インターナショナル・スタイル 1932 年、ニューヨーク近代美術館は、「インターナショナル・スタイル 1922 年以降の建築」展を開いた。ディ レクターはアルフレッド・バー、組織者は建築史家へンリー=ラッセル・ヒッチコック、建築家フィリップ・ジョンソ ンであった。ここではル・コルビュジェ、ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト、ヴァルター・グロピウス、ミー ス・ファン・デル・ローエの四人を中心とし、それ以前とはちがう近代建築の様式がつくられたとし、それをインター ナショナル・スタイルと呼んでいる。 ■ヴァルター・グロピウス -ファグス工場 世界遺産。現在でも靴型工場として稼動している。かつては木製の靴型のみだったが、現在では プラスチック製の方が多く生産されている。 ■ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト - アウト・マテネッセの現場小屋 アウト・マテネッセの集合住宅の建設中にテンポラリーに設置された現場小屋。 ■ル・コルビュジエ - シトロアン住宅 1920 年には安価な大量生産住宅として白い箱型住宅「シトロアン」(Citrohan) を提案した。名前 は安価な自動車を大量生産したシトロエン (Citroën) にちなんでいる。 ■田園都市案 1923 年のミースの『煉瓦による田園住宅計画』。空間の純化・抽象化(ユニバーサル化)。 ■三つの原理 第一原理 =「ヴォリュームとしての建築」 第二原理 =「規則性に関して」 第三原理 =「装飾付加の忌避」 ■ル・コルビュジェ 20 世紀を代表する建築家。鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切 り離された合理性を信条としたモダニズム建築の提唱者。 ■ミース・ファン・デル・ローエ 「Less is more.」(より少ないことは、より豊かなこと)や「God is in the detail」(神は細部に 宿る)という標語で知られる、近代建築の概念の成立に大きく貢献した建築家である。 ポピュラー・スタイル (ハリウッド・スタイル/ストリームライン) ここでポピュラー・スタイルというのは、1930 年代のアメリカを中心とする通俗的なデザインのことである。それ は 1925 年以後の、大衆化されたアールデコであるともいえる。これまでのパイオニア・モダニズムからインターナ ショナル・スタイルへ、というデザイン史では、とりあげられなかった。しかし〈30 年代〉の一面を語るのに、ポピュ ラー・スタイルは非常に有効である。 ■「ハリウッドはデザイン・アイデアの強力な源泉となった」(キャサリン・マクダーモット)。 デザイン史概説 #08 近代デザインの確立 ■ストリームライン 流体力学によって、できるだけ空気抵抗の少ない、速いスピードを効率的に出せるブォルムをつ くる。角のない、でっぱりのない、つるりとなめらかな曲線によってできている飛行機や列車や 自動車はいかにも速そうで、スマートに見える。 ■ノーマン・ベル・ゲディス 画家、広告美術家、舞台美術家であった。彼は最も重要な流線型の自動車や機関車のデザインを 制作した。「流線型水滴形のバス」など。1939 年のニューヨーク万国博覧会でジェネラル・モー タース社の展示館「フューチュラマ」をデザインした。 ■ウィルター・ドーウィン・ティーグ 第三帝国におけるデザイン 第三帝国(ナチス・ドイツ)におけるデザインは、デザインのすべてがナチのイデオロギーにおいて重要な役割を 担っている。常に使用目的にしたがって歴史記述様式ならびに近代様式が使用されたり組み合わされたりしており、 従っていずれにせよオリジナルなナチ様式について語ることはできない。 モダニズムとの関係 ナチズムは政治的な理由からバウハウスを閉鎖し、機能主義の主唱者たちは芸術的なアヴァンギャルドと同様に亡 命しなければならなかった。ところがモダン・アートとの関係におけるのとは異なり簡潔さと明確さへの、規格化標準 化と安価な材料と徳用な大量生産への機能主義の努力はナチ政体によってたやすく受け入れられ得た。 ■フォルクスワーゲン(フェルナンド・ポルシェ) ■国民受信機(ヴァルター・マリア・ケルステイング 日本近代デザインのパイオニアたち 昭和初期に造形の専門教育を受け、1930 年前後に活躍を始めた世代が意識的にモダンデザインを志向し、それを社 会で実現した初の世代だと思われる。 ■河野鷹思 ■日本工房 ■名取洋之助 ■土門拳 ■剣持勇 ■原弘 デザイン史概説 #08 近代デザインの確立
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