伊 丹 十 三

自在な「容器」の華麗な「退屈」
伊丹十三
Juzo Itami
映画監督、エッセイストほか
一九九七年十二月二十日没(六十四歳)、自殺
映画監督として知られる伊丹十三だが、監督以前は巧みなエッセイス
トであり雑誌編集者であった。俳優でありテレビ番組やCFの卓越した
企画者であった。さらに以前は商業デザイナーであり映画編集者であっ
た。その前は才能をもてあました青年であり父に先立たれた少年であっ
た。
最後まで複雑な人でありつづけた伊丹十三は、少年時代からファッシ
ョンセンスでも突出していたが、一九八四年、五十一歳で『お葬式』を
撮って映画監督となってのちはソフト帽を愛用した。
被りますね。僕の場合はソフトです。監督するとき
かぶ
伊丹十三自身が、帽子について語っている。
「 帽 子 で す か?
は大体ソフトを被っている。僕の親父が映画監督で、監督するときいつ
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伊丹十三
もソフトを被っていたもんでね、その真似をしているわけです。つまり
「 帽 子 っ て、 ま ず 外 の 世 界
だよね。他人と対決したりせ
めぎあったりする世界、従っ
てルールや規律やプリンシプ
ル が 支 配 す る 世 界 で し ょ?
つまり簡単にいえば大人の世
界ですよ」
「なんでそんなしんどい思
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ソフトを被ることによって、僕はある意味で親父と同一化しているのか
も知れません」
写真提供:共同通信社
いをしてまでソフトを被るのかって?……そりゃ、退屈だからですよ。
( …)
自分に死ぬほど飽き飽きしてるんです。(…)
たまさか僕がソフトを
被るのは、それによって日常から非日常へ脱出を企ててるんですよ。つ
まり、僕にとって、帽子は一つの旅である、と」
(伊丹十三「帽子は一つの
旅である」、クォータリーマガジン「パパス」一九九四秋/冬)
長い夏休みのようだった「島流し」
伊丹十三は一九四四(昭和十九)
年、京都師範男子部附属国民学校五年
生のとき特別科学技術教育学級に入れられ、戦争末期だというのに英語
を学んだ。映画監督であった父伊丹万作が四六年、四十六歳で肺結核で
亡くなると、母と妹は父の実家のある四国松山に移り、妹は伯父の養女
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伊丹十三
となった。好きな女の子がいたらしく、ひとり京都に残りたがった彼は、
四九年秋、東京からやってきた野上照代に生活の面倒を見られて一年あ
まり共同生活を送りながら新制山城高校に通い、そのあと松山東高校に
あか にし かき
転入した。明晰であったが学校には不向きな性格で、高校では一年休学、
一年留年した。
野 上 照 代 は 府 立 家 政 学 校 の 生 徒 で あ っ た 戦 中、 伊 丹 万 作 の『 赤 西 蠣
た
太』を見て感動、伊丹と文通した。京都に野上を呼んだのは映画プロデ
ューサーの栄田清一郎だが、彼女は栄田のコネで大映京都のスクリプタ
ーとなって五〇年には黒澤明『羅生門』につき、以後黒澤組の一員とな
った。
映画監督・脚本家・文筆家であった父「伊丹万作」は「筆名」で本名
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たけひこ
池内義豊。息子も当然池内姓で戸籍名は義弘、通称名を岳彦といい、の
ち『ロード・ジム』で共演したピーター・オトゥールなどには「タケ」
と呼ばれた。『日本春歌考』
(監督・大島渚)
に出演して十二歳年下の宮本
信子を知った六七年、伊丹一三から伊丹十三と改名した。理由を問われ
ると「マイナスをプラスに変えただけ」とうそぶいた。宮本信子と二度
目の結婚をしたのは六九年の元日、伊丹は三十五歳であった。生まれた
長男には父の筆名万作を与え、次男は万平と命名した。なかなか複雑な
アイデンティティといわざるを得ない。
松山時代の伊丹十三は学生服など着ず、気ままに見えるがよく考えら
れた自由な服装をしていて、それだけであたりを払う気配があった。課
業には熱心ではなかったが、演劇とその宣伝美術には力を入れ、日頃ガ
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伊丹十三
リマール版のランボー詩集などを読んでいた。二年遅れたので、やはり
転校生の大江健三郎と同級になり、隣同士の席になったときは授業中に
カトラン(四行詩)
を共同でつくったりした。三歳下の妹ゆかりは、六〇
年、大江健三郎と結婚した。
しかし、そんな昭和二十年代の松山時代を伊丹十三は「島流し」と呼
んだ。
「夏の盛りには、時間はほとんど停止してしまう。たぶん一年の真中
まで漕ぎ出してしまって、もう行くことも帰ることもできないのだろう、
とわたくしは思っていた。あとで発見したのであるが、人生にも夏のよ
うな時間があるものです」
(『ヨーロッパ退屈日記』
)
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「大キザ」の傑作『ヨーロッパ退屈日記』
二年遅れで高校を出ると大学には行かず、栄田清一郎のコネで新東宝
の映画編集者となった。やがて商業デザイナーに転向、明朝体を書かせ
たら日本一と自慢するまでにレタリング(書き文字)
に習熟して「漫画讀
本」
(文藝春秋)
などの車内吊り広告をつくった。当時からイラストも玄人
はだし、というより玄人であった。グラフィック・デザイナーとなり河
出書房の雑誌「知性」に関係して編集者山口瞳と知りあった。一九六〇
年初め、二十六歳でまたまた方向転換、大映にニューフェイスとして入
社した。伊丹一三という芸名は永田雅一社長がつけた。
同年、野上照代に紹介された、東和映画の川喜多長政、かしこ夫妻の
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娘和子と結婚した。準主役級で五本出演した大映を六一年退社、川喜多
家の後援をあおいでヨーロッパに行き、
『北京の五十五日』のスクリー
ンテストを受けて合格した。それは、北清事変(一九〇〇年)
で義和団に
包囲され、北京城内に取り残された外国人と中国人キリスト教徒、およ
びその救出に向かった八ヵ国連合軍をえがいたハリウッド映画の歴史大
作で、主演チャールトン・ヘストン、監督ニコラス・レイであった。
撮影はマドリード郊外、
「野球場が半ダースくらいすっぽり入る面積
に、丸ビルより少し低い程度の城壁」をめぐらせたオープンセットで行
われた。ニコラス・レイは当初八ヵ国連合軍と中国側、すべて当該国の
俳優を使い、言語も各国語入り乱れさせようともくろんだのだが、構想
は徐々に崩れ、西太后から清国皇太子に至るまで欧米人が演じることに
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なった。そんな中、日本派遣軍指揮官柴五郎中佐を演じる伊丹一三の参
加は監督の慰めであった。
スペインへ赴く前、彼はロンドンで「ジャギュア」を注文した。ハリ
ウッド映画一本に助演すればそれだけのギャラが保証された時代であっ
た。アイボリーの三・四リッターで内張りは赤、クロミゥム・スチール
のスポークのついた白タイヤという派手なよそおいのジャギュアは注文
して三カ月後に納車、それを撮影見物かたがたスペインまで運んだのは
白洲次郎、正子夫妻であった。
四ヵ月もかかった撮影中、伊丹と「チャック」
(チャールトン・ヘストン)
は、「ニック(ニコラス・レイ)
はいい人だ」といいあっていたが、監督で
「 い い 人 」 と は「 無 能 な 人 」 と い う こ と で あ る 。 最 初 渡 さ れ た 脚 本 は 六
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伊丹十三
時間分もあろうかというほどの厚さで、撮影前に十分に練られていない
証しであった。
「ニック」は、あるシーンでは人物をまずロングで撮影する。つぎに
同じシーンをバストで撮り、必要があればアップでも撮る。それから角
度を変えて同じシーンを何度か撮る。贅沢というより不合理きわまりな
い。編集者に膨大な材料を引き渡すことがハリウッドの監督の仕事か、
と伊丹は怪しんだ。
長 い 拘 束 が 終 る 頃 に は、 あ の 唾 棄 す べ き 一 九 六 〇 年 代 初 め の 日 本、
「週刊誌と香水入りおしぼりの国」
「男が女より先に、タクシーに乗り込
む国」「下水もないのにテレビだけは七つのチャンネルを持つ」あの貧
乏 く さ い 日 本、 し か る に「 お い し い 魚 と、 白 菜 の 漬 物 と、 お そ ば の 出
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─
前」のある日本を、伊丹はしきりに懐かしんだ
『 ヨ ー ロ ッ パ 退 屈 日 記 』 の こ こ ま で の 五 十 枚 分 は「 文 藝 春 秋 」 の も と
めで書かれたのだが、一読した編集者は「これはウチ向きではない」と
いった。当時サントリーから出していた「
“洋酒天国”のような雑誌な
らぴったりなんだが」ともいったので、持ち込むとそこに編集者として
昔なじみの山口瞳がいた。
「洋酒天国」でさらに一回分書き、その後「婦人画報」で書き継いだ
原稿は、六五年三月、新書判「ポケット文春」の一冊として文藝春秋社
から刊行された。
『ヨーロッパ退屈日記』というタイトルは、
「いかにも
退屈そうだから」と山口瞳がつけた。
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「 ジ ャ ギ ュ ア 」 だ け で は な か っ た。
「 ア ー テ ィ シ ョ ー」
(アーティチョー
ク)
という不思議な野菜。スパゲッティの「アルデンテ」な茹で方。「ツ
ァイス」の眼鏡、
「ペッカリ」の手袋。
「マルティニ」
(マティーニ)
という
─
夏の香りのするカクテル
フランスには「ミケリン」という自動車旅行者のための有名なガイド
ブックがあるとイアン・フレミングの翻訳小説で覚えたばかりのモダニ
スト高校生、とくに地方の高校生にとって『ヨーロッパ退屈日記』は、
まさに文化的衝撃であった。
キザに違いない。しかしイヤ味は感じなかった。キザもキザ、大キザ
の高い綱渡りをして揺れながらもきわどく落下しない。それは芸であっ
た。文芸であった。そのうえで全編に満ちる「切ない明るさ」に照らさ
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れた「倦怠感」が心に沁みたのである。
だが一九六三年に日本公開された『北京の五十五日』は期待はずれの
駄作であった。伊丹にも芝居のしどころはなかった。欧米人のイメージ
する日本人の姿なのか、やたらお辞儀をする伊丹(と役柄の柴五郎中佐)
が
ただただ気の毒であった。
その頃すでに彼は、リチャード・ブルックス監督『ロード・ジム』の
スクリーンテストを受けるためにロンドンにいた。通ればピーター・オ
トゥールの共演者となれる。ジェイムス・メイスン、クルト・ユルゲン
ス、イーライ・ウォーラック、ジャック・ホーキンス、それにアメリカ
で活躍する日本人俳優斎藤達雄らとクレジットタイトルで並び立てる。
そうしてロータス・エランが一台買える。
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伊丹十三
失敗したら?
自前の往復の航空券、見栄を張った高級ホテルの滞在
費など、当時のお金で百何十万円が無駄になる。のみならず、敗北感は
ひとかたならない。
ブルックスはテストの現場で、君はただ「正しく感じる」ということ
だけ考えればいいといった。
「 そ れ が 眼 に 反 映 さ れ れ ば、 あ と は 芝 居 を
しなければしないほどいい」
伊丹は合格し、本編のロケ地カンボジアへ飛んだ。プノンペンで『ヨ
ーロッパ退屈日記』の後半部の原稿を書いたのだが、この映画が彼の国
際俳優としてのキャリアの最後の作品になった。出演が決まっていたア
ンドレ・マルロー原作、デビッド・リーン監督の『人間の条件』が流れ
てしまったことがいかにも惜しまれる。
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「空っぽの容れもの」
帰国した伊丹は、映画俳優をつづけながら『女たちよ!』などの著書
でコラムニストとして定評を得た。その一方、テレビ番組の企画者を兼
ねた出演者となり、七一年、創設して間もないテレビマンユニオン制作
の旅番組「遠くへ行きたい」では「親子丼」企画を実現した。それは、
伊丹が全国から買い出してきた材料を、父親が親子丼「考案者」だとい
う映画監督山本嘉次郎宅に届け、手ずからつくってもらうというもので
あった。七三年、同じテレビマンユニオンの番組「天皇の世紀」の「パ
リの万国博覧会」の回では、伊丹とディレクター今野勉、カメラマン佐
藤利明の三人だけでパリロケし、当時を再現するためにサムライの扮装
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伊丹十三
をした伊丹がシャンゼリゼ大通りを走った。
八一年には雑誌「モノンクル」
(朝日出版社)
を創刊して編集長となった。
岸田秀の精神分析学に強い刺激を受けた結果で、雑誌全体の隠されたテ
ーマは「父」であったが半年で廃刊となった。
伊丹は『ヨーロッパ退屈日記』のなかで「私はくわせものだ」「空っ
ぽの容れものだ」といっている。
「くわせもの」はどうかと思うが、
「空
っぽの容れもの」という自己像はある意味で当たっていたかもしれない。
彼は何でも受け容れた。ただし自分の器のかたちに合わせて。そうして
何でもできた。その末に、何でもできる自分に「退屈」した。
伊丹十三が映画『お葬式』を自らの企画・監督で撮ったのは、五十一
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ミリ
歳の八四年夏である。それよりずっと以前の六二年、二十九歳のとき、
大のオトナがゴム鉄砲を撃ちあって遊ぶ短編『ゴムデッポウ』を
フィルムで撮っているが、深い倦怠を巧みに映し出した手際は、すでに
玄人のものであった。しかしこのたびは商業映画である。
シナリオは宮本信子の実父の死をきっかけに、伊丹十三が一週間で書
いた。義父の葬儀の顛末を通じて、一族のあり方と現代そのものをえが
くその作品は、自主製作だからお金がない。主演は宮本信子、撮影場所
は湯河原の自宅、自分の子どもたちも子役に起用した。さらに「百の演
技 指 導 も、 一 つ の 打 っ て つ け の 配 役 に は か な わ な い 」
(伊丹万作『演技指導
論草案』)
という演出方針を実践しての、山崎努、菅井きん、大滝秀治、
高瀬春奈らのキャスティングであった。
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伊丹十三
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撮影現場にモニターを持ち込み、スタイリストを常駐させる「素人監
督」に当初は懐疑的であったスタッフも、初回のラッシュを見て態度が
かわった。「伊丹十三組」の誕生であった。
野上照代によれば、溝口健二組の現場では針の落ちた音さえ聞こえそ
うで、黒澤明組は怒号飛びかう建築現場のようだった。だが伊丹十三組
は、セリフのささいな改変さえ許さず、小道具にも凝りに凝る厳格な監
督にもかかわらず、罵声の聞こえない、なごやかな現場だった。
『お葬式』の初公開はその年八月下旬の湯布院映画祭であった。十一
月に一般公開されるとさらに評価は高く、その年のキネマ旬報ベストテ
ンの一位に選ばれた。伊丹十三は、父伊丹万作『赤西蠣太』のベストテ
ン四位を超えた、これで父に並んだと喜んだ。
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翌八五年には、女手ひとつで開業したラーメン屋を流れ者の男がコー
チして繁盛させるという西部劇『シェーン』のパロディ『タンポポ』で
当てた。以後も全作を宮本信子主演でつくり、八七年の第三作、国税庁
の女性査察官を主人公とした『マルサの女』は伊丹作品中最大のヒット
となったばかりか、これもキネ旬一位となり伊丹監督の実力を世に広く
知らしめた。しかし民事介入暴力をえがいた『ミンボーの女』公開一週
間後の九二年五月二十二日、伊丹は暴漢に襲われて顔と小指の腱を切ら
れた。
九五年、大江健三郎の家庭をモデルにした『静かな生活』をつくり、
九六年、落ち目のスーパーマーケットの再建をえがいた第九作『スーパ
ーの女』、九七年には第十作、ヤクザに狙われた事件目撃者の女優とそ
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伊丹十三
の警護官をえがいた『マルタイの女』を発表した。だが最後の作品とな
った『マルタイの女』の客入りははかばかしくなかった。
最後のインタビューに見えたいらだち
一九九七年十二月二十日、伊丹十三は東京・麻布の八階建てのマンシ
ョン屋上から飛び降り自殺した。六十四歳であった。新婚時代に宮本信
子と住んだそのマンションには、当時伊丹プロダクションの事務所があ
った。
写真週刊誌に二十六歳の女性との不倫報道がなされたせいだというが、
本人は雑誌の取材に、
「妻に聞いてみなさいよ」
「不倫疑惑なんていつも
のことだから」と軽く受け流していた。解剖の結果、血液中からブラン
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デー一本分にもあたる大量のアルコールと、精神安定薬が検出された。
その六週間前の九七年十一月中旬、伊丹十三にインタビューした「サ
ンフランシスコ・クロニクル」のチャールズ・バレス記者はつぎのよう
に書いた(「中央公論」九八年三月号「最後のインタビュー」)
。
「私は、まず、彼の苦しげな様子と暗い表情にショックを受けた。い
まになって考えてみると、このインタビューは、伊丹がすでに失望の淵
に立っていて、情事発覚のためだとされた自殺の原因はその絶望の淵か
らの最後の一突きにすぎなかったのではないかと推測する人たちに、裏
付けを与えるように思える」
そうしてチャールズ・バレスは、現代日本を激しく論難する伊丹の発
言に少なからず驚いた。自分の日本に対する失望と嫌悪は、対米関係の
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伊丹十三
ありかたから発していて、その末に現代日本人はとどまることを知らな
い快楽原理の追求に走っている、と伊丹はいった。
話しながら伊丹の指は絶え間なく動いていた。
「それは神経質に、まるで身もだえするかのように衝動的にペンや上
着の紐ボタンや自分の肉体を掴んだり離したりした」
「片手の指の爪を
もう一方の手の甲に突き立てて、見るからに痛そうな、深い爪痕を自分
の肌に残すようなことまでしていたのである」
バレスは、その一年前にも四人のアメリカ人ジャーナリストといっし
ょに伊丹にインタビューしていた。
そのときの伊丹は、日本では映画は一つの文化として扱われていない、
と不満をあらわにした。
自在な「容器」の華麗な「退屈」
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「人は夢を見たくて映画に行くわけですが、日本人は日本映画では夢
を見てくれないんですよ。アメリカ映画でしか夢を見ない。つまり、日
本人というのは、いつもアメリカ人になりたいと思ってきた国民なんだ、
と私は思っているんです」
最後まで「反米的」
「憂国的」であった伊丹は、
「アメリカ人になりた
い日本人」の願望は、まずペリー提督の「黒船」によってもたらされた
が、つぎの、より深刻な契機は日本が第二次大戦で全面降伏したときで、
それはレイプされた体験に似ている、といった。
「日本は民主主義になり、西欧なみになることはいいことだという理
由 で、 こ の 敗 戦 の 屈 辱 を ご ま か し て し ま っ た 」
「レイプというのはたい
へん屈辱的な体験であるわけですが、被害を受けた女性のなかには、あ
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伊丹十三
れはそんなにひどい体験ではなかったんだと自分に言い聞かせて、屈辱
を否定しようとする者がいます」
岸田秀の「黒船ショック性障害」という考え方(岸田秀『黒船幻想』)
は、
伊丹十三の精神に深く刻印されていたようである。
さらに彼は、日本の社会では「父の機能」が欠けているとつづけた。
「日本人の理想像というのは、赤ちゃんのように純粋で、かわいくて、
優しくて、お母さんのように包容力があって、自己犠牲的で……この二
つしかないんです」
どんな社会でも「欲望」をコントロールする機能が必要だが、日本で
その役割は、村社会、氏族的伝統、そして武家制度が果たしてきた。し
かし戦後の急速な経済成長によって、モラルの歯止めとしての共同体は
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崩れた 。
「それに代わる父親機能を、日本はいまだに発明していないようです
ね。だから快楽原理のみで生きているんです。私はいま、これがいちば
んの心配なんですよ」
このとき四十九歳であったチャールズ・バレスは伊丹の態度と発言に、
一九七〇年に自刃した三島由紀夫を重ねざるを得なかった。
「(三島と伊丹は)
人生の最後に、日本人の道徳的自己規制の喪失という
問題と戦うという、同じ聖戦に到達していた。そして彼らは二人とも、
人生最後の日々を丘の上で警世の鐘を鳴らしつづけながら、ほとんどそ
れに耳を傾ける人がいない孤独な人間として死んでいったのである」
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伊丹十三
彼の背中を押したもの
酒が強くかおった伊丹十三の死に顔は険しかった。帰宅した無言の伊
丹に宮本信子は、
「あなた、すごい怖い顔になっているわよ」と話しか
けた。「あなたハンサムだったのに、こんな顔になって違う世界に行く
のは嫌でしょうね」
(宮本信子「
“感謝の会”における挨拶」二〇〇二年十二月
二十日)
宮本信子は、一晩中伊丹の顔を撫でさすった。すると翌朝には伊丹は、
「びっくりするほど穏やかで、いい顔」に戻っていた。彼女は生前の約
束どおりお葬式はせず、遺体を焼いた。
「真鶴の小さな火葬場は、映画『お葬式』の撮影現場でした。映画で
自在な「容器」の華麗な「退屈」
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撮影していたときと同じように、立ち上っていく煙を見ていたら、たま
らなくなりました」
伊丹十三自死の原因はわからない。あまりに多彩な才能に本人が疲れ
たのかもしれない。それでいてつぎに向かうべき表現ジャンルは見えな
日本を嫌悪し
い。それをあらたに見つけるには加齢しすぎている。そんな無常感とと
もにある「退屈」が、彼の背中をふいに押したのでは?
ながら深く愛し、その裂け目の深さに絶望したということなら、たしか
に伊丹十三には三島由紀夫と通じるところがあった。
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