第1集第2話 蚊喰塚

かっくい づか
第二話 蚊喰塚 皿尾 一本木
むかし、いまから四百年ほど前の、永禄四年三月のこと。越後の武将上杉謙信輝虎は、小田原
城攻めの先勝祈願を、鎌倉八幡宮で執り行いました。その儀式の際、忍城の殿様である成田長泰
様との間で思わぬトラブルを起こしてしまいました。それが原因で、長泰様が忍城に引きあげて
しまうこととなり、関東の諸将たちもそれぞれ自分の城に引きあげてしまわれました。さすがの
謙信も、これでは越後に引きあげざるを得ませんでした。
とりで
その恨みがあってのことか、謙信はここの皿尾に大軍をとどめ、砦 を急造いたしました。砦と
いうのは小規模なお城のことで、これが皿尾城となったのでございます。
謙信は、羽生城主木戸玄齊をこの砦に入れ、その上岩槻城主太田三楽斎の援軍がここに絶えず
往来しておりましたので、忍城の成田様は、目と鼻の先の皿尾城をなかなか落とすことができな
かったのです。
今とは地形が違っており、皿尾城は大きな三つの谷に囲まれた要害の地であったそうでござい
ます。
と ばり
ところで、この皿尾城には二重の「外張」といわれる堀がありました。北の方の外張には塚の
けやき
ように小高くなっている所があり、そこには大きな一本の 欅 の木がはえておりました。
この欅は、大へん古い木ではありますが、高さはそれほど高くはなく、幹からはたくさんの小
枝が出て、大そうな繁みとなっておりました。この欅は「一本木」といわれ、村人たちからは「手
たた
をつけると祟りがある」ということで現在でも恐れられております。
なにがし
長い時を経た晩秋の寒いある日、この土地の地主でもある「岩田 某 」のお父上が、近くの畑
で麦まきをしておりました。そこへ学校帰りの子供たちが寒そうに帰ってきたので、この塚に落
ちた枯葉や枯れ枝を集めて、たき火をしてあたらせました。その夜、岩田さんの膝は急に熱をも
って腫れあがり、寝返りも打てない程痛み、たいそう苦しみました。さては「一本木」の祟りか
と思い、次の日の朝、供養をいたしました。するとたちまち膝の腫れが治ったということであり
ます。
もみがら
また、戦争中、燃料がたいへん不足をし、籾殻まで火鉢やかまどの燃料として使った時代があ
りました。その頃、持田村の気丈な山師の人が、あの欅を切らせてくれと岩田さんに申し入れた
ことがありました。岩田さんは「明治時代に下枝を落としたものがニ、三日後に死んでしまった」
ことや自分の身に起きた不思議な「一本木」にまつわる話をし、「切りたければ勝手にどうぞ」
といいました。さすがに気丈な山師も、ついにその一本の欅だけは切れなかったそうです。
今でもその伝説は守られており、戦後、北西土地改良区で、この地の耕作地整理をするにあた
さん せ
っても、ついに「一本木」「蚊喰塚」の三角地三畝あまりは残されることになりました。それは
土地の要望もありますが、それ以上にむしろ施行する側が「祟られては困る」と、手をつけなか
ったということが本当らしいのです。
「蚊喰塚」にも手をつけられない伝説とは何なのでしょうか。それは昔からこの蚊喰塚は罪人
の「お仕置場」でもあったからだと云われています。罪人が出ると、お仕置きのためにこの欅の
木に、真っ裸にしてしばりつけ、蚊責めにしたそうです。ひどい時は蚊がよく集まるように、頭
からお酒をかけたりもしたそうで、一夜明けると、罪人は体中蚊に刺され、見るもむごたらしい
姿で死んでおったということです。
中には罪もないのに、蚊責めの罪を受けて死んだ人もいるということから、それらあまたの
おんりょう
たた
怨 霊 が、この木に手をつける人に祟るという伝説になったのでしょう。
その蚊喰塚は現在も残っております。皿尾の雷電神社がありますが、ここが昔の皿尾城です。
この神社の前で道は大きく右にカーブして、真直ぐに行くと星宮小学校があります。カーブして
間もなく信号のある十字路がありますね。左へ行くと中里です。この信号を過ぎるとすぐ左側に
ありますから、今度通りかかることがありましたら立ち寄ってみるのもいいですね。
完
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