秘境 小幌~その自然と歴史探訪

~その自然と歴史探訪~
豊浦町教育委員会
2015
写真【上】夏の小幌洞窟入口
【下】小幌駅
1. 海底火山と洞窟の形成
今から1000万年以上も前、北海道の大部
分は深い海の底にありました。北側から張り出
していた北米プレートに東側から太平洋プレー
トがもぐり込むようにぶつかり、日高山脈を持
ち上げるような大地の活動が活発化しました。
そのような活動の余波は、まだ海底にあった噴
火湾周辺の地域でも、激しい火山活動となって
図 1. 噴火湾から見た小幌海岸周辺
現れました。海底火山が溶岩や火山灰などを海
底に噴出するとともに、次第に海底も持ち上がり
浅くなってきました。数百万年前になると、現在の渡島半島や積丹半島、豊浦の海岸部など
で海面上に姿を現した火山が次々と連なり大きな火山島となりました。
小幌海岸の断崖を見ると、黒っぽい溶岩や赤
褐色の火山灰の地層が折り重なって見えます。
よく見ると、大小さまざまな岩石がセメント状
の火山灰で固められているような部分もありま
す。また、板状やブロックを積み重ねたような溶
岩が岩脈となって入り込んでいるのも見られま
す。これらは古い火山の激しい活動のなごりで
す。
図 2. 火山活動によってできた地形
火山活動が収まり数百万年の長い浸食の時代
に海面は数10~数100m 程度の幅で何度も
上下動を繰り返しました。そのため小幌や礼文華の海岸は削られ、断崖の続く荒々しい海岸
ができました。また、洞窟やトンネルのような地形もできました。現在の小幌洞窟が最後に
海食を受けたのは今から約6000年前の縄文文化早期で当時の海面は現在よりも約3m
高かったと考えられています。満潮時には洞窟の奥まで波が入っていたと思われます。しか
し、縄文文化前期には海面が下がり、今日まで津波でもない限り、洞窟内部まで波が押し寄
せることはなかったでしょう。
2. 初めて人が住み着いた頃~小幌洞窟での人間活動
小幌洞窟ではこれまで3度発掘調査がおこなわれ、小幌洞穴遺跡として登録されていま
す。調査の結果、縄文文化晩期の後半(今からおよそ2500年前)、続縄文期の前半期(今
からおよそ2000年前)
、擦文文化期(7~13世紀)
、そしてアイヌ文化期と断続的に人
間が洞窟とその周辺で活動していたことがわかっています。また、土器や石器、動物の骨を
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こっ か く き
加工して作った道具である骨角器などが出土し、
1950年代と1960年代の調査では、洞窟内
から計7体の人骨も発見されています。
近年では、2006年から2009年と201
1年に、北海道大学が発掘調査をおこないました。
北海道大学が2006年におこなった調査で
は、洞窟の東側約30m の岩陰でおこなった試掘
調査で、少量の続縄文土器の破片と埋葬された人
図 3. 小幌洞穴遺跡から出土した遺物
骨1体が発見されました。この地点は「小幌岩陰
遺跡」として登録されています。また、調査の結
果、洞穴の利用を開始した時期が縄文文化晩期後
半までさかのぼることや、現代の洞穴の地面は基
盤となる岩盤からおよそ1.3m 高まった位置に
あることなどがわかりました。また、灰や炭など
火を焚いた可能性を示す痕跡も見つかっていま
すが、この洞穴は定住の場というよりも、狩猟の
ための一時的な場(キャンプサイト)であると考
図 4. 北海道大学の発掘調査の様子
えられています。
3. 小幌洞窟最初の和人の訪問者
記録に残る最初の和人の訪問者は寛文6年(1666年)
に訪れた美濃国の僧、円空であったと思われます。彼は母親
を洪水で亡くしたことから仏門に入り、全国を修行しながら
仏像を作ったと言われており、当時、青森県付近にやってき
たとき、寛文3年(1663年)に大噴火した有珠山のこと
を知ったと思われます。そこを目指して北へ向かったのでし
ょう。
当時の状況を考えれば、円空が礼文華山道を陸路で通った
図 5. 円空像(千光寺蔵)
とは考えにくく、おそらくアイヌ人の小舟に乗せられて有珠
すが え
へ渡り、善光寺を参詣して5体の仏像を作って納めたと思われます。後にここを訪れた菅江
ま すみ
真澄の記録から推定されます。そして大噴火間もない噴煙を上げている有珠山に登り、北側
にある洞爺湖と中島を見て感動したようです。
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その帰途、円空は小幌洞窟に立ち寄って(おそらくアイヌの小
舟で)5体の仏像を作り洞窟内に納めて去ったと考えられます。
1体の仏像の背文には「うすおくのいん小島(洞爺湖中島)
」に奉
納されるべき観音像であること、初めて有珠山に登ったこと、作
者である円空の署名と花押が記されていました。この仏像は現在、
有珠善光寺に保管されており、背文も確認されています。
図 6. 有 珠 善 光 寺 所 蔵
観音像
4. 最初の記録(菅江真澄の紀行文)
三河の文人菅江真澄が蝦夷地を訪問したのは寛政2年(1790年)でした。その年渡島
半島の西海岸を北上し、大田権現へ詣で道中の様子を紀行文『えみしのさえき』に残してい
ます。
翌、寛政3年(1791年)アイヌの小舟で東海岸を北上し、その途中で小幌洞窟へ立ち
寄り、円空作の仏像を5体確認しています。その折に、付近にアイヌの仮小屋があることな
ども記録しています。小幌洞窟周辺が漁期に漁場が開かれて、季節的に人々が移り住んでい
たことなどが文章から読み取れます。イコリ岩を回ってレブンゲコタンに立ち寄り、カムイ
チャシ沖を通ってアブタコタンに上陸し運上屋に宿泊しています。その後、有珠山へ登山、
有珠コタンの運上屋へ宿泊、そして有珠善光寺を訪問しています。
このたびの記録は『えぞのてぶり』という紀行文にまとめられており、風景や各地のコタ
ンの様子、アイヌの人々の風習、動植物に至るまで記録され、当時を知る一級資料として高
く評価されています。
真澄が蝦夷地を去って間もなく、イギリスの探検船プロビデンス号がやってきます。ロシ
ア船や国籍不明の外国船の相次ぐ接近に幕府も蝦夷地警固のために多くの役人を派遣する
ことになります。
5. 松田仁三郎(伝十郎)と円空仏
小幌洞窟にあった円空仏は寛政11年(1799年)
、幕府蝦夷地御用掛として赴任した
松田仁三郎によって、仏像の背文にちなんだ地へ祠を建立し奉置されました。彼の記録では
菅江真澄の記録より1体少ない4体の存在が確認されています。真澄が「朽ちて背文が読み
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とりがたく」とした仏像がここの洞窟に残されたものか、すでに失われてしまい、現在まで
残されている「岩屋観音」は「いわうのたけごんげん」
(松田仁三郎は「ゆうはりのたけこ
んげん」と記録)とされた仏像ではないかとも言われます。
6. 首なし観音と泉藤兵衛
時は流れ、幕末慶応年間~明治初期に虻田・礼文華の場所
いずみとうべえ
請負人となった泉藤兵衛はベンべ村(現豊浦本町)在住期間
に小幌にあった円空仏についての言い伝えを聞いていたよ
うです。
昔、礼文華山道を歩いていた回国の僧が大熊と出会い、必
死で逃れようとして小幌の洞窟にたどりつきました。洞窟の
中に仏像があったのでその陰に身を隠していると、大熊はそ
の仏像の頭を食いちぎって去って行きました。おかげでこの
旅の僧は助かり、そのことを礼文華のコタンの人々に伝えた
のでした。以来、人々はこの仏像を「首なし観音」とあがめ
図 7. 小幌洞窟の岩屋観音
るようになったということです。また、この仏像は「岩屋の
観音様」とも呼ばれ、豊漁や海の安全を祈願する人々の信仰
の的となりました。泉藤兵衛はあるとき、夢の中で仏様が現れて、この「首なし観音」の首
を付け直してくれるよう依頼されました。不思議なことに函館の仏師にこの仏像を持ち込
んだところ、仏師もまた同様な夢を見ており、2人によって無事、新しい首が付け替えられ
たのでした。この観音様は小幌の洞窟に戻され今日に至っています。
明治27年、洞窟内に御堂が新築された折、藤兵衛はこの顛末を2枚の絵馬として、鰐口、
灯篭、旗などと共に奉納しています。
その後、この2枚の絵馬は有珠善光寺宝物館に保管されており、文字や絵も明瞭な姿で残
っています。鰐口は現在も洞窟内にある御堂の入り口に吊り下げられています。
7. 全国一の秘境駅・小幌
小幌海岸は昔から好漁場として知られ、漁期には多くの漁師で賑わいました。しかし、生
活するのは大変で、船で生活物資を運び、冬場には近くの村へ引き上げなくてはなりません
でした。
昭和3年、北海道屈指の難関であった長万部~輪西(現在の東室蘭)間の鉄道が開通しま
お さわ
した。2つの駅の名を取って長輪線と呼ばれました。当時、北海道有数の長大なトンネルの
連続で多くの犠牲の末に完成したのでした。それまでの小幌海岸はまさに陸の孤島で、船で
行くか命がけで山道を辿るしかありませんでした。そこに鉄道が敷かれ、トンネルとトンネ
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ルのわずかな合間に小さな駅もつくられました。
当初、この駅は単線で静狩と礼文の駅間が長い
ため、輸送量アップの目的で信号所が設けられ
ましたが、保安管理の必要性から1987年に
駅に昇格され、保線区の職員も配置されること
になったものです。
このことによって、洞窟の前や近くの海岸に
は定住する人々も現れ、漁期には100人を超
える人々で賑わい、岩屋の観音様の祭ともなれ
図 8. 冬の小幌駅
ば、参拝の人も含め盛大なものであったと言われ
ています。
そのような小幌も鉄道の複線化によって小幌駅が無人化され、漁船の大型化、高速化によ
り、この不便な海岸に住み着く必要もなくなり、無住の地となったのでした。時折、磯釣り
を楽しむ人や円空仏を参拝しようとする人が訪れるだけの寂しい場所となりました。
平成18年から北海道大学大学院文学研究科のメンバーにより小幌洞穴遺跡発掘調査が
始まり、毎年8月には調査隊員が通う賑やかな光景が見られるようになりました。また、秘
境駅としての人気も全国第1位に輝き、多くの鉄道マニアが訪れるようになりました。
平成22年8月には洞爺湖有珠山ジオパークが世界ジオパークに登録され、小幌洞窟周
辺海岸もジオサイトに指定され、ますます人々の関心を高めることでしょう。訪れる人々が
増えてもなお、この秘境の地は訪れる人々に歴史的背景とともに大自然のつくり出した造
形の美を満喫させてくれます。
《参考文献》
泉隆
「有珠善光寺の大絵馬と円空の観音像
寄進者泉藤兵衛について(上)(下)」
『伊達の風
土』
、伊達郷土史研究会
2008『円空と瀬織津姫【上巻】
』、風琳堂
菊池展明
小杉康ほか
2008「小幌洞窟遺跡の調査概報(第 2 次調査第 1・第 2 シーズン)―噴火湾北岸
縄文エコ・ミュージアム構想とサテライト形成(1)―」
『北海道考古学』第 44 輯、45-52 頁、
北海道考古学会
堺比呂志
2000「岩屋洞窟と円空仏像」『譚』第 5 号、45-50 頁、二水会
堺比呂志
2003『円空仏と北海道』
、206-221 頁、北海道企画出版センター
豊浦町
1972『豊浦町史』
名古屋市博物館・仙台市博物館・北海道立近代美術館
北大解剖教室調査団
2005『円空さん』
、中日新聞社
1963「小幌洞窟遺跡」
『北海道大学北方文化研究報告』第 18 輯、179-278
頁、北海道大学
6
宮本すみ子
1994「北海道における円空仏の研究―小幌洞窟岩屋観音像を中心とした一考察―」
『札幌大谷短期大学紀要』第 24 号、182-195 頁、札幌大谷短期大学
渡辺一史
2011『北の無人駅から』
、11-90 頁、北海道新聞社
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