朋 之 氏 で あ つ た 。 翁 と 藤 崎 氏 と は 爾じじ 汝ょ の 間 柄 で 、 平 素 翁 の 〝 財 〟 に 対 す る 観 念 を 能 く 理 解 せ る 氏 は 、 「 富 ん で 之 れ を 樂 富 屋 を 潤 し た 連 中 で あ る 。 こ の 黄 金 風 景 を 眺 め て 、 そ の 富 の 一 部 を 世 の 爲 に 割 愛 さ し た い と 思 案 し た の が 、 名 市 長 藤 崎 か ら ず で は な い か と も 思 は れ る 。 白 洋 汽 船 で 大 い に 儲 か つ た の は 、 翁 一 人 で な く 、 川 崎 幾いく 三さぶ 郎ろう 氏 並 に 他 の 株 主 は 、 皆 な ら 有 は 生 じ な い か ら 、 商 業 敎 育 の 胚 芽 が 、 他 の 勸 説 を 受 け て 、 英 才 敎 育 の 嫩 わか 葉ば に 変 じ た と の 観 測 は 、 當 ら ず と 雖 も 、 遠 い て ゐ た と い ふ 事 が 事 實 と す る な ら ば 、 後 進 子 弟 の 敎 育 に は 、 決 し て 無 關 心 で な か つ た と い ふ 斷 定 を 生 む 譯 だ が 、 無 か 校 設 立 の 胚 芽 が あ つ た か 什ど 麼 う か 。 横 山 又 吉 氏 が 市 商 を 隠 退 し た 時 、 同 氏 を 校 長 と す る 簡 易 商 業 學 校 設 立 の 意 思 が 、 動 田 翁 は 、 そ の 富 を 如 何 に 利 用 す べ き か に 就 い て 、 い ろ 〳 〵 考 へ た で あ ろ う 事 を 推 察 す る 、 そ の 中 に 於 て 翁 の 腦 底 に 、 學 — 富 を 利 用 す る こ と の 難 き は 、 富 を 獲 得 す る こ と の 難 き よ り も 難 し 矣 。 白 洋 汽 船 に よ っ て 、 數 百 萬 圓 の 巨 富 を 致 し た 宇 81 81 — 一 そ の 出 發 点 土 佐 中 學 校 の 設 立 【 原 文 編 】 五 『 宇 田 友 四 郎 翁 』 よ り と も し ろ う り の 膳 立 が 出 來 た 。 こ れ が そ 抑もそ も 土 佐 中 學 校 創 立 の 發 端 で あ る 。 結 論 に 到 達 し た の で 、 早 速 こ の 三 人 會 に お い て 豫 算 私 案 を 作 り 第 一 案 百 萬 圓 、 第 二 案 八 十 萬 圓 、 第 三 案 六 十 萬 圓 と 三 通 の だ か ら 右 の 三 人 會 は 屢しば 々しば 相 集 り 、 屢る 々る 協 議 を 重 ね た 結 果 、 英 才 教 育 の た め に 資 金 を 出 さ す る の が 、 最 も 有 意 義 だ と の る と こ ろ で あ る と 同 時 に 、 天 下 の 英 才 を 得 て 之 れ を 養 成 す る の 樂 し み も 、 話 せ ば 解 か る 人 た る こ と を 頭 に 置 い て ゐ た も あ る 事 を 藤 崎 氏 は 知 つ て ゐ た 。 そ し て 宇 田 翁 が 君 子 三 樂 の 一 た る 「 心 に 恥 づ る 所 無 き 」 人 物 た る こ と は 、つ 夙と に そ の 認 む — 82 82 を 備 へ た 人 物 で あ り 、 そ の 意 見 が 期 せ ず し て 、 合 致 す る も の ゝ 思 を 體 し て の 會 合 と な つ た 。 三 氏 は 孰 れ も 敎 育 に 一 家 の 見 識 川 島 氏 及 び 視 學 西 山 庸 平 、 市 會 議 員 池 本 浩 靜 三 氏 が 、 市 長 の 意 に 金 を 出 さ し て お き た い と 云 ふ の で あ り 、 そ れ が 發 端 と な つ て 、 川 島 正 件 氏 に そ の 話 を し た 。 話 の 要 點 は 、 こ の 際 翁 と 川 崎 氏 と 如 し 」 と の 金 言 を 親 友 の 爲 め に 活 か し た い と 考 え 、 或 日 助 役 之 氏 ( 藤 崎 朋 之 氏 写 真 ) 藤 — 崎 朋 藤崎朋之氏 し く 使 用 せ ざ る 人 は 猶 ほ 黄 金 を 運 ぶ 驢ろ 馬ば の 薊あざ み を 食 ふ が そ れ が 物 に な る か と 云 つ た 調 子 で 、 中 々 御 輿 を 上 げ や う と せ ぬ 。 い よ 〳 〵 ア マ ノ ジ ヤ コ ぞ と 云 ふ の で 、 三 人 は 必 死 と な ア マ ノ ジ ヤ コ を 床 の 置 物 に す る 北 川 氏 は 、 容 易 に 他 人 の 言 を そ の 儘 受 け 納 る ゝ 人 で な い 、 三 人 か ら 數 回 手 紙 を 出 し て も 、 人 は 、 高 根 の 花 に 手 の 屆 い た や う な 歡 び に 浸 り つ ゝ 、 早 速 豫 定 の コ ー ス を 踏 ん で 、 在 京 の 北 川 氏 へ そ れ を 持 ち 込 ん だ 。 翁 は 言 下 に 、 そ し て 快かい 濶かつ に 「 出 し て も よ い 」 と 共 感 の 意 思 を 表 明 し 、 一 行 を 滿 足 せ し め た の で あ つ た 。 是 に 於 て 三 發 起 常 な 御 成 功 の 御 様 子 に 承 は り ま す る が 、 何 か 一 つ 縣 の た め に 金 を 出 さ れ て は 如 何 で す か 」 と の 伏 線 網 を 敷 い た と こ ろ 、 誠 相 許 す 間 柄 で あ つ た 。 此 の 如 き 好 緣 の 蔓つる を 握 つ て を る 發 起 人 組 は 、 一 日 相 伴 ふ て 金 的 を 射 と め る べ く 宇 田 翁 を 訪 ひ 「 非 で 「 北 川 ! 宇 田 ! 」 と 互 に 呼 び 切 り に す る 親 し さ で あ つ た 。 そ し て 北 川 氏 と 藤 崎 氏 と は 極 め て 如 才 の 無 い 肝 瞻 相 照 、 至 — で ゐ た 。 北 川 氏 と 翁 と の 交 際 は 隨 分 ふ る く 、 大 阪 、 廣 島 あ た り の 司 法 官 時 代 か ら 、 ず つ と 相 識 つ て ゐ た 本 統 の 友 人 關 係 83 83 — に 選 ば れ て 就 職 、 後 ち 栃 木 、 新 潟 の 知 事 に 任 ぜ ら れ 、 官 界 を 退 い て か ら は 、 東 京 芝 區 三 田 小 山 町 に 悠 々 閑 日 月 を 樂 し ん り 翁 に 切 り 出 し て も ら ふ 段 取 り で あ つ た 。 北 川 氏 は 司 法 官 畑 の 人 で 、 長 崎 地 方 裁 判 所 檢 事 正 を 辭 め る と 、 直 ぐ 長 崎 市 長 手 を 携 え て 宇 田 翁 に 會 ひ 、 打 診 の 結 果 、 有 望 の 見 込 が 附 い た な ら ば 、 之 れ を 在 京 の 先 輩 北 川 信のぶ 從より 氏 に 持 ち 込 み 、 同 氏 よ 三 人 會 で 、 三 段 構 へ の 豫 算 が 出 來 た と は 云 へ 、 未 だ 肝 腎 の 本 人 に は 會 つ て ゐ な い 。け 盖だ し 三 人 會 の 腹 案 は 、 先 づ 三 人 が 二 翁 が 生 み の 親 い 。 業 は 斷 じ て 成 立 し な い 筈 の も の だ 。 事 實 は 最 善 の 雄 辯 で あ る 。 土 佐 中 學 校 の 生 み の 親 が 、 翁 で あ る こ と は 多 言 を 要 し な 過 の 證 明 す る 如 く 、 藤 崎 名 市 長 の 發 意 あ り 、 北 川 信 從 氏 の 斡 旋 あ り と 雖 も 、 相 手 方 が 宇 田 翁 で な か つ た な ら ば 、 こ の 事 間 に 話 は ス ラ 〳 〵 と 進 行 し 、 「 川 崎 、 宇 田 財 團 法 人 寄 附 行 爲 」 の 決 定 と な り 、 大 正 九 年 二 月 を 以 て 許 可 さ れ た 。 こ の 經 時 の 翁 の 共 鳴 振 り は 、 素 睛 ら し い も の で 、 百 萬 圓 眼 中 に 無 し の 概おも む き が あ つ た 。 だ か ら 北 川 氏 が 乘 り 込 ん で 、 二 三 時 間 の せ し め た も の と 思 は れ る 。 川 崎 氏 を 誘 ふ た の は 、 寄 附 行 爲 を 折 半 と 云 ふ や う な 思 惑 か ら で は 決 し て な か つ た 。 實 際 そ の 己 を 永 遠 に 生 か す 所ゆえ 以ん と な る 、 だ か ら 宇 田 一 人 の 事 業 と せ ず 、 二 人 共 同 の 事 業 に す る と 云 ふ 趣 旨 を 以 て 、 川 崎 氏 を 同 意 — 84 84 を 共 に し て を る 盟 友 川 崎 氏 の 身 の 上 を も 考 へ た 。 そ し て 子 孫 の 無 い 川 崎 氏 は こ の 敎 育 事 業 へ 金 を 出 し て お く こ と が 、 自 — で も 投 げ 出 し 兼 ね ま じ き 勢 い で あ つ た 。 け れ ど も 謙 虚 に し て 、 義 理 と 人 情 と に 重 き を 置 く 翁 は 、 事 業 を 共 に し 、 儲 か り 材 養 成 に は 双 手 を 擧 げ て 賛 成 し た 。 然 か も そ の 賛 成 が 、 我 が 意 を 得 た り と 云 ふ 喜 色 滿 面 の 賛 成 振 り で 、 翁 一 人 で 百 萬 圓 し た 。 そ の 程 度 な ら 應 ぜ ぬ こ と は あ る ま い と て 、 北 川 氏 か ら 更 に 宇 田 翁 に 持 出 し た 。 翁 は 藤 崎 市 長 の 見 抜 い た 通 り 、 人 ア マ ノ ジ ヤ コ の 本 領 を む き 出 し て 逆 襲 せ ら る ゝ 危 機 を 豫 感 し た の で 、 豫 算 額 を 最 小 限 度 の 六 十 萬 圓 と し て 北 川 氏 に 持 出 が 公 園 花 月 亭 に 於 て 行 は れ た 。 そ の 時 發 起 人 側 の 第 一 印 象 は 、 う か と 百 萬 圓 だ の 、 八 十 萬 圓 だ の と 言 つ た ら 、 そ の 場 で り 、 こ の 通 り 手 形 を 取 つ て を る か ら と て 、 最 後 の 手 紙 を 示 し 、 や つ と 來 縣 し て も ら ひ 北 川 氏 と 發 起 人 側 と 第 一 回 の 會 見 設 す る 中 學 校 を 設 立 す る こ と を 協 定 せ り 。 そ の 資 金 六 十 萬 圓 を 提 供 し 、 十 萬 圓 を 設 備 費 と し 五 十 萬 圓 を 基 本 金 と す る 財 團 法 人 と し て 之 れ を 管 理 し 、 豫 科 を 附 遍 的 に 兩 氏 の 素 志 を 貫 徹 す る は 、 敎 育 事 業 に 如 く は な し と 斷 じ 、 之 れ を 兩 氏 に 通 ぜ し が 、 兩 氏 亦 た 大 に 之 れ を 賛 し 、 正 七 、 八 年 の 交 、 豫かね て 昵 懇 な る 北 川 信 從 氏 に 、 そ の 事 案 の 選 擇 を 委 囑 せ り 、 爾 来 北 川 氏 は 審 思 熟 慮 、 永 久 に 且 つ 普 故 川 崎 幾 三 郎 及 び 宇 田 友 四 郎 の 兩 氏 は 、つ 夙と に 縣 下 の 爲 に 私 財 を 投 じ て 公 共 的 事 業 を 經 營 せ ん と す る の 意 あ り 、 大 有 つ て を る こ と を 知 ら ね ば な ら ぬ 。 同 校 の 「 沿 革 概 要 」 中 に 人 士 の 輩 出 を 期 す る 事 」 の 二 つ が 其 の 最 大 眼 目 と な つ て を る 譯 で 、 此 處 に 他 の 中 等 學 校 と 大 に 趣 を 異 に す る 、 特 色 を と あ る 通 り 、 縣 下 の 秀 才 を 一 堂 に 集 め て 「 高 等 敎 育 を 受 く る に 十 分 な る 基 礎 敎 育 に 力 を 致 す 事 」 と 「 國 家 の 翹 望 す る 85 — 85 — し 修 業 後 は 進 ん で 上 級 學 校 に 向 ひ 他 日 國 家 の 翹ぎょ う 望ぼう す る 人 士 の 輩 出 を 期 す る も の な り 據 り 、 中 堅 國 民 の 養 成 を 目 的 と す る は 論 を 俟 た ざ れ ど も 亦 た 一 面 高 等 敎 育 を 受 く る に 十 分 な る 基 礎 敎 育 に 力 を 致 本 校 は 大 戦 後 國 運 の 進 展 に 伴 ふ 中 等 學 校 内 容 充 實 の 趣 旨 に 依 り 設 立 せ ら れ た る も の に し て 中 學 校 令 の 示 す 所 に 土 佐 中 學 校 は 、 國 家 有 爲 の 人 材 を 養 成 す る こ と が 其 の 目 的 で 、 設 立 趣 意 書 に 三 所 謂 人 材 教 育 流 石 北 川 の 推 薦 だ 、 萬 事 委 ね る こ と が 出 来 る と 歡 ん だ 。 そ し て 帶 屋 町 に あ る 川 崎 氏 の 控 家 を 假 校 舎 に 充 て 、 同 年 四 月 十 人 を 見 る の 明 あ る 翁 は 、 こ の 良 校 長 を 得 て 、 す つ か り 安 心 し 土 佐 中 學 校 の 校 長 と し て 着 任 し 、 翁 に 自 己 の 抱 負 を 陳 べ た 。 熟 知 し て ゐ た 爲 で あ ら う 。 斯 く て 三 根 氏 は 大 正 九 年 二 月 八 日 、 新 潟 縣 立 中 學 校 長 三 根 圓 次 郎 氏 に 、 白 羽 の 矢 を 立 て 、 宇 田 翁 の 同 育 に 經 驗 の 無 い 西 山 氏 で は 、 何 ん だ か 物 足 り な い か ら と 云 ふ の で 、 次 三 根 圓 次 郎 氏郎 圓 氏 蓋 し 北 川 氏 は 新 潟 縣 知 事 時 代 に 、 三 根 氏 の 人 物 、 識 見 、 手 腕 を 意 を 求 め 、 同 氏 を 招 聘 す る こ と に 決 定 し た 。 長 た ら し め た い 意 見 を 持 つ て ゐ た 。 然 る に 北 川 氏 は 、 中 學 校 の 敎 ( 三 根 圓 次 郎 氏 写 真 ) 三 根 — 86 86 — 量 に 一 任 す ベ き 筋 合 と な つ て 来 た 。 發 起 人 の 川 島 正 件 、 池 本 浩 靜 兩 氏 は 、 英 才 敎 育 の 主 張 者 た る 同 志 西 山 庸 平 氏 を 、 校 土 佐 中 學 校 の 母 體 が 宇 田 翁 で あ り 、 そ の 産 婆 役 が 翁 の 親 友 北 川 信 從 氏 で あ る 關 係 に 於 て 校 長 の 選 擇 は 當 然 北 川 氏 の 裁 四 校 長 の 人 選 如 上 の 記 事 は 、 土 佐 中 の 特 色 と 、 そ の 沿 革 と を 一 層 明 白 な ら し め て を る 。 は 最 も 熱 心 に 創 立 の 仕 事 に 携 は り 、 敷 地 の 選 定 、 購 入 を は じ 六 日 よ り 起 工 、 同 年 八 月 新 築 工 事 に 着 手 し た の で あ る が 、 翁 十 年 二 月 十 五 日 、 埋 立 工 事 開 始 の 爲 め 、 地 鎭 祭 を 行 ひ 、 翌 十 同 地 に 確 定 し 、 敷 地 五 千 二 百 七 十 七 坪 餘 の 購 入 を 了 し 、 大 正 物 色 し た か な れ ど 、 都 合 に よ り 潮 江 に 變 更 し 、 大 正 九 年 十 月 し て 、 學 校 敷 地 の 調 査 中 で あ つ た が 、 最 初 江 ノ 口 に 候 補 地 を 敎 育 者 は 心 か ら の 感 興 を 寄 せ た 。 こ の 際 宇 田 翁 は 他 事 を 放 擲 全 縣 下 の 精 神 界 に 非 常 な る 好 印 象 を 與 へ た 。 就 中 一 市 七 郡 の 中 學 校校 の 全 景の 中土 佐 學 全 景 ( 土 佐 中 學 校 の 全 景 写 真 ) 土 佐 — 87 — 87 土 佐 財 界 の 兩 巨 頭 が 、 私 財 を 投 じ て 中 學 校 を 起 し た こ と は 、 五 創 立 時 の 熱 意 開 校 當 初 の 狀 態 で 、 英 才 敎 育 に 熱 意 を 有 す る 翁 の 面 上 に は 、 人 目 に も 判 る 程 の 嬉 し 味 と 、 緊 張 味 が 溢 れ て ゐ た 。 翌 五 月 六 日 豫 科 入 學 式 を 擧 行 し 、 第 一 學 年 十 名 、 第 二 學 年 十 五 名 に 入 學 を 許 可 し て 豫 科 の 授 業 を 開 始 し た 。 こ れ が 實 は 六 日 、 翁 及 び 川 崎 氏 等 列 席 の 上 、 本 科 入 學 式 を 擧 行 し て 、 生 徒 二 十 八 名 に 入 學 を 許 可 し 、 直 に 授 業 を 開 始 し た の で あ る 。 つ た の で あ る 。 留 目 し た ま で だ 。 出 資 者 が 斯か く 捌 け 、 斯 く 碎 け て ゐ る か ら 、 剛 直 不 屈 の 三 根 校 長 も 感 激 し て 、 全 魂 を 打 ち 込 む 努 力 を 拂 口 は 全 然 別 で 、 金 は 全 額 を 出 し つ 放 し 、 經 費 は 當 事 者 の 決 定 に 一 任 と 云 ふ 、 伸 縮 自 在 の 餘 地 を 與 へ て 、 單た だ そ の 成 績 に の 都 度 金 を 出 す と 云 ふ 方 法 を 執 つ た も の だ か ら 、 校 長 な ど は 窮 屈 を 感 じ 、 不 便 を 感 じ た 。 其 處 に な る と 、 宇 田 翁 の 遣 り あ る 。 他 と 對 照 す る と 此 の 點 が 能 く 分 る が 、 竹 内 明 太 郎 氏 が 私 財 を 提 供 し て 工 業 學 校 を 經 営 す る や 、 必 要 に 應 じ て 、 そ 義 を 執 つ た 。 だ か ら 三 根 校 長 と し て も 、 思 ふ ま ゝ に 自 己 の 意 見 を 行 ふ こ と が 出 来 、 從 っ て 學 校 の 成 績 が 大 に 擧 つ た の で 寧 ろ 行 き 過 ぎ る 程 の 世 話 を 燒 い た 翁 は 、 事 業 の 緒 に 着 く と 共 に 、 一 切 を 當 事 者 に 任 せ 切 り 、 何 事 に も 徹 底 し た 不 干 渉 主 — の 度 量 は 、 土 佐 中 學 校 の 場 合 に も 美 は し く 發 露 さ れ て ゐ る 。 事 業 の 草 創 時 代 に は 細 大 悉こと く 之 れ を 一 身 に 引 き 受 け て 、 88— 88 ご と 翁 の 天 性 か 、 將 た 修 養 自 得 の 結 果 か 、 そ の 孰 れ に も せ よ 、 翁 が 當 事 者 に 全 幅 の 信 頼 を 拂 ひ 自 由 を 與 へ る そ の 誠 心 、 そ 六 捌 け た 出 資 者 事 を 監 督 し 、 他 の 理 事 を し て 、 そ の 眞 劍 味 に 舌 を 捲 か し め た 程 で あ つ た 。 め 、 建 築 の 樣 式 及 び そ の 請 負 に 至 る ま で 、 翁 が 中 心 と な っ て グ ン 〳 〵 進 捗 せ し め た 。 そ し て 建 築 中 も 、 益 々 熟 心 に 諸 工 譯 だ 。 そ こ で 翁 は そ の 六 十 萬 圓 を 、 翁 の 關 係 し て を る 高 陽 銀 行 に 於 て 、 特 に 七 朱 五 厘 の 利 率 で 預 る こ と に し た 。 土 佐 中 總 資 金 八 十 五 萬 圓 に 達 し た の で あ る が 、 内 二 十 五 萬 圓 の 土 地 代 、 建 築 費 を 控 除 し た 正 金 六 十 萬 圓 が 、 基 本 資 金 と な つ た か ら 、 翁 は 遺 族 川 崎 松 子 並 に 川 崎 庄 五 郎 氏 に 獎 め 、 香 奠 料 へ 更 に 二 萬 圓 を 加 へ 、 都 合 十 五 萬 圓 を 出 資 せ し め た 。 仍よ つ て ゝ を 出 し た 。 こ れ で 兩 氏 の 出 資 額 は 七 十 萬 圓 と な つ た 。 そ し て 川 崎 氏 が 逝 去 せ ら れ た 時 、 そ の 香 奠 料 が 十 三 萬 圓 あ つ た 是 よ り 前 、 潮 江 校 舎 の 新 築 工 事 に 着 手 す る や 、 豫 定 の 工 事 費 で は 不 足 を 來 す こ と ゝ な り 、 翁 と 川 崎 氏 が 各 々 五 萬 圓 づ 八 學 校 の 財 政 — 89 — 89 氏 に 對 す る 美 徳 が 窺うか が は れ て を る 。 に 建 設 す る こ と に し た 。 こ ゝ に も 翁 の 川 崎 と し た 川 崎 氏 の 銅 像 を 、 土 佐 中 學 校 の 構 内 土 佐 銀 行 關 係 者 に よ り て 、 醵きょ 金 し 建 設 せ ん で 宇 田 翁 は 北 川 氏 等 と 相 計 り 、 豫 て 當 時 の 川 崎 幾 三 郎 氏 が 腦 溢 血 で 逝 去 さ れ た 。 そ こ 大 正 十 年 十 一 月 九 日 、 北 川 信 從 氏 來 校 、 生 徒 の 爲 め 有 ( 益 川 な 崎 る 氏 の 講 話 銅 を 像 爲 写 し 、 真 職 ) 員 生 徒 一 同 と 記 念 撮 影 を し 川 崎 氏 の 銅 像 た そ の 翌 川崎幾三郎氏の銅像 日 、 七 川 崎 氏 の 銅 像 一 、 個 人 指 導 に 重 き を 置 き 、 敎 授 能 率 の 增 進 を 計 る こ と 備 す る と 共 に し め た 土 佐 中 學 校 の 内 容 外 觀 は 、 翁 の 用 意 と 努 力 に よ つ て 一 切 整 が 、 大 正 十 二 年 で あ つ た 。 是 に 於 て 全 國 中 等 敎 育 界 の 視 聴 を 聳 え 以 て 、 い と も 莊 嚴 に 擧 行 さ れ 、 斯 く て 開 校 記 念 碑 の 建 設 を 見 た の 全 貌 が す つ か り 出 来 上 り 、 季 節 も 恰 度 菊 花 滿 開 の 十 一 月 十 九 日 を さ れ た 。 川 崎 幾 三 郎 氏 の 銅 像 除 幕 式 は 、 翁 の 發 議 に よ り 、 學 校 の で 、 第 二 期 工 事 は 四 月 一 日 に 着 手 さ れ 、 十 月 末 日 に は 早 く も 完 成 の 陽 春 四 月 で あ つ た 。 こ れ は 校 舎 新 築 第 一 期 工 事 の 落 成 し た 直 後 潮 江 の 新 校 舎 で 、 授 業 を 開 始 す る 運 び と な つ た の が 大 正 十 一 年 校 記 念 九 五 大 方 針 の 實 行 ( 開 校 記 念 碑 写 真 ) 土 佐 中 學 開 土佐中學開校記念碑 — 90 90 — 碑 朱 の 利 子 で 預 つ て く れ た か ら 、 學 校 の 財 政 は 相 變 ら ず 裕 福 で あ つ た 。 ら 、 三 根 校 長 を は じ め 、 學 校 當 事 者 は 益 々 翁 の 志 に 感 激 し た 。 そ し て 高 陽 銀 行 が 四 國 銀 行 に 合 併 し て か ら 後 も 、 特 に 七 學 校 の 經 常 費 は 年 額 三 萬 圓 以 上 を 要 す る 計 算 と な つ て ゐ る が 、 翁 の 計 ら ひ で 四 萬 五 千 圓 の 利 子 が 生 れ る 膳 立 と な つ た か 大 正 十 二 年 一 月 松大 村町 翠桂 濤月 書撰 に 報 ず る は 君 國 の 恩 に 報 ず る 也 亦 恩 を 知 ら ざ ら む や 體 を 鍛 へ 心 を 錬 り 徳 器 を 高 く し 智 能 を 大 に し て 國 家 に 盡 す は 二 氏 の 恩 に 報 ず る 也 二 氏 の 恩 落 成 式 を 擧 ぐ 茲 に 在 校 生 の 父 兄 相 圖 り 碑 を 建 て ゝ 二 氏 の 功 を 傳 へ む と す 善 い 哉 舉 や 父 兄 既 に 恩 を 知 る 子 弟 る 所 あ り 巨 財 を 投 じ て 土 佐 中 學 校 を 創 立 大 正 九 年 四 月 よ り 假 校 舎 に て 授 業 を 始 め 大 正 十 一 年 十 一 月 十 八 日 本 校 舎 の 向 上 心 盛 な り し に 因 ら ず ん ば あ ら ず 爾 來 敎 育 振 は ず 人 材 漸 く 凋 落 せ む と す 川 崎 幾 三 郎 宇 田 友 四 郎 二 氏 大 に 慨 す — 家 衰 ふ 維 新 の 際 薩 長 土 と 並 稱 せ ら れ て 土 佐 よ り 人 材 多 く 輩 出 し た り し は 文 に 武 に 父 兄 の 敎 育 氣 分 盛 に し て 子 弟 の 91 — 91 筆 山 の 麓 鏡 川 の 畔 校 舎 巍 々 と し て 咿い 晤ご の 聲 雲 に 響 く 是 土 佐 中 學 校 に 非 ず や 敎 育 振 へ ば 國 家 榮 え 敎 育 振 は ざ れ ば 國 開 校 記 念 碑 文 の 五 大 方 針 が 着 々 實 行 さ れ 始 め た の で あ る 一 、 運 動 を 奬 勵 し 、 養 護 上 の 注 意 を 怠 ら ず 、 以 て 體 位 の 向 上 を 計 る こ と 一 、 責 任 を 重 ん じ 、 好 ん で 勞 に 就 く 習 慣 を 養 ふ こ と 一 、 堅 忍 剛 毅 の 性 格 、 健 實 な る 思 想 を 養 成 す る こ と 一 、 天 賦 の 能 力 を 發 揮 し 、 自 發 的 修 養 に 努 め し む る こ と の 岸 駒 と 、 大 雅 堂 と の 六 曲 一 双 の 屏 風 を 翁 に 贈 つ た の で あ つ た 。 人 だ け あ る と 、 出 入 り の 親 族 や 眤 懇 者 間 の 話 題 と な つ た 。 北 川 氏 も 餘 程 そ の 好 意 を 感 銘 し た も の と 見 え 、 遺 命 し て 家 寳 つ と め る 事 が 出 來 た 。 這こ の 間 に 於 け る 翁 の 心 盡 し は 、 好 個 の 敎 育 道 話 で あ り 遉さす が に 私 財 を 投 じ て 一 個 の 中 學 校 を 建 て た 切 な 言 葉 を 寄 せ た の で 、 北 川 氏 は 深 く そ の 友 情 を 感 謝 し 、 間 も な く 此 處 に 移 り 、 何 ん の 氣 兼 も な く 寛 い で 、 悠 々 療 養 に た が 容 易 に 見 つ か ら ぬ 。 こ の 事 を 傳 へ 聞 い た 翁 は 「 俺 の 別 邸 で よ け れ ば 何 時 で も 用 立 て る 、 遠 慮 は い ら ぬ 」 と 、 度 々 親 92 — 92 と す る と 「 有 り が た う 、 そ れ に は 及 ば ぬ 」 と ニ ツ コ リ 笑 つ た 。 そ し て 一 先 づ 親 戚 の 家 に 落 ち つ き 、 適 當 な 貸 家 を 物 色 し — 迎 え た が 、 蒼 白 の 顔 色 に 、 い た 〳 〵 し き 寠やつ れ を 見 せ て 、 船 橋 を 降 る に も 危 氣 を 感 じ た の で 、 翁 は 寄 り 添 ふ て 手 を 貸 さ う 東 京 に 在 り て 病 を 得 、 大 正 十 二 年 十 一 月 下 旬 、 高 知 に 於 て 靜 養 す べ く 歸 省 し た 。 友 情 に 厚 き 翁 は 、 心 配 し つ ゝ 棧 橋 に 出 と 土 佐 中 學 校 と の 關 係 は 、 理 事 長 の 役 目 そ の も の が 一 切 を 説 明 し て を る 。 同 三 十 日 全 校 悼 惜 し て 靈 柩 を 送 つ た 。 同 氏 は 大 正 十 三 年 四 月 二 十 七 日 、 理 事 長 北 川 信 從 氏 が 逝 去 さ れ た 。 病 名 は 胃 癌 で あ り 、 翁 の 別 邸 に 於 て 逝 去 さ れ た 。 北 川 氏 一 〇 北 川 理 事 長 の 訃 け な く な つ た の は 可 笑 し い 。 も 近 年 神 經 痛 で 醫 師 か ら は 、 酒 は 毒 だ と 制 せ ら れ 、 一 年 も 止 め て を る 間 に 、 全 く 量 が な く な り 、 北 川 よ り も 一 層 い も い け ぬ 樣 に な つ た 」 と 言 つ て 、 五 六 杯 も 傾 け る と 、 眞 ッ 赤 な 顔 を す る の が 不 思 議 で な ら な か つ た 。 と こ ろ が 自 分 我 々 み ん な 同 年 で 、 そ の 頃 は 未 だ 大 分 飮 め て ゐ た の で あ る 。 所 が 晩 年 の 北 川 は 自 分 よ り も 早 く 酒 と 遠 ざ か り 「 一 寸 長 ら く や つ て ゐ た 長 崎 市 長 を 辭 め て 高 知 へ 歸 り 、 本 町 に 僑 居 し て ゐ た 頃 に は 、 死 ん だ 藤 崎 ( 朋 之 ) も 元 氣 だ つ た し 、 く る め て も 甚 だ 短 か い 。 法 官 時 代 か ら 、 ず つ と 相 識 つ て 居 る の だ が 、 多 く は 縣 外 で の 交 際 で あ り 、 土 佐 に 歸 つ て 居 た 前 後 二 三 回 の 期 間 は 引 つ の 辭 を 掲 げ る 。 北 川 と 呼 び 切 り に す る の が 、 土 佐 流 で 親 し み 深 く も あ る や う だ 。 北 川 と は 隨 分 久 し い 交 際 で 、 大 阪 廣 島 あ た り の 司 93 — 93 — な 人 達 で あ る 。 こ ゝ に 偶 々 翁 の 眞 骨 頭 が 浮 き 彫 り に せ ら れ て ゐ る の で は な か ら う か 。 左 に 翁 の 北 川 信 從 氏 に 對 す る 追 悼 で 、 孰 れ も 人 格 高 潔 、 一 識 見 を 具 へ た 非 凡 人 た る 點 に 於 て 一 致 し て を り 、 亦 た 四 氏 共 に 申 し 合 せ た や う に 、 名 利 に 淡 泊 近 森 虎 治 、 藤 崎 朋 之 、 北 川 信 從 、 田 岡 典 章 の 四 氏 「 友 を 見 て 其 の 人 を 識 る 」 と 云 ふ 聖 人 の 言 が あ る 。 宇 田 翁 の 至 誠 相 許 し た 友 は 一 一 北 川 氏 と 翁 な ど で 評 判 の よ ろ し か つ た の も 偶 然 で は な い 。 と 、 已 の 思 ふ と こ ろ を 吐 露 し て 、 恐 れ 憚 る 處 が な か つ た が 、 そ れ が 至 つ て 公 平 な も の だ か ら 、 長 崎 や 栃 木 、 新 潟 而 し て 眞 實 の 事 を 言 つ て ゐ た の で あ る 。 そ ん な 調 子 で 、 北 川 は 正 直 、 洒 落 、 而 し て 先 輩 知 友 い づ れ の 前 で あ ら う 「 こ れ で 俺 も 賣 り 食 ひ に し て も 、 何 う や ら 死 ぬ 頃 ま で は 食 ひ つ な げ さ う ぢ や か ら 安 心 し た 」 な ど ゝ 戯 れ ら し い 、 評 價 さ れ る や う に な つ た 。 淡 泊 で 胸 中 を さ ら け 出 す 北 川 は 、 た の で 、 程 な く 好 況 時 代 に 遭 遇 す る と 、 其 の 邸 宅 も 相 當 高 く や 、 何 か で 買 つ た や う に 聞 い て ゐ る 。 當 時 物 價 が 何 分 安 か つ ん て も の は 無 か つ た 事 と 思 ふ が 、 長 崎 市 か ら 贈 ら れ た 慰 勞 金 け の 金 は き れ い に 使 つ て し ま つ て 、 殆 ん ど ま と ま つ た 貯 蓄 な ぬ 前 の 暮 近 く ま で 自 適 し て ゐ た が 、 北 川 の 事 だ か ら 、 要 る だ 從 氏 ( 北 川 信 從 氏 写 真 ) 北 川 信 北川信從氏 94 — 94 — 知 事 を や め て 、 東 京 三 田 小 山 町 に 頃 合 な 邸 宅 を 買 入 れ 、 死 と 云 ふ 風 で 、 洵まこと に 足 る 事 を 知 る 風 の 男 で あ つ た 。 見 や う な ど 云 ふ 心 は 微 塵 も な く 、 死 ぬ ま で 困 ら ず 、 人 の 助 力 を 借 ら ぬ 樣 に う ま く 暮 し て 行 け ば 、 結 構 此 の 上 な し そ れ は 偖さ て 措 き 、 北 川 と 云 ふ 男 は 、 若 い 頃 か ら 實 に 無 慾 恬 淡 な 質 で 、 一 番 金 儲 け で も し て 、 豪 奢 な 眞 似 を し て 而 し て 、 北 川 が 一 面 非 常 に 親 切 で 、 他 界 す る ま で に 面 倒 を 見 て や り 、 世 話 を し た 人 は 隨 分 多 く 、 窮 し て ゐ る 者 を 見 て 大 に 徳 と し て 長 く 交 際 を 續 け 、 忠 言 に よ り 助 け を か り た い と 念 じ て ゐ た の に 、 天 命 は ま こ と に 是 非 も な い こ と だ 。 あ ら う が 、 誰 れ で あ ら う が 「 お 前 の や ら う と し て ゐ る 事 は 、 あ れ は い か ん よ 」 な ど ゝ 直 言 し て 憚 か ら ぬ 所 、 我 々 は 仙 石 氏 な ど 、 最 も よ く 北 川 の 人 物 を 理 解 し て ゐ る 人 で 「 北 川 の や う な 男 は 土 佐 に は な い 」 と 惚 れ 込 ん で ゐ た 。 友 人 で ン か ら 對 手 に な ら ず 、 而 し て 各 政 派 の 政 策 な ど に 就 い て は 、 時 々 例 の 調 子 で 、 忌 憚 な き 批 評 を 下 し て ゐ た 。 の で あ る 。 だ か ら 遊 ん で を る う ち 「 代 議 士 で も や つ て 見 て は 」 と 勸 め る も の が あ つ て も 「 俺 は 黨 人 ぢ や な い 」 と テ て 政 黨 人 と し て 動 く 男 で な く 、 牧 民 官 と し て も 、 實 に 公 平 無 私 で 功 績 を 擧 げ 、 そ れ で こ そ 素 睛 ら し い 人 気 が 寄 つ た 丁 度 、 大 隈 内 閣 の 下 に 、 知 事 と な つ た も の だ か ら 、 北 川 を 憲 政 會 系 統 の 如 く 見 る 者 が 多 分 に あ る が 、 北 川 は 決 し 95 — 95 — た 。 ツ 張 り 凧 、 結 局 兩 引 と な つ て 、 栃 木 へ 行 く 事 に な つ た が 、 次 い で 新 潟 へ 轉 じ 、 前 後 三 年 餘 り し て 勇 退 し た の で あ つ 我 々 が 是 非 高 知 へ 連 れ て 來 や う と 東 京 へ 出 向 い て 見 る と 「 實 は 和 歌 山 の 方 か ら も 迎 え が 來 て を る 」 と 言 ふ 風 で 、 引 も 惡 く も な い 」 と 言 つ た 調 子 で 、 大 石 正 巳 氏 か ら 大 浦 内 相 に 談 じ 込 み 、 い よ 〳 〵 起 用 さ れ る こ と に な つ た の だ が 、 い 、 何 か や れ 、 知 事 な ら 何 う ぢ や 」 と 勸 説 し た 時 「 外 の 事 は 、 も う 飽 き 〳 〵 し た が 知 事 な ら も う 一 度 つ と め に 出 て 長 崎 か ら 歸 つ て 、 高 知 で 遊 ん で ゐ た 時 分 、 丁 度 大 隈 内 閣 が 出 来 た 。 知 友 が 「 北 川 お 主 も 未 だ 遊 ん で ゐ る の は 惜 し に 封 し て 、 報 恩 を 勸 奨 し た 。 向 陽 會 が こ の 美 徳 の 昂 揚 に 力 め た の は 、 全 く 翁 の 精 神 に 副 は ん こ と を 期 し て の 事 で あ る 。 多 年 の 恩 義 を 謝 し 、 併 せ て 報 恩 の 實 を 行 爲 の 上 に 現 は し 、 遺 族 達 を し て 感 激 せ し め た と の 美 談 が 傳 へ ら れ た 。 翁 は 後 進 崎 氏 の 永 眠 せ ら る ゝ や 、 翁 は 恭 々 し て 其 の 柩 前 に ぬ か づ き 、 宛 か も 生 け る 川 崎 氏 に 對 す る と 同 様 の 、 言 語 動 作 を 以 て 、 の 一 項 が あ る 。 報 恩 は 宇 田 翁 の 最 も 強 調 す る 實 踐 倫 理 で 、 翁 は 常 に 身 を 以 て そ の 範 を 示 さ れ て を る 。 一 例 を 擧 ぐ れ は 川 毎 年 一 回 、 一 同 、 創 立 者 故 川 崎 幾 三 郎 氏 の 墓 を 弔 ひ 、 報 恩 の 念 を 堅 め し む — 96 96 大 正 十 三 年 五 月 、 上 級 生 が 主 體 と な り 、 向 陽 會 と 稱 す る 自 治 修 養 會 が 設 け ら れ 、 そ の 實 踐 躬 行 の 決 議 事 項 中 に — 一 二 向 陽 會 の 生 誕 氏 の 靈 に し て 知 る あ ら ば 、 知 己 の 言 と し て 、 か な ら ず 滿 足 し て ゐ る で あ ら う 。 勿 論 右 は 、 土 佐 中 學 校 理 事 長 と し て の 北 川 氏 を 悼 ん だ 言 葉 で は な い け れ ど も 、 こ ゝ に 掲 げ て 不 都 合 は あ る ま い 。 北 川 は 、 有 り 無 し の 身 銭 を 投 げ 出 し て ま で も 、 救 つ て や つ た り し た も の だ が 、 こ ゝ に は 只 追 憶 感 想 の 一 端 を 記 す に 止 め る 。 聞 け ば 、 校 長 は 大 分 借 金 が 嵩 み 、 利 子 だ け で も 相 當 要 る ら し い 。 餘 程 困 つ て を ら る ゝ さ う で 、 洵 に 氣 の 毒 に 思 向 い た と こ ろ つ た 。 同 校 長 が 就 任 後 四 五 年 を 經 た 頃 だ つ た 。 或 日 翁 か ら 理 事 の 川 島 氏 に 電 話 が 掛 り 、 會 ひ た い と の 事 だ か ら 、 早 速 出 数 多 き 美 徳 中 、 思 ひ 遣 り が 深 く 、 且 つ 周 到 な る こ と が 、 偶 々 校 長 三 根 氏 の 清 貧 と 關 聯 し て 、 う ら ゝ か な 話 題 の 種 と な 優 秀 で 、 身 長 、 體 重 、 胸 圍 揃 っ て 抜 群 の 數 字 を 示 し て を り 、 こ れ が 斯 の 校 の 最 も 大 な る 誇 と な つ た 。 一 四 徹 底 せ る 同 情 心 — 97 97 — と い ふ 體 育 方 針 に は 大 賛 成 で あ つ た 。 こ の 體 育 奬 勵 の 結 果 、 土 佐 中 は 全 國 及 縣 下 中 學 校 に 比 し 、 身 體 檢 査 の 成 績 は 斷 然 運 動 の 際 は 裸 體 を 奬 勵 し 、 九 月 初 め 黒 ン 坊 會 に て 其 の 等 級 を 表 彰 す か つ た 。 翁 は 體 育 の 奬 勵 者 で 土 佐 中 は 、 英 才 敎 育 を 主 眼 と し 、 上 級 學 校 の 豫 備 門 た る 觀 が あ る の で 、 動 も す れ ば 世 間 か ら 智 育 偏 重 の 誤 解 を 受 け 易 一 三 土 佐 中 の 誇 り と あ る 。 こ の 片 言 隻 語 に 瞭 か な る 如 く 、 土 佐 中 學 校 の 理 想 は 、 大 人 物 を 養 成 し 、 そ の 活 動 に よ っ て 維 新 前 後 の 華 か な る と の 希 望 で あ つ た 。 此 の 一 言 は 余 を し て 、 責 任 の 大 な る を 痛 感 せ し め た 云 々 そ れ で 敎 育 の し や う に よ つ て は 、 先 人 に 劣 ら ぬ 偉 人 を 輩 出 せ し め る 事 が 出 來 る と 思 ふ か ら 、 し つ か り や つ て 貰 ひ た い 」 北 川 信 從 氏 は 、 學 校 創 立 の 際 、 余 に 向 っ て 曰 ふ 樣 「 土 佐 は 不 思 議 に も 、 古 來 天 才 、 奇 才 を 出 す こ と 少 く な い と 思 ふ 、 三 根 校 長 の 述 懐 に 千 五 百 圓 を 學 校 の 會 計 に 返 し た 。 翁 の 周 到 な る 用 意 と 、 そ の 徹 底 せ る 同 情 振 り が 茲 に も 露 は れ て ゐ る 。 一 五 高 遠 の 理 想 — 98 98 — 逝 去 せ ら る ゝ や 、 翁 は 見 舞 金 と し て 一 万 五 千 五 百 圓 を 贈 呈 し 、 遺 族 の 者 を 感 激 せ し め た 。 遺 族 は 此 の 金 の 中 か ら 五 し て を る 事 情 が 判 明 し た か ら 、 氏 は 翁 の 意 志 を 體 し 、 資 金 の 中 か ら 其 の 金 を 用 立 て た 。 昭 和 十 年 三 月 に 三 根 校 長 が と の 話 で あ つ た 。 そ こ で 川 島 理 事 が 三 根 氏 に 就 い て 訊 い た と こ ろ 、 借 金 の 額 は 五 千 五 百 圓 、 そ れ が 皆 な 高 利 で 難 儀 し て 貰 ひ た い ふ 。 學 校 の 資 金 の 中 か ら 融 通 し 、 薄 利 で 始 末 方 を す る 方 が 、 校 長 も う る さ う の う て 可 か ら う か ら 、 此 の 件 を 心 配 著 者 兼 發 行 人 宇 田 翁 常 代 傳 務 表 記 委 者 刊 員 行 會 下 川 下 元 島 元 鹿 正 鹿 之 件 之 助 助 — 99 — 99 高 知 市 本 町 八 十 番 地 土 佐 電 氣 株 式 會 社 内 昭 和 十 四 年 九 月 三 十 日 發 行 翁 の 本 縣 敎 育 上 に 印 せ る 其 の 足 跡 と 、 そ の 功 績 を 仔 細 に 檢 討 し 、 翁 の 高 遠 な る 理 想 を 篤 と 認 識 す べ き で あ ら う 。 佐 中 は 、 確 か に 人 材 輩 出 の 登 龍 門 た る 實 を 擧 げ 、 上 級 學 校 入 學 の 成 績 は 文 字 通 り 百 パ ー セ ン ト で あ つ た 。 縣 官 民 諸 賢 は 土 佐 に 復 活 せ し む る と 云 ふ の で あ つ て 、 翁 の 高 遠 な る 意 見 が 亦 た こ の 中 に 織 り 込 ま れ て を る 。 で あ る か ら 創 業 時 代 の 土
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