出会い - アーティスト×こども

TOYOTA Children meet Artists
トヨタ
子ども
と
アー ティスト
の
出会い
この12 年間の出会いは
何をもたらしたのか
?
もくじ
はじめに
「 ト ヨ タ・子 ど も と ア ー テ ィ ス ト の 出 会 い 」 概 要 と 軌 跡
「 ト ヨ タ・子 ど も と ア ー テ ィ ス ト の 出 会 い 」 全 国 活 動 一 覧
年間で生まれた「出会い」のかたち
北 海 道・札 幌 月 日 が 流 れ て も な お
糸井登
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116 98
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愛 知・名 古 屋 紡 い だ 言 葉 を 身 に ま と っ て
岡 山・笠 岡 日 常 の 波 紋 と な っ て
田北雅裕
コ ラ ム エ ピ ソ ー ド か ら 読 み 解 く ア ー ト の 力
コ ラ ム 子 ど も に な る 時 間
—
イ ン タ ビ ュ ー 生 存 の 技 法 と し て の ア ー ト 鷲 田 清 一
イ ン タ ビ ュ ー 来 た る べ き 時 代 の 要 請 に 応 え る た め に 平 田 オ リ ザ
インタビュー 「学校化された知」からの解放 佐伯胖
年間の「出会い」を振り返って 堤康彦
インタビュー 全国コーディネート団体一覧
「 ト ヨ タ・子 ど も と ア ー テ ィ ス ト の 出 会 い 」 開 催 記 録
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沖 縄・西 原 世 界 と つ な が る 、 よ ろ こ び
宮 城・南 三 陸 い ま こ こ に あ る も の に 寄 り 添 う
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はじめに
トヨタは、
「いい町・いい社会」の実現とその持続的な発展のため、社会の幅広い層と力
を合わせ、
持てる資源を有効に活用しながら、「環境」
「交通安全」
「人材育成」
「社会 文
・ 化」
の分野を中心に、社会貢献活動を展開しております。
「トヨタ 子どもとアーティストの出会い」は、トヨタと
法人 芸術家と子ども
プランニング、及び各地の
たち、一般社団法人
が連携して実施している、「人
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育んでいただくことを目的に、
年から
年までの
年間にわたり、ダンス、
環境の中に置かれています。そのようななか、多様な価値観を認め合う力や豊かな感性を
現在の子どもたちは、希薄な人間関係や脆弱化するコミュニティなど、混迷する社会
材育成」分野での次世代に向けた教育プログラムです。
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シ ョ ン 手 法 を 体 験 す る ワ ー ク シ ョ ッ プ を 開 催 し て き ま し た。 こ れ ま で に、 全 国
人 の 子 ど も た ち と 関 わ っ て き ま し た。 各 地 の
地域・
が学
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や先生方、地域の方々が、どのような想いでワー
トヨタ自動車株式会社 社会貢献推進部
会う活動が各地でさらに活性化することを心より願っております。
もに関わる方々にとって子どもとの関係を見直す一助となり、子どもとアーティストが出
最後になりますが、関係者の皆様に心より御礼を申し上げますと共に、本書が、子ど
たち、そして、子どもの笑顔に触発されて緩やかに変わっていく地域の姿でした。
たちの姿や、多彩な表現に出会い自らの個性や地域の魅力に気づいて目を輝かせる子ども
そこから見えてきたのは、様々な環境のなかで子どものために試行錯誤を続ける大人
化が訪れたのかについて考察しました。
クショップに取り組んだのか、そして、この経験を通じて、携わった方々にどのような変
ドを掘り下げています。各地の
本書では、各地の多様な活動のなかから、印象深い活動に焦点を当て、当時のエピソー
童館、地域ぐるみの取り組みへと、活動の幅が拡がっています。
課題に応じたオリジナルのワークショップを企画・実施し、学校のみならず院内学級や児
校とアーティストをつなぐコーディネーターとなり、子どもたちを取り巻く状況や地域の
校 /ヵ所で開催し、約
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音楽、現代美術など、様々なアーティストによる、言葉だけではない表現やコミュニケー
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などのコーディネーターを全国で
むこと」及び、「このような活動が広がるために、
アート
ークショップという主体的で試行錯誤を伴う体
発 掘・支 援 す る こ と 」 を 目 的 と し て い ま す。 ワ
験を通して、子どものみならず、関わる人それ
年よりトヨタ自動車(以下、トヨタ)
プランニング」ならびに各地の
ぞれにとって、気づきの機会になることを目指
法人 芸術家と子どもたち」「一般社
)が連携して展開した人材
しています。
コーディネーター
全国で活動するコーディネーター同士のゆる
やかなネットワークを構築します。
ンニング」ならびに各地実行委員会が連携して
プラ
プログラムを運営しています。
各地でワークショップを 年間実施すると
共に、当プログラムを広く地域に紹介するため
.活動内容
ものの見方や表現方法における答えはひとつ
ではないことを学び、自分や友だちの新しい面
ト ヨ タ と「 芸 術 家 と 子 ど も た ち 」「
連 携 し、 地 域 ご と に 実 行 委 員 会 を 結 成 し ま す。
地域に根差した独自の活動が展開されること
を目標に、志を同じくする全国各地のNPOと
2.実施体制
「トヨタ・子どもとアーティストの出会い」概要と軌跡
1.活動経緯
と「
団法人
実行委員会(
育 成 プ ロ グ ラ ム で す 。 学 校・児 童 館・病 院 な ど
〝 子 ど も が い る 場 〟 で、 課 題 や ニ ー ズ に 応 じ、
子ども
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や地域の魅力を発見する機会をつくります。
大人
「教え」「教えられる」立場を超えた、子ども
との関係を見直すきっかけをつくります。
アーティスト
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ア ー テ ィ ス ト に よ る ワ ー ク シ ョ ッ プ を 企 画・実
施しています。
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のシンポジウムを開催します。ワークショップ
社会的に活動する場を創出し、子どもたちの
存在に触れることで、アーティストの創造性を
ー が オ ー ダ ー メ イ ド で ワ ー ク シ ョ ッ プ を 企 画・
応じて、アーティストと先生、コーディネータ
で は、 各 地・各 校 が 抱 え る 悩 み や 個 別 ニ ー ズ に
刺激します。
Network
年までの
校 /ヵ 所 で ワ ー ク シ ョ ッ プ を 実 施 し、
人の子どもたちが参加しました。ま
学校でのアーティストによるワークショップ
が稀であった
年 当 初 に 比 べ、 近 年 は、
て地域に根付いている例もあります。
に渡ります。さらに、学校独自の取り組みとし
子どもの居場所づくり等、その取り組みは多岐
実施します。
目的
地域
年から
4.これまでの実績
約
12
年に開始された文部科学省「児童生徒
関係者、アーティスト、学生、地方自治体関係
表現体験」に代表されるように、各地の教育現
のコミュニケーション能力の育成に資する芸術
) ークショップが増えつつあります。また、この
年間で社会のニーズも高まり、被災地支援に
場で、アーティストと子どもによる双方向のワ
の設立、地元自
なぎ手となるコーディネーターの育成にも力を
注いで参りました。専門
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今後、全国で多様な取り組みの輪がさらに広
がることを願っています。
人々に寄り添い続けています。
おいても力を発揮し、様々なかたちで被災地の
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(公社
と連携した取り組みが 評価され、
企 業 メ セ ナ 協 議 会「 メ セ ナ ア ワ ー ド
.評価
た。
において「支援のこころ賞」を受賞いたしまし
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全国 団体の地域に応じた様々な活動を展開
している
とネットワークを構築。そのつ
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治体や企業との協働事業の開始、離島活性化や
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」
年の東日本大震災後は、被災地での
た、シンポジウムを通し、アート関係者、教育
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者等、幅広い方々に関わっていただきました。
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出会いを通じて多様な価値感と豊かな感性を育
小中学校、児童館など
子どものいる現場
トヨタ自動車販売店
教育機関
自治体など
AIS プランニング
アート・教育・子ども・
NPO など
Program
現地協力/後援
恊働/
マネジメントサポート
ワークショップ
シンポジウムの開催
現地実行委員会/
コーディネート
NPO 法人
芸術家と
子どもたち
現地主催者
恊働/アドバイス
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全体主催者
幅広いパートナーシップ
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トヨタ自動車株式会社
企業と NPO の連携を活かした
年 間 に、
「 次 代 を 担 う 子 ど も た ち が、 ア ー テ ィ ス ト と の
の活動の全国展開を開始しました。
教育に生かすという発想にトヨタが共感し、そ
子どもたち」が提唱する、アーティストの力を
社 会 的 課 題 が 顕 在 化 し て き ま し た。
「芸術家と
2000年頃から、いじめやひきこもりなど、
人間関係やコミュニケーション能力に起因する
経緯
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北海道
「トヨタ・子どもとアーティストの出会い」全 国 活 動 一 覧
■札幌市立清田小学校
全国 15 地域・87 校/ヵ所
約 8,000 人の子どもたちとの「出会い」がありました。
■札幌市立山の手南小学校
■札幌市立有明小学校
■札幌市立新陵東小学校
■札幌市立新光小学校
子どもたちを取り巻く状況や地域課題に応じて、学校のみならず、
児童館や院内学級など、子どもたちの生活の場へ活動が広がっています。
鳥取県
京都府
石川県
■鳥取市立逢坂小学校
■日南町立日南小学校
■鳥取県立鳥取緑風高等
学校
■鳥取敬愛高等学校
■宇治市立大久保小学校
■京都教育大学教育学部
附属桃山小学校
■京都市立石田小学校
■西陣児童館
■東山いきいき市民活動センター
■京都市三条学童保育所
■東山開睛館小学校・中学校
■金沢市立弥生児童館
■金沢市立千坂児童館
■金沢市立三和児童館
■金沢市杉の木ホーム
■小松市立東部児童センター
■金沢市立浅野町児童館
■苫小牧市立樽前小学校
沖縄県
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■さっぽろ天神山アートスタジオ
■札幌市立平岸高台小学校
■当別町サンサンフェスタ会場
宮城県
■大崎市立川渡小学校
■仙台市立市名坂小学校
■大和町立鶴巣小学校
■仙台市立東四郎丸小学校
■南三陸町立伊里前小学校
■南三陸町立入谷小学校
■南三陸町立志津川小学校
■南三陸町立戸倉小学校
■南三陸町立名足小学校
■宮城県立志津川高等学校
■南三陸町ポータルセンター
■大崎市岩手山地区公民館
■大槌町立赤浜小学校
■大槌町立安渡小学校
■大槌町立大槌小学校
■大槌町立大槌北小学校
■宮古市立鍬ヶ崎小学校
■宮古市民文化会館
福島県
■南相馬市立太田小学校
■福島県立大笹生養護学校
■福島県立石川養護学校
大阪府
■門真市立第二中学校
群馬県
■別府市立中部中学校
■佐伯市立上堅田小学校
■大分市立明野西小学校
■別府市立中央小学校
■別府市立南部児童館
■別府市内児童クラブ
■那覇市農連市場
■那覇市立真地小学校
■沖縄県立森川養護学校
■那覇市立若狭小学校
■琉球大学医学部附属病院院内学級
■苫小牧市立拓進小学校
■苫小牧市立豊川小学校
岩手県
岡山県
■瀬戸内市立牛窓西小学校
■赤磐市立桜が丘小学校
■笠岡市立真鍋小学校
■吉備中央町立下竹荘小学校
■苫田郡鏡野町立上齋原小学校
■笠岡市白石島公民館
■笠岡市北木島
大分県
■苫小牧市立美園小学校
愛媛県
■宇和島市立明倫小学校
■宇和島市袋町商店街
高知県
■高知市立新堀小学校
■高知市立追手前小学校
■四万十市立口屋内小学校
■高知県立高知江の口養護学校
■四万十市立西土佐小学校
愛知県
■前橋市立中川小学校
■前橋市立滝窪小学校金丸分校
■前橋市立中央小学校
■前橋市立城南小学校
■第 24 回とよた子ども造形
フェスティバル
■一宮市立神山小学校
■瀬戸市立掛川小学校
■瀬戸市立道泉小学校
■豊田市立東保見小学校
■名古屋市立新栄小学校
■都市機構九番団地集会所
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年間で生まれた
北海道・札幌
沖縄・西原
宮城・南三陸
子どもたちと関わるという
こ と は、 同 時 に そ の 背 景 に あ
る彼らを取り巻く環境と向き
合 わ ざ る を え ま せ ん。 学 校 や
地域が抱える多種多様な状況
の な か で、 子 ど も と ア ー テ ィ
ス ト と の 出 会 い に よ っ て、 何
を も た ら し た の か? コ ー
デ ィ ネ ー タ ー や 先 生、 保 護 者、
地域の方など様々な立場から
声 を 集 め、 そ れ ぞ れ が 感 じ た
ことを紡ぐ試みです。
全国 校/ヵ所の出会いの
な か か ら、 五 つ の エ ピ ソ ー ド
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87
岡山・笠岡
を紹介いたします。
愛知・名古屋
「出会い」のかたち
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月日が流れてもなお
北海道・札幌
札幌
22
北海道・札幌
[プロジェクト期間]
2008 年 2 月 4 日(月)〜 2 月 15 日(金)
St.Martin's College of Art and Design- BA sculpture Architectural
Association School of Architecture 修了後、DRMM(ロンドン)
勤務。帰国後、さまざまなジャンルのコーディネートや建築、デザイ
Studio」を運営。2007 ~ 11 年は、札幌市主催の雪を使った作品 「ス
ノースケープモエレ」をプロデュース。現在は、セレクトショップ
「Modest」の総合ディレクションや詩人・吉増剛造の大草稿「怪物君」
展のディレクションに関わるなど多彩な活動を展開している。
[コーディネ ー タ ー ]
漆崇博(うるし・たかひろ 一般社団法人 AIS プランニング 代表)
「学校とアートがつなぐ地域のきずな」をテーマに、アートを媒介と
したコミュニティづくりを北海道各地で活動を行っている。本プロ
26
%
、なか
に 留 ま り (* )
ン、アートイニシアティブの実施やアドバイザーを経て「Caballero
1
「さっぽろ
舞台となった新光小学校がある札幌は、冬の間は雪に包まれ、
雪まつり」には
万 人 の 観 光 客 が 訪 れ る こ と で 知 ら れ て い る。 し か
河田雅文(かわた・まさふみ 現代美術家)
し観光の華やかなイメージの一方で、雪に関する悩みも多い。まず、除雪
[参加アーテ ィ ス ト ]
作業は想像以上の苦労を伴う。大きな街の交通インフラを整えるべく除雪
全校生徒は 742 人。うち希望者が自由に参加
3
回以上外遊びをすると答えたのは
[参加者]
車が活躍しているが、生活に密着しているだけに苦情が絶えない。さらに、
するものの、町内の付き合いが残る地域。
子どもは元気に雪遊びなどという姿は今は昔の話。北海道内の子どものう
ラスを超える市内でも規模の大きい学校。大きい住宅地のなかに立地
ち、冬に週
札幌市北区の住宅街に位置する小学校で、全学年を合わせると 20 ク
には雪だるまやかまくらをつくれない子もいるという。
札幌市立新光小学校
そうしたなか行われたのが、「雪で富士山をつくる」プロジェクトだった。
[活動場所]
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ジェクト期間中は、毎日学校に通い、ブログで活動を記録した。
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i nscho ol .e xb l og .j p /6 7 6 0 2 7 6
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北海道・札幌
週間限定で転校生がやってきます。アーティストの河田雅文さんです」と突
不思議な転校生
「来週から
然全校集会に現れたのは、長髪に豊かなひげ、真っ赤なジャンパーを着た怪しい出で立ち
のお兄さん。子どもたちが知っている〝大人〟とは、何かが違う。「あえて派手だったり、
キャッチーな服を着ていくように意識しました」と、河田さんは当時を振り返っていたず
らっぽく笑う。派手な服作戦は大成功。自然と「キリスト」や「ひげのおじさん」といっ
たあだ名がついて、転校生はすぐに受け入れられた。休み時間に河田さんを訪ねて図工室
にくる子どもの人数も、日に日に増えていくことになる。
㎡
プロジェクトのゴールは、 週間かけて校庭で雪の富士山をつくること。約
の校庭と学校周辺の雪を集め、巨大な富士山をつくり、その麓に雪でつくった村が広がる
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」というタイトルだけがあり、当時を振り返る誰もが、「実は…」と前置き
計 画 だ。 最 初 は、 先 生 も 生 徒 も 半 信 半 疑 だ っ た。「 抱 腹 ☆ 絶 頂 ゔ ぉ る け ー の
2
時になると学校の図工室に通い、雪山を照らすための「あ
をして、何ができあがるのか、アートが何なのか、よくわかっていなかったと口々に言う。
そうしたなか、
河田さんは毎日
年当時、まだ前例が少なかったアーティストインスクール最初の関門は、受
け入れ先を探すこと。コーディネーターの漆崇博さんは、市内の小学校
校にこつ
かり」のオブジェづくりを黙々と行うのだった。
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)
。
「 子 ど も に と っ て い い も の な ら 躊 躇 は し ま せ ん。 民 主 的 な 職 場 で 一 度 も ブ レ ー キ
ジは何も湧かなかったけど、おもしろいことが起こる確信がありました」と新保元康教頭
ティストは転校生っていうキャッチフレーズにしびれてしまったんです。具体的なイメー
いう。しかし、新光小学校は、校長先生と教頭先生が「やってみましょう」と快諾。「アー
こつと電話をして「とにかく一度話を聞いてください」とお願いしては、断られ続けたと
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は、教頭だった。
雪センター、連合町会、保護者会などあらゆるステークホルダーへの根回しに奔走したの
現場の先生に伝える。それをやっただけですよ」と語る。〝だけ〟と言うが、区役所、除
ルマンのような存在を目指していたから、河田さんがやろうとしていることを翻訳して、
はかからなかったし、僕はアーティストと現場の先生や地域の人をつなぐようなマージナ
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北海道・札幌
徐々に縮まる距離
年生は「雪の村づくり」、 年生は「似顔絵描き」、
校長と教頭は前のめりでアーティストを受け入れてくれたが、現場の先生にはもちろん
戸惑いもあった。そんななか、河田さんが登校しはじめて数日経つと、アーティストを図
工の授業に巻き込む動きが出てきた。
3
年生は「心の富士山を描く」授業…というように、結局全学年の図工の時間の教壇に
1
河田さんは立つことになる。
全教科を等しく教えるための勉強をしてきた先生にとって、図工の時間、特に「現代美
術」
の単元をどう扱うかが、
大きな壁として立ちはだかる。「どう教えたらいいんですか?」
と相談にくることも少なくなかった。
「先生にはどう見えますか? いろんな解釈があって
いい。まずは、自分の解釈を提示して、子どもにとってどう映るのかを聞けばいいと思い
ますよ。先生の迷いそのものを提示するのも、自分で考えるきっかけになるはずです」と
アドバイスをすることもあったという。
授業にかり出されることによって、本来の目的である雪山制作に支障をきたすのではな
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北海道・札幌
いかという心配もあったが、結果的に現場の先生となって、とっつきづらかった河田さん
との対話が生まれ、距離が縮まった。河田さんが思い出すのは、最初はちょっと遠巻きに
プロジェクトを見ていた若手の先生。「ある日、一生懸命に火口の雪をかき出しながら、
手を振って叫んでくれたんです。
〝河田さーん、これ楽しいっすね〟って。あの満面の笑
みは忘れられません」
。
図工室の告白
「心の富士山を描こう」という 年生の図工の授業が思い出深い。
河田さんにとって、
生徒たちが描き始めると、普段は落ち着きのない、少し乱暴なところのある子が、すらす
らと筆を走らせ「噴火!」といって絵の中で噴火を描く。また一心不乱に富士山を描いて
噴火させる。完成させては何度も見せにやってくるため、河田さんは「いいね、いいね」
と褒める。するとさらに集中力を増して絵を描く。そのいきいきした姿は担任も見たこと
がなかったという。
「普段はちょっと浮いているような子が、それまで見せたことのない
面を見せてくれることがよくあるんですよ」と、多くの子どもとアーティストの出会いに
立ち合ってきた漆さんは言う。
昼休みや放課後などの長い休み時間には、我先にと図工室に子どもが集まってきて、あ
かりづくりに没頭した。藤の蔓やトレーシングペーパーなど、普段の図工の授業では使わ
ない素材や工具を扱うのが楽しくて仕方がない様子。木切れにやすりをかけて手触りを確
かめ、また削っては確かめて、どんどん木が小さくなっていく子。どこまで折れないもの
かと蔓をしならせ、組み合わせていく子…手が止まらなくなるのか、あかりとは関係のな
いさまざまなオブジェもどんどんできあがっていった。校庭も、雪のオブジェなどをつく
る子どもたちで溢れた。
黙々と手を動かしていたかと思えば、ぽつぽつと身の上話を始める子もいた。
「上級生の女の子は好きな子のタイプなどを話したり、男の子とはたいていくだらない話
〝父親いないんだよね〟などと突然
で盛り上がっていました。でも、何度か会ううちに、
家庭の事情をぽろっと口にする瞬間があるんです。放課後に図工室に来る子は、一人っ子
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北海道・札幌
だったり、家に帰ってもやることがないような子が多い。お互い目を合わせるわけでもな
く、手を動かしながら話す距離感がよかったのかもしれません」。河田さんはそんな時、
ただ相づちを打ったという。
嫌われ者の除雪センター
札幌市内には、行政区それぞれに数個ずつの除雪拠点があり、新光小学校の所在地の北
区だけでも六つの除雪センターを有する。そして冬の間フル稼働で交通インフラを整える。
シーズンで
件にもなる。「うちの前
しかし、大事な仕事にもかかわらず、各センターには市民から驚くほど多くの苦情が寄せ
られる。その数はひとつのセンターだけで、
識で不満が募り、住民と除雪センターの関係はぎすぎすしがちだ。また、別の問題として
弊してしまう。実際の作業員の顔が見えないなかで、「当たり前の行政サービス」という意
に雪を溜めるな」
「カーブが雪かきされていない」といった電話のクレーム対応だけで疲
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北海道・札幌
除雪した雪を積むと道沿いに
もの雪壁ができ、特に子どもにとって、どうしても危険
それらの問題の解決の一助として、当時校舎に隣接する新川除雪センター長だった森崎
番パトロールを行っていた。車で
真之さん (* )は、以前からセンターをあげて
な通学路になってしまうのだ。
2.5
m
ための申請をする。打診があってから
週間。それらの作業が、時間がないなかでどん
次に取りかかったのは、除雪機を校庭に入れるための手続きだ。校庭の地下の配管図を
もとに、水道管の上を通らない作業の段取りを考え、同時に市役所に重機を校庭に入れる
は優しいんです」
。
りゃあやるよ」という答えが返ってきた。「現場の人間は荒くれ者が多いけど、みんな根
業員の説得。恐る恐る頼んでみると、意外なほどあっさりと「子どもたちのためなら、そ
たときも断ることは考えず、どうやって実現するかで頭を悩ませた。まずやるべきは、作
そのため、「除雪車を動員して校庭に雪山をつくりたい」と漆さんと河田さんに打診され
増やすよう努力していたのだ。
の通学路のパトロールに加え、交差点に立って挨拶を行うなど、とりわけ子どもと接点を
1
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たのは、ダンプカー
台分の雪でできた、高さ
、横幅
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の 雪 山。 雪 は 校 庭 の も の
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m
に激減した。
3
ターの窓からは、校庭の様子がよく見えるんです。私たちが集めた雪山で子どもたちが遊
てきた様子を、森崎さんは窓からほほえみながら眺めたこともあったという。「除雪セン
と声をかけてくることもあった。お礼を言われた作業員が、面映さに堪え兼ねて逃げ帰っ
なりました」と森川さん。子どもたちも「あ、機械のおじさんだ! ありがとうございます」
「これまでクレームばかりだったのに、道で会うとお礼を言ってくれる人も現れるように
5
m
深夜、
昼休みに限られる。ただでさえ忙しい除雪の合間に、 週間作業を続けてできあがっ
どん進んでいき、準備は整った。とはいえ作業ができるのは、子どもが校庭にいない早朝、
1
だけでなく、学校の周辺からもかき集められた。
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3
ぶのを見るのが、そりゃあ嬉しくってね」。この年、除雪センターへの苦情は、例年の
分の
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北海道・札幌
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北海道・札幌
冬のプレゼント
プロジェクトの構想を話し合っている時、河田さんは雪山を噴火させたいという想いを
言いあぐねていた。すると、その想いを汲んだかのように、牧口秀徳校長が口火を切った。
「富士山なら噴火がなきゃ駄目だべぁ」。もう転校生の在籍期間も半ばだったが、その会議
と地域の人でつくる「心
で一気にイメージが膨らみ、冬の花火を子どもたちにプレゼントしようと盛り上がった。
花火を上げられるように、話をつけてくれたのは教頭。
本番当日の夕方
時、 保 護 者 と 子 ど も、 集 ま っ た 人 は 予 想 を 遥 か に 超 え、 ゆ う に
上ではなく、本番直前に決まった〝噴火〟だった。
あんなにたくさんの花火が打ち上がるとは思わなかったです」と河田さん。周到な準備の
豊かな新光の子を育てる会」が資金援助をしてくれたことも後押しした。「でも、まさか
P
T
A
個以上、アイスキャンドルなどに少しずつあかりが灯っていく。ろうそくの数
人以上。ずっとぐずついていた天気もなぜかこの時ばかりはすっと雲間が切れた。
雪灯篭は
は
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個。参加者それぞれが思い思いの場所に配置し、火を灯していった。富士山
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北海道・札幌
の周辺に人々の営みを象徴するあかり、村が少しずつ広がっていく。数百のろうそくのあ
かりに囲まれた富士山は、ますます存在感を増し、校庭にそびえ立っていた。
富士山では、和太鼓奏者の荒川寿彦さんがパフォーマンスを行った。同じくアーティス
トの祭太郎さんから発せられたのは、「いいかお前ら、 年後 年後、今日この時この瞬間
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分ほどで終了。そのあとは、大人も子どもも
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でいる校庭にいるとは思えない別世界だった。
ぼこの火口は、おどろおどろしい雰囲気。えぐられた火口から見上げる空は、いつも遊ん
大きな山に登って足場の悪い火口に入ると、校庭から眺めている時には分からなかった
活火山の景色が広がっていた。所々に噴火の残り火のように灯されたろうそくがあるでこ
ぞろぞろと火口を巡った。
ちこちで興奮した声がこぼれた。噴火は、
発 も の 花 火。
そ の 声 に 誘 わ れ る よ う に、 富 士 山 が 噴 火。 打 ち 上 げ ら れ た の は、
打ち上がるたびに歓声が上がり、
「うあぁ、綺麗!」「こんなに近くで見たの初めて」とあ
異形も手伝って、それまでざわざわしていた子どもたちも、しんとなって耳を傾ける。
を忘れるな! 思い出せ!」と地響きのような低い声。うさぎの被りもの、上半身裸姿の
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北海道・札幌
年の月日が流れて
校庭に雪山と雪あかり村をつくるプロジェクトは、河田さんが〝転校〟してからも、アー
ティスト不在ながら、学校行事として引き継がれることになった。
除雪センターの森崎さんは、翌年の様子について振り返る。「雪を集めて山をつくる。
そこまでは一緒だったけど、河田さんはいないから、自分で構想を練るしかない。いった
いどうやってアートにしようかとずいぶん悩みました。そうしたら、ある日テレビで演歌
色の照明が当たっているのを見てこれだ! と閃いたん
基借りて、それに色のついたセロファンを貼って、手づくり
歌手が歌うステージが映って、
です。リース屋で照明を
3
(
年 )中 学 年 生 に な り、
開 始 の 年 に 小 学 校 年 生 だ っ た 子 ど も た ち が、 現 在
その後の雪あかり村について教えてくれた。休み時間だけでなく総合学習の時間も使った
かったが、森崎さんは新しいアイデアを考え続けていたのだ。
で照明をつくりました。照らされた富士山は、綺麗でしたよ」。 誰に頼まれたわけでもな
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学校の窓からも富士山の噴火が見え、「ほかの小学校出身の子たちへの自慢」だと語る。「花
大掛かりな作品も増え、学校をあげての欠かせない行事になっているようだ。進学先の中
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火は冬に見るのが一番」と言う子もいる。
の教育プログラム「北海道雪プロジェクト」調
* 2:新保元康(しんぼ・もとやす)さん
プロジェクト当時、新光小学校教頭を勤める。
生活科が専門で、牧口秀徳校長先生とともに、
在は、札幌市立発寒西小学校校長。
プロジェクト当時、新川除雪センター長。14
の合併により退職した現在は、年間を通して建
開始から 年。いつからか、フィナーレの 発目の花火が上がると、周囲の民家の電
気がひとつ、またひとつと消えていく光景が恒例になっている。
* 1:新保教頭先生が実施していた、総合学習
yukipro.sap.hokkyodai.ac.jp
札幌市内でもやり手のコンビと名高かった。現
* 3:森崎真之(もりさき・まゆき)さん
年間、冬の間の除雪作業を行う。除雪センター
設業に従事している。
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べ。
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注釈
沖縄・西原
世界と
つながる、
よろこび
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沖縄・西原
[プロジェクト期間]
2006 年 10 月 4 日(水)〜 12 月 9 日(水)
[公開展示:2006 年 12 月 18 日(金)〜 22 日(火)]
照屋勇賢(てるや・ゆうけん 現代美術家)
1973 年沖縄県出身。ニューヨーク在住。アメリカを中心にドイツ、日
本など世界各地で個展を開催。国内外のグループ展やビエンナーレに
も参加し、高い評価を得ている。ファストフード店の紙袋などの日用品
を使い、その使用法を変えて意味をずらすことで、普段は見えない日
常生活の枠組みや問題を詩的に作品化するのが特徴。現代社会や故
郷である沖縄についてを主題として扱っている。
www.yukenteruyastudio.com
[コーディネ ー タ ー ]
宮城潤(みやぎ・じゅん 那覇市若狭公民館 館長)
2001 年、 那 覇 市 前 島 地 区 の ま ち づ く り と 沖 縄 の ア ー ト シ ー ン の
活性化を目的に活動を開始した「前島アートセンター」初代理事
モ ー ル ス 信 号 展 」 で は、 ア ー テ ィ ス ト が、 モ ー ル
[参加アーテ ィ ス ト ]
琉球大学医学部附属病院の院内学級には、長期にわたり入院を余儀なく
される子どもたちが通っている。白血病や悪性リンパ腫瘍などの重病を抱
12 名
え、死と隣り合わせで暮らしながらも、日々成長していく子どもたち。そ
[参加者]
んな彼らの人生に必要なものは何か。関わる大人の責任とは? 長年問い
学業が進められている。
続けた、小児科医や教育者たちがいた。
も幅広く、体調をみながら治療の合間に通うため、自習のような形で
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そ ん な な か、 一 つ の 試 み と し て 病 院 に 取 り 入 れ ら れ た の が ア ー ト だ。
悪性リンパ腫瘍などで長期入院する子どもたちが通う。生徒数の年齢
「
琉球大学医学部附属病院の小児科病棟にある院内訪問学級。白血病や
ス信号のように、遠くにいる子どもたちとビデオレターや作品を通じてコ
琉球大学医学部附属病院(小児科病棟)
ミュニケーションすることから関係が始まった。
[活動場所]
長。11 年に解散。現在は、指定管理者「NPO 法人 地域サポート
わかさ」の理事として那覇市若狭公民館の館長を務める。多様な
市民がイキイキ暮らせる地域を目指して活動している。
cs-wakasa.com/kouminkan
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沖縄・西原
〝世界的なアーティスト〟登場
そ の 日、 病 院 内 の 教 室 に は、 い つ も と 違 う 空 気 が 流 れ て い た。 好 奇 に 満 ち た 顔 の 子 ど
も た ち と、 そ れ を 見 守 る 大 人 た ち。 そ こ へ 現 れ た 小 柄 な 男 性 は、 緊 張 の た め か、 ど こ か
ぎこちない口調で話し始めた。「こんにちは、照屋勇賢といいます。芸術家という仕事を
ぼ く と つ
しています。今日はみんなと紙袋を使っておもしろいものをつくろうと思ってきました」。
〝世界的に有名なアーティスト〟としてみんなが思い
沖 縄 な ま り の 残 る 朴 訥 な 話 ぶ り に、
モ ー ル ス 信 号 展 」 は、
日間のワークショップと
日間の作品
ニ ュ ー ヨ ー ク を 拠 点 に 世 界 で 活 動 す る ア ー テ ィ ス ト、 照 屋 勇 賢 さ ん を 招 い て 行 わ れ た
描いていたイメージは吹き飛んだ。
「
病院ではアートを用いた数々の試みが行われていた。
展 か ら 成 る。 と こ ろ が 実 際 に は、 こ の ワ ー ク シ ョ ッ プ 実 施 に 至 る ま で の
2
年 ほ ど の 間、
こ こ 琉 球 大 学 附 属 病 院 小 児 科 病 棟 の 階 に は、 白 血 病 や 小 児 が ん な ど 重 病 を 抱 え る 子
ど も た ち が 入 院 し て い る。 フ ロ ア に は い く つ も の 病 室 が 並 び、 ク リ ー ン ル ー ム と い わ れ
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沖縄・西原
る無菌室も完備。自由に遊べるプレイルームと、入院している間、学校代わりに通う「院
内訪問学級」(以下、院内学級)の教室。これが子どもたちの生活の場すべてだ。
照屋さんをこのプロジェクトに推薦した、
琉球大学教育学部の准教授吉田悦治さん(* )
は、一日中ここで暮らす子どもたちを見て、「病棟そのものが、子どもたちにとっての〝ま
を持て余してもいた。
(*
)は、病院に通い始めた頃は戸惑
時の始業時間になっても、誰ひと
身 体 や 心 の 痛 み に 向 き 合 う 一 方 で、 子 ど も た ち は 毎 日 代 わ り 映 え の し な い 退 屈 な 時 間
ました」。
い。「きつい薬を服用している間は、だるくて本を読む気にもならないという子どももい
み ん な で 継 続 的 に 学 ぶ こ と は 難 し く、 ど う し て も 自 習 の よ う な 学 習 法 を 取 ら ざ る を 得 な
ら。もともと通っていた学校が違うので、持っている教科書も違う。繰り返される入退院。
が 増 え て 教 室 が い っ ぱ い に な っ て し ま う こ と も。 小 学 生 か ら 中 学 生 ま で と 年 齢 も ば ら ば
り 教 室 に 姿 を 見 せ な い こ と も あ る。 か と 思 え ば、 薬 の 投 与 期 間 が 終 わ る と 一 気 に 生 徒 数
んな来られるときだけそれぞれ教室に来るんです」。
で訪れる子、途中でリハビリに出ていく子もいる。「病気の治療や検査が優先なので、み
う こ と が 多 か っ た と 振 り 返 る。 教 室 に は 点 滴 の チ ュ ー ブ を ぶ ら さ げ て 来 る 子 や、 車 椅 子
この担当教師を務めたことのある狩俣恵子さん
照 屋 さ ん の ワ ー ク シ ョ ッ プ は、 院 内 学 級 の 生 徒 を 対 象 に 行 わ れ た。 長 期 間 治 療 を 受 け
る子どもだけが正式に編入手続きをして、この教室に通うことになる。
院内学級に通う子どもたちの日常
とても忙しい。子どもたちはむろん、治療や将来に対する不安を抱えています」。 いるまち。「介護しているご両親も疲れているし、医療に関わる先生や看護師さんたちは
ち 〟 の よ う に 感 じ ら れ た 」 と 話 す。 そ れ も、 関 わ る 人 た ち が 少 し ず つ 心 を す り 減 ら し て
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沖縄・西原
子どもの本分とは何か
そ ん な 子 ど も た ち の 日 常 を 少 し で も 明 る い も の に で き た ら と、 吉 田 さ ん は 毎 週、 学 生
を 連 れ て 小 児 科 病 棟 に 通 う よ う に な る。 学 生 た ち は、 プ レ イ ル ー ム で 子 ど も と 遊 び、 一
緒 に イ ベ ン ト を 企 画 す る な ど あ ら ゆ る こ と を 試 み た。 だ が 些 細 な ミ ス が 一 大 事 を 招 く 小
児科のこと。何かしようとするたびに病院の制約にぶつかった。
例 え ば あ る 時、 点 滴 を 嫌 が る 男 の 子 を 見 か け た 吉 田 さ ん は、 治 療 器 具 で 遊 ぶ こ と が で
きたら治療がもっと身近なものになるのではと、点滴容器に色水を入れ、病室中にチュー
ブを這わせて色水を走らせる遊びを行った。子どもたちは大喜び。「無菌室にいる子ども
にも見せてあげたい」。学生の希望でバルコニーにチューブを持ち出そうと検討するが、
窓を開ける時と、一度外に出た後に持ち込んでしまう菌のことが懸念された。
こ う し た 困 難 に ぶ つ か る 度 に、 吉 田 さ ん た ち の 活 動 を 後 押 し し て く れ た の が、 百 名 伸
「ベ
之先生 (* )を初めとする小児科の医師やスタッフたちだった。色水遊びの際には、
ラ ン ダ に 出 る 時 は 足 を ビ ニ ー ル で 覆 い、 な か に 戻 る 時 に 取 る な ど の 対 策 を す れ ば 大 丈 夫
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沖縄・西原
でしょう」と許可を出してくれた。
年 間 小 児 科 医 と し て、 多 く の 子 ど も た ち の 死 を 見 て き た 百 名 先 生 は、 限 ら れ た 命 を
子どもたちがどう生きたらいいのか、自らに問い続けてきたという。「大人と違って、若
く し て 亡 く な る 子 ど も に は 人 生 で 積 み 上 げ て き た も の も、 後 世 に 残 せ る も の も な い。 そ
ん な 彼 ら の 生 き る 目 的 は 何 な の だ ろ う と、 ず っ と 考 え て き ま し た。 そ ん な あ る と き、 死
ぬ ま で 学 び 続 け る し か な い の で は な い か と 思 っ た ん で す。 死 の 直 前 ま で い ろ ん な こ と を
学 ん で 成 長 し 続 け る の が 子 ど も の 本 分。 だ か ら 病 気 で あ っ て も 最 期 ま で、 多 く の こ と に
触 れ て 心 身 と も に 成 長 で き る 環 境 を つ く っ て あ げ る の が 大 人 の 責 任。 病 室 に い る か ら 何
もできないというのは本末転倒です」。
外の世界とのつながり
こ う し た 医 師 た ち の 思 い に 支 え ら れ、 ア ー ト の 力 を 用 い て 院 内 に 楽 し い こ と を 仕 掛 け
てきた吉田さんたちが、照屋さんを招いたのには、もうひとつ理由がある。
夏 祭 り で 打 ち 上 げ 花 火 を や ろ う と い う 話 に な っ た 時、 ひ と り の 男 の 子 が 自 ら「 花 火 の
ための募金箱」をつくり、病院内を周って資金集めを始めたことがあった。「高額ではあ
りませんが、病院に来ている業者さんなども寄付をしてくれて」。何とか実現に漕ぎ着け
た。 打 ち 上 げ た 花 火 を 多 く の 人 た ち が 喜 び「 花 火 見 た よ、 綺 麗 だ っ た!」 と い う 言 葉 が
届くなか、ある子が病室でこう呟いたという。「僕たちがしたことで、喜んでくれた人が
いて良かった」。
吉 田 さ ん は、 こ れ を 聞 い て は っ と し た。 病 院 に 慰 問 者 は 多 い が、 そ の 多 く は 患 者 を 楽
し ま せ る た め、 サ ー ビ ス を す る た め に 訪 れ る 人 た ち。 患 者 は 受 け 身 だ。 子 ど も た ち は 自
分の行動で社会とつながることを無意識に求めているので はない か。自 分のした こと が、
誰 か に 影 響 を 与 え る こ と、 そ の 喜 び。 そ う し て 人 と つ な が る こ と は、 人 間 の 根 源 的 な 欲
求でもある。「もっと広い世界とつながっていることを感じてほしい、見せてあげたいと
思いました」。
病 院 の な か で 暮 ら す 子 ど も と、 世 界 を 飛 び 回 る ア ー テ ィ ス ト と い う 組 み 合 わ せ は、 こ
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沖縄・西原
の 気 づ き か ら 生 ま れ た。 吉 田 さ ん か ら 病 院 で の ワ ー ク シ ョ ッ プ の 提 案 を 受 け た コ ー デ ィ
ネ ー タ ー の 宮 城 潤 さ ん は、
「 照 屋 さ ん の プ ロ グ ラ ム は、 そ れ ま で の 吉 田 さ ん た ち の 病 院 で
の活動があったから実現できたことです」と話す。
意 図 し た の は、 病 院 と い う 小 さ な 世 界 に 広 い 外 の 風 を 入 れ る こ と。 そ し て 病 院 に い て
ミリビデオ
も他者に影響を及ぼすことができると感じてもらうことだった。
病院に届いた
子 ど も た ち と の や り 取 り は、 ワ ー ク シ ョ ッ プ 開 催 の 約 ヵ 月 前 に 遡 る。 最 初 に 送 っ た
の は、 本 の ミ リ ビ デ オ だ っ た。 映 像 は 機 内 か ら 見 た 雪 山 の シ ー ン に 始 ま り、 自 宅 の
へ広がるかもしれない」と可能性を感じた。
当 時、 国 内 外 を 行 き 来 し て い た 照 屋 さ ん も「 外 国 へ 移 動 を 続 け る 僕 と、 病 棟 か ら 出 ら
れ な い 子 ど も た ち が つ な が る こ と で、 子 ど も た ち の 視 野 が、 病 院 の 外 だ け で な く 国 の 外
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8
教室に集まったのは3人の男の子と2人の女の子。作品づくりに入る前に、照屋さんは、
いよいよ迎えたワークショップの当日。照屋さん本人が病院にやってくるというので、
朝から子どもたちはそわそわしていた。
法律違反
子どもたちからも、ビーズでつくったアクセサリーや絵手紙など、何度か照屋さん宛に
返信が送られた。
さず子どもたちに届けようとする気持が伝わってきました」と振り返る。
スタッフの仲渡尚史さん (*4)は「とにかく勇賢さんが訪れた先で見たものを、漏ら
が入る。
さ れ る。 す べ て 照 屋 さ ん 自 ら 撮 影 し た も の で、 ぼ そ ぼ そ と 状 況 説 明 を す る ナ レ ー シ ョ ン
あ る ニ ュ ー ヨ ー ク の 雪 景 色、 オ ー ス ト ラ リ ア の 森 な ど、 海 外 で の 様 々 な シ ー ン が 映 し 出
8
!?
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沖縄・西原
こんな話をした。取り出したのは、ラミネート加工されたアメリカの1ドル札。切り込み
を入れて、立体的に立つようにした作品のひとつだ。「本当はこうして切ったり、ラミネー
トしたりするのはダメなことさね」
。
「じゃあ何でやったの?」「違法?」。前のめりに机に
身を乗り出す子どもたち。
「そう、違法でもやってる。なぜか。僕はこのお金のことを知
年以上も変わっていない。カットして、一つ一つ立ち上げていった
りたいと思ったの。アメリカではお金のデザインをよく変えるんだ。でもなぜかこの1ド
ル紙幣だけは
ら謎が解けるんじゃないかなって思ったの。もしかしたら警察に捕まるかもしれないけど、
僕はなぜそうしたかを説明できる」
。普段聞いたこともない話に、子どもたちは引き込ま
れるように耳を傾ける。
「何でもまずは自分の頭で考えてみることが大切。学校に行きた
くないなぁと思ったら、なぜ行きたくないのか、まず君たちも考えてみるといいよ」。笑
いが起こる。
いいアーティストは、いい先生にもなれる
Yuken Teruya, Green Economy, 2010
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Yuken Teruya, Notice-Forest, 1999
沖縄・西原
続いて照屋さんの代表作、ファストフードの紙袋の中に木が浮かび上がる作品『告知
森(
)
』が登場すると、照屋さんは、この作本の手法を用い
−
作品は、
羽の鳥が紙袋の側面からも立体的に立ち上がっている。「鳥の親子で、餌をあ
た。袋の中には大きな音符が下がっている。「太鼓にも見えるね」と照屋さん。次の子の
制作作業は、2日目に入っても続き、それぞれの作品が完成すると、いよいよ発表の時
間に。初めの子が「持ち運べる音楽室」とタイトルを述べると、お〜っとどよめきが起こっ
ちは慎重にナイフを使って切り込み作業を始める。
使い方については、スタッフから念入りに説明が行われた。大人が見守るなか、子どもた
フを使うが、ちょっとした切り傷が大事に至る可能性のある子どもたちもいる。ナイフの
くつもの袋を使ってまちをつくる」
「鳥をつくりたい」。袋に切り込みを入れるためにナイ
た作品づくりを提案した。めいめいが袋を選び、どんなものをつくるか考え始める。「い
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いた。その作品に上からライトを当てる照屋さん。「こうして見ると、部屋の中でも太陽
げているところ」
。病院の中にいても自然が見られるようにと、木の枝を切り抜いた子も
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沖縄・西原
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沖縄・西原
に当たっているようにも見えるさね」
。照屋さんは、一人一人の些細な言葉も受け流すこ
となく、丁寧に答えていく。
(* )は「いいアーティ
この時のことを振り返り、コーディネーターの平良亜弥さん
ストは、いい先生にもなれると感じた時間だった」と話す。「とにかく子どもたちとのや
その姿を当時
歳だった堀川真菜さんは、 歳になった今でもよく覚えているという。「本
り取りが対等でした」
。教師然とせず、一人の人間として子どもたちに接し対話すること。
5
この日のことは、無菌室にいてワークショップに参加できなかったある男の子にとって
も、忘れられない思い出となった。
「病院というシステムのなかでルールに従うばかりで
かけがえのない思い出 た」
。
のなかの台詞みたいな言葉を話す人でした。それまでに会ったことのない感じの大人だっ
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沖縄・西原
大学助教授を経験して現職に。子どもたちの生
と死を見つめるなかで、子どもと家族のトータ
ルケアを模索している。
子どもシェルターおきなわ理事、沖縄アミー
クス国際学園アフタースクールケアプログラ
ム・コーディネーター。1994 〜 2005 年まで全
国五つのチルドレンズミュージアム設立と運
営にかかわった後、前島アートセンターにて
「wanakio」「トヨタ こどもとアーティスト
の出会い in 沖縄」などのプロジェクトに参加。
現在は、沖縄における子ども支援ネットワーク
づくり、キャリア教育、社会教育等のプランニ
ングを行っている。
* 5:平良亜弥(たいら・あや)さん
アーティスト。当時、前島アートセンターの事
務局として所属しており、
「トヨタ こどもと
アーティストの出会い in 沖縄」実行委員とし
て現場コーディネーターを務めた。
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年。 大 人 も 子 ど も も、 参 加 し た メ
* 4:仲渡尚史(なかと・なおふみ)さん
は、患者の身体や心は受け身になる一方ではないか」と感じていた照屋さん。「植物が太
国ベイラー医科大学へ留学した後、沖縄へ戻り、
陽を目指して伸びるように、彼らが手を伸ばそうとすることを手助けできないかと思いま
琉球大学医学部小児科に入局。2001 〜 02 年米
した」
。
療教授/センター長。北海道大学医学部卒業後、
その男の子とはワークショップが始まる前に、お母さんを介して絵手紙の交換を試みた。
琉球大学医学部附属病院骨髄移植センター、診
」プロジェクトから
* 3:百名伸之(ひゃくな・のぶゆき)さん
無菌室の外で照屋さんから○△□を描いた画用紙をお母さんに渡すと、戻ってきた絵には、
校に勤める。
記号に手足や顔が描かれ、元気そうな顔がニコニコ笑っていた。照屋さんは、その絵にさ
を担当した。現在は、沖縄県立美咲特別支援学
らに洋服と背景を描き入れた。そんなやり取りが続いた後、照屋さんは許可を取ってバル
けて、琉球大学医学部附属病院の院内訪問学級
コニーへ出る。色水遊びの時と同じように、本来出ては行けない通路。突然窓の外に現れ
沖縄県立森川養護学校教諭。2004 〜 06 年にか
た珍入者を、その男の子は、パジャマ姿で窓に張り付いて迎えた。二人はスケッチブック
* 2:狩俣恵子(かりまた・けいこ)さん
を使ってガラス窓越しに言葉を交わした。「朝は体調が優れなかったのに、この日照屋さ
う。
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んに会ってからどんどん元気になって」とお母さん。
病棟にて学生とともにアートプロジェクトを行
この時間は、忘れられないできごととして少年の心に残る。後日体調が悪化したとき、
お母さんはメールで照屋さんに励ましのメッセージを求めたという。
2004 年より琉球大学医学部附属病院の小児科
こ の「
琉球大学教育学部准教授。美術教育が専門。
* 1:吉田悦治(よしだ・えつじ)さん
ンバーの心のうちには、それぞれのかたちで当時の思い出が宿っている。
注釈
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いまここに
あるものに
寄り添う
宮城・南三陸
Photo: Masashi Asada
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宮城・南三陸
[プロジェクト期間]
2012 年 1 月 16 日(月)~ 3 月 11 日(日)
[活動場所]
南三陸町立名足小学校、入谷小学校、伊里前小学校、戸倉小学校、志
[参加者]
南三陸町立名足小学校 17 名(3、4 年生)、入谷小学校 32 名(3、4 年生)、
伊里前小学校 21 名(4 年生)、戸倉小学校 14 名(4 年生)、志津川小学校
51 名(4 年生)
[参加アーティスト]
オスカー・ピーターソン 賞 受 賞。「 定
禅 寺 ストリートジャズ・フェス ティバ
ル 」の創 始 者の一 人であり、 主 催 す
る公 益 社 団 法 人 の 代 表 理 事を務 める。
みやぎ新時代教育ビジョン策定委員、
仙 台 市 教 育 委 員などを歴 任。 宮 城 教
育大学で非常勤講師を務める。
1969 年神奈川県平塚市生まれ。ボー
カリストとしての 活 動 はもちろん、 在
仙アーティストのプロデュースや、 演
劇・ドラマ・CM 等の音楽制作、ボイス
トレーナー、ラジオパーソナリティ等
も 行 う。Airy Opus Records 代 表。
一般社団法人日本ゴスペル 音楽協会
認定指導員。
thevoiceoflove.syncl.jp
[コーディネーター]
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人に
www.mars.dti.ne.jp/~gow/mits
猪 狩 太 志 (いがり・たいし シンガーソン
グライター/音楽プロデューサー)
1
人、 行 方 不 明 者 は
榊原光裕(さかきばら・みつひろ 音楽家)
1957 年 仙 台 市 生まれ。 東 北 大 学 工
学部出身。バークリー音楽大学卒業。
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年 月 日、宮城県南三陸町は東日本大震災で大きな被害を被っ
つの小学校すべてが参加した。
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m
以 上 の 津 波 に よ っ て、 死 者
在も仮設住宅で暮らす人も多い。当プロジェクトには、町内にある五
た。
業が盛ん。東日本大震災で甚大な被害を受け、町外へ移転した人、現
ものぼり(* )
、おびただしい数の家屋が流された。
部の沿岸に位置し、リアス式海岸の特徴的な地形を持ち、養殖業、漁
震災前から南三陸町と関わりのあったコーディネーターの吉川由美さん
は、震災後約 日でまちに駆けつけた。以来、人々と関わるなかで、変わ
南三陸町は、2005 年に志津川町と歌津町が合併して誕生。宮城県北
りゆく状況に応じてプロジェクトを起こしている。
津川小学校
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吉川由美(よしかわ・ゆみ アート・イニシアティヴ エンヴィジ 代表)
イベントのプロデュースや演出、文化施設の運営に携わるほか、各地
で多様なアート・プロジェクトを展開。2010 年より、南三陸にて、ま
ちの人たちの宝物や思い出などを切り紙で表し軒先に飾る「みんなの
きりこプロジェクト」を実施している。(有)ダ・ハ プランニングワー
ク 代表取締役も務める。
www.envisi.org
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宮城・南三陸
向き合うということ
「なんだかみんな南三陸のファンになっちゃうのよね。震災後すぐの大変な時でも、どこ
年から南三陸で
から来たんだ? この海産物持っていげ、泊まっていげってみんな言うの。どこの誰かと
いうことは置いておいて、受け入れちゃうのが南三陸の風土」。
年
月
日のこと。凄ま
きりこプロジェクトを行っていた吉川由美さんも、南三陸町の人に魅せられている一人だ。
仙台在住の彼女が、震災後初めてまちに訪れたのは、
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そんな状況を見て、自分に向き合う時間が必要だと感じ、 月に海に向き合って追悼
をする集会を企画しました。そこでみんな初めて海を見つめて、やっと涙を流したという
できず、私も含め、みんな震災ハイのような状態だったんです。
精一杯で、誰も自分と向き合う時間なんてちっとも持てていない。現実が悲惨すぎて直視
しなくちゃいけないし、芸能人や有名人がたくさん来て、興奮状態だった。日々のことに
「現実は、家もない、お金もない、仕事もない。けれども、毎日何百人分もの炊き出しを
べきことが立ち上がってくる。
の心を忘れない姿に面食らった。そして現地に通ううちに、徐々に吉川さんにとってやる
じい被害を目の当たりにして愕然としたなか、すべてを失った南三陸の人たちがもてなし
3
た。
う。そこで旧知の音楽家、榊原光裕さんと猪狩大志さんにプロジェクトへの協力を打診し
せてがんばる町民の姿を見ながら、やはりプロジェクトをやる必要があると確信したと言
夏になり、秋になり、冬になろうとしても変わらない被災地の風景のなかで、力を合わ
生きていることを肯定する必要が大人にも子どもにもあると思ったんです」。
向き合う作業は、無理強いしちゃいけないし、たったひとりでよりは〝みんなで〟がい
い。瓦礫のなかを歩いて通学している子どもたちの姿を見て、現実を受け止めつつ、いま
中学生のなかには、海に向き合えていない子もいたかもしれないなと思います。
人もいたんです。その式には、中学生たちも参加しました。いま記録映像を見てみると、
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宮城・南三陸
懸念されたことは何か
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町内には五つの小学校がある。それぞれの小学校の 、 年生が、音楽家の榊原さん
と猪狩さんと共に、子どもたち自身の目で見てきたこの 年を、作詞作曲をするワーク
3
る 」 の が 目 的。 で き た 曲 は、 震 災
周 年 の 追 悼 式 で 披 露 さ れ る。 各 学 校 へ の 打 診 は、
ショップを企画した。吉川さん曰く「がんばった自分自身やまわりの人との関係を確かめ
1
年も終わり間近だったが、学校側はそれぞれ戸惑いを見せた。当時の戸倉小学
1
校の校長、
麻生川敦さん(* )は「いま子どもたちに何かをするのは、おっかない」と思っ
特に、海のすぐそばに校舎があり、全壊した戸倉小の児童は、当時、隣の市にある善王
束し、開催は決まった。
たと言う。しかし、目的はわかる。一人一人の状態をよく見つめながら実施することを約
2
月
日に学校は再開したが、カウンセラーが常駐し、放課後は
が
寺小学校で学んでいた。この頃の子どもたちには、元気さと不安定さが共存していたと言
う。震災後、
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の連携を図り、それぞれの様子について月
回は話し合いをするなど、子
1
の方々から聞いたときに、私や先生たちはまったく信じられなかった。
ん か 死 ん だ 方 が い い 〟 っ て 言 う 子 も い た。 そ う い う 状 況 が あ っ た ん で す。 そ の こ と を
ど、放課後の遊びの場面になるとボランティアの人たちを蹴ったり暴言を吐いたり、〝私な
なくちゃいけないと思っているから、マスコミのインタビューにはきちんと答える。だけ
麻生川校長は、当時のことをこう振り返る。「夏休み前、子どもたちはものすごくいい
子だったんです。先生の言うことは聞くし、自分たちは全国の人たちに感謝しながら生き
どもの様子を把握することに神経を尖らしていた。
学校と
子どもと遊ぶボランティアに入るなど、通常の学校の状況とはまるで異なるものだった。
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そこで、
放課後になると様子が変わってしまうことについて、お医者さんにも来てもらっ
て勉強会を開きました。そうしたら、子どもたちは、苦しかったり辛かったりする気持ち
を分かってもらいたいんだけど、先生たちには元気でがんばっているところを見せたい。
の若いお姉さんたちにぶつけて、甘えてるんじゃ
いつもだったら親にぶつける気持ちも、親御さんたちも手一杯なことを知っているから、
ぶつけられない。その気持ちを
ないか、ということが分かってきました。そこで、これは発散させた方がいいだろうとい
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宮城・南三陸
うことになりました。
の方々には、
〝 き っ と 少 し し た ら 落 ち 着 く か ら、 申 し 訳 な い
分、高台に行くのに5分。それで
時前には高台に着いて安心したので、子どもた
3
年間戸倉小学校にいて、何度も高台に逃げれたけれど、何ごともなく空振りだっ
日前にも高台に逃げていましたからね。だんだん、
〝今
たという経験もしていました。
階 は 水 浸 し か な 〟 と 興 味 本 位 に 考 え 出 し て い た と き に、
日も大丈夫かな、来るとしても
分くらいかな、津波が来たんです。
保育所の子たちから逃げて、最後に 、 年生が逃げていた時に、それまでいた高台に
波が迫って、女の子たちは悲鳴を上げて神社の階段を登っていました。子ども 人、地域
社に逃げることにしたんですが、みるみるうちに海がぼわーっと持ち上がってきました。
務主任の先生が、〝校長先生ここ大丈夫だべか〟と叫んだんです。それで、もう一段高い神
その波が国道を超えたあたりからも、わーっとさらに高く盛り上がってきた。その時に教
すごい音で壊れていく。その後、市街地の子どもたちの家もどんどん壊れて流れてきて、
想像していた津波とはだいぶ様子が違っていました。沿岸部の工場がバリバリバリともの
ていたら、ちゃぱちゃぱと普通の波が来て、それがわーっと増えて急に高くなるんです。
私は埼玉出身なので津波を見たことがなくて、でっかいまま波がぐわーっと来ると思っ
時
2
れまで
ちを座らせました。海を見ると晴れているし、とても津波が来るように見えなかった。そ
に
すぐ津波が来そうな気がして、みんなではぁはぁ言いながら逃げました。学校から出るの
「地震が来たときは、校庭の土が波打つくらいの揺れで、とても
麻生川校長は続ける。
子どもが歩ける状態じゃなかった。停電して、防災無線も切れてしまったから、とにかく
戸倉小の生徒が経験したこと
ましたから」
。
のか、と。それまでにも震災についてアンケートをとるとパニックになってしまう子もい
その頃にこのプロジェクトの打診があったので、私たちはすごく怖くて。子どもたちは
津波も、遺体も見ているんです。そんななか記憶が浮かび上がってくることをやっていい
けど我慢して〟ってお願いして。そしたらほんとうに秋になったら落ち着いてきたんです。
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宮城・南三陸
Photo: Seiichi Sutou
Photo: Seiichi Sutou
Photo: Seiichi Sutou
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宮城・南三陸
の大人も含めて
人 く ら い が 小 さ な 神 社 に 逃 げ ま し た。 高 台 に あ っ た ア パ ー ト と、
万人死亡なんて言っているのが聞こえてくる。野宿したその晩は、子どもた
時間かけて志津川中学校へ歩いていきましたが、
に会えた時〟って言ったんです。そうしたら、それまですごくしーんとしていたんだけど、
すが、 すごく長い沈黙があったんです。しばらく待っていると、 男の子がやっと 〝家族
「最初に、
〝震災後、小さな幸せを感じたのはどんな時だったのかな?〟と問いかけたんで
た」と語る。事前に名簿をもらって、顔と名前を覚えて挑んだ。
ということを意識して、少ない時間だけど、一人一人の様子に気を配るようにしていまし
災後の小さな幸せをテーマに曲づくりをすることに決めた。「一番傷ついている子は誰か
ワークショップは、吉川さんがファシリテーターを務め、榊原さんと猪狩さんが音楽づ
くりを担当し、五つの小学校を分担して実施した。戸倉小学校は、榊原さんが担当し、震
音楽がつくられていく
そこから救われたい気持ちもある」
。
ちがあるんです。自分だけ生きちゃったという罪悪感が分かんないべって想いもあるし、
持ちがある。その分かんないべって気持ちのなかには、自分が悪いことをしたような気持
いまから思えば、こんな目にあった気持ちは、誰にも分からないだろうって想いがある
んです。だけど、根底には分かってほしい気持ちがあって、やっぱりこうして話したい気
です。 校庭にはご遺体がたくさんありました。子どもたちはそういう景色を見てしまっているん
ちは相当怖かったと思います。次の日は
三陸では
です。夜中になってもものすごい余震で、その度に暗い気持ちになってね。ラジオでは南
クションが聞こえてきました。まるで流されていった人たちに呼ばれたような気がするん
神社は島のようになってしまって、神社の周囲の生木がバリバリと瓦礫にぶつかって倒
れていく。第一波はひいても、波が何度も何度も来る。そして、夜には水のなかからクラ
車で暖をとっていた人たちはみんな流されました。
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水道が出た時、電気がついた時…って次から次へと言葉が出て来たんです。お宮で一晩を
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宮城・南三陸
秒ぐらいだったと思うけど、あまりにも緊張して、
過ごして、いつもと違う景色のなかを歩いて、避難して、そこでやっと家族に会うわけで
す。沈黙してた時間は、ほんとうは
」
。
分くらいに感じました (吉川さん)
10
秒以内に順番に並びかえ!」などと呼びかけて、子どもたちが並ぶこ
メロディをつくる作業には演劇のワークショップなどで行う手法がとられた。ドレミ…
と音の書かれたカードを身につけた子どもたちに、
「今日何時に起きましたか? 早かった
人、遅かった人、
コ ー ラ ス 目 の 歌 詞 が で き あ が ら ず、 残 り の 歌 詞 は 休 み 時 間 に
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デアちょうだい〟ってざっくばらんな感じでつくりました。歌詞にある〝わたりどり〟は、
担任と児童でつくり上げた。
「ピアノに向かい、周りに子どもたちを呼んで、
〝なんかアイ
しかし、時間内には、
行く様子に立ち合って、子どもたちは終始小さな歓声を上げた。
前に榊原さんが座り、子どもたちが周りに集まり、調べを換え、和音にし…と曲になって
」。ピアノの
ンダムに弾いたり、区切ったりしながらうまくはめていくんです (榊原さん)
ていったという。
「つくる方は、頭をフル回転させて、自分の知識にある様々な和音をラ
とで、音階をつくった。それを作曲家が、うーんとうなりながらリズムをつけて旋律にし
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宮城・南三陸
そのとき間借りしていた善王寺小学校の近くで出会ったもの。南三陸町では見られない渡
り鳥が見えて、子どもたちとよく話題にしてたんです。せっかくいまここにいるんだから
歌詞に入れようと話したのを覚えています。最後の歌詞は、ワークショップの時に参加で
きなかったかいやくんのもの。お母さんを通して、電話でアイデアを出してもらって、こ
れ以上ないフレーズを寄せてくれました」と当時の担任、泉山唯先生は語る。かいやくん
の幸せは「明日を生きること」
。クラス全員、納得の言葉で歌は締めくくられた。
年
組
「小さいけれど大きなしあわせ」
作詞作曲 戸倉小学校
かき氷 たこやき
牛どん ソフトクリーム
フライドチキン やきいも
ラーメン カレー
たきだしが来たとき
学校が始まったとき しあわせ
ランドセルをもらったとき しあわせ
しあわせ
のびのびはいった
自衛隊のおふろに
ごはんを食べた
友だちとひなんして
家族に会えたとき しあわせ
電気がついたとき しあわせ
水道が出たとき しあわせ
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宮城・南三陸
エグザイル エーケービー
ジュディ・オング
きよはら
サンドイッチマン コロッケ
サンプラザ エソラビト
いろんな人に会えた しあわせ
二重とび 三重とび
わたりどり とんだよ
鉄棒 マット運動
季節も 回ったよ
みんなでがんばったこと しあわせ
しあわせ
明日を生きること
子どもたちの歌声
「編曲するときはいかにシンプルな音にするかに気を配りました。子どもたちが自分たち
の曲だと思えて、歌いやすくて、気持ちが届けやすいものを目指して」と榊原さん。かく
年
月
日 の 南 三 陸 町 の 追 悼 式 に は、 町 内 外 か ら 約
人 が 参 列 し た。
してできあがった曲は、五つの学校それぞれの曲をリレーした一曲になった。
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もと、
階席で子どもたちが歌う。
「子どもたちには、笑顔で歌おうねとずっと語りかけ
榊原さんのピアノと市民オーケストラの伴奏がやわらかく鳴り響くなか、猪狩さん指揮の
3
」。
たちは何を思って歌っていたんでしょうね (猪狩さん)
てきて、背中になんともいえない雰囲気を感じました。僕も必死に涙をこらえて。子ども
ていました。演奏が始まって子どもたちが歌い始めると、客席から嗚咽や泣き声が聞こえ
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宮城・南三陸
参列者の最前列で歌を聴いた佐藤仁町長 *(
は) 、こう語る。「最初は、追悼式という
場で、音を出すことに違和感を持っていました。でも、復興の先を見据えるために何が必
要なのかと言えば、それは子どもの存在なんです。その子どもが声をあげることには、誰
も違和感を感じない。子どもたちが歌った景色も実際に知っているし、あの場にいた参列
者はほとんど泣いていましたよ。屈強な自衛隊も、もちろん自分も。子どもたちが、辛い
ことではなくて、未来のことを歌っていてほっとしました。〝我々生きているよ〟〝前を向
いていくよ〟というメッセージがあって救われたよね。これからも、きっとどこかで災害
は起こるわけだけど、子どもがいるから俺たち大人はがんばれる」。
教室では最後まで歌わなかった子どもも、この日は大きな口を開けて歌っていた。
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宮城・南三陸
と 思 い ま す 」。 震 災 か ら
年 目 を 境 に、 吉 川 由 美 さ ん は、 次 の 段 階 に 来 て い る と 感 じ 始
「 年 半 く ら い は ず っ と ア ド レ ナ リ ン が 出 て い る 感 じ で、 私 た ち み ん な 正 気 じ ゃ な か っ た
2
そこで
年 に 始 ま っ た の が、 写 真 家 の 浅 田 政 志 さ ん に よ る「 だ れ か の た め に が
たちで、人ありきの復興にエンジンをかけ直す必要があると感じました」。
い っ て る し、 被 災 地 の こ と も 忘 れ ら れ て い っ て る。 で も 復 興 は ま だ ま だ。 な ん と か 自 分
めていた。「時間が経ち、被災地の人はいい意味でも悪い意味でもいろんなことを忘れて
3
南三陸さんさん商店街
2012 年 2 月 25 日 ( 土 ) に、宮城県南三陸町の志津川地区にオープン
した仮設商店街。飲食店、物産品の店のほか、花屋、鮮魚店、文
房具屋、整体院、電気屋など、多様な地元の事業者 32 店が軒を連
ねる。地元の生活に欠かせない商店街であるとともに、大型駐車
場やフードコートを備え、観光の拠点にもなっている。南三陸ポー
タルセンターが隣接し、南三陸の情報発信の場でもある。
[参加者 ]
南三陸町の小学生 18 名
[参加アーティスト]
1979 年三重県生まれ。日本写真映像専門学校在学中より自身を含
めた家族が被写体となり、家族写真を撮り始める。その作品をお
さめた写真集「浅田家」
(赤々舎刊)が第 34 回木村伊兵衛写真賞を
受賞。日本各地の市井の人々を撮影するプロジェクトにて精力的
に活動をしている。東日本大震災後、泥まみれの写真を洗浄する
取り組みを取材するため被災地に通い「アルバムのチカラ」(赤々
舎刊)に収める。
www.asadamasashi.com
[コーディネーター]
吉川由美(よしかわ・ゆみ アート・イニシアティヴ エンヴィジ 代表)
年、 仮 設 の「 南 三 陸 さ ん さ ん 商
浅田政志(あさだ・まさし 写真家)
真 家 と し て で き る こ と を 模 索 し て い た ひ と り。
浅 田 さ ん は、 前 述 の 追 悼 式 の 記 録 写 真 を 撮 っ て い て、 そ の 後 も 各 地 の 被 災 地 に 通 い、 写
に が ん ば っ て き た 人 々 を 撮 っ て、 発 信 で き る タ イ ミ ン グ だ と 思 っ た と 吉 川 さ ん は 言 う。
ん ば る 南 三 陸 町 人 の 名 場 面 を 撮 ろ う!」 プ ロ ジ ェ ク ト。 い ま な ら ず っ と 笑 顔 を 絶 や さ ず
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[活動場所]
店街」にて、新たな出会いが企画された。
2013 年 12 月 27 日(金)〜 2014 年 6 月 21 日(土)
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[プロジェクト期間]
宮城・南三陸
写真の力
「南三陸の復興を願って、一生懸命がんばっている人を撮影すること」。子ど
テーマは、
もたちはデジカメを持って、漁港や商店街を駆け回って、働く大人にカメラを向けた。
「 楽 し ん で 撮 っ て く れ れ ば、 下 手 と か う ま い と か 関 係 な い ん で す。 写 真 は、 楽 し ん で い れ
ばミラクルショットも生まれる。だから〝作品〟も生まれやすい。撮った写真を見返して、
い い 写 真 を 選 ぶ 段 階 で〝 こ れ い い ね 〟 っ て 思 う 写 真 っ て、 大 人 も 子 ど も も 不 思 議 と み ん
な が 共 通 し て い る。 自 分 の 力 で 撮 っ た 写 真 が 作 品 に な る 喜 び が 味 わ え る の も、 写 真 の 魅
力です」と浅田さんは語る。
小学校 年生で最年長参加者だった宮川陽和ちゃんは、浅田さんも認める〝名場面フォ
トグラファー〟だ。「人と物を組み合わせて、人の表情も撮ると伝わる写真になるってマッ
サ (浅田さん)に言われてから、撮るのが楽しくなりました。撮る人とのやりとりも楽し
い し、 自 分 が 撮 っ た 写 真 が 思 い 通 り に 撮 れ て い る と 嬉 し い。 が ん ば っ て い る 人 を 撮 る と、
撮 ら れ た 人 も 自 分 も 元 気 に な る っ て マ ッ サ に 言 わ れ た け ど、 や っ て み て そ の 通 り だ と 思
いました」。 年 く ら い 経 っ て か ら。 時 間 が 必
みんなが撮った写真の中には、にっこり笑う町長の写真もある。「無防備な写真だよな。
ま ち の 人 へ の 配 慮 や、 支 援 物 資 を も ら う た め に も、 基 本 的 に、 震 災 直 後 か ら 歯 を 見 せ な
い こ と を 徹 底 し て い ま し た。 こ の 写 真 に 撮 ら れ た の は
こ の 時 に 撮 ら れ た 写 真 を、 町 長 は プ ロ フ ィ ー ル 写 真 に 使 っ て い る。 ほ か の 人 た ち も、
事務所の家、寝室、お店の壁…と被写体になった写真を大切に飾っている。
子どもに向けてほころんだ笑顔が写っていたという。
に 語 る。 子 ど も 目 線 の た め、 ど の 写 真 も 見 上 げ る よ う な ア ン グ ル。 普 段 気 難 し い 人 も、
るんだもん。そりゃあかわいいし、ポーズも撮ってしまう」と商店街で働く人たちは口々
」。「子どもがカメラ抱えて撮らせてくださいって言ってく
要 だ っ た な と 思 い ま す (町長)
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宮城・南三陸
子どもたちの撮った写真
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宮城・南三陸
長く続く復興への道
年目からがほんとうの勝負だと言う。
な 補 助 事 業 が 打 ち 切 り に な る が、 住 民 が 新 た な 家 を 建 て る 土 地 を 手 に で き る の は、
年先だ。町長はじめ、南三陸の人たちは
、
年 の 現 在、 ま ち の 瓦 礫 の 多 く は 片 付 け ら れ た が、 土 地 の 嵩 上
震 災 か ら 4 年、
げ と 建 築 ラ ッ シ ュ の た め に 裸 の 山 が 目 立 ち、 土 埃 が 舞 う。 あ と 年 も す る と、 さ ま ざ ま
1
そ う し た な か で、 置 き 去 り に さ れ や す い 心 に ア プ ロ ー チ し、 失 わ れ た も の を 抱 え な が
ら い か に い ま こ こ に あ る も の に 寄 り 添 う か。 南 三 陸 町 が 培 っ て き た 人 の 営 み に 立 脚 し た
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現在まで町長を務める。東日本大震災時は、ま
www.town.minamisanriku.miyagi.jp
ま ち づ く り の 一 助 に、 ア ー ト が ど う 関 わ っ て い け る か。 復 興 へ の 道 は、 始 ま っ た ば か り。
不明者数
南三陸町 HP「東日本大震災による被害の状況
について」
(2015 年 8 月 13 日時点)
www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.
cfm/17,181,21,html
埼玉県生まれ。2010 〜 12 年度まで戸倉小学校
務める。
志津川町(現・南三陸町)出身。2005 年、合併
ちの復興へ向け陣頭指揮を執る。
まだまだ長い道のりが続いている。
* 1:東日本大震災による南三陸町の死者・行方
* 2:麻生川敦(あそかわ・あつし)さん
校長。現在は、多賀城市東向陽台小学校校長を
* 3:佐藤仁(さとう・じん)さん
により南三陸町が誕生。南三陸町では初代から
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注釈
愛知・名古屋
紡いだ言葉を
身にまとって
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愛知・名古屋
[プロジェクト期間]
2014 年 10 月 29 日(水)~ 11 月 29 日(土)
[活動場所]
ター篠田花子とアートディレクター水上晃一による教育プロジェクト。
naniiro-labo.amebaownd.com
篠田花子(しのだ・はなこ コピーライター)
岐 阜 県 出 身。2 児 の 母。 働きながら大 学 院 にてデ ザイン教 育 の 研 究をするなかで、
自分の持つ資源・価値で社会貢献できる教育を志して活動スタート。東京で活動して
いたが、出産・育児のために岐阜に U ターンし、中部地区に活動の拠点を移す。
カレンダープロジェクトなど小学生から高校生を対象にデザインで遊ぶワークショップ
を開催。ライフワークとしてイラストレーションも手がける。
[コーディネ ー タ ー ]
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万人になり
水上晃一(みずかみ・あきひと アートディレクター/グラフィックデザイナー)
福 井 県 出 身。 名 古 屋 市 内に拠 点を置くデザイン会 社を経 営 する傍ら、これまでカオ
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万人から
や 親を対象にした造形ワークショップを企画・運営する。コピーライ
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教室のなかはみな同じ言葉を操り、同じ習慣を持つ。島国日本ではまだ
まだ多数派であろう学校の風景は、当たり前のものではない。例えば、こ
なにいろ labo
「つくるを通して、学ぶ。つくることで、生きる」をテーマに、子ども
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年 間 で、 日 本 に 住 む 外 国 人 の 数 は
[参加アーテ ィ ス ト ]
の
14 名(1、2 年生)
6
。
割も増加している (* )
[参加者]
名古屋市のとある小学校では、
年 現 在、 児 童 の 半 数 が 外 国 籍 を
有する親を持つ。小学校 年生の時点で日本語の素地が十分でなく、勉強
フィリピン語の通訳者が在籍している。
や日常生活に支障をきたす場合も少なくない。子どもたちが言葉を知るの
る。フィリピン人、次いで中国人の母親を持つ児童が多く、学校には
はテレビなどのメディアからが多く、どうしてもインパクトが強い、粗野
校の全校生徒は 200 人弱で、そのうち半数の児童の片親は外国人であ
な言葉を使いがちだ。そして、言葉はそのままふるまいに還元される。
名古屋の中核に位置し、商業施設が集中しているエリアも近い。小学
子どもたちがカルタづくりを通して「言葉」と出会い直す時、どんな反
応が起きるのだろうか。
名古屋市中区の小学校内トワイライトスクール(* 2)
白上昌子、米藏雄大(しらかみ・まさこ、よねくら・ゆうだい NPO
法人 アスクネット)
市民参加の教育づくりを目指す、教育コーディネーター役を担う。子
どもたちが社会と出会う機会を創出するとともに、キャリア教育コー
ディネーターの育成にも尽力している老舗 NPO である。
www.asknet.org
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愛知・名古屋
通訳が不可欠な小学校
名古屋市中区にある株式会社スターシャル教育研究所が運営するトワイライトスクール
は、小学校のすぐ隣にある。放課後、ここに集う子どもたちの様子を見ても、特に変わっ
た様子はない。小学校低学年が主に利用していて、とてもにぎやかだ。しかし、一人一人
の子どもの家庭に想いを馳せると、みな、さまざまなバックグラウンドを持っている。特
に、この小学校は繁華街に隣接しており、そこで働く外国人籍の親を持つ子どもが半数以
上を占める。多くの場合は母親が外国人で、その内訳はフィリピン人が最多で、次に中国
人が多い。幼少期をともに過ごす時間は母親が長いため、自ずと子どもたちが得意とする
言葉は母親の母国語になる。
愛知県は全国で最も外国籍の児童が多い県で、日本語未習得児童の増加や、中学校への
就学率の低さが問題になっている。小学校で「国語」を勉強する以前にハンディキャップ
を背負ってしまい、勉強がスムーズにいかないケースも多い。そして、それぞれの国ごと
のコミュニティも存在するため、母親同士は母国語で話す機会が多い。そのため、子ども
102
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愛知・名古屋
よりも親の日本語の上達は容易ではない。
このような状況を踏まえて、前出の小学校には通訳者が常駐している。親との面談の際
は、担任と親との間に通訳が入る。そのため、先生たちは、伝えたいことがダイレクトに
伝わらないもどかしさを抱えているという。しかし、放課後を過ごすトワイライトスクー
ルには、通訳はいない。親への大事なことづては子どもがその役割を果たす。大人の言う
ことの機微を、どれくらい子どもは伝えることができているのだろうか。
「国によって習慣が全然違うんです。例えば中国人の場合、子どもを人前で叱るというこ
とをとても嫌がる傾向があります。そのため、何かあったら呼び出してこっそり注意する
必要があります。フィリピンの人たちは、私たちの感覚以上に時間に対してルーズな部分
があって、お弁当を忘れてくることもしばしば。個人差だけでなく、文化や習慣の違いを
尊重した上で関わっていく難しさがあります」と、スターシャル教育研究所の矢神裕貴さ
んは語る。
学校と家の間で
これから日本全国で増えていくであろう異文化コミュニケーションの必要性。名古屋市
は、異文化交流の難しさと可能性を先取りしている現状にある。その課題にアプローチし
、
年生を対象にす
たのが、コーディネーターの白上昌子さんと米藏雄大さんだ。「いつもは、小学校高学年
に〝教育プログラム〟を提供することが多いんです。ですから、
クショップを通して語りかけ続けたという。
交う状況を目の当たりにして、「すごいね」「綺麗だね」といったポジティブな言葉を、ワー
せて不機嫌になる子や、黙ってしまう子が多かったです」と白上さん。乱暴な言葉が行き
校やトワイライトスクールの生活があるんだろうなと思いました。最初は、いらだちを見
それを見ていて、彼らなりに言いたいことが思うように言えないストレスを感じながら学
置づけです。実際に母親が迎えにきたら、子どもたちは真っ先に母親の母国語で話します。
かというとわがままが言える生活の場。子どもにとっても、小学校の教育の場とは違う位
る難しさがありました。さらに、トワイライトスクールは、学校よりも家に近い、どちら
2
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愛知・名古屋
』に声を
アーティストは、コピーライターとデザイナーの 人組『なにいろ
掛けた。生まれたアイデアは、自分の言葉でカルタの句をつくって、それを「着る絵札」
2
。イメー
日目のオリエンテーションは、まずは、カルタで遊ぶことからはじめた。初めてカ
ルタをする子どももいた。翌週は、
自分が担当するモチーフを決め、言葉を考える。ロケッ
さかなかたまる?
う。
プルなフォルムでデザインをした。子どたちの間では、モチーフの取り合いが起きたとい
ナーの水上晃一さん。りんごや靴下など、誰もが親しみを感じるモチーフを選定し、シン
にまとって、おにごっこのように自由に動けたら楽しいだろうなと考えました」とデザイ
それをコミュニケーションに進化させよう! ということになったんです。着る絵札を身
「 プ ロ ジ ェ ク ト の 準 備 を 進 め て い く う ち に、 自 分 の 言 葉 で カ ル タ を つ く る だ け で は な く、
さんは言う。
クシートで問いかけて、自分の句をつくってもらいました」とコピーライターの篠田花子
ジソースとして最初に選んだ絵札に対して、音は? においは? 味は? 気持ちは? とワー
なイメージを体験してほしかったんです。言葉がわからないなら、擬音語でも
俳句のようにリズムができれば、それだけで作品になる良さがある。日本語のポジティブ
として洋服にするというものだった。
「カルタって上手い下手が出にくいんです。それに、
l
a
b
o
O
K
トがかっこいいと取り合いになったり、ケンカが勃発したりして一筋縄には決まらなかっ
たが、どうにか子どもたちだけで話し合って割り振りが決まった。
それぞれの絵札に合った言葉をつくるのがこのワークショップの一つ目の山場だ。日本
語が得意でない子どもたちにとっては書くことがひとつのハードル。スタッフが付き添い
ながら、言葉を紡ぎ、清書していった。
「得意な子は余っていた絵札の言葉もどんどんつくっていました。逆に、幼い男の子によ
くあることですが、うんことかバカ、アホなんて言葉を使おうとした子もいたんです。だ
けど、おもしろいことに、汚い言葉ではやはり句が成立しなかったんです」と篠田さん。
結果、読み札には、子どもたちの等身大の言葉が並んでいった。
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愛知・名古屋
さかなかたまる 食べられないために かたまる
せいりゅう (* )
いつも たきのそば
おまめさん まるくち みどり きみどり
ページ。小さな魚は群になってかたまり、天敵の大きな魚に食べられない
それぞれの得意なところが見えてきて、自然と助け合いが生まれていった。
な子が手先が器用だったり、読み札づくりは得意だけどハサミの使い方は苦手だったり。
服につけていった。普段落ち着きのない子どもたちも、作業に集中していた。言葉の苦手
絵札になる衣裳は布製パーツを水上さんが用意し、子どもたちが切ったり貼ったりして
ようにする。その姿を素直に言葉にしてみたら、リズムのよい読み札ができあった。
イミー」の
教室にある絵本や図鑑を眺めながら考えた。ページをめくる手が止まったのは、絵本「ス
「 さ か な か た ま る …」 は 苦 心 の 末 に で き た 読 み 札 だ。 な か な か 魚 の イ メ ー ジ が 出 て こ ず、
あめのひ ざあざあ あめのにおい
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愛知・名古屋
「一緒につくり上げていくプロセスを通して、誰の作品なのか認識できます。読み札と絵
札を誰の作品なのか言い合えることで、自分が認められたりほかの子を認めたり、その両
方の経験をできるなと思いました」と篠田さんは言う。
いつも背後にいる存在
最終日の発表会には、子どもたちの家族が招かれた。しかし、案内を渡して声がけして
も、日本語の理解が不十分な母親たちとのやりとりは、心もとない。白上さんは不安を募
らせた。
「当日まで、親が来るのかどうか分からない子もいましたね。発表時間が近づく
につれて、親の姿が見えだすとみんなすごく嬉しそうな顔をしていました。逆に、親が来
られなくなってしまった子どもは、いらいらしてしまって、いつもと様子が違いました。
親がいるかどうかが、子どもにとってはすごく重要なんですよね」。
発表会では、まず自分でつくった服を着て、服にちなんだポーズをとる。はにかんだ笑
顔で、自分で事前に考えたポーズを決めた。その後のカルタ大会は、親が混ざって行われ、
子どもたちは、誰にとってもらいたいか算段していたようだ。「お母さんに見つけてもら
えるように、前を歩いたりしたよ」
「 お 母 さ ん に こ こ だ よ! と 合 図 を し た ん だ よ 」 と 女 の
子たちは当日を振り返る。白上さんは言う。「絵札になった子どもたちは、お母さんに捕
まえられると嬉しそうでしたね。笑い合ったり抱き合ったり、それまでのワークショップ
と違う表情が見られました。普段は、荒れた思春期の子のような言葉を発していた子も、
親がいると雰囲気が変わるんです。発表会の最後には、小学校低学年らしい姿を見せても
らいました。
〝子どもらしく戻るという成長〟のようなものを感じました。子どもと関わ
るってこういうことなんだと思い知らされた。これからは、母親の存在を前提としてプロ
グラムをつくっていく必要があるのだと教えられました」。
「本当にいい顔しているなぁ」となにいろ
当日撮影された記録映像を改めて見返すと、
のふたりも口を揃える。
「 子 ど も た ち に 何 を 残 せ た か、 と 考 え だ す と 答 え は 出 な
は新たに活動
を立ち上げた。子どもたちに〝コピー
いけれど、楽しい時間を何回か過ごしてもらったのなら良かったかな」と篠田さん。この
振り返りを経て、
なにいろ
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愛知・名古屋
ライター〟と〝デザイナー〟として、どう関わるか。つくることは、生きること。クリエ
イティビティに触れる体験を子どもたちと共有していきたいと意気込む。
発表会が終わり、また日常に戻ってゆく子どもたち。カルタの洋服を着て王冠を被った
まま、誇らしげに母親が漕ぐママチャリの後ろに乗って家路についていった。
「カルタ大会はどうだった?」と問いか
半年後、りんごの読み札をつくった男の子に、
けると、
「りんごは あかくて おいしいな」と元気な答えが返ってきた。彼のお母さん
は中国人で、
彼自身も流暢な中国語を話す。カルタ大会で母親に捕まえられた思い出を語っ
てくれた女の子たちのようには、日本語で自分の気持ちを伝えることができない。しかし、
カルタの句をそらんじて「とてもよく覚えているよ」ということを暗に伝えてくれた瞬間
だった。
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愛知・名古屋
注釈
* 1:外国人登録者の推移
法務省 HP「平成 16 年末現在における外国人
登録者統計について」と「平成 26 年末現在に
おける外国人登録者統計について」によると、
外国人登録者数は、135 万 4011 人から 212 万
1831 人に増加した。
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* 2:トワイライトスクール
トワイライトスクール事業とは、名古屋市独自
の事業。放課後の空き教室などを利用して児童
を 18 時まで預かる取り組みで、民間団体が受
託。遊びや学びのほか、体験活動や地域との交
流も活動に含まれる。
* 3: 青龍(せいりゅう)
2013 年に発売されたゲームソフト「妖怪ウォッ
チ」のキャラクター。
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岡山・笠岡
日常の波紋となって
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岡山・笠岡
[プロジェクト期間]
[参加アーテ ィ ス ト ]
トの 係 わり合 い 方をテーマにした活 動を行う。 光と影をテーマにし
た表 現や Sightseeing Buscamera Project の運 営、 生 命や 科 学、
環境を盛り込んだワークショップや 作品制作を行っている。
[コーディネ ー タ ー ]
田野智子(たの・ともこ NPO 法人 ハートアートリンク 代表理事)
小学校教諭を経て、2004 年度よりアートリンク・プロジェクトを展開。
岡山県内の学校にアーティストを派遣し、瀬戸内海の笠岡諸島での高
齢者との表現を通じた共同研究「カルチャーリンク」などを継続。表
現・食・文化という日常をテーマに、地域ごとの特色ある文化を視野に
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さ ん は 何 度 も 島 へ 足 を 運 び、
1967 年 N.Y. 生まれ。 東 京 薬 科 大 学 薬 学 部 卒。 医 療 品 開 発 の 業 務
に関わる傍ら、制作活動 およびアートディレクターとして社会とアー
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」という人形を通して、白石踊
(しゅうた 現代美術家)
SYUTA[三友周太]
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人 足 ら ず の 高 齢 化 の 進 む 島 に は、
岡山県笠岡諸島の白石島。人口
いまもなお時を越えて受け継がれてきた信仰の文化がある。
年の歴
白石島の小中学生 17 名
史を持つ伝統芸能、白石踊りもその一つだ。
[参加者]
この踊りを、島の人たちに新たな視点で見てもらいたいと行われたのが
になった り 、 お 盆 初 日 に は 、 踊 り の 会 場 に も な る 。
こ の プ ロ ジ ェ ク ト。 ア ー テ ィ ス ト
取り組みが多く、英会話講座が開かれたり、白石踊りの練習場
紐に針金を通した「
小中学生が 17 名の白石島における、重要な文化拠点。教育的な
りを表現することに挑戦した。
岡山県笠 岡 市 白 石 島 公 民 館
年 頃 か ら 子 ど も の 数 が 減 り、 島 の
島の小中学生は、現在 名。
行事も普段の遊びも大人と子どもが一緒になって行う。
「子どもとアーティ
[活動場所]
ストの出会い」は、自然と島全体へと広がっていった。
2014 年 6 月 27 日(金)〜 9 月 28 日(日)
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入れて展開している。
heatlink.org
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岡山・笠岡
歴史が息づく島
さんが島を訪れたのは
年
月末のこと。北岸の湾
どこまでも続く水面。穏やかな瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島の白石島へは、笠岡港より高
速船で 分ほどで着く。島は美しい花崗岩からなり、その名前の通り緑の合間に白い岩肌
を見せる。
アーティストの
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月から
月にか
年 も 島 に 続 く 盆 の 踊 り で、 源 平 合 戦 の 戦 死 者
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木々を揺らしていた。
「
けて行われた。白石踊りとは、もう
白 石 踊 り お ど る 」 プ ロ ジ ェ ク ト は、 そ の 夏 の
へ船が入っていくと、目の前には民家がつらなり、港には潮の香りをたっぷり含んだ風が
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人。それも
歳未満の若手は
さんは、針金と紐でつくった人形を用いて、
人だった人口が、今では
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人以下と超高齢化の進むまちでもある。コーディネーターの田野智子さんは、この島と
昭和の初めには
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を弔ったのが起源とも言われる。
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この島に深く根付いた踊りの型を島民とともに表現しようと試みた。
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関係を続ける理由をこう明かす。
「ここは経済的に見れば疲弊した過疎の島かもしれませ
ん。でも、島の人たちの暮らしはとても豊か。一見何気ない風景にも何百年もの歴史や文
化が息づいているのが感じられます。都会に暮らす私たちが失ったものがたくさん残って
いて、はっとさせられることがある。だからこそ、アートの力が試される場所でもありま
す」
。港から見える山の巨大な岩は、かつての妙見信仰の名残りで、ふもとの祠で手を合
わせると北斗七星が望める。四国 八十八ヵ所参りを島内でもできるようにとつくられた
大師路。昔盛んだった和綿の栽培も、最近有志の手によって復興されている。
〝風待ち、潮待ち〟の港
そうした、昔からの文化を大切にする一方で、島には「外からの文化を柔軟に受け入れ
てきた歴史もある」と教えてくれたのは、港の仕事をしながら長年公民館長を務めてきた
。みなが頼りにする島のまとめ役でもある。白石島はかつての北前船の
天野正さん(*1)
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航路上にあり、〝風待ち、潮待ち〟の港として多くの船が出入りした。特に北前船の西国航
路は大阪からの交通手段でもあり、都の文化を西や北の地に伝え、地域の産物を運ぶ重要
なルートだった。
活気のあった時代には特に、島の人たちの目は外に向けられていたと天野さんは言う。
昭和初期までは漁業が盛んで、海の男たちは船を自在に操り、愛媛や仙台、時には韓国と、
どんどん外へ出ていった。漁業が廃れた後も、島北西の白浜は海水浴場として息を吹き返
し、今も夏になると多くの観光客が訪れる。
「そんな風に、訪れる人たちの考えや、外の文化にさらされながら、白石島は発展してき
たんです」
。
そのためか、島の人々は訪れる人に対してオープンで「新しいもの好きでもある」と田
さ ん の ア ー ト プ ロ ジ ェ ク ト も、 島 の 人 た ち に す ん な り と 受 け 入 れ ら
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野 さ ん。
れた。
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白石踊りの魅力
時には、晩ご飯を済ませた子どもたちが公民館にぞくぞくと集まり、
さんと島の子どもたちとの初めての顔合わせは、その年最初の踊りの練習
の日だった。夏になると、島では白石踊会のお年寄りによる、子どもたちへの指導が始ま
る。週に2回、夜の
時間みっちり練習が続く。
白石踊りには男踊り、女踊り、扇子踊り、笠踊り…と もの種類があるが、それらの踊
りを同時にひとつの輪の中で踊るのが特徴。「おかめ」や「まかげ」など、もはや 代の
数名しか踊ることができない希少な踊りもある。
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拍子のステップはどの踊りにも共通しているが、手や身体の動きが踊りによって異
なる。響き渡る口説きの迫力と合いの手、女踊りの流れるような手つきと、男踊りの勇壮
お年寄りが子どもたちの間に入り、手の角度や足の動きを手本に見せながら指導する。
「口説き」と言われる音頭が始まった。「サ〜〜エ
ドンドンドドン、と太鼓の音が響き、
〜〜」
。子どもとは思えない力強い声。口説きと太鼓に合わせて、みなが一斉に踊り始めた。
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な動きの切れ。熟練者の踊りは、身のこなしが滑らかで美しく、見ている者は目が離せな
くなる。
「びっくりするくらい綺麗。私たちとは全然違う」とお年寄りの踊りを子どもた
ちは褒めそやす。
1曲がおよそ 分。この間ずっと口説きは続き、みな踊り続ける。終わるとまた唄い手
を変えて違う曲で同じように踊る。
に?
さんがプロジェ
練習のあと、初めてのワークショップが行われた。まずは
クトの主旨と概要を説明。その後用意してきた 色の紐を取り出して、みんなの前に置い
踊りを
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「ではまず、この
色の紐から踊りの種類ごとに色を選んでください」。それまで静かに聞
た。子どもも大人も青、赤、ピンク、緑…とカラフルな紐の束を囲むようにして座る。
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いていた子どもたちも、ワイワイガヤガヤ、口々に思う色を挙げ始める。すぐに男踊りは
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艶姒に近い茶色、女踊は藤色と決まる。いずれも衣装に近い色だ。色が決まったところで
をつくり、踊りのポーズを付けてもらう。針金の通った紐なので、
自在に曲げ伸ばしできて誰もが簡単に制作できる。
太鼓が鳴れば自ずと手が動く、というほどみな身体で覚えている踊り。だが、客観的に
かたちにするのは意外と難しい。一人が演じる型を身体で示し、もう一人が横でそれをか
たちにするというように、自然と対になって作業が進められた。大人と子ども、子ども同
士、大人同士。おじいさんの踊りを傍で孫がかたちにする姿も見られた。
呼び覚まされる人の記憶
さ ん は、 特 に 年 輩 者 た ち が 白 石 踊 り に
島 の 人 た ち と 言 葉 を 交 わ す う ち に、
ただならぬ思い入れを持つことを感じていた。印象に残っているのは、高齢者施設「だん
だんの家」に出向いたときのこと。ここでもワークショップを行う予定だったが、とても
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暑い日で、集まったのは4名ほど。それもかなり認知症の進んだお年寄りたちだった。説
明したことの半分も理解してもらえなかったのではないかと振り返るが、その中にひとり
「白石踊り」という言葉に反応して、身を乗り出す女性がいた。「小さい頃は毎日踊りよっ
たんよ」と弱い足腰をいとわず、つと立って踊り始めた。それはまるで心の奥底にあった
記憶が呼び覚まされたようだった。
「
〝白石踊り〟と聞くだけで、踊りにまつわる思い出や
記憶がどんどん出てきて、ああもうこれは彼らの一部なんだなって」。
御歳 歳になるフミ姉さんは、若い頃の思い出をこう話す。「昔はねぇ、お盆が近づく
とあっちでもこっちでもおじいさんらが口説きようた (唄っていた)んよ。夕方になると家
の前でうちわで仰ぎながら、あっちの家からもこっちの家からも唄が聞こえてきてね。そ
うなるともう私らも仕事がでけんの。早う踊りに行きたくて行きたくて」と笑う。「大仰
に言えば、踊りはうちらの人生そのものみたいなもんよ」。男踊りの名手、山本栄則さん
は照れくさそうにそう言った。
ヒモのお兄ちゃん
さん。
島の人々の日々の暮らしを知るにつれて、その魅力に惹かれていった
踊りだけではない。集落内をめぐる車一台やっと通れるほどの路地を島の人たちは必ず譲
り合って行き交う。
歳を過ぎても朝早くから畑仕事に精を出すお年寄りたち。お盆が近
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さんはそこに出入りするうちに、
「ヒモのお兄ちゃん」と作品にちなんで呼ば
「たけしくん」
「みいくん」と下の名前で呼ばれ、姿が見えなければみん
島の子どもは、
な に 心 配 さ れ、 叱 ら れ、 褒 め ら れ、 冗 談 を 言 い 合 っ て 家 族 の よ う に 暮 ら し て い る。
ても濃密。それがほんとうは大切なことなんじゃないかと気づきました」。
「都心でのワークショップは2時間やって終わりですが、この島ではそれ以外の時間がと
体育館で真剣勝負をすること。
るスポーツができない代わりにバドミントンが盛んで、子どもも大人も一緒になって夜の
づくと寺への道をみんなで清掃する習わし。そして、サッカーや野球など人数を必要とす
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れるようになる。展示を始める頃には、会場に子どもたちが入り浸るようになっていた。
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壁に映る影
に光が当たっちょって、
「正直に言えば、白石踊りを紐で表現するなんてできるのかなと思っていた」と話すのは、
原田暢代さん。
「でもねぇ、展示を見たとき、
さんは、長い影
年生の孫・岬海くんも話す。
「夜に来たら踊りがうしろの壁に映っとって、ほんま
その影が後ろにばぁっと映って、影が踊っとるんよ。おぉ〜と思いました」。同じことを、
小学
に踊っとるように見えた」
。お盆の夜、初めて踊りに参加した
が浜にできている光景を見て、この投光を思いついたのだという。
展示会場となったのは、港からすぐの、島の玄関にあたる旧松浦邸。かつては「島の迎
賓館」とも呼ばれた、格式高い場所だった。島の人たちとつくった
は最終的に約
体。座敷には、浜で踊りが行われるときと同様に、白砂を敷き、そ
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さんは忘れられない。
「ここは手が違う」「足が逆だ」と踊りながら角度や姿
展 示 が 始 ま る 直 前、 踊 り の 得 意 な お 母 さ ん た ち が、 最 終 確 認 に 訪 れ て く れ た こ と が
の上に輪になって踊りを踊っているように設置された。
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勢など細かな教えがあったという。それも、次々に。文書があるわけでなく、口伝で伝わっ
てきた白石踊り。一人一人にこれが正しいと思う型がある。
を 持 ち 出 し て、 そ
実際に展示が始まると、それまで関わっていなかった島の人たちもふらりと訪れた。さ
らに集まってきたのが子どもたち。砂を均す手伝いをしたり、会場にある道具を熱心に観
察していたり。そのうちどこからか余 っ て い た
プロジェクトから
年生
年後の夏、旧松浦邸にはまた新たなアーティ
さんも予想していなかった色とりどりのインスタレーション
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さ ん も い る。 プ ロ ジ ェ
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だ。
なかった一人の男性がいた。展示の最終日、一日だけライトアップした旧松浦邸に、この
ずっとこのプロジェクトを横目に見ながらも「俺は白石踊りは嫌いじゃけ」と寄り付か
とが大事だと思っています」
。
で選んできたものさし。だからこそ、いまある島の暮らしに光を当てて、見直していくこ
的な価値とは相容れない豊かさが島にはある。それは、多少不便でも、島の人が自分たち
話になりますが、それではいまの格差社会をつくってきた根本と何ら変わりません。商業
「地域振興や地方再生というと、すぐに産業で振興をして若者を移住させなければという
年かけて島の人たちとの関係を築いてきた田野さんはこう話す。
クトが終わった後も長期的に島と関わり続けたいと、島に家を借りて頻繁に通っているの
と 立 ち 寄 っ て 茶 飲 み 話 を し て い く。 そ し て そ こ に は、
「お母さんが仕事しよる子も多いけぇ、格好の遊び場所です」と暢代さん。大人もふらり
子どもたちの姿もある。ある子は宿題をし、ある子はアーティストの手伝いに精を出す。
ストが訪れ、制作活動を行っていた。そこには、夏休みに入って毎日のように遊びに来る
真の豊かさとは
が庭にでき上がった。
の美加ちゃん。
けたり、岩の上を飛び跳ねていたり。
「 あ れ が 一 番 楽 し か っ た 」 と 話 す の は、 小 学
れぞれの手をつなぎ庭に飾る作業に夢中になる。庭に散りばめられた人形たちは木に腰か
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さん。島の人々にとっては慣れ親しんだ営みでも、アーティストや外
男性がカメラを持って現れたという。 アートがまちに入ることは、
「まちへの挑発でもあ
る」と
から来る人によって〝当たり前じゃない〟ということに気づく。そして、それが自信となっ
て、水の波紋のように人々の次の行為につながっていく。「そんな投げかけを継続的に続
けていくこと。それで何か感じてもらえることがあれば嬉しいなと思います」。
生まれ育ち、島と外をつなぐ役割を担っている。
笠岡市白石公民館長、白石踊会理事。白石島で
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田野さんが島を歩いていると、いまでは会う人会う人が「今年は何するん?」と声をか
* 1:天野正(あまの・ただし)さん
けてくる。
注釈
コラム
エピ ソ ー ド か ら 読 み 解 く ア ー ト の 力
糸井登
(立命館小学校教諭)
心に染みた五つのエピソード
軽い気持ちで読み始めた五つのエピソードは、読み進むうちに、深く
私の心を捉えていきました。そして、気がつくと、私は鉛筆を手に取り、
いくつもいくつも心に刻み込むように、ラインを引きながら読み進んで
いました。
読み終えた時、「そうだった」とつぶやく自分がいました。アートと自
分との関係を振り返るには、十分すぎる濃厚なエピソードがそこには書
かれていたのです。
「
〝子どもらしく戻るという成長〟のようなものを感じました」とは、名
参照)です。これは、私も子どもとアーティストをつなぐなかで、
古 屋 で 実 施 さ れ た「 紡 い だ 言 葉 を 身 に ま と っ て 」 の な か に あ っ た 言 葉
(
何度も感じた感覚でした。荒れた小学校には、素直に自分を表現できな
い子どもたちがいます。彼らがアートと出会うなかで、その殻をやぶれ
た時、そこには〝子どもらしく変貌した子ども〟がいました。
「アートがまちに入ることは、〝まちへの挑発でもある〟」とは、笠岡で実
施された「日常の波紋となって」のなかに出てきた言葉です (
す。
ると、〝クラスで劇づくりをされているんですね〟との答えが返ってきま
「
〝学校に劇団の方に来ていただいているんです〟という話を先生方にす
を「アート」に置き換えて読んでいただければと思います。
もう、8年ほど前に書いた文章になりますが、演劇を学校教育のなか
に取り入れていた時の想いを書いたものを紹介します。「演劇」の部分
いま、目の前の子どもは輝いているか
の本質だと考えています。
その風景が様々なところに波紋を広げていきます。それこそが、アート
まで見ていたものとは、まったく異なる風景が見えてきます。そして、
に入っていくことは、挑発にほかなりません。そのことによって、いま
教育現場と重なります。そう、アートという非日常なものが、ある場所
。
「まち」を「学校」に置き換えると、私が目の当たりにしてきた
参照)
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コラム
糸井登(立命館小学校教諭)
1959 年生まれ。京都府の公立小学校に 27 年間勤務した後、2010 年から立命館
小学校に籍を移す。明日の教室代表。NPO 法人 子どもとアーティストの出会い
理事、NPO 法人 企業教育研究会理事。主な著書に、
「エピソードで語る教師力の
極意」
(明治図書)
「明日の教室発! 伝説の教師シリーズ」
、
(学事出版)などがある。
〝いえいえ、いろんな授業を劇団の方と一緒にしているんです〟と話を
続けると、先生方の表情はまさに〝???〟といった感じになります。
私が、演劇を学校のなかに取り入れたいのは、楽しい授業、分かりや
すい授業、体感できる授業。そして、何よりも、子どもたちが、いきい
きと自己表現できる授業を目指しているからです。
あ な た の 学 級 で は、 勉 強 の で き る 子 だ け の 声 が 響 い て い る ク ラ ス に
なっていませんか?
学校には、教室には、教師には、いま、多くの課題が山積みされてい
ます。学級担任として、子どもたちと向かい合っている私も、苦悩する
日々を送っています。
そんな日々のなか、私が思うのは、まず、すべての子どもたちが、い
きいきと自己表現できる学級、学校でありたいということです。それが、
楽しい学級、学校の根っこの部分になると感じているからです。そのよ
うな想いを、私は、劇団の方との授業を取り入れるようになって強くし
ました。
劇団の方々との授業を終えると、いつも決まって、子ども同士の人間
関係が良くなります。そして、子どもたちが生き生きとした表情を見せ
てくれるのです。
演劇を取り入れた授業では、〝表現の自由〟が尊重されることが大きく
起因しています。子どもたちは、活動を通して〝開放感・安心感〟を感じ、
受け入れられる喜びを体感します。そして、自分の発した言葉、演じた
動きが、必ず次の展開に活かされる経験を通して、表現する楽しさを学
ぶことができるのです。
〝めっちゃ、楽しかったあ!〟という子どもたちの声と、いきいきし
た姿に後押しされて、私は演劇を取り入れた授業を続けています。
ぜひ、あなたもためらわず、一歩を踏み出してみてください」。
現在、全国で、いじめ問題の深刻さが大きな問題となっています。こ
んな時代だからこそ、いま、アートの持つ力が学校現場には必要なので
はないでしょうか。
この五つのエピソードを読み、改めて、そんなことを深く考えさせら
れました。
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コラム
子どもになる時間
田北雅裕
(九州大学大学院人間環境学研究院専任講師)
大人になる瞬間
子どもの頃に待ち遠しくて仕方がなかったことがある。それは、大人
になる瞬間だ。
子どもの頃、大人はみな「正しい人」だと思っていた。僕の周りにい
るやんちゃな奴も、どんなに意地悪をする連中も、大人になりさえすれ
ば、自然と「正しい人」に変わると思い込んでいた。なぜそのように思
い込んでいたかは分からない。ただ、僕にあらゆることの正しさを説く
大人たちを正当化し、受け入れようともしていた。しばらく辛抱すれば、
いまこの時の面倒な人間関係から解放されると、信じたかったのだと思
う。
自分の力じゃどうにも逃れられない世界のなかで、どんな連中であろ
うと成長し、「正しい未来」が訪れると信じることで、僕はその場に居続
けることができた。大人になれば彼らは真っ当になる。だからそれまで
我慢すればいいのだと、自分に言い聞かせていた。
「子どもである彼らは、いつ大人になってくれるのだろ
それじゃあ、
う?」
「子どもが大人になる瞬間は、いつ訪れるのだろう?」そのシン
プルな問いが頭をもたげていった。大人になる瞬間が待ち遠しくなった
僕は、その瞬間を逃すまいと決意したのだ。
それからどれくらい経っただろう。気づいたら三十近くになっていた。
端から見たら、
僕や周囲の連中は完全な大人になっていた。でも肝心な、
大人になる瞬間を経験していなかった。あんなに強く決意したのに、結
局逃してしまったのだ。気づいたら、大人になってしまっていた。
子どもになれる力
子 ど も が 大 人 に な る 時 ―― そ の 瞬 間 を 誰 し も 通 過 し て い る は ず な の
に、覚えていない。いつの間にか大人になってしまっている、その「不
確かな時」について、詩人の長田弘さんは詩集「深呼吸の必要」のなか
で綴ってくれている。 「子どものきみは、道をただまっすぐに歩いたことなどなかった。右足
をまえにだす。次に、左足をまえにだす。歩くってことは、その繰りか
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コラム
田北雅裕(九州大学大学院人間環境学研究院専任講師)
九州大学大学院人間環境学研究院専任講師。2000 年、学生の傍らデザイン活動
「trivia」を開始。以降「まちづくり」という切り口から様々なプロジェクトに携
わる。2009 年より現職。その他に、糸島市市政アドバイザー、ALBUS ディレ
クター、福岡市里親委託等推進委員会委員、SOS 子どもの村 JAPAN・コミュニ
ケーションディレクターなども務める。
えしだけじゃないんだ (中略)
。
いま街を歩いているおとなのきみは、どうだろう。歩くことが、いまも
きみにはたのしいだろうか。街のショーウインドウに、できるだけすく
なく歩こうとして、急ぎ足に、人混みのなかをうつむいて歩いてゆく、
。
一人の男のすがたがうつる (中略)
歩くことの楽しさを、きみが自分に失くしてしまったとき、そのときだっ
たんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおと
なになってたんだ。歩くということが、きみにとって、ここからそこに
ゆくという、ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。」
例えば子どもの頃、通学路で「マンホールを踏んだらアウト!」のよ
うに勝手にルールを決めて、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら帰ったり、
歩道の白線の上で小石を蹴りながらどこまで遠くに行けるか競い合った
り。誰もが少なからず似たような経験をしたことがあると思う。いまこ
こで出会った人や環境に応答しながら関わりを見出し、その結果得られ
た濃密な時間を、子どもたちは生きている。
一方、大人になった僕らにとっての通勤路は「ここからそこにゆくと
いう、ただそれだけのこと」でしかない、平べったい風景になり下がっ
てしまっている。行動には常に「目的」や「あるべき未来」がちらつき、
「それがあるから」歩けるようになってしまった。子どもの頃のように、
歩くことそれ自体の時間を味わうことはできないのだろうか。
先日、絵本作家・荒井良二さんの個展に併せ、子どもを対象にしたワー
クショップを開催した。その時の写真を整理していた際、学生が撮った
僕の姿に驚いた。そこに写っていた自分をまるで覚えていないのだ。そ
れは、子どもたちとともに遊ぶ姿だった。
彼らとダンボールで「いままで見たことがない大きな家」をつくって
いる時、目的を忘れ、最終的な落としどころを放棄した時、その時、僕
は確かに子どもたちとともにいた。僕はまるで、子どものようだった。
アートが持つ力。そのひとつは「子どもになる」ということなのかも
しれない。子どもが子どものままでいられること、そして、大人が子ど
もになれること。それは、ある面で「目的」や「あるべき未来」を捨て
ることでもある。その結果、いまこの瞬間と向き合えるのだ。
142
1 43
コラム
田北雅裕(九州大学大学院人間環境学研究院専任講師)
九州大学大学院人間環境学研究院専任講師。2000 年、学生の傍らデザイン活動
「trivia」を開始。以降「まちづくり」という切り口から様々なプロジェクトに携
わる。09年より現職。その他に、糸島市市政アドバイザー、ALBUSディレクター、
福岡市里親委託等推進委員会委員、SOS 子どもの村 JAPAN・広報アドバイザーな
ども務める。
不確かな未来と
周囲に正しさを求めていた僕が、大人になってしまったあとに気づい
たのは、大人は必ずしも正しくないということだ。その事実が、子ども
の頃から切望していた期待を裏切り、むなしい心持ちになったかという
と、そうではない。むしろ肩の力が抜け、必ずしも正しくは生きてこれ
なかった自身の肯定につながり、おだやかな希望へと昇華した。
「正しい未来」を捨てたことで、いまこの時と向き合える時間を過ご
せるようになった。「目的」や「あるべき未来」を手放すことが、子ど
もと向き合うことと表裏一体である事実を、僕らは忘れてはならない。
アートとは、大人が目指している正しさや活力など「目的」や「ある
べき未来」の先に立ち現れるものではなく、強いて言うなら、その何か
を目指しているその傍らで、眈々とかたちづくられるものじゃなかろう
か。その
「不確かさ」のお陰で生かされる人は、決して少なくないだろう。
144
1 45
インタビュー
生存の技法としてのアート
鷲田清一
(哲学者)
を、真正面から突きつけられた気
寝起きするのですから、ある意味
どこでも寝られて、誰とでもうま
がしました。
い、と誰もが一瞬想像したはずで
東日本大震災の際に強烈だった
のは、何よりも福島第一原発の事
くやっていけるという、とにもか
アート「で」
故でした。あの時、日本列島でも
くにも基本的なことが重要になり しかし、生存の技法を学校教育
ます。考えてみれば避難所生活も、 で身につけるのは易しいことでは
難民と同じ状況にあると言えると
う ひ と つ 原 発 事 故 が 発 生 し た ら、
ありません。現時点では、アート
す。難民として、言葉も通じない
本州は逃げ場がなくなって、海を
見知らぬ人たちと同じ狭い場所で
に説得の応酬になってしまいます。
思います。今回のことで、生き延
渡らなければいけないかもしれな
が共通項としてあるだけです。で
けれど、アートの場合は、正しい
土地に行ってとにかく生き延びよ
「 を 」 で は な く、 ア ー ト「 で 」 生
も、「こんなんどう?」ってみなで
子どもたち「と」 存の技法を身につけるということ
イメージを語り合っているうちに、 か 正 し く な い か は ど う で も い い。
うと思ったら、何でも食べられて、 びるために何が必要かという問題
が有効だと思っています。
目標を立て、計画に落とし込んで、 ので「これをすべきだ」という風
す べ て 先 に ゴ ー ル を 設 定 し ま す。 活動だと〝正しさ〟が基準になる
いまの世の中は、政治から行政、 当初のイメージも少しずつ変容し
企業、地域活動から受験勉強まで、 てくる。これが政治などのほかの
あります。
ものがなくても成り立つところに
ろは、目標や価値観など共有する
つまり、アートのおもしろいとこ
評価と検証を行うというやり方が
くってゆくことです。
もに生き延びられる仕組みをつ
は、違う部分を尊重しながらもと
かなければなりません。大事なの
くても、それでも一緒にやってい
るためには、共有できるものがな
会から国家まで、集団で生き延び
ものも違います。けれど、地域社
我々は一人一人、理想も価値観
も感受性も異なり、背負ってきた
主流です。そうしたなか、唯一目
標がない社会活動がアートです。
アートが立ち上がる時は、何か
したいっていうもぞもぞとした気
持ちがあるだけで、それがどんな
絵や曲、パフォーマンスなどにな
るかわかりません。集団で何かを
らもともに生き延びられる仕組みを
つくってゆくことです。
146
1 47
やる時も、「何かおもろいこと、と
きめくことをしたい」ということ
大事なのは、違う部分を尊重しなが
インタビュー
なので、私は大阪大学で教鞭を
とっていた時も、企業のインター
ンシッププログラムに参加する
キャリア教育は、推奨しなかった
んです。そこではすでにプログラ
ム は 用 意 さ れ て い る の で す か ら。
代わりに大学として取り組んだの
は、 近 所 の 商 店 街 に 学 生 を 送 り、
そこでまちの人と相談して何かを
してきなさいという、荒っぽい教
ました。お客さんとしてしか喋っ
たことがなかった人たちと、「何し
て い る の? ち ょ っ と 助 け よ う
か」っていう関係を自分たちでつ
くっていく。アート「で」子ども
たち「と」何かをする時にも、同
じような手法というのがありうる
のではないでしょうか。
罰則を科すとか、ルールに従わな
的な社会であれば、怠けていたら
るということです。例えば、近代
まるというのは、体制が一つにな
は壊す力だと思います。社会が固
アートの役割は、社会が固まり
かけた時にそれを溶かす、あるい
わけがありません。
としたら、こんなに古くからある
存におけるたんなる装飾的部分だ
人間の営みです。もしアートが生
タビューをまとめたり、いろんな
もらって映画をつくったり、イン
ら、商店街の人々に俳優になって
う 仕 組 み に し ま し た。 そ う し た
おいて、定期的に報告をしてもら
援助はするものの、基本は放って
たちにする作業が、アートと呼ば
それを見えるかたち、聞こえるか
制に従わない人たちです。同時代
わぬ者」と呼びます。一律的な統
そうした役割を担う人を「まつろ
必要で、それが社会をよりしなや
けたものに抵抗する、壊す動きが
いきます。そうやって社会ががち
出してくれるということまで起き
店街の人が空き家を学生用に貸し
がパンを差し入れてくれたり、商
の後、学園祭の時に、パン屋さん
告会をするまでになりました。そ
プロジェクトができて、ついに報
は、とても重要なセンスだと思い
たちがちゃんとものを申すために
んが、次の世代を育てるためには、
では推奨しにくいのかもしれませ
いいんだ!」という感覚は、学校
のあるもの、懐の深いものにする。 て思ったら、おかしいって言うて
かに生成させていく。より包容力
ます。
の社会の在りように対する違和感、 あるいは、次世代以前にまず自分
に古い、ということはディープな、 がちになって来た時に、固まりか
していて、国家体制よりもはるか
れるものではないでしょうか。
能になる。こうした、「おかしいっ
デモクラティックなもの言いが可
アートが必要です。そこで初めて
め に は、 違 和 感 を か た ち に す る
ちんとものが言えるようになるた
て生き出した時からアートは存在
つくり、花を手向けたり。人とし
でたり、人が亡くなったらお墓を
らあるものです。祈る時に音を奏
アートは、国家よりもはるかに
古く、人類が共同生活始めた時か
まつろわぬ者
い奴は監獄に入れろとか、社会は
いまの社会は、だんだんものが
言いにくくなっている感じがしま 〝溶かす 〟習俗
育事業でした。ちょっとだけ資金
発展すればするほどだんだん固
す。つまり、だんだん固まってき
私たちの社会は、これまで様々
まっていって、それに合わないも
力だと思います
ているということ。一人一人がき
た時にそれを溶かす、あるいは壊す
のを排除したり、抑圧したりして
148
1 49
アートの役割は、社会が固まりかけ
インタビュー
祭りでは男衆は女装をします。そ
童女の格好をしたり、近江八幡の
り、京都の節分でおばあちゃんが
と正反対のことを敢えてするとい
り、普段の固まりかけている秩序
酒の席の無礼講もそうです。つま
小 学 校 に な っ た ら 何 々、 中 学 校
いました。例えば祭では、幼稚園
ているのだと思います。
へとつながるような仕組みになっ
りをつくらないように、次の活力
それを年に何回か壊す。吹き溜ま
ば 共 同 体 の ガ ス 抜 き。 祭 や 葬 式、 しっかりした秩序をつくりながら
アートでもって商店街に飛び込
むのがいいのは、プログラムがな
の子でもちゃんと役があるんです。 としても祭は機能してきました。
転する」という言葉がありますが、 地域の生活では、最初からガス
抜きの装置に子どもを組み込んで
う こ と で す。
「世界を象徴的に逆
なったら何々、二十代になったら
い こ と で す。 み ん な で 集 ま っ て 、
もなく見せた。そういう教育装置
面、アホな面をしっかり見せると
そしてそういう祭の渦中で、大人
と い う 答 え が 返 っ て く る ん で す。
やってきたから続けているだけ」
る か わ か ら な い。 昔 か ら ず っ と
代で止めたら、あとで何を言われ
り ま し た。 賢 い 社 会 と い う の は、 まで祭の準備に時間を割くんです
ういう時にはもちろん性的な祝祭
若頭の見習いというように格が上
「さて、何しよう?」から始まって、
なかたちでその〝溶かす〟習俗や
もありましたが、他方で、「今日は
がっていきます。
が ち が ち に つ く る の で は な く て、 か?」と聞くと、みんな「自分の
もう好き勝手したらええけど、そ
か人手、消防署の許可とか保険と
装置をつくってきました。たとえ
の代わりまた明日からちゃんとが
そこにゴールや目標は、ありま
せ ん。
「なぜ仕事を放っておいて
ら「おい、来年もやろう」と次回
ち上げでみんなでわいわいしなが
終われば片付けや決算をして、打
うまく折り合いをつけてやらない
や ら な い と い け な い 」「 み ん な と
い う こ と だ と 思 い ま す。「 自 分 で
けていく雛形を経験してもらうと
ゼロからかたちにする力を身につ
子どもたちにアート「で」生き
る力を、というのは、将来自分で
につけるには大切なんです。
くさいけれども、大声を出したら
ら始まりますよね。おうたは照れ
子どもの教育というのは、幼稚
園で「おうた」と「おゆうぎ」か
だと思います。
う肯定感を伝えるのが大人の役割
そして最後はやはり、「生きると
いうのは楽しいことなのだ」とい
プランを相談するうちに、資金と
たちは子どもたちに、大人の凄い
んばろうね」という固い了解があ
大人の役割
の相談までする。ゼロから畳むと
といけない」という、基本的な生
音を外してもおもしろい。おゆう
カーニバルで王様が乞食になった
かの準備が必要なことに思い至り、 というのが、生き延びる技法を身
ころまで、全プロセスを経験する
存の技法を教える。だから、「トヨ
大きな音に合わせて踊ったりして
ないということがあります。
様々な大人を巻き込まないと学べ
「生きることは楽しいことだ」と
と意味があって、とにもかくにも
と て も 自 然 な 流 れ だ と 思 い ま す。 とおゆうぎから始まるのはちゃん
ぎも、走り回ったり、太鼓などの
タ 子どもとアーティストの出会
い」が学校だけでなく、商店街や
楽しい。教育というのが、おうた
を、というのは、将来自分でゼロか
らかたちにする力を身につけていく
雛形を経験してもらうということだ
と思います。
150
1 51
地域に広がっていったというのは
子どもたちにアート「で」生きる力
インタビュー
いう感覚を、子どもの時にとこと
ん味わっておくことにあると思う
んです。将来、社会生活のなかで
大変なことがあったら、自分を肯
定できなくなってしまう。けれど、
楽しい思いが原体験としてあれば、
京都市立芸術大
社会に対する違和感や批判的な感
日
@
覚を持てる。だから、子どもの時
月
27
に ア ー ト と 触 れ る と い う こ と は、
年
8
すごく大事なことだと思います。
(
学)
2
0
1
5
鷲田清一
(哲学者)
1949 年京都市生まれ。京都大学大学
院文学研究科博士課程修了。大阪大学
教授、大阪大学総長などを歴任。現在、
京都市立芸術大学理事長・学長、せん
だいメディアテーク館長。哲学・倫理
学を専攻。89 年「分散する理性」
(の
ち「現象学の視線」に改題[講談社学
術文庫])と「モードの迷宮」
(ちくま
学芸文庫)でサントリー学芸賞、2000
年「「聴く」
ことの力」
( ちくま学芸文庫 )
で桑原武夫学芸賞、12 年「
「ぐずぐず」
の理由」( 角川選書 ) で読売文学賞を
受賞。他の著書に
「ちぐはぐな身体」
(ち
くま文庫 )、「
〈弱さ〉のちから」
(講談
社学術文庫)、「哲学の使い方」
(岩波
新書)、「しんがりの思想」
(角川新書)
などがある。
1 53
152
インタビュー
平田オリザ
とだと思います。それだけ、と思
来たるべき時代の要請に応えるために
お手伝いを進めてきました。
(劇作家/演出家)
震災復興にアートは何が
うかもしれませんが、決してその
できるのか
効能を侮ってはいけません。
割以上
そして、もう少し時間が経つと、
やっと〝地域再生〟という課題が
、 出 て き ま す。 例 え ば、
いうことです。福島はいまもそう
気づける〟ということが大事だと
そこでの経験を通して感じたの
は、
震災直後は、まず〝癒し〟や〝勇
私は、震災以前から東北地方の
高校生との演劇ワークショップを
行 っ て い た の で す が、 震 災 後 は、 い っ た と こ ろ が あ り ま す が、
ができていったということがあり
における演劇を通じた復興支援の
教育支援事業などを通じて、学校
く来てくれた」という感想が多く
応は少なくなっていて、今回は「よ
じゃねえよ」などといった拒否反
るだけでも、十分に価値があるこ
てないよ」というメッセージを送
療法的なものが多かったのではな
精神的に救うというような、心理
初期にとられた方法は、とにか
く体験を吐露させることによって
せた集落から高台移転の合意形成
では、伝統芸能の獅子舞を復活さ
の家屋が流された宮城県の女川町
ました。
聞こえてきました。アートが地域
年
阪 神・淡 路 大 震 災 か ら 約 年
経って、アートに対する受け入れ
ヵ 月 は、
「君たちのことを忘れ
8
い か と 思 い ま す。 震 災 か ら
文部科学省 (以下、文科省)の復興
1
また、東日本大震災の特徴とし
て、親や家族を亡くした子どもが
もあると期待しています。
る時期に入ってきているのではな
いるのか」ということを言語化す
はどういったものだったのか」「い
昼間に起こった津波なので、それ
ぞれが学校や職場など家以外の場
その傷をどうやって回復していく
表現活動を通して自分たちの経験
段階に入った感じがあります。
を相対化し、未来につなげていく
大きな課題です。
かというのは、いまもなお非常に
所 で 被 害 に 合 っ て い る か ら で す。 何でもいいのですが、そういった
それを認識する方法は、言葉だ
けではなく、色や音、かたちでも
た こ と が 挙 げ ら れ ま す。 今 回 は、 いかと思います。
ま私たちは何を問題として抱えて
阪 神・淡 路 大 震 災 の 時 よ り 多 か っ
4
20
はないかと思います。
154
1 55
2
再生に力を発揮した例が神戸のと
語化する時期に入ってきているので
られ方は格段に変わってきたと思
て抱えているのか」ということを言
が経過した現在は、「私たちの経験
のか」
「いま私たちは何を問題とし
き以上にありましたし、これから
たちの経験はどういったものだった
います。当時あった、「音楽どころ
震災から 4 年が経過した現在は、
「私
インタビュー
が、それがだんだんとほかの人と
ムにわけて、チームごとに地域取
いまは、「ふたば未来学園」とい
う高校に、一番深く関わっていま
化を感じています。
人の
なるのですが、そこでも段階の変
いるので、他の二県とは問題が異
校の同級生で、久しぶりの再開で
ら物語ははじまります。二人は高
で二人の相談者が出会うところか
舞台にしたものでした。その窓口
会社のお客様サービスセンターを
たちが一番評価した作品は、電力
いうことを課題にしました。生徒
劇をつくるにあたっては、「なぜ
みんな善意を持っているのに、こ
が電力会社の関係者なんです。
身が置かれた状況を客観視できる
対して力を発揮しますが、自分自
に演劇は、役割分担や相互理解に
したが、非常に驚きました。確か
配役も子どもたちが決めたもので
員だったんです。もちろん内容も
が、実社会では、親が電力会社職
この時印象深かったのは、電力
会社の青年に一番食ってかかる子
るという話でした。
も、彼も地元は福島なので家族は
の会話で分かってくるんです。で
材に行って、地域が抱えている問
した。一人は、東京の大学を出た
ところまで来ているのだと感じま
るからです。と言うのも、ここの
い ま も 一 番 関 わ り が 深 い の は、
福島県です。福島は原発を抱えて 学 校 の 子 ど も の 分 の は、 親
題を演劇にするという仕組みで
すごく頭のいい電力会社職員で
した。アートの力を実感したでき
生徒を相手に、
クラスを5チー
被災していて、被害者の側面もあ
す。
す。彼は自分が電力会社に勤めて
ごとでした。
アートの〝一部 〟を
期段階に発揮された力です。
られます。これは、震災復興の初
さぶりをかけるということも挙げ
にも、死者を弔ったり、常識に揺
精神的な活動そのものです。ほか
ちを慰めたり、勇気づけたりする
最初の二つは、「トヨタ 子ども
とアーティストの出会い」の南三
おおいにありえると思います。
に は し な い 」 と い う こ と で し た。
て 英 語 力 が 上 が る な ん て こ と も、 これまでの制度のように全国一律
に言ってしまうと、アートによっ 「これはアートと教育を扱うので、
利益をもたらす可能性です。端的
性を確保しなくてはならないとい
再構築する必要を感じています。
年に、文科省の「コミュ
三 つ 目 は、 教 育 や 福 祉、 医 療、 ニケーション教育推進事業」の座
観 光 な ど 直 接 的 に 社 会 に 役 立 つ、 長 を や ら せ て い た だ い た の で す
が、その時冒頭に申し上げたのは、
ダンスは、人類が始まった頃から
の役割をわけて考え、それぞれの
当てはまると思います。この三つ
質が担保されていることが、持続
ミッションにおいては、きちんと
要するに、バラバラにして、多様
イニシエーションとしてあったも
陸のエピソード (
2
0
0
9
可能になる大きなポイント。質の
P
68
ミッションを明確にしつつ、ほか
二つ目は、
コミュニティを維持・
形成する役割です。特に、演劇や
うことです。加えて、一つ一つの
も に こ の 役 割 も 崩 れ て き て お り、 います。
んなに復興が進まないのか?」と
そこで出したルールは、「悪者を
つくらない」ということです。電
いることを話せずにいたのです
の活動に対して排他的にならない
クラスある約
力会社を悪者にするのは簡単なん
で、役割分担や合意形成などを通
ということが、アートプロジェク
す。
ですが、そうもいかない事情があ
じて、社会性の習得につながりま
トにおいて大切なことだと考えて
1
す。しかし、地域社会の崩壊とと
3
参 照 )に も
アートには、大きく三つの役割
があります。一つは、人々の気持
社会に接続する
1
5
0
代の頃に経験すること
のです。
10
156
1 57
1
4
インタビュー
理想的です。また、みな予算や人
ストが互いに認め合っていくのが
のと結びついて、学校とアーティ
れる重要な存在だと思います。
部〟をしっかり社会に接続してく
れたコーディネーターは、その〝一
役立ったりはしない。しかし、優
大学入試改革の波
員が限られたなかでやっているの
で、 そ こ に は 当 然 学 校 や 地 域 の
ニーズに応じてプライオリティー
私は、 年前から、小中高から
大学教育まですべて関わっている
が 存 在 し ま す。 そ こ で、
「 ト ヨ タ 子どもとアーティストの出会い」
の仕組みがそうであるように、間
場 の 異 な る ニ ー ズ を 汲 み 取 っ て、 派と基礎学力派のように異なる考
を感じます。例えば、ゆとり教育
高さとは、子どもたちが楽しいと
え方によって。ただ、それは健全
です。
ぎてしまうと、戻らなくなって問
ミットを超えてどちらかに振れす
ではなく、ある程度学力というも
年に導入される大
あった。そして、決定打となるの
登場しました。二度の政権交代も
国際的な学習到達度に関する調査)が
て巨大な戦車をつくる」というも
のチームで、レゴブロックを使っ
か で 出 題 さ れ た 問 題 で は、
「
前にオックスフォード大学かどこ
アートそれ自体は、非常に大き く も の だ と 思 い ま す。 要 す る に、
な営みです。すぐに成果が出たり、 揺れは常にあるもので、それがリ
しかし、実際に学校教育のなか
に入っていくためには、それだけ
題が起きるのですが、そうじゃな
は、
は一体何をしていいのか、まだ現
習の時間ができましたが、この時
これまでを振り返ると、最初は
やはりゆとりが叫ばれ、総合的学
まれてくるのですから。
によって、いい落としどころが生
いい状態だと思います。その運動
方式が多く採られると言われてい
うにディスカッションなどを課す
う て、 二 次 試 験 は
は、基礎学力は共通のテストで問
する」と述べています。具体的に
この教育改革によって、文科省
は「協働性と多様性理解を重要視
学入試改革です。
言っていたのは、「受験準備ができ
うした問題の出題者が共通して
様々な能力が必要とされます。こ
なくなった際の変更を考慮した
します。加えて、時間が間に合わ
作業の順番を決めて、役割分担を
のがありました。これは想像より
だ」ということでした。つまり、 、
り、 地 味 な 作 業 も 厭 わ な い な ど 、
も 大 変 で、 ま ず 設 計 図 を 書 い て 、
場が追いついていなかった。地域
ます。つまり、広い意味でアート
されます。
入試のよ
にも備えがなかったし、アートや
ない問題を毎年考えるのが大変
ませんでした。次に、その反動で
が行う
基 礎 学 力 派 が 強 く な り、 次 に は
型 教 育(
い問題が出るということです。
A
O
以前、世界中の大学入試試験を
調べたことがあるのですが、数年
教育系の
系の試験が増えてくることが予想
8
もほとんどあり
2
0
2
0
人
い限りは、多少揺れがあるほうが
が、
活動を持続可能にする肝です。 なかでだんだん方向が定まってい
アートの持つ三つの役割をどのよ
の存在が重要になってきます。立
を 取 り 持 つ〝 コ ー デ ィ ネ ー タ ー〟 のですが、いつも波のような揺れ
14
思えるものかどうか、ということ
活動を持続可能にする肝です。
なことで、教育というのは揺れの
アートの持つ三つの役割をどのよう
うに組み立てていくかということ
に組み立てていくかということが、
O
E
C
D
1
年の受験準備では間に合わな
2
158
1 59
立場の異なるニーズを汲み取って、
N
P
O
P
I
S
A
インタビュー
これまでは、「○○大学に入りた
い の で あ れ ば、英 単 語 を
個覚えなさい」というような指導
そこには、まず文化資本の問題
が出てきます。例えば、演劇を学
べ る 高 校 と い う の は、
イラル状に広がっていってしまう
んです。その見えない格差が、こ
れからは、大学進学や、ゆくゆく
は就職にまで直結する時代が到来
このこと自体はいい流れだと
思っているのですが、私が心配し
かないと太刀打ちできません。
生の頃から少しずつ積み上げてい
験内容になっていくので、小中学
うすると、〝地頭を問う〟ような試
れが通用しなくなるわけです。そ
うのが、私の主張です。少なくと
こうした文化資本の格差は、教
育の格差以上に広がりやすいとい
貧困の問題も重なってきます。
を占めています。さらに、ここに
それに大阪と兵庫を加えると8割
プやアートプロジェクトが、新し
ない。そう考えると、ワークショッ
大学入試改革は、世界的な学力
観の流れのなかに位置しているも
ろもあるんです。
そ の う ち の 6 割 が 集 中 し て い て、 演劇やダンスを導入しているとこ
です。ところが、東京と神奈川に
い 次 元 に 入 っ た よ う に 思 い ま す。
校あるん
ているのは、地域間格差が大きく
も教育の格差は学校に通うことで
自分たちが促進して来た動きでは
年の資料では、全国に
広がるのではないかということで
発見することができますが、親が
あるものの、それを超えて時代や
をしていればよかったものが、そ
す。極論を言うと、東京の中高一
美術館や舞台に行く習慣があるか
社会の要請が生まれつつある。い
する。いまや、東京の学習塾では、
貫校出身の子しか、東京大学に入
否かは、表に現れて来ないものな
ま、私たちが立っているのは、そ
@
のです。なので、抗うことはでき
れなくなるんじゃないかという懸
ので、気がつかれないままにスパ
念があります。
ういう場所です。直近では、東京
オ リ ン ピ ッ ク・パ ラ リ ン ピ ッ ク の
なども勤める。
動きも見据えて、私たちアート側
こまばアゴラ劇
1962 年東京生まれ。こまばアゴラ劇場芸
術総監督・城崎国際アートセンター芸術監
督。
95 年「東京ノート」で、第 39 回岸田國士
戯曲賞受賞。2006 年モンブラン国際文化
賞受賞。11 年フランス国文化省より、芸術
文化勲章シュヴァリエ受勲。東京藝術大学
COI研究推進機構特任教授、
大阪大学コミュ
ニケーションデザイン・センター客員教授
の人間も、
この状況をどう捉えて、
日
21
160
1 61
2
0
1
2
50
5
0
0
0
いかに関わっていくか、さらなる
月
10
判断を迫られていると考えます。
年
平田オリザ(劇作家/演出家)
(
場)
Photo:Tukasa Aoki
2
0
1
5
佐伯胖
何かについて考える
つまり、何かについて考えようと
は、先ほど教えた操作は必要あり
すが、実は、新しい箱を開けるに
され、制限され、促されています。 次に、箱を別のものに替えるので
(田園調布学園大学大学院
人間学研究科教授/東京大
学・青山学院大学名誉教授)
ということ
するということは、別のことを考
わった時点で、それまでの動作が
に驚くべきことに、「どうぞ好きに
えた通りの動作を真似ます。さら
つっついたりと、最初に大人が教
わかろうとしないこともまた選択
イ ッ チ が 入 る の で す。 小 学 校 に
た通りのことを真似るというス
因果関係や理由を遮断して、言っ
きています。
非を問わなければならない時期に
の 入 っ た 箱 の 開 け 方 を 教 え ま す。 トントンと叩いたり、上から棒を
行われず、ただ動作をその通りに
歳くらいになると、意図の理解は
のかという、行為の意図をちゃん
をするのではなく、なぜそうする
けるんです。
儀式のようにその作業をずっと続
けることができます。しかし、果
は〟うまく生きていく術を身につ
よって、この場合、〝学校において
の ひ と つ で す。 こ う し た 習 性 に
ために、人間がつくり上げた文化
その場所特有の身体技法を身に
つけるのは、社会生活に適応する
同じ理由です。
何本入れるという規則を守るのも
質問をしたり、筆箱の中に鉛筆を
通して身につけてきました。
ぶことはできず、競争することを
解します。教えられなかったら学
を、全部覚えるべきこととして理
いう答え方をするんだということ
序があり、どういう場合にはどう
れてきました。勉強を通した学び
私たちは、学びというのは、す
べて勉強を通してであると思わさ
私たちが学んできた身体技法
入って、理由もわからぬまま、先
真似するようになります。学習へ
たしてそれでよかったのか。いま
、
5
実 を 言 う と、 、 歳 児 は、
人の動作を真似る時に、ただ真似
3
と把握します。ところが、
4
校
年生から
年生を対象に行っ
年 に、 横 浜 市 で 小 学
は、基礎から応用、展開という順
の適応性が生まれ、教えてもらう
私たちは、「学校化された知」の是
が 退 出 し て 誰 も い な い 状 態 で も、 生が言った通りに手を挙げてから
取ってください」と言って、大人
した。ところが、人間の子どもは、
全部無意味だということを理解し
ません。チンパンジーは、箱が替
それぞれの場所において、 えないようにすることを伴ってい
人は、
その世界固有の「身体技法」を身 るのです。
て、別の方法でグミを取り出しま
につけます。そのプロセスのなか
例えば、チンパンジーと人間の
、 歳児の行動観察をした実
で、わかろうとすることが選択さ
5
れ、制限され、促される。同時に、 験があります。まず、両者にグミ
4
立場になったとたんにものごとの
6
1
9
8
7
3
2
162
1 63
「学校化された知」からの解放
インタビュー
インタビュー
た 学 習 調 査 が あ り ま す。
「
×
味はないのですが、いかにも文章
題っぽい文章をどんどんつくりま
本のリボンが
人の子どもに分け
し た。 例 え ば、
「
あ り ま す。
4
育は、考えることを教えているつ
よって、勉強ではない学び方を知
るというのがアートとの出会いだ
言えます。
いうことは、言葉できちんと正確
学校制度は、言葉に依存する思
考を促進します。ものを考えると
と思います。
アートとの出会いにおける
に表現していくものだという身体
技法です。先ほどの学習調査の子
ます。多元的価値や主観というも
関心というものが埋め込まれてい
なった結果でした。現在の学校教
意味は考えないということが露に
るものであって、問いそのものの
です。問いは出されたらただ答え
て式を書きなさい」といったもの
さんが持っています。かけ算をし
を姉
れ ば い い で し ょ う か 」 と か「 水
「根源的能動性」 も〝 非 私 的 〟 な も の だ。 な ぜ な
しかしながら、
は、同時に「根源的受動性」でも ら、詩人にはアイデンティティー
す。
会いにおける重要な点だと思いま
う世界に自分も入り込むことに
い。そうではなくて、アートとい
に、役割をわけてしまうことが多
となのかということを考えてみた
こうした状況のなかで、アート
と出会うということはどういうこ
います。また、「詩人というものは
て、 様 々 な も の へ の 配 慮 や 調 和、
ものは、全体から部分ができてい
い。ところが、例えば絵画という
です。しかし、〝誰にとって〟とい
一 般 的 な 在 り よ う と し て は、
アーティストと鑑賞者というよう う対象については考えられていな
いと思います。
この世に存在するものの中で最
り、ものごとを客観的に見る立場
こ れ は、 価 値 を 一 元 的 に 捉 え た
は、 実 に 巧 み な 文 章 を 書 き ま す。
どもたちも、算数の文章題として
のを大切にするのが、絵画的世界
がないからだ。詩人は部屋のなか
入 っ て い ま す。
です。こうした絵画的世界に触れ
あ る と い う、 矛 盾 を 孕 ん で い ま
が
るということが、脱学校的な身体
で あ る と 言 え ま す。 こ の こ と を
いうことは、ある意味では受動的
に人々と一緒にいる時、自分の頭
技法となります。
根源的能動性=根源的受動性
常に外側から行為を指示され、そ
いないと、ものごとが本当に真実
したものこそが真実」であるに違
アートとの出会いにおける
イ ギ リ ス の 詩 人、 ジ ョ ン・キ ー ツ
れに従うことです。自分自身で動
だとわかるのは、いろいろなもの
1
こうとする、根源的能動性を取り
重要な点だと思います。
「ネガティブ・ケーパビリティ
アートと出会う時に、 が、
私たちは、
自分のなかから沸き上がってくる (
」という言葉で表しています
)
ています。
学校的な身体技法とは、 ( * )
。
「想像力が美として把握
「根源的能動性」
というものに従っ
N
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b
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y
になってみるからであると述べて
根源的能動性を取り戻すということが、
8
dl
戻すということが、アートとの出
自分自身で動こうとする、
す。あらゆるものになってみると
たいと思います。リボンは何本あ
8
身体技法
= という計算の問題をつくっ もりで、実は〝考えないことを教
てください」
と投げかけたところ、 えている〟ことが起こっていると
4
半数近くの子どもたちが、全然意
32
164
1 65
8
4
dl
インタビュー
のなかがつくり出すものについて
「アートすることを広げる人」です。
ちは自分を無にして対象の内部で
も言える現象です。つまり、私た
世界が自分のなかに入ってくると
がどんどん入って行く、あるいは
がら、私たちは世界を見ています。
二つの視点を行ったり来たりしな
がアプリシエーションです。この
て、周辺との関係から見ていくの
通した真実の把握方法というわけ
の学会誌でこの場面について分析
品があります。数年前に認知科学
働く力をそのまま感じ取っていく
ヨハネス・フェルメールの絵に、
ことが大事で、それが、アートを 「 牛 乳 を 注 ぐ 女 」 と い う 有 名 な 作
です。
乳を注ぎ終わる寸前だということ
「エバリュ した研究論文がありました。牛乳
アートによる理解には、
エ ー シ ョ ン(
)
」 を注いでいる注ぎ口は、まさに牛
と「アプリシエーション (
います。これは様々な世界に自分
帰するのだ」ということも書いて
果、私は、たちまちのうちに無に
ティーが私に迫ってくる。その結
にいるすべての人のアイデンティ
ん。アーティストとは、「アートす
トだけがやることではありませ
も、それをある変化の一場面とし
像、あるいは単なる石ころを見て
リュエーション。静止した絵や彫
解 き、 批 評 家 的 に 見 る の が エ バ
背景やほかの作品との関連を読み
アーティストとアートを見る側
が、 区 別 な く 一 体 と な っ て い る。
としても見るわけです。
しようとしているのかという動き
まなざしや表情に加え、次に何を
間の流れとした時に、登場人物の
ものでした。この絵をひとつの時
について、非常に細かく解析した
自分が動こうとしている能動性
と、目に入ってくる受動性が出会
ることを広げる人」です。見る側、 こうした出会いは、学校化されて
)
」があります。時代
う。つまり、根源的能動性と根源
つまり、アートに感化される側も
す。
(
年
月
岡山」シンポ
日「 ト ヨ タ 子 ど も と
7
アーティストの出会い
2
工学部 管理工学科卒業。ワシントン
大学大学院修了後、東京理科大学、東
京大学大学院教育学研究科教授歴任。
会情報学部教授を経て、現職。学校教
育を超えて、認知科学の立場から子ど
もの学ぶ営みを分析。著書は、
「
「学び」
の構造」(東洋館出版社)
、
「
「学ぶ」と
いうことの意味」(岩波書店)
、
「認知
科学の方法」(東京大学出版会)、共
著「子どもを「人間としてみる」とい
うこと」
(ミネルヴァ書房)など。
演より抜粋)
青山学院大学文学部教育学科教授・社
ジウム「アートの力×子どもの力」基調講
i
n
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1
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1939 年岐阜県生まれ。慶應義塾大学
す。
「トヨタ 子どもとアーティ
ストの出会い」は、まさに、「アー
究科教授/東京大学・青山学院大学
トはすることなんだ」という実践
名誉教授)
をしてきたのだと思います。
(田園調布学園大学大学院人間学研
いない知であり、まさに、もうひ
的受動性が同時に出会うというの
ア ー ト し て い ま す。 ア ー ト と は、 と つ の 身 体 技 法 で あ る と 考 え ま
5)」1977 p. 124.
「アートする」という動詞なんで
が、アートとの出会いの核にあり
は考えることをしていない。部屋
A
p
p
r
佐伯胖
ます。
訳「詩人の手紙(冨山房百科文庫
166
1 67
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アーティストとは、
「アートする」という実践
* 1:ジョン・キーツ著 , 田村英之助
アートというのは、アーティス
注釈
インタビュー
堤康彦
時代に生きて、すぐ隣で私たちと同じように生活を
て、どんどん魅了されていきました。けれど、同じ
な か で、 彼 ら の 感 覚 や 社 会 の 捉 え 方 が お も し ろ く
担当を希望したのが、転機となりました。
楽が好きだったこともあり、ホールやギャラリーの
動になったんです。その時に、アートやダンス、音
という超高層ビルを建てるプロジェクトの部署に異
年後に新宿パークタワー
私は、もともと東京ガスに 年ほど勤めていまし
た。最初は、ガス工事を管理している事業所で経理
子どもとアーティストの出会いのはじまり
ティストの出会い」が始まりました。当時、私たち
がればと考え、
年から支援していただい
ト ヨ タ に は、
ています。東京だけでなく、全国に類似の活動が広
ま た、 ア ー テ ィ ス ト と も の を つ く り 上 げ て い く
たいと思うようになったんです。
もう少し人々の暮らしに近いところにアートを届け
ンにだけ享受されていることへの違和感が出てきて、
ただ、やり続けるうちに、それらが一部のアートファ
美術作品を展示したり、様々な企画を行いました。
が
年 に は、
「パークタワー・アートプログラ
ム」を始めました。ホールで演奏会をしたり、高さ
年間の「出会い」を振り返って
(トヨタ 子どもとアーティ
ストの出会いディレクター
/
法人 芸術家と子
どもたち 代表)
しているのに、なかなか触れ合う機会がない。そこ
に は ま だ 見 え て い な か っ た、 全 国 の ど こ か に い る
近 く あ る 空 間 に、 巨 大 な 鉄 と ガ ラ ス の 現 代
で、
まずはあまり先入観のない子どもに対して、アー
コーディネーターと出会うのが大きな目的でした。
を し て い た の で す が、
ティストとの出会いをつくりたいと思うようになっ
N
P
O
年に「トヨタ 子どもとアー
る活動を始めたということを知ったのも、ちょうど
て、芸術家たちが学校で、子どもと一緒に授業をす
くなった時に、子どもたちの置かれた状況を危惧し
ニューヨークで教育予算が減らされて芸術科目がな
年に発行された塩谷陽子さんの「ニュー
ヨ ー ク:芸 術 家 と 共 存 す る 街 」( 丸 善 )と い う 本 で、
う?」ということをよく考えました。ワークショッ
き て い て、
「ワークショップの本質って何なんだろ
年 初 頭 に「 ワ ー ク
私が活動を始めた
ショップ」という言葉がよく使われるようになって
変わらないこと、変わったこと
年に「芸術家と子どもたち」
年に小学校で初めて
授業を実施したのが活動の始まりです。
の 前 身 を 立 ち 上 げ、
受けながら、
プとは、「主体的でゆるやかな関係づくり」であると
10
m
そ の 頃 で し た。 こ う し て 海 外 の 事 例 か ら も 影 響 を
たんです。
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の 意 味 で 共 有 す る 」 こ と だ と 思 っ て い ま す。 例 え
で な く と も、 大 切 な こ と は、
「その場や時間を本当
学んだのですが、主体的参加を促す双方向的な形式
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インタビュー
て も、 そ の 場 の 空 気 や 時
魅力的で、講義形式であっ
立ち居振る舞いがとても
聴 か せ た の で す が、 そ の
けて最後に一曲だけ歌を
どもたちに延々と語りか
は、 あ る 学 校 の 授 業 で 子
ば、 音 楽 家 の 港 大 尋 さ ん
う疑問が湧いてきたんです。そういった子どもこそ、
加しない子どもはずっとそのままでいいのか、とい
ない人は参加しなくてもよい自由がありますが、参
出会ったことです。ワークショップは、参加したく
ないでうしろのほうに引っ込んでいる子どもと度々
きっかけは、障がいがあったり、家庭環境が複雑
だったり、何らかの理由でワークショップに参加し
るのだろうか?」と考えるようになったことです。
より意識が向いていくようになったのです。
本当は、アーティストとの関係を求めているのでは
を見た時に、形式的にワークショップであるか否か
間の流れを子どもと一緒
は重要ではないのだと思いました。
「子ども一人一
目の前にいる子どもが、いま何を感じていて、ど
ういう感覚で手を動かしたのかとか、いま喋った言
ないか。最初はアートありきで始まった活動でした
人と感覚的に何かを共有しているか」は、ずっと変
葉とその子のなかにある本当の気持ちの差はどう
に共有しているのが肌で
わらずに大事にしている視点です。
大人もそうですが、一人一人の感じ方は大きく異な
が、様々な出会いによって、子どもという存在に、
〝誰が〟
活動を続けていくなかで変化したことは、「
よりアーティストと一緒にいる時間を必要としてい
が生じたりします。
感 じ ら れ る ん で す。 そ れ
ります。パニックになってしまう子、逆に黙ってし
子どもという存在を考える時に、行政的には、教
育や福祉などのジャンルにわけていきますが、実際
す る 場 所 な の で、
「言
校も言語活動を重視
どういう感覚で手を動かしたのかとか、
いま喋った言葉とその子のなかにある
本当の気持ちの差はどういったものなんだろう、
いったものなんだろう、と日々疑問がつきません。
まう子などもいるなかで、もっと深いところで、そ
これまでは、じゃれあって遊んだりしながら、目
を 合 わ せ た と き の 感 じ や、 相 手 の 体 の 動 き や 触 れ
やインター
は非常にわかちがたくて、貧困の問題や離婚率の上
葉にできないことは
目の前にいる子どもが、いま何を感じていて、
うことができました
が、
昇など大人社会の影響を大きく受けています。
潮を感じます。
なかったことにされ
てしまう」という風
ま す。 そ し て、
「本当にわ
例 え ば、
かり合えた」という
とりが増え、コミュニケーションの質が変わってき
ています。普段は寡黙な子がインターネットの世界
やインターネットでのやり
この 年間で特に大きい変化は、やはり情報化で
す。まず、一人でゲームをやる子が格段に増えてい
字 が ベ ー ス で す。 学
ネットは言葉と絵文
S
N
S
感 覚 は、 言 葉 や 文 法
S
N
S
では非常に雄弁になるなど、そこで新たな人間関係
と日々疑問がつきません。
言葉にできないこと
れぞれの子どもに何が起きているのかを見ていきた
大事にしている視点です。
た時の質感を味わ
ずっと変わらずに
いと思っています。
感覚的に何かを共有しているか」は、
12
170
1 71
「子ども一人一人と
インタビュー
る環境がつくれたらと思っています。
わらず、それぞれの感性を発露でき、それを受容す
り返すところがあったりします。障がいの有無に関
の音としての側面を強く捉えて、何度も同じ音を繰
読み取っている様子が見受けられます。また、言葉
されていますが、言葉や表情以外で、周りの空気を
閉症の子は、他者の気持ちを読み取るのが難しいと
の正しさとは別なところにあるように思います。自
ティストが出会うことが文化として根付いていくは
が 連 な っ て 面 と な る こ と で、 や っ と 子 ど も と ア ー
毎年繰り返し同じ場所で活動をするなど、点の活動
ただこれからは、より数を増やしていく必要があ
ると思っています。全国あちこちでやっていたり、
ます。
ロジェクトも、とても質が高いものになったと思い
ぞれの事情があるのだと感じました。一つ一つのプ
ずです。そのためにも、とにかく続けること。コー
ディネーター同士のつながりは継続していきたいと
どんな人や状況でもおもしろがれるのが、コーディ
出てきて、私は東京が拠点なので、改めて地域それ
しながら、地域を巻き込んだプロジェクトが数多く
頃には予測していなかったことでした。学校を核に
ターとアーティストが動いたことは、活動を始めた
「トヨタ 子どもとアーティストの出会い」で、地
域独自の課題や被災地支援に対して、コーディネー
が小中学校で出前授業をすることも多くなってきま
(能動的学修)
」 と い う 言 葉 に 注 目 が 集 ま り、 企 業 人
思います。その上で、どうつなぐとよいかを考える。
うなんだろう?」と興味を持てる柔軟な人たちだと
重して、まずは「どんな人なんだろう?」「何でそ
先生、保護者など、異なる立場の考えややり方を尊
コーディネーターは、〝つなぐ人〟です。いろいろ
なタイプの人がいますが、子どもやアーティスト、
〝つなぐ人 〟の存在
ネーターに共通している特徴だと思います。特に、
した。アクティブ・ラーニングは、教師による一方
思っています。
子どもに対しては、正解がどこにあるのか本当にわ
教育と文化の両面から
が強い節もあり、そこからどうやって子どもたちを
業の学校教育への直接的参画は、経済優先の価値観
型の授業と重なる部分も多いと思います。また、企
アートを捉える
科 書 の 改 編、 東 京 オ リ ン
学習指導要領の改訂や教
き く 変 わ っ て き て い ま す。
学習環境は時代的にも大
現 在、 子 ど も を 取 り 巻 く
出せるという好循環が生まれます。自己肯定感を高
付き合えるし、関係性ができてくると自分を素直に
ことです。自分に自信が持てれば相手とやわらかく
「いまの子どもは夢がない」ということがよく言
われますが、要するに、自信が持てていないという
を考えていかなければならないと思っています。
守るか。はね除けるのではなく、うまい付き合い方
ピ ッ ク・パ ラ リ ン ピ ッ ク の
者と多様な関係を結んでいく必要があると思います。
開催決定に始まり、最近は、 めていくためには、小さな成功体験を積み重ね、他
「 ア ク テ ィ ブ・ラ ー ニ ン グ
172
1 73
的な講義形式ではなく、子どもが能動的に参加する
必要があると思います
かりにくく、寄り添っていくしかない。それができ
他者と多様な関係を結んでいく
教授・学習法です。我々が実践するワークショップ
小さな成功体験を積み重ね、
る、しなやかな人たちなのだと思います。
自己肯定感を高めていくためには、
インタビュー
そしてそれは、学力が低い子や講義形式の授業に
は参加できないような子たちにこそ、必要だと考え
のではないでしょうか。
それらを誘発するのが、アーティストとの出会いな
きたいと思っています。
出会いが必要なんだ、という認識を全国に広めてい
です。もちろん難しさはありますが、文化としての
芸術家の授業を実施するのは、全国でも珍しいこと
る」
(教育開発研究所)などがある。
側面だけでなく、教育にとってもアーティストとの
ています。他者と多様な関係を結んでいくことが、
どもたちのコミュニケーションを育て
にしすがも創造舎)
の思想と実践」
(東京大学出版会)
、
「子
日
どもたちの想像力を育む アート教育
月
養護施設での活動を開始。共著に、
「子
年
ズ・トーキョー」を始動。11 年、児童
(
作プロジェクト「パフォーマンスキッ
巡り巡って結局は学力を上げることにもつながりま
ル等で、子どもが主役の舞台作品創
す。
法人化。08 年、都内小中学校やホー
置き去りにされてしまっている子たちは、いくら
教科書を厚くしたり、授業時数を増やしても学力は
ワークショップ型授業を実践する活動
上がりません。大事なのは、「新しいことを知るって
「ASIAS」をスタートし、2001 年 NPO
おもしろい」という感覚を育むこと。それが、授業
年、アーティストを小学校等へ派遣し
@
のシリーズ企画をプロデュース。99
18
ルやギャラリーでダンス・音楽・美術等
参加度を高め、学力の向上につながる。彼らには、
11
株式会社に勤務。その間に、
新設のホー
アートを含めた複数のアプローチをすることが、学
済学部卒業。1987 ~ 97 年、東京ガス
家と子どもたち 代表)
174
1 75
1965 年東京生まれ。慶応義塾大学経
2
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5
会いディレクター/ NPO 法人 芸術
力向上につながると思っています。
堤康彦
豊島区では、
芸術家を小中学校等へ派遣する「〝次
世 代 文 化 の 担 い 手 〟 育 成 事 業 」 が、
年か
ら開始されました。教育委員会が教育予算をとって
(トヨタ 子どもとアーティストの出
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5
開催年
2007 年
2008 年
2009 年
2010 年
開催地
1 77
アーティスト(敬称略)
別府市立中部中学校
沖縄
那覇市久茂地公民館
[シンポジウム]
北海道
札幌市立新光小学校
河田雅文(現代アート)
群馬
前橋市立滝窪小学校金丸分校
荒井良二(絵本)
群馬
前橋市立中央小学校
北村成美(コンテンポラリーダンス)
愛知
豊田市立東保見小学校
北山美那子(現代アート)
岡山
瀬戸内市立牛窓西小学校
甲斐賢治(映像)
京都
大分
佐伯市立上堅田小学校
土谷享(現代アート)
京都
宇治市立大久保小学校
砂連尾理 + 寺田みさこ(コンテンポラリーダンス)
大分
大分市立明野西小学校
井上信太(現代アート)
京都
京都市立石田小学校
LOCO( 現代アート)
宮城
大崎市立川渡小学校
村山耕二(ガラス作家)
大坂
門真市立第二中学校
セレノグラフィカ(コンテンポラリーダンス)
宮城
仙台市立市名坂小学校
山本耕一郎(現代アート)
愛知
群馬
前橋市立城南小学校
スズキコージ(絵本)
愛知芸術文化センター
[シンポジウム]
群馬
シネマまえばし
[シンポジウム]
岡山直之(現代アート)
「トヨタ・子どもとアーティストの出会い」開催記録 2004 ー 2016
大分
開催年
百名伸之(沖縄県立南部医療センター・こども医療セ
ンター小児血液腫瘍科部長)
、
日比野克彦(現代アート)ほか
茂木一司(群馬大学教育学部教授)ほか
2004 年
2005 年
開催地
活動場所
アーティスト(敬称略)
愛知
第 24 回 とよた子ども造形
フェスティバル
木村崇人 ( 現代アート )
愛知
一宮市立神山小学校
天野天街 ( 演劇 )、
山田珠実
(コンテンポラリーダンス)
ほか
京都
宇治市立大久保小学校
砂連尾理 + 寺田みさこ(コンテンポラリーダンス)
京都
京都教育大学教育学部附属
桃山小学校
モノクロームサーカス(コンテンポラリーダンス)
、
THIS=MISA × SAIKOU( 音楽 )
京都芸術センター
[シンポジウム]
糸井登(宇治市立平盛小学校教諭)
、
藤川大祐(千葉大学 教育学部助教授)ほか
椿昇 ( 現代アート ) ほか
京都
西陣児童館
LOCO( 現代アート)
沖縄
那覇市農連市場
パルコキノシタ(現代アート)
沖縄
那覇市立真地小学校
伊江隆人(現代アート)
岡山
赤磐市立桜が丘小学校
小島 剛(音楽)
岡山
笠岡市立真鍋小学校
真部剛一(現代アート)
北海道
札幌市立清田小学校
加賀城匡貴(ステージパフォーマンス)
岡山
吉備中央町立下竹荘小学校
真部剛一(現代アート)
愛知
瀬戸市立掛川小学校
モノクロームサーカス(コンテンポラリーダンス)
大分
別府市立中央小学校
北村成美(コンテンポラリーダンス)
沖縄
沖縄県立森川養護学校
ギマトモタツ(現代アート)
宮城
大和町立鶴巣小学校
千葉里佳(ダンス)
沖縄
那覇市立若狭小学校
雛素芬(現代アート)
宮城
仙台市立東四郎丸小学校
片岡祐介(音楽)
沖縄
照屋勇賢(現代アート)
鳥取
鳥取市立逢坂小学校
鳥の劇場(演劇)
琉球大学医学部附属病院院内
学級
岡山
苫田郡鏡野町立上齋原小学校
タノタイガ(現代アート)
北海道
札幌市立山の手南小学校
野上裕之(現代アート)
北海道
札幌市立有明小学校
石川直樹(写真)
北海道
札幌市立清田小学校
[シンポジウム]
岡山
2011 年
活動場所
山陽新聞社さん太ホール
[シンポジウム]
2006 年
佐伯胖(青山学院大学社会情報学部教授)ほか
鳥取
鳥取県立鳥取緑風高等学校
大岡淳(演劇)
鳥取
鳥取敬愛高等学校
森下滋(音楽)
鳥取
日南町立日南小学校
来間直樹(建築)
、高増佳子(建築)
2007 年
北海道
加賀城匡貴 ( 現代アート )、野上裕之 ( 現代アート )、
石川直樹(写真)ほか
札幌市立新陵東小学校
トブチチグ(版画)
、宝音(絵画)
群馬
前橋市立中川小学校
伊藤キム(コンテンポラリーダンス)
愛知
瀬戸市立道泉小学校
山田珠実(コンテンポラリーダンス)
176
開催年
2014 年
開催地
名古屋市立新栄小学校
なにいろ labo(デザイン)
鳥取
鳥取市立逢坂小学校
中島諒人(演劇)
、武中淳彦(音楽)
、
鳥の劇場所属俳優(演劇)
開催年
開催地
アーティスト(敬称略)
2011 年
高知
高知市立新堀小学校、
追手前小学校
磯崎道佳(現代アート)
宮城
南三陸町立伊里前小学校、
入谷小学校、志津川小学校、
戸倉小学校、名足小学校
榊原光裕(音楽)
、猪狩大志(音楽)
石川
金沢市立弥生児童館
川口隆夫(パフォーマンス)
高知
四万十市立口屋内小学校
濱田公望(映像)
、松岡映里(現代アート)
高知
高知県立高知江の口養護学校
三好直美(コンテンポラリーダンス)
、
Antenna(現代アート)
、海野貴彦(現代アート)
岩手
大槌町立赤浜大小学校、
安渡小学校、大槌小学校、
大槌北小学校
寺崎巖(音楽)
、井上静香(音楽)
、直江智沙子(音楽)
大島亮(音楽)
、門脇大樹(音楽)
、伊禮しおり(音楽)
齋藤弦(音楽)
、藤澤英子(音楽)
岩手
宮古市立鍬ヶ崎小学校
長内努(美術)
岩手
大槌町立大槌小学校
寺崎巖(音楽)
、佐々木駿(音楽)
、佐々木治子(音楽)
白旗弘(音楽)
、谷藤綾香(音楽)
、熊谷綾子(音楽)
佐藤希(音楽)
、吉原正教(音楽)
、江越海(音楽)
宮城
宮城県立志津川高等学校
佐藤正隆(音楽)
、法笙組(音楽)
、ケコ・ユンゲ(音
楽)
、エクトル “ ティト ” ペソア(音楽)
、ローラ・ブ
ライヤー(音楽)
SYUTA(現代アート)
当別町サンサンフェスタ会場、
大崎市岩出山地区公民館、
宇和島市袋町商店街
磯崎道佳(現代アート)
岩手
宮古市民文化会館
おきあんご(演劇)
、畠山泉(演劇)
、稲生創(音楽)
長内努(美術)
、寺崎巖(音楽)
宮城
南三陸町立志津川小学校
榊原光裕(音楽)
、猪狩大志(音楽)
福島
福島県立大笹生養護学校
川﨑久美(美術)
福島
福島県立石川養護学校
中津川浩章(現代アート)
石川
金沢市立浅野町児童館
長井江里奈(ダンス)
、北園優(パフォーマンス)
京都
東山いきいき市民活動セン
ター、京都市三条学童保育所、
東山開睛館小学校・中学校
セレノグラフィカ(コンテンポラリーダンス)
、
出川晋(美術)
愛知
都市機構九番団地集会所
つじたくま(映像)
岡山
笠岡市北木島
小谷野哲郎(ダンス)
、岩本象一(音楽)
石川
金沢市立千坂児童館
野村誠(音楽)
、片岡祐介(音楽)
、尾引浩志(音楽)
愛媛
宇和島市立明倫小学校、
宇和島市袋町商店街
磯崎道佳(現代アート)
石川
金沢市立三和児童館
かるべめぐみ(美術)
四万十市立西土佐小学校
アサダワタル(音楽)
別府市立南部児童館
片岡祐介(音楽)
、鈴木潤(音楽)
土谷享(現代アート)
、JOU(ダンス)
高知
大分
苫小牧市立樽前小学校、
美園小学校、拓進小学校、
豊川小学校
藤沢レオ(現代アート)
岩手
大槌町立大槌小学校
寺崎巖(音楽)
、
佐々木駿(音楽)
、
佐々木治子(音楽)
、
白旗弘(音楽)
、谷藤綾香(音楽)
、熊谷綾子(音楽)
、
吉原正教(音楽)
宮城
南三陸町ポータルセンター
浅田政志(写真)
福島
南相馬市立太田小学校
カミイケタクヤ(美術)
石川
金沢市杉の木ホーム
関かおり(コンテンポラリーダンス)
石川
小松市東部児童センター
川口知美(美術)
さっぽろ天神山アートスタジ
オ、札幌市立平岸高台小学校
永岡大輔(映像)
、黒田大介(現代アート)
岩手
宮古市民文化会館
牛崎想也(脚本家)
、畠山泉(演劇)
、寺崎巌(音楽)
、
土岐美野(ダンス)
、長内努(美術)ほか
大分
別府市内児童クラブ
片岡祐介(音楽)ほか
北海道
2012 年
2013 年
北海道
2014 年
石川
1 79
活動場所
笠岡市白石島公民館
北海道
宮城
愛媛
2016 年
アーティスト(敬称略)
愛知
岡山
2015 年
活動場所
※肩書きは、実施当時のものです。
金沢 21 世紀美術館
[シンポジウム]
堤康彦(NPO 芸術家と子どもたち代表)ほか
178
愛知
NPO 法人 アスクネット
学校とまちをつなぐ教育の専門家「教育コーディネーター」による集まり。生徒、保護者、教師、
地域のネットワークづくり、「市民参加の教育づくり」を推進。キャリア教育の観点から環
全国コーディネート団体一覧
全国の「子どもとアーティストの出会い」コーディネート団体をご紹介します。
ワークショップ開催に関心のある方は、各団体に直接お問い合わせください。
境学習、アート等のワークショップを展開している。
www.asknet.org
北海道
[email protected]
一般社団法人 AIS プランニング
京都
開発を実施。「アーティスト・イン・スクール」では、アーティストが教室に滞在し、休み
まちづくりや、企業の CSR 活動に対して文化事業のソフト提供及び新たな文化事業の研究・
NPO 法人 子どもとアーティストの出会い
時間や放課後に子どもたちと交流する場を設けている。
る非営利組織。主な活動は、「TOA トライやる・ウィーク」「TOA Music Workshop」「ダン
[email protected]
学校でのワークショップのコーディネートや企画運営等、教育活動をアートによって支援す
スで理科を学ぼう」など。
www.npo-kad.com
ais-p.jp
岩手
[email protected]
NPO 法人 いわてアートサポートセンター
岡山
る教育普及活動を行い、地域文化の形成及びコミュニティの活性化に寄与することを
芸術文化の創造と発信に関する事業及び市民協働型の芸術文化活動や芸術文化に関わ
NPO 法人 ハートアートリンク
目的に活動している。
を含めた市民に、様々な場所で表現活動を提供。主な活動は、
「アートリンク・プロジェクト」
[email protected]
多様な人々がアートを通して相互に関わっていく過程を重視し、高齢者・障がい者・子ども
「笠岡諸島・島の文化祭」など。
heartartlink.org
iwate-arts.jp
宮城
[email protected]
ENVISI
鳥取
活動している。主な活動は、
「南三陸みんなのきりこプロジェクト」(宮城県南三陸町)など。
NPO 法人 鳥の劇場
現代劇の創作・上演と併行して、ワークショップや優れた作品の招聘、レクチャーなどを実
施。主な活動は、「鳥の演劇祭」における「子どものためのワークショップ」「鹿野町中おは
なしラリー」など。
www.birdtheatre.org
info @ birdtheatre.org
高知
はれんちしまんとプロジェクト
「~はれの日を、じぶんちに。~ 四万十川のあたり。」をキャッチコピーに、アートプロジェ
クトを通じて、四万十川周辺をおもしろい場所にする活動を展開。主な活動は、
「沖の島アー
トプロジェクト」「はたアートキッズプログラム」など。
harenti.blogspot.jp
[email protected]
大分
NPO 法人 BEPPU PROJECT
複合型国際芸術フェスティバルの開催、現代芸術の紹介や教育普及活動、出版やリノベーショ
ンなどを実施。主な活動は、小中・特別支援学校、障害者福祉施設・高齢者福祉施設・児童
アートの力でまちと人に生き生きとした見えざる活力と価値を蘇らせることをミッションに
www.envisi.org
[email protected]
福島
ARTS for HOPE
アート NPO「Wonder Art Production」による東北応援チーム。ホスピタルアートや子ども
の情操教育の実績を活かし、東日本大震災直後より地域や行政、学校や企業と連携しながら、
アートによる「心」の応援活動を各地で展開している。
artsforhope.info
[email protected]
群馬
前橋芸術週間
前橋市を中心に芸術文化やまちづくり活動に参加する市民が、地域におけるコミュ二ケー
ションの再生を目的に、美術・演劇・ダンス・音楽・映画・障がい者芸術と多岐に渡り活動。
www.theplace1985.com
[email protected]
東京
養護施設でのアーティストワークショップなど。
NPO 法人 芸術家と子どもたち
[email protected]
主な活動は、都内の公立小中学校(通常学級及び特別支援学級)や特別支援学校、保育園、
www.beppuproject.com
沖縄
現代アーティストと学校教育や児童福祉等をつなぐ活動を企画・コーディネートしている。
児童養護施設等での授業やワークショップなど。
www.children-art.net
NPO 法人 地域サポートわかさ
[email protected]
連携・協力を図り、明るく活力あるまちづくりを進めることが目的。若狭公民館、若狭児童
石川
若狭が浦地域(那覇市若狭公民館エリア)を住み良いまちにするため、学校、地域、家庭と
館の指定管理者。主な活動は、「若狭地域文化祭」「朝食会」など。
アーティストの出会い石川
[email protected]
ショップを企画・コーディネート。地域とのつながりも大切にし、アーティストと共に、と
cs-wakasa.com/kouminkan
1 81
一般社団法人
主に児童館・放課後児童クラブで過ごす子どもたちのもとにアーティストが訪れるワーク
きめく芸術の世界を築くことを目指している。
toyotart.exblog.jp
[email protected]
180
トヨタ・子どもとアーティストの出会い
この 12 年間の出会いは何をもたらしたのか?
2015 年 12 月発行
企画:
漆崇博(トヨタ 子どもとアーティストの出会い事務局/一般社団法人 AIS プランニング) 樋口貞幸(トヨタ 子どもとアーティストの出会いアドバイザー/ NPO 法人 アート NPO リンク)
トヨタ自動車株式会社 社会貢献推進部
編集:
川村庸子
長谷寛
執筆:
小野民[P22 ~ 43、P68 ~ 97、P98 〜 115]
甲斐かおり[P44 ~ 67、P116 ~ 135]
デザイン:
千原航
監修:
堤康彦(トヨタ 子どもとアーティストの出会いディレクター/ NPO 法人 芸術家と子どもたち)
印刷・製本:
トヨタ・ループス株式会社
発行:
トヨタ自動車株式会社 社会貢献推進部
〒 112-9605 東京都文京区後楽 1-4-18
http://www.toyota.co.jp/social_contribution
本書に関するお問い合わせ:
一般社団法人 AIS プランニング(担当:漆)
mail:[email protected]
*無断複製、複写、転載を禁止いたします。
© トヨタ 子どもとアーティストの出会い事務局
http://artists-children.net