阿部倉の七不思議と 菜の花の咲く大楠山登山

JR衣笠駅
衣笠駅は横須賀市衣笠栄町 2 丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の横須賀線の駅
開業は 1944 年(昭和19年)4 月 1 日・国鉄横須賀線の駅として開業した。
当時の任務は武山の海兵団や久里浜の軍事施設への貨物輸送が主任務と聞いている。
駅の構造は島式ホーム1面 2 線の地上駅。駅構内には最大 11 両編成の列車が停車する。
横須賀線は隣駅の横須賀駅から衣笠駅を経て久里浜駅まで単線の為、衣笠駅で列車交換
が行われる。かって一本短い留置線が駅舎側にあったが撤去された。
バリアフリー設備として、車椅子対応トイレ、点字運賃表、エレベーターがある。
横須賀駅から 3.4km、久里浜駅へは 4.6kmである。大船駅から 19.3km
東京駅から 68.7kmである。
乗車人員は 2008 年の調査で 9.326 人(降車客は含まず)
駅周辺は市内有数の繁華街であり、周辺人口も多い、横須賀市内の主要駅では最多である
(JR田浦駅 2.687 人・JR横須賀駅 6.092 人・JR久里浜駅 6.960 人)
単線のため本数が少なく不便であり、京浜急行の市内主要駅には遠く及ばない。そのため
通勤、通学客には本数の多い横須賀中央駅・汐入駅方面へのバスを使いそこから京急を利
用する客も少なくない。
又実現しなかったが、戦時中の京濱電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が軍の指示で衣笠∼
横須賀市林地区に至る鉄道路線を計画していた。
1945 年の終戦直前にあたる一時期のみ、横須賀∼衣笠間に相模金谷仮乗降場という海軍
工廠通勤客専用停車場が設けられていた事がある。
1944 年(昭和 19 年)4 月 1 日 ― 国鉄横須賀線の駅として開業
1961 年(昭和 36 年)2 月 1 日 − 貨物取り扱いが廃止
1987 年(昭和 62 年)4 月 1 日 − 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる
2001 年(平成 13 年)11 月 18 日 − ICカード suica 供用開始
2009 年(平成 21 年)3 月 11 日 − エレベーター設置
2009 年(平成 21 年)10 月
− 駅自動放送を導入
衣笠公園(メタセコイヤ)
桜で有名なのは「衣笠山公園」ここは「衣笠公園」「衣笠運動公園」ともいう。
フェンス沿いにある大木は「メタセコイア」スギ科メタセコイア属の針葉樹一属一種
和名はアケボノスギ(曙杉)イチイヒノキ
和名アケボノスギは、(英名 dawn redwood または、学名 metasequoia)を訳したもの
但し、化石種と、現生種を別種とする学説もある)。
葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは∼3cm程度、幅は 1.2mm程度で羽状に
対生。秋に赤茶色に紅葉した後落葉する。
樹高は生長すると 25∼30m直径 1.5mになる。雌雄同株で、花期は 2∼3 月・雄花は総
状花序、あるいは円錐花序となって枝から垂れ下がる。結実は多く秋から冬にかけて無数
の種が地表に落ちる。
1939 年(昭和 14 年)に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉樹の植物遺体(化石の一種)
が発見された。発見者の三木茂博士により「メタセコイヤ」と命名され 1941 年(昭和 16
年)に学会へ発表された。
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当初は「化石」として発見された為に絶滅した種とされていたが、1945 年(昭和 20 年)
に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ」が同種とされ、現存する事
が確認された事から「生きている化石」と呼ばれる事も多い。
その後、1949 年(昭和 24 年)に国と皇室がそれぞれメタセコイヤの挿し木と種を譲り受
け、全国各地に植えられている。(阿部倉のしょうぶ園にも多数植えられている)
城北小学校
衣笠城の北に位置することからこの名が付けられたといわれる。
1959 年(昭和 34 年)横須賀市立衣笠小学校の分校として開校した(第一校舎 10 教室に
5 年生が入る)
1962 年(昭和 37 年)横須賀市立城北小学校として創立された。開校式挙行は
11 月 1 日、この日が創立記念日である。開講式に併せ校章・校旗を作成。
第二校舎東側半分 6 教室を増設した。
1971 年(昭和 46 年)創立 10 周年記念式典で、校歌が制定された
2007 年(平成 17 年)成人教室にて小学生のお母さんを対象にした「ハワイアンリボン
レイ」体験会が開催された。
大光寺
日蓮宗、平作山 大光寺
金谷山大明寺の末寺、元亨元年(1321 年)に真言宗より改宗したと伝えられる。
開山は日印上人、天明 2 年(1782 年)日曙上人が鐘楼堂建立。平作にある四つの
寺院で唯一鐘楼のあるお寺である。
戦争中は供出したが、昭和 46 年に現在の梵鐘が寄進された。
本堂内左手に水子観音堂、右手に鐘楼がある。
本堂ニには中央の日蓮上人像をはじめ、三宝尊、文殊、普賢菩薩、三十番神、鬼子母神
などが安置されている。これは本堂の空間を曼荼羅にみたてている為とも言われる。
格天井には花や鳥、天女などが描かれている。入口には駕籠がつるされている。
ぬかる道であった昔の事、本山から高僧を出迎える時は、この駕籠を用いたと伝えられる。
石井不動は現在本堂正面右側に安置されている。
三浦半島では清水の湧き出る地に不動尊が祀られている事が多い、現在の衣笠中学校の裏
手に祀られていた石井不動も水の湧く地に祀られていた。
この不動尊は、この近くに祀られていた白山社の縁起によると、行基がこの地にめぐって
きた時、ここに草庵を結び、そこに不動尊を安置したと伝えられる。
この伝説はともかくとして、江戸時代にはこの堂がここにあった事は間違いなく、身の丈
40cm。木造坐像の不動尊は江戸時代の作とみられている。
このお不動様も、今までには衣笠神社に移られたり、また元へ戻ってこられたりしてきた
が、近年、敷地の地盤沈下などの事情から、大光寺に安住の地を求められた。
お不動様が寺に移られても、厄除けにご利益のあるこのお不動様を信仰される方々は昔と
変わらず、今でも春と秋には不動尊を前にして講を開いているといわれる。
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日蓮上人
1222 年(貞応元年)2 月 16 日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧
安房郡小湊町)の小湊で生まれる。幼名は「善日麿」であったと伝えられる。
父は三国太夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされる。
日蓮は「本尊問答抄」で「海人が子なり」、「佐渡御勘気抄」に「海辺の施陀羅が子なり」
「善無畏三蔵抄」に「片海の石中の賎民が子なり」
「種種御振舞御書」に「日蓮貧道の身と
生まれて」等と述べている。
1233 年(天福元年)に清澄寺(せいちょうじ)の道善に入門。1238 年(暦仁元年)に出家
し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)
1240 年(仁治元年)比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。
1253 年(建長 5 年)清澄寺に帰山。4 月 28 日朝、日の出に向い、「南無妙法蓮華経」
の題目を初めて 10 回唱え(立教開宗)、この日の正午に清澄寺持仏堂で初説法を行う
1254 年(建長 6 年)清澄寺を退出。鎌倉に出て弘教を開始。このころ日蓮と名のる
1257 年(正嘉元年)鎌倉の大地震を体験、実相寺で一切経を読誦、思案する
1260 年(文応元年)7 月 16 日に立正安国論を著し、前執権で幕府最高実力者の北条時
頼に送る。安国論建白の 40 日後、他宗の僧数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされ
るも難を逃れる。その後、再び布教を行う。
1261 年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊東法難)
1264 年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信
に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う(小松原法難)
1268(文永 5 年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。
日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派
との公場対決を迫る。
1271 年(文永 8 年)7 月極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。9 月良観・念阿弥陀仏等
が連名で幕府に日蓮を訴える。平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流
罪の名目で捕らえられ、腰越龍の口刑場(現在の藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけ
るが処刑を免れる。10 月評定の結果佐渡へ流罪
流罪中の 3 年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。
1274 年(文永 11 年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の
予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよと
いう幕府に対する 3 度目の諫暁を行う。その後最も信頼される日興の弟子であり、身延の
地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山
久遠寺を開山。
1274 年(文永 11 年)蒙古来襲(文永の役)予言してから 5 か月後にあたる。
1281 年(弘安 4 年)蒙古再襲来(弘安の役)
1282 年(弘安 5 年)9 月 8 日、病をえて、地頭波木井実長の領地である常陸国へ湯治
に向かう為身延を下山、9 月 18 日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着、池上氏
が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
1282 年(弘安 5 年)10 月 8 日、死を前に弟子の日照、日朗、日興、日向、日頂、日特、
を後継者と定める。この弟子たちは六老僧と呼ばれるようになる。
1282 年(弘安 5 年)10 月 13 日辰の刻(午前 8 時頃)池上宗仲邸にて入滅享年 61 歳
3
平作七坂急な坂
横須賀は山と谷と坂の町と云われる。平作にも十指に余る坂がありそれには親切に名が付
いている。昔の人が付けた名であるが、土地の者はその名を聞けばすぐ場所が判り、重宝
したものと云われる。それが町の発展と共に呼びなれた坂の名も忘れられ、現在では名を
呼ぶ人も珍しくなったといわれる。坂の名であってもそれなりに理由があり、今残して
おかないと消滅してしまいそうである。主な坂を七つ記録に残したい。
○ 伝馬場坂(平作 7 丁目 6 より 5 丁目 1 まで)
昔から三浦半島を横断している古東海道、江戸時代には浦賀道とも呼ばれた道の一部
が、現在でも平作の中を通っていて、この坂を「伝馬場坂」という
横須賀線の陸橋傍らを流れる平作川の通称大橋を渡り、すぐ道を右へ曲がると間もな
く坂となる坂を越え降り終わった所までが「伝馬場坂」である。
文化 3 年(1806 年)の「五街道分間延絵図」のうち「浦賀道見取絵図」をみると
この道のみが公道扱いで他は野原と書かれている。
○ 新兵衛坂(平作七丁目 12 より 18 まで)
平作の玉龍山福泉寺裏にある坂である。この坂下に宝暦 8 年(1758 年)頃から住ん
でいるという粕谷家があり、先祖に新兵衛という人がいて坂の名前になったと伝えら
○
○
○
れる。新兵衛の名は代々継承され最後の人は明治 13 年に没しその後は名前を継がな
くなったといわれる。現在舗装されている坂は元福泉寺の境内で、昔の坂は坂下から
粕谷家寄りに竹林の脇を通り、今は無い大円寺前へ出たもので、今でも竹林の傍らに
昔の道が 30m程のこっている。
おんじ坂(平作 6 丁目 6 の辺り)
平作は籠堰の近くの団地の中を通る急な坂である。明治の初め坂の中ほどに石屋を
生業に一人の老人が住んでいた。小さな家であったが入口に欅の大木が一本あり
清水の湧き出る井戸もあったそうである。この老人を村では方言の「おんじ」といっ
ていたので坂の名になったという。
方言で「おんじ」とは大人になってもなかなか嫁を貰えないで一人暮らしをしている
男を言うそうで、「おんじ」は明治 14 年に没し欅の大木も大風で倒れ、「おんじ」の
住み家も潰れてしまったという。昭和 42 年坂の辺り一帯が住宅団地となり昔の姿は
全くなくなってしまったといわれる。
あめや坂(平作 6 丁目 4 より 10 まで)
この坂は通称籠堰の脇から左南方の坂を上がり、10 番地先まで下る坂の事である。
古老の話では明治中期まで、坂の頂上右の山上に飴を造っていた家があり、それで屋
号も「飴や」と云い、坂の名も「あめや坂」といったそうです。
飴は横須賀の名物でもあったらしいと云われているが、現在ではその「飴や」の姓名
を知る人はいないとの事。後に越してきた原家が引き続き「あめや」の屋号で呼んで
いるが原家では飴を造ったり、販売した事はないという。
橋本坂「妙伝寺坂」(平作 6 丁目 16 辺り)
平作の字竹林(たかばし)にある橋本山妙伝寺横の坂をいう。寺の下から上の墓地裏
まで約 100mの間を昔の小名を取って橋本坂と呼んでいた。
小名を言わなくなった現在では妙伝寺坂というほうが判りやすい。橋本坂上から大光
寺裏へ続く山道は現在では珍しく雑木林のあるところで、少なからず昔の様子を残し
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ていて憩いの場所であったが、開発に追われ残念ながら変わりつつある。
昔妙伝寺前は深い沼地で、向いの石井地区へ長い橋があり、その事から寺側を橋本
石井側を橋先と唱えたという。
○ 長五郎坂(平作 2 丁目 12 より坂上まで)
イ、城北小学校裏門近くより東へ登る坂道
ロ、駿河坂方面より字郷山、石井、小ヶ谷と通り 12 番地から坂となり 8 番地の頂上
近くで、イ・ロは合し一本となり小矢部の半縄へと続く坂道。
坂の由来は坂上に旧家の三堀家があり先祖に長五郎という人がいて屋号を長五郎とい
われていた。幾代も名を継承して後の長五郎さんは 5 代前の人。家の人に尋ねても
先祖の名が坂名についたのは、何時の頃か判らないとの事昔は坂の辺り一帯は三堀家
の土地で坂道も敷地内でこの名がついたとの事。
○ 平作の駿河坂(平作 3 丁目字陣が原山裾)
平作 3 丁目に駿河坂という地区がある。この場合は坂の事でなく地名である。
「新編相模国風土記稿」下平作村の項に「駿河坂南東ニ在リ、登り二町余(約 218m)
衣笠村ニ通ズ」とある。今地元でいう駿河坂は確かに二町余はなく相模風土記に載っ
ている駿河坂には該当しない。
他に衣笠に通じる道は陣が原山の山道以外ない、この道は昔を偲ばせる山道でこれが
古道というものであろう。鎌倉時代三浦氏の将士が衣笠城へ往来した古道であっても
不思議はない、鎌倉∼逗子∼葉山∼阿部倉の平作城∼仲山∼駿河坂∼衣笠本城の搦手
と続く一番の近道だったと思われる。
名の由来は三浦義明の母が急病となり、熱にうなされ「雪を、雪を」とうわ言をいっ
た。
「今頃雪は富士山に登らねばない」人々は困るばかり、義明は「搦手の坂を越せば
駿河も同じよ」と馬で昼夜通して往復し、富士山の雪を母に薦め病気が全快した。
他の説では三浦駿河守義村が往来した坂ゆえに名となったとする説がある。
但し平作の駿河坂より富士山を眺める事はできず。由来がハッキリしない。
三浦枕状溶岩
昭和 48 年に葉山層群の調査をしていた木村政昭博士(当時地質調査所)は平作川の上
流で枕状溶岩を発見した。枕状溶岩は火山の噴火から出た溶岩が水中で急激に冷やされ
生じるもので、溶岩の周囲は黒曜石の皮殻となって枕の断面状の割れ目を生じることか
ら名づけられたものである。
この枕状溶岩は、三浦半島では初めて発見されたので学問的にも、文化的にも重要なも
ので、地質調査所と市博物館で共同調査の折に見つけ出されたものである。
その結果、この溶岩は急速に冷やされた後崩壊して出来たもので、葉山群層を不整合
という現象で覆う矢部層(約 1.600 万年前の地層と推定される)
昭和 59 年 6 月平作川上流地域の自然を保つための再調査が実施された、最近の地球
科学(プレートテクトニクス理論)が取り入れられた調査の結果、枕状溶岩はさらに
新しく見直されるようになった。この調査で枕状溶岩は 1.600 万年前、矢部層の堆積
中に噴出したものではなく、もっと古いものである事が判った。
即ち枕状溶岩の年代は約 4 千 5 百万年前であり従来の予想よりはるかに古く、今
知られている三浦半島の岩石の中で最も古いものである事が判った。
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枕状溶岩の近くに、蛇紋岩という緑色の岩石が露出していた。この蛇紋岩は火成岩一種
で地下のかなり深いところで出来た超塩基岩の一種である。岩肌がアオダイショウの肌
に似ていて、外国語のサーベンティンが日本語に翻訳されたもので、外国人も蛇の皮を
連想してこの名をつけたものであろう。しかも蛇紋岩は枕状溶岩や断層粘土と密接な関
係にあり、枕状溶岩と蛇紋岩は 5 千万∼4 千万年前のマントルの湧出口である太平洋中
央海嶺付近で誕生し、約 2 千万年前に今の三浦半島付近まで運ばれてきたものと解釈さ
れている。
最近市は川の改修と併せ枕状溶岩に額縁状のコンクリート枠で固定して、横須賀市指
定の文化財として保存されている。
万葉公園
この公園は万葉集に出てくる植物にちなんだ植栽がされている。
「父母が殿の後方の百代草 百代いでませわがきたるまで」の百代草にちなんで野路菊
が植えられてあるというわけである。大変風雅な公園で是非万葉集をひもときながら
散策したいものである。
城の腰堰
これは三浦大介義明が衣笠城に居を構えていた平安後期に、家臣であった平佐古太郎為
重が衣笠城の出城としてこの地に城郭を設けた事に由来する。
この城館を中心に周辺では農耕が行われていた。その耕地の中にいつ頃か定かでないが
農耕用溜池が作られ、下平作約 5 町歩(5ha)に及ぶ地域の人々の、生活基盤を支え
て来た。これが「城の腰堰」である。
しかし時代の変化により引き継がれてきた堰の役割りは終わりを告げ、新たにしょうぶ
園の「すいれん」池として「城の腰堰」が活かされる事となった。
しょうぶ園には 5 月下旬から 7 月上旬にかけて、7.000 ㎡の田で 412 品種、14 万株
が次々と花開く、その鮮やかさは全国屈指の規模を誇る。
さて、三浦義明の家臣平佐古太郎為重とはどのような武将であったか「吾妻鏡」の中に
1、 治承 4 年(1180 年)8 月 20 日の条、
源頼朝伊豆を出て相模国土肥郷に入る。従う武将 46 名の中に平佐古太郎為重の
名が初見される。
2、 寿永 3 年(1184 年)2 月 5 日の条
一の谷の合戦の軍勢の中に源義経に従う平佐古太郎為重の名あり。
3、 建久元年(1190 年)11 月 7 日の条
源頼朝入洛の時の行列中、後陣の随兵として供奉する。
4、 建久 6 年(1195 年)3 月 10 日の条
将軍頼朝東大寺供養のため参詣の時。後陣随兵として平佐古太郎為重供奉する
以上 4 度、為重の名が記載されている。これ以降「吾妻鏡」には全く名が見えない
隠退か病没か、三浦氏の系図では三浦大介義明の弟、芦名爲清の孫にあたる。
平佐古太郎為重が、平佐古城の城主であった事は判るが「吾妻鏡」に登場してから
15 年ほどにて事跡が消えるのは城主としてあまりにも短すぎる。
芦名爲清の長子為綱並びに芦名一族が伊勢原の石田地方を本領として「石田」を名乗っ
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ている事から、平佐古太郎為重も隠退して一族の居る伊勢原に帰り、石田を称したとも
想像出来る。
湯ノ沢温泉実験記
阿部倉の名主世安家に残されている「湯ノ沢温泉実験記」を書いた、龍崎戒珠慧光は、
公郷村池田の人、文化文政の頃の三浦半島に於ける著名な文化人であった。半島各所の
「社寺由来」や「三浦古尋録」の保護「三浦半島諸仏寺院回詣記」その他多数の著作が
ある中に、この「湯ノ沢温泉実験記」もある。
龍崎戒珠は弘化 2 年(1845 年)夏 83 歳の老体保養のため、阿部倉の湯ノ沢温泉へ湯
治に来ていた。恐らく名主家に止宿していたものと思われる、世安家には温泉に係る
いろいろな控書きがあり、これをひとつに纏め温泉客の心得に役立つよう、書き改め
ぬかと所望され、龍崎氏は適任にあらずと再三辞退したが、懇願に負け書き残したと
断り書きがある。「湯ノ沢温泉実験記」は字数 2.000 余長さ 4mに及ぶ巻物であるが、
概略要点のみを抜書きすると、昔行基が三浦半島に至り、金峰山蔵王権現を移さんと
半島の山々を巡るうち、大楠の麓平作村阿部倉の山中にて足を痛め歩行困難となり、
阿部倉の鎮守諏訪明神に傷の全快を祈願すると不思議にも近くより温泉が湧き出し
これ明神の恵まれし神泉と湯に浴せば、痛みも止まり元の如く平癒す。故にその文字
を以って在所の名を平作(へいさく)と改めた、平は(たいらか)作は成ると訓じこの
二字を解する時は天下泰平五穀豊穣の端相なるに今里人読みを違いて平作(ひらさく)
と呼び習わしている。
行基はこの温泉の末永く絶える事なく数多くの衆病を除きたまえと、諏訪明神の湯口
近くに薬師如来の石像を彫り安置し給う、と温泉の成立より書き起こし。信州諏訪に
七不思議あり諏訪の旧記に詳らかなりと紹介し、並びに当阿部倉の七不思議も細かく
書き著している。
「湯ノ沢温泉実験記」は続いて寛治年中(1087∼94 年)の奥州後三年の役の戦において
の鎌倉権五郎景政の戦傷、久寿二年(1155 年)三浦大介義明の那須野ヶ原に於いての
妖狐退治などの事跡、伝承を細々と挙げ、これら武将の負傷や疲労の回復に、当温泉の
効能顕著であると賞賛している。
阿部倉の七不思議
三浦半島の最高峰大楠山の北東に、山を背に傾斜地を耕した田畑がある。そこに古くから
鎌倉道が通り、後に浦賀道と呼ばれた重要な幹線道路の継場である阿部倉があった。
ここには三浦半島の昔を偲ばせるものが残っている。このひなびた静かな村に江戸時代か
らの七不思議の伝えが碑に残されている。
相州三浦郡阿部倉村七不思議
① 明神能 相生松(みょうじんのあいおいのまつ)
根より 9 尺程上がり 2 本松に分かれ少しも甲乙なく回り 2 丈 8 尺程也
明神とは阿部倉の鎮守諏訪神社で、神社の背後に松の大木があり、夫婦松といわれ
珍しがられていたが、安政中(1854∼60)に枯れたと伝えられる。
木が 2 本に分かれるのは種の生え方によると思われるが、概ね生えている地質による
と考えられる。土地が軟らかで根が真っ直ぐに延びると地上の木も 1 本が多い、
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②
③
④
⑤
⑥
障害物の為根が分かれると考えられる。神社境内は岩盤が多く、他の木を植えても
分かれるものが多いという。
向山の南面の月(むこうやまのなんめんのつき)
向山に出る月は、南方より見ゆる。
向山と呼ばれる阿部倉温泉の裏山に出る月は、必ず南の方から昇るので不思議だと考
える。
月は昔も今も東から出る事に変わりなく、向山の背後には向山始め多くの山があり、
日の出の始めは阿部倉から見えず、村の人に望見される頃は月も南へ回り、向山の肩
の辺りに出てきた頃と考える。昔は村の周辺も暗く月が出てから間もなく、随分大き
く見えて、七不思議の名物に加えられたものと思われる。
湯本能朝希武利(ゆもとのあさけむり)
毎朝湧くが如くに立ち昇る
湯本の朝煙は霧の事で、湯本の沢では四季を通じ、濃い朝霧が立ち込めたという
霧が出るのは温度の差によるもので、湯本から湧き出る温かい水が谷川に流れ、
山間の冷えた空気に触れ、霧が発生したものと考えられる。
然し見逃すことの出来ないのは、この口碑が創られた頃、或いは温泉が湧き出して
いたかも知れないという事である。
湯ノ沢 乃 蛍(ゆのさわのほたる)
並の蛍より、一倍大なり
湯ノ沢の源氏蛍は甚だ大きく、晝間でも夜のように光を出して飛ぶという。
人の指先ほどもある蛍が群棲していて、他に類を見ないものであったという。
余程棲息に適していたと思われる。現在は殆ど見る事は出来ないといわれている。
昼でも光を出すというのは湯ノ沢がその頃自然のままで常に暗かった故と思われる
つい最近でも木が繁り晝間でも暗い小川であった。そのような所で蛍の棲息に条件が
良く蛍が昼夜の別なく光を出して乱舞していたと思われる。
荻野の 勝手水(おぎののかってみず)
此水春の彼岸より出秋の彼岸に留る。
荻野の井戸は春夏の頃水が出ていて、秋冬の頃は水の出が止まるので、身勝手な
井戸といわれている。
この井戸は田の用水であったので、秋冬には枯れて人間に苦情の言える筋合いはない
と思われる。昔の事で日常の暮らしにも使用していたとすれば困った井戸といえる。
井戸のある所は山の下で湧き水であり、雨量の少ない秋冬に枯れても自然現象といえ
る。然し昔の人には勝手な井戸と思われていたのであろう。
湯本能 陰陽石(ゆもとのいんようせき)
陰陽自然の形にて 古と変わらず。
湯本の陰陽石、口碑では子宝に恵まれない人がこの二つの石に祈ると子に恵まれると
いわれた。
「湯ノ沢温泉実験記」には、陰陽自然の形にして古と変わらずとある。どのような石
であったのか、明治生まれの老人でも見た事がないと云われ、遠い昔に不明となった
と思われる。陰陽自然の形とは何を言うのか、想像すれば江戸時代の性信仰に見られ
た男根女陰の石かと思われる。
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⑦
平山乃 片葉蘆(ひらやまのかたはのあし)
奥州松島より他 類なし。
平山に生える葦は、葉が一方に片より生えるという。阿部倉地元では(よし)ともい
う。平山地区は片葉の葦の群生地であったが、年々開発が進み葦も少なくなった。
片葉の葦は現代諸処に見られる現象で、どうして片葉になるのか学者でも判らないら
しい、その場所を吹く風が常に一方方向に吹き、葉の生え始めの軟らかいな頃、一方
に吹き寄せられ偏って育ち、固まるのではないかと考えられるが、葦の変種や進化で
はないと思われ、然し不思議な事である。
それは同じ所から生えながら常葉と片葉が混生している事である。同じ条件なら
何れかへ同じになる筈と思われる ?
七不思議の事
この七不思議には珍しいものと思うものもあるが、現代の人には常識で不思議に思わ
ないものもある。
これは時代が違う為とも思われる。未だ文化や知識が今ほど進んでいない江戸時代
の考えでは、さぞ不思議に思われた事と思う。それよりこの七不思議の事が何故現代
まで伝えられたのか、それはひとつの石碑からと考えられる。龍崎戒珠の「湯ノ沢
温泉実験記」にも七不思議の事は載っているが、実験記は旧家に保存されていて人の
目に触れる事少なく一部の人より知らなかったので、阿部倉の地勢や生活環境に因る
ものではないかと考えられる。
浦賀道の要所であったといっても、江戸時代は今ほど人の往来があったとは思われず
耕地は少なく生活の苦しかった頃、篤志家が村の発展の為七つの不思議を集め村の名
物として諏訪の湯へ湯治客を呼ぶ宣伝にしたのが現在も伝わる七不思議と思われる。
平作川
平作を流れる川について、皇国地誌残稿は次ぎのように書いている。
湯ノ沢川ト称ス 水源ヲ本村末ノ方湯ノ沢山間ニ発シ村内を経流スルコト三拾四丁八
間ニシテ丑ノ方小矢部村ニ入ル巾弐間深サ三尺水勢緩ニシテ濁レリ舟筏通セス
内川と呼ブ 本村丑ノ方金谷村ヨリ入リ四丁四拾七間ヲ経過シテ卯ノ方小矢部村ニ入
ル巾広キ処三間狭キ処九尺深サ三尺水勢緩ニシテ濁レリ舟筏通セス
天保 12 年に出た「新編相模国風土記稿」をみると平作川は源を阿部倉の湯ノ沢に発
すとある。そして久里浜を経て海に入るまでを総称して平作川と云い、全長八粁
三浦半島で一番大きな川である。ところでこの平作川は各地域を流れる時に違った
名称で呼ばれている
阿部倉温泉の裏を流れ
湯ノ沢川
平作の越水を流れ
清水川
小矢部を流れ
角田川
金谷を流れ
舞台川
森崎を流れ
船着川
内川新田を流れ
大川(或いは内川)
久里浜を流れ
八幡川
このように川が各地域(里)を流れて名称が変わるのはそれ等の里で川の水を洗い物
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に使ったり田畑に使ったりするので大きな愛着をもっていたからである。
現在年寄りの話しを聞くと昔はこの平作川でも、又支流でもドジョウやウナギ・小魚
が獲れて人々の家の食卓を賑やかにしていたそうである。
昔の川は雑排水を流すための川ではなく、人間の生活に切り離す事が出来ない程利用さ
れていた川なので、各里では村を流れる川を愛称で呼ぶようになったのである。
平作川の名がいつ頃から命名されたかは不明であるが、すでに天保年間には平作川の名
が「新編相模国風土記稿」の中に出ている。
又橋については、平作から久里浜まで大小 60 余の橋が記録されている。その 60 余の
中には昔からの古い橋、必要に応じて出来た新しい橋、名もない橋、人だけ渡す橋、
人と車を渡す橋、鉄道専用の橋などいろいろある。
県や市の管理は勿論個人所有の橋も入れて久里浜の開国橋から阿部倉の湯ノ沢のハイキ
ング用の橋 まで、全部含めて 60。その中には例えば夫婦橋や五郎橋、又舞台橋など
多くの人に知られている伝説もある。
湯ノ花権現
天保年間の頃編集された「新編相模国風土記稿」によると、湯ノ沢には直径が三尺
(約 90cm)深さ二尺のちいさな水溜りがあり、その水には硫黄の気があり、ここは
温泉の跡で、そのあたりは「権現」と云い、昔、湯ノ花権現があると記されている。
天保の頃はこの鉱泉を用いた湯場は休養となっていて、湯口のわきに祀られた権現さま
も草かげにかくれていたようである。
阿部倉温泉の下を通る大楠山登山道が、湯ノ沢にかかる小橋を渡る所から、さらに沢に
伝わって 50mほど行くと、阿部倉温泉の湯元がある。この辺りが、かっての湯ノ花権現
が祀られていた所と思われる。
今でもそこには小さな祠があって、中には二体の石像が安置されている。
一体は左手に薬つぼを持っておられるところから薬師さまなのかも知れない、もう一体
は神像のように見えるが、諏訪明神かも知れない、いずれにしても、この石像は、この
鉱泉がいつまでも絶える事なく湧き出て多くの人々の病を癒すよう、ここにお祀りした
ものと考えられる。この沢は蛍の多いところとして知られ、今でも浅く走る水は清らか
である。
大楠山
三浦半島の地形は 3 区分に分けられる。
北帯:逗子と船越を結ぶ線の北側で多摩丘陵の延長部
中帯:武山の南を北西―南東に走る武山断層線までの地域
南帯:武山断層線より南、城ヶ島までの地域で、南下浦断層を境にして北部の宮田台地
と南部の三崎海成台地に分かれる。
大楠山はこの中の「中帯」となり、山地性の丘陵地帯で、二子、大楠、武山の丘陵が並
び、その間に断層が走っている。
大楠山は三浦層群から出来ている。逗子泥岩層で葉山層群と不整合で接している。
(大楠山北方の泥岩中にホホジロザメの歯の化石が見つかっている。)
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大楠山の名前の由来は「新編相模国風土記稿」には「山上昔老楠樹アリシ故ニ名ズク」
と大楠山の起源を説明している。果たしてそうであろうか、楠木は熱帯性の樹木であり、
珍重された事は考えられるが、クスは必ずしも楠樹だけの意味だとも云えない。
クスを草の転だという説もあり、これから草の生い茂っている大きな山とも解されない
事もない。又、葛の生え繁る大きな山とも考えられない事もない。
大楠山の標高は 241.3m、三浦丘陵の一角をなし、三浦半島の最高峰である。
標高は高くないが周囲に高い山がなく、山頂からの眺望の良さで知られる。三浦半島
全域から相模湾、東京湾や房総半島をはじめ気象条件が良ければ富士山や伊豆半島、
東京都心まで眺められ、
「低くて高い日本一の山」として神奈川県の景勝 50 選に選ばれ
ており、司馬遼太郎も山頂からの眺めの良さを「三浦半島記」で触れている。
一説には関八州が一望出来るとされた
武蔵の国(現、東京都、神奈川県の北東部)
上総の国(現、千葉県の中南部)
下総の国(現、千葉県の中東部)
安房の国(現、千葉県の南端部)
上野の国(現、群馬県)
下野の国(現、栃木県)
常陸の国(現、茨城県)
昔は空気も澄んでいて遠くを見渡す事が出来たと思われる。
古く大楠山は鎌倉時代に三浦大介の拠点、衣笠城から芦名城に通ずる本道であった。
頂上にコンクリート造りの構築物がる。戦争中の砲台跡と思われるが、この大楠山も
要塞地帯に利用され一時的に一般人の立ち入る事の出来ない大事な役目も果たした。
戦後バブルが始まり、大手の不動産業者が山を買いあさり、古木を切り倒し、山を削り
谷を埋め始めた。この光景を悲痛な思いで目のあたりにした地元有志と何度となく話し
合い「大楠山崩壊」を阻止すべく大楠山自然公園整備組合を結成したのが昭和 58 年
(1983)と云われる。
頂上より少し下った所を大楠平という。
ここには国土交通省大楠山レーダー雨量観測所がある。これは国土交通省が全国に 26
箇所設置した、雨量を測定する施設で、関東地方をカバーする 4 箇所の一つである。
レーダーアンテナから発射された電波を雨にあて、跳ね返される強さを計算して雨の
量を測定する。半径 120kmの観測範囲で、5 分間間隔でデーターの収集を行い
他のデーターと合わせて日本全国をカバーする。測定されたデーターは各機関に配信さ
れ、河川、道路管理及び天気予報などに使用される。個人向けにはインターネットや携
帯電話にて提供している。
又ボランティアの方々(大楠山自然整備組合)の丹精で春には菜の花、秋にはコスモス
が一面に花開き、登山者を楽しませてくれる。
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菜の花の暦
植え付け
開花(見ごろ)
刈り取り
コスモスの暦
植え付け
6 月上旬
開花(見ごろ) 9 月上旬∼10 月上旬
刈り取り
10 月下旬
10 月下旬
3 月中旬∼4 月下旬
5 月中旬
大楠山ハイキングコースの主なルートは
阿部倉コースと衣笠コース(東京湾側)
前田橋コースと大楠芦名口コース(相模湾側)
がある。
◎
大楠山の野生植物については別途資料を作成して頂きます。
長坂最終埋め立て地
大楠山を下ると長坂のゴミ採集埋立地(?)がある
インターネットなどにていろいろ調べたが適切な解説が引き出せない。
市は南部処理場の老朽化により新たなゴミ焼却施設を長坂 5 丁目に建設予定(三浦市と
共同事業)だが地元住民の反対が強いらしい。
どなたかこの件ご存知の方がおりましたら教えて下さい。
衣笠城搦手口(1)
横須賀横浜道路を横断する「大畑橋」あたりはその昔衣笠城と芦名城を結ぶ道であったと
聞いた事があります。
資料がなく申し訳ありません。ご存知の方教えて下さい。
衣笠城搦手口(2)
◎ 大畑橋を渡り階段を登って山道を暫く歩き杉木立を過ぎると大きな岩石が道を塞ぐよ
うにしている。これは衣笠城搦手の置石と云われている。
◎ 右側に突然開けた場所がある、最近まで畑として使われていたともいわれる。
三浦氏の頃の馬場か警護の侍所とも言われているようである。
一説には「キーリグチ&ホーリグチ」と呼ばれる人工的な広場の跡とも
◎ 搦手口最後の上り坂の下の岩に人工的に掘られた穴がある。
何時ごろ掘られたものかは不明、三浦氏の頃馬に水を与えた「水喰らいの井戸」跡か
少し進んだ所には現在も湧き水が流れている。
両方共「水喰らいの井戸」なのか不明。
◎ 「水喰らいの井戸」から急坂を登る、搦手口最後の急坂である。
追手口の「馬返しの坂」に対して搦手口の「馬返しの坂」なのか
佐原十郎義連のひよどり越えの「我らがほうでは鳥ひとつたでだにも、朝夕かようと
ころをば馳せ歩け、これは三浦の馬場ぞ」」といったのはこの坂の事なのだろうか
◎
衣笠城跡からの資料は拙稿の「頼朝旗揚げ、三浦一族もののふの路」資料参考方
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参考資料
横須賀こども風土記
三浦半島おもしろ地名考
かながわの山
三浦半島の風物
かたすみの平作から
横須賀雑考
他
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