1960年 安保闘争の年

---------- 1960 年 海外 ----------4 月 中国とインドがチベット問題で対立
毛沢東の対応が独裁的だとしてインドだけでなく、中国とソ連の対立が表面化する。
6 月 ション・フィッツジェラルド・ケネディ= JFK がアメリカ大統領になる。
キリスト教プロテスタントではなくカトリック信者の大統領は、アメリカ初
だった。また 45 歳で史上最年少の大統領だった。裕福な家の出身で選挙資金
を党に頼らなかったこともあって、民主党から足を引っ張られることはなか
った。党大会での「今日、我々はニュー・フロンティアに直面している」と
か、大統領就任演説の「Ask not what your country do for you, ask what you
can do for your country.(自分に国家が何をしてくれるのか求めるのではな
く、自分が国家に何をできるのかを求めよう)は有名なセリフ。さらに「アメ
リカがあなた方に何をするかではなく、私たちが共に力を合わせて 人類の自
由のために何ができるのかを問うてほしい」と続く。Ask not ~. = Don’t ask
~.の意味。東西冷戦の時代に西側の盟主としての立場を明言したセリフと言
われている。ちょっと上から目線かもしれないが、カッコイイ。ミサイル技
術でソ連に遅れていたので、彼は宇宙開発と有人宇宙飛行も公約した。
6月
アフリカでベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)が独立 同時にコンゴ動乱が始まる。
8月
「アフリカの年」の始まり
フランス領コンゴ(現コンゴ共和国)が独立
コンゴ民主共和国とコンゴ共和国ってどこだ?という人は地図帳を見る。コン
ゴと名の付く国は現在 2 つで、一つは西にある「コンゴ共和国(ピンク色)」、もう
一つは東にある「コンゴ民主共和国(薄い緑色)」だ。
「民主」の方はアフリカの少
し下で中央をコンゴ川が流れ、奥地は熱帯雨林が茂り、いかにも「アフリカ」
的な、赤道直下の暑い国だ。現在も銅、ウランの産出が豊富で、銅はアフリカ
で 1 位。広島に落とされた原爆の原料は、コンゴのウランだ。元々は 14 世紀
末から「コンゴ王国」というレベルの高いアフリカ人の国があり、現在のコン
元コンゴ王国
ゴ民主共和国、コンゴ共和国、北アンゴラ、ガボンまでの地域を支配していた。
「コンゴ」とは現地の言葉で「山」の意味。1485 年からポルトガルを主に交易相手国とした。ポルトガ
ルは奴隷売買の利益で王国を経済的に支配し、1545 年の内乱のスキをついてコンゴを属国とした。コン
ゴは一時盛り返したが、1665 年にまたポルトガルの侵攻を受け、1700 年初めまで内乱が続き、コンゴ王
国は名目だけになった。そして 1884 年のベルリン会議で、ポルトガルは今のアンゴラ周辺、ベルギーは
今のコンゴ民主共和国周辺、割り込んできたフランスが今のコンゴ共和国周辺を植民地にした。これをア
フリカのほぼ全体が植民地化したので「アフリカ分割」と呼ぶ。もちろん分割された方はたまったもので
はない。コンゴ王国は 1914 年に滅亡し、南アフリカ共和国と同じように黒人は差別され、移住してきた
白人は優遇された。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1960 年 海外 ----------少し話がそれるが、コンゴが歴史に登場するのはイギリスの宣教師(=おそらくキリスト教
プロテスタント)であり探検家のリビングストンの働きだ。彼は布教のためにアフリカ入
りしたが、いつの間にか探検が仕事になり、1855 年にはビクトリア湖を「発見」し
た。一度帰国したが、王立学院から「ナイル川の水源を確かめろ」と言われてまたア
フリカ入りをしたが、消息不明になる。そこでジャーナリスト 兼 探検家のアメリカ
人スタンリーが探しに行き、リビングストンを「発見」して、帰国を促した。
しかしリビングストンは探検を続け「やっぱりビクトリア湖が水源」と結論した。彼は
1873 年にマラリアで死亡する。ただし 20 世紀になって、ビクトリア湖自体に流れ込む
川が発見されたので、水源はやはりまだ特定できていない。リビングストンは、現地ア
フリカの部族間での奴隷売買には人道的に賛成できず、奴隷制度廃止を求め続け、医療
の普及にも努めたから、アフリカでは人望のある人で、ザンビアとマラウイには彼の名
前を取った都市もある。
一方スタンレーは、植民地を探していたベルギー国王からの依頼で、ザイー
ル川(今のコンゴ川のこと)周辺を探検した。当時は「原住民が住んでいても、そ
の土地を『見つけた』ヨーロッパの主権国家のもの」というトンデモナイ国
際慣習があり、1884 年のベルリン会議でも確認されたので、周辺一帯はベル
ギー国王の私領になった。国王は税金を納められない者は厳罰に処すると脅
し、象牙、天然ゴムを収穫するために酷使してコンゴの約半分以上の人は死
んでしまった。ベルギー国王のやり方をさすがに見かねたフランス、イギリ
スや本国のベルギー議会が国王に圧力をかけて、王からその国を取り上げ、
普通の植民地支配にした。結果的にはコンゴに、大きな迷惑をスタンレーは
かけ、人使いも荒かったので、アフリカでは人気がない。コンゴ民主共和国
ピンクが 1960 年の独立国で、
青は大戦前からの独立国。
それぞれ国名を言えますか?
の方は、独立直後から 3 年間「コンゴ動乱」が始まる。さらに 17 の植民地
が次々独立していくので「1960 年」は「アフリカの年」と呼ばれる。
12 月 ベトナム共和国内部に「南ベトナム解放民族戦線」が結成される。
アメリカの援助を受けていたベトナム共和国(いわゆる南ベトナム)は、汚職が横行し腐敗していたので、打倒
の好機だと判断したベトナム民主共和国(いわゆる北ベトナム)が資金を与えて、南ベトナム内部に主義や宗教
の枠組みを越えた「南ベトナム解放民族戦線」を結成させ、北ベトナムは南と対決姿勢に入る。一般的
に政権より上の存在がある「スポンサーつきの政権」というのは腐敗しやすい。政権のトップに権威が
ないから部下に言うことを聞かせるのに金銭が必要になる。その金銭は「スポンサー」から取ってくる
わけで、部下に配る時にある程度自分がポケットに入れてしまう=私腹を肥やすだろう。上がこのようだ
と、下も真似をするから国全体が「ワイロ政治」になる。そのワイロにありつけなかった者は不満に思
うし、心正しい者は憤慨する。もし政権打倒の機会が来れば、呼応して立ち上がるか、もしくは積極的
には反抗してこない。どちらにしても敵国にとっては勝利の確率が高くなるわけだ。日本も危ないか?
12 月
経済協力開発機構(=OECD)が発足
通貨の安定と成長の達成、および発展途上国への支援、世界貿易の拡大などを目的としているヨーロッ
パ発の機構。2013 年現在 34 か国が加盟していて、先進諸国はすべて加盟している。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1960 年 日本 ----------1 月 新安保条約と日米地位協定(旧日米行政協定)が調印
6月
’60 年安保闘争起きる
安保反対のデモが国会議事堂を取り囲む。
日米新安保条約に反対する「60 年安保闘争」は日本の一つの「ターニング・
ポイント」なので大切だ。この闘争=学生運動の表に立ったのは、主に
ぜんがくれん
「全学連」正式名は「全日本学生自治会総連合会」に所属する 20 才前後の
大学生だった。彼らは大きく 2 つに分類できて、1 つは都会の住民で、空襲
を受けた経験から「戦争は怖い、もう嫌だ」と普通に思っていた人たち。
もう 1 つは当時のインテリ思想である共産主義=親ソ連的思想の持ち主た
ちで、自然に、反アメリカ的思想 = 反米化している。対する岸首相は、戦
ようすけ
おい
前は満州帝國を治める主席官僚で、国際連盟脱退の立役者 松岡洋右の甥
で、開戦時の東條英機内閣では大臣、戦後は GHQ から戦争犯罪人=戦犯と
して収監され、アメリカの援助で自民党を結成した経歴の人だ。
その彼が今度はアメリカとの結びつきをさらに強化する安保条約を結ぶ、とい
うので全学連は対決姿勢を強めた。よって 60 年安保闘争の表向きは、
①岸首相に代表される、戦前の軍部支配の再来と戦争への恐怖感情。
②共産主義で「新しい社会」を作るという革命思想≒反米的な行動。
③この年の 5 月に、ソ連が領空侵犯を理由に米軍機を撃墜した事件もあり、
「日
本は米ソの戦争に巻き込まれ、冷戦から熱い戦争へなるかも」の不安や、
「新安
保条約」に日本の自衛力強化が含まれていたことで、
「また戦前に戻るのか」と
新聞記者たちは反対論を進め、日本社会党などが賛成していた。
以上 3 つが混合されて起きたものとされている。
ではウラはないのか?双務的で対等な新安保条約に発展させれば、負
担は日本が増・アメリカは減になるので、アイゼンハワー大統領もア
メリカ政府も賛成だった。日本政府も高度経済成長期だが、社会資本
と福祉の充実にさらに予算が必要だった(例えば次の年に国民年金法が成立し
ている)。負担を少しでも減らすために、心理的な葛藤はともかく、ア
メリカと協調するのが、現実的な最善策だった。ただしこの条約で、
日本がアメリカの言うがままになるか、どうか、は難しいところだ。終
戦から 15 年経ち、国防論議もなく来たのも事実だ。対する全学連は、新
安保条約をキチンと読んでいる人も、世界情勢を理解している人もほと
んどいなかった。一般の日本人にとっては無関心な政治課題で、世論調
査でも 50%以上が「新安保条約の意味がよくわからない」と回答してい
た。確かに何万人も議事堂の前に来たが、
「国民運動」と言えるのか?
岸首相はデモ隊の叫び声を議事堂から聞いて「この声がすべての国民の声とは思えない。現に後楽園(近
くにある遊園地の名前)は今日も満員ではないか。私は声なき声に耳を傾ける」と言ったが、当時、ほぼ安定
多数を保つ自民党なら、こんな大騒ぎにならず、条約改正になるはずだった。しかし国民に対して説明
不足だったのは、否定できないだろう。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1960 年 日本 ----------ここで、写真が示すような大人数を動員できた「全学連」の資金の出所を
疑問に思った人の意見がある。「全学連」の学生たちは、ソ連の「スター
リン批判」に同調する日本共産党とケンカになり、除名されていたので資
金はなかった。彼らに資金提供をしたのは、若手中心の経済界だった。
「岩
戸景気」と呼ばれる好景気で、軍備増強ならもっと予算が回るはずの経済
界が、なぜ岸首相を失脚させるようなことをしたのか。
岸首相の持論である「自主憲法制定」「自主外交」が怖かったのか。それともそ
の中に「アメリカ追従」の姿勢を見たのか、定かではない。どちらにしても、新
しくできた経済団体の経済人には、印象が悪かった。そこで彼らは「全学連」に
資金を回し、
「ウラワザ」で岸首相を追い落とそうしたのかもしれない(ここは推測)。
不謹慎な言い方だが「好都合」にも、デモに参加していた女子大学生が死亡する
事故も起きて、条約が参議院で自然成立するなら、岸内閣は責任をとり、退陣す
ることになった。新聞は全て「暴力は良くない」
「議会制民主主義を守れ」と論
調を変え、「安保反対」の記事を書いた記者たちは、異動させられてしまった。どう
やらメディアにも手が伸びていたようだ。自民党内部でも、このまま改定に成功すれ
ば、長期政権が確実になる岸首相を、追い落としたい陣営もあった。特に岸首相は、
元首相 吉田茂の路線に反対し「保守合同」で自民党を結成したが、党内には親・吉
田派も多数いた。特に岸首相の後を継ぐ、大蔵大臣の池田隼人が親・吉田派の筆頭だ
った(1951 年のサンフランシスコ条約の写真・後方左の人物)。この事件は、変化をもたらす時に、
いつ、どの立場や論調で打ち出せば良いのか、を深く考えさせられる。
当時の岸信介と言えば「運も頭も良く、下準備は完璧な政治家」で自民党 主流派のエースだった。その
岸が学生程度の運動に足を引っ張られたことや、アイゼンハワーも沖縄までは来たが、大規模なデモに
ぶつかり、東京までは来れず、結果「アメリカ大統領の初来日」は「お流れ」になったことに、多くの
政治家は怖くなったらしい。ここで 60 年安保闘争の「意義」は何だったのか、まとめておく。
①一般庶民は詳しいことはわからなかった。もし筆者が 1960 年に大人であっても、理解は難しかった
だろうし、本質まで見抜けたかは怪しい。単に「『ゼンガクレン』とか『学生運動』ってすごいけど、
怖いな~」と庶民に思わせた事件だ。
②「運動」という「暴力」を使って日本で成功した最初の例になった。
一国の首相を「運動」という「暴力」や、「○○は軍国主義者だ」とレッテルを貼る=言論を封殺する
ことで辞職させることができた。以後、
「権力側」と争う時によく使う手段になってしまった。民主主
義の精神を害したのはむしろ運動を起こした側だし、日米新安保条約は可決成立して、結果的には学
生たちの行った 60 年安保闘争は失敗だった。また権力者側も今現在の国の状況を、詳しく説明する必
要があったのに、それを怠ったのは大きなミスだったと思われる。
③この後の内閣は、ほとんど全てが、安保条約や日米行政規定の改定には踏み込んでいない。結局はア
メリカと歩調を合わせる、あるいはそのまま従って行く傾向が強くなる。岸信介は「保守」のエース
だったのか、それともただのポーズだったのか、よくわからないところが「昭和の妖怪」らしい。
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---------- 1960 年 日本 ----------9月
カラーテレビ本放送を開始する
12 月 池田内閣が所得倍増計画を発表する。
ぞうしょう
おおくらだいじん
池田首相は岸内閣で今の財務大臣にあたる蔵相=大蔵大臣だった。役人時代は、
あまり日の当たらない道を歩き、政治は吉田茂に学んだ。岸前首相が安保条約
改定問題で辞任になって、新首相になった。しかし「岸追い落とし」の張本人
でもあったと思われる。とにかくこの当時の日本で「国防」や「思想」を政治
で扱うのは「ヤバイ」と確認したのだろう、反対する人がいない「豊かになる
ための経済成長政策」に全力を注ぐことにした。それが「所得倍増計画」で、
高度経済成長期なら達成不可能な政策ではなかった。党の方針はそのまま
「自主憲法制定」「自主外交」だったが、アメリカに変に気を遣い、国内で
は軍備の論議を日本社会党とすると「軍国主義者だ」とレッテルを貼られ、
反権力がポジションのマスコミも騒ぐし、最悪の場合、失職する。そこで日
本社会党とは「なあなあ」の付き合いにして、国防論議はせず、自民党=日
本はこの後、国防はアメリカに任せて、一路「経済大国路線」を進むことに
した。
「60 年安保条約問題」は今後の自由民主党の路線を決定付けた点でも
意味が深い。この体質変化はそのままだ。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない