̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶ 「剽窃」に宿るオリジナリティ ̶̶ベルギーのシュルレアリスムにおける印象主義̶̶ 利根川 由奈 ̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶ はじめに 本発表は、ベルギーのシュルレアリスムにおける、「剽窃」に宿るオリジナリティとは 何だったのかを、彼らの印象主義回帰の思想を軸足として考察することを目的とする。 なぜならこの問題は、フランスとベルギーのシュルレアリスムの思想的離接点を示す重 要な主題だと考えられるにも関わらず、今まで十分な研究がなされてこなかったためであ る。その理由の一つに、今までベルギーのシュルレアリスムは、フランスの下位運動とし て見なされ、重要視されてこなかったことが挙げられる。ベルギーのシュルレアリスムを 美術史的側面から扱った研究は、1975年のジョゼ・ヴォヴェルの著『ベルギーのシュルレ アリスム』1を端緒として行われてきたが、これらは歴史的事象の記述と作家の紹介にとど まっていると言わざるをえない。だが近年、ベルギーの運動の思想に新たに焦点をあてた研 究として、2006年のグザヴィエ・カノンヌの著『ベルギーのシュルレアリスム:1924-2000』2が 現れた。しかしカノンヌの研究は、ベルギーとフランスの運動の差異や、両国のシュルレ アリストたちの関係性には深く言及しておらず、ベルギー国内から運動の動向を考察する に留まっている。 そこで発表者は、フランスとベルギーのシュルレアリスムの思想的差異を明らかにする ため、ベルギーのシュルレアリストたちが頻繁に行った他者の作品の引用に着目した。な ぜなら引用は、アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)が造形作品に求めた創造 力の考え方と対立する行為に見えるからだ。 ベルギーのシュルレアリスムが他者の引用を重要視していたことは、彼らが引用の概念 を細かく定義し、テクストに頻出させていたこと、また、文学作品、造形作品の両分野で 引用を多用したことから窺える。中でも、ベルギーの中心的シュルレアリストであるマル セル・マリエン(Marcel Mariën, 1920-1993)の著『ベルギーの活動的なシュルレアリス ト』3、ポール・ヌジェ(Paul Nougé, 1895-1967)の『笑わない歴史』4、ルイ・スキュト ネール(Louis Scutenaire, 1905-1970)の『マグリットとともに』5では、引用に関する話題 21 にページが多く割かれている。これらの著の記述と言及された作品を総合した上で、発表 者は便宜的に、引用に関する概念を次のように定義した。「剽窃(plagiat)」は他作品の 構図・手法を引用すること、「借用(emprunt)」はモチーフを引用すること、「パロディ (parody)」は「剽窃」と「借用」の両方を含んだ上で作品を大きく作り変えること。 シュルレアリスム研究家クリスチャン・ブッシーは、中でも「剽窃」という言葉は、1943-48 年の期間に作られた、印象主義を引用した絵画作品を指す際にしか用いられていないこと から、かなり限定的な意義を持つ概念だと指摘している6。 これに対してブルトンは、引用に関して彼らのような明確な概念の使い分けはしていな かった。では、造形作品についてブルトンはどう考えていたのだろうか。 造形作品は、したがって、こんにちあらゆる精神が一致して求めている現実的諸価 値の徹底的な再検討の必要に応えるために、純粋に内的なモデルをよりどころにする だろう、それ以上にはないだろう7。 ここで言及された「純粋に内的なモデル」とは、作者自身のアイデアというよりも、作 者を媒介として作品に現前する、霊感や啓示によるイメージと言える8。だが、ベルギー のシュルレアリストが行った作品の引用は、霊感や啓示ではなく、作者の意図が大きく関 与すると言える。つまり、ブルトンにおける作者と、ベルギーのシュルレアリストにおけ る作者とでは、その役割が大きく異なると考えられる。 このように、フランスとベルギーという隣国で親密な関係を保っていたにも関わらず、 作品のオリジナリティや他者の引用について両国のシュルレアリストが意見を異にしてい る点は注目に値する。よって、作品に対する彼らの思想的差異を明らかにすることは、 シュルレアリスム作品の多様性と、共通点の両方を明らかにすることにつながり、シュル レアリスムの芸術と運動の解釈に新たな視点を投じることができるだろう。 1 オリジナリティのねじれ ブルトンが造形作品に対する他者の引用に否定的だったという可能性は先述したとおり である。だが、ベルギーのシュルレアリストは印象主義的な絵画の作成、つまり「剽窃」 によって、ブルトンとは異なる態度を示した。では彼らはなぜ、「剽窃」を行ったのだろ うか。その点を考察するために、ベルギーのシュルレアリスムにおいてリーダー的な役割 を果たしていたマグリットの絵画作品を中心に、彼らが「剽窃」を行った目的について検 討していく。 22 1943年のマグリットの作品《オケアノス》は、1911年のピエール=オーギュスト・ルノ ワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919)の絵画《羊飼い》を「剽窃」した作品だとヌ ジェやマリエンによって位置づけられている9。《オケアノス》では、画面の中心に海の神 オケアノスが配置されており、背景には木々や草が、また遠景には海と空が描かれてい る。この絵画の特徴はそれまでのマグリットの絵画と違って明るい色彩で描かれているこ とと、背景の部分が印象主義的手法で描かれていることである。《オケアノス》と《羊飼 い》を比較すると、画面中央に配された人物のポーズ、人物の後ろに木々があるという構 図、背景部分のタッチと色彩において、両者には共通点が多いことがわかり、マグリット がルノワールの《羊飼い》から影響を受けたことは明らかだろう。だが同時に、その主題 というべき人物が別人へと変容していることも忘れてはならない。ルノワールの手法や タッチを引用したことと、人物がルノワールの絵画とは違う人物へと挿げ替えられている こと、この二点は相反する行為であるように見える。 《オケアノス》と同様の例として、《光の概論》(1943年)が挙げられる。この作品 は、ルノワールの《浴女たち》(1918-19年)の構図と手法を使用していると見られ、《浴 女たち》の人物二人のうち、上部の女性のみを描いている。また、《光の概論》では女性 の身体は、部位ごとに異なる色で塗り分けられており、肌色で描かれたルノワールの女性 とは別人のように見える。 これらの比較から、ヌジェやマリエンの言う「剽窃」とは「手法やタッチの引用」だけ でなく、主題の変更によって、新たにアイデアを付与する行為ではないか、という仮説が 浮かび上がる。 というのも、当然ながら「作品の主題を変更する」行為には、作家の意図が大きく関わ るためだ。先ほどの《オケアノス》の場合は、画面中央の人物が変更されている。それは つまり、ルノワールの存在を匂わせながらも、ルノワールとは別の作家がこの絵画を描い ているのだということを明示しているように思われる。言い換えれば、この行為は、過去 の作者のオリジナリティを欠落させると同時に、過去の作者との主題の相違を明らかにす ることによって、引用した作者のオリジナリティを際立たせる、という二面性を持つと考 えられる。「剽窃」という手法を取ることで、一つの作品の中には過去の作者と「剽窃」 した作者の二つのオリジナリティが混在することになり、この両者が作品の中で「ねじ れ」現象を起こしていると考えられる。以上のことから、「剽窃」はオリジナリティのね じれだと言い換えることができるだろう。 加えて、先述したように、ブルトンは「純粋に内的なモデル」に従って絵画を作成する ことを求めていた。このことから、ベルギーのシュルレアリストは、オリジナリティのね じれを絵画上で表すことで、ブルトンの絵画観に対するアンチテーゼを唱えたとも考えら 23 れる。そして、彼らがこのような態度を取った理由は、ブルトンの絵画観によってシュル レアリスム芸術が袋小路に陥る可能性があると気づいたためだと推測できる。 なぜならこの可能性に気が付いていたのは、ベルギーのシュルレアリストだけではな かったからだ。絵画でのオートマティスムと言われる自動デッサンを行ったことでブルト ンから評価されていたアンドレ・マッソン(André Masson, 1896-1987)は、ブルトンが オートマティスム絵画に非合理を求めた結果について、次のように語っている。 非合理のための非合理の征服、それはまことに貧しい征服だった。実際には、 陰鬱な理性によってすでに使い古されてしまった要素を結びつけるだけの、悲し い想像力だった。 (……)スーラやマティスやその他キュビストたちのすばらしい仕事が、無意 味で無効なものとされた。彼らのおどろくべき空間概念、本質的に絵画的な方法 の発見が、ただただ邪魔なだけの遺産とみなされ、放棄が迫られたのである。 このような新たなアカデミズムに迎合する必要があったか。否である10。 だがブルトンは、19世紀のボードレール、ロートレアモンなどを賞賛し、彼らの詩を作 り変えたり、自身のテクスト内で引用したりしていたため、引用には否定的ではなかった ようにも見える。しかし、ブルトンが引用するのはシュルレアリスム精神11を持っていた と彼が考えていた先駆者の文学作品のみである。加えて、ブルトンは絵画において「純粋 に内的なモデル」を要求した。そのことから、作者の意図が含まれるであろう引用を絵画 で行うことには否定的だったと類推できる。そのことは、マッソンの述べた言葉からも明 らかである。 河本真理も指摘する通り、ブルトンが文学作品と造形作品の垣根を、オートマティスム によって横断することができないと気がついた結果、彼はマックス・エルンスト(Max Ernst, 1891-1976)のコラージュを評価するようになり、シュルレアリスム絵画に対して曖 昧な態度をとることになる12。このブルトンの矛盾点をいち早く察知し、「剽窃」によっ て反抗を試みたのが、ベルギーのシュルレアリストだったのではないだろうか。 2 印象主義回帰 先述のとおり、ベルギーのシュルレアリストはオリジナリティのねじれを用いてブルト ンの芸術観に対抗した。では、彼らがねじれを現す際に印象主義的手法に固執したのはな ぜなのか。この点を検討することによって、彼らがシュルレアリスムに何を求めたかが明 24 らかになるはずである。では以下では、ベルギーのシュルレアリストの印象主義回帰の思 想が結実した『陽光に満ちたシュルレアリスム宣言』(以下「宣言」)と、『陽光に満ち たシュルレアリスム 第二宣言』(以下「第二宣言」)を中心に考察していく。 この宣言は、1946年に、マグリット、ヌジェをはじめ、ベルギーのシュルレアリスムの 中心人物7人の連名で、ビラのかたちで発表された。第二宣言はその一ヶ月後に発行され ている。 そこで、まずは第二宣言に着目してみよう。なぜならそこには、ブルトンの「黒いユー モア」への批判を通して、「剽窃」が印象主義の手法を取らなければならなかった理由が 示されているからだ。 ブルトンは、「純粋に内的なモデル」を持ってはいないが、「外部のモデル」を拒否し た点と、芸術の既存の枠組みを拒否した点でダダを評価していた。たとえば、ブルトンが マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)の《L. H. O. O. Q.》(1919年)を高く 評価していたのはそのためである13。そしてブルトンは、ダダのこのような態度を「黒い ユーモア」と呼んだ。一見、彼のダダへの評価は、ベルギーのシュルレアリストの印象主 義的な作品に否定的だった態度とは正反対のように思える。だが、おそらくブルトンに とってこのデュシャンのイメージは、外部世界の模倣という既存の絵画の手法とアカデミ ズム、その両方の否定を示したものであったと考えられる。それに対し、ベルギーのシュ ルレアリストの印象主義回帰はダダのような過去の否定ではなく、肯定だと考えられるた め、ブルトンは彼らの手法を拒否したのではないだろうか。 では、ベルギーのシュルレアリストは「黒いユーモア」をどのように考えていたのか、 第二宣言の記述を見てみよう。 「黒いユーモア(l’humour noir)」は、現在時代遅れとなった恐怖の感情をわれ われに起こさせる14。 このように、第二宣言では、現代に恐怖を与えるという理由で「黒いユーモア」が否定 されている。 続いて、第二宣言の中には、「黒いユーモア」に代わって新たに「喜びのユーモア (l’humour plaisir)」を追求するべき、との記述がある15。なぜなら、ベルギーのシュルレ アリストによれば、「黒いユーモア」は戦後の退廃した世界に恐怖しか与えないが、「喜 びのユーモア」、すなわち印象主義回帰は反対に、世界に光を与えるからである。 25 このことから、ベルギーのシュルレアリストがブルトンの「黒いユーモア」に対抗し、 「喜びのユーモア」、つまり印象主義を用いたのは、世界に光を与えるためだったと思わ れる。 だが以上の検討だけでは、ベルギーのシュルレアリストが過去の手法の中でなぜあえて 印象主義の手法を取ったのか、の回答にはならないだろう。 その答えは、彼らが印象主義をどのように受容していたかを考える過程で、明らかにな るはずである。そこで次に、彼らの印象主義受容について考察してみよう。 美術史家スジ・ガブリックは、第二次世界大戦によって暗くなった世界を明るく照らす ために印象主義的手法を取る、という彼らの思想がこの宣言の背景にあると述べる16。彼 らが戦争や平和をテーマにした作品を1940年代に頻繁に作成していたことからも、ガブ リックの言うように彼らの活動に戦争が大きな影響を与えたことは推測できる。だが、こ の宣言の中には、「印象主義(impressionnisme)」や「印象主義的な手法(la technique impressionniste)」という言葉は出てこず、「太陽(soleil)」あるいは「光(lumiére)」の 単語が登場するのみである。 このことから、宣言は印象主義回帰の思想を明示するものではないと見られるため、戦 争と印象主義回帰を直結させて考えたガブリックの解釈は越権のように見える。 だが、この宣言に先立って彼らによって書かれた論文「太陽の論争」(1946年)17や、 「<客観的な(objective)>絵画と<印象主義的な(impressionniste)>絵画」(1946 年)18では、印象主義が美術の領域、科学の領域、哲学の領域で優れていたという、彼ら の思想が提示されていた。 美術の領域については、いわゆるレアリスムとは異なる手法を印象主義者たちが生み出 した点が評価されている。科学の領域では、色がパレットの上で混ぜられるのではなく、 鑑賞者の網膜上で混ざり、像を結ぶことを示した点が優れているとされている。たとえ ば、マグリットの《ムッシュ・アングルの良き日》は、女性の身体が部位ごとに違う色で 描かれている。この絵画は、印象主義の科学面における発見を端的に示したものであると 言えるだろう。そして、最後の哲学の領域では、理想主義的、レアリスム的絵画の両方を 拒否し、その中間とも言える新しい絵画の在り方を提示した点が称賛されている。 このようなベルギーのシュルレアリストによる印象主義の肯定的な受容は、当時のシュ ルレアリスム絵画に対する反抗だと読み変えることができないだろうか。そしてこのこと から、ガブリックが指摘したように戦争と印象主義回帰は無関係ではないものの、戦争が 印象主義回帰の最も大きな要因ではないことが明らかになる。なぜなら、ベルギーにおけ る印象主義回帰の背景にはブルトンの唱えた「黒いユーモア」への反抗があったためであ る。そして、それに対する「喜びのユーモア」、つまり印象主義は、世界に光を与えるも 26 のとされた。つまり、印象主義を用いて世界の改革を目指した彼らの試みは、制度と化し たシュルレアリスムの原点回帰、すなわち、シュルレアリスムによって世界を変えること を目指したものであると言えるだろう。 では、以上の考察を念頭に置いた上で、「宣言」の内容を検討してみよう。 「宣言」では、現代のシュルレアリスムの在り方に対して次のように言及されている。 哲学と同じように、(現在のシュルレアリスムの)この制度は、最初の熱狂か ら現在取って代わられた信仰によって結晶化する。 (……)現代のシュルレアリスムは、もはや世界を知ることを気にかけてはおら ず、世界を変えることを忘れている。 (……)世界がわれわれに影響を及ぼすのと同様の有効性を用いて、世界に影響 を与えることが重要である19。 そして、どのように影響を与えるのかについては次のように示される。 目下のところ、悲観的な世界において不在である太陽が、今では絶対に必要な のである。 (……)太陽はわれわれの目標でなければならない。というのは、(世界に影 響を与えるという)途方もないわれわれの願望は、われわれに悲惨な廃墟の光景 と、愚かな不安とを与える現代の世界によっては、満足させられることができな いからである20。 ここで言及されている「悲観的な世界」とは、大戦後の荒廃した世界であると同時に、 当時のシュルレアリスムだと解釈することができるだろう。世界に影響を与える存在を目 指したシュルレアリスムが、ブルトンが否定していたはずの制度となっていたためであ る。 以上の検討から、ベルギーのシュルレアリストが印象主義を肯定的に受容したこと、ま た印象主義の手法によってシュルレアリスムを改革する目的があったことが明らかになっ た。 よって、ベルギーのシュルレアリストが印象主義に固執したのは、以下の二点の理由に よると考えられる。一つ目は、印象主義と言う「過去の肯定」によってブルトンが重視し た「過去の否定」に対抗するため。二つ目は、「喜びのユーモア」である印象主義を用い て、シュルレアリスムを再び世界に影響を与える存在に生まれ変わらせるためである。 27 おわりに 以上のように、ベルギーのシュルレアリスムは、「剽窃」によってオリジナリティのね じれを現前させ、ブルトンの芸術観への反抗を示したこと、また、印象主義回帰の思想に 基づく「宣言」によってシュルレアリスムの制度を変えようと考えていたことが明らかに なった。 すなわち、ベルギーのシュルレアリスムの「剽窃」に宿るオリジナリティとは、閉塞感 に満ちたシュルレアリスムを本来の姿に戻し、シュルレアリスムによって世界を変えよう と試みた思想だと位置づけられる。そして戦中・戦後の暗い世界を変えるためにシュルレ アリスムに必要だったのが、印象主義の手法だったのである。 1943年以前には、共同で展覧会を開催したり、パリとブリュッセルを行き来したりする など交流を深めていたブルトンとベルギーのシュルレアリストであったが、1946年に『陽 光に満ちたシュルレアリスム宣言』が発表されてからは微妙に距離を置くようになり、両 者の関係は一つの転換点を迎えた。それ以前にも、ブルトンから弾劾されたためにシュル レアリスムの表舞台から姿を消した芸術家がいたことは事実である。だが、ベルギーのグ ループはその後も「シュルレアリスム」運動を続け、ブルトンも彼らとの交流を完全に断 つことはなかった。おそらくブルトンは、当時シュルレアリスムが対峙していた問題、つ まりシュルレアリスム芸術とは何かという問いに関して未だ明確な定義が与えられていな いという問題に、ベルギーのグループが向き合っていたことを認識していたのではないだ ろうか21。そして、内部からシュルレアリスム芸術、あるいは運動の目的を自問自答し続 けた点にこそ、ベルギーのシュルレアリスムの特徴を見出すことができるだろう。 ブルトンによる中央集権的な運動であると見なされることの多いシュルレアリスムであ るが、ベルギーのシュルレアリストはブルトンに反旗を翻し、独自の活動を続けていたこ とが明らかとなった。このことは、シュルレアリスム芸術と運動のあり方を再考する際 に、外延部のシュルレアリスムの動向にも眼を配る必要があることをわれわれに示唆して いると言えるだろう。 (京都大学大学院) ̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶ 1 Vovelle, José. Le surréalisme en Belgique, Bruxelles, André de Rache, 1972 28 2 Canonne, Xavier. Le Surréalisme En Belgique 1924-2000, Bruxelles, Fonds Mercator, 2006 3 Mariën, Marcel. L'Activité Surréaliste en Belgique (1924-1950), Bruxelles, L.Hossman, 1979 4 Nougé, Paul. Historie de ne pas rire, Lausanne, L’age d’Homme, 1980 5 Scutenaire, Louis. Avec Magritte, Bruxelles, Le beer Hossman, 1977 6 Bussy, Christian. Anthologie du surréalisme en Belgique, Paris, Gallimard, 1972, pp. 146-150. 7 ブルトン、アンドレ「シュルレアリスムと絵画」、『シュルレアリスムと絵画』瀧口修造・巌谷國士監 修、人文書院、1997年、18頁。 8 ブルトンは、ドイツ・ロマン主義的な天才概念も否定していた。なぜなら、彼は天才とは才能が与えら れた限られた人物であり、全員が天才のようにすばらしいインスピレーションを持つことは不可能だと 考えていたためだ。しかしブルトンは、シュルレアリスムのオートマティスムの方法を経ることで、誰 もが「純粋に内的なモデル」を得ることができると考えていた。つまり、彼にとって重要だったのは、 「誰もが同じように、「純粋に内的なモデル」を得ることのできる方法」、すなわちオートマティスム だったのである。 9 Mariën, op. cit., p. 20., Nougé, !pour s’approcher de René Magritte", op. cit., p. 240. 10 Masson, André, «Le Rebelle du surréalisme», Ecrits, Paris, Hermann, 1976, pp. 16-17. 11 言い換えれば、「黒いユーモア」である。 12 河本真理『切断の時代──20世紀におけるコラージュの美学と歴史』、ブリュッケ、2007年 13 「不敬な態度はどこまでも拡大され、容認されている諸価値の否認は全面的なものになった。事実、 白紙に戻すことが必要である。絶望は大きく、それを乗り越える手段は「黒いユーモア」しかない。 ニューヨークでは、デュシャンが《モナリザ》の複製に美しい一対の立派な口髭を飾ってから自分の署 名を入れたし、(……)」、「シュルレアリスムの発展と展望」、『シュルレアリスムと絵画』、p. 84. 14 Magritte, «Le surréalisme en plein soleil : Manifeste n°2», Écrits Complets, p. 219. 15 Ibid, p. 219. 16 Gablik, Suzi. Magritte, London, Thames and Hudson, 1970, pp. 145-147. 17 Magritte, «La querelle du soleil», op. cit., p. 194. 18 Magritte, «Peinture <objective> et peinture <impressionniste>», op. cit., pp. 181-183. 19 Magritte, «Le surréalisme en plein soleil : Manifeste n˚1», op. cit., p. 211. 20 Ibid. p. 213. 21 この問いは、言い換えれば、シュルレアリスム芸術における二項対立の解消をめぐる問題である。そ して、ブルトンがマグリットを評価していたのは、詩的言語と造形言語の融合をマグリットが行ったと 考えていたためであった。 29
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