[406]惜しまれる消えた

上野先生と歩こう 中国語遊歩道 『中国のことばと文化Ⅱ』
[406]惜しまれる消えた『広辞苑』初版本
成語・ことわざ雑記(4)
(13)安くはなかった『広辞苑』第一版
先にも記したが,わたくしが初月給で予約した昭和 30 年 5 月刊の『広辞苑』第一版は書店主の F
さんが破格の値引きをしてくれた。
記憶違いでなければ定価 2 千円のところを千円しか払わなかった。
わたくしが値切ったのではない。本当はプレゼントしてくれようとしたのを,わたくしが初めてもら
った給料で記念に買うのだと意地を張って無理やりに半額を押し付けたのである。
就職時にもらった辞令に「大阪府立清水谷高等学校給仕を命する
二級三号俸を給する(5,300 円)」
とあるから,それでも安い買い物ではなかった。同じ学校の新任の先生の給料が 1 万円前後であった
から,
定価の 2 千円はその 2 割ということになる。それに比べると現行の第六版 8 千円は格段に安い。
ちょうちん
別に岩波書店の 提 灯 持ちをするわけではないけれど……。
(14)君の御胸の谷間に
先頃亡くなられた丸谷才一さんの文章を読み返していて,そう言えばそんなこともあったなあと思
い出したのだが,『広辞苑』第一版を読んでいたら「谷間」の項に「谷と谷のあいだ」という説明が
あって笑った記憶がある。「谷と谷のあいだ」にあるのは「山」でしょうか。初め一人で笑っていた
ら,他にも気づいた人があったらしく,ひとしきり話題になった。
み む ね
堀口大学だったかの(ちょっと自信がない)訳詩集に「君の御胸の谷間に」というエロチックな詩
句があったと記憶している。この「谷間」の使い方が正しい。手元の重版本では「谷のなか。たにあ
い」と,こっそり(?)書き換えてある。
ほかにもいくつか「発見」があって,消えた初版本にはいちいち書き込んであったのだが……。
(15)本来は“一箭双雕”だが
だいぶ横道にそれたが,今は中国でも使われる「一石二鳥」という四字熟語は,もともとは日本生
まれではないかという話でしたね。
では「一石二鳥」に当たる本来の中国語は?ただちに思いつくのは,なんて格好をつけなくてもた
いていの辞書には載っていることですが,“一箭双雕”(yī jiàn shuāng diāo)である。一本の矢で二
羽のワシを射落とす。まさしく「一石二鳥」ですね。
ちょうそんせい
この“一箭双雕”の故事は『隋書』の長孫晟 という人の伝記に出てきます。ほかにも出ているよう
ですが,わたくしはここしか見ていません。
(16)“一箭双雕”は「一石二鳥」「一挙両得」(?)
せい
晟は弓の名手で,ある時,二羽のワシが空中で獲物の肉を争っているのを見て,これを一本の矢で
見事に射落としたというのである。那須与一みたいな人ですね。
ただし,上の故事に見る限りでは,“一箭双雕”は射術に優れていることをいうだけで,ただちに
せい
「一石二鳥」とか「一挙両得」の意味にはなりませんね。事実,『隋書』では晟の射術を称えている
だけで,特に成語として使われているわけではなさそうです。
劉潔修編著《汉语成语考释词典》はわたくしが成語について調べるのに最も重宝している一冊です
が,この本によると“一箭双雕”が「一挙両得」の意味の成語として使われるのは,ずっと時代が下
って清末の長編小説『官場現形記』においてです。
2015/6/12
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