フロイトの喪 - Psychanalyse et Transferts Culturels

フロイトの喪
イントロダクション
この論文では、フロイトの人生における喪失、とりわけ父との死別が、どのようにフロ
イト理論の発展 に影響を与えたのかを明らかにしていきたい。そのために、フロイト自身
のテクストに加えて、歴史家による研究にも依拠していく。しかし、この論稿は歴史的な
ものではなく、むしろ歴史を利用して喪の臨床に関する帰結を拾い上げるためである。つ
まり、喪の理論を練り上げることを通して、昇華へと通ずる道をたどることである。
著者の歴史とその著作とを関連づけるというアイデアは複雑なものである。オウィディ
ウスの個人史が『変身物語』を説明してしまうわけではない。
何において十分な歴史は作品から作者を区別すべきなのか?
フロイトの人生、イデオロギー、そして「人種」は、フロイトの提案の普遍性に対し意
義を差し挟むために幾度となく用いられてきた。ウィリアム・マクドゥーガル(1921)は
フロイトに同調すると公言しながら、たとえばこう指摘しているのである。「私にとって、
また私と同類の大部分の人々にとっても、フロイトの理論はとても異質で、とても奇妙で、
とても空想的なものに見えるのだが、フロイトの理論は少なからずユダヤ的人種に特有の
もののように思われる」1。精神分析のために、ユダヤ的科学というそしりに反対すること
は、フロイトのためにも、とても重要なことであった。フロイトは自分の理論が完全に一
つの科学であることを願っていたのである。このことは、1910 年に、ウィーンのフロイト
の弟子たちの意見に反対してまで、ユングを新たな国際精神分析協会の会長に置いたこと
の理由のひとつだった。自身の研究の発展のなかに、ユダヤ人であることの影響がある程
度あることをフロイトは認めることができた。ところがこの容認は限定的なものだったの
である。ユダヤ人たちと全く同様に反ユダヤ主義を耐え忍ばなければならなかったのだが、
対立した科学的発想を提示することで強いられる孤独と闘うことができると感じていた。
フロイトは同様に、人間の科学的研究にあたって自分はユダヤ人として神秘的な先入観を
あまり持っていないと考えていた。1926 年に、フロイトはエンリコ・モルセッリにこう書
いている。「あなたは精神分析をユダヤ精神が直接生み出したものとお考えですが、あなた
の判断が正しいのか私には分かりません。しかしもしそうであっても、私は恥じることは
ありません」2。フロイトは恥じなかったが、しかし彼は精神分析がユダヤ人への帰属の彼
1 GAY, Peter (1987), Un juif sans Dieu. Freud, l’athéïsme et la naissance de la psychanalyse,
Paris, Presses Universitaires de France, 1989. p.113-114.
2 ibid., p.122.
1
岸へと向かうことを、また理論を人種的な同一性から解放することを願っていたのである。
フロイトは、ジギスムント・シュローモ・フロイト〔Sigismund Schlomo Freud〕とし
て生まれた。ユダヤ的な名の用法である。しかしながら、フロイトは決してシュローモを
用いなかったうえ、青年期になるとジギスムントの代わりにジークムント〔Sigmund〕を
用いた。ジークムントという名はジギスムントと同じようにドイツ人の名であるが、ジー
クムントの方がジギスムントに比べ、ユダヤ人たちにおいてあまり見かけないものであっ
た。アブラハムへの一通の手紙のなかで――アブラハムは、ユダヤ人であるがゆえに、チ
ューリッヒで経歴を邪魔されていた――フロイトはアブラハムに、同じ悩みを抱えている
と言い聞かせている。ユダヤ人たちはすこしばかりやらせるがままになっている。「もし私
がオベルフーバーという名だったならば、私の理論的革新はいまほど抵抗されることもな
かったでしょう」3。ここではフロイトとユダヤ教との関係についての思索には立ち入らな
いが、イェルシャルミが述べたように、ジークムントという名が最初に記されたのは、ジ
ークムント・フロイト本人によってではなく、その父親によってだったことだけは強調し
ておこう。実際にヤーコプ・フロイトは、家族の聖書のなかのフロイトの誕生を記念する
ページに、ドイツ語でシェローメ・ジークムント〔Shelome Sigmund〕と書き記したので
ある4。
フロイトは精神分析が一つの科学として、フロイトという一個人から独立していること
を望んでいた。ユダヤ人への帰属だけでなく、フロイトの人生のさまざまな出来事による
影響、フロイトの信念、フロイトの個性、こうした事柄は精神分析から区別されるべきも
のであった。これについての例が、アーネスト・ジョーンズに送った 1926 年 3 月 7 日の手
紙に見られる。テレパシー研究に向けたフロイトの関心が主題となっている。「もしたまた
ま人があなたをこの〈罪〉における〈堕罪〉に関連づけるようなことがあったら、次のよ
うに答えてくださってかまいません。私のテレパシーへの同意は、ただ私にのみ関係する
ものなのです。さらに私のユダヤ性、あるいは私が年来の喫煙者であるという事実、さら
にまたほかのものと全く同様に、テレパシーは精神分析とは無関係なのです」5。
そうではあるのだが、フロイトの人生のなかの出来事は、精神分析の文献すべてにおい
て多くのものを為しているのである。フロイトのテクストと同様、弟子たちのテクストも
そうである。精神分析の領域とフロイトの領域を区別するには、たゆまぬ努力が必要とさ
れ、その作業はあたかも精神分析をフロイトから守るようなものである。この努力は個人
的なものだけではなく制度的なものでもあり、フロイトの後継者たちが多くの資料の閲覧
を禁止したことにあらわれている。またジョーンズによって出版された公式の伝記におい
ても、フロイトの生涯のいくつかの出来事が隠蔽されている(たとえばフロイトの娘アン
Correspondance Freud – Karl Abraham, 1907-1926, Gallimard, 1969. (23 julliet 1908), p.
53.
4 YERUSHALMI, Y.-H, Le Moise de Freud (1991). Paris : Gallimard, 1993 Tr.fr : Jaqueline
Carnaud. p. 233.
5 GAY (1987), op.cit., p.143.
3
2
ナ・フロイトの分析などである)。さらに私たちは、フロイト自身によって、彼の書簡の大
部分が徹底的に消し去られていることに、その努力を見る。
フロイトも第一世代のフロイディアンたちも、著者とその著作を研究することはしてい
た。実際、フロイトの著作には、作家についての、その人生も考慮に入れた研究がある。
たとえばゲーテ6やダ・ヴィンチ7などについてである。毎週水曜日に開かれていたフロイト
の心理学研究会において、作家とその人生といったテーマは活発に議論された。水曜会の
メンバーのイシドール・サドガー(Isidor Sadger) ――いくつかの病跡学を記していた――
は、1907 年 12 月 4 日にコンラッド・F・メイヤーについてのテクスト8を発表した。発表
は激しく反論された。その次の回の 12 月 11 日で、マックス・グラフ(ハンス少年の父親)
が「作家の心理学についての方法論」と題された発表を行った。グラフの指摘によれば、
ある作家を理解するには、その作家の個人史よりも、その作品を調べるほうが役に立つ。
作家について言われたことと、作家が自分自身について言ったことは、ほとんど信用でき
ない。グラフは、諸作品のなかで繰り返されるモチーフを探すよう助言し、その例をいく
つか挙げている。「著者の中心的なテーマは、彼のこころ(プシュケ)の最も内密なメカニ
ズムを明らかにする」9。メカニズムを作り上げてから、さまざまな作家を比較検討するこ
とが可能になる。フロイトは基本的にはグラフに賛成だと述べているが、グラフが「支配
的なモチーフ」と呼ぶものは、実は無意識の支配的な欲望なのであって、それは覆われた
形で作品中に表れるのである、と補足としてつけ加えている。作品について手に入れるこ
とのできる資料は変容を被っているのであり、したがってそれらを解釈する必要がある。
この理論をフロイトの著作の分析に応用すれば、フロイトの無意識を語り出すような典
型的な主題系があると言えよう。ラカンが述べるフロイトの欲望10に依拠して、フロイトの
無意識の影響を、その著作のなかに探し出すことにしよう。
理論における喪
フロイトの人生の出来事のなかで、私たちが根本的な関心を寄せるのは、フロイトの父
への喪とその結果である。
興味深いことに、フロイトの理論のなかにあるアイデアの大部分は、フロイトによって
経験された喪失と関係がある。娘のゾフィーの死と孫の死の後に服したフロイトが服した
喪はとくに重要なものである。なぜなら、この喪の作業の結果、フロイトは喪において対
6 FREUD (1917b), Un souvenir d'enfance de "Poésie et Vérité" in Oeuvres complètes XV:
Paris, Presses Universitaires de France 1996, p. 65-75
7 FREUD (1910c), Un souvenir d'enfance de Léonard de Vinci in Oeuvres complètes X, Paris,
Presses Universitaires de France 1993, p. 83-164.
8 Nunberg, Herman, Federn, Ernest, éd. Minutes de la Société Psychanalytique de Vienne,
tome 1 : 1906-1908, Paris, Gallimard, 1976.
9 ibid., p. 279.
10 LACAN (1964), Le séminaire : livre XI : les quatre concepts fondamentaux de la
psychanalyse, Paris, Seuil 1990, p. 312.
3
象は置き換えられないというアイデアを得たからである11。
フロイトは友人とのあるいは弟子たちと絶縁したが、こうしたこともフロイトの理論に
多様な帰結をもたらしたことも証明できる。フロイトによって新たな概念が導入されるた
びに、親しくしていた誰かとの離別が生じているからである。理論的発展をすべて別れに
帰するのはあまりに単純すぎる。諸概念とはつねにひとつの出来事によって決定されるも
のではないが、こうした出来事と概念のあいだの対応関係は役立ちもするのである。
a) 同性愛への防衛としてのパラノイア理論の観点から、フロイトはフリースとの隔たりを
はかった。二人の間には抑圧された同性愛的関係があるが、フロイトが成功したところ
で、フリースはパラノイアの問題を抱えていると考えた。こうしたわけで、フェレンツ
ィの感情的な要求を逸らそうとして(1910 年秋)、フロイトはあの明言を記すことがで
きたのである。
「最近、清算しなければならないと追われていたあのフリース事件以来、
ご存知の通りですが、私はもう自分について問いたいとは思いません。同性愛的な備給
の一部分は消えてなくなりました。私はそれを利用して、私の固有な自我を拡張したの
です。私はパラノイアとして失敗した場所で、成功したのです」12。この「最近、清算
しなければならないと追われていた」ことと、シュレーバー議長の事例の推敲、および
ダ・ヴィンチについてのテクストは同時に為されたのである。すなわち同性愛とパラノ
イアについての理論は根本的なものなのである。
b) ナルシシズムについての理論13は、ユングおよびアドラーとの離別によるものである。
c) 友人との別れの後に理論的発展をなしたものとして最も明らかなものはブロイアーと
の場合である。自身の自己報告において、フロイトははっきりと、理論のために友情を
犠牲にしたと述べている。「精神分析の発展は、私の友情を代償に可能となった。こう
したことは容易なものではありませんでしたが、避けられないものだったのです」14。
喪の目的は――喪の主題について最もよく引用されるフロイトの著作「喪とメランコリ
ー」15を参考にすれば――失われた対象の代わりに新たな対象を置き換えることである。
フロイトによれば喪の作業というものがあり、それは失われた対象からリビードを引っ
込めながら、対象から離れるというものである。この作業が容易くないのは、自我が喪失
の現実に反抗しているからである。「それに対して反抗があるのももっともなことである。
一般的なふるまいに気づくことができるだろう。それは人が進んでリビードのポジション
Lettres de Freud à Binswanger du 15 octobre 1926 et du 12 avril de 1929 en
BINSWANGER Ludwig, Analyse existentielle et psychanalyse freudienne. Discours,
parcours et Freud (1947), Paris, TEL Gallimard 1981. p. 343 et p. 349-350.
12 GAY P., Freud une vie (1988), vol 1. Trad. Tina Jolas, Paris Hachette 1991, p.433.
13 FREUD (1914) Pour introduire le narcissisme dans La vie sexuelle, Paris, PUF, 1969.
14 FREUD
(1935), « Autoprésentation » et « Post-scriptum », in Œuvres complètes, XVII,
Paris, P.U.F., 1992. p. 66.
15 FREUD (1917e [1915]), Deuil et mélancolie in Oeuvres Complètes XIII. Paris, PUF, 1988.
11
4
を放棄しようとはしない、というものである。それは代わりのものが彼に示されていてさ
えもそうなのである」16。喪の作業はこの困難を解消することを可能にする。「しかし喪の
作業の完遂の後に、自我が再び自由で制止されていない状態になるということは事実であ
る」17。しかしながら、すべての喪がこれほど輝かしく締めくくられるかどうかは自明では
ない。喪を置き換えの試みとして見做してしまうのはあまりに単純に過ぎよう。アルーシ
ュが明らかにしたように18、フロイトは喪についての徹底的な研究をおこなっておらず、フ
ロイトの論文では、喪はメランコリーを理解する手段でしかない。フロイトにとって、喪
とは、病理学におけるメランコリーに対する、標準的なモデルにおける対応物でしかなか
ったのである。そうであるならば、メランコリーにおける喪とは、精神病における夢のよ
うなものかもしれないだろう。「ナルシシズム的な心の動揺についての標準的な型に夢が役
に立った後で、私たちはメランコリーの本質を明らかにしようと試みることにする。メラ
ンコリーと喪における標準的な情動とを比較するのである」19。
この方法によって私たちは、メランコリーは喪の特別な型であると言うことができるの
だろう。メランコリーは、喪からはさまざまな要素において区別されるのだが、喪の本質
をとどめている。フロイトは自我の抑制状態と抑うつ的な情動という共通の要素を明確に
しているが、同様にその差異にも注目している。喪と区別されたメランコリーは自己評価
感情の低下を表し、メランコリーにおいては失われた対象が明らかではない。ところがフ
ロイトはこう仮説を立てる。メランコリーにおいても失われた対象があるのだが、しかし
それは無意識的な対象なのであると。メランコリーが現実的な喪失の後に生じるのだとす
れば、喪失は依然として無意識的なままである。「このことは次のときにも当てはまるだろ
う。メランコリーを生じさせた喪失が患者に知られている場合である。誰かを失ったこと
は確かに知っているのだが、しかしその人物において失ったものについては知らないので
ある」20。喪との関連における差異の仮説の二番目は、メランコリーの場合に見られるナル
シシズム的な退行である。同時代のほかの精神分析家たちとの合意、さらに彼自身のナル
シシズムについてのテクスト21との合致に基づき、フロイトが強調することとして、ナルシ
シズム的な対象の選択は、自我の低下を伴いながら失われた対象との同一化を引き起こす
ということである。同時代のほかの分析家と異なり、フロイトはメランコリーにおける口
唇期の固着に関して躊躇を示す。
フロイトは、メランコリー患者が自分自身に為すみだらな暴力を想起させるが、それは
この暴力が、愛したが失われた対象へ向けられたものであるということの証拠となってい
る。このフロイトの推論は、喪とは異なって、メランコリーを精神病の方に傾かせている。
16
17
18
19
20
21
FREUD (1917e [1915]), op. cit, p. 263.
ibid.
ALLOUCH Jean, Erotique du deuil au temps de la mort sèche, Paris, EPEL 1995.
FREUD (1917e [1915]), op. cit, p. 261
ibid. p. 263-264
FREUD (1914) Pour introduire le narcissisme. Dan La vie sexuelle. Paris, PUF, 1969.
5
実際に、ディアナ・カミエニが論じたように22、愛の対象が憎悪の対象になり、その後に自
我において迫害されるというメカニズムは、パラノイアのメカニズムと類似している。フ
ロイトはパラノイアの一般的なメカニズムを描写しており、受け入れがたい「私は彼を愛
している」
(同性愛)という言表は「私は彼を憎む」や「彼が私を憎む」
(投射)となり、
「彼
が私を迫害する」と次第に変化活用されるのである 23。 自己非難について語るために用い
られた、ドイツ語の Anklagen〔告訴する〕という語の中世的な用法は、――「彼らの苦情
は告訴なのである」(Ihre Klagen sind Anklagen)24――パラノイア的な権利要求と法律的
口調の近接性をうまく表現している。。
昇華と法の取り入れ:喪の出口
自我のなかに取り入れられた対象への報復がメランコリーの本質である。しかしながら、
この種の取り入れ、愛された対象、失われた対象、あるいは断念された対象の取り入れは、
メランコリーだけのものではない。実際に、1921 年の『集団心理学と自我の分析』25にお
いては、メランコリーは愛され、失われた対象の取り入れの例の一つでしかない。それか
ら『自我とエス』26では、メランコリーのメカニズムは、性格の形成へと一般化されている。
対象の喪失はしばしば、とりわけ早期の関係において――そのときだけというわけではな
いのだが――、失われた対象への同一化を引き起こすのである。失われた対象は性格に固
着して残るのである。「恋愛の豊富な経験をもつ女性において、彼女たちの性格の特徴なか
に対象への備給の残余を見いだせるように思われる」 27。『集団心理学と自我の分析』にお
いてフロイトが取り上げているように、対象によって捉えられたものは非常に部分的な対
象の特徴なのだが、この特徴がある意味で対象との結びつきの代理を果たす。これが、当
の対象との関係を全て維持したまま、対象を喪失するやりかたのひとつである。しかしな
がら、このメカニズムはリビードの脱性化を必要とする。リビードはその性的な目的を断
念し、自我のもとへ戻らなければならないのである。つまり、対象へのリビードは、ナル
シシズム的なリビードへ変化しなければならないのである。対象へのリビードが異なるも
のへ変化することから、フロイトは昇華について考えるようになる。「これが昇華の一般的
な道ではないのか? 昇華はすべて自我を媒介とし、自我が性的な対象へのリビードをナ
ルシシズム的なリビードへと変化させることで、それからおそらく新たな目標を見いだす
Kamienny-Boczkowski Diana, Le rapport de la mélancolie et de la paranoïa dans l’œuvre
de Freud, mémoire de DEA, Paris, Université de Paris VIII, 1987.
23 FREUD (1911c [1910]) Remarques psychanalytiques sur un cas de paranoïa (Dementia
paranoides) décrit sous forme autobiographique in Oeuvres complètes X : 1909-1910 Paris,
Presses Universitaires de France 1993, p. 227-304.
24 FREUD (1917e [1915]) Deuil et mélancolie in Oeuvres complètes XIII, Paris, Presses
Universitaires de France 1988, p. 259-278. p. 269.
25 FREUD (1921) Psychologie des masses et analyse du moi in Oeuvres Complètes XVI.
Paris, PUF, 1991.
26 FREUD (1923) Le moi et le ça in Oeuvres Complètes vol. XVI. Paris, PUF, 1991.
27 ibid., p. 273.
22
6
のではないか?」28。この昇華についての疑問は、昇華とは喪のひとつの出口となりうる、
ということを示唆している。そうすると、昇華の典型的な道である、エクリチュールや芸
術的活動は喪失に立ち向かう方法とみなすことができるだろう。しかし、喪失の際の性的
目標の変更から導き出されるのは昇華だけではない。もうひとつは、フロイトも示してい
るように、倒錯である29。同様に、喪が異なる道にも突き当たると考えられる。衝動性や、
妄想、さらには器質的な疾患までもがそうである30。喪失の後における対象の取り入れのこ
のような理解の仕方は、明確に昇華をねらいとしたものではない。それは、失われた対象
各々が心的な現象や体の上にまでも、その痕跡を残しているにもかかわらず、である。
特徴の取り入れ、とくに愛された対象の性格の取り入れとしての特徴の取り入れは、フ
ロイトにおいてはまた異なる傾向を持つ。法の取り入れである。
『トーテムとタブー」31 『モ
ーセという男と一神教」32のようなテクストは、始原的な人類の社会を表象する集団の存在
について語っている。兄弟たちは集団の父親の殺害を決める。しかしながら、その犯行は
兄弟たちの自由を生み出すことはなく、彼らの殺した人物の法に全員が従属する社会を生
み出したのである。こうした法への服従は、このテクストにおいてフロイトは事後的な服
従と呼んでいる。「精神分析において良く知られた事後的な服従という心的状況により、死
者は原父が生きていた頃よりもさらに強力になる。」33(強調は筆者)。ここでの論理を説明
すれば、父の死が、事後的な服従を通して、法を創始するのである。この事後的な服従は
フロイトが父を亡くしたあとの喪の作業にも介入してくる。
父親と夢の解釈
フロイトにとって父の死は、容易にほかのもので穴埋められるようなものではなかった。
ゲイによると、これは非常に重大な喪失だったのであり、クリュルによって34、過剰に重大
なものとされた。フロイトはなにもかも手につかなくなった。ゲイの注釈によれば、「高齢
の父親の死に際して、50 歳に近づいている息子の反応としては非常に驚くべきものである」
35。フロイトの父ヤーコプ・フロイトは、1896
年 10 月 23 日に、81 歳で亡くなった。フロ
FREUD (1923), op.cit., p. 274.
ibid., p. 257-301.
30 Kamienny-Boczkowski Diana "Usage extrême du corps et crise sociale" in "La passion de
la victime" .Ouvrage collectif. Editions Que,;2003 et "Usage du corps à l'ombre de la perte"
colloque "Deuil :l'inconscient, le collectif" Paris Maison de l'Amerique Latine.Paris 2005.
Inédit
31 FREUD (1912-13a) Totem et tabou : quelques concordances dans la vie d'âme des
sauvages et des névrosés in Oeuvres complètes XI, Paris, Presses Universitaires de France
1998.
32 FREUD (1939a [1934-38]) L'homme Moïse et la religion monothéiste : trois essais Paris,
Gallimard 1986.
33
FREUD (1912-13a), op.cit.,p. 189-385.
34 KRÜLL, Marianne
; WEBER, Marielène (trad.) (1979) Sigmund, fils de Jacob. (Un lien
non dénoué), Paris, Gallimard, 1983, p. 20.
35 GAY (1988), op.cit., p. 176
28
29
7
イトは非常に深く喪に服した。「罪責感の傾向、遺族に非常に一般的な傾向」(1896 年 11
月 2 日のフリースへの手紙36)という表現をしているほどである。
1897 年 7 月の中ごろ、フロイトは「自己分析」を強化した。父親に関した主題と彼の見
た夢が主要なものだった。夢に関するテクストは、フロイトの「自己分析」の直接の結果
のように思われる。そのテクストにおいてフロイトは、父の死がひとりの男の人生におい
て最もいたましい喪失であろうと証言した。
『夢解釈』は精神分析を創始した著作である。フロイトは『夢解釈』に、『性欲論三篇』
と同様、自身の著作の中で特別な地位を与えている。版を重ねるごとに、たとえば数多く
の修正や加筆をフロイトは施している。1931 年の英語版第三版の序文では、フロイトは自
分の著作について次のように叙述している。「私の現在の判断によると、私が幸運によって
なしえた発見のうち最も貴重なものを、本書は含み持っている。これほどの知性は、一生
に一度しかものにできないものである」37。
フロイトは『夢解釈』の執筆そのものによって、父の喪失と喪のもつ昇華の側面をつな
げている。
「私にとってこの本は、実際に、それを書き終えてから初めて理解できたような、
もう一つの主観的な意味を持っていたのである。この本は私にとっての自己分析の断片で
あり、父の死に際しての私の反応、つまりそれは最も意義深い出来事、一人の男の人生に
介入する最もいたましい喪失に対するものであることが、明らかとなった。このことが認
識されて以来、この出来事の影響の痕跡を抹消することはできないように思われたのであ
る」38(強調は筆者)。
『夢解釈』では、父の死は暗黙のものではなく、明確に書き記されている。埋葬前日の
晩にフロイトが見た、父の葬儀の夢が語られている39。フロイトは「ど う ぞ 目 を お 閉 じ く
だ さ い 」あるいは「目を」と印刷された掲示物を読んでいる。ここでは死者への義務を果
たせていないことに赦しを懇願することが問題となっている。
その後、フロイトが不条理な夢の一貫性を見破ろうとするところで、彼はすぐに死んだ
父の夢を例として挙げている。「まず思い浮かぶのは、死んだ父を扱ったいくつかの夢であ
る」40(強調は筆者)。実際にフロイトは、不条理な夢について述べている。夢を見ている
人の死んだ父親が、あたかも生きているかのように現れるという、不条理な夢である。夢
そのもののなかでは、それが不条理であることは明白であった。この種の夢で最も印象的
なものは、「彼は死んでいることを、自分で知らない」という夢である。ある人が次のよう
な夢を見る。「彼の父が生き返っていて、かつてのように彼と話していた。しかし(驚くべ
きことだった)彼は死んでいたにもかかわらず、それを知らなかったのである」。フロイト
ibid., p. 167
FREUD (1900a), L'interprétation du rêve in Oeuvres complètes IV, Paris, Presses
Universitaires de France 2003, p. 23.
38 ibid., p. 18.
39 ibid., p. 361-362.
40 ibid., p. 474.
36
37
8
がこの夢に抑圧された思考をつけ加えている。「彼が死ぬことを息子が幾度も願っていた、
ということを彼は知らない」41。しかしこの種類の夢では、抑圧された思考しか存在しない
のである。フロイトにとって、不条理さは問題の状況を嘲弄の対象に変化させる方法のひ
とつでもある。フロイトによれば、父のイメージはこうした嘲弄の格好な材料となるので
ある。「父親にふさわしい権威は、すぐさま子どもからの批判を招くのである。抱かれた激
しい欲求が子どもを導く。自分の荷を軽くするために、父親の弱点へと明敏な注意が向け
られるのである。しかし、父への親愛を抱いていた人は、私たちの思考のなかで包囲され
てしまう。とりわけ父親の死後、その親愛は検閲を強化する。検閲は父への批判の表明が
意識化してしまうのを遠ざけるようになる」42。
『夢解釈』において、フロイトはさらに別の無意識的な理由を提示しながら、父の権威
から逃れるための嘲笑を越えて、父の死を[無意識的に]欲望することもあると説明して
いる。これがエディプス・コンプレックスである(『夢解釈』の時代にはまだコンプレック
スとは呼ばれていなかったが)。
フロイトは「大切な人が死ぬ夢」について説明しようとしているところでオイディプス
に触れている。このタイプの夢をフロイトは二つに分類している。夢のなかで夢を見てい
る人が苦しみを何も感じないもの、夢のなかで夢を見ている人が深く苦しんでいるもので
ある。第一の夢では、大切な人の死はまた別の何かを隠しているものであるが、第二の夢
には、問題の人物の死が望まれている可能性がさらに高くなる。
それは、私たちの見たところきわめて主観的な選択だが、大切な人の死についてフロイ
トが語るとき、フロイトが兄弟たちや異性の親に重要性を与えているということなのであ
る。フロイトによると、この二つのタイプの夢のなかでは、 現在のものではなく幼少期の
ものなのだが、殺人の願望があり、死ねば良いのにと望む人物に対して向けられている。
異性の親の死を望むということは、子どもの典型的なエディプス・コンプレックスと合致
する⑫ものである。
夢のなかでの喪の苦しみは、抑圧された幼少期の欲望の現勢化、あるいは実現の結果で
ある。おそらく夢見られた死ではなく、実現した死でも同じことが問題になっていると言
えるだろう。したがって、フロイトが幼少期の欲望が実現したことに苦しんだ、というこ
とはありそうなことである。フロイトの父親が亡くなった際に、フロイトが父親に対する
殺人と呼んだ幼少期の欲望である。そうすると、1896 年 11 月 2 日のフリースへの手紙が
これを証拠立てるように思われる。その手紙のなかで、フロイトは彼の喪の状態について
語っている。「公認された意識の舞台の裏に敷かれた薄暗い道を通って、私の年老いた父の
死が私を心の底から悲しませています。私は父を強く尊敬していましたし、父をよく理解
していました。父の、深い知恵と軽やかな空想力との混合のおかげで、彼は私の人生にお
いてとても重要な役割を果たしたのです。父は長い間形骸をさらしていましたが、しかし
41
42
ibid., p. 478.
ibid., p. 484.
9
その死という事実によって、過ぎ去った全てのものが再び現れています」43(強調は筆者)。
ソフォクレスのオイディプスについて触れたその箇所で、フロイトはシェイクスピアの
『ハムレット』に触れている。フロイトにとってこの二つの悲劇は、同じ主題を表現して
いる。時代が経過して抑圧が進み、ハムレットはオイディプスに覆いをかけたようなもの
になっている。ハムレットが叔父を殺すことに困難を感じためらったのは、叔父が彼の幼
少期の欲望を成し遂げたのを見たことが原因だろう。フロイトはシェイクスピア自身をす
こしばかり分析してみたのである。シェイクスピアが『ハムレット』を自身の父の死後す
ぐに書き上げていたという話をフロイトは強調している。「したがってそれは、彼の喪がほ
とんど明けておらず、私たちが想定するように、幼少期の父への関係の感覚を再現してい
るときなのである」44。もしこのフロイトの解釈を厳密に受け止めるならば、フロイトはシ
ェイクスピアを同一視していた、なぜならシェイクスピアは、フロイトに『夢解釈』を書
かせた動機と同じものを持っていたからである、と言わねばならない。実際は、『夢解釈』
とはフロイトによる『ハムレット』なのだろう。
フロイトの欲望と父親への喪
いかにして『夢解釈』がフロイトの「自己分析」(彼の父の死について扱った自己分析)
となっていたかを確認したが、父親の死は、夢を解釈する方法との関連で提起されている
のだろうか? 私たちはそうだと考えている。父親はフロイトの夢解釈の方法の一部をな
している。フロイトは夢のテクストとそれに続く連想の細かな読解をおこなう。フロイト
は、くだらない、あるいは矛盾した繋がりの要素に興味を抱く。フロイトは同時代の科学
者の多数を批判する。彼らはフロイトが強調する要素をまさに排除しているからである。
「要するに、他の人々の意見によれば窮地において急いで準備された自由な即興であるよ
うなものだが、私たちはそれを神聖なテクストとして扱うのである」45(強調は筆者)。神
聖なテクストというアイデアは、おそらく単なる注解として、あるいは説明のためにレト
リックとして述べられたものなのだろう。しかしながら、ここではフロイトの夢の読解に
も神聖なテクストを読むときのような言葉の重みを与えたい。フロイトは、聖書の読解方
法を夢へと応用しているのである。
このアイデアと、1925 年の自己紹介にフロイトが 1935 年に付け足した文章とを関連付
けることができるだろう。その文章のなかでフロイトは、自然科学に反してでも、人間主
体に対して早熟な興味をもったことを聖書の読解によって説明している。かなり後になっ
てから、フロイトは幼少期の聖書読解の効果に気がついたのである。次のものが 1935 年に
付け加えられたものである。「早くから私を聖書の歴史に沈めた事柄――読書の芸術を私は
ほとんど習ったことがなかった――が、頑固なやり方を決定付けたのである。私はそれを
43
44
45
Chercher cite.
op.cit., p. 306
ibid., p. 566
10
ずっと後になって大いに理解することができた。これが私の興味の方向を決定したのであ
る」46(強調は筆者)。
ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミはこの文章に、ジークムント・フロイトの、父親へ
の「事後的な服従」の徴候を見いだしている。地中海沿岸諸国のユダヤ人であるこの歴史
家は、1991 年に『フロイトのモーセ、終わりあるユダヤ教と終わりなきユダヤ教』47と題
された著作を出版した。イェルシャルミはフロイトのユダヤ的な基盤を、とりわけモーセ
に関するテクストにおけるユダヤ的基盤を立証しようとした。「この難題に対してどのよう
なポジションを取ろうと、『モーセという男と一神教』は、その核心において、断固として
ユダヤ的な著作にとどまる」48。イェルシャルミの断言は明白なものとしてそのまま受け取
るわけにはいかない。なぜなら、モーセ論は、まさにモーセの非ユダヤ性を論じ、さらに
ユダヤ人たちによる彼の殺害の可能性を論じているからである。フロイトのテクストはし
ばしば、ユダヤ的共同体のあるメンバーに批判される。彼らはフロイトの「ユダヤ的自己
への嫌悪」の感情を、フロイトのテクストに見いだすのである。イェルシャルミの先ほど
の著作には、父親についての問題提起がつねに存在している。この著作を執筆した理由と
してイェルシャルミが明らかしたものとして次のものをあげている。「確かに⑯、『モーセ
という男と一神教』は、複数の無意識のモチーフが錯綜したために書かれた。そのモチー
フについては、定義できるようなたいした考えを持っていないのだが、しかしそれはおそ
らく、実在する素材と関係がある。かつて私には父がいたのであり、現在私には息子がい
る、という実在の素材である」49。きっとイェルシャルミはフロイトの著作における父親に
ついての問いに強く引き寄せられたのだろう。しかしながら、父親についての問いとユダ
ヤ教の問いは同じものなのだろうか?
フロイトの父親はユダヤ人だったのであり、フロイトの著作のなかではユダヤ教は日常
的な主題系なのである。『夢解釈』において、さまざまな種類の夢の例としてではあれ、フ
ロイトは概して反ユダヤ主義と関連づけながら、ユダヤ教を長々と扱っている。
フロイトのモーセ論が事後的な服従によって書かれたというイェルシャルミの仮説は、
フロイト自身の人生において決定的とみなされる出来事を根拠としている。ヤーコプ・フ
ロイトは息子に、35 歳の誕生日のお祝いとして聖書を贈っている。1891 年 5 月 6 日、ヤー
コプ・フロイトの亡くなる 5 年前のことである。その聖書は実は、フロイトが幼年時代に
勉強したものと同じだったのだが、革皮で新しく装丁が施されていた。聖書にはヘブライ
語による献辞が書かれていた。
少なくとも 7 歳まで、フロイトは自宅でもっぱら親の指導のもとに勉強をしていた。フ
ロイトの自己紹介で取り上げられた、聖書の学習についての引用は、この時代と関係して
FREUD (1925d [1924]), Autoprésentation in: Oeuvres complètes XVII, Paris, Presses
Universitaires de France 1992, p.56.
47 YERUSHALMI, op.cit.,
48 ibid., p. 26
49 ibid., p. 18.
46
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いる。聖書の学習は『夢解釈』では直接的には言及されていないが、しかし間接的に述べ
られている。7 歳か 8 歳のときに見た不安な夢のなかで、フロイトは鳥のくちばしを持った
2、3 人の人を見る。彼らはフロイトの母親と一緒にいた。この人物たちは、フロイトによ
れば50、フィリップゾーン51の聖書の挿絵から夢に引用されたものだった。ところでこのフ
ィリップゾーンの聖書こそ、フロイトが父親と勉強したものであり、35 歳になって改めて
受け取ったものなのである。
イェルシャルミの真摯な研究によれば、ヤーコプ・フロイトの献辞は、melitzha で書か
れたものだった。つまり、献辞は聖書とタルムードからの引用によってなされていた。イ
ェルシャルミの解釈によると、献辞が説明しているのは、この聖書によってもたらされた
運命であり、父親は息子が[聖書の]研究を再開して、ユダヤの人々と和解してほしいと
いう願いであった。フロイトは従ったが、完全に服従したのではなかった。モーセについ
ての書物を記すために聖書の読解に傾いたことに服従は現れている。
「このようにして、35
歳のときに、フロイトは父親から授かった任務を 78 歳にして成し遂げたのである。フロイ
トは聖書の勉強に戻ってきたのである」52。
最初のバージョンは 1935 年に準備されていた。私たちが注釈をつけたあの文章がフロイ
トの自己紹介に付け足される直前のことである。それから、フロイトは自身の研究におけ
る聖書研究の影響を推し量り、さらに聖書研究を再開するために、モーセ論を完成させね
ばならなかった。
結論
父親の死のときの喪は、フロイトの理論に一定の影響を及ぼした。この結果は昇華の働
きによって伝えられたものである。昇華は、対象の特徴を組み込みながら、対象からリビ
ードを撤収することである。このようにして、フロイトの著作のなかに、フロイトの父親
への喪の痕跡を読み取ることができるが、ここではその作用が現れている、二つの時期に
注目した。まずは『夢解釈』の時期と、次いで『モーセという男と一神教』の時期である。
夢の解釈は、フロイトが自分を「極めて痛切な」喪失に向き合わせるための方法なので
ある。夢解釈の作業は、聖書を読解するための方法としては、ずっと後になって初めて十
分に認識されたのである。それは彼の人生の終盤、『モーセという男と一神教』の執筆時で
あった。イェルシャルミが語るところによれば、フロイトの服従とは同時に不服従でもあ
る。フロイトは聖書の読解をおこなったが、精神分析理論にふさわしい読解であり、ユダ
ヤ的注釈学から大きく遠ざかったものである。私が他の場所で強調したように53、フロイト
FREUD (1925d [1924]), op.cit., p. 638.
Bible illustré et bilangue hébreu-allmand publié par Ludwig Philippsohn.
52 YERUSHALMI, op.cit., p. 150.
53 Kamienny-Boczkowski Diana La désobéissance de Freud. Intervention au séminaire :
Dits et contrefaits: la transmission de l'expérience psychanalytique, Collège International de
Philosophie, mars 2000. Inedit.
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の服従のついて言えば、それはまさしく精神分析的な服従なのであり、父親の権威への服
従のみを意味するわけではない。服従は同様に、一つの翻訳を意味しているのであり、ま
たそれは「翻訳者は裏切り者である Traduttore, Traditore」という諺が示す通り、 裏切
りでもあるのである。
もし『モーセ』がフロイトの父親への喪から芽吹いたものであるとするならば、イェル
シャルミの研究が示唆してくれたように、この新芽のなかに喪の作業の後の昇華の事例を
見出すことができると思われる。
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