5)土佐中學校の設立(『宇田友四郎翁』昭和十四年より)

朋
之
氏
で
あ
つ
た
。
翁
と
藤
崎
氏
と
は
爾じじ
汝ょ
の
間
柄
で
、
平
素
翁
の
〝
財
〟
に
対
す
る
観
念
を
能
く
理
解
せ
る
氏
は
、
「
富
ん
で
之
れ
を
樂
富
屋
を
潤
し
た
連
中
で
あ
る
。
こ
の
黄
金
風
景
を
眺
め
て
、
そ
の
富
の
一
部
を
世
の
爲
に
割
愛
さ
し
た
い
と
思
案
し
た
の
が
、
名
市
長
藤
崎
か
ら
ず
で
は
な
い
か
と
も
思
は
れ
る
。
白
洋
汽
船
で
大
い
に
儲
か
つ
た
の
は
、
翁
一
人
で
な
く
、
川
崎
幾いく
三さぶ
郎ろう
氏
並
に
他
の
株
主
は
、
皆
な
ら
有
は
生
じ
な
い
か
ら
、
商
業
敎
育
の
胚
芽
が
、
他
の
勸
説
を
受
け
て
、
英
才
敎
育
の
嫩 わか
葉ば
に
変
じ
た
と
の
観
測
は
、
當
ら
ず
と
雖
も
、
遠
い
て
ゐ
た
と
い
ふ
事
が
事
實
と
す
る
な
ら
ば
、
後
進
子
弟
の
敎
育
に
は
、
決
し
て
無
關
心
で
な
か
つ
た
と
い
ふ
斷
定
を
生
む
譯
だ
が
、
無
か
校
設
立
の
胚
芽
が
あ
つ
た
か
什ど
麼
う
か
。
横
山
又
吉
氏
が
市
商
を
隠
退
し
た
時
、
同
氏
を
校
長
と
す
る
簡
易
商
業
學
校
設
立
の
意
思
が
、
動
田
翁
は
、
そ
の
富
を
如
何
に
利
用
す
べ
き
か
に
就
い
て
、
い
ろ
〳
〵
考
へ
た
で
あ
ろ
う
事
を
推
察
す
る
、
そ
の
中
に
於
て
翁
の
腦
底
に
、
學
—
富
を
利
用
す
る
こ
と
の
難
き
は
、
富
を
獲
得
す
る
こ
と
の
難
き
よ
り
も
難
し
矣
。
白
洋
汽
船
に
よ
っ
て
、
數
百
萬
圓
の
巨
富
を
致
し
た
宇
81
81
—
一
そ
の
出
發
点
土
佐
中
學
校
の
設
立
【
原
文
編
】
五
『
宇
田
友
四
郎
翁
』
よ
り
と
も
し
ろ
う
り
の
膳
立
が
出
來
た
。
こ
れ
が
そ
抑もそ
も
土
佐
中
學
校
創
立
の
發
端
で
あ
る
。
結
論
に
到
達
し
た
の
で
、
早
速
こ
の
三
人
會
に
お
い
て
豫
算
私
案
を
作
り
第
一
案
百
萬
圓
、
第
二
案
八
十
萬
圓
、
第
三
案
六
十
萬
圓
と
三
通
の
だ
か
ら
右
の
三
人
會
は
屢しば
々しば
相
集
り
、
屢る
々る
協
議
を
重
ね
た
結
果
、
英
才
教
育
の
た
め
に
資
金
を
出
さ
す
る
の
が
、
最
も
有
意
義
だ
と
の
る
と
こ
ろ
で
あ
る
と
同
時
に
、
天
下
の
英
才
を
得
て
之
れ
を
養
成
す
る
の
樂
し
み
も
、
話
せ
ば
解
か
る
人
た
る
こ
と
を
頭
に
置
い
て
ゐ
た
も
あ
る
事
を
藤
崎
氏
は
知
つ
て
ゐ
た
。
そ
し
て
宇
田
翁
が
君
子
三
樂
の
一
た
る
「
心
に
恥
づ
る
所
無
き
」
人
物
た
る
こ
と
は
、つ
夙と
に
そ
の
認
む
—
82
82
を
備
へ
た
人
物
で
あ
り
、
そ
の
意
見
が
期
せ
ず
し
て
、
合
致
す
る
も
の
ゝ
思
を
體
し
て
の
會
合
と
な
つ
た
。
三
氏
は
孰
れ
も
敎
育
に
一
家
の
見
識
川
島
氏
及
び
視
學
西
山
庸
平
、
市
會
議
員
池
本
浩
靜
三
氏
が
、
市
長
の
意
に
金
を
出
さ
し
て
お
き
た
い
と
云
ふ
の
で
あ
り
、
そ
れ
が
發
端
と
な
つ
て
、
川
島
正
件
氏
に
そ
の
話
を
し
た
。
話
の
要
點
は
、
こ
の
際
翁
と
川
崎
氏
と
如
し
」
と
の
金
言
を
親
友
の
爲
め
に
活
か
し
た
い
と
考
え
、
或
日
助
役
之
氏
(
藤
崎
朋
之
氏
写
真
)
藤
—
崎
朋
藤崎朋之氏
し
く
使
用
せ
ざ
る
人
は
猶
ほ
黄
金
を
運
ぶ
驢ろ
馬ば
の
薊あざ
み
を
食
ふ
が
そ
れ
が
物
に
な
る
か
と
云
つ
た
調
子
で
、
中
々
御
輿
を
上
げ
や
う
と
せ
ぬ
。
い
よ
〳
〵
ア
マ
ノ
ジ
ヤ
コ
ぞ
と
云
ふ
の
で
、
三
人
は
必
死
と
な
ア
マ
ノ
ジ
ヤ
コ
を
床
の
置
物
に
す
る
北
川
氏
は
、
容
易
に
他
人
の
言
を
そ
の
儘
受
け
納
る
ゝ
人
で
な
い
、
三
人
か
ら
數
回
手
紙
を
出
し
て
も
、
人
は
、
高
根
の
花
に
手
の
屆
い
た
や
う
な
歡
び
に
浸
り
つ
ゝ
、
早
速
豫
定
の
コ
ー
ス
を
踏
ん
で
、
在
京
の
北
川
氏
へ
そ
れ
を
持
ち
込
ん
だ
。
翁
は
言
下
に
、
そ
し
て
快かい
濶かつ
に
「
出
し
て
も
よ
い
」
と
共
感
の
意
思
を
表
明
し
、
一
行
を
滿
足
せ
し
め
た
の
で
あ
つ
た
。
是
に
於
て
三
發
起
常
な
御
成
功
の
御
様
子
に
承
は
り
ま
す
る
が
、
何
か
一
つ
縣
の
た
め
に
金
を
出
さ
れ
て
は
如
何
で
す
か
」
と
の
伏
線
網
を
敷
い
た
と
こ
ろ
、
誠
相
許
す
間
柄
で
あ
つ
た
。
此
の
如
き
好
緣
の
蔓つる
を
握
つ
て
を
る
發
起
人
組
は
、
一
日
相
伴
ふ
て
金
的
を
射
と
め
る
べ
く
宇
田
翁
を
訪
ひ
「
非
で
「
北
川
!
宇
田
!
」
と
互
に
呼
び
切
り
に
す
る
親
し
さ
で
あ
つ
た
。
そ
し
て
北
川
氏
と
藤
崎
氏
と
は
極
め
て
如
才
の
無
い
肝
瞻
相
照
、
至
—
で
ゐ
た
。
北
川
氏
と
翁
と
の
交
際
は
隨
分
ふ
る
く
、
大
阪
、
廣
島
あ
た
り
の
司
法
官
時
代
か
ら
、
ず
つ
と
相
識
つ
て
ゐ
た
本
統
の
友
人
關
係
83
83
—
に
選
ば
れ
て
就
職
、
後
ち
栃
木
、
新
潟
の
知
事
に
任
ぜ
ら
れ
、
官
界
を
退
い
て
か
ら
は
、
東
京
芝
區
三
田
小
山
町
に
悠
々
閑
日
月
を
樂
し
ん
り
翁
に
切
り
出
し
て
も
ら
ふ
段
取
り
で
あ
つ
た
。
北
川
氏
は
司
法
官
畑
の
人
で
、
長
崎
地
方
裁
判
所
檢
事
正
を
辭
め
る
と
、
直
ぐ
長
崎
市
長
手
を
携
え
て
宇
田
翁
に
會
ひ
、
打
診
の
結
果
、
有
望
の
見
込
が
附
い
た
な
ら
ば
、
之
れ
を
在
京
の
先
輩
北
川
信のぶ
從より
氏
に
持
ち
込
み
、
同
氏
よ
三
人
會
で
、
三
段
構
へ
の
豫
算
が
出
來
た
と
は
云
へ
、
未
だ
肝
腎
の
本
人
に
は
會
つ
て
ゐ
な
い
。け
盖だ
し
三
人
會
の
腹
案
は
、
先
づ
三
人
が
二
翁
が
生
み
の
親
い
。
業
は
斷
じ
て
成
立
し
な
い
筈
の
も
の
だ
。
事
實
は
最
善
の
雄
辯
で
あ
る
。
土
佐
中
學
校
の
生
み
の
親
が
、
翁
で
あ
る
こ
と
は
多
言
を
要
し
な
過
の
證
明
す
る
如
く
、
藤
崎
名
市
長
の
發
意
あ
り
、
北
川
信
從
氏
の
斡
旋
あ
り
と
雖
も
、
相
手
方
が
宇
田
翁
で
な
か
つ
た
な
ら
ば
、
こ
の
事
間
に
話
は
ス
ラ
〳
〵
と
進
行
し
、
「
川
崎
、
宇
田
財
團
法
人
寄
附
行
爲
」
の
決
定
と
な
り
、
大
正
九
年
二
月
を
以
て
許
可
さ
れ
た
。
こ
の
經
時
の
翁
の
共
鳴
振
り
は
、
素
睛
ら
し
い
も
の
で
、
百
萬
圓
眼
中
に
無
し
の
概おも
む
き
が
あ
つ
た
。
だ
か
ら
北
川
氏
が
乘
り
込
ん
で
、
二
三
時
間
の
せ
し
め
た
も
の
と
思
は
れ
る
。
川
崎
氏
を
誘
ふ
た
の
は
、
寄
附
行
爲
を
折
半
と
云
ふ
や
う
な
思
惑
か
ら
で
は
決
し
て
な
か
つ
た
。
實
際
そ
の
己
を
永
遠
に
生
か
す
所ゆえ
以ん
と
な
る
、
だ
か
ら
宇
田
一
人
の
事
業
と
せ
ず
、
二
人
共
同
の
事
業
に
す
る
と
云
ふ
趣
旨
を
以
て
、
川
崎
氏
を
同
意
—
84
84
を
共
に
し
て
を
る
盟
友
川
崎
氏
の
身
の
上
を
も
考
へ
た
。
そ
し
て
子
孫
の
無
い
川
崎
氏
は
こ
の
敎
育
事
業
へ
金
を
出
し
て
お
く
こ
と
が
、
自
—
で
も
投
げ
出
し
兼
ね
ま
じ
き
勢
い
で
あ
つ
た
。
け
れ
ど
も
謙
虚
に
し
て
、
義
理
と
人
情
と
に
重
き
を
置
く
翁
は
、
事
業
を
共
に
し
、
儲
か
り
材
養
成
に
は
双
手
を
擧
げ
て
賛
成
し
た
。
然
か
も
そ
の
賛
成
が
、
我
が
意
を
得
た
り
と
云
ふ
喜
色
滿
面
の
賛
成
振
り
で
、
翁
一
人
で
百
萬
圓
し
た
。
そ
の
程
度
な
ら
應
ぜ
ぬ
こ
と
は
あ
る
ま
い
と
て
、
北
川
氏
か
ら
更
に
宇
田
翁
に
持
出
し
た
。
翁
は
藤
崎
市
長
の
見
抜
い
た
通
り
、
人
ア
マ
ノ
ジ
ヤ
コ
の
本
領
を
む
き
出
し
て
逆
襲
せ
ら
る
ゝ
危
機
を
豫
感
し
た
の
で
、
豫
算
額
を
最
小
限
度
の
六
十
萬
圓
と
し
て
北
川
氏
に
持
出
が
公
園
花
月
亭
に
於
て
行
は
れ
た
。
そ
の
時
發
起
人
側
の
第
一
印
象
は
、
う
か
と
百
萬
圓
だ
の
、
八
十
萬
圓
だ
の
と
言
つ
た
ら
、
そ
の
場
で
り
、
こ
の
通
り
手
形
を
取
つ
て
を
る
か
ら
と
て
、
最
後
の
手
紙
を
示
し
、
や
つ
と
來
縣
し
て
も
ら
ひ
北
川
氏
と
發
起
人
側
と
第
一
回
の
會
見
設
す
る
中
學
校
を
設
立
す
る
こ
と
を
協
定
せ
り
。
そ
の
資
金
六
十
萬
圓
を
提
供
し
、
十
萬
圓
を
設
備
費
と
し
五
十
萬
圓
を
基
本
金
と
す
る
財
團
法
人
と
し
て
之
れ
を
管
理
し
、
豫
科
を
附
遍
的
に
兩
氏
の
素
志
を
貫
徹
す
る
は
、
敎
育
事
業
に
如
く
は
な
し
と
斷
じ
、
之
れ
を
兩
氏
に
通
ぜ
し
が
、
兩
氏
亦
た
大
に
之
れ
を
賛
し
、
正
七
、
八
年
の
交
、
豫かね
て
昵
懇
な
る
北
川
信
從
氏
に
、
そ
の
事
案
の
選
擇
を
委
囑
せ
り
、
爾
来
北
川
氏
は
審
思
熟
慮
、
永
久
に
且
つ
普
故
川
崎
幾
三
郎
及
び
宇
田
友
四
郎
の
兩
氏
は
、つ
夙と
に
縣
下
の
爲
に
私
財
を
投
じ
て
公
共
的
事
業
を
經
營
せ
ん
と
す
る
の
意
あ
り
、
大
有
つ
て
を
る
こ
と
を
知
ら
ね
ば
な
ら
ぬ
。
同
校
の
「
沿
革
概
要
」
中
に
人
士
の
輩
出
を
期
す
る
事
」
の
二
つ
が
其
の
最
大
眼
目
と
な
つ
て
を
る
譯
で
、
此
處
に
他
の
中
等
學
校
と
大
に
趣
を
異
に
す
る
、
特
色
を
と
あ
る
通
り
、
縣
下
の
秀
才
を
一
堂
に
集
め
て
「
高
等
敎
育
を
受
く
る
に
十
分
な
る
基
礎
敎
育
に
力
を
致
す
事
」
と
「
國
家
の
翹
望
す
る
85
—
85
—
し
修
業
後
は
進
ん
で
上
級
學
校
に
向
ひ
他
日
國
家
の
翹ぎょ
う
望ぼう
す
る
人
士
の
輩
出
を
期
す
る
も
の
な
り
據
り
、
中
堅
國
民
の
養
成
を
目
的
と
す
る
は
論
を
俟
た
ざ
れ
ど
も
亦
た
一
面
高
等
敎
育
を
受
く
る
に
十
分
な
る
基
礎
敎
育
に
力
を
致
本
校
は
大
戦
後
國
運
の
進
展
に
伴
ふ
中
等
學
校
内
容
充
實
の
趣
旨
に
依
り
設
立
せ
ら
れ
た
る
も
の
に
し
て
中
學
校
令
の
示
す
所
に
土
佐
中
學
校
は
、
國
家
有
爲
の
人
材
を
養
成
す
る
こ
と
が
其
の
目
的
で
、
設
立
趣
意
書
に
三
所
謂
人
材
教
育
流
石
北
川
の
推
薦
だ
、
萬
事
委
ね
る
こ
と
が
出
来
る
と
歡
ん
だ
。
そ
し
て
帶
屋
町
に
あ
る
川
崎
氏
の
控
家
を
假
校
舎
に
充
て
、
同
年
四
月
十
人
を
見
る
の
明
あ
る
翁
は
、
こ
の
良
校
長
を
得
て
、
す
つ
か
り
安
心
し
土
佐
中
學
校
の
校
長
と
し
て
着
任
し
、
翁
に
自
己
の
抱
負
を
陳
べ
た
。
熟
知
し
て
ゐ
た
爲
で
あ
ら
う
。
斯
く
て
三
根
氏
は
大
正
九
年
二
月
八
日
、
新
潟
縣
立
中
學
校
長
三
根
圓
次
郎
氏
に
、
白
羽
の
矢
を
立
て
、
宇
田
翁
の
同
育
に
經
驗
の
無
い
西
山
氏
で
は
、
何
ん
だ
か
物
足
り
な
い
か
ら
と
云
ふ
の
で
、
次
三 根 圓 次 郎 氏郎
圓
氏
蓋
し
北
川
氏
は
新
潟
縣
知
事
時
代
に
、
三
根
氏
の
人
物
、
識
見
、
手
腕
を
意
を
求
め
、
同
氏
を
招
聘
す
る
こ
と
に
決
定
し
た
。
長
た
ら
し
め
た
い
意
見
を
持
つ
て
ゐ
た
。
然
る
に
北
川
氏
は
、
中
學
校
の
敎
(
三
根
圓
次
郎
氏
写
真
)
三
根
—
86
86
—
量
に
一
任
す
ベ
き
筋
合
と
な
つ
て
来
た
。
發
起
人
の
川
島
正
件
、
池
本
浩
靜
兩
氏
は
、
英
才
敎
育
の
主
張
者
た
る
同
志
西
山
庸
平
氏
を
、
校
土
佐
中
學
校
の
母
體
が
宇
田
翁
で
あ
り
、
そ
の
産
婆
役
が
翁
の
親
友
北
川
信
從
氏
で
あ
る
關
係
に
於
て
校
長
の
選
擇
は
當
然
北
川
氏
の
裁
四
校
長
の
人
選
如
上
の
記
事
は
、
土
佐
中
の
特
色
と
、
そ
の
沿
革
と
を
一
層
明
白
な
ら
し
め
て
を
る
。
は
最
も
熱
心
に
創
立
の
仕
事
に
携
は
り
、
敷
地
の
選
定
、
購
入
を
は
じ
六
日
よ
り
起
工
、
同
年
八
月
新
築
工
事
に
着
手
し
た
の
で
あ
る
が
、
翁
十
年
二
月
十
五
日
、
埋
立
工
事
開
始
の
爲
め
、
地
鎭
祭
を
行
ひ
、
翌
十
同
地
に
確
定
し
、
敷
地
五
千
二
百
七
十
七
坪
餘
の
購
入
を
了
し
、
大
正
物
色
し
た
か
な
れ
ど
、
都
合
に
よ
り
潮
江
に
變
更
し
、
大
正
九
年
十
月
し
て
、
學
校
敷
地
の
調
査
中
で
あ
つ
た
が
、
最
初
江
ノ
口
に
候
補
地
を
敎
育
者
は
心
か
ら
の
感
興
を
寄
せ
た
。
こ
の
際
宇
田
翁
は
他
事
を
放
擲
全
縣
下
の
精
神
界
に
非
常
な
る
好
印
象
を
與
へ
た
。
就
中
一
市
七
郡
の
中 學 校校
の 全 景の
中土 佐 學
全
景
(
土
佐
中
學
校
の
全
景
写
真
)
土
佐
—
87 —
87
土
佐
財
界
の
兩
巨
頭
が
、
私
財
を
投
じ
て
中
學
校
を
起
し
た
こ
と
は
、
五
創
立
時
の
熱
意
開
校
當
初
の
狀
態
で
、
英
才
敎
育
に
熱
意
を
有
す
る
翁
の
面
上
に
は
、
人
目
に
も
判
る
程
の
嬉
し
味
と
、
緊
張
味
が
溢
れ
て
ゐ
た
。
翌
五
月
六
日
豫
科
入
學
式
を
擧
行
し
、
第
一
學
年
十
名
、
第
二
學
年
十
五
名
に
入
學
を
許
可
し
て
豫
科
の
授
業
を
開
始
し
た
。
こ
れ
が
實
は
六
日
、
翁
及
び
川
崎
氏
等
列
席
の
上
、
本
科
入
學
式
を
擧
行
し
て
、
生
徒
二
十
八
名
に
入
學
を
許
可
し
、
直
に
授
業
を
開
始
し
た
の
で
あ
る
。
つ
た
の
で
あ
る
。
留
目
し
た
ま
で
だ
。
出
資
者
が
斯か
く
捌
け
、
斯
く
碎
け
て
ゐ
る
か
ら
、
剛
直
不
屈
の
三
根
校
長
も
感
激
し
て
、
全
魂
を
打
ち
込
む
努
力
を
拂
口
は
全
然
別
で
、
金
は
全
額
を
出
し
つ
放
し
、
經
費
は
當
事
者
の
決
定
に
一
任
と
云
ふ
、
伸
縮
自
在
の
餘
地
を
與
へ
て
、
單た
だ
そ
の
成
績
に
の
都
度
金
を
出
す
と
云
ふ
方
法
を
執
つ
た
も
の
だ
か
ら
、
校
長
な
ど
は
窮
屈
を
感
じ
、
不
便
を
感
じ
た
。
其
處
に
な
る
と
、
宇
田
翁
の
遣
り
あ
る
。
他
と
對
照
す
る
と
此
の
點
が
能
く
分
る
が
、
竹
内
明
太
郎
氏
が
私
財
を
提
供
し
て
工
業
學
校
を
經
営
す
る
や
、
必
要
に
應
じ
て
、
そ
義
を
執
つ
た
。
だ
か
ら
三
根
校
長
と
し
て
も
、
思
ふ
ま
ゝ
に
自
己
の
意
見
を
行
ふ
こ
と
が
出
来
、
從
っ
て
學
校
の
成
績
が
大
に
擧
つ
た
の
で
寧
ろ
行
き
過
ぎ
る
程
の
世
話
を
燒
い
た
翁
は
、
事
業
の
緒
に
着
く
と
共
に
、
一
切
を
當
事
者
に
任
せ
切
り
、
何
事
に
も
徹
底
し
た
不
干
渉
主
—
の
度
量
は
、
土
佐
中
學
校
の
場
合
に
も
美
は
し
く
發
露
さ
れ
て
ゐ
る
。
事
業
の
草
創
時
代
に
は
細
大
悉こと
く
之
れ
を
一
身
に
引
き
受
け
て
、
88—
88
ご
と
翁
の
天
性
か
、
將
た
修
養
自
得
の
結
果
か
、
そ
の
孰
れ
に
も
せ
よ
、
翁
が
當
事
者
に
全
幅
の
信
頼
を
拂
ひ
自
由
を
與
へ
る
そ
の
誠
心
、
そ
六
捌
け
た
出
資
者
事
を
監
督
し
、
他
の
理
事
を
し
て
、
そ
の
眞
劍
味
に
舌
を
捲
か
し
め
た
程
で
あ
つ
た
。
め
、
建
築
の
樣
式
及
び
そ
の
請
負
に
至
る
ま
で
、
翁
が
中
心
と
な
っ
て
グ
ン
〳
〵
進
捗
せ
し
め
た
。
そ
し
て
建
築
中
も
、
益
々
熟
心
に
諸
工
譯
だ
。
そ
こ
で
翁
は
そ
の
六
十
萬
圓
を
、
翁
の
關
係
し
て
を
る
高
陽
銀
行
に
於
て
、
特
に
七
朱
五
厘
の
利
率
で
預
る
こ
と
に
し
た
。
土
佐
中
總
資
金
八
十
五
萬
圓
に
達
し
た
の
で
あ
る
が
、
内
二
十
五
萬
圓
の
土
地
代
、
建
築
費
を
控
除
し
た
正
金
六
十
萬
圓
が
、
基
本
資
金
と
な
つ
た
か
ら
、
翁
は
遺
族
川
崎
松
子
並
に
川
崎
庄
五
郎
氏
に
獎
め
、
香
奠
料
へ
更
に
二
萬
圓
を
加
へ
、
都
合
十
五
萬
圓
を
出
資
せ
し
め
た
。
仍よ
つ
て
ゝ
を
出
し
た
。
こ
れ
で
兩
氏
の
出
資
額
は
七
十
萬
圓
と
な
つ
た
。
そ
し
て
川
崎
氏
が
逝
去
せ
ら
れ
た
時
、
そ
の
香
奠
料
が
十
三
萬
圓
あ
つ
た
是
よ
り
前
、
潮
江
校
舎
の
新
築
工
事
に
着
手
す
る
や
、
豫
定
の
工
事
費
で
は
不
足
を
來
す
こ
と
ゝ
な
り
、
翁
と
川
崎
氏
が
各
々
五
萬
圓
づ
八
學
校
の
財
政
—
89 —
89
氏
に
對
す
る
美
徳
が
窺うか
が
は
れ
て
を
る
。
に
建
設
す
る
こ
と
に
し
た
。
こ
ゝ
に
も
翁
の
川
崎
と
し
た
川
崎
氏
の
銅
像
を
、
土
佐
中
學
校
の
構
内
土
佐
銀
行
關
係
者
に
よ
り
て
、
醵きょ
金
し
建
設
せ
ん
で
宇
田
翁
は
北
川
氏
等
と
相
計
り
、
豫
て
當
時
の
川
崎
幾
三
郎
氏
が
腦
溢
血
で
逝
去
さ
れ
た
。
そ
こ
大
正
十
年
十
一
月
九
日
、
北
川
信
從
氏
來
校
、
生
徒
の
爲
め
有
(
益
川
な
崎
る
氏
の
講
話
銅
を
像
爲
写
し
、
真
職
)
員
生
徒
一
同
と
記
念
撮
影
を
し
川 崎 氏 の 銅 像 た
そ
の
翌
川崎幾三郎氏の銅像
日
、
七
川
崎
氏
の
銅
像
一
、
個
人
指
導
に
重
き
を
置
き
、
敎
授
能
率
の
增
進
を
計
る
こ
と
備
す
る
と
共
に
し
め
た
土
佐
中
學
校
の
内
容
外
觀
は
、
翁
の
用
意
と
努
力
に
よ
つ
て
一
切
整
が
、
大
正
十
二
年
で
あ
つ
た
。
是
に
於
て
全
國
中
等
敎
育
界
の
視
聴
を
聳
え
以
て
、
い
と
も
莊
嚴
に
擧
行
さ
れ
、
斯
く
て
開
校
記
念
碑
の
建
設
を
見
た
の
全
貌
が
す
つ
か
り
出
来
上
り
、
季
節
も
恰
度
菊
花
滿
開
の
十
一
月
十
九
日
を
さ
れ
た
。
川
崎
幾
三
郎
氏
の
銅
像
除
幕
式
は
、
翁
の
發
議
に
よ
り
、
學
校
の
で
、
第
二
期
工
事
は
四
月
一
日
に
着
手
さ
れ
、
十
月
末
日
に
は
早
く
も
完
成
の
陽
春
四
月
で
あ
つ
た
。
こ
れ
は
校
舎
新
築
第
一
期
工
事
の
落
成
し
た
直
後
潮
江
の
新
校
舎
で
、
授
業
を
開
始
す
る
運
び
と
な
つ
た
の
が
大
正
十
一
年
校
記
念
九
五
大
方
針
の
實
行
(
開
校
記
念
碑
写
真
)
土
佐
中
學
開
土佐中學開校記念碑
—
90
90
—
碑
朱
の
利
子
で
預
つ
て
く
れ
た
か
ら
、
學
校
の
財
政
は
相
變
ら
ず
裕
福
で
あ
つ
た
。
ら
、
三
根
校
長
を
は
じ
め
、
學
校
當
事
者
は
益
々
翁
の
志
に
感
激
し
た
。
そ
し
て
高
陽
銀
行
が
四
國
銀
行
に
合
併
し
て
か
ら
後
も
、
特
に
七
學
校
の
經
常
費
は
年
額
三
萬
圓
以
上
を
要
す
る
計
算
と
な
つ
て
ゐ
る
が
、
翁
の
計
ら
ひ
で
四
萬
五
千
圓
の
利
子
が
生
れ
る
膳
立
と
な
つ
た
か
大
正
十
二
年
一
月
松大
村町
翠桂
濤月
書撰
に
報
ず
る
は
君
國
の
恩
に
報
ず
る
也
亦
恩
を
知
ら
ざ
ら
む
や
體
を
鍛
へ
心
を
錬
り
徳
器
を
高
く
し
智
能
を
大
に
し
て
國
家
に
盡
す
は
二
氏
の
恩
に
報
ず
る
也
二
氏
の
恩
落
成
式
を
擧
ぐ
茲
に
在
校
生
の
父
兄
相
圖
り
碑
を
建
て
ゝ
二
氏
の
功
を
傳
へ
む
と
す
善
い
哉
舉
や
父
兄
既
に
恩
を
知
る
子
弟
る
所
あ
り
巨
財
を
投
じ
て
土
佐
中
學
校
を
創
立
大
正
九
年
四
月
よ
り
假
校
舎
に
て
授
業
を
始
め
大
正
十
一
年
十
一
月
十
八
日
本
校
舎
の
向
上
心
盛
な
り
し
に
因
ら
ず
ん
ば
あ
ら
ず
爾
來
敎
育
振
は
ず
人
材
漸
く
凋
落
せ
む
と
す
川
崎
幾
三
郎
宇
田
友
四
郎
二
氏
大
に
慨
す
—
家
衰
ふ
維
新
の
際
薩
長
土
と
並
稱
せ
ら
れ
て
土
佐
よ
り
人
材
多
く
輩
出
し
た
り
し
は
文
に
武
に
父
兄
の
敎
育
氣
分
盛
に
し
て
子
弟
の
91 —
91
筆
山
の
麓
鏡
川
の
畔
校
舎
巍
々
と
し
て
咿い
晤ご
の
聲
雲
に
響
く
是
土
佐
中
學
校
に
非
ず
や
敎
育
振
へ
ば
國
家
榮
え
敎
育
振
は
ざ
れ
ば
國
開
校
記
念
碑
文
の
五
大
方
針
が
着
々
實
行
さ
れ
始
め
た
の
で
あ
る
一
、
運
動
を
奬
勵
し
、
養
護
上
の
注
意
を
怠
ら
ず
、
以
て
體
位
の
向
上
を
計
る
こ
と
一
、
責
任
を
重
ん
じ
、
好
ん
で
勞
に
就
く
習
慣
を
養
ふ
こ
と
一
、
堅
忍
剛
毅
の
性
格
、
健
實
な
る
思
想
を
養
成
す
る
こ
と
一
、
天
賦
の
能
力
を
發
揮
し
、
自
發
的
修
養
に
努
め
し
む
る
こ
と
の
岸
駒
と
、
大
雅
堂
と
の
六
曲
一
双
の
屏
風
を
翁
に
贈
つ
た
の
で
あ
つ
た
。
人
だ
け
あ
る
と
、
出
入
り
の
親
族
や
眤
懇
者
間
の
話
題
と
な
つ
た
。
北
川
氏
も
餘
程
そ
の
好
意
を
感
銘
し
た
も
の
と
見
え
、
遺
命
し
て
家
寳
つ
と
め
る
事
が
出
來
た
。
這こ
の
間
に
於
け
る
翁
の
心
盡
し
は
、
好
個
の
敎
育
道
話
で
あ
り
遉さす
が
に
私
財
を
投
じ
て
一
個
の
中
學
校
を
建
て
た
切
な
言
葉
を
寄
せ
た
の
で
、
北
川
氏
は
深
く
そ
の
友
情
を
感
謝
し
、
間
も
な
く
此
處
に
移
り
、
何
ん
の
氣
兼
も
な
く
寛
い
で
、
悠
々
療
養
に
た
が
容
易
に
見
つ
か
ら
ぬ
。
こ
の
事
を
傳
へ
聞
い
た
翁
は
「
俺
の
別
邸
で
よ
け
れ
ば
何
時
で
も
用
立
て
る
、
遠
慮
は
い
ら
ぬ
」
と
、
度
々
親
92
—
92
と
す
る
と
「
有
り
が
た
う
、
そ
れ
に
は
及
ば
ぬ
」
と
ニ
ツ
コ
リ
笑
つ
た
。
そ
し
て
一
先
づ
親
戚
の
家
に
落
ち
つ
き
、
適
當
な
貸
家
を
物
色
し
—
迎
え
た
が
、
蒼
白
の
顔
色
に
、
い
た
〳
〵
し
き
寠やつ
れ
を
見
せ
て
、
船
橋
を
降
る
に
も
危
氣
を
感
じ
た
の
で
、
翁
は
寄
り
添
ふ
て
手
を
貸
さ
う
東
京
に
在
り
て
病
を
得
、
大
正
十
二
年
十
一
月
下
旬
、
高
知
に
於
て
靜
養
す
べ
く
歸
省
し
た
。
友
情
に
厚
き
翁
は
、
心
配
し
つ
ゝ
棧
橋
に
出
と
土
佐
中
學
校
と
の
關
係
は
、
理
事
長
の
役
目
そ
の
も
の
が
一
切
を
説
明
し
て
を
る
。
同
三
十
日
全
校
悼
惜
し
て
靈
柩
を
送
つ
た
。
同
氏
は
大
正
十
三
年
四
月
二
十
七
日
、
理
事
長
北
川
信
從
氏
が
逝
去
さ
れ
た
。
病
名
は
胃
癌
で
あ
り
、
翁
の
別
邸
に
於
て
逝
去
さ
れ
た
。
北
川
氏
一
〇
北
川
理
事
長
の
訃
け
な
く
な
つ
た
の
は
可
笑
し
い
。
も
近
年
神
經
痛
で
醫
師
か
ら
は
、
酒
は
毒
だ
と
制
せ
ら
れ
、
一
年
も
止
め
て
を
る
間
に
、
全
く
量
が
な
く
な
り
、
北
川
よ
り
も
一
層
い
も
い
け
ぬ
樣
に
な
つ
た
」
と
言
つ
て
、
五
六
杯
も
傾
け
る
と
、
眞
ッ
赤
な
顔
を
す
る
の
が
不
思
議
で
な
ら
な
か
つ
た
。
と
こ
ろ
が
自
分
我
々
み
ん
な
同
年
で
、
そ
の
頃
は
未
だ
大
分
飮
め
て
ゐ
た
の
で
あ
る
。
所
が
晩
年
の
北
川
は
自
分
よ
り
も
早
く
酒
と
遠
ざ
か
り
「
一
寸
長
ら
く
や
つ
て
ゐ
た
長
崎
市
長
を
辭
め
て
高
知
へ
歸
り
、
本
町
に
僑
居
し
て
ゐ
た
頃
に
は
、
死
ん
だ
藤
崎
(
朋
之
)
も
元
氣
だ
つ
た
し
、
く
る
め
て
も
甚
だ
短
か
い
。
法
官
時
代
か
ら
、
ず
つ
と
相
識
つ
て
居
る
の
だ
が
、
多
く
は
縣
外
で
の
交
際
で
あ
り
、
土
佐
に
歸
つ
て
居
た
前
後
二
三
回
の
期
間
は
引
つ
の
辭
を
掲
げ
る
。
北
川
と
呼
び
切
り
に
す
る
の
が
、
土
佐
流
で
親
し
み
深
く
も
あ
る
や
う
だ
。
北
川
と
は
隨
分
久
し
い
交
際
で
、
大
阪
廣
島
あ
た
り
の
司
93
—
93
—
な
人
達
で
あ
る
。
こ
ゝ
に
偶
々
翁
の
眞
骨
頭
が
浮
き
彫
り
に
せ
ら
れ
て
ゐ
る
の
で
は
な
か
ら
う
か
。
左
に
翁
の
北
川
信
從
氏
に
對
す
る
追
悼
で
、
孰
れ
も
人
格
高
潔
、
一
識
見
を
具
へ
た
非
凡
人
た
る
點
に
於
て
一
致
し
て
を
り
、
亦
た
四
氏
共
に
申
し
合
せ
た
や
う
に
、
名
利
に
淡
泊
近
森
虎
治
、
藤
崎
朋
之
、
北
川
信
從
、
田
岡
典
章
の
四
氏
「
友
を
見
て
其
の
人
を
識
る
」
と
云
ふ
聖
人
の
言
が
あ
る
。
宇
田
翁
の
至
誠
相
許
し
た
友
は
一
一
北
川
氏
と
翁
な
ど
で
評
判
の
よ
ろ
し
か
つ
た
の
も
偶
然
で
は
な
い
。
と
、
已
の
思
ふ
と
こ
ろ
を
吐
露
し
て
、
恐
れ
憚
る
處
が
な
か
つ
た
が
、
そ
れ
が
至
つ
て
公
平
な
も
の
だ
か
ら
、
長
崎
や
栃
木
、
新
潟
而
し
て
眞
實
の
事
を
言
つ
て
ゐ
た
の
で
あ
る
。
そ
ん
な
調
子
で
、
北
川
は
正
直
、
洒
落
、
而
し
て
先
輩
知
友
い
づ
れ
の
前
で
あ
ら
う
「
こ
れ
で
俺
も
賣
り
食
ひ
に
し
て
も
、
何
う
や
ら
死
ぬ
頃
ま
で
は
食
ひ
つ
な
げ
さ
う
ぢ
や
か
ら
安
心
し
た
」
な
ど
ゝ
戯
れ
ら
し
い
、
評
價
さ
れ
る
や
う
に
な
つ
た
。
淡
泊
で
胸
中
を
さ
ら
け
出
す
北
川
は
、
た
の
で
、
程
な
く
好
況
時
代
に
遭
遇
す
る
と
、
其
の
邸
宅
も
相
當
高
く
や
、
何
か
で
買
つ
た
や
う
に
聞
い
て
ゐ
る
。
當
時
物
價
が
何
分
安
か
つ
ん
て
も
の
は
無
か
つ
た
事
と
思
ふ
が
、
長
崎
市
か
ら
贈
ら
れ
た
慰
勞
金
け
の
金
は
き
れ
い
に
使
つ
て
し
ま
つ
て
、
殆
ん
ど
ま
と
ま
つ
た
貯
蓄
な
ぬ
前
の
暮
近
く
ま
で
自
適
し
て
ゐ
た
が
、
北
川
の
事
だ
か
ら
、
要
る
だ
從
氏
(
北
川
信
從
氏
写
真
)
北
川
信
北川信從氏
94
—
94
—
知
事
を
や
め
て
、
東
京
三
田
小
山
町
に
頃
合
な
邸
宅
を
買
入
れ
、
死
と
云
ふ
風
で
、
洵まこと
に
足
る
事
を
知
る
風
の
男
で
あ
つ
た
。
見
や
う
な
ど
云
ふ
心
は
微
塵
も
な
く
、
死
ぬ
ま
で
困
ら
ず
、
人
の
助
力
を
借
ら
ぬ
樣
に
う
ま
く
暮
し
て
行
け
ば
、
結
構
此
の
上
な
し
そ
れ
は
偖さ
て
措
き
、
北
川
と
云
ふ
男
は
、
若
い
頃
か
ら
實
に
無
慾
恬
淡
な
質
で
、
一
番
金
儲
け
で
も
し
て
、
豪
奢
な
眞
似
を
し
て
而
し
て
、
北
川
が
一
面
非
常
に
親
切
で
、
他
界
す
る
ま
で
に
面
倒
を
見
て
や
り
、
世
話
を
し
た
人
は
隨
分
多
く
、
窮
し
て
ゐ
る
者
を
見
て
大
に
徳
と
し
て
長
く
交
際
を
續
け
、
忠
言
に
よ
り
助
け
を
か
り
た
い
と
念
じ
て
ゐ
た
の
に
、
天
命
は
ま
こ
と
に
是
非
も
な
い
こ
と
だ
。
あ
ら
う
が
、
誰
れ
で
あ
ら
う
が
「
お
前
の
や
ら
う
と
し
て
ゐ
る
事
は
、
あ
れ
は
い
か
ん
よ
」
な
ど
ゝ
直
言
し
て
憚
か
ら
ぬ
所
、
我
々
は
仙
石
氏
な
ど
、
最
も
よ
く
北
川
の
人
物
を
理
解
し
て
ゐ
る
人
で
「
北
川
の
や
う
な
男
は
土
佐
に
は
な
い
」
と
惚
れ
込
ん
で
ゐ
た
。
友
人
で
ン
か
ら
對
手
に
な
ら
ず
、
而
し
て
各
政
派
の
政
策
な
ど
に
就
い
て
は
、
時
々
例
の
調
子
で
、
忌
憚
な
き
批
評
を
下
し
て
ゐ
た
。
の
で
あ
る
。
だ
か
ら
遊
ん
で
を
る
う
ち
「
代
議
士
で
も
や
つ
て
見
て
は
」
と
勸
め
る
も
の
が
あ
つ
て
も
「
俺
は
黨
人
ぢ
や
な
い
」
と
テ
て
政
黨
人
と
し
て
動
く
男
で
な
く
、
牧
民
官
と
し
て
も
、
實
に
公
平
無
私
で
功
績
を
擧
げ
、
そ
れ
で
こ
そ
素
睛
ら
し
い
人
気
が
寄
つ
た
丁
度
、
大
隈
内
閣
の
下
に
、
知
事
と
な
つ
た
も
の
だ
か
ら
、
北
川
を
憲
政
會
系
統
の
如
く
見
る
者
が
多
分
に
あ
る
が
、
北
川
は
決
し
95
—
95
—
た
。
ツ
張
り
凧
、
結
局
兩
引
と
な
つ
て
、
栃
木
へ
行
く
事
に
な
つ
た
が
、
次
い
で
新
潟
へ
轉
じ
、
前
後
三
年
餘
り
し
て
勇
退
し
た
の
で
あ
つ
我
々
が
是
非
高
知
へ
連
れ
て
來
や
う
と
東
京
へ
出
向
い
て
見
る
と
「
實
は
和
歌
山
の
方
か
ら
も
迎
え
が
來
て
を
る
」
と
言
ふ
風
で
、
引
も
惡
く
も
な
い
」
と
言
つ
た
調
子
で
、
大
石
正
巳
氏
か
ら
大
浦
内
相
に
談
じ
込
み
、
い
よ
〳
〵
起
用
さ
れ
る
こ
と
に
な
つ
た
の
だ
が
、
い
、
何
か
や
れ
、
知
事
な
ら
何
う
ぢ
や
」
と
勸
説
し
た
時
「
外
の
事
は
、
も
う
飽
き
〳
〵
し
た
が
知
事
な
ら
も
う
一
度
つ
と
め
に
出
て
長
崎
か
ら
歸
つ
て
、
高
知
で
遊
ん
で
ゐ
た
時
分
、
丁
度
大
隈
内
閣
が
出
来
た
。
知
友
が
「
北
川
お
主
も
未
だ
遊
ん
で
ゐ
る
の
は
惜
し
に
封
し
て
、
報
恩
を
勸
奨
し
た
。
向
陽
會
が
こ
の
美
徳
の
昂
揚
に
力
め
た
の
は
、
全
く
翁
の
精
神
に
副
は
ん
こ
と
を
期
し
て
の
事
で
あ
る
。
多
年
の
恩
義
を
謝
し
、
併
せ
て
報
恩
の
實
を
行
爲
の
上
に
現
は
し
、
遺
族
達
を
し
て
感
激
せ
し
め
た
と
の
美
談
が
傳
へ
ら
れ
た
。
翁
は
後
進
崎
氏
の
永
眠
せ
ら
る
ゝ
や
、
翁
は
恭
々
し
て
其
の
柩
前
に
ぬ
か
づ
き
、
宛
か
も
生
け
る
川
崎
氏
に
對
す
る
と
同
様
の
、
言
語
動
作
を
以
て
、
の
一
項
が
あ
る
。
報
恩
は
宇
田
翁
の
最
も
強
調
す
る
實
踐
倫
理
で
、
翁
は
常
に
身
を
以
て
そ
の
範
を
示
さ
れ
て
を
る
。
一
例
を
擧
ぐ
れ
は
川
毎
年
一
回
、
一
同
、
創
立
者
故
川
崎
幾
三
郎
氏
の
墓
を
弔
ひ
、
報
恩
の
念
を
堅
め
し
む
—
96
96
大
正
十
三
年
五
月
、
上
級
生
が
主
體
と
な
り
、
向
陽
會
と
稱
す
る
自
治
修
養
會
が
設
け
ら
れ
、
そ
の
實
踐
躬
行
の
決
議
事
項
中
に
—
一
二
向
陽
會
の
生
誕
氏
の
靈
に
し
て
知
る
あ
ら
ば
、
知
己
の
言
と
し
て
、
か
な
ら
ず
滿
足
し
て
ゐ
る
で
あ
ら
う
。
勿
論
右
は
、
土
佐
中
學
校
理
事
長
と
し
て
の
北
川
氏
を
悼
ん
だ
言
葉
で
は
な
い
け
れ
ど
も
、
こ
ゝ
に
掲
げ
て
不
都
合
は
あ
る
ま
い
。
北
川
は
、
有
り
無
し
の
身
銭
を
投
げ
出
し
て
ま
で
も
、
救
つ
て
や
つ
た
り
し
た
も
の
だ
が
、
こ
ゝ
に
は
只
追
憶
感
想
の
一
端
を
記
す
に
止
め
る
。
聞
け
ば
、
校
長
は
大
分
借
金
が
嵩
み
、
利
子
だ
け
で
も
相
當
要
る
ら
し
い
。
餘
程
困
つ
て
を
ら
る
ゝ
さ
う
で
、
洵
に
氣
の
毒
に
思
向
い
た
と
こ
ろ
つ
た
。
同
校
長
が
就
任
後
四
五
年
を
經
た
頃
だ
つ
た
。
或
日
翁
か
ら
理
事
の
川
島
氏
に
電
話
が
掛
り
、
會
ひ
た
い
と
の
事
だ
か
ら
、
早
速
出
数
多
き
美
徳
中
、
思
ひ
遣
り
が
深
く
、
且
つ
周
到
な
る
こ
と
が
、
偶
々
校
長
三
根
氏
の
清
貧
と
關
聯
し
て
、
う
ら
ゝ
か
な
話
題
の
種
と
な
優
秀
で
、
身
長
、
體
重
、
胸
圍
揃
っ
て
抜
群
の
數
字
を
示
し
て
を
り
、
こ
れ
が
斯
の
校
の
最
も
大
な
る
誇
と
な
つ
た
。
一
四
徹
底
せ
る
同
情
心
—
97
97
—
と
い
ふ
體
育
方
針
に
は
大
賛
成
で
あ
つ
た
。
こ
の
體
育
奬
勵
の
結
果
、
土
佐
中
は
全
國
及
縣
下
中
學
校
に
比
し
、
身
體
檢
査
の
成
績
は
斷
然
運
動
の
際
は
裸
體
を
奬
勵
し
、
九
月
初
め
黒
ン
坊
會
に
て
其
の
等
級
を
表
彰
す
か
つ
た
。
翁
は
體
育
の
奬
勵
者
で
土
佐
中
は
、
英
才
敎
育
を
主
眼
と
し
、
上
級
學
校
の
豫
備
門
た
る
觀
が
あ
る
の
で
、
動
も
す
れ
ば
世
間
か
ら
智
育
偏
重
の
誤
解
を
受
け
易
一
三
土
佐
中
の
誇
り
と
あ
る
。
こ
の
片
言
隻
語
に
瞭
か
な
る
如
く
、
土
佐
中
學
校
の
理
想
は
、
大
人
物
を
養
成
し
、
そ
の
活
動
に
よ
っ
て
維
新
前
後
の
華
か
な
る
と
の
希
望
で
あ
つ
た
。
此
の
一
言
は
余
を
し
て
、
責
任
の
大
な
る
を
痛
感
せ
し
め
た
云
々
そ
れ
で
敎
育
の
し
や
う
に
よ
つ
て
は
、
先
人
に
劣
ら
ぬ
偉
人
を
輩
出
せ
し
め
る
事
が
出
來
る
と
思
ふ
か
ら
、
し
つ
か
り
や
つ
て
貰
ひ
た
い
」
北
川
信
從
氏
は
、
學
校
創
立
の
際
、
余
に
向
っ
て
曰
ふ
樣
「
土
佐
は
不
思
議
に
も
、
古
來
天
才
、
奇
才
を
出
す
こ
と
少
く
な
い
と
思
ふ
、
三
根
校
長
の
述
懐
に
千
五
百
圓
を
學
校
の
會
計
に
返
し
た
。
翁
の
周
到
な
る
用
意
と
、
そ
の
徹
底
せ
る
同
情
振
り
が
茲
に
も
露
は
れ
て
ゐ
る
。
一
五
高
遠
の
理
想
—
98
98
—
逝
去
せ
ら
る
ゝ
や
、
翁
は
見
舞
金
と
し
て
一
万
五
千
五
百
圓
を
贈
呈
し
、
遺
族
の
者
を
感
激
せ
し
め
た
。
遺
族
は
此
の
金
の
中
か
ら
五
し
て
を
る
事
情
が
判
明
し
た
か
ら
、
氏
は
翁
の
意
志
を
體
し
、
資
金
の
中
か
ら
其
の
金
を
用
立
て
た
。
昭
和
十
年
三
月
に
三
根
校
長
が
と
の
話
で
あ
つ
た
。
そ
こ
で
川
島
理
事
が
三
根
氏
に
就
い
て
訊
い
た
と
こ
ろ
、
借
金
の
額
は
五
千
五
百
圓
、
そ
れ
が
皆
な
高
利
で
難
儀
し
て
貰
ひ
た
い
ふ
。
學
校
の
資
金
の
中
か
ら
融
通
し
、
薄
利
で
始
末
方
を
す
る
方
が
、
校
長
も
う
る
さ
う
の
う
て
可
か
ら
う
か
ら
、
此
の
件
を
心
配
著
者
兼
發
行
人
宇
田
翁
常 代 傳
務 表 記
委 者 刊
員
行
會
下 川 下
元 島 元
鹿 正 鹿
之 件 之
助
助
—
99
—
99
高
知
市
本
町
八
十
番
地
土
佐
電
氣
株
式
會
社
内
昭
和
十
四
年
九
月
三
十
日
發
行
翁
の
本
縣
敎
育
上
に
印
せ
る
其
の
足
跡
と
、
そ
の
功
績
を
仔
細
に
檢
討
し
、
翁
の
高
遠
な
る
理
想
を
篤
と
認
識
す
べ
き
で
あ
ら
う
。
佐
中
は
、
確
か
に
人
材
輩
出
の
登
龍
門
た
る
實
を
擧
げ
、
上
級
學
校
入
學
の
成
績
は
文
字
通
り
百
パ
ー
セ
ン
ト
で
あ
つ
た
。
縣
官
民
諸
賢
は
土
佐
に
復
活
せ
し
む
る
と
云
ふ
の
で
あ
つ
て
、
翁
の
高
遠
な
る
意
見
が
亦
た
こ
の
中
に
織
り
込
ま
れ
て
を
る
。
で
あ
る
か
ら
創
業
時
代
の
土