北欧のデザイン : 小さな国のヒューマンなデザイン グッド

北欧のデザイン : 小さな国のヒューマンなデザイン
第 2 次世界大戦後のモダン・デザインにおいて、最も人気を集めたのは北欧のデザインであった。1950 年代後半か
ら 60 年代前半は北欧デザインがリードした時代である。
北欧デザインは戦前のハードなモダニズムをソフトにして一般に受け入れやすくした。ペニー・スパークは、北欧
のデザインの特徴をヒューマニズムであるといっている。
■スウェーデン
北欧のモダン・デザインは、19 世紀半ばからのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響と世紀末のアール・ヌー
ヴォーからはじまる。近代化がまず進んだのはスウェーデンで、、ヴォルヴォやサープといった自動車産業を発達させ
た。しかし、もう一方で家庭用品においては伝統工芸の基本を残していた。ノルウェー、スウェーデン、フィンランド
などは森の国であり、木工の伝統が発達し、自然の素材をうまく利用し、自然と共生するデザインが育てられた。
■デンマーク
デンマークも、スウェーデンとほぼ似たような経過で、モダン・デザインの歴史に参加する。第 2 次大戦前では、
銀器が特に有名であった。アール・ヌーヴォー・スタイルのジョージ・ジヤンセンからはじまるジャンセン商会は 、
1936 年から 2 代目となり、モダン・デザインのテーブル・ウェアやジュエリーを製作する。彫刻家へニング・コペル 、
建築家エリック・ハーロウがデザインに参加し、抽象彫刻的な形態の工芸品をつくり、デンマークのモダン・デザイン
の特徴となる。
50 年代の代表的デザイナーはアルネ・ヤコブセンで、スチールやプラスティックを使ったシンプルでフリーな形の
椅子をつくった。それらの椅子には〈卵〉、〈スワン〉、〈アント〉といったあだ名がつけられて親しまれた。ヤコプ
センの椅子はフリッツ・ハンセン社で生産された。
■フィンランド
フィンランドは少しおくれてモダン・デザインの歴史に入ってくる。強い伝統がなかったので、自由でユニークな
デザインが 50 年代に急に花開く。中心となったのは、アルテクとアスコ・フインテルナショナルという 2 つの工房であ
る。アルテクは 1935 年、アルヴァ・アール卜により設立された。アールトは、テクノロジーと構成的要素を重視し、
大量生産のための、合板、ラミネート加工の家具を量産した。アールトの技術的、機能主義的傾向に対して、アーティ
スティクな造形を強調したのがアスコで、イマリ・タピオヴァーラのデザインに代表される、彫刻的、表現的なフォル
ムが特徴であった。北欧のデザインはアートと社会の調和を基調としていたが、フィンランドの、個人主義的なデザイ
ンはその中でユニークな位置を占めている。
グッドデザイン:よい形はいかに選ばれるか
G マークというのが日本でできたのは、1957 年である。G はグッド・デザインのイニシャルをあらわしている。
1950 年代は〈グッド・デザイン〉ということばが一般化した時代であった。
『20 世紀デザインとデザイナーのエンサイクロペディア』においてガイ・ジユリアーは「〈グッド・デザイン〉は
北ヨーロッパ諸国とアメリカで第 2 次大戦直後にあらわれたコンセプトである」 とのべている。
一つの中心はウルムの高等デザイン学校で、パウハウス教育を復活していた。マックス・ビルがそこで〈グッド・
デザイン〉という言葉を使い「物の性質や機能に結びついた形、売上げのための作りごとをしない正直な形」と定義し
ている。
そしてイギリスとアメリカでも、ほぽ同時にグッド・デザイン運動がはじまった。イギリスではロンドンのカウン
シル・オブ・インダストリアル・デザインが、アメリカではニューヨーク近代美術館(M0MA)が音頭をとった。
「グッド・デザインの価値の多くは、人工的効果の附加と見られているスタイリングに反対するものというところ
デザイン史概説 #11
にある。」ブラウンやオリヴェッティのシンプルなプロダクト・デザインは、多くの国で、デザインの誠実さの頂点と
見られている。その代り、グッド・デザインはインターナショナル・スタイルの同義語とされ、美的には冒険性がない
と見られている。このコンセプトは物の基本的存在とその象徴的価値を問うていないともされる。この批判は、1960 年
代後半、あるデザイナーたちをアンチ・デザインに走らせた。
グッド・デザインは、インターナショナル・スタイルと同一視され、60 年代にそれに対する反動が起ったのである。
英国のデザイン
1930 年代に、英国のモダン・デザインはかなり遅れていた。50 年代に入っても、ややおくればせにモダニズムを学
びつつあった英国で、突然、ユニークな大衆文化が登場し、イギリスのデザインは一気に面白くなる。そのきっかけは、
モダニズムへの反動であった。50 年代半ばに、アメリカの大衆文化を評価し、モダニズムの神話を脱しようとする芸術
家のグループが英国にできる。インディベンデント・グループと呼ばれるそこには、リチャード・ハミルトン、エドア
ルド・パオロッツィ、レイナー・バンハム、ローレンス・アロウェイ、アリソン・アンド・ピーター ・ム、ジョン・
マッケール、スミッソンがいた。彼らはロンドンのインスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アーツで出会い、
ともにアメリカの大衆文化に興味を持っていた。彼らは 3 つの展覧会を組織した。「生活と芸術の平行性」(1953)、
「人間、機械、運動」(1955)、「これが明日だ」(1956)である。このグループは、アメリカの広告などを積極的に評価
し、グッド・デザインの狭い枠を壊して、ポップ・アートの準備をしたといわれている。
イタリアのデザイン 戦後のイタリアのデザインでまず親しまれたのは、マルチェロ・ニゾーリのオリヴェッティ・タイプライター「レ
キシコン 80」、ジオ・ポンティの「ラ・パヴォーニーコーヒー・マシン」、ピニン・ファリーニの「シシタリア」カ
i、ピアジォ社の「ヴェスパ」モーター・スクーターといったものであった。これらに共通していたのは、オーガニック
(有機的)な曲線形で、アメリカの流線型をエレガントに応用したものであった。
イタリアのデザインの中心はミラノとトリノであった。トリノではカルロ・モリーノが、前衛的なオーガニツク・
モダニズムを試みていた。それはストリームラインやアール・ヌーヴォー、さらにはバロックの曲線を思わせた。
この時期に新しい世代のデザイナーが出るが、建築家出身であることが特徴である。その中には、ヴィコ・マジス
トレッティ、エットーレ・ソットサス、カスティリオーニ兄弟、マルコ・ザヌーソなどがいた。彼らの注文主の多くは、
ミラノの新興成金であった。これらのミラノのグループはモリーノに比べて、おだやかで親しみゃすいフオルムをデザ
インした。
ストリームラインとシユルレアリスムというのが、戦後のイタリア・デザインのモチーフであった。なめらかな
オーガニックなフォルムそして不思議なイメージの、ミックスが魅力をつくり出していた。
ドイツのデザイン
第 2 次大戦後、ドイツは敗戦の中から、奇跡的な経済復興をなし遂げ、ドイツのデザインの名声を築き上げる。ブラ
ウン、フオルクスワーゲン、メルセデス・ベンツなどのドイツブランドに代表されるような、堅牢であり、正確精巧な
機能的美しさを持ち、”変わらない”という頑固なデザインである。
奇跡の復興は 2 つの要因に助けられた。一つは戦前に確立されていた応用デザインのしっかりした基礎である。もう
一つは、生活を数学的計画のように見なすドイツ人の性格である。50 年代におけるデザインへの厳密なドイツ的な探究
は、見事なウルム造形大学に要約されている。
デザイン史概説 #11