関八州下総国相馬郡という所について。

関八州(かんはっしゅう)下総(しもうさ)の国、相馬郡(そうまこおり)
関八州とは江戸時代の関東8ヶ国、相模(さがみ=神奈川県)、武蔵(むさし=東京都埼玉県)、安房(あわ=房総
半島南部)、上総(かずさ=千葉県房総)、下総(千葉県北部)、常陸(ひたち=茨城県)、上野(こうづけ=群馬県)、下
野(しもつけ=栃木県)の関東八州をいいました。下総国は、千葉県北部と茨城県南部にまたがっていました。
上図の説明
1、葛飾郡(かつしか-こおり)、下総国府(しもうさのこくふ、市川市国府台)
風早郷、松戸荘、矢木郷、国分郷(国分寺領)、八幡荘(不明)、夏見御厨※1(みくりや、伊勢神宮 1138 年~)、
下河辺荘(八条院 1186 年~)、下河辺野方荘、大島郷、葛西御厨、葛西猿俣荘、東京都葛飾区(全域)、
江戸川区(公有水面埋立地※2 を除く)、墨田区(堤通、東向島、京島、文花以東および押上の一部)、江東区
(亀戸、大島、北砂、南砂、東砂)、千葉県松戸市(全域)、野田市(全域)、流山市(全域)、市川市
(公有水面埋立地※2 を除く)、浦安市(公有水面埋立地※2 を除く)、柏市(大字呼塚新田、根戸新田、
松ヶ崎新田、宿連寺、布施(弁天下以東および大津川以東を除く)、鎌ケ谷市(大字軽井沢を除く)、船橋市
(概ね東船橋、駿河台一丁目、市場、東町、米ヶ崎町、高根町、新高根、南三咲、三咲町、三咲、
みやぎ台、咲が丘以西、及び七林。公有水面埋立地※2 を除く)、埼玉県三郷市(全域)、吉川市(全域)、
幸手市(全域)、北葛飾郡松伏町(全域)、北葛飾郡杉戸町(全域)、春日部市(大落古利根川以東)、久喜市
(八甫、西大輪、東大輪以北)、茨城県猿島郡五霞町(全域)、古河市(葛生(かづろう)、柳橋、稲宮、
上大野以西。
国府は現在の都道府県庁所在地で、国分寺があり県庁舎のような役割も担っていました。
東京の両国橋の名は、武蔵国(江戸)と下総国の境であったため、両方の二つの国から、両国の橋とついた。
2、相馬郡、(全 6 郷)相馬御厨※1(伊勢神宮 1130 年~)
茨城県北相馬郡利根町、取手市(小貝川以北および高須、大留、押切、神浦を除く)、常総市(坂手、菅生、
大塚戸、内守谷)、龍ケ崎市(川原代町、須藤堀町以南)、守谷市、つくばみらい市(鬼怒川以西および鬼長、
川崎)、千葉県柏市(布施、布施下、弁天下、布施新町一 - 三丁目、大津川以東)、我孫子市
3、千葉郡
萓田郷・神保郷(後に萓田神保御厨※1 となる)、吉橋郷、千葉荘、白井荘(延暦寺 1186 年~)、菊田荘、
武石郷、千葉市(公有水面埋立地※2 および以下の 4 地区を除く)
① 緑区越智町、高津戸町、下大和田町以南および大高町の一部
② 花見川区大日町
③ 花見川区宇那谷町
④ 緑区板倉町
船橋市(前原西、中野木、駿河台二丁目、飯山満町、芝山、高根台、大穴町、大穴南、大穴北、楠が山町、
神保町、八木が谷以東およびみやぎ台の一部。ただし七林を除く)、習志野市(公有水面埋立地※2 を除く)、
八千代市(印旛放水路以西および勝田、勝田台、勝田台南)、八千代市の印旛放水路以東は後に印旛郡から
当郡に編入されている。
4、印旛郡(いんば-こおり)
印西条、平塚郷、臼井郷(臼井荘 1331)、印東荘(成就寺(仁和寺成就院 1186 年(1155 年以前より荘園)、
千葉市(花見川区大日町、宇那谷町)、成田市(下方、台方、江弁須、飯田町、飯仲、並木町以南)、
佐倉市、柏市(呼塚新田、柏堀之内新田、柏下、柏中村下、戸張新田)、八千代市(勝田、勝田台、
勝田台南を除く印旛放水路以東)、鎌ケ谷市(軽井沢)、四街道市、八街市、印西市、白井市、富里市
酒々井(しすい)町、栄町(長門川以西)、後に成田市(安西、磯部、水掛、四谷、幡谷、土室、芝、大室、
十余三、新田、川上以西)
、栄町(長門川以東)が下埴生郡から当郡に編入されている。
5、埴生郡(はぶ-こおり、下埴生郡)
埴生西条、富谷郷、河栗郷、遠山方御厨※1(伊勢神宮 1249 年)、埴生荘園(不明 1197 年)、成田市
(以下の 2 地域を除く)
① 下方、台方、江弁須、飯田町、飯仲、並木町以南
② 西大須賀、四ツ谷、名古屋、高倉、成井、地蔵原新田、津富浦、吉岡、多良貝、大栄十余三以東
栄町の一部(長門川以東)、茨城県稲敷郡河内町(田川)
6、香取郡
大須賀郷(大須賀保 1271 年)、香取社領(摂関家)、大戸荘(摂関家 1186 年)、神埼荘(1186 年)、銚子市
富川町、森戸町以北)、成田市(西大須賀、四ツ谷、名古屋、高倉、成井、地蔵原新田、津富浦、吉岡、
多良貝、大栄十余三以東)、旭市(秋田、萬力、米込、入野、関戸、萬歳以北)、匝瑳市(吉田、南神崎、
八辺、公崎、飯多香、城下、内山新田、内山、飯塚、米持以北)、香取市、山武郡横芝光町(新井、宝米、
二又、篠本以北)、茨城県稲敷市(清久島、橋向、佐原組新田、手賀組新田、八千石、上須田、本新、浮島、
境島、大島、三島以南)、茨城県稲敷郡河内町(片巻、和銅谷、金江津以東)、旭市・匝瑳市・横芝光町に
あたる地域は、後に匝瑳郡に編入されている。
7、海上郡
小見荘、三崎荘(海上荘)、(九条家 1186 年、橘荘(東荘)/木内荘(二位大納言家 1186 年)、松沢荘(不明
1197 年)、銚子市(富川町、森戸町以北を除く)、旭市(以下の 3 地域を除く)
① 井戸野、川口、泉川、駒込、大塚原
② 鎌数、新町
③ 秋田、萬力、米込、入野、関戸、萬歳以北
旭市の 1・2 にあたる地域は、後に匝瑳郡から編入されている。
8、匝瑳郡(そうさ-こおり)
匝瑳北条荘(不明 1197 年)、匝瑳南条荘(匝瑳荘)(熊野山 1186 年)、千田荘(本家皇嘉門院、領家藤原親政
1180 年)、玉造荘(園城寺 1186 年)、飯塚荘(不明・1254 年)匝瑳市(吉田、南神崎、八辺、公崎、飯多香、
城下、内山新田、内山、飯塚、米持以北を除く)旭市(井戸野、川口、泉川、駒込、大塚原)、鎌数、新町
山武郡横芝光町(新井、宝米、二又、篠本以北を除く栗山川以東)後に匝瑳市にあたる地域および横芝光
町の一部(新井、宝米、二又、篠本以北)が香取郡から編入されている。
また、後に旭市にあたる地域が海上郡に、横芝光町にあたる地域が山武郡に編入されている。
9、結城郡(ゆうき-こおり)
結城市(全域)、古河市(東部のごく一部)、結城郡八千代町(東部、南部のごく一部を除く全域)
10、猿島郡(さしま-こおり)
坂東市(全域)、古河市(北山田、谷貝、東山田、長左衛門新田、山田、新和田、大和田、仁連、上片田、
下片田、駒込、五部、上和田、諸川、諸川新田)、猿島郡境町(全域)
11、豊田郡
常総市(東部)、下妻市(南部)、結城郡八千代町(南部のごく一部)
12、岡田郡(豊田郡が分割成立)
常総市(北西部)、下妻市(南部のごく一部)、結城郡八千代町(南部のごく一部)
※1 御厨 (みくりや)
御厨とは「御」神の「厨」台所の意味で、神饌(しんせん、日本の神社や神棚に供えるお供物)を調達し調理す
る場所です。
本来は校倉造りの屋舎をいいます。また、耕作や鮮魚等を捕獲するための領地も含まれていました。
中世日本においては、皇室や伊勢神宮などの有力な神社は荘園(神の領域)を持ち、後世に地名及び名字として
残りました。
鎌倉時代には全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどありました。
さらに中世では、たびたび武士団によって略奪や押領され、武士の領地化が起こっていました。
特に相馬御厨や大庭御厨は源義朝の濫行で歴史上有名です。
※2 公有水面埋立法 (こうゆうすいめんうめたてほう)
公有水面(河川、海域、湖沼その他の公共の用に供する水面で国の所有に属するもの)の埋立(干拓を含む)につ
いて規制する法律。
公有水面の埋立をしようとする者は都道府県知事の免許を受けなければならず、埋立工事完了後に知事の竣工
認可を受けて埋立地の所有権を取得する。
国土が狭く人口密度の高い日本では抵抗なしに広大な土地を求める有効な手段として海浜の埋立が広く行わ
れ、第二次大戦後のみで国土の 0.32%以上が埋め立てられた。
近年は、大地震による液状化現象で家屋や道路が崩壊して問題になっている、また残り少なくなった自然海岸
の保全のための埋立凍結の動きも盛んである。なお、廃棄物の埋立処分は、
「廃棄物処理法」により規制される。
將門と秀郷の一騎打
の絵馬
北柏の松ヶ丘城址公園内の不動堂にあったもの、
昭和 40 年代焼失した。
下総国の古地図(参考資料)
平氏から相馬氏までの家系図(相馬郡守谷取手簡易版)
平安時代末期に相馬郡の荘園の大部分が伊勢神宮に寄進されたため相馬御厨として文献に登場します。
相馬御厨の税収管理権は千葉氏にあったようですが、これを巡って上総氏などと争っていました。
千葉常胤の代に千葉氏による下総国の支配権が確定した後は、二男相馬師常に相馬御厨が相続され、
以降師常の子孫が相馬氏を名乗りました。
なお、福島県に存在する相馬市や南相馬市は、中世下総国相馬郡より起こった相馬一族に由来するものです。
相馬氏第二代目相馬義胤が軍功によって陸奥国行方郡に地頭職を得、第十一代相馬重胤が行方郡に土着したと
されます。
取手市や守谷市、我孫子市や流山市と福島県相馬の歴史的な関係は深く、現在に至るまで交流が続いています。
<左:九曜紋の平、中:つなぎ馬の相馬、右:亀甲梅の千葉家系の家紋>
下総相馬氏略系図
相馬家は、下総の他に奥州など全国に散らばっていますが、此処では下総相馬に的を絞っております。
参考資料:常総戦国誌、守谷城主相馬治胤 川嶋建著、
ホームページ千葉一族、http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm
下総国相馬の歴史跡
「とりで」という地名の民話
むかし、大鹿(おおじか)太郎左衛門という殿様がいました。
なさけのある殿様で、ご領内の人は、みんな、おしたいしとったと云います。
ところがあるとき、ふとしたことから ひいた風邪を、すっかりこじらせ、
とうとう寝込んでしまいました。
これを聞きつけたのが 近くの小文間(おもんま)に陣をかまえていた
一色宮内(いっしきくない)という戦い好きな武将だった。
すーぐと 大鹿の砦に押しかけて来たのです。
肝心の殿様は風邪で病気では大鹿方は威勢もあがりゃしない。
おまけに戦いの段取りも、後手後手とまわって、家来は次々に
討ち死にしていった。
いよいよ砦も危うくなった時平は、奥方や子供たちを、取手の後ろの山伝いに
菩提寺である弘経寺(ぐぎょうじ)へ逃がし、みずからは切腹してはてた。
一色の軍は、大鹿の砦(取手)に火を放って勝ちどきをあげた。
だが、じきに自分たちも同じ目をみることになったのです。
それは、大鹿の娘婿に高井十郎という武将がいたのです。
高井は、ふだんから一色に敵意をもっている、あちこちの武将に声をかけて
五百人ほどの味方を集めると、一色に弔い(とむらい)合戦をいどんで、見事に
打ち滅ぼしてしまったのです。
「取手」という名は、この、大鹿の「砦」があったことから 付いたということです。
取手の昔ばなし」より
古文書(こもんじょ)には「取手」の他に、鳥手、取出、鳥出、などの記述があり、台宿坂上の幼稚園裏の石仏
で見る事ができます。
「雁金山の合戦」について、更に詳しい資料を用意しています。
「一色宮内大鹿城ヲ攻ル事」
、「荒木三河守小紋城ヲ乗取ル事附一色宮内千葉ヘ落ル事」
。
我孫子の新木城城主であった田口内蔵之助の戦記『東国戦記実録』古文書「雁金山の合戦」があります。
<「雁金山の合戦」を現代訳で書庫に掲載しています >
「取手」は「とって」とも読めます、正確には「取っ手」で箪笥などの引手、ドアノブも同意語のようですが
茨城県取手市の歴史には全く関係ありません。
明治中期頃の北相馬郡と南相馬郡の地図
地図の説明
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
高井城趾跡公園、取手市内で唯一残る戦国時代のお城の跡です。
大鹿山弘経寺、民話「取手の名の始まり」に出てくる、大鹿城主の菩提寺でした。
大鹿の砦は、現在の取手競輪場南ゲート付近、上り坂の左側にあったそうです。
小文間(おもんま)城跡は山林となり、明確な痕跡がありません、菩提寺の東谷寺の付近です。
「お遍路の渡し」があった所、取手市小文間戸田井と我孫子市布佐。
「神出しの渡し」があった所、取手市小文間東谷寺下と我孫子市古戸。
新木城のあったとされる葺不合神社の丘
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
中峠(なかびょう)城があった古利根縁 (この地図では利根川の流れが現在と違っています)
明治時代までの「小堀(おほり)の渡し」
、この頃は井野村に属していました。
昭和初期頃迄の「取手の渡し」場、取手市愛宕社下と我孫子市青山を渡していた公認の渡し場。
「七里ヶ渡し」があった、現在の新大利根橋の袂に立つ鈴掛(プラタナス)の樹の辺り。
古戦場「雁金山の合戦」があったとされる城根地区、高井、新木、柴崎城主と小文間城主の戦い。
この頃の利根川河川敷きには湖沼が多く、我孫子の久寺家と中川の河川敷には、蘭沼、本願寺沼と言われた
大きな沼がありました。
沼には多くの野鳥が飛来し、鴨や白鳥の生息地でしたが、乱獲により絶滅したそうです。
現在は水害時の遊水地になっていて、我孫子側は田中遊水地、取手側は稲戸井遊水地といいます。
下総国相馬霊場地区の郷土史年表
4000 年前
大同元年(806)
平安時代(794~1184)
承平五年(935)
大治五年(1130)
小文間の長妻貝塚ができる。
「空海」遍照金剛となり真言密教を説く。
柏市布施弁天と取手市戸頭の間に「七里ヶ渡し」
平将門の乱、取手市長禅寺は、将門の祈願寺
相馬御厨(みくりや)伊勢内宮管理の食糧域と制定、
茨城県守谷から千葉県沼南、我孫子手賀沼と広範囲。
鎌倉時代(1185~)
我孫子市新木~湖北間に「鎌倉道」現存
永禄四年(1561)
信長の時代、大鹿城事件「雁金山の合戦」
(1573~1599)
秀吉により小田原城陥落、北条氏滅亡取手や我孫子の城主も滅ぶ
寛永年間(1624~1644) 水戸街道が制定され取手宿が栄える
安永五年(1776)
相馬霊場完成、安永七年説もあります。
安永六年(1777)
八月五日浅間山の大噴火で利根川氾濫
安永九年(1780)
利根川の東遷(とうせん)により五万石の大穀倉地帯ができる。
利根川の東遷工事前後の利根河川の違い。
1590 年~1654 年、利根川の流れを現在の銚子に変える大事業を家康は関東郡代伊奈忠次に命じました。
伊奈忠次は、伊奈忠政、伊奈忠治の親子3代にわたり工事を引継ました。
利根川は当時の常陸川 (地図内の鬼怒川と江戸川の間の河川)で取手上流でつなぎ、銚子へと流れを変えまし
た。古い利根川は関宿の水門で水量を減らし、江戸川として現在に到っています。
この大事業によって関東平野の埼玉、東京の大水害は減少しました。
又、茨城県の霞ケ浦は当時、龍ヶ崎や千葉県の我孫子の手賀沼迄の広い海でしたが、明治 33 年から浚渫土(し
ゅんせつど、川底を下げる工事)と築堤(ちくてい、堤防)による埋め立てを昭和初期まで行い、河口から取手ま
での地形をほぼ現在の地形にしたようです。
さらに、利根川の東遷は、大河川の利根川河口を東京湾から太平洋の銚子へ流を変えただけではなく、利根川
支流の三大河川である、鬼怒川と小貝川の分流による、洪水対策以外に「伊奈三万石」や「相馬二万石」の大穀
倉地帯を、河川の水量調整箇所「堰」を造ることにより、大都市「江戸」の食糧を潤しました。
利根川沿いの相馬は、利根川の東遷により「河岸」として水運の時代は潤いました。
しかし、利根川三大支流である渡良瀬川の場合のような、上流にある足尾銅山の人的公害病の発生もあり、利
根川下流域の農魚住民の猛反発により、多くの犠牲者と社会的問題を起こした歴史もあります。
寛政七年(1795)
安政五年(1858)
明治四年(1871)
この頃、小林一茶が頻繁に訪れる。
二代目赤松宗旦「利根川図史」刊行、相馬の歴史には重要な書物です。
下総国相馬群、後に葛飾県、翌五年印旛県と現在の千葉県に所属。
明治八年(1875)
明治 22 年(1889)
明治 23 年(1890)
明治 29 年(1896)
大正2年
茨城県北相馬郡取手、千葉県南相馬郡我孫子と取手は茨城県に所属。
取手村は大鹿村台宿村井野村と合併し取手町に昇格。
広瀬誠一郎と人見寧(やすし)により、野田~柏間に利根運河開通。
常磐線、田端~土浦開通、
常総線全線開通。
【写真】
高瀬船を背景に、常磐線の架橋が見えます。
坂東太郎とは利根川の別名で日本三大河川で、筑紫二郎の筑後川、
四国三郎の吉野川と川の長男格でした。
明治 31 年(1898) 7月大洪水により利根川流域氾濫。
明治 40 年(1907) 利根川の決壊工事、取手から佐原間昭和5年まで行われた。
明治 43 年(1910) 利根川流域大洪水。
昭和5年(1930)
大利根橋が開通。
以下、昭和 10 年と 13 年利根川洪水、22 年キャスリーン台風、23 年アイオン台風、24 年キティー台風、
25 年小貝川氾濫、33 年渡良瀬川から利根川下流全域大氾濫、56 年小貝川堤防決壊。 平成になってからは、
大きな水害がなくなりました。
洪水調整池の田中及び稲戸井遊水地。
利根川の「遊水地」
「田中及び稲戸井遊水地」とは、洪水時にあふれた水をそのまま下流へは流さずに河川敷内に溜め、水量を調
整する場所をいいます。
「導流提」は、その外側にある「堤防」より低く造られていて、さらに導流提の一部は氾濫した水が流れ込み
やすいように、さらに一段低くなっています。
千葉県柏市田中(つくばTXかしわ田中駅近辺)と取手市稲戸井(常総線稲戸井、戸頭、南守谷)の利根川河川に、
それぞれ「田中調整池」と「稲戸井遊水池」があります。
平常時の田中遊水池は、田畑や水田として利用されています。
新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会 資料
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