知多半島偉人図鑑

ち
た
はん
とう
知多半島
知多半
知多
知
多半島
多半
多
半島
半島
偉人図鑑
偉人
偉
人図鑑
人図
人
図鑑
図鑑
い
じん
ち
た
はん とう
ず
かん
はってん
知多半島の 発展を
ささ
い じん
だいしゅうごう
支えた 偉人たちが
大集合。
ち いき
みなさんの 地域の
い じん
偉人をさがしてみましょう。
ち
た
はん
とう
知多半島
偉人図鑑
い
い
じん
ず
じん
細井 平洲
かん
はっ
P2 へ
とうかいし
東海市
けん
鈴木 政吉
P3 へ
偉人発見
マップ
マップ
高橋 広治
P4 へ
おおぶし
蟹江 一太郎
大府市
P4 へ
久野 庄太郎
於大の方
P5 へ
P2 へ
ひがしうらちょう
東浦町
ちたし
知多市
ちた は ん とう
久松 潜一
知多半島には、
さんぎょう
ぶんか
ぶんや
阿久比町
P3 へ
産業や文化、教育など、
P5 へ
あぐいちょう
竹内 虎王
きょういく
岡戸 半蔵
かつやく
さまざまな分野で活躍した
P2 へ
いじん
偉人がたくさんいます。
ちいき
都築 良平
P6 へ
いじん
みなさんの地域の偉人をさがして
しょうがい
鯉江 方寿
しごと
森 信三
P3 へ
その生涯や仕事ぶりを
P5 へ
しら
はんだし
調べてみましょう。
半田市
新美 南吉
とこなめし
P6 へ
常滑市
伊奈 長三郎
榊原 孫太郎
P4 へ
P5 へ
たけとよちょう
武豊町
森田 萬右衛門
P3 へ
いじんずかん
みかた
■偉人図鑑の見方
なまえ
榊原 定征
せつめい
名前とひとこと説明
う
P6 へ
とし
みはまちょう
美浜町
生まれた年・
な
とし
亡くなった年
音吉
P2 へ
しちょうめい
しょくぎょう
市町名と 職業 など
いじん
にがおえ
偉人の似顔絵
梅原 猛
P6 へ
みなみちたちょう
南知多町
内田 佐七
P4 へ
せつめい
くわしい 説明
知多半島偉人図鑑に掲載する人物は、
知多5市5町の推薦に基づき、知多市町会において選考しました。
1
え ど ば く ふ
しょうぐんいえやす
え ど じ だ い
はは
おだい
めいくん
せんせい
江戸時代の名君の先生
江戸幕府をひらいた将軍家康の母
かた
ほそい
へいしゅう
於大の方
細井 平洲
1528 年∼1602 年
1728 年∼1801 年
ゆかりのある市町
知多郡東浦町、刈谷市、岡崎市、
知多郡阿久比町、新城市
ゆかりのある市町
東海市、山形県米沢市
生まれたところ
緒川城(現 知多郡東浦町大字緒川)
生まれたところ
平島村 ( 現 東海市荒尾町 )
せんごくじだい
ひがしうらちょう
みずのし
東浦町
東海市
徳川家康
の母
儒学者
儒
おがわじょう
えどじだい
たんじょう
ちたしこくはちじゅうはち
しょ
にほん
知多四国八十八か所をひらいた
おかど
じゅがくしゃ
じっせん
おも
おし
せいじ
江戸時代の儒学者で、実践を重んじた教えは、政治や
きょういく
おお
えいきょう
あた
とく
めいくん
教育 に大きな 影響 を与えました。特に、名君とたたえ
よねざわはんしゅ
うえすぎようざん はるのり こう
せんせい
られた米沢藩主の上杉鷹山(治憲) 公の先生として、また、
おわりはんこうめいりんどう
しょだいこうちょう
ゆうめい
とうかいし
尾張藩校明倫堂の 初代校長 としても 有名です。東海市
こうせき
つた
しせつ
きねんひ
には、その功績を伝える施設や記念碑などがあります。
戦国時代、東浦町 にあった水野氏の緒川城に 誕生 。
さい
おかざきじょうしゅまつだいらひろただ
けっこん
とくがわいえやす
う
14歳で 岡崎城主松平広忠 と結婚し、徳川家康を産み
みずのし
おだがた
さい
ます。しかし、水野氏 が 織田方についたため、3 歳の
いえやす
のこ
りえん
ご
あぐい
さかべじょう
家康を残して離縁されました。
阿久比の坂部城
その後、
しゅひさまつとしかつ
さいこん
いえやす
てんかとういつ
ささ
家康の天下統一を支えました。
主久松俊勝と再婚し、
さいしょ
しん
こくさいじん
日本で最初の真の国際人
はんぞう
おときち
岡戸 半蔵
音吉
1752 年∼1824 年
1817 年頃∼1867 年
ゆかりのある市町
知多郡阿久比町
ゆかりのある市町
知多郡美浜町
生まれたところ
福住村(現 知多郡阿久比町大字福住)
生まれたところ
小野浦村(現 知多郡美浜町大字小野浦)
こみみょうらくじ
りょうざんしょうにん
であ
阿久比町
美浜町
修行者
船乗り
ちたしこくれいじょう
せんごくぶね
古見妙楽寺の 亮山上人と出会い、知多四国霊場をひら
た
はたけ
う
しきん
ご
こうと田 や 畑 を売って資金をつくりました。その後、
しこく
たけ だ や すべ え
くわ
さんにん
てらでら
れいじょう
四国の武田安兵衛も加わり、三人で寺々へ 霊場 になっ
ねが
ぶんせい
ねん
はちじゅう
てくれるようお 願いにいきます。文政7年(1824)、八十
しょ
てら
き
こうぼうだいしぞう
かいげんくよう
はち
八か所のお寺を決め、弘法大師像の開眼供養をしました。
ふなの
あらし
あ
たいへいよう
げつ ひょうりゅうご
に
千石船の船乗りで 嵐 に遭い太平洋を14か月漂流後、日
ほんじん
はじ
べいこく えいこく
じょうりく
せかいはつ
せいしょ
本人で初めて米国、英国へ 上陸 、マカオで世界初の聖書
きょうりょく
にほんじんひょうりゅうみん
きこくえんじょ
ほか にち
わやく
和訳に協力しました。日本人漂流民の帰国援助の他、日
えいわしんじょうやく
つうやく
じんりょく
しゃんはい
英和親条約の通訳として 尽力し、上海 、シンガポールで
ぼうえきしょう
かつやく にほん
かいこく
かか
貿易商として活躍、日本の開国にも関わったとされます。
2
どかん
とこなめ
とうそ
うみ
土管をつくった常滑の「陶祖」
こいえ
た
か
あたら
のうぎょう
ちょうせん
海を田に変え、新 しい 農業に 挑戦
ほうじゅ
もりた
まんえもん
鯉江 方寿
森田 萬右衛門
1821 年∼1901 年
1852 年∼1934 年
ゆかりのある市町
常滑市
ゆかりのある市町
知多郡武豊町
生まれたところ
瀬木村 ( 現 常滑市瀬木)
生まれたところ
冨貴村(現 知多郡武豊町大字冨貴)
めいじじだい
しょき
き
かた
つか
おな
かたち
常滑市
武豊町
実業家
実
議員
どかん
たいりょう
そんかいぎいん
明治時代の初期、木の型を使って同じ 形 の土管を 大量
せいこう どかん
かた
かくりつ
とこなめやき
につくることに成功。土管のつくり方を確立し、常滑焼を
おお
はってん
あたら
た
かいはつ
あたら
大きく発展させました。また、新 しい田んぼの開発や 新
べんき
はつめい
とこなめびじゅつけんきゅうじょ
しい 便器を 発明し、
「 常滑美術研究所 」もつくりました。
まいとし
がつ
か
とうそさい
かいさい
毎年、11月3日に陶祖祭が 開催されています。
ぬの
お
しょっき
かいはつ
うみ
た
か
けいかく もりまんしんでん
にほん
たくさんの布が織れる織機を開発
たけうち
とき
村会議員の時に海を田に変えることを計画。森万新田と
よ
あたら
た
かいはつ
呼ばれる 新 しい田んぼを開発しました。また、それまでの
すぐ
たんざくがた
あたら
「べたまき」よりも優れた「短冊型なわしろ」という、新しい
のうぎょう
ほうほう
せっきょくてき
と
い
きそがわ
よう
農業 の方法を 積極的に取り入れました。木曽川からの用
ひつようせい
と
あいちようすいはつあん
ちち
い
すい
水の必要性を説き、愛知用水発案の父とも言われています。
さきが
日本のバイオリンづくりの先駆け
とらおう
すずき
まさきち
竹内 虎王
鈴木 政吉
1855 年∼1931 年
1859 年∼1944 年
ゆかりのある市町
知多市
ゆかりのある市町
大府市
生まれたところ
岡田村(現 知多市岡田)
生まれたところ
名古屋宮出町(現 名古屋市東区)
もめんせいぞうぎょう
て
ひんしつ
よ
ぬの
知多市
大府市
大
実業家
創業者
創
お
すずき
木綿製造業を手がけながら、品質の良い布がたくさん織
たけうちしきどうりょくしょっ
しょっき
けんきゅう
めいじ
ねん
れる織機の 研究 にうちこみ、明治31年に「竹内式動力織
たけうちもめんこうじょう
とっきょ
と
めいじ
ねん
き
機」の特許を取りました。明治34 年には、竹内木綿工場
のち
はってん
ちた
まるとおりふ こうじょう
をつくり、後 に丸登織布工場に 発展させます。知多 の
おかだ
ちたもめん
いちだいさんち
どだい
岡田が知多木綿の一大産地となる土台をきずきました。
せいぞう
そうぎょうしゃ
おわりはんし
ちょうなん
う
かぎょう
鈴木バイオリン製造の 創業者。尾張藩士の 長男として生まれ、家業
しゃみせん
てつだ
けんきゅう
の三味線づくりを手伝いながら、バイオリンの 研究 にうちこみ、
にほん
せいさくしゃ
さきが
たか
ひょうか
おおぶ
日本のバイオリン製作者の先駆けとして高く評価されました。大府
よこねまち
た
こうじょう
けんきゅう
きょてん
まさきち
の横根町に建てた 工場は、研究 にうちこむ拠点となりました。政吉
かいしゃ
いま な ご や
がつくった会社は今、名古屋でビオラやチェロなどもつくっています。
3
にほん
しょくぶんか
ひろ
ちたはんとう
日本にトマトの食文化を広めた
かにえ
のりあい
はし
知多半島に乗合バスを走らせた
いちたろう
うちだ
さしち
蟹江 一太郎
内田 佐七
1875 年∼1971 年
1878 年∼1969 年
ゆかりのある市町
東海市
ゆかりのある市町
知多郡南知多町
生まれたところ
名和村 ( 現 東海市名和町 )
生まれたところ
内海町(現 知多郡南知多町大字内海)
そうぎょうしゃ げんさい
とうかいしあらおまちしゅうへん
東海市
南知多町
創業者
創
創業者
しょくよう
たいしょう ねん
カゴメの 創業者。現在の東海市荒尾町周辺で 食用トマ
さいばい
と
く
ねん
はじ
トの栽培に取り組み、そのトマトから、1903 年に初めて
ご
トマトソースをつくります。その後、ケチャップやトマト
とうかいし
うえのこうじょう
こくない
ジュースなどもつくり、東海市の上野工場をはじめ国内
こうじょう
た
おう
よ
にたくさんの 工場を建てて、
「トマト王」と呼ばれました。
しいく
せかい
し
ちたのりあい
とこなめ
ニワトリの飼育で世界に知られる
たかはし
うつみじどうしゃごうしが いしゃ
こうけん
タイルづくりで常滑に貢献
ひろじ
いな
ちょうざぶろう
高橋 広治
伊奈 長三郎
1885 年∼1979 年
1890 年∼1980 年
ゆかりのある市町
大府市
ゆかりのある市町
常滑市
生まれたところ
静岡県磐田郡笠西村(現 静岡県袋井市)
生まれたところ
常滑町(現 常滑市奥条)
せかいてき
ようけい
しいく
だいいちにんしゃ
ぜんしん
大正 7年、内海自動車合資会社(知多乗合バスの前身)
うつみ
たけとよかん
のりあい
じぎょう
はじ
をつくり、内海∼武豊間で乗合バスの事業を始めます。
ちたぎんこうとうどり
ちたぐんかいぎちょう
しきしませい
とりしまりやく に
知多銀行頭取、知多郡会議長、敷島製パン 取締役 、日
ほんていしんかぶしきがいしゃしゃちょう
みなみちた
ちたはんとう
本逓信株式会社社長 などをつとめ、南知多や知多半島
かんこう さんぎょう こうつう
はってん
おお
やくわり
は
交通の発展に大きな役割を果たしました。
の観光、産業 、
大府市
常滑市
養鶏家
創業者
なごや
いな せいとう
世界的な養鶏(ニワトリの飼育)の第一人者。名古屋コーチンという
なまえ
ゆうめい
かいりょう
と
く
おおぶ
ようけい
かじたちょう
せん
名前で有名なニワトリの 改良に取り組み、大府の梶田町に養鶏の専
もんけんきゅうじょ
み
ほうほう
門研究所をつくりました。ニワトリがオスかメスかを見わける方法を
かいがい
ひろ
か
ほうほう
かんが
だ
せいふ
海外に広めたほか、カゴで飼う方法を 考 え出し、ブラジル政府から
ひょうしょう
きたやましょうがっこう ちか
せきひ
た
も 表彰されました。北山小学校の近くに、石碑が建てられています。
のち
いなっくす
いま
りくしる
そうぎょうしゃ
たいしょう
伊奈製陶( 後のINAX、今のLIXIL)の 創業者 。大正
じだい
た
ていこく
時代に建てられた帝国ホテルのタイルをつくるなど、
きんだい
とこなめようぎょう
はってん
かいはつ
ちから
近代の 常滑窯業 の発展と開発に 力 をつくしました。
おお
こうけん
とこなめ
ちょう
し
はってん
その大きな貢献によって、常滑は 町 から市へと発展
とこなめちょうちょう しょだいとこなめしちょう
かつやく
し、常滑町長 、初代常滑市長としても活躍しました。
4
よ
だま
ひろ
ちょうちょう
てんのうへいか
四つ玉そろばんを広めた 町長
さかきばら
こくご
せんせい
こくぶんがくしゃ
天皇陛下の国語の先生で国文学者
まごたろう
ひさまつ
せんいち
榊原 孫太郎
久松 潜一
1893 年∼1974 年
1894 年∼1976 年
ゆかりのある市町
知多郡武豊町
ゆかりのある市町
知多郡東浦町、東京都立川市、
東京都 飾区、名古屋市、半田市
生まれたところ
知多郡武豊町
生まれたところ
藤江村(現 知多郡東浦町大字藤江)
なご や
きょうし
ひろ
武豊町
東浦町
教育者
国文学者
国
どりょく
とうきょうていこくだいがく
名古屋で教師となり、そろばんを広めようと努力します。
よ
だま
べんり
ちゅうもく
もんぶしょう
はやくから四つ玉そろばんの便利さに 注目 し、文部省
いま
もんぶかがくしょう
いつ
だま
よ
だま
(今の文部科学省)に五つ玉そろばんから四つ玉そろば
へんこう
ていあん
ご
けんかいぎいん
んへ変更するよう提案しました。その後、県会議員をつと
たけとよちょう
がっぺいご
だいめちょうちょう
かつやく
め、武豊町では合併後の2 代目町長として活躍しました。
こくみんきょういく
ちから
とうきょうだいがく
きょうじゅ
あいちようすい
国民教育に 力 をつくした
もり
いま
東京帝国大学( 今 の 東京大学 )の 教授 をしたり、
とうじ
こうたいし
いま
てんのうへいか
こくご
おし
当時の皇太子(今の天皇陛下)に国語を教えたりしま
こくぶんがく
けんきゅういん
した。ヨーロッパやアメリカへも国文学の 研究員とし
い
まんようしゅう
けんきゅう
こくごじてん
へんしゅう
て行き、万葉集の 研究 、国語辞典の 編集 をしたほか、
ひがしうらちょう
ぜんこく
こうか
さくし
東浦町 や全国の校歌の作詞などもしています。
こうけん
愛知用水をつくるため貢献
のぶぞう
くの
しょうたろう
森 信三
久野 庄太郎
1896 年∼1992 年
1900 年∼1997 年
ゆかりのある市町
半田市・知多郡武豊町・兵庫県尼崎市
ゆかりのある市町
知多市
生まれたところ
知多郡武豊町
生まれたところ
知多町(現 知多市八幡)
こうべだいがく
せんせい
きょういく
かん
半田市
知多市
知
教育
哲学者
農家
農
ほん
か
だいかん
神戸大学などで先生をしながら、教育に関する本を書
ぜんこく
こうえん
こくみんきょういく
おこな
ひろ
全国で講演をしたりと、国民教育が 行 われ広
いたり、
ちから
ていあん
りつようきょういく
まるように 力 をつくしました。提案した
「 立腰教育 」
じぶん
かんが
こうどう
にんげん
そだ
きょういく
は、自分で 考 え 行動できる人間を育てる 教育 のお
てほん
こくみんきょういくしゃ
しふ
そんけい
手本とされ、
「国民教育者の師父」
と尊敬されています。
くる
ちたちいき
ようすい
けんせつ
大干ばつに苦しんでいた知多地域に用水を建設しようと、
もと
かくち
まわ
あいちようすいかいはつきせいかい
協力を求めて各地を回りました。
「愛知用水開発期成会」を
しきんあつ
じぶん
た
はたけ
う
つくり、資金集めのために自分の田や 畑を売ったとされま
まん
のうち
みず
おく
じょうすい こうぎょうようすい
す。3万ヘクタールの農地に水を送り、上水・ 工業用水 を
あいちようすい
けんせつ
まかなう愛知用水の建設のきっかけをつくりました。
きょうりょく
5
きょだい
ぼうせきがいしゃ
さくしゃ
巨大な紡績会社をきずいた
つづき
「ごんぎつね」の作者
りょうへい
にいみ
なんきち
都築 良平
新美 南吉
1908 年∼1982 年
1913 年∼1943 年
ゆかりのある市町
知多郡阿久比町
ゆかりのある市町
半田市、知多郡美浜町、安城市、
東京都中野区
生まれたところ
れたところ
阿久比村(現 知多郡阿久比町大
知多郡阿久比町大字植大)
生まれたところ
知多郡半田町(現 半田市)
しょうわ
ねん
かぎょう
つ
ふきょう
しゃかい
阿久比町
阿久
半田市
半
実業家
実業
児童
児
文
文学者
ふあんてい
ちゅうがくせい
昭和3 年に家業を継ぎますが、不況と社会が不安定にな
なか
とうさん
きき
ぎんこう
る 中で倒産の危機にたたされます。しかし、銀行からお
かね
か
ゆしゅつむ
しょっき
き
か
つづきぼうせき
金を借りて輸出向けの織機へと切り替え、都築紡績をき
つづきいくえいかい
こくりつだいがく
しん
ずきました。また、都築育英会をつくり、国立大学への進
がく
がくせい
しょうがくきん
おうえん
学をめざす学生を 奨学金 で応援しました。
どくじ
はっそう
にほんぶんか
けんきゅう
だい
独自の発想から日本文化を 研究
うめはら
そうさくかつどう
さい
中学生 のころから創作活動をはじめ、18歳で「ごんぎ
はっぴょう
びょうき
くる
さい
な
つね」を 発表します。病気に苦しみ 29歳で亡くなりま
どうわ
しょうせつ どうよう
すが、たくさんの童話、小説 、童謡をつくりました。ふ
はんだ
ぶたい
こころ
かよ
あ
うつく
い
かた
るさと半田を舞台に 心 の通い合いや 美 しい生き方
えが
さくひん
にほんじゅう
ひと
した
日本中の人に親しまれています。
などを描いた作品は、
にほんけいだんれんかいちょう
だい
第13 代日本経団連会長
たけし
さかきばら
さだゆき
梅原 猛
榊原 定征
1925 年∼
1943 年∼
ゆかりのある市町
知多郡南知多町
ゆかりのある市町
知多郡美浜町
生まれたところ
宮城県仙台市
生まれたところ
神奈川県横須賀市
にほん
だいひょう
てつがくしゃ
うめはらにほんがく
南知多町
美浜町
美
哲学者
実業家
実
かいたく
なご や だいがくだいがくい ん
日本を 代表 する哲学者。梅原日本学を開拓し、スーパー
かぶき
そうさく
はばひろ
かつどう
こくさいにほんぶん
歌舞伎の創作など、幅広く活動しています。国際日本文
そうせつ
ちから
しょだいしょちょう
かけんきゅう
化研究センターの創設に 力 をつくし、初代所長 になり
きょうとしりつげいじゅつだいがくがくちょう
だいがく
しょだい
ました。京都市立芸術大学学長、ものつくり大学の初代
にほん
かいちょう
しゅうにん
そうちょう
総長をつとめ、日本ペンクラブ 会長 にも 就任 しました。
で
あと
とう
たんそせんい
かいはつ
名古屋大学大学院を出た後、東レで炭素繊維を開発
ぎじゅつ
しんてん
けいざい
はってん
ちから
し、技術の進展と経済の発展に 力 をつくしました。そ
こうけん
にほん
せかい
みと
の貢献は日本だけでなく、世界でも認められています。
とう
しゃちょう かいちょう
へいせい
ねん
だい
だい
東レの 社長・ 会長 をつとめ、平成26 年には第13 代
にほんけいざいだんたいれんごうかいかいちょう
しゅうにん
日本経済団体連合会会長に 就任 しました。
6
ち
た
はん
とう
知多半島
知多
知多半
多半
多
半島
半島
偉人図鑑
偉人図
偉人
人図鑑
人
図鑑
図
鑑
い
じん
ず
かん
平成 28 年 2 月発行 発行 / 知多市町会