皆がひとつになって、 日本の国を助けよう、 ──予科練の7つボタンに憧れる若者は多かっ でも私は飛行機乗りになれなかった。終戦に なったから。飛んだのは私の先輩たちです。 引っ張ってもらって飛ぶ。 て、300メートル飛ぶんです。次は飛行機に ですが。 た。今の時代に振り返ると、おかしいことなん 作っていました。そういう生活を皆が送ってい 女学生たちも女子挺身隊として鉄砲の弾など がすべてだから。皆、 勝てると思っていました。 した。負けるとは思っていません。大本営発表 てい しんたい たのですか。皆そうでしたか。 それはもう、吹き込まれていたから。憲兵が いけませんね。最後の1人まで戦うと吹き込む けんぺい ──なぜ、勝つと思っていたのでしょう。 ういう憧れで受ける人があったけれど、陸軍の 人はいっぱいいました。東条さんなどは何度も 軍服姿が本当にかっこよかったんですよ。当 時はそういうふうに見えたんです。予科練はそ 少年航空兵の方は大変だったと思います。志願 やめようと提言していたようですが、軍隊のあ しょうしゅう する人もあれば召集される人もいたようです。 る一部が、最後の1兵まで戦うと言っていたん です。でも、それを押し通されたら日本人はい ありますよ。国に尽くす気持ちです。国、国、 国、その頃はなんでも国優先です。まずそれが つボタンへの憧れ以外にもありましたか。 ──櫻井さんが予科練を志願された理由は、7 一般人に戻ってからが本当に大変。浮浪児たち 良かったですよ。軍部ですからお米もちゃん と食べさせてもらいました。だからかえって、 どうでしたか。 ──予科練は寮生活だったそうですが、食事は なくなってしまいます。 あり、次が7つボタン。戦争に行こうという気 も見ていて本当にかわいそうだと思うのです 予科練爆撃で亡くなった友たち 持ちは、皆にありました。 が、自分たちが食べるものもないのでどうにも してやれません。どうにかこうにか生き延びた ふ ろう じ ──社会の空気がそうだったということでしょ うか。 ──予科練は途中で辞められたそうですが。 と、影が出たんですよ。それで、帰れと。1年 父からもらった肺病の菌が私のリンパ腺に 移っていたようで、1年たって学校で検査する 思いです。 学校でも言われていました。とにかくこの戦 争 に は 勝 た な け れ ば な ら な い。 そ れ 1 本 で す。 誰もが国のために生きていました。 ──それを今、振り返ってどう感じますか。 体験記 軍隊 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 149 いや、私たちはあれで良かったんだと思いま 第2部 陸軍省や参謀本部が置かれていた千代田区。国会前庭洋式公園には、陸 軍参謀本部陸地測量部が行った国土測量の基準点を定めた「日本水準原 点」が現存 10 その後、B で土浦が爆撃され、多くの友を亡 半で帰されちゃった。それで命が助かったのか。 れはすごかった。 蔵前のあたりは真っ赤でした。 西の方を見ると真っ赤に燃え上がっていて、そ んだほうが良かったのか。 けだが、はたしてそれが良かったのか。皆と死 て蔵前まで歩きました。その惨状はもう…。隅 うことで、一緒に京成電車に乗り、上野で降り 2週間ほどたって、隣の伊藤さんが、親族が そっちに住んでいるから安否を確かめたいとい くしました。私は小岩に戻っていて助かったわ ──除隊になった時はどんなお気持ちでしたか。 見えないくらい。伊藤さんの家族を探しました しいやら、皆が死んでしまったことが悲しいや 182人が亡くなりました。助かったことが嬉 ません。帰りは亀戸まで歩きました。すると亀 ている姿でした。それはもう、今も頭から離れ しまった妊婦さんのお腹から赤ちゃんが半分出 なか 田川一杯に死体が浮いているんです。川の面が さ ん じょう 泣きましたよ。泣いて泣いて一晩泣き明かし ました。身体が訓練に耐えきれないと言われて が見つかりません。その時に見たのは、焼けて ら…。それも運命かもしれません。こうして生 た 戸のガード下に人間の焦げ跡がいくつもこびり ついている。見るに堪えないものです。帰って からも1週間くらい死臭が取れませんでした。 つら そういうものだったんです。 東京大空襲とは、 皆、苦しんで苦しんで死んでいきました。一瞬 で亡くなるのも辛いことですが、苦しみながら 死んでいくのはもっと大変です。 戦後、 最も大変だったのは食糧難 ── 玉 音放送はどこで聞きましたか。その時、 ぎょく お ん ほ う そ う 、そこに うちは前が愛国女学院の校庭なのぼで うくうごう 逃 げ て い ま し た。 近 所 の 人 た ち は 防 空 壕 で す。 どう思われましたか。 皆、泣いていました。これから世界はどうなる くや 小岩の自宅で聞きました。泣きましたよ、本 当に。あれだけ空襲を受けたのだから、もうだ 家 は 無 事 で し た が、 そうです。 B が来てし、 ょういだん 小岩もそこらじゅうに焼夷弾が落ちていまし のか、それがまず頭に浮かびました。 終戦になっ めだなとは思っていましたが、 やっぱり悔しい。 た。 校 庭 に も 2 つ ば か り 落 ち ま し た。 そ の 時、 29 ──3月 日の大空襲も小岩でしたか。 るんです。 サイレンが鳴ると電気を消して、いっせいに入 ──空襲の時はどう対処していたのですか。 ンボカンと、今考えても身震いするくらい。 戻って間もなく、1週間くらいして東京の爆 撃でした。本当にすごかったですね。もうボカ ──除隊後、小岩に戻ってからの生活は。 大空襲後の街で見た悲惨な光景 きて、話を伝えることができるんですから。 うれ 帰されて。爆撃はその後すぐでした。予科練生 29 10 150 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 て、すべてが死んだような状態でした。よくこ は、そういう時代でした。 散っていったんです。われわれの時代というの たのですが。そんな状況が1年から2年くらい いていました。私は運良く1回も捕まらなかっ に捕まるんです。皆、食糧を取り上げられて泣 物を交換しました。途中では臨検に遭う。警察 なければなりません。うちは母が持っていた着 しかない。食べ物を得るために買い出しに行か というのか。手持ちの着物を食べ物と交換する 炒ったりしていました。ひどいものです。米 は1カ月に1回か2回だけ。何を食べたらいい ──どうやって食べるのですか。 たのは大豆の搾り滓。それが主食です。 歳で終戦になり、悲惨な状態がはじまりま した。まず、とにかく食糧難です。配給があっ ──終戦後はどんな暮らしでしたか。 本民族の特色からでしょう。 のです。 てはいけない。その信念を持ってほしいと思う 人たちに伝えていきたい。決して戦争を起こし 肉親には話してきませんでしたね。悲惨な話 はあまり言いたくないんです。でも、今は若い れましたか。 ──こうした戦争の話は、ご家族に話してこら ボールとは言いません。 籠球と呼んでいました。 手 と し て 入 社 し ま し た。 戦 争 中 は バ ス ケ ッ ト リカ兵と一緒に練習しましたよ。そこで日本鉱 バスケットコートを作ったので、私たちもアメ 出てい 佃島小学校時代から選手として大会に し ん ちゅう ぐ ん ま し た。 戦 後 は 越 中 島 の 都 立 三 商 に 進 駐 軍 が たそうですが。 ──小学校時代からバスケットボールをしてい が まん こまで復興したと思います。我慢強いという日 続きました。 長崎の原爆は大変なことです。 沖縄戦や広島、 東京の空襲も、なぜもっと伝えられていないの い かす 戦災孤児、浮浪児もたくさんいました。私は 青年でしたが、そのひどさを目の当たりにしま かと思います。あの悲惨な空襲を乗り越えて、 しぼ した。また、長姉の旦那さんは国民学校の校長 今日まで来たんです。戦争は決して起こしては 16 しい。そうすればわだかまりも起きません。戦 ろ う きゅう 業の実業団チームも練習していて、その縁で選 をしていましたが、たばこがやめられず、手に いけない。 人を互いに思いあう温かな心を持ち、 あ 入らないのでハスの葉を刻んで吸っていまし 1歩下がって相手の気持ちを見極めて生きてほ ち らん りんけん た。 争の話を通して、こういう時代があったという だん な 土浦の阿見大空襲で、友が皆死んだことを聞 かされたのも戦争が終わってからです。特攻隊 ことを若い人たちに知っていてもらいたいで み では2500人くらい亡くなっています。海軍 す。 あ は 土 浦 か ら 飛 び 立 ち、 陸 軍 は 知 覧 か ら で し た。 体験記 軍隊 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 151 尊い命が皆、 歳から、お国のためだと思って 第2部 写真左から、大須賀さん、谷垣さん、櫻井さん、千野さん 16 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 152
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