●時:2015 ●時:2015 年2月15日 ●題:「あなたは神に仕えるために造られた:忠実な管理者として」 ●聖書: ●聖書:マタイ 書:マタイ 25 章 14-26節、 26節、第一コリント4章1-2 節、第一コリント4章1-2節 第一コリント4章1-2節 序 論 本 論 ●Purpose Driven Life の著者 Rickwarren は、同書のセクション 10 の冒頭でこのように言う。「礼 拝の本質は降伏にあります。降伏という言葉はあまり人気がありません。服従という言葉と同じくら い嫌われているでしょう」と。「降伏」「服従」と言う言葉は、人気のない言葉であると言うのである。 ●私は、その「嫌われ」リストにもう一つ加えたい。それは、「仕える」ことである。これもまた、今日、 人々に人気のない言葉、また概念である。 ●今日だけでなく、否、いつの時代でもそうであろうが、人々は、アイドルのように自分が中心になっ て、誰かに「仕えられる」ことを求めても、「仕える」ことを嫌う傾向がある。なぜなら: 1.第一に、「仕える」ことは「敗北」を意味しているからである。最近の日本語的な表現をするなら、 仕えることは、自分が「負け組み」の人間であることを認めることになるからである。 2.特に、今のような個人主義の時代においては、個人個人、一人一人が「王様」になっている。それ 故、誰にも仕えられることはなくても、同時に誰にも仕えない。それが現代カルチャーである。 3.イエス様の弟子たちも同様であった。彼らもまた仕えることより、仕えられることを求めていた。 4.だから、イエス様が十字架に架かられる前の晩でさえ、その直前まで、誰が一番偉いかで争い合 う始末であった。 ●しかし、それでは、神様の御心を行うしもべにはなれないことを、イエス様はよく知っておられたの で、弟子たちに「仕える」人生の大切さを言葉と行動の両方で教えられた。すなわち: 1.イエス様は、何度も弟子たちに、このように教えられた。「私が来たのは仕えられる為ではなく、 仕える為に来たのである」(マルコ10:45)と。 2.更に、イエス様は、行動をもって「仕える」人生の大切さを弟子たちに教えるために、最後の晩餐 の席上で、弟子たちの前に跪いて彼らの足を洗って、「仕える」生涯の模範を示されたのである。 3.そして、その「仕える」と言う行為、「仕える」人生の究極が「十字架」であったとパウロはピリピ書 で解説する(2 章 6-8 節)。(参考:マルコ10:45) 4.即ち、十字架とは「仕える」しもべの姿の究極である。ここにすべての祝福の出発点がある。 ●私たちは「神に仕えるために造られた」。だから、人は「仕えられている」ときより、「仕えている」とき の方が、ズーッと人間らしく、また人間として一番輝くのである。 ●最近、再び私たちの心を痛めるニュースが届いた。ISIS に捕らえられていた人道的救援活動に参加し ていた 26 才の米人女性、Kayla Mueller さんの死が確認されたという報告であった。この痛ましい ニュースの中で、オバマ大統領を始め、親戚、友人たちが、異口同音に彼女について言うことは、彼 女の人生の美しさであり、その美しさの中心が彼女の Life to serve の姿勢であったことであった。 ●今日と次の日曜日、「神に仕えるしもべ」のあり方について、マタイ 25 章 14-30節までに記され ているイエス様の語られた有名な「タラントの譬」と呼ばれるたとえ話から学びたい。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ Ⅰ.第一に、神に仕える生涯とは、自分の持っているすべてが神様のものであることを深く自覚することから始まる。 A. それが、この譬が最初に教えていることである。即ち: 1.ある財産家が、旅に出かける前に3人の僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産をそれぞれに 運用するべく託したことである(14-15節)。 2.この譬えのその部分は、次の3つのことを意味している: (1)神様がその財産家である。 (2)その3人に代表されている僕たちは、私たち人間である。 (3)そして、その一人一人に主人が財産が託したように、私たち一人一人にも神様が、財産 として様々な「賜物」が託されている。 1.第一は、私たちが今持っているすべては、「いただいたもの」であって、私たちが自分で作っ (造った)たものは一つもないことである。 B. ここで、私たちが、注意すべき大切なことがある。 1 (1)すなわち、みな「もらったもの」なのである。人生も、持っている才能も、何もかも。 (2)いつも申し上げることであるが、よく Teen Ager が、親に向かって、「私に干渉しない で」と言う時、”This is MY LIFE”と言う。 ●しかし、何を根拠にそれが、「私の」だと言えるのか?! たまたま、今、それを自分が持 っているからと言って、それがその人のものだとは限らない。 ●でも、これがほとんどの人の考えである。自分の人生は私のものだと思っている。 ●しかし、自分の力で、自分の努力で生まれて来た人は一人もいない。だから、英語でも、 ドイツ語でも、生まれるということを I was born という受動態(passive voice)で表す。 ●私たちの持っている「才能」もそうである。あなたはそれを練習、勉強という努力で伸ば したかもしれない。しかし、その元になる才能の種は神様からのものである。 (3) 私たちが、顕微鏡でしか見れないミクロの世界から始まって、天体望遠鏡でしか見れな いマクロの世界に至るまで、すべては神様から与えられたものである。 (4)それゆえに、聖書は、私たちは、神様に「感謝」しなければならない。人の前に「謙虚」で なければならないと教えている(ローマ1章20-21節、Ⅰコリント4章7節) 2.更に、ここで注意しなければならないことは、私たちが持っているものは、単に「神様から 頂いたものである」という以上に、「神様からの預かりもの」であることの認識である(。 (1)多くの人が、クリスチャンでさえ、この点で勘違いしている。頭では分かっていても、 実際的に間違っている。 ●「確かに、神様から頂いた」ことは分かっている。だから感謝もしている。しかし、一旦 頂いたら、「元は神様でも、今は、自分のものだ」と思っている。 ●しかし、聖書が、他の箇所、又この箇所で強調していることは、私たちの持っているも のは、私たちのものではなく、「神様からの預かり」ものであると言う事実である。 (2)聖書のメッセージは、私たちは、私たちの持っているものの、神様から頂いたものの「管 理者」であって、「所有者」ではない。 ●即ち、ある意味で、「頂いた」のではなく、「預かった」のである。 ●英語で始めに分からなかった表現がある。今でも、もう一つ納得がいかない表現であ る。”You can keep it”と言う表現である。「もらった」のか、「暫く持っててよい」とい う意味か、よく分からなかった。でも、今は、それは、英語で、「上げるよ」と言う意味 らしいと分かった。 (3)しかし、聖書では、それは違う。私たちが、たとい神様から頂いたものを一生と言う長 い間 Keep していても、それはどこまでも預かっているのであって、自分のものになっ たのではない。 (4)それは具体的に何を意味しているか? 19 節を見たい。「・・・彼らと清算した」。 ●私のものになっているなら、それをどのように使おうが自由であり、報告や清算の義務 はない。 ●しかし、私たちが持っているものは、主人から、神様からの預かりものであり、それを 主人のため、神様のために運用するべく委託されたものであるから報告し、清算しな ければらない。 (5)何と多くの人がこの点において勘違いしているか? 神様から預かったものを、いつの 間にか、長い間持っているから、自分のものだと思い込んでしまっている。 ●即ち、”You can keep it”を英語式に訳して、自分のものになったと勘違いしている。 ●それで、ほとんどは自分のため、自分の好きなように使い、残りの一部を神様に「おし るし」のようにお返しすれば良いくらいに思っている。 ●しかし、聖書は、私たちが持っているすべては今も神様のもの、神様が所有者であって、 私たちはではない。私たちは、それらの管理者、運用者であると明確に告げている。 3.ここで、第三に注意すべきことは、この譬えの中で言われている「タラント」とは、私たちに とって何を意味しているかである。 (1)言うまでもなく、それは元々、お金の単位であり、お金を意味していたと言える。 2 (2)しかし、それが後に、いわゆる「タレント」と言う言葉として、お金を含めた、賜物、才 能、能力を表す言葉になったように、 (3)ここで言う「タラント」とは単にお金以上に、私たちが、人生に持っているあらゆる才能、 能力、力(肉体的、精神的、社会的、経済的)、その他、「時間」を含めたあらゆる賜物のこ とを意味している。 (4)即ち、私たちは、それらの所有者ではなく、管理者であり、運用者であるから、それら をどのように使ったか、運用したか、やがて所有者である神様の前に報告し、清算する責 任があるのである。 Ⅱ.さて、第二に、この譬えから学びたい大きなポイントは、神様に仕えるしもべが持つべき、与えられた賜物に対 する態度・姿勢である。 A. それらは二つの関連した姿勢であるが、そのことに触れる前に、この「タレント」についてもう少し学びたい。 1.まず、この「タラント」というお金の単位である。 (1)1 タラントは 6000 デナリである。 (2)1デナリは、一日の労働賃金であると言われ、今なら1万円と言えるであろう。 (3)従って、1タラントは 6000 万円となる。 2.と言うことは、ここで、 (1)5タラントのしもべは、3 億円 (2)2 タラントのしもべは、1 億 2000 万円 (3)1タラントのしもべも、何と 6000 万円を預けられたのである。 3.これらのことから学ぶことは何か? (1)第一に、みんな与えられているものは「違う」「差がある」ということである。 ●しかし、その違いとは、少なくともこの譬え話の物語の教えるところからするなら、み んなそれぞれ与えられている賜物の「種類」が違うと言う意味ではない。 ●この譬えの中では、それはみな「同じ」お金であった。同じ「種類」であった。ある人には お金が、ある人には、ほかの何か(例えば「健康」)が、与えられてと言うのではなかった。 ●同じ種類の賜物であるが、「量」が違ったのである。 ●この物語では、そもそもこの主人は、各しもべの「能力に応じて」お金を委託したとある。 賜物の種類に違いがあったのではなく、しもべそれぞれの能力に差があったのである。 ●人間はみな能力や賜物、人生において神様から託されたものに関して「差」がある。多く 預かっている人と少なくしか預かっていない人と差がある。 ●率直に言うなら、聖書は、ここで、主人が、5 タラント、2 タラント、1 タラントと差 をつけてしもべたちを扱ったように、人間的には、私たちは決して「平等」ではない。 (2)しかしここでもう一つ学ぶことは、「私は最低の賜物だ」と言う人でも、 ●彼らの受けていた賜物は、何十万円(それでも多いが)どころではない。何百万円を遥か に超えた 6000 万円もの大金を受けていたという事実である。 ●そのことが仰りたかったから、イエス様は、ここで、タラントと言う単位を使われたの である。決して、他のところに出てくるような、ミナとか、デナリを使われなかった。 ●即ち、イエス様は、ここで私たちはみなその賜物の量に差こそあるが、それでも、それ を生かそうとするなら、十分で豊かな賜物を持っていることを言いたかったのである。 さて、それでは、神に仕えるしもべは、自ら与えられている賜物に対してどのような姿勢を持つべき かについて、互いに関連のある(即ち、消極面と積極面)二つの姿勢を挙げたい。 1.別な言い方をすると、人と比べないで生きる姿勢である。 2.特に、この姿勢を、2 タラントのしもべの中に見る。 3.彼が、もし他人と比べて生きる人(しもべ)であったら、どうなっていたか? (1)もし彼が、5 タラントのしもべと比べていたら、大いにひがんだであろう。 ●彼は自分を卑下し、5 タラントのしもべをうらやんだであろう。 ●そして、むしろ、1 タラントのしもべと「つるみ」、同じ行動を取ったであろう。 B. 第一は、消極面であるが、他の人のことを「ひがまない」心である。 3 ●即ち、1タラントのしもべと自分を比べ、同じように少ない賜物の仲間だと感じ、やる 気をなくし、地面の中に埋めるという消極的な生き方を1タラントのしもべと同じよう にしていたであろう。 (2)しかし、彼は全く正反対であった。 ●彼は、むしろ5タラントのしもべと同様の行動パターンを取った。 ●それは、彼が5タラントのしもべと比べたからではなかった。もし、比べたら意気消沈 したであろう。しかし、彼が同じ行動を取れたのは、むしろ比べなかったからである。 ●来週このことはもう一回触れるが、彼は人と比べず、ただ自分と神様だけを見つめてい たから、純粋に神様に仕えられたのである。 4.聖書は、自分と他人を比べる生涯をいさめ(諌め)ている。 (1)詩篇 18:26、同 101:4 に英語では、Perverted/Crooked、日本語では曲がった心 (者)、僻(ひが)んだ心(者)と訳されているが、神様は、人と比べて、斜めからしか物事を 見れない人、まっすぐに、素直になれない心、僻んだ心を嫌われる。 (2)ヨハネ 21 章 17-23 節を見ると、そこには、ペテロが、殉教と言う自分の運命と長生 きするのではと想像されるヨハネの運命とを比べて、ヨハネを指さして、イエス様に僻み っぽく「あの人はどうなんですか?」と尋ねたとき、イエス様が言われた言葉を思い出した い。「あなたと彼と何のかかわりがありますか?! あなたは私に従いなさい」であった。 (3)聖書のしもべに対する期待は、他人の生涯と自分のそれとを比べて、得意になったり、 失望落胆したり、僻んだりすることを止めることである。 5.水野源三氏:彼は、自ら 10 歳のときに集団赤痢からの高熱で、体のすべての運動機能を失 い、体で自分の意志で動かせるのは、瞬きすることであった。15 歳でイエス様を受け入れ、 間もなく母の助けを得て、瞬きで意思を表して詩を書き始める。その彼が、8 歳で視力を失 おうとする男の子に与えた励ましの言葉:「人と比べないで生きて欲しい」。 C. 第二に、神様に仕えるしもべが、自らに与えられた賜物に対して持つべき姿勢は、それを感謝を持って受 け入れ、喜びをもって運用しようとする積極的姿勢である。 1.これもまた、2 タラントのしもべの中に見られる姿勢である。 2.イエス様は言われる。16-17 節を見て頂きたい。「5 タラント預かった者は、すぐに行っ て、それで商売をして、・・・同様に、2タラント預かった者も・・・」とある。 3.「すぐに」と言う言葉が暗示していることは、どちらも、預かった物(3 億円、1 億 2000 万 円)と、主人が、それを託してくれた事実に感謝し、喜んで、興奮して、「すぐに」、「躊躇し ないで」、「後回しにすることなく」、積極的にそのお金の運用を始めたことである。 4.神様が求めているしもべ、神様に仕えるしもべの姿は、 (1) 誰かに言われて、やっと重い腰を上げるしもべではない。 (2)積極的に、自分は何かができるはずだ、何か私がするべきことがあるはずだと、 (3)ためらわず、すぐに、自らで「出て行って」、それを探し求めて、運用することである。 結 論 ●すでに触れたように、「仕える」姿こそ、イエス様の十字架の本質であり、愛の本質を表す行為である。 ●私たちは、それをピリピの 2 章 6-8 節、ヨハネ 13 章1-17 節、更にマルコ 10 章 45 節に見る。 ●私たちが今こうして神様の祝福にあずかることができているのは、イエス様がご自分の死を持ってま で、私たちにしもべとして仕えてくださったからである。 ●今、私たちも、イエス様のこの愛への応答として、神様に仕えるものとなりたい。 ●そして、このイエス様の仕える姿から滲み出た愛を人々に述べ伝えるために、私たちもキリストとそ の福音に仕えるものとなりたい。 4
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