真宗大綱 一悲願と智昭一 6 骨我量深 1 作 一部教 『 行信証』 金子大栄 願心荘厳 安田理深 2 9 真宗興隆の大他 細川行信 恋人成仏 伊 東 悲 明 47 避遁の内示 松井趨ー 5 8 真宗と土着化 松野純事: 67 教団の形成と 親駕の立場 笠原一男 8 3 真宗概論∞ 鈴 木 大 拙 98 1 5 39 大谷大学真宗学会 つつしんで浄土真宗を按ずるに には還相なり 二種の廻向あり 誓いを超発して ひとつには往相 ふたつ ひろく法蔵をひらきて 凡小をあ すなわち大無量寿経これなり 往相の廻向について 真実の教行信託あり それ真実の教をあかさば この経の大意は 世に出興して道教 めぐむに真実の利をもってせんとおぼしてなり われみて えらびて功徳の宝を施すことをいたす て経の体とするなり ここをもって 如来の本願を説きて経の宗致とす すなわち仰の名号をもっ を光閉して 群粛をすくい 釈 迦 弥 陀 ー悲 量 深 綱 願ー 我 ~ 願 * 口 ’ E l ります。 この三願をもって、われわれ衆生の機根というものの自覚を深めて、そうして真実信心を獲せしめてくださるのであ 仏の御心というものを素直に信ずることができません。こういうので至心信楽の願、至心発願の願、至心廻向の願 願欲生の願、第二十至心廻向欲生の顕であります。われわれ衆生は非常に疑いの深いものでありまずから、それで、 ておりますが、中でも親驚聖人が一番重要な本願であると重んじられますのは、第十八至心信楽の願、第十九至心発 われわれが正依の経典として拝読いたしております康僧鎧訳の﹃大無量寿経﹄には、阿弥陀仏の四十八願が説かれ 刀ミ いわゆる定散自力の心、罪福を信ずるところの不純なる信仰、そういう不純なる信仰というものは、善心がおこっ l 曾 大 と 真 たり悪心がおこったりする o この善心がおこったり悪心がおこったりするのは、親驚聖人の教えからみまするという と、これは、われらの宿業である o善業があらわれれば善心がおこる、悪業があらわれれば悪心がおこる o善心とい っても、心の自由があって善心がおこるわけではないのである o勿論、そういうことをいえば人聞の道徳というもの は成立しない、自由というものがなくては道徳は成立しない、 と。こういうような批難があるわけでありますけれど も、人聞の常識の判断でいうならば、ある程度の自由というものがあるわけでしょう。けれども、だんだん深く掘り 下げてみれば自由などというものは極めて不徹底なものであります。また自由な自覚の力というものは極めて弱いも のでありましょう。 それで、仏教では宿業ll、特に親驚聖人は、宿業ということを教えられる。宿業という言葉は﹃教行信証﹄の中 にはないけれども、宿業の思想はあるわけである。 ﹃歎異抄﹄の全体から申せば ﹁自身は現に是れ、罪悪生死の凡夫、臓劫己来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし o﹂これは、 つま り宿業である。 宿業という言葉は、ご承知のとおり﹃歎異抄﹄では、異義八か条の中の第一一一の文章、 第十三条、そこに宿業という一一 葉 H が出ておる。聖人の御物語十か条がありますけれども、そこには別に宿業という一一一一口 葉はありません。けれども第十三条を読むというと﹁ちりばかりもつくる罪の宿業にあらずということなししと、こ のように親驚聖人は仰せられたとある。それからみれば親驚聖人は、宿業ということを仰せられた、と第十三条に記 されてある oが、他には記されてありません。 この﹃歎異抄﹄の第十コ一条と御物語の第三条は、前後照応しておるものである o第三条というのは、ご承知のとお り﹁善人なをもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや:::煩悩具足の我等は、 いずれの行にでも生死を離るることあるべ からざるを憐みたまいて、願をおこしたもう本意﹂本願をおこしたもう仏の本意は﹁悪人成仏のため﹂である o勿論 2 仏の本願は、 はじめから善人悪人と差別して、善人の方はどうでもいい、悪人は気の毒だから、そのために本願をお ﹂した、と、そういうわけではないんでしょう o 五乗斉入ということがあります。五乗というのは、人・天・声聞・独覚・菩陸、 つまり五乗というのは凡夫と聖者 ﹁老少善忠の人をえらばず﹂とあ ﹁正信伺﹂に﹁凡聖と逆詩と斉しく廻入す﹂とある o凡聖を とに共通しておる oそれから善人悪人にも共通しておる o凡聖普悪をえらばない。 りますが、もう一つ広くいえば九聖善悪をえらばない。 えらばない。また逆誇も捨てない。その凡夫の中に善人もあるのでありますけれども、善人の方は略していうてない。 それは五乗を斉しく憐みたもう平等大悲の本願であるということである o ﹃歎異抄﹄第一条に照してみれば﹁弥陀の 本願には老少善悪の人をえらばず﹂と書いてある o老少善悪の人をえらばぬというて、凡夫だけ書いてある。聖者の ﹂とは書いてない。 善悪というのは、九夫の中に善人と悪人とある。凡夫といえば、 みな悪人だというわけのものではないのでありま す。凡夫だから朝から晩まで悪心をおこしておるというわけではないのであります。朝から晩まで悪心をおこせとい われたら、実際、困りましょう。だから、九夫だから悪心ばかりおこすというわけではない。それは、ただ煩悩悪業 を自覚して、それを苦しむ、そういうので、その人の感情から善のことはいわないで、悪のことだけを述べてある o 親驚聖人は、善心は全くおこらないということをいわれるのではないのであって、善心も時にはおこることもあるで あろうけれども、それは長続きするものではない。むしろ悪心こそは連続しておこってくる oそれは聖人の深い自覚 なんでありましょう o自覚でありますから、理窟でもっていうておるということではないんであります。 二種深信のことでも、 一般に、われわれが二種深信という時には、善導大師の﹁散善義﹂の中の、 一者至誠心・ 3 者深心・三者廻向発願心||、あの中の深心﹁深心と言うは、深く信ずる心なり、亦二種あり﹂と、こういうて﹁一 には、決定して深く信ずる、自身は現に是れ、罪悪生死の凡夫、噴劫巳来、常に没し常に流転して、出離の縁あるこ となし﹂とある o普通、それを二種深信というのであります。 ところが﹃観経﹄の三心釈というものは﹃往生礼讃﹄にも書いてある。 ﹃往生礼讃﹄の三心釈は、悪人の自覚とい うことからみるというと少し不徹底のようにみえる o大体まあ、コ一心釈というものはあっても、﹃往生礼讃﹄の方は 至誠心や廻向発願心の方は、要門︵十九願︶について解釈してある。深心の釈だけは相当に徹底して、純粋な深心の 釈になっておるのであります。 ﹁散善義﹂の引文を終って﹁又云わく、敬いて一切往生の知識等に白さく、大いに須らく ﹁散善義﹂のコ一心釈は詳しく﹃教行信証﹄の﹁信巻﹂に引用してありますが、﹃往生礼讃﹄の深信の釈も、やはり ﹁信巻﹂に引用してある。 ﹃集諸経札機儀﹄上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の 断慨すベし o釈迦如来は実に是れ慈悲の父母なり、種々に方便して我等が無上の信心を発起せしめたまえり、と。己 上。﹂ それから続いて﹁﹃貞元新定釈教目録﹄巻の第十一に一五わく、 ﹃機儀﹄の上巻は、智昇諸経に依りて﹃機儀﹄を造る ﹁自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にし ﹃観経﹄に依って善導の﹃礼慨﹄の日中時の礼を引けり。下巻は、比丘善導の集記と云々。彼の﹃憤儀﹄に依 撰なり、貞元十五年十月二十三日の勅に准えて編入すと云々。 中に、 りて要文を紗して云わく、二には深心、即ち是れ真実の信心なり。 て三界に流転して火宅を出でず﹂と信知す o今﹁弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十戸聞等に及ぶまで定 めて往生を得る﹂と信知して、乃至一念、疑心あることなし。故に深心と名づく o﹂ ﹁現に是れ罪悪生死の凡夫﹂と、 ただ悪の方だけ書いてある。 ﹁瞭劫己来、 ここに﹁自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転す﹂とある。だから善根であるのでしょう。 ﹁散善義﹂の方は善根などと書いてない。 4 常に没し常に流転する o﹂つまり罪悪生死は、今はじまったことでなくて、瞬劫己来罪悪生死、だから畷劫巳来常に 没し常に流転して出離の縁あることなし。ところが﹃往生礼讃﹄の深心釈をみると、煩悩を具足している凡夫だから というて悪ばかり作っておるというわけではない。やはり普を作るということもある。しかし、善根薄少であると書 いてある。善根薄少というのは、善根が不純粋である o普としては極めて力の弱い善である o薄少の善である o善が 少いから薄少というという意味もあるけれども、作る善根そのものが薄少である。善根に力がない。なぜ薄少である L の至誠心の釈の文をよく読めばわかるわけであります。 かというならば、その善は有漏の善である。凡夫のなすところの善は有漏不浄の善である。聖者のなすところの善は 無漏清浄の善である。それは﹁散義義 その至誠心の釈の文につきまして、ご承知のように、親驚聖人は新らしい点をつけて読んでおられる。つまり﹁一 切衆生の身口意業の修する所の解行||。﹂解行の解は安心でありますし、行は起行。﹁解行は、必ず真実心の中に 作したまいしを須いんことを明さんと欲す o﹂これは、普通に読めば﹁必ず須らく真実心の中に作すべしと明さんと 欲す﹂というのでしょう。浄土宗の人などは﹁須らく:・:::すベし﹂と読んでおられる oそれを親驚聖人は須という 字を﹁もちいる﹂と読む。用という字と同じに読んでおられる o だから、親驚聖人の思召しは、真実心というのは如来の真実心、真実は如来である o ﹁如来は真実なり、真実は如 来なり﹂と﹃教行信証﹄に書いてある o如来のみが真実である。だから、真実は如来である。如来以外は、 たとえ十 地の菩薩といえども真実ということはできない。 ﹃大無量寿経﹄下巻の﹁東方偏﹂には﹁如来智慧海、深広無涯底、二乗非所測、唯仏独明了﹂とある o この二乗は 声聞と菩薩である。だから、声聞や菩薩は如来の御心を知らない。声聞は勿論のこと、聖道門では聖者といわれる十 5 四 地の菩薩といえども真実ということはできない。この声聞と菩薩は﹁莫能究聖心﹂ 聖は如来であります。地上の菩薩といえども如来の御心を究めることができない。 聖心を究むることができない。 0 だから、真実と方便||真仮を分判することができない。二十願と十八願とを区別することができない。それはま あ十八願と十九願とを一応区別することはできる。十八願と十九願とを一応区別することはできるけれども、二十願 と十八願とを区別することができない。二十願と十八願とを区別することのできるのは如来の智慧海である oとにか く菩薩の智慧をもってすれば十八願と十九願とを区別することはできるけれども、仏智によらなければ二十願と十八 願とを区別することができない。二十願と十八願とを区別するのは仏智の不思議である。そこまで来てはじめて如来 の廻向ということをおっしゃる o 凡夫は十九願と十八願とを区別すること、かできない。聖者は十九願と十八願を区別することはできる。けれども十 八願と二十願とは不思議の仏智によってのみ、 はじめて明らかになる。だから、われわれ凡夫にわからぬのは当然の ことだけれども、これは十地の菩薩といえども知ること、ができない。聖心を究めることなし。それを知らないで、自 分の智慧をもって人を開導しようとすると間違う、ということを明らかにするのが﹃大無量寿経﹄の智慧段、いわゆ しじようしんしせい る胎生化生のことを説かれる一段、である o 至誠心というのは真実心である。これは﹃論語﹄などでいえば至誠の心である。儒教などでいう至誠の心は儒教の 聖人の心でありますけれども、それは、仏教からみると聖者というわけにいかない。やはり九夫である o凡夫の中に おける聖人である。だから、古川存大川のお一一一日葉は、大体、十九願と十八願との関係、いわゆる要弘二門の法門でお話し ﹁おしえざれども自然に真如の門に転入する﹂という言葉があるのでありますけれども、そ なされてある。法然上人も、 やはりそうでしょう o真門という一一一一口葉も善導大師の言葉の中にある。けれども、それが はっきりしておらない。 れをもって三願転入ということをおっしゃったわけではないのであります。それで親驚聖人はご切衆生の身口意業 6 0 これもまた親驚聖人が新しい点を の修する所の解行、必ず︵如来の︶真実心の中に作したまいしを須いんことを明さんと欲す﹂と点をつけて読まれた のであります。 それから﹁外に賢苔精進の相を現ずることを得、ざれ、内に虚仮を懐けばなり﹂ つけて読まれたものである。従来の普通の読み方は﹁外に賢善精進の相を現じて、内に鹿仮を懐くことを得、ざれ﹂と。 こういうように読むと、ずっと続いている文章全部が要弘二門の解釈になる oだから、如来の廻向ということはいら ない。われわれの方から廻向する。 それで﹁外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ﹂と続けて読む時は﹁外に賢善精進の相を現じ﹂ 0 外に賢善精進の相を現じてはならぬ、 といわれる。従来は、外に賢善 の方に中心はなくて﹁内に虚仮を懐くことを得、ざれ﹂の方が中心になっておるのでしょう。ところが、親驚聖人は、 ﹁外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ﹂ 0 内に虚仮を懐いておる 精進の相を現じてもかまわぬのでしょう。問題は、内に虚仮を懐いてはならぬ。こういうのでありますが、それを親 驚聖人は﹁外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、なぜなれば、内に虚仮を懐けばなり﹂ ということは、如来のみがしろしめすのである o仏智のみが知るのである。 だからして﹁外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり﹂というのは、如来の御言葉なんで しょう。仏の知見に立って、こういう言葉が出てくる。声聞や菩薩であれば﹁外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮 を懐くことを得ざれ﹂。内に虚仮を懐かないこともできる。そういうことも可能であるということを認めておるので しよう。如来の眼をもってご覧になれば、内に虚仮を懐かぬということはできない。誰でも内に虚仮を懐く。親驚聖 人は、諸仏無上の智慧をもって、こういうように点をつけてお読みになったんでしょう。 7 五 徹底せる本当の真実というものは、阿弥陀如来にのみある、声聞や菩薩にはない。だから、声聞や菩薩などの言葉 に執われてはならぬ。善導大師の﹃四帖疏﹄を読んでみると、その当時の多くの仏教研究者は、経典を軽んじて、害 薩の造った論を重んじる。如来の言葉を述べてあるところの経を軽んじる。そして、菩薩の解釈であるところの論の 方を重んじる。中国の仏教研究者の中に、そのような風潮が一般に行われていた oそれで、善導大師は、その誤りを 明らかにして、如来の智慧がたつといのであって、菩薩の智慧は未完成の智慧である、 と述べておいでになる。 善導大師は、菩薩の智慧は重んじない。ひとえに仏の経典にしたがっていく o安心も起行も仏の経典にしたがって いく。これが善導大師の方針であります o方針はそういうのでありまずから、善導大師の文章を読むと、 いろいろ不 徹底な点があるのでありますが、親驚聖人は、善導大師の本当の思召しを明らかにしようとせられた。そういうので 善導大師のお言葉の読み方をかえられたわけであります。 ノ 、 ﹁外に賢善精進の相を現ずることを得、ざれ、内に虚仮を懐けばなり o﹂内に虚仮を懐くということは、 してくる。 ﹁賃膜邪偽、好詐百端にして、悪性侵め難し、事蛇闘に同じ。三業を起すと離も、名づけて雑毒の善と為 やこと それで﹁外に賢善精進の相を現ずることを得、され、内に康仮を懐けばなり﹂と読むというと、文章全部がはっきり しめした上で本願をおこしてくだされた、 ということを明らかになされたのであると思うのであります。 こったとか恵心がおこったとか、そういうふうに心を煩わしてはならぬ oちゃんと如来が、それをみそなわし、 しろ これはもうどうすることもできない。どうすることもできないから、外に賢善の相など現ずる必要はない。善心がお て読まれた。 明らかにされた。だから、善導大師の﹁散善義﹂でも、如来廻向のまことということを明らかにするように点をつけ 経典におきましても、ご承知のとおり、たとえば本願成就の文などでも、読み方をかえて如来の廻向ということを ム 8 ず、亦、虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり﹂ 0 これは菩薩といえども虚仮の行、雑毒の主口である。われ われ凡夫だけが虚仮の行、雑毒の善というわけではない。如来以外の人ひとは、全て虚仮の行、雑存の善をまぬがれ ないものであると仰せられであるのであります c ﹁外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得、ざれ﹂と、こう読んでくるというと、声聞や菩薩は勿論の こと、われわれ凡夫でも、虚仮の行、雑毒の善でなくて、清浄の善、真実の行を、自力をもって修するということが できないわけでもない、 と、こういうことがいえる。 これは親驚聖人だけがそうではないのでありまして、聖道門の方々だけでなしに、法然上人の他の門下のお方も、 聖道門のお方と同一の安心をもっておられる。親驚聖人のみが、このような厳しい自己についての反省というものを もって生活なされる。聖人の生活というものは極めて厳しいものである。自分自身について厳しい。生活が厳しい。 聖道門の人より、もっともっと厳しい、だから、親驚聖人の教えを受けておるものは、聖道門以上に、もっと厳しい。 そういうことをわれわれは知らなければならないのであります。 話が横にそれたのでありますが、 はじめに申しましたように、十八・十九・二十の三願は機空一一願であります。こ のように機にコ一願があるというと、法にも三願がある o これは﹃教行信証﹄六巻についてみますと、法の善巧摂化と いいますが、如来がわれらを救うてくださる。如来の不可思議の願力をもって、われらを助けてくださる o大悲摂化 ﹁斯の行は、大悲の願より出でたり o﹂ の本願というものが十七願であります。十七願は、大悲善巧摂化の本顕であります。だから﹃教行信証﹄の﹁行巻﹂ には、十七願を﹁大悲願﹂といわれる。 それで、大悲願は十七願の名前であると昔からいうのでありますが、それならば、慈悲に対して智慧、大悲に対し 9 七 て大智というものがある。その大智の願は何であるか。大悲の願は十七願であるならば、大智の願は何であるか。そ れは第十八顕である。至心信楽の願は大智の顕である。智慧の願である。これは、大悲とか大智ということはやかま 一応、学問する時になれば大智と大悲と分けて考える oそうすれば、至心信楽の願は智慧の方で しくいわんでもいいんだ、 と、このように鈴木大拙先生などはいっておられるようであります。それも、それに違い ないんだけれども、 ありましょう o智慧は自覚である。機の自覚である。 そのように大悲の願に対して大智の願を考える。慈悲の願に対して智慧の願というものを考える oそうするという と、十八・十九・二十の三願は智慧の顕である。こういうようにいうことができる。この智慧の一一一願に対して慈悲の ﹁行巻﹂をみるというと、大悲の願は十 願は一つであるか、と、こういうと、智慧の願がコ一つあれば、やはり慈悲の願も三つある。つまり、大悲の願も一一一願 ある o これは﹃教行信証﹄をよく読めばわかる。 土日から大悲の願は十七願の名であるというが、それは、それに違いない。 七願に違いない。しかし﹁真仏土巻﹂を読んでみるというと、大悲の願がもう二つある。つまり、第十二光明無量の 願、第十三寿命無量の願、これが大悲の願であると書いてある。 ﹁真仏土巻﹂には、﹁光明無量の願、寿命無量の願﹂と標挙して、そうして﹁謹んで真仏土を按ずれば、仏は則ち是 ﹁既にして願います。即ち光明寿 れ不可思議光如来なり、土は亦是れ無量光明土なり。然れば則ち大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏土と日うな り 0﹂真仏真土は大悲の誓胸、に酬報する。故に真の報仏報土と名づけるのである。 命の願是なり﹂ o願いますというのは大悲の誓願、既にして大悲の誓願がまします。即ち、大悲の誓願とは何である か、光明無量の願、寿命無設の刷、これである oそうすると、光明無量、寿命無量もまた大悲願である。真仏真土は その大悲の誓願に酬報する。 だから﹁行巻﹂をみると第十七願が大悲の顕である。そして﹁真仏土巻﹂をみるというと、光明寿命の願が大悲の 1 0 顕である。その﹁行巻﹂と﹁真仏土巻﹂の中間には﹁信巻﹂ ﹁証巻﹂、があって距てておるが、大悲願は三願ある o そ の十七師、は大悲廻向の願である。大行は大悲廻向の南無阿弥陀仏である o南無阿弥陀仏は、如来の大悲廻向の大行で ある。 ﹁真仏土巻﹂には、その大悲に酬報した浄土であるという。内に向って用いているのが光明寿命の願、外に向って 用いているのが南無阿弥陀仏の大行の願。大悲酬慨は内。白利利他という一会一一川葉を使うならば、光明寿命は如来の自利 利他廻向は大行である。光明寿命は如米の白利に属し、名号は如米の利他に印刷する。けれども、自利とか利他という ても、二つ別々にあるというわけではない。自利と利他は一つ。そういうようにみれば、機の趣入というか、われら 衆生が自分を掘り下げていくというと、最後には第十八願のところに帰着する。 その第十八願のところでは第十七願と一つなんでありますが、その第十七願の背景になるの、が光明無量の願、寿命 無量の願。このように、機の方においても十八・十九・二十の三願、そして、法の方におきましては十二・十三・十 名寿光 人叩 明 号 ︵至心信楽 願 七の三願。法の三願と機の一一一願と合わせれば六願。機に=一願あれぽ、 また法にも三願がある、 とこういうふうにいう 大 大 智 悲 ﹂とができるわけであります。 法 の ︷至心廻向 H機の一一一願ん至心発願 | | 入 法 の 善 巧 摂 化 機 の 従 化 入 真 方便ということにも、権化の方便と、それから善巧の方便とある。権化の方便は、方便と真実と違うのでしょう。 1 1 -一一一一一一一一一~~、、一一一一一一一一一一、ー 真仮分判する。﹃教行信証﹄は真仮分判した。そのように、機の趣入、われらの智警が如来の方便によって開けてく る o智慧が円満しておるのが真実の智慧。円満しておらないのは方便の智慧 o権化方便だから嘘だというのではない。 嘘ではないけれども、 しかし機がまだ成熟しない時には定散自力の心。定散自力の心というものは、ある点まで人間 の意志の自由ということを認める。 意志の自由というのは、何も無制限にあるということはありません。意志の白白ということは方便なんでしょう。 意志の自由という方便がないというと、人聞は慨堕になる。だから、意志の自由ということを一応認めている。人生 は、意志の自由ということを認めることによって成立するものである。意志の自由を全く認めないと、人生というも のは根抵から成立しない。人間生活は成立しない。他の動物と同じことになる o他の動物は、それでとにかく生きて いる。意志の自由がなくて生きている。しかし、人聞は、意志の自由を認めないというと生きていけない。 意志の自由を認めないというと道徳が成立たぬ。道徳が成立たぬというと人間として生きていくことができぬ。人 自主 、 みな殺し合いする。それで、意志の自由を認めて、法律とか道徳が成立して、はじめて人間の生活が成立つの f v ’ である。けれども、それは方便である。真実のものではない。真実からいうならば、意志の自由はないものである。 ﹂れを宿業という。 それで、仏教では前位、過去世ということをいう。過去世というのは、禅の人は未生以前という o本来ーーもとよ りこのかた o人聞は本来||こうである、という o人間は本来仏の子である、仏子である、と、こういう。本来仏子 であるというが、そうにちがいない。親驚聖人だって、本来仏子であるということまで否定されるはずはない。けれ ども、人聞は、本来はそうであろうけれども、現在、仏性というものを見失うておる o仏性を見失うて、長い迷いと いうものがはじまっている。 一度迷い出したら、迷いを翻えずということは容易でない。迷うたのだから、 いつでも 翻えせるだろうというけれども、そうではない。歴史的現実というものは厳しいものでありまして、迷いを翻えすと 1 2 いうことは生易しいものではない。それは、禅の方でもそうでありましょう。そうでないわけはないと思います。本 当の禅は生易しいものではないのでありましょう。 近元禅師などは、出家生活というものを前提して、そこでさとりというものを成立せしめているようであります。 出家という一つの世界を作って、そこに禅の道を立てておられるのでありましょう。が、親鰭聖人では出家というこ とは成立しないんでしょう o道元禅師では、まず出家ということを成立させて、その上で禅を立てられる o親驚聖人 では、出家という立場は成立たぬのでしょう。 だから、親矯聖人は流罪になって出家の資格を剥脱して在家の姓名をたまわった。法然上人も親驚聖人も姓名をた まわった。だから、もう出家の資格がない。けれども、罪を許された時に、法然上人は、 また出家に帰った。親驚聖 人は、罪を許されても、出家に帰ることができない。 一度、出家の資格を剥脱されれば、再び出家に帰ることができ ない。それで、親驚聖人は、禿の字をもって姓とした。 奴牌僕使になづけてぞ ﹁僧ぞ法師のその御名は、 とうときこととききしかど、提婆五邪の法に 流罪になる前から、出家というものは権威のあるものではない、 と、親驚聖人は思うておられた。それは﹁愚禿悲 歎述懐和讃﹂を読むというと記されてある。 0 にて、 いやしきものになづけたり o﹂ ﹁五濁邪悪のしるしには、僧ぞ法師という御名を やしきものとさだめたる﹂ 未法には、本当の出家などというものはないものである。だから、親鷺聖人は、流罪を縁として、僧に非ず||、 僧に非ざれば俗であるかというと、俗にも非らず。僧の資格はなくなったが、というて俗でもない。即ち、親驚聖人 し 、 は、どこまでも求道の精神をもっておられる。だから、どこまでも出家発心の精神を失われない。出家発心の形であ 1 3 九 功徳は十方にみちたもう﹂ お念仏は、 まことの心はな 0 お念仏は、弥陀廻向の法であるから、 ﹁無断無慌のこの身にて 一念帰命の信によって、本当の出家発心の精神が りません。形からいえば出家発心の資格はないのでありますけれども、出家発心の本当の精神というものを如来より 廻向されている。われわれは捨家棄欲、出家発心の相をとらぬが、 弥陀の廻向の御名なれば 成立する。形は在家であっても出家発心の精神というものが輝いている。 けれども 実 生 在 量 寿 経 、 ︵本稿は、昭和四十年五月六日大谷大学大学院における講義の筆録である文責伊東慧明︶ どんな罪深い者が称えても、そういうものに碍りがない、無碍の大道である、 と 、 こ の よ う に 親 驚 聖 人 に 教 え て く だ さるのであります。 真 大 当体、全くこれ南無阿弥陀仏であると思うのであります。 ﹁大無長寿経﹂の 曾我量深著﹁教行信託内観﹂より あります。教はこれ能詮、市無阿弥陀仏は所設といっているのでありますが、そうではなく、 とする。仏の名号南無阿弥陀仏、教の体市制⋮川必陀仏であって、川設の体でなく、教の当休即ち南無阿弥陀仏で 致と為す。即ち仏の名号を以て経の休と為すなり﹂。如米の十平岡酬を説くを以て経の宗致とす、名号を以て経の休 道教を光聞して、群崩を隔世い、恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。是を以て、如来の本願を説きて経の宗 弥陀誓いを超発して、広く法成を聞きて、凡小を京みて選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦世に出興して 教巻に﹁夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是なり﹂と、則ち﹁是なり﹂と具体的なものを把んで是とい 、、、、 うのであります。一切の所設のことわりを全うじている一日葉は、それを真実の言葉という。 ﹁斯の経の大意は、 教 1 4 ﹁ 教 了 ネ 子 大 栄 証 金 一には往相、こには還相なり。 それは後二巻を第二部とするこころに反するものではないであろう o方便は真実を予想するものではあるが、真実は されど、或いは浄土真実ということには、浄土方便ということが予想されてあるといわれるかも知れない。しかし であろう。 けであることにも顕わされている。しかれば﹁総序﹂に﹁真宗の教行証を敬信して﹂とあるも、その意に他ならぬの 往相の廻向について真実の教行信証あり﹂と提示し、それを﹁証巻﹂に﹁それ真宗の教行信証を案ずれば:::﹂と承 とである oそれは﹁教巻﹂の初めに﹁謹しんで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり、 それについて、先ず着眼せられることは﹃顕浄土真実教行証文類﹄という題目は前回巻で十分に満たされているこ 論文はそのことを明らかにしたいと思うてのものである。 ﹃教行信証﹄は前回巻を第一部とし、これに対して後一一巻を第二部と領解してよいものではないであろうか。この 作 必ずしも方便を予想するものではないからである o真実に直接に相対するものは虚仮であって方便ではない。親驚に 1 5 部 おいて真実に対するものは外道の思想である o仏教の真理もしばしば外道化されている。しかし、いかに外道化され ても本来は仏教であるかぎり、どこかに仏教の面目が見出されねばならない。その真実を見出さしめる教、それが方 便といわれるものである o しかるに、その教が真実であるか方便であるかを決定するものは、その期する浄土が真仏土であるか化身土である かである o教・行・信・証を相対して真実か方便かを決定することはできない。ここに先ず以て真仏土を顕わし、そ れを証せざるものを方便教とせられたのであろう。それのみではない。方便とは、それが方便であることを知ること において、そのまま真実に帰するものである oそれでなければ方便とは虚仮であるということになってしまうであろ ぅ。方便は虚仮ではなく善巧であることを知らしめるものは、その底にある真実に他ならぬのである o 真仏土は色も形もない。しかるに、それが色形あるものとして経説された。その色形あるものを実体的に思想すれ ぱ、それは外道化されたものといわねばならぬのであろう。しかし、その色と形とにおいて真仏土の象徴的青山義を感 知ずることになれば、その方便こそ真実にもまして有難いものである。それは方便なしには真実を知ることのできな いわれらであるからである。 したがって﹁真仏士巻﹂は能帰の法である教・行・信・証に対して、所帰の真土を顕わすものであるという古来の 説は、否認することのできないものではあるが、それよりは方便化身の意義を顕わす前提と見る方が適切なのではな いであろうか。これに依りて﹁真仮を知らざるに由りて如来広大の恩徳を迷失す﹂とある﹁真仏士巻﹂の結文の意も 領解せられるのである。 こうして教行信証の真理は真化の事実に依りて明らかにせられるのである。それは﹃華厳経﹄に法界縁起の教理が 諮問財章子の求近物語によりて身近なものに感ぜられることと類比してよいものであろう。教行信一証は真実の宗教を顕 わし、真化二巻は宗教の真実を求めるこころを明らかにするものである。真実教の宗体を顕わず前回巻と、仏身・仏 1 6 その本願の 士について真化を反省し自覚せしめる後二巻との対応、これに依りてわれらの宗教心が満足せしめられるのである。 如来 木の 願を いを て経 宗致 為体 す。 真 実 の 教 は﹁即 ちの 仏 名説号 以のて 経と の と為る﹂ものである。 いわれは心にうけいれられて信心となり、その名号ののりは身について念仏となる o その一身心は一如であるから、本 L と領解されるものである o したがって、真実の行信は如来の廻 願のいわれは名号に現われ﹁念仏者﹂は﹁信心の行者﹂とならしめられるのである。それが行も信も本願力の廻向で あるということであり、 また﹁南無阿弥陀仏の廻向 向であるということは、外から説明すべきものではなく、真実の行信が、それを身証するのである。こうして二種の 廻向から聞出された教・行・信・証は、 かえって二種の廻向を内感するものとなっているのである。 ここで最も重要なることは、 真実教の﹁体﹂が先ず以て﹁行巻﹂ に顕わされたことである o ﹂れは恐らく本願の いわれも、名号の体なくしては受け容れられないからであろう。念仏するもの必ずしも信心はないとしても、念仏し ないものに信心は生じない。本願のいわれは名号に具わっているからである。したがって、本願を信ずるということ も、念仏において行証されるものの他ないのである。 念仏とは、それにおいて自己を発見し、そこに如来の光摂を感知するものである。それは神の実在と自己の実存と を認めてから、それを結ぶ崇拝とは全く異るものである。そこに名号を体とする念仏の意義があるのである。しかし 念仏において見出された自身と感知された如来とは、 いかなる因縁のあるものであろうか。その因縁を語るものこそ 如来の本願というものであろう。阿弥陀の光なくぱ、この身のありょうは知られない。この身を摂取しないところに 阿弥陀の光はないのである。こうして、この身と阿弥陀との因縁を明らかにするものは如来の本願である o しかるに その本願のいわれを聞いて、疑うことのできぬことにならしめられているものが、名号の体である。だから、それは 17 念仏において無意識であったものが、本願を聞くことに依りて実感せられることになったといってよいものであろう。山川 そこに真実教の宗と体とにおいて、先ず以て﹁体﹂を顕わされたる所以があるのである o したがって﹁行巻﹂ 一部は、すべて念仏者に経験せられ身証されることである o今その二三を挙げて見ょう o ﹁ 大 行とは無碍光如来の名を称するなり﹂それは何故に称名でなくてはならないのであろうか。それは念仏が称名である ことでなくては﹁体﹂を為さないからである。観念の念であったり、念のこころをさとりて申す念であったりしては その念仏は仏と衆生とを結びつけるものとなるであろう。それでは仏と衆生との因縁を感知することができないので ある。念仏は発声を要求しないとしても、必ず称名憶念でなければならない。それが真実教の体としての姿勢である。 その姿勢において経験されるものは﹁よく衆生一切の無明を破し、よく衆生一切の志願を満てたもう﹂ということ おろかさ である。われらの苦楽は欲望に煩い悩まされているものである。その煩悩のこころが念仏するのである。その時その 念仏は、欲望の底にある無明を破りて欲望を純化し、志願として満たすのである。その無明を破ることなくして欲望 を満たそうとするものは邪教であり、ただ無明を破ることにのみ専念するものはさとりの道というものであろうか。 破閤しつつ満願せしめる、それは称名念仏の他ないのである。 こうして﹁この行は請の善法を摂し、諸の徳本を共し、極速円満す、真如一実の功徳宝海なり﹂ということも領解 せられる o ﹁行巻﹂ 一部は、そのことを広説せるものに他ならぬのである。 いみ その﹁行巻﹂に次いで﹁信巻﹂が顕われた。それは名号の休に具わる山哀を明らかにするものである oその義とは、 即ち如来と衆生との因縁である。ここで私は内縁の語意を考えて見たい。国語では由来を肉縁という o因縁とは不思 議のものであり、有難いものであり、速くその由来を尋ねても究まりのないものである。それが如来の本願を語るに o ﹁一切苦悩の衆生海を悲欄して不可思議兆載永劫に菩躍の行を行じたまいし時::﹂といわれた所以であろう。本願 の真実は久遠の場に感知せられて、疑いなく伯楽せられるのである したがって、信心は願力の廻向であるということも、如米と衆生との附縁を泣く由来としてたずねるものに感知せ られるのであろう o ﹁念仏の衆生を摂取して拾てられない。故に阿肱陀と名つく L。それは現に感じられている閃縁 である。けれども、いかなる場合にも過去・未米のない現在というものはない。来至しつつ過ぎゆくもの、それが現 在である oだから現に﹁罪忠生死の凡夫﹂といっても、そこに内感されているものは﹁瞬劫己来、 つねに没し、 ﹃阿弥陀経﹄には﹁何が故に極楽というか﹂とあるものを﹃称 讃浄土経﹄では﹁何の困、何の縁ありてか極楽というか﹂と説いてある。しかれば、仏教に何故という道理は、何の ﹂こで私は、また因縁を道理として考えて見たい。 いわれ ことはない。その因縁は久遠の場において感知されているからである。 然である。けれども全く偶然であるならば、そのまま離別することであろう。 一たび値遇せる因縁は、永遠に尽くる めたものに他ならぬのである。それが今どうして念仏しつつ本願の心を知らしめられたのであろうか。それは全く偶 る。この身には頼むべき何物もない。至誠といっても内に虚仮を懐くものである。信心といっても、自身に思いを深 縁不思議とは、値遇の喜びを現わすものである。それは偶然の背後に測ることのできない必然を感じているものであ しかれば、この遠く由来をたずねる心こそ、 ひるがえって現在の行信を値遇と感ぜしめるのであろう。ここでは因 こうして﹁われらが身の罪障のふかきことも、如来の御恩の高きこと﹂も、久遠の場において実感せられるのである。 て、その自覚を機縁として念仏する心に知らしめられた如来の本願も、久遠の大悲心であると信楽せられるのである。 に流転している﹂ものに他ならぬのであろう。そしてそれが﹁日離の縁なし﹂と思わしめているのである o したがっ 「 〉 因縁ということであると解してよいのであろう。道理とは因縁があることである。因縁のないところには道理がない。 1 9 ね その道理とは国語のいわれである。いわれは言われるということである。だから如来と衆生とに因縁がなければ﹁本 願を信じ念仏をもうさば仏になる﹂という道理はないのであろう。存在を分析し総合するものは論理であっても道理 ではない。それは、 いかに説明されても、 いわれの感じられないものである。 しかれば、本願のいわれということも、そこに如来と衆生との因縁が感ぜられるということであろう oそして、そ ところね の因縁は願言の他に求めることはできない。いわれとは言われであるからである。したがって、如来の本願といって ﹁衆生、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし﹂という。 も、経説の願文を聞思するの他ないのであろう o如来の本願は思想として知識し得るものではない。ただ大悲の心音 として願言を聞いてのみ身に感じられるものである。 その﹁生起本末﹂とは仏願において感ぜられる如来と衆生との因縁の他ないのであろう。こうして﹁信巻﹂は真実教 の﹁宗﹂を明らかにせられたのである。 そのブ正巻﹂に依りて特に明らかにせられたことは、行・信の人生的意義である。浬繋は人生の帰依所であること 十分に明らかにされるということである。 の境地を明らかにするものに違いわない。それはひるがえって、行・信の願力の廻向であることは 7証巻﹂に至りて とを顕わすものであんう。しかれば、行・信の二巻に次いでつ品巻﹂を顕わされたことは、行証の内容を説き、信証 は仏教に限るということである o これ恐らく、仏教にさとりということは身について証明されるということであるこ なし﹂ということは、行・信そのものの自証である。しかして、その行によりて本願の浄土は能感せられ、その信に 、、、、、、、、、 よりて大浬駒栄界が一品知せられるのである。﹁一ぷ﹂の語義はあかしであって、さとりではない。それをさとりと訓ずる c ﹁しかれば、もしは行もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したもう所にあら さ ることあること 四 20 は、仏教の通説である。しかして、その帰依所とは、生の依るところとなり、死の帰するところとなるものである。 だからそれは生死を解脱せる境地ともいわれるのであろう oそれが真宗においては大浬駒栄界の浄土として説かれるこ とになったのは、そこに一切衆生の帰依所ありと行信せられるからである。 ここには、自身と一切衆生との同縁が内感されている。いかにしても愛と憎しみとの煩い悩みを離れることのでき 一切衆生の救われる道でなくては、自身も生死を解脱すること ない人間である。それが人間の業縁というものであろう。しかれば、愛憎の煩悩の織盛なることこそ臼他の因縁の深 さを反顕するものでなくてはならない。したがって、 はできないのであるから、真に自身の救わるる法がありとせば、それは一切衆生の救われる道を具えているものでな くてはならぬのであろう。そのことを身証せしめるものは、行も信も如来の廻向であるということである o ﹁いそぎ浄土のさとり﹂を求めること これに依りて思うに、廻向に往相・還相ありといっても、その廻向の意義を明らかにするものは、特に還相ではな いであろうか。利他教化が﹁思うが如く助けとげられない﹂という悲しみが、 になったのである。とすれば往相自利の道において、還相利他の徳が成就せられることでなくてはならぬのであろう。 それはどうして可能となるであろうか。本願力の廻向によるのである。本願力の廻向であるから往相の行信に、おの ずから還相利他の徳を成就しているのである。 思うに利他教化を以て自身の道とすることは、大乗仏教の精神である。宗祖親驚にとりても、それは生涯をかけて 夢にも現にも忘れることのできなかったものであったのであろう。それだけ﹁思うが如くたすけとぐること﹂のかた きことが痛感されたに違いはない。そこから﹁小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ﹂という反省もせられ ﹁五劫思惟の願をよくよく案ずれば、 ひとえに親驚一人がためなりけり﹂とも思い知られたのであろう。その断念の ﹁来生において﹂と期することほど人間にとりての深い願いはないか 底から現われたものが﹁来生において﹂ということである。しかれば﹁来生の開覚﹂ということにおいて来生の有無 を思想することは無意味といわねばならない。 2 1 らである。 こうして二種の廻向は真実の行信によりて証せられるのである。しかれば、これで真実教は十分に明らかにされた といってよいのであろう o しかるに、 更に ﹁真仏土﹂と﹁化身土﹂との一一巻が編集されることになった。 そこには ﹁改めて﹂の意味があらねばならない。それは前四巻の補説をする必要が感じられたということである。言すでに窮 まりて意なお尽きないものがある。その尽きない意を改めて言い現わそうとする、それが補説である oしたがって、 真化二巻は前回巻のうらづけとなるものである o あるというようなことも﹁行巻﹂における諸仏と阿弥陀との因縁において尽くされているといってよい。それが補説 憶念において摂取不拾の阿弥陀は内感されているのである。だから﹁真仏土巻﹂に顕わされた阿弥陀仏は諸仏の王で ここに前四巻を顧みれば、真仏すなわち阿弥陀仏に就いては、巳に﹁行巻﹂において十分に顕わされている o称名 は﹁真仏土巻﹂は、立仏・真土の巻ではなく、文下通り﹁真仏土﹂の巻であるように思われるのである。 に真仏を断わされたことも、それに依りて真土であることを明らかにせんがためであったのであろう o こうして私に 土は必ず真仏の世界であらねばならぬのであろう。それでなければ真土とはいえぬからである。しかれば﹁真仏土巻 L は無土であるともいわれている。如来に帰依するものは、必ずしも浄土への往生を願うものではない。けれども、真 されど特に﹁真仏土巻﹂の編集された所以は、真仏よりも真土を顕わすことにあったのではないであろうか。真仏 との経釈が挙げられているのである。 また是れ無量光明土なり﹂と顕わしてあるから否認のできないことである o引用の文類も、それに応じて真仏と真土 ﹁真仏土巻﹂は、真仏・真土の巻であると解せられている。それは己に﹁仏は則ち是れ不可思議光如来なり。士は 五 22 であるとすれば、 ただ詳説せられたに過ぎぬようである。しかるに、その即是帰命の称名が、亦是発願廻向之義であ ることに、言きわまりて意の尽きぬものが感ぜられることではないであろうか。 南無阿弥陀仏の﹁場﹂において衆生は白身を見出し、阿弥陀仏を感知せしめられる。その場が一切衆生の帰依所で あると思慕せられる時、そこに浄土というものが願われているのである。した、がって、真仏土こそは、ひるがえって 真実行の意味を明らかにするものとなるのであるう o ここに思い知られることは、真仏土は往生人の位界であること である。己にいうように真仏は土を必要としない。土は往生人の業感である。往生之業念仏為本という。その念仏業 によりて感得するところ、それが浄土である。されど、それは如来の本願によりて成れるところであるから真仏土で ある。そこは即ち、阿弥陀仏と往生人との一味同証の境地である。 これに依りて﹁真仏土巻﹂に顕わすところは、専ら弥陀の浄土は即ち大浬柴界であるということであった﹃大浬紫 経﹄に依りて大浬撲の徳を顕わすにも、特に﹁浄﹂と﹁楽﹂とについて広く引用されたのも、その意であろう。それ は安楽浄土と思い合わされたものではないであろうか。それが、また浄土の祖師たちの一一一口葉においては、浄土は浬繋 界であることを顕わされるものとなっているのである。こうして﹁行巻﹂と﹁真仏土巻﹂との対応が思い知られるの である。 それは更に浄土の祖師たちには、念仏往生の願に酬報せられた弥陀の仏土は、また光明・寿命の願に酬報されたも のと開顕されることになった o欲生我国というその国は、弥陀の国であるから大浬繋界であることはいうまでもない ことであろう o したがって、往生人も、そこで滅度を証するものでなくてはならない。そのことは前四巻で明らかに せられたことである。けれども、そこにも言きわまりて意の尽きないものが感じられる。聖道の諸師には阿弥陀仏と 往生人とは同証であるとは考えられていなかった。そこにも常識があるようである。その常識を超えしめるものは、 弥陀の仏国は光・寿無量の願に酬報せるものであるということである。したがって、真仏土は光・寿無量の願の酬報 2 3 ﹁安養浄利は真の報土なることを顕わす。惑染の凡夫ここに であるということも、それに依って阿弥陀仏の真報身であることを証明するためではなく、阿弥陀仏国の真実報土で あることを顕彰するものである。 ﹂の﹁真仏土巻﹂において、特に心ひかれるものは、 一切衆生の悉有仏性が聞見に止りて眼 おいて性を見ること能わず。煩悩に覆わるるが故に﹂と結ぼれたことである。それが真実証を来生にと期せられたこ とに対応するものであろう o利他教化が思うが如くにならないということも、 見のできないことに依るのではないであろうか。こうして﹁真仏土巻﹂は前回巻を裏づけるものとなっているのであ こうして﹁化身土巻﹂は浄土教の歴史を顕わすものであり、 また求道の歴程を語るものである。その巻頭において とが思い知らしめられるのである。 現実に行信せられている浄土は方便化身土であることが知られ、さらにはその方使により真実が明らかにせられるこ 土﹂巻である。しかして、その反省と意味の発見の根拠となるものが﹁真仏土巻﹂である。その意味の発見に依って 要求に応じている浄土の行信の意味を明らかにせねばならない。その反省における意味の発見を顕わすものが﹁化身 その現実に行われている浄土の行信を反省して、それは真実なるものでないことを明らかにすると共に、その現実の うことは、それが何かの要求に応じているものであることであり、そこに歴史的意味もあるに違いない。とすれば、 浄土信仰と異るものとすれば、それは観念的のものであるということにならぬであろうか。現実に行われているとい る浄土教は果して前四巻に顕わされているようなものであるかどうかということである。真宗が現実に行われている されど、真実の教・行・信・証を顕わす為の補説としては、さらに重要なるものがある。それは現実に行われてい る 。 ノ 、 占 2 4 ﹁濁世の群頑積悪の含識、 いまし九十五種の邪道を出でて半満・権実の法門に入るといえども、真なるものは甚だ以 て難く、実なるものは甚だ以て希なり o偽なるものは甚だ以て多く、虚なるものは甚だ以て滋し、﹂これに依りて浄 土教は説かれることになったと述べられている。これは、仏教はもともと外追の邪執を離れるところに意味があるの であるにも拘らず、実際には外道化を免れない。その反省から浄土が顕われることになったということである。 ここで明らかにしておかねばならぬことは、外教と仏教との相違である o外教は外の解脱を説き、仏教は内の解脱 を説くものである。一言いかえれば、外教は救いを自覚の外に求めるものであり、仏教は救いを自覚に即して求めるも のである。あるいはまた外教は神と人間との存在を信心に依りて結びつけようとするものであり、仏教は悶縁の道理 において仏と衆生とを見るものである。したがって外教は、善悪と禍福との摂理者を信ずるものである。そこには善 は必ず福を招き、悪は必ず禍を来すものであるという予定観念があるようである。それこそ一般にレリィジョンとい われているものの性格ではないであろうか。それが罪福信といわれているものである。そして、それが人間の運命の 不可測であることに対しての原始的なる宗教心である o しかるに、その罪福を信ずる心は、実は罪福に迷うているのである o仏陀釈迦の教は、その自覚から現われたので ある。したがって、大乗仏教もまた罪福信に執えられるものであってはならない。それにも拘らず、仏国をこの世に 実現しようとする菩薩道は﹁外道の相善﹂と同じようなものになった oそれは広く仏教の歴史にも見ることができる であろう oされど親驚にとりでは、南都北嶺に見られる現前の事実であった。ここに真実に仏道を成就するためには 彼岸の浄土においてと願わざるを得ないことになったのである。 ﹁彼の世界の相を観ずる﹂ということにも、そ しかるに、こうして浄土への往生を願うものにとりでは、何よりもその浄土の性格を知ることであろう。恰もこの 要求に応ずるものの如くに説かれたるものは﹃観無量寿経﹄である。 の願があったのではないであろうか。その﹁観﹂の方法として定善が説かれ、その観られたる浄土への行として散善 25 が説かれたことは、 まことに願生者の要求に応ずるものといわねばならない。まさにこれ釈迦の慈悲方便といただく べきものである。 されど、その定散二善というも、阿弥陀の存在を確かめて念仏し、浄土の性格を知ってから願生しようということ であれば、依然として罪福信を離れないものではないであろうか。そのことが自覚されて見れば、浄土を願うものは ただ本願を信じ念仏もうす他ないこととなるであろう。そこに法然上人の唱説があったのである。 したがって、本願を信ずるということは、念仏もうすことと別なものではない。それは真実教の宗・体の意義とし て明らかなることである。されど実際には信心と念仏とは内面的にではなく、外部からの関係として求められている のではないであろうか。念仏のこころに大悲の願心をいただくことを忘れて、念仏すれば救われるに違いわない。そ れが本願であるから、というところには依然として罪福信が潜在している。されど専修念仏における罪福信を自覚し て、それを離れしめるものは、その専修念仏の他にはないのである。したがって専修念仏者こそは、特に罪福信の離 れがたきことを、深白悔責して本願を信楽せねばならぬのである。その念仏を他にして本願を信ずるというは、畢克こ れ本願思想を頼むものである。本願は観念でもなく思想でもないことを思い知らしめるものは、専修念仏に他ならぬ のである。 こうして﹁化身士巻﹂は、浄土教の展開の上に、白身の求道の歴程を顧みつつ、その帰結において真実の行信を明 らかにせられたのである。 如来の願心において根本のものであらねばならない。とすれば、その久遠の真実は歴史的展開の底を貫ぬき、定散二 しかるに己にいうように、本願の巾米は久遠の真実である。したがって、われらの求道において到達せるものは、 七 〆 2 6 主口を説かれた経説にも、何とかして罪福信をひるがえして、真実の信楽に帰入せしめたいという仏意があるのであろ ぅ。その底を貫ぬくもの、か感知さるれば、歴史的に展開された浄土は真仏土を象徴する化身土として思慕せられ、そ の真実の信楽に帰入すれば、定欣二苔の経説も慈悲方便であるといただける。そこに﹁方便化身士巻﹂といわれる所 以があるのである。 したがって﹁化身土巻﹂の妙日は、阿弥陀の浄土は真化不二であり、浄土の経説に善巧方便あることを顕わすにあ るのである。そして、それに依りてのみ、われらは罪恒心を自責して真尖の信楽をうるのである oしかるに、浄土の 経説の慈悲方便を顕わすものは、特に﹃観無量寿経﹄である。苦悩の衆生の代表者であるぷ促希に対しての仏陀釈迦 の慈悲は、立提希の要求に応じつつ、如来の智慧へと導びかれる。そこに教活の合みがある。その教一請の含みが隠顕 の文言だけではなく、 ﹃観経﹄は不可解のものともなるのである。 ﹃観経﹄の至るところにその旨魁を感ずること、ができるのであろう o かえってその隠顕の方便 と感じられるものである。畢克これ仏説の親切である。その親切さが了解さるれば﹁化身土巻﹂に挙一市せられた十三 を感じないものには、 ﹁真仏土巻﹂を結ぶにあたりて﹁既に以 ここで本願のこころを思う o真仏土は光寿無量の願に依ると顕わされた。されど、その外に化身土を顕わす願はな ぃ。しかれば、化身土もまた光寿無量の願に依るものではないであろうか。 ﹁阿弥陀如来は、如より来生して、種々の報応化身を示現したもう、﹂それが光寿無量の徳用である。 て真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり o故に知んぬ、報仏土なりということを﹂というは、それを顕わすものと思わ れる。 しかるに、その光寿無量の浄土は、念仏往生の問、に酬報せるものである。それに対して化身土の業困となる定散二 昔習を誘引し、専修念仏へと帰入せしめるものは、修諸功徳の願と植諸徳本の願であると開顕せられた。それは願は願 を生ずる大悲心に依るものであろう。しかし、そうあらしめるところに光寿無量の願があるのではないであろうか。 こうして本願の系譜をたずねることは凡智の及ぶことではない。私は、ここではただ如来の本願とは、即ち是れ久 27 遠の真実であることを思う。慈悲とは阿弥陀の併に具れる俗であり、本願とはその慈悲の表現であると語られている。 されど、真実は本願の他に阿弥陀と呼ばれる体があるのではない。本願そのものが阿弥陀の休である o その久遠の真 ー昭和四0 ・四・二五| 実に依りて人間の精神史も、求道の人生も成立することを顕わせるもの、それが二部作﹃教行信証﹄である o 伊東慧明 r n 大学院博士課程二回生 京都市下京区正面東洞院東入ル重信仰対 笠原 名誉教授・文博 鎌倉市大船松ケ同文山 東京大学助教授 三 / 東京都文京区白山一丁H一 文部省宗務課・文博 埼玉県川口市飯塚町三ノ二二五 鈴木大拙 一男 講師 京都市下京区正面東川院東入ル重信寮 真宗ば﹁教行信証﹂前四巻で十分に顕わされている、後二巻は必要でない、という意見がある。私はその意見を尊重する。 そして、それなればこそ、後二巻は第二部として編集されねばならなかった意味を推求せずにおれぬのである 3偏えに同学の 是正を乞う次第である。 f f i J 松井憲 ! 丸 学長・名誉教授 京都市東山区今熊野南日吉町四O 、 忌 二 f 助教授 大阪府高槻市東五百住八一一常見守内 日 力 曾我量、深 介 i二 松野純孝 者 名誉教授 京都市左京区下鴨北芝町三四 紹 区 金子大栄 安田理深 細川行信 書 店 以講 者 l r 市自日I 北 執 28 心 荘 厳 安 田 理 深 ればならない。然らずぱ如は如たるにとどまって来ということも出来ないであろう。 り、世界はどこまでも如来の境界である。然し自覚という限り、それは実存的自己とのかかわりを有ったものでなけ 超えるとともに、その根底にめざめた自己に於て、全実存を包括する世界となるのである。願は勿論如来の本願であ って、 まさに実存を成就するということが出来るかと思うのである o願は実存の根底として、どこまでも自己を底に 本願は世界の根源であり、世界は根源の意味開示である o本願は実存に自己を意味の世界として開示することによ するところの、存在の意味の世界であるということが出来るかと思う υ ければならない。そして荘厳功徳成就とは、実存の根底である本願が、呼ひざましたところの実存の自覚の内に開示 在の木願によって、存在そのものに呼びかえされた自覚であればこそ、その自覚の心が願生として表白されたのでな 弘誓之仏地というが如き意味のものがあるであろう。自己の根底を忘却していたところの実存が、その根底である存 述べている o願生というのであるから、そこには自己の根底にめざめた自覚というものがあるであろう o親驚の樹心 世親はその願生備に於て、如来の世界を、荘厳功徳成就という相を以て表し、それを内容として自己の願生の心を J 超越といい包括ということは無関係ということではなくして、むしろ絶対的関係である o超えるのは何かを超えて 29 願 何かの根拠となる超越的関係であり、包むのは何かを超えたものが何かを生かす世界となる包括関係である。実存が 自覚的存在として成就するということは、かかる包越的関係という存在構造にかえるということである。喪失してい た本来関係を快復するということである。かかる関係をほかにして存在はないともいい得る。存在とは関係存在であ る。超越的関係による関係存在としての実存は、 いわば如来内存在ということが出来る。 根底となる存在自体が願として存在するということには、人間という実存に取ってそれが覆われたものであるとい う意義があるであろう。忘却していることは覆われていることである。しかし覆われているのは無ということではな ぃ。忘却しているのであれば無というに異ならないともいい得るでもあろう。忘却はやがで喪失である。しかし、そ れは無となったのではなくして無とされているに過ぎないのである o無ということは実存の側にあるのであって実存 の根拠たる存在そのものにあるのではない。存在そのものを忘却している実存もなお生きているのである。生きてい るものも生きている存在の意味を見出さなければ生きていることの意義もなくなるであろう。実存の根底たる存在そ のものはそれゆえに、実存が唯だそれにめざめるということ、然もめざめるという唯だその一事によってのみ、その 根底たる存在そのものを新しく確認し、 またその再確認によって確認するもの白身の生きていることの意味を獲得す るのである。 実存がいかにその根氏を失っても、根氏そのものはやはり根氏を失ったア、存の根底である。それが心事物存在であろ うが全体的存在であろうが、凡そ存在者に取って、あるがままの存在そのものは、それに超越的に根氏である。或い は超越的に関係すること、が根I Kである cあるがままがあるがままを失わずして、あるがままならざるものにかかわる ことが根底である。それは実存の側に無としても、それ白身に無であるのではなく、新しくそれを確認しても、確認 によって有となったのではない。有企離れ無を離れ、それ自身によってそれ自身を維持するの、か、存在が存在のまま であることである。 3 0 忘却の無ということも、確認の有ということも、すべて実存の自覚に関する事柄である。そして存在が根底である ということが本願ということであろう o根底の超越的関係が、市なる静止的関係でなくして働く関係である場合、そ れは本願といわざるを得ない。本は根底であるが、根本が働くのが願である。それ自身に有にあらず無にあらざるも のが、 よく無として働き有として働くのである o働く根底は願ということが出来る。 勿論、働くといっても、それ自身を失って働くのではない。存在が存在するのである。存在が存在に静止するので はなく、存在が実存に存在するのである。存在はいかなる存在者をもっても自己の本質とするのではない。有にも非 らず無にも非らざる本有である。それゆえにこそ、すべての存在者をもって自己自体とするということが出来る。存 在は実存に存在することによって、実存を存在せしめるのである。存在が存在のままであることがそのまま実存に存 在し、実存を存在せしめることであるのである。存在が存在のままであることはノエシス的にいえば知ることであり 存在し、 また存在せしめることは悲の働きである。知るままが働くことである。知ることとしての願を願心というな らば、働くこととしての願は願力といってもよい。自他不二と知ることの上に白が他となることによって、他を自と する働きが成立つということ、が出来る。 かかるわけで存在する存在が願であり、根拠する根底、が願である。願は覆われた存在である。人間の実存がそれを 喪失しても、存在は実存を喪失せぬのである。そこには実存にめざめという唯だ一つの事が要められているのである。 実存のめざめを原点として、存在が自覚存在として自己を実現し、実存は実現された存在の意味をもって実存を成就 するを得るのである。 かく存在が実存のめざめを待って自己を実現し、実現された意味をもって実現を充足するということは、有の覆わ れた存在としての願の関係よりいえば、 まさに聞かれた存在としての願である o覆われたる根底は聞かれて世界とな るのである o根底たる願が大地と象徴されるのに対応して、聞かれたる世界は光を以って象徴されるのは、願によっ 3 1 て開示された存在を見るを得るからである。実存が実存を存在する存在と見るを得るからである。実存のままが存在 のままであるを見るからである。人間の実存を人聞からでなくして、それを底に超えた根拠を以って包摂する関係よ りみれば、実存は如来内存在である o如来は願として自己の超越的根拠となり、その根拠にめざましめ、根源にめざ めた実存に根拠を開示し展開するのである。世界というも根底の外に世界があるのではなく、根底が世界となるので ある。 勿論、根底が陀界となるのは、前述の如く実存のめざめによる。然し実存のめざめを要するということは、如来内 存在の存在構造が不完全であることを意味するものではない。如来内存在が如来内存在として現行することである。 如来内存在の願が如来内存在の世界として成就することである。ただその為に白覚を必要とするのである。自覚する E 意識の場を必要とするのである。根氏である存在が世界として聞かれる場となることの出来る意識を必要とするので ある。 願生心の存在論はどこまでも自覚的存在論である。親鴛は世親の願、生の一心を広大無碍の一心というている o存在 の如来性を開示している心であるからである o存在のままの心であるからである。世親は願生の心に於て、自己を超 えた如来を以て、然も自己自身を表現しているのである。白己は主観的自己を底に破ることによって、却って無底の 根拠を以て日己となす主体的自己であることをうるのである。品川⋮も自己であるを得た心にのみ、如来ならざるはなき 世界は与えられる。如米のままなる事物に遇うといってもよいかと思う。主体的自己であることの出来る意識は、同 時にまた如来の世界が与えられることの出来る意識である。 如来として世界は、長初に述べた如く、荘成功徳成就を相とする世界である。自己の根底が自己に聞く世界が功徳 の成就をもって荘厳された限界といわれることは、自己、か自己を超えて答えられるということである o超越的な意味 をもって実存が充足されるということである。超越的根底が世界として開かれるのであるから、本願によって自己が 32 自己に先立って問われ、世界として自己は自己の予想を超えて答えられるのである o人間的実存が人間的にでなくて 超越的意味を以て充足されることである。人間的要求の撤回というが如きかたちで充足されることである。それは存 在的に自体的に満たされること、出火存が何かとしてでなく、存在そのものとして成就されることである。 自己の根底的自覚が親鰐の所謂樹心弘誓之仏地というものであるとすれば、荘厳功徳成就の世界を有つというとこ ろには、流情難思法界というに当るものがあるかと思う。それは願生の自覚に相応して生起するところの得生の感情 である。曇驚も得生者の情という o感情という限りそれは実存の意識に在るのである oそれでなければ生ということ も得ということも出来ないわけである。得生はどこまでも実存に於ける事柄である。然し曇驚もまた無生の生という 如く、存在の真理たるあるがままの影となっている感情である。純なる感情である。願生が超越的根底の実存的自覚 であるが如く、得生はその白覚に於て開示され、 またその自覚に相応する超越的意味の充足感情である。 無生或は不生は、法性といい如理といわれている如く、存在が何かの存在ではなくして存在それ自らとして存在た る存在の法雨性である。何かとして存在するものに就て初めて生起が語られ得るのである。何か存在するものがあれ ばこそ、そのものが生ずるのである。生ずるものは同時滅尽するものである。生若しくは滅は、存在するものという 存在の実体に就ての述語に過ぎない。実体的存在は考えられた形而上学的存在にほかならない。存在のあるがままな る法爾性は考えられたものの絶対的な彼方であり、 また以前である。非安立といわれる所以である。 存在はあるものでなければ同時に無いものでも無いのである。すべて対象化の全き以前である。対象的思惟に先立 って己に実存している。非安立なる存在こそ実存である。存在は実体や有無の存在範障によって立てられるものでは なくして、存在を維持するものはまた存在自身である。自然といわれる所以である o法爾といわれる所以である。実 体ならざる存在こそ却って一切の何かの存在をして存在せしめている真理である。 かかる存在の法爾性から逆に生滅せる何かの存在をみれば、それは何かの存在は存在の何かである。不生のままの 3 3 生であり、不滅のままの滅である o それが純粋事実としての生滅であるといわなければならない o存在の真理とは一 切をそれに於てあらしめるの謂いである。 一切のあれこれの存在は、存在の真理に於けるものとして、相なき存在の 相となるであろう o こうした存在の立場に於て実存の生というものの意義を考れば、実存の生は、存在の無生を象徴 する相となったということである。得生者の生は無生を象徴する感情である。それはいわば、存在のかたじけなさと もいうべき、実存の充足感情である。いまここに誰かとして生きであることが、そのままに不生の存在を生きている ﹂とのかたじけなきである。 右の如、き願生並びに得生という表現の意義を一般的な概念を以ていいかえれば、それによって宗教的自覚とか宗教 的体験とかいうものが言表されているのである o宗教心というものが具体的内容を以て自覚的体験的に表現されてい るのである。 然し宗教の問題というものは自己実存の問題であろう。究極的には存在の問題であろう。自己の存在が聞いとなる ことであろう。不安というが如き実存概念は最もよくこの意義を語るようである。宗教心というものが人間にその存 在の問題を課するものであり、人間に存在を答えるものも、 また宗教心であるということが出来るであろう o同時に 存在の問題も宗教問題となるとき、始めて究極的な意味のものとなるであろう。願生並びに得生という言表には、最 も現実的なる存在たる自己が最も究極的な存在たる自己として語られている。自己が自己よりも遠く、然もそれが自 己よりも自己に近い存在として語られているのである。 願生は自己が自己の根一冗の存在に呼びかえされた自覚である。根元の存在はむしろ根元的自己である。存在の存在 性は存在が存在のままであることである。そのままであることにも勝れて近いことはないであろう。最も近い存在は 最も近いが故に却って深淵であるのである。 自己が自己のままであることは、却って自己に深遠であるのである。そのままが深遠なのである。対象的思惟の立 3 4 場に立っている意識に取っては、そのままたることは立場にかくされてしまうのである。そのままは立場の脚下とし て最も内面的である oそのままは内に深遠であるというも、そのまま、が自らかくれるのではない o音山識が立場を取る ことがかくすのである。そのままを思惟すれば思惟するほど深く、思惟の氏を破って深い。然もその深みが実にその ままであることである。思惟すれば思惟するほど深いということは、それゆえ却ってそのままとして顕われていると もいい得るのである。光明の深淵﹀52ロ門日常田口円吉田という神秘家の表現もあることである。 そのままが深遠であるとは、 やがて無限に豊かなる意味内容を蔵することである。蓮華蔵位界といわれる所以であ るo存在が思惟を超えて顕われていることが世界であることである。無底の根元は同時に無限に豊かなる意味を公開 する世界であるのである。願生の心はかくして、人聞をそのままの存在の根元にめざましめることによって、広大無 辺なる意味の世界に得生せしめるものである。ありのままが深遠にして広大である o世界の広大性は実に根元の深遠 性の広大なることを証明するものといい得るであろう。深きものが広いのである o顕わなることは覆われたるものを 現わすの謂いである o かくして願生といい得生という表現の意義は、宗教の問題が人間にその存在の超越的意味を聞い、且つ答えること によって、人聞を自覚的実存として成就するところにあるを語るものということが出来るのである。宗教の問題は人 聞の存在の問題、存在の意味の問題である。人間存在の意味意識のあるところに、既に宗教意識が働いているのであ る。宗教心の根源としての本願は人間の願というよりも、人聞をその存在にめざます存在の顕である。法性心の願で ある。無願の顕であるわけである。世界というも法性界として超世界的世界である。かかる意識によって、本願は人 聞に忘却せる存在を恢復せしめ、喪失せる意味を見い出さしめるものである。 身冨苫は既に土日内認可白 さて存在の意味ということに就てであるが、世親が荘厳功徳成就というところのものは、実は如来自身であるとと もに、如来の世界たる国土でもあるのである。国土として荘厳された法身の意義である。 3 5 に対応して、所調衆生世間と器世間との関係を有つのである o国土は環境を意味する器世間である。或は世間の環境 的側面として衆生世間たる身を予想する概念である。身は自身というが如く、自体を意味する概念である。衆生それ 自体と及びその環境という世間の構造を表わすのである。二種世間が世界の構造である。清浄世間は如来自体と及び その国土である。無著は阿頼耶識を転じて法身を得るという。菩提の願心は自己︵阿頼耶識︶を回転して法身を成就 せしめるの謂である。この二種世間の構造の表す関係を受用という。受用は生の関係である o環境を受用することに よって自身を保持することが生である。随って法身を受用身という。それゆえ世親も受用功徳を安立して、愛楽仏法 味禅コ一味為食という。勿論これは一つの讃歌として、詩的表現であるが、功徳は意味巴ロロを意味するものとして理 解することが出来るのではないかと思う。受用するのは意味合︶受用するのである。 世親は荘厳功徳に就て略説一法句広説二十九句としてコ一類二十九種の功徳を安立するのであるが、この種々なる功 徳の成就は、これを以て国土の国土たる意味を成就するがためである o種々なる功徳はすべて受用さるべきものであ るが、 まさしく受用さるべきものであることを表現するのが受用功徳の荘厳の有つ意義である。それゆえ曇驚も、論 の三類二十九種をまとめて、仏国土清浄味、摂受衆生大乗味、昼十克住持不虚作味、類事起行願取仏土味という。われ われはこれによって浄土の意義を種々なる意味の世界と理解することが出来る。 意味はいうまでもなく存在の意味である。法性の意味である。略説一法旬の一法とは法性である、法性一味である。 存布の法性の内に見出されるところの種々なる意味である。位親はこの略晶一法句広説二十九句を自ら解釈して第一 Q 無相の内に無尽 義諦妙境界相という。所謂唯仏与仏知日見の世界である。 一法旬たる法性は第一義諸に属するもの、二十九種の功徳は 妙境界相の意義を有つのである。法性は無相であるが、種々なる功徳は妙智の行ずる境界相である の意味を受用するのである。受刑するとは智をもって観ずることである。解保密経にもその勝義諸相口聞に於て、勝義 諦たる法性が一遍一切一味相と説かれている。 36 存在の法性の意味は平等一味の意味である。それは無限に豊かなる種々なる意味を蔵するのである。種々なる意味 はそのままに法爾の意味を出でぬのである。それが一切の存在がそのままに自体満足し、各々に安立するをうるの意 義である。そのままであることの意味こそ最勝義の意味である。無の意味こそが意味の意味である。 法性は、既に述べた如く、対象的思惟の対象にならぬものである o対象領域として立てられた存在はもはや存在そ のものではあり得ない。しかし、いかにしても知られぬものは無という外はないであろう。存在それ白身も存在として 知られたのでなければ一法も一法句と略説されることが出来ない。存在そのものの意味であるところの、そのままは そのままと成ることによって知られるのでなければならない。成ることが知ることである。これ即ち無分別智である。 無分別もなお智であるのである。成ることが知ることであるが如き智は即ち自内証智である。対象的にとらえるの でないから、証というのである。成ることが知ることであるから白というのである。自証的自覚はそれゆえ最も直接 的である。そのままであることがそのままに知られたことである o そのままがそのままを知るのである。 かかる直接的な知りかたを、それゆえ触という。法性は自ら触さるべきものにして対象的に思惟されるのではない。 対象的に考えられたそのままは、そのままではなくして、そのままという表象に過ぎない。回ロロには触覚というが 如き直接的な経験の意味をも意味するのである。存在の意味は触れられる意味である、味覚される意味である o 田口口 n r な意味があればこそ、実存たる人聞を充足することが出来るのである。 にはかかる包ロロr しかし巴ロロは同時に意味たる意味に於て、どこまでも超越的である o超作用である。そのままがそのままである F22 町一与というが如き意 ことは事実とか作用とかを超えて、そのまま自身であるのである。そのままには巧ち 味がある。如理といわるる所以である。そのままはそれ自身によってそれ自身を維持しているのである。それを知る か知らざるかに無関係である。それゆえ解深密経にも、如来出世若不出世、諸法法性安立、法界安住という。 真理はそれを知ることによりてあるのでなく、知らざることによって無となるのではない。真理は不変異である。 37 かかる超越性を有っところに意味の意味するところがある o然しかかる意味の意味性も、それが不変異にあるといわ るる限り、あるといい得る場がなければならない。然らずは不変異であるともいい得ぬのである。超越性は無関係と いうことではない筈である。勿論それを受ける場は対象的思惟の意識ではない。触といい証というもやはり意識なの である。無分別の意識である。無の鏡である意識である。かかる無の鏡たる意識を場としてありのままは始めて用ら くのである。 やはり意味の用らく場というものがなければ、超越的ともいうことは出来ぬのである。無の意識こそ、そのままを そのままの意味を開示する場となるのである o存在にめざめた心は無の鏡となった心である。心は自らを空くするこ とによって存在をありのままに語らしめるということが出来る。存在にかえった心である法性心に心法性は自らを開 示するのである。意識が自ら存在にかえれば、 かえった自覚に存在の意味は用らくのである。用らくことによって意 万三 ︶れを往柑という。 浄土のさとりを身につけて煩悩の人生に順応す ,弓フ あろう。それを指示するものは、真実の教行である。 ょ これによりて、本阪の教法を浄土真宗と名ぶのである。 金子大栄著﹁口語訳教行信託﹂鎖解より 具わり、還相を体として住相が現われるのである。しかれば、往還というも、ただ本齢、力を信託するの他ないで である。即ち、木制力の川地内によりて、作還は、この身に成就するのである。したがって、往相には還相の復が る。これを法相というのである。しかるに、その伐還は、白力の歩行ではない。ひとえに如来の本願力に依るの 真 味は意味をふ八うのでなく、超越のままに実存にかかわるということが出来るであろう。 土 動乱の現世を超えて、静寂の浄土に向う。 浄 3 8 真 め 定 壬 . . , . 刀ミ 血 隆 の ﹁真宗興隆ノ大祖﹂について、先年問題にされた上人の もって讃嘆されている o こうした浄土真宗を聞かれた 真宗ヒラキッ、選択本願ノヘタマフ﹂と、全き敬度を には﹁智慧光ノチカラヨリ本師源空アラハレテ浄土 ﹁真宗興隆ノ大祖源空法師﹂と明示し、﹃高僧和讃﹄ 示すものであろう oそして同じく後序には、上人をぱ、 は﹁よきひと﹂を外にして﹁愚身﹂の存在しないことを 喜の事どもは、いずれも師上人についての回想で、それ い出を書きのせられた。そして、そこに記録された悲・ 証﹄の後序に、恩師法然上人を偲びながら、忘れ得ぬ想 ほとんど自己の履歴を語ることなく、わずかに﹃教行信 親鱒聖人は、九十年という長い生涯にもかかわらず、 じ に考えるべきか、そして浄土真宗を聞かれた法然上人を 行状、とくに臨終の行儀における理解しがたい点を如何 来 田 EEEF − 行 信 る二重の面を提起された福井康順博士は、とくに上人が れるところがあった。ところで、右のような上人におけ き二重の面があり、帰浄されたもの量定され吠っ たとして、先年来こうした問題をめぐり、種々に論じら 、さらに上人が晩年まで長崎黒谷﹂の沙円 であった事は、上人自身に﹁内専修外天台﹂とも称すべ れない v p の念仏門への帰入がそのままに浄土宗の開創とは見倣さ ︵源空聖人私日記・伝法絵・法然上人行状函図六など︶、が、こ 修念仏に帰入されたのは、四十三歳の時と認められる まず、法然上人の行状についてうかがうに、上人が専 料をもとめつつ、わたくしなりに明らかにしてゆきたい。 ろうか o今こうした二点を中心として、それに関する史 そののち形成される真宗教団は如何に崇敬してきたであ 祖 臨終に﹁慈覚大師ノ九条ノ袈裟ヲカケ頭北面西ニシテ﹂ 39 t 主 大 ︵一二O四︶信空上人署名の円頓戒授与の譜脈には﹁︵前略︶ れた﹁聖覚法印わが心をしれり﹂︵一七︶という上人の言 される。しかも博士は、﹃法然上人行状画図﹄に載せら の意味においては、山門を全く捨離してはいないと想定 上人への血脈を示すものである。こうした法然上人の戒 慈眼一房叡空上人へ、そして更に同じく黒谷の法然房源空 と載せられるが、これは大原の良忍上人から西塔黒谷の ・::良忍上んll 門 川 ︵私日記︶往生された事に注意され、臨終の際にまで厳密 葉より、上人が当時かくれもなき天台僧の聖覚法印と同 師としての地位は、聖道諸宗の師主からも帰仰をうけ、 μ 慈限房l|源空上人||信空﹂ じような念仏者であろうとして、内に専修に帰されつつ たとえば上人と対照的な立場にあった明恵上人も、その ④ も、なお外は天台の僧であることを強調された。 たことは、のちに﹃元亨釈書﹄の中で﹁盛説二専修及円頓 風﹂︵慧解二之四︶と載せる如く、 菩薩大戒﹁給白鷹然向 ν 持戒浄行に対して深く仰信を懐いた事が知られ、こうし 二帖を稿了された親鰭聖人は、前者において上人の木地 専修念仏の宣説と共に、上人の人格を知る上に重要なこ これについて、法然上人三十七回思の年にあたる宝治 を、後者にその垂述を讃えるとともに、上人に関する和 とと思われる。すなわち、このことは士口水において専修 二年正月二十一日、﹃浄土和讃﹄・﹃浄土高僧和讃﹄の 讃を以って結ぼれたことは、あと四日に迫った恩師の正 とが、決して矛盾するものでないことを示し、その時代 念仏を唱導する事と、天台宗に僧籍をもっ戒師である事 に生きられた上人を知ろうとする場合、仮りに私なりの 当怠に備えたものと考えられる o ところで、この二十首 であり、又そのなかの六首までが臨終の行儀を讃喫され 表現を用いれば、旧一⋮谷沙門という社会的な環境と、専修 の﹁源空聖人﹂和讃のうち、十八首までが伝記について たもので、これらはいずれも、既に一一戸われる如く﹃私日 m併すべきであろうと考える。今、こうした内なる心と 念仏者としての宗教的な心境との、二つの立場において れた瑞相と共に、私は第六首の﹁一心金剛戒師﹂︵国宝本 外なる相とに関して、上人と宗教的立場においては深く 記﹄によられたものと思われるが、実は、そこに旧民べら に依る︶とある一句に、上下にわたる上人尊崇の実態を 次第に聖近話宗を誹訪し社会秩序を惑乱せしめると、こ 枯ばれていた聖党法印も、上人をとりまく専修念仏者、か 思い浮べるものである。すなわち、この一心金剛戒は大 乗円頓戒であり、かつて高山寺より発見された元久元年 40 これについて、嘉禄三年の法難に際し、﹃皇帝紀抄﹄に こに断乎としてその弾圧に乗り出さざるをえなかった。 いたり、 ここに白らの属する山門より専修念仏の﹁張本﹂ とし﹂︵行状画凶四二︶ と駁して﹃選択集﹄を弁護するに た。これに対して、兼突の弟であり、同度まで天台座主 に処刑され、ついに山門における地位をも失うにいたっ の要職を勤めた慈円僧正の場合、その一信仰は一面におい ︵息帝紀抄・明月記︶と目されて、空阿弥陀仏や成覚一民と共 して当時、探題職にあった︵探題次第︶聖覚法印は︶当然 て熱心な念仏者であるが、しかしより重要な事は、彼が は﹁十月十五日山門僧綱以下、三綱所司、日吉社司等 その停廃側に立つこととなり、﹃金綱集﹄には﹁去月十 顕密の忠実な継受者であって、この点が法然上人と相容 申専修念仏宗停廃事一﹂︵八︶とあり、一一一綱に 群参、訴ニ l 五日聖覚・貞一芸・宗源・朝晴・延真陳参、以聖覚一為ニ れないと言われる oところで、それにも拘らず、嘉禎三 ︵ヰlRA ︸ E口 ニ 上 之 L ︵五︶と、 云口文聖?氷可レ被レ停ニ廃念仏宗一之由 一 年︵一二三七︶航空の撰になる﹃伝法絵﹄によれば、上人 $ まさしく停止の推進者であったと認められる。ところで の帰洛に際し﹁御沙汰として、大谷の禅房に居住﹂︵一二︶ せしめ、上人の七七忌辰に﹁御調論文﹂︵四︶を捧げたと ︵法然︶ 流罪に処せられた。この隆寛律師は﹁上人ツネニノタマ 実はこの法難によって、法印と同じ天台僧の隆寛律師が ヒケルハ、吾カ後一一念仏往生ノ義スクニイハムスル人ハ いう o若しこの伝え、が事実とすれば、法然との宗教的立 致するものでないから、今の場合も﹁士口水の大僧正﹂と 聖覚ト隆寛トナリト﹂︵明義進行集三︶と言われるように、 いう社会的立場において認めて差支えないであろう。し みてきた如く、宗教的立場と社会的立場とは必ずしも一 ﹁日本国天台山首梼厳院戒心谷権律師隆寛﹂︵中・下巻奥書︶ かし、それは兎も角として、慈円、がその著﹃愚管抄﹄に 場での相異と矛盾するようである。しかし、これは先に 入 二 ν 念仏往生の宗教的立場において、聖覚とも同致であった 浄土一門一所一両一専在恵心古風﹁然恵心票一一慈恵町資義 法然上人の行状、とくに臨終について﹁ソレモ往生/\ と思われる o しかし隆寛が、その著﹃極楽浄土宗義﹄に 趣定以無一一違一歎し︵巻末︶と記したものの、並榎の竪者定 ト云ナシテ人集マリケレド、サルタシカナル事モナシ、 テテコト と誌し、﹁就中隆寛昔住一事厳院一呑酌ニ彼遺流﹁今一臨 照の﹃弾選択﹄に対して﹃顕選択﹄を著わし、そのなか 臨終行儀モ僧賀上人ナドノヤウニハイハル、事モナシ、 ︵ 増 ︶ で﹁汝が僻破のあたらざる事、たとへば暗天の飛磯のご 4 1 って、こうした表現にも宗教的心境の相異のほどが察せ と、その述べるところ、寒によそよそしくも冷淡であ 猶ソノ魚鳥女犯ノ専修ハ大方エトマメラレヌニヤ﹂︵六︶ 門下といえども見写を許されたものは極めて少く、わず 属は、その書が公聞を障るものであったために、上人の 決定往生之徴也﹂と誌された。このうち﹃選択集﹄の付 人よりの恩恕について、聖人は﹁是専念正業之徳也、是 時に﹃選択集﹄の付属と真影の図画を許された。この上 られよう o ところが、これとは全く反対に、法然上人 かに隆寛︵伝法絵・明義進行集︶・証空︵選択密要決︶・弁長 ヵ、ル事モアリシカパ、是ハ昨今マデシリビキヲシテ、 に自己の全体を挙げて帰依する親驚聖人の場合、その臨 ︵徹選択集︶・信空︵行状絵図四一︶、それに執筆の安楽・真 既に言われるように、このころ禅宗で行われた頂相の風 スタシ 終にあわれなかったにも拘らず、﹁奇瑞不二一可一一称計一見ニ 観︵密要決・行状画図一一︶を加えても、わが聖人を含めて 習によるものと思われ、頂相が﹁善知識ノ会下一一参シテ ルノヲモカラタ 別伝一﹂と﹁別伝﹂︵私日記と推定︶に記載される奇瑞を、 七名を数えるに過ぎす、まさしく﹁獲 ι 此見写一之徒甚 以上、わたくしなりに述べたところを要約すると、法 頂相一幅・法語一軸ヲ懇請シテ嗣法ノ標準一一ソナフ﹂ ν 分別を超えた宗教的立場において確信され、この立場に 以難﹂といわれるものである。さらに、真影の図画にい 然上人の捨聖帰浄は宗教的心境で言われ、この事は天台 一ア おいて聖人はまた、聖覚法印や隆寛律師をも尊崇された たっては、聖人のほかにその例を知りえないが、これは 僧・戒師という外相をこえた根元的立場を示すものであ ︵正法眼蔵一六︶と、付法の徴証となるものであるから、 ⑥ ものであろう。 って、かかる宗教的敬度感情においてこそ、児解しがた 聖人が入室後わずか五年にして真影図画の恩許を得たの 徴﹂というほかないであろう o は、まったく破格のことであり、まことに﹁決定往生之 いとされる入滅の瑞相も領解されるものではなかろう 述。 , 刀 ﹃選択集﹄は今も知りえない、か、一方の真影は、中沢見 ところで、 右の﹃選択集﹄と上人真影について、その 建仁元年、一一十九歳にして親驚聖人は、師上人と宗教 明氏によって妙源寺所蔵の﹁選択相伝の御影﹂が紹介さ ⑦ 的心境を同じうすることとなったが、ついで三十三歳の 4 2 わゆる﹁足曳の御影﹂において、そこに日用の風呂敷包 異った親しみを覚える。このことは、とくに二尊院のい 禅僧の頂相と比較してみると、概して頂相の厳しさとは かく、こうした古い法然上人の闘像を拝見して、それを れ、今日かなり有力な説となってきている。それはとも 前、上人三十二歳の時に、古めに応じて法然上人の伝記 川期に行われたことは留意すべき事である。猶これより 伝された事を明かすもので、こうした表示が本願寺の草 然上人から組師親驚聖人へ、さらに先帥如信上人へと嫡 された。これは周知の通り、浄土真宗の伝統は曾祖師法 の統一を目指して、いわゆる﹁一一一代伝持﹂の血脈を提唱 ﹃報恩講私記﹄を若わされたが、これは、聖人の三十三 を画いた構図の中に、いかにも大衆的・開放的なものを あらわされている o かくて、これら真影の上にもうかが 回忌を迎えるにあたり﹁本所の例事として毎月の御忌に 感ずるが、これは更に親矯聖人の安城御影や鋭御影の場 われる念仏門の独自な性格は、それを聞かれた法然上人 勤行せられ﹂︵最須敬電絵詞七︶るもので、その内容は三 るo このほか上人には、既に二十二了四・五歳のころに への讃仰と共に、その教の伝わるところ常に伝統されて 段に分げられ、第一段の﹁讃ニ真宗興行徳一﹂に中に、わ を編集された。すなわち﹃抗遣古徳伝﹄九巻がこれであ ゆくものであろう o これについて、まず本願寺の創立さ が聖人について﹁奉レ謁一本朝念仏元祖黒谷聖人一間﹂書 合、こまごました調度品や大地に立つ雄姿の上に、よく れる覚如上人の時代を考えてみたい。 五日ノ御念仏﹂︵御消息集八︶が行われた、が、聖人の滅後 さて、覚如上人の誕生は、曾祖父に当る親驚聖人の滅 絵下ノ七︶聖人直弟のあった事空認めうるが、ようやく その命日に当る二十八日、または前日の二十七日︵本廟 る。これに関して聖人在世中、法然上人の忌日に﹁二十 壮年を迎えられる時分には、すでに直弟もなくなり、加 創立文書・了智﹁定﹂︶に変ったが、これは念仏集会につい 出離之要道一授以二浄土一宗−示以一一念仏一行一﹂と述べ うるに唯善事件の後は、地方門徒との聞に意見の祖師を てであって、初期本願寺の時代、法然上人の祥月命日に 後八年で、その少年の頃には﹁年々廟堂に詣す﹂︵親驚伝 招くこととなった。こうした事は別に述べてあるので言 ⑧ 及しないが、その結論を申せば、五十歳の頃に本廟を本 御忌の営まれていたことは、存覚上人が﹁里山谷源空聖人 真影﹂の裏書に﹁貞治六歳前正月廿五日、当聖人御忌、 願寺と権威化する方針がとられ、破邪と顕正による信仰 4 3 の法然上人尊崇の模様をも推測されよう。しかし、もっ って、こうした存覚上人当時の状態から、覚如上人時代 人行状画図﹄の調書であり、後者は﹃一枚起請文﹄であ 上人御起請文﹂などの書写もされたが、前者は﹃法然上 ても知られる。このほか﹁黒谷四十八巻絵詞しゃ﹁法然 じて:::︵下略︶﹂︵敬重絵詞七︶と、法然・親驚の両聖人の 浬襲の儀式をまもり、ちかくは両祖聖人入滅の作法に順 た乗専︵袖日記︶は、その師の臨終について﹁大覚世尊入 う oなお、覚如上人上足の弟子で、その葬送にも立会っ いう﹁祖師﹂は、法然上人を思慕しての表現とみられよ 歳で入滅された釈尊と同じ年齢ということから、ここに これは、﹃慕帰絵詞﹄巻九に載せられるもので、 と直接的な史料をあげると、今迄あまり注意されなかっ 作法に準拠された事を伝え、こうした臨終の儀式にもま 専擬大祖報思・:︵下略︶﹂︵袖日記︶と誌されたことによっ た法然上人讃仰の﹃知恩講私記﹄が、実は最古の法然伝 た、法然上人よりの伝統をうかがう事ができる。 秀博士は﹃報恩講私記﹄が﹃知思議私記﹄を手本として 本が東寺の宝菩提院=一密蔵より発見され、ついで赤松俊 る事を知って、わたくしなりに驚いたことがある。その 容の和歌を、本願寺を再興された蓮如上人も一一誠まれてい ところで、先にあげた覚如上人のものと同じような内 に行われる二十五日の﹃知思議私記﹄に対して、さらに といわれるもので、はじめに﹁法印権大僧都兼寿咋時一尚 蓮如上人筆の和歌は浄興寺に所蔵され、﹁二首御詠歌 L 二十八日には﹃報恩講私記﹄が用いられるに至ったもの 一叩計一誌な﹂として、次の如き二首、が君かれていふ円 聖人﹂︵執持紗・口いい紗・改邪紗︶としての親鰭聖人に対す 八十地にみてるあくる初春 歌集﹂︵御文全集二二五頁︶の中に載せられ、また松任の本 このうち、第一首の和歌は、既に禿氏祐祥博士が﹁和 南無阿弥陀仏とたのめみな人 我なくは誰も心をひとつにて 仏にも祖師にもよはひおなしくて いける八十の身さへたうとし 。 ヲ かぞふれば釈迦と祖師とのよはひまで 猶その晩年、八十歳を迎えて次の如き和歌を詠まれてい る報思・崇敬が一段とたかめられたであろうが、しかも であろう。とはいえ、本願寺の創立にともない﹁本願寺 ⑮ 作られた事を指摘された。かくて思われることは、すで ⑨ の一つである事を立証する、元仁二年︵一二二五︶の書写 八 十 4 4 しなくてはならないであろう o これについて次に、上人 師﹂は、やはり覚如上人の場合と同係、法然上人の事と 誓寺に同酢のものを伝えるが、いま問題とするこの﹁祖 法然、詞をきけば弥陀の直説といへり﹂ハ尖悟旧記︶とい 文をば如米の直説と存ずべき由にて候、かたちをみれば ではあるが、又こうして作られる﹃御文﹄について﹁御 という西山・鎮西・九日間寺・長楽寺の四流に対するもの な環境の中で蓮如上人が、親驚聖人の伝統精神を再興さ マス﹂︵本福寺由来記︶といった状態であった o このよう ノ人一人モミエサセタマハス、サヒ/\トスミテオハシ で巧如上人の時代にほ﹁御本寺様ハ人セキタヘテ、参詣 裟黄衣に﹂︵実悟旧記︶て、いわゆる聖道儀式化し、つい 寺は青蓮院の管領下にあって、﹁威儀を本に﹂・﹁黄袈 ・巧如・存如四上人の凡そ百年間、とくに前二代の本願 日の﹃両師講私記﹄のうち、後の二つは﹁実如の御時よ の﹃太子講私記﹄・二十五日の﹃知思議私記﹄・二十七 うる。ところが、次の実如上人の代になると、二十二日 とて、その祥月には三日間の仏事が勤められた事を知り 月二十五日には、蓮如の御時は毎年三箇日御仏事御入候﹂ よって知られるが、同じく﹃作法之次第﹄によれば﹁正 思講私記﹄の拝読されたことが﹃本願寺作法之次第﹄に 廿五日の勤の後に知思議私記をあそばされ候き﹂と、﹃知 陀の直説にもとずく、蓮如上人の宗教的信念が端的にう われるように、そこには、法然上人の形を過して更に弥 が如何に法然上人を崇敬されたかを﹃御文﹄をはじめ、 その行突を伝える史料の上に考察してゆきたい。 れたことは、後世ひろく﹁御再興の上人﹂︵実悟旧記︶と り被略、あそばし候はぬ事也﹂とて、以後おこなわれな かがわれる。こうした上人の心境は、したがってまた法 称される事からも知られるが、この聖人一流の伝統には くなった。これについて、とくに二十五日は前住蓮如上 先ずそのはじめに当り、蓮如上人は﹁如何にしてかわ 更に﹁夫浄土真宗とは、顕浄土の中よりえらびいだした 人の御命日にも当るため﹁法然聖人の御命日儀式、まぎ 然上人への報思謝偲として、﹁蓮如上人の御代には毎月 まふところの元祖聖人の御一流なり﹂︵帖外御文一一一一四︶ れ申候て、此比は無分別候﹂とて取紛れてしまったが、こ ことを志念されたが、実は覚如上人のあと、議口如・悼如 と、法然上人にもとずく一流であることを一示す。これは れについて永正の初年、光教寺の蓮誓︵鶏帥尚一時計一。︶ れ一代にをいて、聖人の一流を清方に岡山はさん﹂︵遺徳江山︶ 一面、当時の﹁浄土門に四ケの流々あれども﹂︵空善記︶ 4 5 は、実如上人にその中止の理由を尋ねたところ、上人の 返事に﹁何ともふしが成かね候﹂ということで、省略さ れたままになったという o 以上、断片的な史料収集におわったが、一応その史料 によって、法然上人に対する讃仰の事跡を述べてきた o そして、これらを通して結論しうることは、覚如上人と いい蓮如上人といい、真宗教団の興隆を意図される場合 その源流が法然上人にある事を忘れられず、本願寺の創 立・再興に際して、あつく崇敬されたことを、いま更に 意義ぶかく感ずる次第である o べき説である。 ︵印山学仏教 ①田村円澄著﹃法然上人伝の研究﹄九六瓦に述べられ、注Hす ⑧福井康順稿﹁、法品川⋮伝についての二三の問問﹂ 学研究五ノ二︶の論孜において、はじめて用いられた。 0 o これに対して伊藤真徹・ ⑧福井康順稿﹁法然上人の拾聖帰浄について﹂︵塚本博士煩 L 所収︶ 香月一来光氏等、従来の所説にもとずいて反論された 寿紀念﹁仏教史学論集 空門下における念仏義の展開﹂にも述べた。 ④﹃擢邪輪﹄によって知られるが、これについては拙稿﹁源 ⑧多賀宗隼著﹃慈円﹄一八八t 一九O頁に要領よくまとめら れている。 ⑥日下無倫著﹃総説・親臨時伝絵﹄一五O頁 就いて﹂ ⑦中れ見明著﹃真宗派流史論﹄の第八章一ー選択相伝の御影に ⑧﹃大仲竹本廟史﹄七一一一t 八五頁 ⑩﹁新出の知恩講私記について﹂︵日本歴史二O 二号︶ ⑨櫛田良洪稿﹁新発見の法然伝記﹂︵日本歴史二O O号︶ 歌が吉かれ、その第一首に﹁仏にも祖師にもよはひおなし ⑪蓮如上人御影の上部に貼られた紙牌に、上人の筆で二首の くていける八十地のかすそたふとき﹂とある。 46 、 ﹁かたじけなくも彼の一一一国の祖師、おのおのこの一宗を LV 、 興行す、所以に愚禿勧むるところ更に私なし﹂︵親驚伝絵 異抄第三章 明 親融問の教学の独自性は、悪人を正機とするアミダの救 下︶という仏教・真宗にたいする親鷺の態度を助顕する してここに語っているのである﹂といわれる。これは、 済を説くことにあり、その信を表白するのが﹃歎異抄﹄ 親驚の信を表白する言葉は、すべて本願念仏の伝承と 第三章の﹁善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや﹂ 説である o したがって、第三章は、単に﹃歎異抄﹄を代 しての師教に包摂されてある。よって﹃歎異抄﹄も、こ 曾我量深先生は﹃歎異抄聴記﹄に、第一章の﹁弥陀の の例外ではない。 ところが、これについて、近年、増谷文雄氏は、その りと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき 誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるな すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり﹂まで 著書﹃歎異抄﹄に、証明の論拠三点をあげて﹁この悪人 然の所見と相対立するもののごとく印象づけてきた従来 を第一節とし、これは﹁念持の大道﹂ ﹁念仏の大道﹂を 正機のおしえが親驚独特の・ものであって、あたかも、法 する言葉の代表的なものとして周知されている。 表するものとしてのみではなく、広く親鷺の思想を表現 ものであるといえよう。 l歎 慧 成 であるということは、今日、多くの人びとの是認する通 ー 東 の思想も、その表現をも、親縦は、これを法然の直伝と 伊 仏 Jコ 人 の宗学的解釈は、改められねばならない﹂と主張し﹁そ 4 7 悪 明かすものであるといわれる。すなわち、第一節は、つ これによって明らかなとおり﹁いわんや悪人をや﹂と よって、それは、念持の大道に聞かれた親驚己証の言葉 して親驚の言葉である。唯円に聞きとられていることに は、法然の言葉である、と共に、また親驚の言葉である。 あるいはまた、第二章には﹁親驚におきては﹂と実名 である。われわれは、伝承と己証との分際を徹底して知 しかし、それは、ともにアミダの救済を語る言葉として をあげて﹁ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべ らねばならぬ。一つの言葉の同異を明らかに領解しなけ いで述べられる第二節の﹁信心為本﹂、第三節の﹁悪人 しと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の ればならぬ。そこに、親驚の教えに学ぶ意義があるので 表現は同じであっても、それぞれ法然の言葉であり、そ 子細なきなり﹂と、師教にたいする絶対態依の信が語ら ある。 正機の信相し、第四節の﹁現生不退﹂の信表白の拠所と れている。まことに﹁唯可信斯高僧説﹂︵正信念仏偽︶と なるところの、親驚に伝承された師法然の教えである。 は、アミダの本願の現行︵すなわち師教︶中にある親驚の 信表白にほかならない。 に、まさしく親矯の己証を聞きとったのではなかった ものは、おそらくあるまい ο全く、この表白は、聞くも という第三章の語りかけを聞いて、この言葉に感動せぬ さて﹁善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや﹂ だからこそ、唯円は、その師教を聞信する親驚の一一一一日葉 か。親矯の、師教相一政の言葉が、唯円には、親鰭己証の で宗教の世界に誘われるのである。その意味において、 度ばヰを傾げ、やがていつしか是非を思惟するほどにま る人も、また、否とする人も、みな、この語りかけに一 の十一口葉に心の動かぬことはないであろう。聞いて是とす 殊吏に宗教的な問いをもつことの意味を認めぬ人も、こ のにとっての、すばらしい啓蒙である。日常態のなかで 一一一一口葉として聞かれている。それが、如実に機教相応する 仏法の歴史の具体的事実であろう。法然の教えに近を聞 く親矯の一一一日葉に、唯円はまた、自身の道を聞きとってい るのである。すなわち、親矯にたまわる信表白の一一一日葉は やがて教一一一一口として、聴者唯円にたまわる言葉である。そ の伝示と己訴の呼応をゴル録して、唯円は﹃歎具、抄﹄と名 づけた。 48 たということではない。すなわち、この言葉に、世人の るということは、これが、親筒によって一杯蒙的に語られ しかしながら、これが、聞くものにとっての砕蒙であ かも、正説であることによって、まさしく聞くものを宗 れは、逆説的であることにおいて啓豪的でありつつ、し の吉葉の内に秘めた真実啓蒙のカがある oすなわち、こ 地に根ざすのであると信知するからである。ここに、こ 親驚は、人間であることの根が、知解の深みの本能の大 耳を驚かそうとする意図があるわけではない。ただ日常 これは、まさしく宗教啓蒙の言葉である。 態にある世人が、これを耳にして驚くのである。が、親 還相がある。聞くことに聴者の﹁真実へ﹂があり、説か 説くことに説者の住相、かあり、聞かれることに説者の 教の真実に一将蒙するのである o 人間の︵すなわち白己の︶自性の真実に触れた即事的な自 れることに聴者の﹁真実から﹂がある。すなわち、親驚 は、 Lと 覚表現である。全ての人間の本能に領くめざめの表白で の求めたものは、どこまでも人生の真実であり、宗教の 憶の宗教体験からすれば、﹁いわんや悪人をや ある。だからこそ、この言葉は、聞くものを砕蒙して真 真実であった。その、真実への道を往く親驚の語りかけ ぶのである。 に、われわれ法、真実の宗教を間忠し、真実の人生を学 実に誘うのである。 ところが、この言葉は、次の﹁しかるを、世の人つね にいわく、悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや﹂ という常識説との対比から、一般に﹁逆説的な提言﹂で ﹁よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は﹂とい ある︵小野清一郎・歎異抄講話、本名/顕彰・歎呉抄入門など︶と 解され、それ故に、これは、多くの人びとに信の感動を う述懐をもって結ばれる第三章には、親驚の、自身に徹 ところが、この御物語は、まず﹁善人なおもて往生を 底する自覚がとらえた人間観が明らかにされている。 たしかに、これは、世人の常識からみれば逆説なので とぐ﹂と、善人の存在を認めながら、それを承けて﹁い よび起すと共に、また多くの誤解や曲解を生じるのであ あろう。しかし、親驚においては﹁いわんや悪人をや﹂ わんや悪人をや﹂と展開するのである。この、あたかも るといわれる。 という提言こそ、自信ある正説なのである。なぜならば 4 9 人間には善人あり悪人ありとするかのような善悪相対の 教団の混乱を契機として、やがて同朋の信の純・不純が のまま﹁弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、 おいて受けとめられているのであり、しかも、それがそ 問われることとなるのであるが、その出来事そのものが ﹃歎異抄﹄の生まれ出る前提には﹃観経﹄と、その領 虚言なるべからず o仏説まことにおわしまさば、善導の 親驚には、﹁いずれの行もおよびがたき身なれば、とて 解の歴史がある。換言すれば﹃歎異抄﹄は、﹃観経﹄の 御釈、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば 表現は、人間観の不徹底をあらわにするものではなかろ 精神の歩みの所産である。それは、日本人の言葉でつづ 法然のおおせそらごとならんや o法然のおおせまことな も地獄は一定すみかぞかし﹂という自身の自覚の徹底に られた﹃観経﹄であり、日本人の血肉にまでなった﹃観 らば、親驚がもうすむね、またもてむなしかるべからず うか。実は、ここに、古来﹃歎呉抄﹄、が﹃観無量寿経﹄ 経﹄である、それは、日本人の生んだ最高の宗教書・思 そうろうか﹂と、アミ、タの本願の現行事とされているの 系の聖典であると解される所以がある o わりをもっところの、日本の﹃観経﹄である、といえな 想書というべき親驚の﹃教行信一証﹄と内面的に深いかか 土を明かすの教というは、コ一経一論是なり。一一一経という したがって、その﹃観経﹄は、法然によって﹁往生浄 と光明海︵果︶とを述べ、それを﹁件出れば別ち﹂と、その は無明の閣を破する慧日なり﹂と、アミタの本願海︵悶︶ みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明 それは、﹃教行信証﹄のつ総序 L第一段に﹁痛かに以 である。 は、一には﹃無長寿経﹄、二には﹃制無量寿経﹄、一一一に いであろうか。 は﹃阿弥陀経﹄なり﹂︵選択集︶と決定されたように、真 まま承けて、浄土教興起の機縁としての王舎城の悲劇が ざしにして、歩ひを遼遠の洛陽にはげまし、信を一にし 後に、唯円が﹁そもそもかの御在生の昔、同じこころ 語られることを想起せしめる。 実方便未分の、真実コ一経の一としての﹃観経﹄である。 それは、第二章の対話、か、アミダの本願の歴史中の事 て心を当来の報土にかけしともがらはしと回想するよう 件として語られることからも知られるであろう oすなわ ﹁歩びを遼遠の搭陽﹂にはげまさねばならぬような関東 ち、﹁十余か国の境をこえて、身命をかえりみずして﹂ 50 内外の法難︵すなわち内の異義と外からの念仏弾圧︶は、青 に、おそらく、親驚に去られてあとの関東教団が受けた れば、とても地獄は一定すみかぞかし﹂である。その ﹁ただ念仏﹂にあり、﹁いずれの行もおよびがたき身な このように、﹁愚身の信心﹂の﹁せんずるところ﹂は をや L nHV 門 司 の自信が表白されているのである o 具足のわれら﹂の自覚から、第三章には﹁いわんや忠人 ﹁いずれの行にても、生死を離るること﹂のない﹁煩悩 年唯円の体験した﹁王舎城の事件﹂であったのであろ ﹀円ノ 。 故に、唯円が﹁親驚におきでは、ただ念仏して、弥陀 にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむ りて、信ずるほかに別の子細なきなり﹂とただ念仏が選 択され、やがて﹁このうえは、念仏をとりて信じたてま を物語るものと思われる oすなわち、その事件の中に、 の対話が聴者唯円をして廻心せしめるものであったこと るかと思う。第四章には﹁慈悲に聖道・浄土のかわりめ ﹃歎異抄﹄にも、顕彰隠密の義があるということができ したがって、上述するところからも知られるように、 以上のように﹃歎異抄﹄と﹃観経﹄とは、深い内面関 ただ念仏の信あるのみと表白する独立者・親驚に触れて あり﹂と、聖浄二門を相対して説きながら﹁しかれば念 つらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり﹂ 唯円もまた﹁雑行を棄てて本闘に帰す﹂︵後序︶身とされ 仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろ 係をもつのであるが、親驚は、その﹃観経﹄に﹁顕彰隠 ているのである。すなわち﹁弥陀の本願﹂||﹁釈尊の う﹂と結論されるように、第三章にも、善人と悪人とを と厳しく道に発遣される師教を記したのは、その対話に il ﹁善導の御釈﹂||﹁法然のおおせ﹂||﹁親 相対して説き﹁自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ 密の義あり﹂と己証し﹁方便真実の教えなり﹂︵化身土巻︶ 説教﹂ 心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、 祖師親驚の生涯を貫いてかわらぬ﹁ただひとたび﹂の廻 驚がもうすむね﹂という伝承に﹁歎臭﹂する言葉をかき 自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、 と決定する。 つけるところに、すでに唯円も本願の歴史中にあるとい 心の歩みを聞きとったからであり、しかも、同時に、そ うことの証がある。 5 1 したがって、﹁善人なおもて往生をとぐ﹂とは﹁善人 れ仏世を去りたまいて後の五渇の凡夫なり。但、縁に遇 ﹁此の観経の定善及び三輩上下の文意を看るに、総て是 善導が、﹃観無量寿経﹄所説の九品の差別を解釈して のままで救済される﹂ということではない。善人も、そ うに異有るを以って、九品を差別せしむることを致す﹂ 真実報土の往生をとぐるなり﹂という。 の自性としての悪人にめざめるならば︵すなわち廻心して んに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称するに 他力をたのむものとなるならば︶往生することができるとい ための願﹂にめざめることを﹁要とす﹂というのである。 在り﹂︵散善義﹀と述べる心よりみれば、九品唯凡釈の帰 て﹁上来、定散両門の益を説くと雄も、仏の本願に望ま 故に、ここに﹁白力の人も往生する。すなわち、自力 趨が絶対の悪人の自覚を徹底せしめるためのものである ︵玄義分︶と述べるのも、﹃観経﹄の流通付属の文につい をたのむ心をひるがえせばしというのは、自力・他力が と知られよう o絶対悪のめざめ︵自覚︶こそ、アミダの本 うのである。﹁罪悪深重、煩悩織盛の衆生をたすけんが 相対するかに忠われている日常態に、他力の真実を顕わ このように﹃観経﹄の説相を承けて﹃歎異抄﹄の第一一一 願のすくい︵救済︶である。 ではない。他力こそ自力の人生の大地である。他力こそ すものにほかならない。人生には、自力と他力があるの 矯のいう﹁忠人正機の悪人は︵中嶋︶善人に対する忠人だ したがって、一応は善悪相対して説くのであるが、親 えられているのでないならば、われわれは、﹃大無量寿 いならば、したがって、もし、身近かに﹃歎具抄﹄、が与 にされるのである。それ故に、もし﹃観経﹄の教えがな の別名﹂であるという人間の真実相︵機の真実︶を明らか 章には、て九、善悪を相対的に述べるのであるが、その げではなかろう。人間実存そのものが思であるから、こ 怪﹄所説の宗教の真実相︵法の真実︶を知ることはできな 自力をつくさしめる道である。すなわち、生きるという の悪人は、人間存在すべてをも怠味するもの﹂︵仁μ 出六 説意は﹁人間実存そのものが悪であり﹂﹁悪人とは人聞 三郎・親驚教学第五号︶であり、まさしく﹁恋人とは人間 いであろう。 ことは、生かされて生きることなのである o の別名﹂︵林旧茂雌・期尚をけがす歎具抄︶なのである。 52 思えば、人生とは、人と呼ばれる存在が、名実ともに 真に人となる︵すなわちブツタとなる︶生のいとなみである 底に根ざすものであることを信知する。これを善導は ﹁決定して、深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、購劫 己来、常に没し常に流転して、出離の一縁有ること無しと 信ず﹂︵散普義︶というのである。 そして法の深信については、﹁第二の深信は決定して乗 一の深信は決定して自身を深信する﹂︵忠禿紗下︶といい この、いわゆる機の深信の文意を釈して、親驚は﹁第 しかし、この人と呼ばれる存在は、単に人であるのみ 彼願力を深信する﹂︵向上︶という。いま、ここに﹁深信 といえよう。 ではない。仏教によって、六道を輪廻するものと教示さ 共に﹁他力至械之金剛心、一乗無上之真実信海﹂︵向上︶ 之心﹂︵向上︶が機法の二種に分別されているとはいえ、 美しく飾り隠しているのではあるが、所詮、隠されたも にほかならない。すなわち、自身を深信することが乗彼 でもある o人聞は、これら悪趣を、知性の装いをもって のは、隠されてあるものである。すなわち悪趣は、顕わ 願力の真実のめざめであり、乗彼願力の深信が自身の現 れるように、人は、また畜生でもあり餓鬼でもあり地獄 れた人界にたいする冥々の世界として現存する o この意 実を深く信知するのである。 まことに、冥々の世界には、自力は無効である。しか 識の底の無意識のはたらくなかで、人間は、つねに生死 の聞を幼佳うのである。そして、善を責愛し悪に眠卓志し いう自覚として、﹁いずれの行もおよびがたき身なれ も、生死を離るることあるべからざる﹂あり方にあると 六道に輪廻するのみのものではない。﹁いずれの行にて しかし、また、人間は、仏教の教示するように、ただ 深く信知される。自力は、他力にはからわれて無効と信 有効に発揮され、自力の無効は、他力のはたらきとして のである。自力は、無効であることによって、はじめて 白が力である。それを、他力に生かされて生きるという し、自力無効と信知することは力である。自力無効の表 ば、とても地獄は一定すみかぞかし﹂という自覚として の自力無効の深信知を﹁いわんや悪人をや﹂というので 知し、自力の無効は、実に自力の生をつくさしめる。そ て、至福を求め罪禍を畏れるのである。 自身の根が、意識される世界の底の底、無意識界のどん 5 3 五 生死を離るること﹂はない、よって﹁生死を離るること すなわち﹁煩悩具足のわれらは、いずれの行にでも、 研究︶、また赤松俊秀氏は、農民よりも武士・漁猟師に 家永三郎氏は、職業的には武士説をとり︵中世仏教思想史 た百姓、即ち在家農民﹂であったといい︵親驚と東国農民︶ 会的地盤は、当時の領家・地頭・名主に隷属関係にあっ あるべからざるを哀みたまいて、願をおこしたもう本 近い罪悪意識をもつものとして商人に注目している︵鎌 ある。 意﹂︵上来雄説定散丙門之益、望仏本願意︶は﹁悪人成仏の 倉仏教の研究・親驚︶ もって他力の真実を明らかにし、もって人生に聞かれた もとも往生の正因﹂であると、機法二種の深信の釈音却を 朋には、畏民あり武士あり漁猟師あり商人あり、しかも は、わたしにはない。が、諸研究の成果から、親驚の同 歴史学的な見地から、それらの所論の是非を断ずる力 0 ため﹂であり、ゆえに﹁他力をたのみたてまつる悪人、 成仏道が顕らかに説かれるのである o その人びとは、今日のいい方をもってすれば、被支配階 足のわれら﹂に与えられた成仏の道は、自身の悪人にめ ﹁罪悪採重、煩悩峨盛の衆生﹂に、すなわち﹁煩悩具 はなかった。すなわち、親驚にとっての同朋は、社会の って民衆を教化した﹂といわれるような意味での同朋で しかし、それは、往々にして﹁親驚は社会の底辺に入 級に属する人びとであったと解してもいいであろう。 ざめることのほかにはない。絶対思の自覚こそアミダの していない。いま、二三の例をあげれば、たとえば笠原 にされているが、周知のとおり、諸説は、必ずしも一致 者による親矯研究、か苦しく進み、多くの研究成果が公け びとであったのだろうか。それについて、近川、照史学 同朋は、大地に群萌し群生する﹁われら﹂であったので もに、大地に生きる人びとであった。すなわち、親驚の 迎えた人びとであった。親驚のいのちを支える大地とと 朋は、生の事実にめざめて大地に帰る親悼をあたたかく 親憶が好んで﹁群生﹂といい﹁群萌﹂とよぶように、同 ような、そらぞらしい関係で結ぼれていたのではない。 一男氏は、階級的立場から﹁悪人正機説を受け入れた社 では、親鱒のいう思人は、具体的には、どのような人 底辺をみるものと、底辺としてみられているものという 」ー 本願の救済だからである。 、 ノ 54 そのことは、たとえば﹃唯信紗文意﹄に﹁具紳の凡夫 ある。 ベき善なきゆえに o恵をもおそるべからず、弥陀の本願 本願の念仏は、許証仙の彼岸の名のりの戸である o それ 本願の念仏は、善悪の相対を超えた絶対善である。 をさまたぐるほどの悪なきがゆえに﹂という。 ざまの者は、みな石・瓦・礁のごとくなる我等なり﹂と 故に、どうして本願を信じて、なお自力の相対善が必要 ・居枯の下類﹂を釈してあと﹁かようのあしき人・さま L と別 とされよう o どうして本願を信じて、なお忠を畏れるこ いうことからも知られよう。﹁かようのあしき人 に親驚があるのではない。﹁あしき人・さまざまの者し 田昌をつくりてすぐる人も﹂という。それが、 い。にもかかわらず親驚は、なぜ、ここに﹁他の善も要 はなく、また﹁弥陀の本願をさまたげるほどの悪﹂はな したがって、いうまでもなく﹁念仏にまさるべき善﹂ る 。 るo本願他力のはたらく場が﹁地獄は一定すみか﹂であ とがあろう。本願他力のはたらきが絶対忠のめざめであ また﹃歎呉抄﹄第十三章には﹁海川に、あみをひきつ こそ、実に、親驚の﹁我等﹂なのであった。 りをして、位をわたるものも、野山に、ししをかり、鳥 を取りて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、 こと﹂ではあっても、それより他に、 いのちをつぎ世を にあらず﹂といい﹁悪をもおそるべからず﹂と述べるの ﹁あしき わたる術のない親驚にとっては、生のあることそのこと であろうか。 それは、善悪の差別ある生の大地としての生そのもの が悪である。したがって、﹁あしき人﹂とは、親驚にと っては、最も自身に親しいところの﹁わが名﹂にほかな の、﹁いわんや悪人をや﹂と信知される生そのものの、 ﹁あしき人﹂をもって﹁わが名﹂とする親驚は、その う o ﹁あしき人﹂にとって、善とは、とりもなおさず自 くある生以外のもの﹂を必要としないということであろ らない。 ﹁現生不退﹂を表明するものである。 悪の自覚に聞かれる心境を、第一章に述べて﹁しかれば 己以外のものである。アミダの本願を信ずるとは、自身 すなわち﹁他の善も要にあらず﹂とは﹁いま、現にか 本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる 5 5 七 を深信することである。それ故に、深信する自身の他に なお且つ善を必要とすることはありえない。 そして﹁悪をもおそるべからず﹂とは﹁いま、現にか つる悪人、もとも往生の正因なり﹂とあって、悪人正機 るとされるのであるが、ここには﹁他力をたのみたてま とは、悪の人ではなく、悪が人である。すなわち、人間 い。これを信心を悪人と誤ったのでないかと常識人は ているが、悪人正因という言葉は﹃歎異抄﹄しかな ﹁悪人正機ということは、一般に、皆様も我々も聞い これについて曾我量深先生は、 とあるわけではない。 の自性が悪人である o アミダの本願は、この﹁あしき人﹂ いうが、そうではない。他力をたのむ信心とあるなら くある生﹂を畏れるなということであろう。﹁あしき人﹂ の自身に無畏の心を聞く、それが現生に不退の信の心境 が名﹂とする﹁我等﹂にとっては、悪人とは何かと詮索 まして悪人は﹂と結ぼれるのである。﹁あしき人﹂を﹁わ 往生の正因なり﹂といい﹁よりて善人だにこそ往生すれ 仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも 承けて、第三章には、﹁願をおこしたもう本意、悪人成 の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに﹂というのを といい、さらに ものである﹂ ﹃歎異抄﹄などは、その点において、まことに秀れた として自由に使って書いてある聖典は得難いもので、 千人に一人しかない。本当に日本の国語を、わが言葉 々の書く文章は死んだ文章で、生きた文章をま日く人は 大体、文章には生きた文章と、死んだ文章とある。我 わかるが、悪人がもっとも往生の正因とある。 する必要はない。すなわち﹁いわんや悪人をや﹂という ﹁他力をたのみたてまつる思人こそは、忠人であると したがって、第一章に﹁悪をもおそるべからず、弥陀 である。 親驚の語りかけは、我等悪人の本能に額くわがことの究 いうことが、もっとも往生の正問である o﹂ ︵歎具抄聴記︶ 0 正因﹂という解釈を加えることによって読まれてきた 従米、一般に、この一段は﹁忠人1|正機﹂﹁信心| といわれている 極的な関心事である。 ところで、第三章は、悪人正機説をあらわす文章であ 入 5 6 悪人、もとも往生の正機なり﹂でもなく、また﹁他力を のであるが、しかし、原文は﹁他力をたのみたてまつる 機﹂である。この、悪人こそ正しく仏と成るべき人︵機︶ ては、他力をたのみたてまつる﹁悪人﹂︵川信心︶が﹁正 定爽之機︵正機︶である。すなわち、アミ、タの木願にあっ 。 。 信する悪人は、正しく成仏する位についた人であり、正 あるというのである。 よって﹁本願他力に帰命する悪人﹂が﹁往生の一正凶﹂で 聖典﹃歎異抄﹄が、現代の聖典として、多くの人びとの とも往生の正因なりしといわれるのである。 であるということが﹁他力をたのみたてまつる忠人、も 00 い。﹁本願他力の意趣﹂は﹁恋人成仏のため﹂である。 たのみたてまつる信心、もとも往生の正国なり﹂でもな したがって、この文章は﹁他力をたのみたてまつる思 。。。。 人﹂即信心﹁もとも往生の正閏なり﹂と解することがで 心をとらえる所以がある。 稲葉秀資教授﹁親驚の倫理﹂コ二頁参照 かたじけなさよ Lと、業縁存在としての身の自覚において、白 己の心境に全顕するのである。 註 l 広瀬呆教授﹁真実教の開顕﹂ 大谷大学研究年報第十五集九O頁参照 住田智見師﹁教付信証の研究﹂六一一一一頁 v という如く、弥陀の本願は、一人という身の事実 ︿六六十以 ﹀ に帰ることにおいて成就する。即ち、一人の上に成就する本願 は、唯除を内含する大悲の本願である故に、﹁さればそく、はく の業を持ちげる身にてありけるを助けんと思召たちける本願の ここに、この生きた文章をもって語られる信仰表向の きよう o 信心とは、本願他力に乗托しつつある自身の深 信であり、﹁自身は現に是れ罪悪生死の凡夫﹂と自身を 深信することである。それを﹁他力をたのみたてまつる 悪人﹂と表現されるのである。故に、いうまでもなく ﹁他力をたのみたてまつる信心﹂が正因だというのでは ない。他力をたのみたてまつる悪人、即﹁信心﹂、が﹁正 因﹂である。われわれは、﹁他力を﹂信ずる信心と﹁他 この、悪人の自覚、すなわち他力の信心は本願他力よ 力の﹂信心とを、明瞭に医別しなければならない。 り生じ、本願他力は﹁悪人成仏のため﹂に発起される。 故に﹁悪人、往生の正問なり﹂の正因は、成仏の果に対 5 7 していえば、他力の信にめざめる悪人こそ、正に浄土に 往生すべき因位の人であるということである。自身を深 2 遁 の 内 主 ヨ . Aミ 松 井 宝 田ω きないものであったのである。そのような遜遁は、親驚にあっ ては﹁後序﹂に﹁然るに愚禿釈の湾、建仁辛酉磨、雑行を棄て て本願に帰す﹂といわれるように、一切の雑行を棄てて本願に 帰す廻心において成就するのである。 この端的な廻心に就いて想起すべきは、比叡山における常行 三味堂の堂僧としての不断念仏の修行と、後に﹁教行信証﹂の 内容となった厳しい修学である。思うに、聖道の修行と修学は ﹁式文﹂や﹁歎徳文﹂にいわれる如く、難行なる故にますます ﹁絡に以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は る。従って、親驚の廻心は、﹁雑行を棄てる﹂と表現して﹁難 なく、難行を白己に可能な道とする確信に一一づけられて成立す おいてなされる。即ち、聖道は、難行において成立するのでは 白己白身を励まし勢利をなげうって生死を断とうとする信念に 証道今盛んなり﹂とある如く、どこまでも現実における救済で 行を泳認して修近する聖道の敗北を意味するからである。放に 行を棄てるしとはいわない。それは、難行を棄てることが、難 然るに、この本願に帰する廻心の歩みは、古水人主五年日に することなのである。 この難行を可能とする信念の崩壊が、とりもなおさず本願に帰 難行は雑行であるという自覚において棄てられるのであって、 ある。いうまでもなく、﹁後序﹂は、阿弥陀の木願に遇い得た L の中心は、法然との遊遁の一記述に求める 祖似空法師、ならびに門徒数輩、児科を考えず、みだりがわし 抄﹂の第二立に、﹁たとい法然上人にすかされまいらせて、念 しめるものであったと知られる。また、晩年の心境が、﹁歎収︵ 者不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本劃一円重岡不虚、衆生称念必 阿山内陀仏﹂と﹁若我成仏十方衆生、称我名号下至十戸、若不生 住生之業念仏為本﹂の題下の十凶字にあり、十只影銘文の﹁南加熱 克明いを以てする﹁選択本願念仏集﹂の内題と﹁市無阿仰陀仏、 IHU ?と凶耐の立花は、親鰭白身が﹁後⋮作﹂に μ 川る如く、法然の は﹁選択集﹂を書写し﹁真影﹂を図両することとなった。この 仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず伐﹂と石川ら 21 L た れるように、その怒遁は、親問の生泥を貫いて忘れることので 非俗﹂即ちm m禿釈の自覚を生み、やがて糾悼をして東川に く死罪につみす﹂︵後序︶という山水の法難を通して、﹁非僧 ことができよう。即ち、それによれば理返は、﹁真宗興隆の太 さて、この﹁後序 語る唯一の記録である。 自己を語ることにのみ終始した期尚の著述の小で、相机悼自身を 宗教の真実を証明するものは、﹁教行信一証﹂後序の冒頭に、 避 5 8 。 また仇陀の阪怠を顕わすことを明かす﹂︵序分,お︶という。即 ぜんと願じ、更に得生の行を請するを以て、仏の本心に称い、 ち、﹁有川崎これによって皆な往く﹂︵序分義︶という未来世一 3 は、選遁の内示が如何なるものであるかを詳さに教えられるで 得往生﹂という善導の本願加減の文にある。即ち、ここに我々 あろう。されば、﹁深く如来の持哀を知りて、良に削教の思厚 h 提希の別選 切衆生の放済辺は、釈迦弥陀二尊の心立にかなう 平 か。山日中の巾バたる治促活が、釈迦に山会ったのは、その子阿関 く、未米位一切衆生の救済を約束するものとなるのであろう ざれば、釈迦との怒遁が、何故に怠促希一人の救済だけでな により広閲されたのである。 を仰ぐ﹂︵後山︶選遁は、如何なるものであろうか。 r の現実の救済に呼 さて、﹁総序﹂は、前述した﹁後序﹂冒 以 応して、第一段に﹁難忠の弘誓﹂と﹁無碍のた川﹂を以て、仏 劇の氏である。この時の九早川氏希は、 位のために父王は幽閉され、やがて円分も悶位されるという悲 れば則ち、浄邦縁熟して、調達、開叶いをして逆%を山内ぜしめ、 然るに、意提希の口から出た一一一一口業は、﹁位尊、我むかし、何の げて地に投ぐ﹂︵制例経︶という王妃の権成を棄てた姿であった。 道の因似と栄海を一不す。そして、第二段にこれ伝承けて、﹁然 浄業機彰れて、釈迦、主提をして安養を巡ばしめたまえり。斯 しく逆誘閣提を恵まんと欲してなり一と﹁鋭粍﹂の王合城の悲 提婆、世尊と責任を転嫁した深い自我意識における愚痴であっ ましてか、提婆述々タと北ハに谷属たる﹂︵観経︶という、阿関世、 罪ありてか、この忠子を生ずる。叶一等、また、何等の因縁まし 7円ら瑛洛を絶ち、身を挙 れ乃ち、権化の仁、斉しく苦悩の群加を救済し、世堆の悲、正 を開顕するものであると明かす。親驚が、かく釈迦と九年提希の にありな、から、その身の場所を承認しないという、自己の因縁 た。即ち、章提希の愚痴は、身が王妃の権威を捨て切った大地 劇を機縁として開かれた釈迦と章提希との混涯が、真実の救済 避返を重視するのは、善導の釈意によること勿論であるが、こ に暗い姿を暴露するものである。従って、華同導は、これを釈し の﹁総序﹂の文が﹁後序﹂の法然との遜遁を一不す文に呼応する て、﹁白ら障り深くして宿因を知らず、今児の害を被るに、是 横さまに来れりという﹂︵序分義︶という。即ち、自己の身に 。 のをみると、遊遁における廻心と士口水法難の逆縁興法の事実、が この釈迦と章提希の遊遁は、立提希の﹁我今極楽世界の阿弥 その直接的な契機であるといえよう。 に転嫁され、結果を﹁横さまに米た﹂とする被害者意識を超え 起った事実を対象的にながめている限り、罪業の責任は常に他 F 陀仏所に生ぜんと楽う。やや願わくは枇尊、我に思惟を教え、 しかし、自己の因縁に暗い被害者意識の世界は、果のみを不 ることはできない。 我に正受を教えたまえ﹂︵観 経︶と、弥陀の浄土別選に対し、 釈迦が﹁即便微笑﹂したところにみられる。この﹁即使微笑﹂ を釈して、善導は、﹁此れ如来、夫人を見たもうに、極楽に生 59 当と感ずる世界である故に、安住の地とはならない。従って、 害者意識、即ち、愚痴としてしか現わしようのない愚痴自体の るに、この希願は、﹁自身の苦に遇い世の非常を覚る﹂︵序分 がために広く、無憂悩処を説きたまえ﹂という希願となる。然 しかし、被害者意識は、自己の身のある事実を承認しない故に 別、即ち自己の罪障の無自覚によるものといわねばなるまい。 ありてか﹂という自己の身の上に起る環境を不当とする妄想分 きれば、我々が、善知識に遇い得ないのは、常に﹁我何の罪 自覚において成就するのである。 義︶と、人生の因縁を求めることであっても、それが直ちに被 被害者意識は、一度悲劇に会うとき、﹁やや願わくば世酋号、我 害者意識を破ることにはならない。それは、仏道を求める姿が 常に不合理な環境と対決しなければならない。従って、果を不 背負う白覚へと白らを展開させ、人と人との日常的な功利的関 当とする志識は、必ず自己に反響し、いつかは事実を通して破 係が、人を人としてみ、そこに善友を発見するという宗教的関 如何に熱烈であっても、自己の身に起った事実を逃避しようと 開浄土の意義を見出しつつも、直ちに弥陀の浄土を説くことな れるものである。これが如来の限よりみれば、真に自己白身を く、﹁眉聞の光を放ち:・十方諸仏の浄妙国土﹂︵観経︶を現 係、即ち遊遁となることを約束するものである。その意味で、 ことを一示すものであろう。故に、釈迦は、主提希の希聞に、広 わすのである。この釈迦の沈黙における﹁光台現国﹂こそ﹁自 いが、現実の破綻を通して真心徹到する身体的自覚において、 章挺希の別選は、以前に釈迦と会っていた数々の日常的な出会 する立場である限り、責任転ほか或いは責任地獄の道しかない ら頭洛を絶ち、身を挙げて地に投ぐ﹂姿から、遂に﹁五体投地 にいう如く、救済の法は、釈迦と章促希の遭い氾という歴史的事 始めて避遁となることを一不すものといえよう。即ち、﹁総序﹂ し、求哀機悔﹂︵観経︶する姿になったことに気付けという身 業説法なのである。故に、金提希は、﹁光台現国﹂において始 実を通して、逆比は泊郊の紘となり、刊行悩の山口己は山菜の機と めて被害者意識の妄想に気付き﹁五体投地し、求京俄悔﹂する 臼己になり切るのである。即ち、﹁五体投地し、求 J n μ⋮慨何﹂を y れば、税憶が善 従って、涯一遍の細心において、﹁鋭経﹂を 判 転凶することにおいて成就するのである。 導の意を瓜けて、﹁達多、閣世の忠逆によって、釈迦微咲の素 ること得るに由し無し﹂︵序分義︶と、苦悩を苦悩として’川己 自覚するという’身体的什覚は、﹁苦悩の裟婆ば机然として離る の’身に引き受けることである。従って、普導は、この身体的自 ︵化身土巻︶と隠彰の義を示す如く、逆境は愚痴を生んでも、 懐を彰す。九年提別選の正意によって、弥陀大悲の本阪を問調す﹂ それは自己の因縁に陥い姿である故に、決して臼己を無自覚に 覚を、大悲の本願が、﹁真心徹到﹂︵序分義︶したものという。 迦弥陀二尊の心意にかなう別選となるのである。このように、 するものではない。むしろ、達多、関世の悪逆は、業縁存在と 即ち、この臼覚は、大悲の本願が徹到したものである故に、釈 意提希の別、自治︵遊記︶は、自己の身のある場所を承認しない被 60 しての人間の救済、即ち大悲の本願が明らかになる重要な機縁 人なのでみめる。 ι これによって我々は、選遁が、被山川 立識の崩壊、即ち業日開 ことが理解できる。 ﹁大経﹂ 存在である事実に日を開くという身体的什覚において成就する この釈迦と主捉希の避返に就いて忠われることは、 の仏も諸仏を念じたもうこと無きことを得んや﹂︵大経︶と、 位界の一切を念じ、世界の一切から願われてあることを内観す るうなづきの枇界である。放に、仏々相念の計一界は、釈迦の所 然るに、川競は、五徳現瑞の相に仏々相念の所持を見出しつ 住であると共に、阿難の見出した計一界でもあるのである。 つ、﹁何が仙川ぞ威神の光、光いまししかる﹂と問う。それは、 放消が、念二けの医界を師教に問うという理垣において成就する ことを顕わす。従って、釈迦は、この間を消天の代弁でないか を、﹁奔哉阿難、問えるところ甚だ快よし﹂︵大経︶と、一切 と念を入れ、阿難’H身の所見であることを明確にして、その聞 が﹁慧見﹂と設える阿難の﹁所見﹂は、﹁仏の聖旨を承け﹂︵大 衆生を荷負した﹁慧見﹂であると讃えるのである。かく、釈迦 親艇は、﹁教巻﹂に、﹁何を以てか出世の大事なりと知るこ における釈迦と阿難の輝一足である。 とを得るとならば﹂と釈迦山欣の本懐を示し、釈迦と阿難の路 ざれば、阿難の人法二無我の所見が、そのまま釈迦の現相で 経︶るという、人法二無我を満足するものであるに相異ない。 遁を五徳現瑞の相に見出して、﹁大経﹂が真実の教であること を明かす。而して、この釈迦と阿難との避這を示す文は、異訳 法してきたにもかかわらず、今日まで釈迦の真意を聞き開くこ と一万す。即ち、多聞第一たる阿難は、釈迦の弟子として長く開 あるという解一逓の世界は、如何にして開示されるのであろう の経である。﹁如来会﹂﹁一半世守党経﹂まで引用して、真実教の 従って、五徳現瑞は、釈迦の現相の直接的表現ではなく﹁や とはなかった。それは、﹁未離欲といわれた阿難の求道が、深 明証としている。思うに、これは規制問の選湿の体験が、五徳現 や然なり、大聖我が心に念言すらく﹂︵大経︶と一不きれる如く い自我意識においてなされてきたものであると共に、偉大なる ﹁我仏に侍りて己来、未だ仏の面の今日の如くなる色を見ず﹂ 阿難の念一一=口の位界なのである。故に、念一言の世界は、阿難をし 聖者釈尊に対する人執﹂によるものと理解できよう。従って、 かの同共訳﹁大阿弥陀経﹂は、この釈迦と阿難の解一一巡の様相を、 て、﹁未だ曾って隠都せず、殊妙なること今の如くましますを 瑞の相の象徴する意義を、釈迦と阿難との山会いにおいて感得 ぱ﹂︵大経︶と未曾見の驚きを内含する仏々相念の世界である。 において、釈迦の身の上に五徳現瑞の相を拝したのである。そ 開法より外に道のない凡夫を代表する阿難は、人法二執の自覚 したからであろう。 即ち、仏々相念の肘界は﹁去来現の仏、仏と仏と相い念じたま 註ー えりー一︵大経︶という歴史の底を貫く相念であると共に、﹁今 6 1 という雑行の白覚と共に、すかされても後悔しないという﹁よ 即ち、本願顕現としての身の自覚は、﹁いずれの行も及び難い﹂ ぺ同︶と、絶対に対象化をゆるされない身の自覚を内景とする。 選した如きものである。これ、親鷲が﹁教巻﹂に、阿難の五徳 き人﹂への執着をも断ち切った自覚なのである。従って、身の れは、あたかも主提希が、身体的自覚において弥陀の浄土を別 現瑞の感得を以て﹁群粛をすくう﹂真実教の明証とする所以で にかかわるものである。故に、親鷺は、﹁愚身の信心﹂を同朋 自覚は根源的には縁である師の是非よりも、むしろ自己の決断 あろう。 かくて、﹃大経﹂は、この優曇華の開花︵平等覚経︶に比す にかくの如しと述べ、最後に﹁面々の御計なり﹂と答え、自己 べき避返から、如来の境界が説き出され、この遊遁を成立せし の決断においてのみ本願の世界が開示されると明かす。このよ める根源として、本願の世界が明かされることとなる。 うに、避遁は、師を縁として誕生するものであるが、選返その に、本願のまことに遇うことなのである。即ち、現実の救済は このような遅遁の根源を如実に物語るのは、﹁歎呉抄﹂第二 歴史を超えてある弥陀の本願と、歴史的規定を以て生きる衆生 ものは、その師への執着をも断ち切る身の自覚を内景とする故 の遊遁を示す。そして、避返において明らかになった伝統の教 との避返である。故に、親驚は、法然との遊返において本願に の問答に始まって、﹁親脳同におきでは﹂と実名を挙げて法然と 法は、﹁弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言 帰し、法然は、﹁偏依善導一師﹂により選択本臓を明らかにし 章である。第二章は、親鮮と関東より命がけて上洛した同朋と したまふべからず。議口導の御釈まことならば、法然のおほせそ なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、康二三口 に触れ、釈迦は、阿難との選遁において出世の本懐を明らかに た。そして、善導は釈迦と章提希との避遁において釈迦の街意 c詮ずるところ、 らごとならんや。法然のおほせまことならば、親捕闘がまふすむ ね、またもてむなしかるべからずさふらふか このように、避近は、師を縁とし、本願を根川仰とする’身の白 し、弥比の本願を開示したのである。 身の自覚として表白されるのであろうか。 覚に成就する。されば、何故に、﹁本願にけ附す﹂という懇話一が て信じたてまつらんとも、またすてんとも、而々の御計なりと 愚身の信心におきではかくのことし。このうへは、念仏をとり める根源は弥陀の本阪であり、その本阪のまことが、釈迦1主 云云﹂と、木阪のまことであるという。即ち、初出泌を成U.せし 導法然親鰭と相当寸流するのである。 然るに、このような﹁ただ念仏して、弥陀にたすけられまい らすべし﹂︵第二章︶と、弥陀の本阪を根源とする湾近は﹁い ずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし﹂ かれる。然るに﹁若不生者﹂と衆生の救済を誓う第十八願は、 さて、本願は、正依の﹁大経﹂によれば、四十八願として説 四 6 2 ﹁唯除五逆誹誘正法﹂と唯除の文がおかれ、しかも、この唯除 執心を徹して、存在の根源に同居するような罪の重さを白覚せ 日出婚は、法の刑判行する場としての機を問題にして、ヨ細川一託﹂ 五逆川内生という法への疑いとなる。従って、戸公開は﹁業近経﹂ されるとぎ、そこに見出される臼己の罪陣は、その一軍さの故に このように、逆訪の問題が、自己の存在の深さにおいて照惟 しめる。 に八港問答を起し、﹁大経﹂の逆訪の二非を除く唯除の文と、 を引用し、十忠五逆日六主的不詳の車業なるものが、ただ十声称仏 G の文だけは解釈されず、困願の文が成就の文の上に移されてい 、 Fは ﹁観経﹂の五逆摂取の文の矛店に注目する。ここで、曇W は、時節の多少、久近の問題ではなく、何に依止するかという という較業で果して救われるかと’H己白’身に問い、繋業の軽量 る。ここに、廻心の契機を見出したのは、曇約と善導である この﹁大経﹂﹁観経﹂二経の相旧共を、教誕と理証を以て解釈し 妄想の比 虚妄顛倒の見 造罪の人 無後心無間心 無上の信心 実相の法 十念 本質的な問題であるとして三在釈を説かれる。即ち 誘法は桜重罪である故に、単持であっても往生は不可能である 有後心有問心 ﹁汝、但だ五逆の罪の重たることを知りて、五逆罪の正法無き 誘の二罪、が除かれてあることの疑問は解けない。故に、曇驚は も、衆生の救済を誓う第十八願に﹁唯除五逆誹誘正法﹂と、逆 業功徳釈には、諺法罪も仏の徳を聞けば自然に救われるとい ての十芦称仏の廻心において成立し、また、﹁論註﹂下巻の心 不生と決定した。しかし、五逆得生は、罪業の自覚を契機とし に立って、﹁観経﹂の五逆得生を明かそうとした故に、誘法を このように、誓願における唯除を問題とした曇驚は、﹁大経﹂ と示して、繋業の軽重は、且旦の問題ではなく質の問題であると より生ずることを知らず﹂と、五逆の根拠が誇法にあることを う。故に、曇驚が、どこまでも誘法不生とするのは、不生と教 り起る故に、反省の機会が絶無に近いからであろう。しかし、 明かす。即ち、誇法は、五逆の根底にあって、常に自己の信念 示されぬ限り、被害者意識と共に生きる自己の自性が自覚でき の救いを実証するものであるとする。 を固執する被害者意識の罪である。従って、誘法不生は、五逆 して法への疑いをはらし、罪業の臼覚の徹底のみが、十念々仏 決 曇鴬が、王合城の悲劇を縁として明らかになった五逆得生の経 定縁心 と決,足している。されば、何故に極めて例人的な邪見に属す誇 法が、五逆より重罪とされるのであろうか。思うに、五逆は、 倫理的社会的な問題である。従って、五逆は、如何に悲惨な様 相を呈しても、自己の倫理的見地や、社会的な規制により反省 せしめられる余地がある。然るに、訪法、即ち思想的問題は、 I 説の証明のために、ただ五逆のみの場合は救済されるといって 直接に社会を乱さないだけでなく、常に自己を是とする知識よ I 上 依 という具体的な罪の反省を以て救済にあづかろうとする自己の 6 3 在在在 I うのである。然るに、﹁大経﹂は、未だ誘法罪をつくらない。 己に作った罪障は、永劫流転の自覚を生む故、大悲の本願に遇 従って、﹁又止めて若し誇法を起さば、即ち生るることを得じ﹂ ぬという曇鴬自身の厳しい内観によるものといえる。従って、 ﹁誘法闇提、廻心すれば皆往く﹂︵法事讃︶と、機の自覚をう 五逆の根底としての誇法不生の内面的意義は、主日導のいう如く ながして廻心を教示したものといえよう。 しかし、このように善導が、誘法を未造業と領解するのは、 ︵散善義︶と未造業に約して明かす。 己肯定のためではない。﹃往生礼議﹄の深心釈には、﹁善根薄 白己は罪を造らない故に抑止は問題とならないというような自 さて、親驚が﹁後序﹂に記した如く、議口導は、念仏往生の願 に、﹁至心信楽欲生﹂の一二心と、この唯除の文を省略して根本 少﹂の凡夫は、三界に流転して火宅を出ずることはできぬと告 本願を一示す。然るに、善導の信仰休験の表白ともいうべき二種 深心には、唯除の自覚が機の深信として一万され、その逆誘の白 の内而には、誇法をまぬがれることのできぬ自性の自覚が秘め 白され、更に要略広の機悔の作法が詳細に説かれる如く、未造 られているのである。故に、未造業に解した後、すぐ﹁若し造 覚において至心信楽の願心が法の深信として念じられている。 場で大経の唯除を問題としたからであ一る。即ち、﹁この﹁観経﹂ に生るることを得と騰も、華合して多劫を淫ん﹂︵同︶と明か らば、還りて摂して生を得しめん﹂︵散善義︶と一不し、更に﹁彼 これは、善導が、五逆待生を説くのを真実とする﹁観経﹂の立 の定義日および三輩上下の文意を看るに、総じてこれ仏世を去っ し、三径の障を説いて、逆誘の罪の重さを徹底される。即ち、 て、後の五濁の凡夫、ただし縁に遇うに異あるを以て九口聞をし 善導が、抑止門の解釈の最初に注意した如く、逆諺は、抑止の き放の不生である。従って、﹃礼讃﹂の法の深信には、﹁今﹂ て差別あらしむ﹂︵序分義︶と、自覚においては、九日川唯凡と という語をおいて、第十八願が一不されるのであって、抑止は摂 故に不生なのではなく、逆誘が自己の自性であるという目覚な 故に、善導は、﹁散説日いお﹂に、﹁抑止門の中に就きて解す﹂ 取の大悲心そのものなのである。故に、﹁米造業己造業の内面 いう罪業の身以外にないとする主導の主体的観’杭解釈の立場で と示し、逆誇の二業は、昨り泣き故﹁何如来、其れ斯の二つの は、当然の帰結である。 過を造らんことを恐れて、力便して止めて往生を得ずと一口えり、 的意義は、米廻心己魁心﹂を明かすものなのであろう。 す。従って、﹁観経﹂に五逆公取って訪日泌を除くのは、﹁共れ を問顕して、不生は必ずしも不摂生立味するものでないと明か は、間四五鮮が明かす如く、誘法の自性の自覚を促すものであり、 びとをきらひ、誘法のおもきと、かをしられんとなり﹂というの 法といふは、唯除はただのぞくといふ ﹂とはなり。五逆のつみ その意味で、親鋭、か、﹁尊号真像銘文﹂に﹁唯除五逆誹誇正 註2 を摂せざるにはあらざるなり﹂︵散斥義︶と、如米の刷剛志 亦 HAK 五逆は己に作れり。捨てて流転せしむべからず、回足りて大悲を F 発して摂取して往生せしむ﹂︵散志義︶と己造業に約す。即ち 64 機の深信において﹁自身は現に是れ罪忠生死の凡夫、畷幼より 十八願において明らかであったっ従って、唯除の文は、強同道寸が を顕わすものといえる G而して、かかる逆誘の自覚ば、特に第 釈すのほ、主口導の説の如く、逆誘の廻心を通して如来の大悲心 ﹁十方一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせんとなり﹂と と九円見のれという恨本本願の現体験としての唯阪の自覚に成就 た如く、本願加減の文における﹁南無阿弥陀仏﹂は、救済の法 に極まることを明かすものであろう。即ち、一後序﹂に記され の不感性的傾向と被害者意識の内省を以て作られ、唯除の自覚 に価いするっそれば、救済の自覚を示す﹁信巻﹂が、常に罪障 は、本願における唯除の文によるものである。 このように、﹁本願に帰す﹂という選遁が身の臼覚であるの するのである。 F 己米、常に没し常に流転して、出離の紋有る ︸と無L ﹂︵散詩 義︶という如く、無有出離之縁の自己を知らしめる無縁大悲の 顕現なのである。即ち、本願における唯除は、出離の縁を﹁加熱﹂ と深信させることにおいて本願に乗ずるという、細心の内景を さて、避遁は、本願における唯除を契機としての身の自覚で 根源において諮るのである。 周知の如く、親鴬は、﹁信巻﹂末巻に ﹂の唯除の問題を究明 としての釈迦の発遣であり、誓いが弥陀の招喚とされるのであ あった。ざれば、何故に身の自覚を徹底せしめる唯除が、抑止 F の獲信を示す。然るに、親驚は、この文に続いて、諸大乗によ ろうか。思うに、身は、白然的身体であると共に社会的身体で して、﹁浬繋経﹂の文を長々と引用し五逆罪をおかした阿閣世 って難化難治の機を説く経説を﹁云何が思量せんや﹂と聞いつ は常に客観的存在となる。然るに、身体そのものは、自我意識 と環境との二面に触れるという矛盾を含みつつも、依然として もある ο従って、社会的身体としての身は、自我意識において 我身なのである。従って、自我意識と身とが、互いに分離して つ、前述した﹁論註﹂﹁散善義﹂﹃法事讃﹂それに﹁最勝王経 る唯除が、曇鴬、善導によって明かされた如く、廻心の契機を 対決するという苦悩は、正しく意識に先立ってある身に帰る以 疏﹂を引用して何も注釈を加えられない。それは、本願におけ 示すものであるからである。即ち、逆誘として唯除されること 外に救済はない。その意味で、身は、自己の罪障を自覚させる しかし、身は、最も近き縁である故に、身に帰ることが、深 の真意は、逆誘を解釈することではなく、自己が逆誇に目覚め い音叫識における人としての願いであっても、それを如実に自覚 最も近い縁なのである。 末巻所引の﹁浬梁経﹄の文、即ち、父王を殺すことは世間に沢 することは不可能である。従って、身の白覚を徹底せしめるの ることであって、この機の自覚こそが如来に遇与えた事実である 山あること故愁悩するには及ばないとして、罪の意識を世間の からである。その意味で、草稿木の﹁信巻﹂の表紙の見返しに 実例を以て解消せんとする悉知義の説が引用されることは注目 6 5 五 に求道者の内景を−示して、白道を歩む者の前にあるものは、貧 しめる海遁の構造を明かすものであろう、即ち、親驚が﹁総序﹂ て、自己を叱陀しつつ発遣することにおいて、阿弥陀と対面せ の発遣といわれるのは、師教が、どこまでも自己の背後にあっ 旗二河を距てた懇遣の根源としての西岸上の阿弥陀であり、背 に﹁世雄の悲正しく逆誇闇提を恵まんと欲す﹂という如く、求 は、師教による外はないといえよう。即ち、釜口導は、﹁二河壁画﹂ 後にあるのが東岸の発遣とする。 おいて救主は阿弥陀以外にないことを示すものである。また、 浄土をを願う別選を待って﹁却便微笑﹂したのは、釈迦の悲に に、前述した如く、章提希の希願で沈黙した釈迦が、阿弥陀の 決断は、﹁決定して此の道を尋ね行け﹂︵散善義︶という師教 阿難、か、釈、迦の五徳現瑞の相に仏々相念の世界を見出すことに 道者は、釈迦の悲において阿弥陀の大悲心に遇うのである。故 においてなされるものである。従って、決断の内景として語ら 然るに、かかる招喚と発遣は、一二定死の決断において開示さ れる教法の歴史は、求道者をして阿弥陀と選遁せしめる直接的 の世界、か開示されるのは、正しく対面するのは阿弥陀であり、 おいて、始めて釈迦の出世本懐が明らかにされ、ここより本願 れた世界である。即ち、﹁既に此の道あり﹂︵散善義ゾという な契機なのである。即ち、現実の救済としての選這ば、親鷺に 較は成立しても’身の自覚を呼び起すことはできない。従って、 避遁は、業縁存在の事実に目を開くという身体的自覚において 法然を師として誕生したものであった。而して、師を縁とする 以上、述べて来た如く、真実の救済を成就した親鷺の遅遅は 帰すべきは本願であることを如実に物語るものである。 おける法然、章提希と阿難におげる釈迦というように、師教に 依らずしては成立しない。しかし、師教をして自己と対面する 救主は、どこまでも白己と対面する如米でなければならないし もその本願は、唯除を以て衆生を目覚ましめんとする大悲の本 成立した。然るに、身体的自覚を生む根源は本阪であり、しか 救主とするならば、それは他者による救済となる放に、身の比 また、削教は、日己の背後であってのみ師教たり得るのである。 己が分以を量るという人執ではなく、常に阿弥陀と対面するこ 願なのである。従って、師を縁とする避遁は、師教と対面して 即ち、﹁たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地猿 において、阿弥陀と対面している時にのみ、表白できる一一一口葉で よく案ずれぷ、ひとへに親鴛一人がためなり一︿ v 五七頁ゾ 誠に、親概冊、か、自己の宗教体験を﹁弥陀五劫思惟の願をよく 棄てて本願二帰す一という廻心そのものとなるのである。 選這そのものを、親刷用の言葉で以て表現するならぽ、﹁雑行を とにおいて臼己の身の事実を自覚することなのである。故に、 に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず侠﹂とは、制教の免遣 F 思えば、﹁いずれの行も及び難き 功一という自覚は、﹁ただ 太りザ匂。 念仏して﹂というよき人の仰せにおいて成立し、この身の’け覚 ο従って、古来、唯山内が釈迦 が一転して、﹁弥陀の本願まことにおはしまさぱ::・﹂と、弥 陀の本願を聞き開いたのであった 66 と 土 着 七 イ 松 野 純 孝 ﹁福音 いるのに、まだ約八O万人という信徒︵固いところ、五O万人程度といわれる︶しかできていない。これはわ ぃ。キリスト教が天文十八年︵一五四九︶日本に伝来してから四OO年、宣教が許されてから一 OO年も経て しかし、教会の土着化問題は、博士の忠告をまつまでもなく、次のような目前の事情のあったことは否めな れるように西欧的であり、 日本の現実から遊離していることを警告した o 日本の教会じ対する痛烈な批判にあったといわれている o博士は、 日本の教会は、その建物や礼拝様式に見ら は、日本基督教団の招きでコ一十五年十月に来日した、宗教学、布教学の権威へンドリツク・クレ l マI博士の の土着化﹂ということが大きな問題となり、種々の論議をよびおこした。この土着化論のきっかけとなったの 日本キリスト教界||とくに。プロテスタント系ーーでは、 日本における宣教百年記念を契機として、 キリスト教における福音の土着化 ’~ 刀ミ が国人口の一%にも満たぬことを示している。 6 7 真 これに対して、新興宗教には今日、国民二O 人に一人の割で入っているといわれる。それは、この戦後の僅 々二O年足らずの聞の出来事といっていい。創価学会、立正佼成会、霊友会教団、生長の家、 P L教団、世界 救世教、念法真教など多数の新興宗教が族生した。なかでも、現在五五O 万世帯と公称する創価学会の実数は 者 全国区得票合計 半 − ー 含 二七O万一 一二七万 三Ot五O万 計 人に一人が学会の候補者を支持したことになる Q 七年七月の参院選は全 員当選し、得票数は社 会党八六六万︵十九人︶ の半分、共産、民社党 このように投票した国民の九人に一人の訓で主持されている 一 OO万であるから、そ 一 OO人に一人の割ーーであり、そこにあらためて教会の土着化について反省が 加えられることは、 また当然でもあったわげである。しかも、戦後日本の状況は、 クリスチャン将軍によって うした成人人口からすると、 人に対して一人にも満たぬといった状況liもっとも二十歳以上の成人人口は約五、 このような新興宗教の拍頭に対し、山児教開始以来、その五倍もの歴史をもっキリスト教が、 まだ国民一00 のである。 すなわち、昭和三十 正確には分からないが、参議院議員選挙における同学会推せん候補の得票数をみると、だいだいその教勢がう 期 創価学会参院選の得票状況 I t ] ! ! をはるかに引きはなした 。瀬こ の﹁全 国 得 票教 数 は七、 投ー票 した国民の九 ︵高 広居 第二 一区 文明 の宗 ﹂二 五ペ ジ︶ 比 かがわれよう。 時 6 8 統治されたキリスト教ブlム時代で、 いわば順風満帆といったものであった。しかるに、その教勢の進捗はは かばかしくなかった。こうして、 キリスト教をいかにして日本に土着化するかが、大きな関心となったわけで ある。 そこで、ある牧師は、 キリスト教が日本に受容されるためには、先ず日本人の心性を明らかにする必要があ るとし、その心性として、①情緒性、②重層性、③シャーマニズムの三つを指摘し、これに対応して福音の土 着化につき、次のようなきわめて具体的な五つの提案をしている。すなわち、 1日本的神学の樹立、 2牧師の 聖︵ひじり︶化、 3集会所から聖堂へ||日本人の情緒性上、荘厳な寺院が効用をもっているので、耳が聞え ない老人でも礼拝しうるような聖堂の建設||、 4日本人用カテキズムの作成||冠婚葬祭など日常生活にお ける明確な指針をもった信仰問答が作られ、家庭と教会において用いられなければならない 1 1、5信仰の祭 ll外来宗教としての仏教も実際は祭儀となってはじめて、日本の仏教となり、民族の伝統となったーーー 儀化 の五項目である。 ある牧師は、 日本では共同体的意識が強いので、そうしたところへキリスト教といった新しい宗教は入り難 ぃ。そこでそうした共同体的意識のくずれているところや薄いところから入ってゆかねばならぬ。農村などで は、農民の要求している農業技術を教える o 病 院 と か 農 業 学 校 、 保 育 託 児 所 な ど の 福 祉 施 設 を 作 り 、 こ の 施 設 と農民とのつながりを通して伝道をすすめる。また逆に共同体を握っている要人を先ずとらえて洗礼を受けさ せるようにすれば、その要人をとおしてキリスト教化がスムーズに展開してゆくのではないか。こういった土 着化の考え方である。 また、土着化を習俗化と解し、教会主催の盆踊りや教会幼稚園での七五三祝い、教会の墓地経営などを行な ったところもある。そうかと思うと、こうした習俗化、 日本化にどこまでも反擁して、 キリスト教の独自性、 69 − EEmgstcロ ︵この言替市はラテン語一の Elmm55 ︹内に生れる︺ から来たものとされ − 他者性を一層純粋に押し進めようとするものもある。 ﹂うして、土着化 る︶について、 だいたい次の三つの動きに分けられている。第一に、土着化を習俗化、 日本化とする即物的立 場。第二に、これとは全く逆に、 キリスト教の独自性、他者性を純粋に推進し、 いわゆる土着化を考えない立 場。第三に、上記の第一、第二の立場の聞にたって、 キリスト教の独自性を保ちながら、 しかも日本の精神的 風土との聞に対話の場を見出そうとする立場。ここでは、土着化とは結局、人間としての事情の了解とし、 ﹁突き破ること﹂と リスト教信仰にとって、生命的なもの︵究極的なもの︶と、歴史的付加物︵非究極的なもの︶とを区別し、信 仰の非究極的なものの否定的機能を強調する。つまり、土着化とは﹁把握すること﹂と、 の間の緊張の上に成立するとするのである。 もちろん、この土着問題をめぐって、これまで土着化を妨げてきたキリスト教界の自己反省、がいろいろと行 ﹄ ﹁仕える教会﹂が強調されている。 なわれていることはいうまでもない。たとえば、教会について、その自己目的化と閉鎖性、連帯性の欠如と孤 ︸ E レぃ、 インテリ中産階級的性格、牧師のエリート意識、などが反省され、 このようなキリスト教の土着化をめぐって、 日本基叔同教団信仰職制委員会では、三十七年十二月に﹁福音の 一 ﹂ ,4 土着﹂ ︵ ん 上 文 一 O 八べ l−/︶を公刊したり ところで、このような福音の土若化は、単にキリスト教界における問題にとどまらず、既成の仏教界におい ても正に焦眉の問題といえる。 れる。それは土着化の問題でもあるからである。ここでは問題を一般化するため、いわゆる宗教諭義に深入り の宗教がどのようにして、民衆の需要にこたえ、民衆の宗教となっていったか、を考えることが大切かと思わ そこで、今日今後の仏教界のあり方を考えるに当たって、まず日本的私の地盤に立って打ちたてられた親驚 キ 70 することを避けて||結局この深入りが最も重要な核心なのであるが||、きわめて日常的な問題にしぼって 考えてみることにしたい。 二、親鷺における両親と国家との否定 ﹁教行信証﹂化巻に、 外論に日く。老君範と作す、唯孝唯忠、世を救ひ人を度す、慈を極め愛を部内む、是を以て戸教永く伝へ、 百王改まず、玄風長く被らしめて万古差︵たが︶ふことなし。所以に圃を治め家を治るに、常件以たり、栴式 たり。釈教は義を棄て親を棄て、仁ならず孝ならず。閣王父を殺せる献じて借︵とが︶無しと説く、調達兄 を射て無間に罪を得。此を以て凡を導く、更に悪を長すことを為す。斯を用て世に範とする、何ぞ能く善 を生むや。此れ逆順の異十なり。 とある。すなわち、老子の教えは、孝と忠とを説くから、家を治め国を治めるみちにかなうことは明らかであ る。それに対して、釈迦の教えはこの老子とは逆に孝と忠とを否定する不仁不孝の教えである。そこでこうい う孝と忠とを否定する釈迦の教えで一般の人を導くならば、いよいよ悪を助長することになる。それで、どう して善を生ずることができようか。これは、老子の教えが道に順い、釈迦の教えがこれに逆らうという第十の 異であると oもちろん、これは外論の仏教批判である。 ﹁出家の人の法は、国王に向て礼拝せず、父母に向て礼拝せず、六親に務へず、鬼 ところで、この文章の少し前に、次のような文が、同じ化巻に引かれている。 ﹃菩薩戒経﹄に言く。 神を礼せず﹂と。 7 1 つまり、 ﹁菩薩戒経﹂によると、仏道においては、国王、父母、六親、鬼神の否定を本質とすることが説かれ ﹁老子周公孔子等、是れ如来の弟子 ているのである。そうすると、さきに仏教が孝と忠とを否定するといった外論からの非難は、実は仏教の本質 をついているわけである。 ﹁教行信証﹂信巻には、仁義礼智信は世間の善法とされ、同化巻には、 として化を為すと躍も、既に邪なり、 ただ是れ世間の善なり。:::老子の邪風を捨てて、法の真教に流入せよ となり﹂とある。すなわち、老子周公孔子などの教えは、 ただこれ世間の善にすぎず、 したがってこうした世 聞の善を捨てて、仏法の真実の教えに入れ、 というのである。 これによって、親驚は仏教を世間一般で善法とされる、 いわゆる世善の次元と厳密に区別し、むしろ世善の 立場からは、そのことがどうしても、いよいよ悪を増長させるとしか考えられないことをもって仏教の真実の 立場としていたことがわかる。それを世善の立場の基本をなす孝と忠との否定としてとらえている。 一人にかぎらず、 一切衆 もっともこうした孝と忠との否定の思想は、単に親驚一人にだげ見られるものではなく、同じく鎌倉新仏教 を打ちだした道元、 日蓮などにもみられるものであった。 ﹁正法眼蔵随聞記﹂に、 出家は思をすてて無為に入る︵棄恩人無為︶故に、出家の作法は、思を報ずるに、 生をひとしく父母のごとく思深しと忠ふて、 なす処の善根を、法界にめぐらす、別して今生一世の、父母 にかぎらぱ、無為の道にそむかん、:;:忌日の追善、中陰の作菩なんどは、皆在家に用ふる所ろなり、柄 子は父母の恩の、深きことをば、突の如くしるべし、・::戒経の父母兄弟死亡之口の文は、且︵しばら︶く 在家に蒙むらしむるか、大宋叢林の衆僧、師匠の忌日には、其儀式あれども、父母の忌日は、是を修した りとも見へざるなり、 72 と、道元の言葉を伝えている。この道元の思想は、 一返にて ﹁棄恩人無為﹂という仏典の一−一一日葉によっているが、こ 一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、・:﹂ ﹁歎異抄﹂の﹁親鰭は、父母の孝養のためとて、 も念仏まふしたることいまださふらほず。そのゆへは、 と同様なものと思われる。 この道元の思想は、右の文によっても分かるように、 の言葉は日蓮においては、孝の否定として受けとられていた。日連の﹁兄弟抄﹂に、 一切はをや︵刻︶に随ふべきにてこそ候へとも、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か。きれば心地観経に は孝養の本をとかせ給ふには、棄思入無為真実報思者等云云。 とあり、世間の道では親に従い、親に孝行するのが範とされているが、仏道では両親に従わぬのが実は真の孝 行の根本とされているといっている。 こうして、親驚、道元、 日蓮において、両親︵孝︶の否定が説かれている。 ﹂れは学道の一魔なり。あはれむこころをわず また、国家否定の思想も、親驚のみでなく、道元、 日蓮にも見られる。 ﹁正法眼蔵諮声山色﹂には、 国王大臣の帰依しきりなれば、 わがみちの現成とおもへり るべからずといふとも、 よろこぶことなかるべし。:;:前仏いはく、国王・王子・大臣・官長・婆羅門・居 士に親近せざれ。まことに仏道を学習せん人、わすれざるべき行儀なり。 とあり、道元が国王および国王をめぐる国家権力に近づくことを厳にいましめている。国家の否定である。 日蓮も﹁報思抄﹂に、 仏法を習ひ極めんとをもわば、 いとまあらずぱ叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国王 等に随ては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべから 7 3 ず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとをもう。しかれども外典の孝経にも、父母・主 君に随わずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く、棄思入無為真実報思者等云云。比干が 王に随はずして賢人のな︵名︶をとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。 と記している。このように、 日蓮は比干や悉達太子 H釈迦が王に随わず、父に背いたこと、 つまり日常的な立 場からは不忠、 不孝の行為が、実はかえって本当の忠であり、孝であったことを例示しながら、仏道に志すも のは、父母・師匠・国王などに随つてはならないことをいっているのである。 ところで、このような言葉も単なる言葉として終っているのでなく、果たして実践されていたのであろう 。 みたい日 念仏弾圧事件に対処して、親問の弟子・性信が鎌倉幕府に陳情し、事件が明かるい見通しになっている模様を この手紙は、親驚が関東全去って京都に帰ってから二十年ほどたった建長年間に、東国の教団に加えられた ふるごとにてさふらふ。. 性信坊のかたこと午刀人︶にこそなりあはせたまふベげれ。母・姉・妹なんどやうやうにまふさるることは、 のにこころえぬは性信均のと、かにまふしなされんはきはまれるひがごとにさふらふベし。念仏主ふさん人は なじこころに御沙汰あるべきことなり。御’身をわらひまふすべきことにはあらずさふらふベし。念仏者のも しきうたへにてもさふらはず、性信一 ひとりの沙汰あるべきことにはあらず、念仏まふさんひとは、 m なり。このやうは、故聖人の一御とき、この身どものやうやうにまふされさふらひしことなり。こともあたら :おほかたは、このうたへのやうは、御身ひとりのことにはあらずさわらふ。すべて浄土の念仏者のこと ﹁親驚聖人御消息集﹂所収の七月九日付け、性信宛の手紙に次のような文が記されている。 親驚においては、両親と国家とが実践的にも否定されていた。先ず両親︵孝︶の否定については、 たとえば、 七 、 74 親驚に知らせたのに対する親驚の性信への返事官である。これによって、性信が母・姉・妹らから非難されてい たことが知られる。つまり、念仏弾圧事件に対し、性信がそうした念仏者になったことを母・姉・妹らが罵っ ていたわけである。このように親・兄・姉から罵られ、四四の人たちゃ村から追放された性信に、そうした人 たちの非難はもう古い近徳でしかない。喜も気にかける必要はない、と親驚は性信を励ましていたのである。 性信が親耐用の説く念仏に帰するためには、母・姉・妹らの反対や、いわゆる村八分を覚悟せねばならなかっ た。すなわち、これまで性信の家や村のなかをおさめてきた道を突き破り、否定ナることにおいてしか念仏者 ﹁教行信証一の最後の部分で、承元一疋年にお になる注はなかったわけであるつそれは、親の否定であり、孝体系の拒否である。このように、親鴛の思想は 親、孝の否定を要求するものであった o つぎに、国家︵忠︶の否定についてはどうか♀これについては、 ける法然を中心とする吉水教団の弾圧について、 主上・臣下、法に背き義に違し、念︵いかり︶を成し怨を結ぶ。認に因て、真宗興隆の大祖源空法師、弁に門徒 L 二宗祖部に収められている﹁教行信証﹂ 数輩、罪科を考へず狸りがわしく死罪に坐す。或は僧儀を改め、姓名を賜ふて遠流に処す、予は其の一なり:・ と記している。昭和十六年に四版として発行された﹁真宗聖教全書 一主上﹂、が﹁法に背き義に達し﹂とあっては、 不敬罪に問われる心配があるから、それを では、右に引用した文の最初の﹁主上しの二字が欠字となって空白にされている o昭和十六年といえば、 ゆる大東亜戦争で、 おそれで、編集者がこの﹁主上﹂の二字を削除したのであろう。 ﹁法に背き義に違し﹂た行為を犯し 親驚の当時においても、こうした朝廷、天皇への公然とした批判は見当たらないといってよい。そうしたな かで、親驚が樺るところなく﹁主上﹂およびそれをとりまく﹁臣下﹂が、 75 し 、 たと堂々と批判しているのである。このことは、親驚が国王、国家を否定していたことを最もよく物語ってい っ オ への服従を教育されるわけである。した、かつて、親・家は肯定的存在といえよう。国主・主長、国家・政治も になう子たちに教育するのは、先すほかならぬ両親であろう。 つまり、両親によって子たちは先ず伝統、権威 なる。したがって、家の否定は、伝統的支配の否定となる。ところで、伝統的支配、権威服従的態度を次代を たり、甘からあったもの、そうした伝統が侵すべからざるものとして神聖視され、家族道徳の決定的な契機と り、先祖伝来の家の秩序に服することが、家の幸福、繁栄をもたらすものとして要求される。先祖伝来の仕き はできないから、定住を強いるようになる。そこでは土地は先但伝来の性格をもつので、家は先祖と一体とな マックス・ウェ lパーによれば、家は権威の根源的な基礎とされている。とくに農耕は土地と切り離すこと 両親、国家の否定とその意義 、 一 れについて考えてみたい。 それでは、このような両親と国家との否定は、どのような意味を実際にもっているのであろうか。 つぎにそ における基本となっていたといえよう。 こうして、親穏においては、孝と忠、親と国王・主人、家と国家、 つまり両親と国家との否定が、世俗生活 に示している o ここにもたらした国王・国家の体系につながる支配層 H主人の否定において、真宗が成立していたことを鮮か 層と対立していたことを伝えている。当時の在地における支配層はこの領家、地頭、名主層であったわけで、 また親鷺の手紙︵﹁親鴛聖人御消息集﹂所収の九月二日付︶には、関東における真宗教団が在地の領家、地頭、名主 る 。 76 こうした肯定的存在である。ここからは現体制を突き破り、変革するといった否定的エネルギーは出てこな ぃ。この意味で、 カントが教育論で、教育の最大の敵は、両親と直家であるとしたこともわかるようである。 ﹁汝は汝の父と汝の母とを敬うべ ﹁われわれの両親と主人とを軽んじて怒らしめることなく、かえってこれを尊敬し、これに いわゆる宗教改革をなしたルターが﹁小信仰問答書﹂の十誠中第四誠で、 し﹂の答として、 仕事し聴従し、愛し貴まなければならない﹂としている。この﹁主人﹂とは、地主、親方、領主、工場主、部 隊長、領邦君主、皇帝など一切の﹁眼上の者一回2叫に関した。 そして、 ルタl派の家庭の子供は﹁家長﹂の 前で毎日、このカテキズムを復諭しながら成長したという。したがってルターのこうした考えは、此世の主人 権力者に対する心からの柔順と服従を歓迎し、これへの不柔順、 不服従を憎悪した oそれはルタ!の伝統主義 および家長制との妥協であった。そこでこのようなルタl派の雰囲気は、あのドイツの保守主義、軍国主義に 0 ﹁何よりも、親に 恰好の精神史的基盤を提供したといわれる︵青山秀夫﹁マックス・ウェ l ハl﹂一七六一七七ページ︶ ここで、今日の本願寺教団を築いたといわれる蓮如の孝行奨励が思い出される。蓮如は、 と、門徒に対し、親不孝を一番嫌いだといっていたという。ところ 不孝なる人、蓮如上人第一きらひにて候 一 i 0 つまり、蓮如は本願寺教団の膨 で、この蓮如の親孝行の奨励は、蓮如の末年に当たる明応三、四年︵蓮如の八O、 八一歳︶頃から言われだし たことといわれる︵笠原一男﹁中世における真宗教団の形成﹂二O三一二O四ページ︶ 大な増加に伴い、 こうして、 せっかく築きあげた教団の勢力が支配層との摩擦抗争によって失われるのを恐れ 支配者への柔順をねらって、先ず両親への柔順、服従を強いる孝行を強調したのであろう o両親への柔順は、 主長、支配層への柔順、服従につながるからである。蓮如はこの晩年の段階ではもう守勢の位置にとどまって いるのである o本願寺教団の停滞はこうした親驚の教えに背いた親への孝行を誓わせたときからはじまったと いっていいであろう。それは主長、支配層との妥協であり、伝統、権威への盲従であり、保守主義、肯定主義 77 への迎合にほかならない。 親驚が﹁教行信証﹂化巻で、念仏者の決して仕えてはならないものとして、諸天神、余道、天、鬼神、吉良 日卜占祭杷、神、邪神外道、余乗、余天、神明、国王・父母・六親・鬼神、仙道、老子・周公・孔子、鬼、諸 ﹁災障禍、横さ 外天神、諸外道︵公卿百官候王宗室、諸寺釈門、洛都儒林︶などをあげている。このうち特に、神明と老周孔 に仕えてはならぬことを繰り返し述べている。たとえば、福を求めて神明に承事するものは、 という善導の﹁法事讃﹂の文 まにうたた弥々多し、連年に病の床枕に臥す、聾ひ盲ひ、脚折れ、手撃きおる 一 1 を引いている oすなわち福楽を求めて神に仕えるものは、災障禍がいよいよ増し、毎年病床に臥し、耳はつん ぽになり、 日ほめくらになり、足は折れ、手は折れる、 といった報いを受けるというのである。こんな残酷な ﹁神祇﹂からはじまり ﹁沙石集﹂も﹁大神宮の御事﹂を最初に掲げ 報いがあろうか。死よりもつらい生き地獄の報いである。これをみても、親驚がいかに神明への奉仕をきびし くしりぞけていたかが知られる。 親出用の当時できた﹁古今著聞集﹂は、 ている o また新しい時代の担い手として登場した武士によってつくられた﹁御成敗式日﹂も、先ず﹁可修理神 社十回一ソ祭把事﹂をもって開巻の男頭においている。こうした神明への承事が当時の秩序道徳を支える根本とされ ていたわけである。こうしたなかにあって、そうした神明承事に残酷きわまりない報いをもってこたえ、それ との絶縁を力説している親鰭は、 まことに驚邸内に値するといわなければならない。親鰭が前述したように、神 と老周公への親近を特に力点を置いて拒んでいるの法、この二つの教えが当時の体制を支えていた大きな二本 の柱となっていたためであったからであろう。二一日いかえれば、現体制を打ち倒し、新しい世界を待望するため に、そうした現体制の支柱となっていた右の二本の教えを否定する必要があったわけであろう。 イエスは、自分は地上に平和をもたらすために、ここに来たのではなく、むしろ地上に分裂をもたらすため 78 に、来たのだ、 と言ったという。親露も現状維持的平和のために教えを説いたのではなく、そうした現状肯定 に対し、亀裂を与えるために、念仏を説いたといえよう。 こうして、肯定主義、保守主義の根源的基礎とされる両親、同家の否定を親驚が取り上げたことは、きわめ て意味のあることと解される。 今日、真宗が浸透している地域でほ、民間伝承の史料採訪は悶難といわれている。 つまり、真宗信仰が民族 宗教的、 呪術的、 民間信仰的、 そうした現状べったりの 1 l否定的契機のないll肯定的伝習にたずさわるこ mm訓士︶ とを拒否しているので、 そうした史料が生き残つていないのである︵恥川一品V間十問ト時計間一抑制一 ﹁門徒物知らず一という一言葉もあり、今日でも門松やシメ縄、伊勢の大麻などを用いない門徒L見られる。こ の事実はきわめて注目に値するもので、真宗の誇りである。これも祖師親憶の上述のごとき精神に淵源してい るのであろう。 未聞社会においては、罪という語と原因という言葉とが混乱しているといわれる。そこでは自分が原因とな るような独自な自由な行動は、共同体の枠からはみ出し、その秩序を乱すものであったから、共同体を裏切る ものとされ、有罪とされたわけであろう。こうした未聞社会の考え方からすれば、両親、国家への孝と忠とを 一である﹂道徳、そうした﹁であ 否定し、世に背いた一生を歩みつづげた親鷺は、生涯を罪人として終始したことになる。それは、 また先天的 −既定的に通用している権威、丸山真男の言葉を借りれば﹁である﹂社会、 る﹂こと︵﹁日本の思想﹂一五四ページ以下︶のうち崩しともいえよう。しかるに、戦前、進歩主義者が反進歩主義 者として挙げているリストに、寺院の僧侶が神官と警官と並べて記されていたという。僧侶が時の権威の憐偏 になっていた証拠である。悲しむべきことである。あるキリスト者の集いで、 つぎのような反省がなされた。 それはクリスチャンは自分を守る姿勢に終始し、あたりさわりのない、人受けのよい、強い発言をしない、実 ?9 ﹂れではいけない、 直で嘘をいわない、そうした青年を一番理想像として教育されてきた o なるほど、このようなクリスチャンは まじめで、 おとなしいから、倉庫番や守衛にはいいが、骨のある仕事には向かない、 J ﹁あなたにとってなにがいちばんたいせっか﹂との質問に対し、宗教とか神仏とかいうものは ﹁正行﹂六項目の第一に、先祖供養を掲げ、子供たちのマ﹂ころえ﹂ ﹁信仰生活心得﹂二十一か条中 ﹁信徒ノ汀持要目﹂八つのうち、第一に﹁天地一切のも のに感謝すベし一、第六に﹁常に自我を死に切るベし﹂とし、 P L教団では、 の尊敬と家内の和合円満をあげている。生長の家では、 く守りましょう﹂と、祖先供養と両親への柔順を誓わせている。念法真教では﹁五聖訓しの第一に、神仏祖先 七つの第一に﹁御先祖様に朝夕のごあいさつをいたし・ましょう﹂、第一一に﹁お父さんお母さんのいいつけを良 新興教団の母胎であった霊一友会教団では、 否定が強く誓わせられている。たとえば、立正佼成会、仏所護念会教団、妙智会教団、妙道会教団など日蓮系 心をつかんだわけであろう o新興宗教の生活規律をみても、この祖先供養とならんで、両親への柔順、自我の 宗教的な心の根深いものであるかがわかる。こうして新興宗教が祖先供養を看板にすることによって、民衆の たなかに、位牌、仏壇などが一五%を占めている。これで、祖先崇拝、祖先供養ということがいかに日本人の ごくわずかしがなく、祖先を尊ぶというものが全体の七七%あり、 しかも家で一番大切なものとしてあげられ コ一五恕であり、 統計数理研究所の﹁日本人の国民性﹂︵一八Oベ|シ以下︶によると、宗教を信じていると答えたものが、全体の 新興宗教の殆んどほ、祖先供養に最もカを注いでいるといってよい。ところで、三十四年に吟味調査された らされた人だげで事足れり、 としていてよいのだろうか。 H 工耳 ” し、あたりさわりのない、人受けのよい、進んで強い発言をしない、そうした、私を持たない、 、つ 士﹄ 告吋 か、 し 回初 ぽ向かないのである。真宗者は倉庫番や守衛だけで満足していてよいのだろうか。ただ自分を守る姿勢に終始 うのである。両親、国家﹁である﹂ことに忠誠なだけでは、倉庫番や守衛には適しているが、骨のある仕事に と 80 第二に﹁人や物事や天候の不足等思わず、自分の考えや仕方の足りないところを発見し、:::﹂、第三に﹁人 や物事に感謝の心・﹂、第六に﹁自分の考えにとらわれて強情ぼりません﹂、第一五に﹁何事にも度を過さぬ ように:﹂とあり、 また同教団﹁処世訓﹂二十一か条中第六に﹁白我無きところに汝がある一とし、他との摩 擦抵抗をできるだけ少なくしようとしていることがうかがわれる。 このような新興宗教の生活規律と位間の大きな関心を引いた二十六年の無着成恭の一山ひこ学校﹂における 六つの誓い︵高木宏夫﹁日本の新興宗教﹂五一ページ所収︶ 。いつも力を合わせていこう 。かげでこそこそしないでいこう 。いいことを進んで実行しよう と考える人になろう 。働くことが一番すきになろう 。何でも、 なぜワ・ 。いつでも、 もっといい方法がないかさ、かそう とを比較してみると、そこに生活態度の志向において大きな聞きのあることが知られよう。同じ新興宗教のな かでも創価学会は、祖先を大切にせよ、 ということでは他と同様であるが、ここでは、そうした肯定主義と同 O 時に現状打破のイデオロギーを掲げている。これが創価学会の中核をなす若い青年を引きつける原動力となっ ﹁である一ことに即物的に適応するのではなく、それとは正反対に ているといわれる。 ︵村上重良﹁創価学会と公明党﹂四一ページ以下︶ ﹂うして、真宗と土着化を考える場合、 ﹁である﹂ことの根源的な基礎とされる両親、国家の否定をその基本とすべきことをみてきた。 いったい、仏教の出発点とされる ﹁出家一 ということも、 家を出る、 つまり、 家を否定することを意味す 8 1 る。この家の否定とは、われわれがこれまでみてきたように、 両親、 て摘みとってはならない。 国王、 国家の否定を意味してい みられることは注目に値する。せっかく育ってきたこの戦後の芽を、少年の非行化防止といった美名に扮飾し ても、きわめて深い意味を示唆していると思われる。戦後に育った今日の高校生に、甚だ行動的積極的発言の は、最近のわが国における道徳教育、家、愛国心、期待される人間像、などの重視といった一連の動きに対し −六親の否定、 としたことは、仏教の基本的立場を正しく把握していたといえる。この両親、国家否定の立場 た。した、がって、 さきに親驚が﹁教行信一証﹂化巻に引用していた﹁菩薩戒経﹂の、出家の人の法は国王・父母 主 長 なお、真宗の土着化については、 さらに﹁教行信証﹂における真と化との矛盾角逐を追究して考えなければ 出会 ル︸シc の ︵一九六五・四・二九︶ ならないと思われるが、それについては他日を期したい。その意味では本稿はそのはしがきにしかすぎないこ とを深くお詫びする。 東西 、 し いを迎える用意も全くなく、出会いがやがて米ることの意識すらもないかのようである。 酋谷啓治﹁親情の世界﹂より 山会いには相手をよく環解してかかることが必要であるとして、他宗教との﹁対話﹂が強調されている。そうい う気運と運動のおこりつつあるのを見るとき、やがては押し寄せて来るであろう高潮の遠鳴りを聞くような感じ を禁じえない。翻って、仏教界の現状を見れ、は、あらゆる方面で、あまりにも立ちおくれている。来るべき出会 の統一ある行動が必要となり、またキリスト教としての連帯性の臼覚が要求されるわけであろう。同時にまた、 が現在活発に論究されているが、その出会いにおいて力強く対処し、効果ある伝道がなされるためには、諸宗派 キリスト教はその世界伝道において他の諸宗教と出会わざるを得ず、そのために諸宗教との出会いという問題 の 8 2 I I I I I J I I I I I I I I I I I I I J J l l l l l l l l l l l l J J J J J J I I I I I I J / l l f l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l J l l l l l l l l l lll """'"""l 』l 』l 1 1 1 1 1 1 1 』 ↓I l l』l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l t l l l l l l l l l l l l l ! l l l l l l l l l t l 原 男 教団の形成と親鷺の立場 h舟・ 一 一 一 一 O年であり、康永三年 一 三O八l 一 ない。ともかく、親驚の直弟にして、その名を今日に残しているものは、門侶交名牒をはじめ、消息などから 門侶交名牒に記された門弟は、それが直弟子、孫弟子をとわず、その総数の一部であったことはいうまでも 名牒は親驚の没後四十六年から八十年の聞につくられたことになろう。 は一三四二年である。親驚が世を去ったの、が弘長二︵一二六二︶年であるところからすれば、親驚聖人門侶交 るが、延慶以後康永以前ということは問題なかろう。延慶といえば、 消息、二十四輩牒などといえよう o親驚聖人門侶交名牒がいつ製作されたかを厳密に推定することは困難であ 念仏の発展を具体的に示してくれる史料は少ない。その主なるものといえば、親驚聖人門侶交名牒、親驚の 一、念仏のひろがり 工E 拾って七十人余りにすぎないことは、今までの研究によって明らかにされているところである。これらのうち 関東・奥州在住の直弟の数は六十四人とみられている。 8 3 ’ ’ 1 1 1 1 1 1 1 1 1日1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1l l l l l l l l l l ! ! ! ! l l l l l l l l l l ! ! ! ! ! ! l l l l l l l l l l l ! ! ! ! ! ! l l l l l l l ! ! l l l ! ! ! ! ! ! l l ! ! l l l l l ! ! ! ! l l l l l l l l l l l ! ! ! ! ! ! l l l l l l l l l l l l ! ! ! ! l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! ! l l l l l l l l ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! l l l l l l l l ’ 親驚が生涯を通じて入信させた人々を、こうした面授の門弟の数だけで云々することは全く無意味に近いこ とといえる o交名牒には、面授ではないが、面授の門弟と一属を並べる人びととして、常陸国では五人、下総国 では四人、陸奥国では二人、そして武蔵国では一人の合計十一人を記録している。 それだけではなく、親驚の面授、非面授をとわず、親驚聖人門侶交名牒に名をつらねている門弟の下には数 人から十数人におよぶ孫弟子の名が列記されている。たとえば、下野国高田の顕智の下には、専空・光念・寂 信・妙光・唯拍車百・教善・円光・善性・覚念・智道・慶覚・教忍・道智・如道・了性・善智・善念の十七名がし るされており、その末尾には ﹁自余門弟等略之﹂ と記されているのである。 また、 常陸国布川の教念の下に は、入願・入円・本願・覚善・妙性・西願・浄念・教覚の八人があり、これも﹁自余門弟略之﹂という点は顕 智の場合と同じである。それだけでなく、この八人のなかの本願の下には性智・楽観・明観・明智・明願・教 智・信教・願入・教明の九人の門弟の名がみ加えている。 こうしたことは、あえて本願一人だげにみられる例外でないことはいうまでもなかろう。また、下野国飯沼 の性信の下には、比丘尼証智・性雲・証道・証蓮・明蓮・寂念・西信・空智・智信・理性の十人の門弟がしる されており、その末尾には﹁雌多門弟略之﹂としるされているのである。 一白余弟略之﹂とだけしるしている。これが光薗院本の交名牒となると、光 煩雑のようではあるが、もう一つ武蔵国荒木の光信をあげておこう。妙源寺本の交名帳では、光信の下に、 願明・顕性・寂信の三人をあげ、 信の下には、寂信・願明など二十七人の名をしるし、そのあとに﹁自余門弟略之﹂としるしているのである。 そのうち、寂信の下には七名、願明の下には十六名の門弟の名がしるされている。 親鷺聖人門侶交名牒の製作目的はここでは問わないとして、この製作にあたって直接関係をもたぬ有力門弟 で 、 この交名牒に記されていない人びとの数は可成りになるのではないかと推察したい。そして、それぞれの 8 4 有力門弟の下には数名から十数名にのぼる門弟がおり、そのほかにも一自余門弟等略之﹂としているのであ る。門侶交名牒に名を残すほどの有力門弟ともなれば、少なくともそれぞれ二十名前後の門弟をもっていたと 考えても、それほど過大な推定ということにはならないであろうの これらの直弟、孫弟子たちが何時ごろ入信したかをしることは不可能であるが、少なくとも親健在世中とみ てよかろう oそうすると親鷲の布教の成果は、全関東に、そして奥州にわたって千人をこえる直弟子、孫弟子 の誕生をみたと考えたい cわれわれは、親驚の布教が、これらの地方に千人をこえる門弟たちをつくりあげた からといって驚くにはたらない。当時の関東・奥州の人口からすれば微たるものといえよう。 問題は、このような門弟の数ではない。むしろ、重要なのはそれら門弟の下にどのくらいの一般念仏者が組 織されていたかということであろう。親驚聖人門侶交名牒や親矯の消息等に名をのせるほどのものともなれば たんなる一般の念仏者ではなかろう。かれらは、布教者として懸命な布教にたずさわる坊主としての立場にあ った人びとと考えてよかろう。小なりといえども、村々に道場をかまえて、自分の布教の結果入信させた人び 一人の門弟 H坊主 H布教者は、その下にどのくらいの念仏者を組織していたのだろうか。そうした疑 とを自分の門後として組織していた人びとといえよう。 では、 聞を解決してくれる史料の一つが、親驚の消息のなかにある。それが、建長七年と推定される十一月九日附の 慈信一房善驚あての親驚の消息である。後にものべるが、慈信房善驚は、親驚の子供である。のちに関東に下つ ﹁慈信一房が関東に下って、自分が父親驚からきいた教えだけがほんとうの救いであっ て異端の問題をおこし、親驚から義絶をうけた人物である。 さて、その消息には、 て、いままで関東の念仏者が信じていた念仏はみな無益なものであったのだと説いたので、おおぶの中太郎の 門徒九十何人かが、 みな中太郎入道をすてて慈信房諮問驚のほうに移ってしまったとか聞きおよんでいる﹂と記 8 5 ’ l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l』I I I I I I I I I I I I I I I I I J J I I I J J J J I J I I I I』1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1』l l l l l l l l J J J J J J I I I I I I I I J J l l l l l l l l l l l l J J J I I I I I I I I J I I I J J J I I I I J J I I I I I I I I I J I I I J J J J I J I J I I I I I J J I I I I I I I I I I I I J J I I J J J J l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ’ ’ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 l l l l l l l l l l l l l ! ! ! l l l l l l l l l l l l l 1 1 l l l l l l l t l l l l l l [ [ l l l l l l l l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! l l l l l l ! I J I I I I I I I I I I J l l l l l l l l l l l l l l 1 1 l l l l l l l J l l l l l l l l l l l l l l ! l l l l l l l l l 1 l l l l l l l l l l 1 J l l l l l l l l l l l L されている。 この消息の一節から知りうることは、常陸国奥郡の大部の中太郎という坊主のもとから去った念仏者が九十 余人であったという事実である。中太郎の布教の結果入信させた念仏者のすべてが、中太郎をすてたとも考え られない。そうすると、中太郎のもとに組織された念仏者の数は少なくみつもっても百人前後におよんだと考 えてもよかろう o しかも、中太郎は、親驚聖人門侶交名牒に名を列ねてもらえないほどの目立ぬ存在の布教者 H坊主であったということである。中太郎においですら百人前後の門徒を組織していた o ましていわんやその 他の有力坊主においておやである。 すでにみたように、関東・奥州に存在した親驚面授の門弟および孫弟子の数は、 ひかえ自に見ても千人にお よぶと推察される oそれら坊主の下に少にして百人前後の念仏者がいた。したがって、関東・奥州にわたる念 仏者の数は十万をこえるほどのものであったことが知られるのである。 これが二十年間にわたる関東での、そして京都に帰った後をつうじての、親鰭およびその直弟、孫弟子たち の念仏布教の成果であったと考えてよかろう o この数は、念仏によって、この世あの世二つの世界の救済が約 束されて念仏者が弥陀にたいする報恩をおのが宗教的使命としての布教の結果といえるが、坊主たちをして活 発な布教活動にかりたてた理由はほかにもあった。 布教の結果、自分の下に組織した念仏者の増加は、その坊主の経済的基盤にも大きな変化をあたえずにはお 、 工 ミ っ こ o 一般の念仏者たちは、自分に弥陀の救いの存在を教えて信じさせてくれる直接の媒介者 H坊主に ムμ 中 / ふμ J J たいして、救われた感謝のしるしとして﹁志﹂を捧げるのである。坊主にしてみれぽ、まだ門徒の数が少ない 時は、志の総額は問題ではなかった o しかし、門徒が増加するにつれて、門徒の志が坊主の生活を支える主要 財源へと変っていったのである o坊主は、いままでのわずかばかりの土地からの収入に依存することから、門 8 6 『 1 『1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1『l l l t l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 J l l l l l l l l 徒の志に生活の物質的基礎をおきかえていったのである。そこに、弥陀にたいする御思報謝という宗教的使命 もさることながら、経済的理由も加わって坊主の布教への熱はたかまっていったのである。 その理由のいかんを問わず、このような情勢のもとに親鴛の念仏は大きな弘がりを全関東をはじめ、奥州に みせたのである o念仏のひろがりは、必ずしも関東・奥州だけの問題ではなく、越後国にあっても、少なから ざる弘がりが見られたことも推察に難くない。 ではこのような膨大な念仏者の主力をしめる人ひとは、当時の社会においてどのような社会的地位、 L Lカ えれば職業にあった人びとであろうか。 二、念仏者の社会的地位 鎌倉時代における階級関係、社会関係、公家・武士を支配者層として、その下に農民・漁夫・猟師・商人と いった人びとが被支配者層として生活していた。これら被支配者層が当時の生産を直接的にになう人びとであ った o鎌倉時代の人びとの社会的地位、階級関係ともいうべきものは、その人びとの職業と一致したといって もよかろう。 われわれが、 いまここで問題とするのは、これら様々の職業 H社会層の人びとのうち、親驚が済度の対象と 考えたものがただ一つであり、その一つを選びだすということではない。親驚の布教と救いの目的が衆生利益 であり、その衆生は決して農民・漁夫・猟師・商人といった直接生産者にかぎられていたわけではない。その なかには公家も含まれれば、武土もはいっていることはいうまでもない。末後の世のすべてが親驚のいうとこ ろの衆生である。その衆生こそ親驚の救いの相手である。 87 ’ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 u1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 u , 』 一般民衆こそ阿弥陀仏の本願による済度の正機と考えられるものであったといえる。そして、 一般民 しかし、そのような衆生のなかにも、現実の社会関係のなかで、 かれらがおかれているそれぞれの立場を考 えた時、 衆も、弥陀の本願を、そして親驚の救いの教説を、 かれら民衆のためにおこした救済の思想であるとうけとっ ていったのである o現実の問題として、関東・奥州にわたって十万をこえる人びとが念仏の信者として、この 世を生きる支えをあたえられていたのである。この十万という人びとが、当時の社会におけるどのような職業 階級の人びとが大部分をしめていたかを考えることが必要である。 親驚の救いによって生きる力をあたえられた人びとの社会的性格については戦後様々な説がだされている。 農民説、武士説、商人説さまざまである。ここで、そのいずれが正しいかの当非を論ずるつもりはない o私は 私の立場で考えをすすめてゆきたい。 ﹁要するに、念仏 念仏の信仰をめぐる領家・地頭・名主 H村々の支配者 H武士と百姓 H農民との関係をしめす史料として建長 七年と推定される九月二日附の﹁念仏の人々﹂宛の親驚の消息につぎのような一節がある。 者が他の諸神話仏を否定し、悪は住生の妨げにならないから思う存分の悪をおこなえなどとの、事実無根の事 をつくりあげて、僻事をことごとに念仏者に仰せつけられて、念仏を禁止しようとする村々の領家・地頭・名 一耳なし人﹂とおうせになっている。善導和尚は﹁五濁増の時、疑諒す 主の処置がみられることは、全く理由のあることである。その理由とは、釈迦如来の御言葉には、念仏する人 をそしる者をば﹁眼なし人﹂と説き、 るもの多く、道俗相嫌ひて聞くことを用いず。修行するもの有るを見ては隈毒を起し、方便破壊して競いて怨 を生ぜん﹂とはっきりと解釈している o この世の常として念仏を妨害する人は、その在所在所の領家・地頭・ 名主であり、釈迦・善導の予言にみえるように理由のあることである。念仏の弾圧をとやかく云うべきではな い﹂と。 8 8 I J I I I I I I I I I J I J l / l / 1 1 1 1 ” “ 』111111111111111111111111111111111111111』 I I J J I I I I I U I I J l l l l l l l l l l l l l J I I I J J J I I I I I I I I I I I I J I I I I I I I I I I I I J J I I I I J J l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ここでしられることは、村々の支配者 H武士と念仏との関係は、熱心な信者、保護者としての関係ではなく ﹁五渇増時多疑詩、道俗相嫌不用問、見 一また、念仏を禁止する人は、その人こそどうにかな むしろ逆に念仏の弾圧者、妨害者が武士と念仏との関係であったことである。 また、九月二日附の慈信一房長引鰭宛の親鰭の返書にも、 ってしまうであろう。すべての正しい念仏者の罪とは考えられない。 有修行起際毒、方便破壊競生虫﹂とはっきりと善導和尚の御教えがある。また、釈迦如来は﹁名五限人、名元 耳人﹂とお説きになっている。この予一一=口の通りの人であるから念仏をも禁止し、念仏者をも憎みなとするので あろう﹂とみえている。 この文面から推して、念仏を禁止し、念仏者を憎む者、それが領家・地頭・名主リ武士であったことがしら れるのである。この消息の追書の部分には﹁性信坊には、この春上京しましたのでよくよく申しておいた。 ﹁くげ殿﹂にもよくよく御礼を申してくれ。この人たちが間違ったことを申しあっているからといって、 か物の道理をふみはずすこともありますまい。 一般世俗のことにも、そのようなことはあるものだ。領家・地 頭・名主が間違ったことをするのが常であるからといって、農民の信仰を迷わすことはないはずである﹂とみ えている。まさに、領家・地頭・名主が念仏を妨害し、禁止し、念仏者を憎んでいる実情を親驚はくりかえし ﹁ 念 述べているのである。また、建長七八年ごろからおこった念仏禁止の訴訟事件のために、全関東での念仏の 禁止がすすみ、念仏の危機に直面した時、その報告に答えて親鷺は正月九日附の真浄宛の消息のなかで、 仏禁止の問題で、関東では念仏者が村々にいられないほどの弾圧をうけているということをうけたまわった。 かえすがえすもお気毒のことである。要するに、その村々で念仏の弘主る縁、がつきてしまったのであろう o念 仏を禁圧されるなどということは、 とやかく歎くにはあたらないことである。念仏を禁止する人こそ、どうに かなってしまうであろう。念仏なさる人は、なんで心苦しく思うことがありましょう o ほかの人びと、 つまり 89 ま さ “ “ ” 1 1 1 1 1 1 1 1』1 1 1 1 1 1 1 1 1 t l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 l l l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 l l l l l l l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 l l l l l l l l l l l [ l l l l l l l l l l l l l [ l l l l l l l l l [ l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 J J [ l ( l f l l l ( l 1 J l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 J l l 1 1 J l l l 1 1 1 1 1 1 1 1 村々の領家・地頭・名主と結んで、親驚の念仏をゆがめてまで念仏を弘めようなどとは、ゆめゆめあってはな らないことである。その村々に念仏が弘まるということも、仏・天の御計いによるのである。・::・ともかくも 仏・天の御計いにまかすべきである。その村々で念仏の縁っきてしまったならば、 いずれなりもと念仏のでき る所に移るようにすべきである。慈信房善驚のいうことを信じて、今後は他の人びと、 つまり領家・地頭・名 主にすがって念仏を弘めよなどというようなことは親驚としては云ったことはない。この上もない間違いであ る﹂といっている。 以上においてしりえたことは、念仏を禁圧する者、念仏者を憎む者が、それぞれの在所の支配者 H領家・地 頭・名主であったということである o また、これは若干抽象的な表現ではあるが、歎異抄にはご文不通にし て、経釈の行く路もしらない人が称え易からんがための名号ゆえに易行という﹂とみえている oさらにまた、 一文不通のものの信ずれば救われるということを承 ﹁たとい諸宗門がこぞって、念仏はつまらぬ人のためのものであり、念仏宗は浅く賎しいというとも、決して それと争うことなく、 われらのような劣って愚かな凡夫、 まわって信じているのだから、全く上根の人たちにとっては賎しくとも、われわれ下根のもののためには最上 の法である﹂とも見えている。これらの表現のうちにも親鴛の救いをわが救いとしてうけ止めた人びとの社会 層がうかがわれよう。 また、常陸国奥郡の大部の中太郎は百人前後の念仏者を組織していたが、それは、親彬聖人伝絵のしるすと ころでは、常陸国那荷郡大部郷に住む庶民であり、十六役として主人の熊野参詣の使役に馳使される身分の人で あった。中太郎ですら然り、 まして、 かれの下に組織されていた念仏者の身分が農民芋のい庶民層にぞくする人 ひとであったことが推察されよう。 そのほか、慶元元︵一二五六︶年十二月十五日附の真仏宛の親驚の消息にみえる円仏一房も、下人的地位にぞ 90 句 ” “1111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111JJJJ1 くする念仏者と考えられるのである。円仏房は、その主人、 いわば所有者の目をかすめて京都の親驚の許をお とずれている人物である。親驚の念仏の受容者たちの大部分が農民を中心とする庶民たちであったことは、念 仏の弘がりの実情すらも考えられるのである o前にみたように、親矯およびその門弟たちの布教の結果、念仏 者として数々の坊主のもとに組織されたもの、が、関東・奥州だけでも十万をこえたであろうという事実であ る。これらの念仏者が村々の農民生寸であったればこそ、村々の領家・地頭・名主たちから信仰の弾圧をあまん じて受けなければならなかったのである oそして、 これもすでにみたように、領家・地頭・名主 H武土がその 信仰を禁圧し、憎んだ人びとこそ村々の百姓 H農民であったことは親驚がその消息でしるしている通りであ る 。 人あるいは云うであろう o京都にいる親驚のもとに五貫文、二十貫文、二百文、コ一百文というほどの銭を志 として送り届けられるほどの門弟の社会的地位は、直接耕作にたずさわる農民的身分のものとは考えられない と。たしかにその通りであるといえる。直接耕作農民の大部分は、土地にして一町以下の田昌を耕作していた のである。しかも、 かれら農民が収奪される経済的な負担は、荘園領主に納める年貢をはじめとして、領家・地 頭・名主におさめる雑税、小作料、夫役など大変なものであった。おそらく農民の手許には、その家族の生命 の再生産にもことかくほどしか残らなかったであろう oそのような人びとが、 たとえそうした苦しみに耐えぬ く支えを教えてくれた親驚にたいしてでも、 五貫、二十貫の志をおくることは、全くできない相談であったと 一石という収穫は一段当りの全収穫量であって、そこから年貢、小作料、その他を差し いえる。 一貫といえば大体米一石の値段である。米一石を収穫するには約一段歩の水田を耕さなければならな いのである。しかも、 引いて手許にのこるのは、わずか二01 O パーセントにもたりないのである。 一町の水田を耕作するほどの 一 一 農民でも、手許に残るのは二J一一一石ということになる o農民はこれに畠作などの収入を加えたもので生きてゆ 9 1 ι ’ " " " " " " " " " " " ' " " " " " ' " " " " " " " " ' " " " " ' " " " " " " " " " ' " " " " " ' " " " ' " " " " " ' " " " " " " " " " " ' " " " ' " " " " " " " ' " " " " " " " ' " " " " " " " " " " " " ' " " ' ' " " ' " " ' かなければならないのである oそのなかから五石、二十石を志として親驚におくることは、いかにかれらがそ れを切望したとしても不可能なわざといえよう。だから、親驚の門弟ともいわれる人びとは少なくとも、武士、 さらには商人でなければならない。全くその通りである。 しかし、それは一人の門徒がその志の全額を負担したと見ての場合である。だが、かれらは、そうはしてい ないのである。かれらの下には百人前後、多ければ三百、四百にものぼる念仏者が組織されていたと考えられ るのである。自分が組織した全念仏者から五文、十文の零細な志の総和が、二百文となり、五貫文となり、二 たまわりて候﹂、 ﹁銭弐拾貫文憧に給候﹂、 ﹁方々よりの御こ L 一種の領収書の意味をもっているのである︵十寸和剛一顎附広間︶ oそうした御礼の手紙 十貫文となったとみる方が実情にあった推察と考えられるのである。増谷文雄氏もいっておられるが、親驚の 書く士山の御礼の手紙は、 には﹁人々の御こころざし、たしかに/︷\ ﹁数の通り、確かに受けとりました L という領 ろざしのものども、 かずのまふにたしかにたまはりてさふらふ﹂といった文面がしるされているのである。親 驚がしるしているように、皆さんからの志であったればこそ、 収書的礼状をしたためる必要があったのである o坊主は、その礼状を門徒にみせて、間違いなく皆さんから集 めた志は数の通り親驚のもとに届けたことを報告しなければならなかったのである。そうすると、五貫文、二 十貫文の多額の志をおくつた者ですら、これを武士とみ、商人とみたてる必要はなくなるのである。 そのほか、武蔵国から﹁しむしの入道しという名の地一期が京都大番役のついでに、京都の親耐用を訪れたこと が消息にみえている。これとても、その消息の文面をみれば知られるように、親耐用にとっては武士の入信は思 いもよらない珍しい出来事であったのである。まだ、この問題については多々論ずべきことがらが多いが、詳 細は拙著一親憶と東国農民﹂にゆずらせていただく。 では、親驚は、これら膨大な念仏者にたいしてどのような関係というか、立場にあったのであろうか。そし 92 " " I l l " " " " " " " " " ' " " " " " ' " ' " " " " " " " " " " " " " " " " " " ' " " " " ' " ' " " " " " " " " " ' " " " " ' " ' " " " ' " ' " " ' " " " ' "l ’ 1 1 1l ’ 1 1 1 1 1 1 1 r r 1 r r n 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 m て、親驚の門弟たる坊主たちは、 かれらが布教の結果えた念仏者をどのように考えていたのであろうか。いわ ゴ、親驚の教団にたいする姿勢ともいうべきものはどのようなものであったろうか。 三、教団にたいする親簡の姿勢 歎異抄の第六章には、﹁専修念仏の信者の、あれは自分の弟子だ、これは他人の弟子だという門徒争奪の争 いがあるということは、もってのほかのことである﹂という見出しのもとに、坊主たちが布教の結果えた念仏 者にたいする親驚の考えともいうべきものを伝えている。親驚は弟子などの一人ももっていないのだ。その理 出は、自分の力、自分がなそうとする行為によってほかの人びとに念仏を申させるのであればこそ、その念仏 者ば自分のものであろう。だが、親驚の念仏の布教は、自分のはからいでおこなわれるのではなく、阿弥陀仏 の御もよをしにあずかつて念仏の布教という行為もおこるのである。したがって、人びとが念仏するのもすべ て阿弥陀仏がそうさせるのであり、そのような弥陀が救ってくれた念仏者を、親鴬の弟子などということはこ の上もなく言語道断のことであると。 親驚の救いの論理か鳴りすれぽ当然すぎるほと当然の言葉であるといえよう o親鷺にしてみれぽ、阿弥陀仏の 本願にめぐりあうのも釈迦・弥陀をはじめ諸仏のおかげによるものであった。まして、信心発起の念仏によっ て往生が約束されるのも、弥陀がむこうから救ってくれるのであり、すべて弥陀の本願のいたすところであっ たのである。そして、この世において取り消されることのない往生の約束ということは、この世で弥勅仏、話 仏、弥陀と同等の地位を約束されたことであった。真の成仏は、この世と別れを告げる終命の時であったが、 それば往生決定者にとっては絶対に変更されることのない確定であった。したがって、往生決定の念仏者は、 9 3 ‘ l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l』l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ll Ml l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l J J J J I J l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l t l l l l t l l l l l l l l l l t l l l l l ! I I I I I I I J I I I I I I I I I J J l i l l l ! l l l l J J J J J J I I I I I I J l l l l ¥ l ¥ l l ! l l l l ! l ” この世で仏と等しい地位についたといっているのである。いわば、即身成仏が念仏者の救われた姿であった。 だが、念仏による即身成仏は、真言などにみられる自力による即身成仏とはことなって、あくまでも他力の、 弥陀の救いによって生まれる即身成仏であった。 この世で成仏した念仏者にとって、弥陀の救済にたいする御恩報謝のための念仏布教こそ、念仏者がみずか ら背負った宗教的使命であった。その報恩という使命ゆえに懸命な念仏の布教へとみずからを馳りたてていっ たのである。しかし、 みずからを馳りたてていったからといっても、自分のはからい、自力のはからいによっ て布教がなされるのではなく、布教活動そのものが弥陀のはからいによっておしすすめられて行くというもの であった。 往相・還相、この一一つの廻向が、ともに弥陀の御もょうしにあずかつておこなわれたのであった。その結果、 入信にみちびいた数々の念仏者が、その布教者一自身のものでないことはいうまでもなかろう。念仏の布教者は ﹁親驚は弟子一人ももたずさふらふ﹂と 弥陀の代官、 いわば布教を使命と感じ、弥陀の命令によって動く代行者にすぎないのであった。弥陀の救いを このように理解し、弥陀と自分との関係をそのように考えた親憶に、 いう言葉がでてくるのは至極当然のことといえよう。 親鴛は自分の布教を媒介として念仏者となったものを、自分の私有物視する考えは根本的に否定した。しか し、そうした念仏者を組織することまで否定したわけではないといえよう。往生にかんして与奪の権をともな わない師弟関係までをも否定したわけではなかった o阿弥陀仏の弟子という点では平等の立場、 いわば同朋・ 同行としての立場で師弟の関係を考えたのであった。いわば、阿弥陀仏を頂点とし、救世主とする﹁阿弥陀教 ﹁阿弥陀 団﹂ともいうべき組織において、弥陀にかわって親驚がその教団の統卒者としての役割りを果したといえよ ぅ。そして、念仏の弘まりを妨げたり、異端の信仰におちいる念仏者をいましめていったのである。 94 ’ l l l l l l l l J J I I I I I I I I I I J J J I I I I I J J l l ! l l l l l l l f f f l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! l i l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l’ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ll l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l i l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l L 教団﹂の弥陀の代官親篤という立場にあったが故に、教団の統制と念仏の弘まりにマイナスの役割りを果す念 ﹁つくべき縁があればついてくるものであり、離れるべ 仏者ゃ、親驚をはなれてゆく念仏者にたいして、救済の取り消し、往生の取り消しをするといった考えなど全 く存在しなかったのである。 そのような意味における親矯と念仏者との関係は、 き縁があれば自分が代官として入信させた念仏者だからといっても、自分から離れてゆくものである o弥陀の 本願にあわしめてくれた師をそむいて、他の坊主について念仏すれば、往生することができないなどというこ とは、言語道断のことである。いやしくも阿弥陀如来からたまわった信心を、あたかもわがもの顔をして取り 返えそうとするものである。返えすがえすも、そのような間違った考えをおこしてはならない。しかし、念仏 者としては、本願のおぼしめしを知り、他力の信心にそむかぬ者ならば、自分を救ってくれた阿弥陀仏の御思 をも自覚し、 また、その本願の存在を教えて信守せしめてくれる役割りを果してくれた坊主 H布教者 H師の思を も自覚しなければならない。親驚はこのような立場に立っていたといえよう。 親驚にしてみれば、真の念仏者である以上、弥陀の御恩を十分に自覚し、 みだりに師をはなれ、他の坊主の もとにいったりできないはずであるという立場にあったのである。 しかし、念仏の布教者 H坊主たちにとっては、親驚の態度をそのまま自分たちと門徒との関係とすることは 難しかったのである o坊主たちにしてみれぽ、懸命な努力の結果えた念仏者を弥陀のものという考えで割り切 ﹁志﹂を坊主に捧げるようになると、 一人でも念仏者が自分のもとを去って他の坊主の組織にはいるの ること、ができなかったのである。坊主にとって念仏者の数が増し、 かれらが弥陀の御思と師 H坊主の恩を自覚 して、 を黙認し難くなるのである。百人以上も念仏者を組織した坊主にとっては、生活の経済的基礎は、 いままでの 零細な耕作からの収入から、門徒の﹁志﹂にそのウェイトが移ってきているのである。 一人の弟子が減ること 9 5 』 』 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1ll 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l t l l l l l l l l l l l l ll l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ’ ’ ’ は、それだげ坊主の経済を危機に追いこむという意味をもっていたのである。弟子の去ることを極力防ぐぽか りでなく、他の坊主の弟子の引き抜きという行動にまですすんでゆくのである。そこに﹁専修念仏のともがら の、わが弟子ひとの弟子という相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり﹂という親驚の歎きの一一一一口葉が 生まれてくるのである。 そうした争いが、弥陀の代官としての、親驚の代理人としての、教団の組織上だけの争いなら、坊主のその ような行動も親驚にたいする異端とはいい切れないものがあった。しかし、坊主たちの門徒の奪いあいの争い は、親驚の主張する念仏の救いを根底から否定する方向にすすんでいったのである。坊主たちは、自分のもと を去る念仏者の往生を取り消すといっておどすことによって、念仏者を引きとめようとしたのである。往生の 取り消し、それは阿弥陀仏ですらも不可能なことがらであった。それが、この世の弥陀と自負する坊主によっ て、往生与奪の権はわれにありという方向にかえられていったのである。そうした考えは、親驚がきびしく否 定した自力の念仏者のとる態度といえるのである。 しかも、自力の念仏者は往生不可能の人であり、往生不可能ならば、この世の成仏も不可能な人である o こ の世の仏でもないものが、他の人に往生をあたえ、 また、これを取り消すことなど親鴬の救いの論理からは全 く生まれてくることの出来ない論理であったといえよう o この論理が、坊主の経済的欲望を背景として生まれ ﹁阿弥陀教団﹂の破壊者でさえあったといえよう。 てきたのである。それは、親憶が代官としての地位にある﹁阿弥陀教団﹂における分派活動ともいえるもので ある。いや、 親鴛は、坊主たちの教団破壊の異端の論閉山が、なんのために生まれたかについて、 つぎのように歎異抄の第 十八章で批判している o ﹁仏法のかた、つまり坊主にたいして寄附の物品 H志の多少によって、往生して仏に なった時に仏身に大小の差が生ずるということ。こうした説は言語道断であり、不都合なことである。まず、 96 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1l 』 1 l l f l ! l l l l l l l l l l l l l l l l t l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ! I I I I I I I I I I I I I 一紙半銭をも仏法のために寄附しなくとも、他力 仏に大小の限度をきめるということはありえんはいことではないか。::::;:とれほと宝物を仏前に投げ、師匠 に縮しても、信心が欠けていれぽその効能はない。たとえ、 の本願に心をかたむげて信心さえ深ければ、それこそ弥陀の本願の腿己けにそうものといえよう。均七たわが、 仏法のために捧げる志の多少によって杭4 してから大小仏になるということを主張するのはすべて坊主たちが 仏法にかこつけて、 かれらの経一昨的欲切ドを訓たそうとするために、同朋の念仏者をおどすのであろう﹂と。 OE け分のもとを去り、他の坊主のもとに点る門徒 坊主たわが、布教者と念仏者の関係において、親憾の立場を存定して門徒私有の論理を生みだしたのも、門 徒の志が坊主の経消的法盤の重要部分をしめたからであろう を、往生の取り消しをもっておどすことで引きとめようとしたばかりではなく、門徒からより多くの収奪のナ、 をあげるために、志の多少におうじて往生後の姿に大小仏ありという収奪の論即主で生みだしていったのであ る 。 均主たちの門徒にたいするこのような京場、か、親驚の考えた阿弥陀教団にたいする最大の異端であり、また 親矯の救いの論聞にたいする根本的異端であったことはいうまでもなかろう。親械は、阿弥陀仏の代官として J 教団を組織することは存定しなかった。親陥胃 が否定した教団は、坊主みずからが弥陀としての立場に立って、 念仏者の住生与奪の権をその子ににぎった教川であったといえる。 9 7 真 ’ ι圭E 刀ミ 概 論 仁 ) 鈴 木 大 ですね。 わし 拙 ﹂れは休相周の休と 一にして J1 ・一にして一というか 一体、私らは、ものを考えるということになると、||人間は考えなきゃならねが、考えるというと、き F も黒も分別せず、というと無茶苦茶かというと 一とか二とか、巾いか黒いかというようなことはなしに、 け そうでなしに、蛇は蛇、 リンゴはリンゴだと取り倣っている o アダムはアダム、イヴはイヴ、というようなあんばい れとか、 アダムとイグがエデンの闘にいたのは、何も、ものを考えなかった時代ですね。つ主り、分別しない。あれとか、こ ないでおるのがいい。考えないでおれるのが一飛なんですね。考えないで、所謂無分別の境界なら此もいい。あの、 りのないもので、そして、すべての面倒というものは、この考えるということから出てくるんですね。それは、考え それで、 たちになって動くようなものが出米ておるーーーと、そういうことなんですな。 けれども、そうではなしに、し人悲というものと大知けというものが分げられないで、 つになってはたらく。有機的に一つになるというと、 また、何か、そういう境りがあって、それが動くように考える は違った怠味の体ですね。相と用に対した休でなくて、いまいう体というのは、大判と大悲というものが合機的に一 昨日の話の続きですが、 大 悲 と 大 智 と い う も の を 冨 吉 つ ま り ぎ 身 と す る の というても、 1 9 8 ついでに申したいと思うのは、 エデンの楽園というのは、 アダムとイヴと蛇とリンゴと神様と、それからエンゼル 白 ロも m が居たように考えるけれども、そうじゃないんです。この世界と同じこと。いろいろのものが||仏教的にい ﹁それは嘘だろう﹂といわ えば、無数の仏も菩薩も声聞も縁覚も、 みな居たわけなんです。それを代表的に書いてあるだけで、本当は、今いう ようなあんばいなんです。 ﹁それじゃ、 お前見て来たか﹂といわれると﹁私は見て来た﹂と、こういうてもいい。 ぷ。 れでも﹁蝿ではない﹂と oそれは、分別を離れた世界なんだから、それでいいんだが、けれども、それを﹁君のいう z どうも人間というものは、考えねばならぬのだし、考えると困るのだし、そこが地獄ですね o善いか悪いか、 のも本当かな﹂などといい出したら、もう分別がついて廻るんだから、面倒になってしょうがない。 r 2D2szw子主 UA522 この門出口町田己 Cロの出るところが地獄なんですね。地獄へ行って苦しむんだとい ・ − ロ つでかかれば何でもないですけどね。苦しむと困るぞ、どんなふうに苦しむのか、などといえば尚更のことだ。極楽 へ行っても、その通りですね。極楽へ行って楽しむといっても、ああいう楽しみは、もう地獄の方が、ずーっといい ですな。 そこでですね、人間というものは、考えるのであるが、 また考えると困る、 と、こういう矛盾が出てくる。いや、 矛盾ならいい。矛盾は矛盾として済んだとしても、矛盾だけでなしに困る。苦集滅道というように苦が出てくる。苦 集の集は、集めて、そうして出来たというようにいうけれども、集というのは、考え、が、そこへ出て来たというよう にするのが一番いいだろうと思う。考えが出るというと、苦しみが出て来るんですね。だから、考えが出なかったら 苦しみはない。 99 2 例えば、蛇を殺すという場合||、私らの子供の頃に蛇を見ると殺すもののように考えておったが、ぴちぴち跳ね るということがある。魚など、毎日食べておるなら尚更だが、跳ねるから苦しいんだろうというが、私らが苦しむよ うに苦しむかどうか、 わからんと思います。 神経がどうなっておるか、苦しいということを感ずる神経があるから苦しい。神経があるだけじゃない。苦しみの 神経が刺激せられるというと、苦しいんだと意識する意識があるから苦しい oだから、ただ、ぴちぴち跳ねるだけな ら、それが苦しいのかどうかですな o人間でも、例えば、ひどい病気になるというと痛い痛いというて苦しむから、 注射をするとか、麻酔をかけるとかli、こんなに苦しむなら注射をして殺してしまえ、死んだ方がよかろう、と、 見ておるものが見ておれずにやる場合がいくらでもあるですね。 それで、神経が無くなってしまえば、苦しいことがあっても、その苦しみを苦しみと自覚しないから、苦しみじゃな 、 、 いということになる。この自覚するということが、考えるということのもとなんだから、自覚を滅してしまえば苦し ひと みはなくなる。その自覚というのは、考えのもとだ、と。その考えがなけりゃ最もいいことになる oが、それだけな ﹁気の毒だ、何とか助けてやりたい﹂ということになるんですね。そうすると、自分が苦しんで ら無分別になっておればいいんだが、人間というものは、自分の苦しみというだけでなしに、自分も苦しむから、他人 の苦しむのを見て、 七転八倒するだけでなしに、他人のを見て、それを何とか救うてやりたいということになる。これも亦、苦しみのも とになる。 自分だけの苦しみを苦しむだけでなくて、他人の苦しみを凡て、そうして、その苦しみを自分の苦しみ同様に考え るということになる o彼と私とは違うんだと分別するけれども、その分別を片方におき乍ら、あの苦しみは私の苦し みと同じ様なものだから、私も苦しいということになるというと、分別がなくなってしまう o 分別があるから苦しみが出る。苦しみが出るというと、白分の苦しみなら、 まあ、堪えておく。けれども、他人の 1 0 0 苦しみを見ておるというと、どうも立っても坐っても居れぬということになるんですね o他人の苦しみだから、 ら心配しても仕方ないんだというても、日分に親しい者だとか、身内の者だとか、そろでなくても、人間に限らず動 物でも、苦しむのを見るというと、何とか世話してやりたいという気持になる。それが亦、悩みのもとになる。そこ ﹁自分は、この世に於ては、思うように人が救えない﹂とiーー。まあ、社会的とか心理的とか に限られたものがある。限られたものがあるから、それを超えるようになりたいというて苦しむようになる。 それで親機聖人は、 く ﹃歎具抄﹄には書いてない、か、若し、その一人を救うという 色々な条件があるので、それを業というが、その業に限られて他を救うことが出来ぬ。思うように救うことが出来ぬ。 全体の人聞を救うことが出来ぬ。 これを親驚聖人は、時間的に、どう考えておられたか。 ことを一時にやろうというのでなしに、今から五十年の計画で、日本人なら日本人、東洋人なら東洋人で、食べられ ずに困っておる人を貧苦から救うようにしたいもんだと計画的に 1|五年や十年の計画ではなく、五十年位の計画で 一時に皆を助けてやりたいと考えられたか、どう考えられたか もってやっても出来ぬから困るといわれるのか、また五十年や百年でなしに、千年や二千年かかってやっても、それ も難かしいといわれるのか。それで、極楽へ行って、 ですね。 時聞を入れるというと、辛抱が、忍厚が必要になる。そして、これを、無僻怠的な精進忍辱で仕事にかかるという ことになれば、又別ですけれども、それが仲々出来ないで困る。人間というものは、本当に厄介に出来ておるので困 る 。 デカルトは﹁考えるから、自分は存在するんだ﹂というようなことをいうが、これは﹁存在するから考えるんだ﹂ 1 0 1 3 という具合にいうてもいいですね o考えるから自分があるんだというが、自分があるから考えるんだというてもいい。 とにかく自分というものがあって出てくるから困る oそうすれば、その自分というものをどう見るか。 自分というものが無ければ、考えるということも無かろう。考えるということが無けりゃ、苦しみの範囲も、自分 の苦しみだけで、他人の苦しみなど考えなくていいという位に最少限度の苦しみを受けて、それでいいということに なるか||と。それでも、どうも気が済まんようになるので因る。それでは、自分というものは何か。考えるから困 る。考えるというと色んなものが出る o出るけれども、考えずにはおれぬ。そうすると、考えずにおれぬという自分 なるものは何か。 この自分というものが大変な問題だが、仏教などでも、この自分というものが一番の問題になるですね。生住異滅 とか苦集滅道とかいうように、ものが移り変って、変化していくことに重きをおいておるようにみえるけれども、そ の動き方ですね o動いて止まぬところに動かないものを見る。自分というものが動きつつある聞に、動くものを一寸 停めて、自分というものは何かと考えるから面倒が出るんだが、動くものは動く憧にしておって、自分を動く佳に見 ょうとするのが一番理窟に合った行き方ーーだな o ﹁自分というものは絶対他 ﹃教行信証﹄の子一口葉を遣うというと、如来の本願力だな。如来の本願力というものによって動い 清沢さん︵清沢満之︶が白分の信仰とか信条というものを述べたところに、清沢さんは、 力である||﹂と。 て閃縁の結果で自然に今ここへ出たんだ。それが自分だ、と、こういうことになる。 そういうことになるんだが、自分、かそういうものだといっておって、それで自分がわかったかというと、自分がわ からない。自分というものと如来というものと離して、如来を向うにおいて、如来から全てものを受けてくる。その 受けるものだという自分は一体何だということになる。それで、これも考えないでおけなくなる。そう考えるという と、永遠に、何時までも繰返されることになる。 1 0 2 自分はこうだ||と、そういう自分は何だ||と、その何だという自分は何だl|と。こう次々に考えていくとい うと止まりどころがない o永遠に繰返すということになるというと、また一番始めの元に戻ってくる o始めに、この 自分は何だというたところに一反ってくるですね。そうすると、次々に考えないで、ここに停っていいということにな るですね。昨日、 お話したようなあんぱいで、十万に満ちている仏様は、今、口の先きにおどっている仏様というこ とにもなるですね。速い所へ行かないで、ここへ皆寄せてしまうということになる。 ﹁お前の民族に、こういうことを伝えよ﹂と、こういわれた o ところで、 モlゼは、 キリスト教のバイブルをみると、 シナイ山があって、その山の上で、 モlゼというのが、稲光の中から現われた神 さまから色んな命令を受けて、 ﹁そういわれるあなたは、どなたですか﹂と110 ただ、ぼんやりと聞いて来たんじゃいかんので、何という人から Fえ阿国自・ 3 となっておる。これは、 ユダヤ語では同白B−というようなこ どういうことを聞いたと伝えたいが﹁あなたは、 どういうお方ですか﹂と、こういうたところが、普通バイブルに書 いである言葉はですね、英語ではご阿国S とじゃないんだというけれども、バイブルが英語に翻訳せられてから幾百年というものは、そういう具合に伝えられ てそうなっているんだから、そうしておいてもよかろうと思う o F 巾 それから、近頃、 日本でも、バイブルをもっと近頃の言葉に訳そうということが行われているが、そのように、近 項の英語に直したバイブルーll B それは、幾つもあるですね o 一つや二つじゃないようだが、その中には、 J 白 となっておる。やっぱり同白日・の云い方を変えないで、 た だ の CLを入れただけになっておる。 ww ﹁あなたは誰だ﹂とモlゼに聞かれたら、神は﹁自分は自分だ﹂と o ところが、この、自分は自分だとな 。。仏当ゲ。町田− それで、 るというと理窟に合わぬ。同じものを持って来て、猫は猫だ、 リンゴはリンゴだとなってしまうというと、リンゴは 1 0 3 4 何だ、猫は何だと聞きたがっておるのに、それじゃわからぬ。私らも、そういうことは、 しょっちゅういうけれども 私は私だでは、どうもわからんですね。 例えば、私が、初めてアメリカへ行った時に、 日本から金をもらったことがある。その時に、銀行だったか、郵便 ﹁間違いない、私は鈴木だ L と。私は私だということですね。ところが、銀行は金を払ってく 局 だ っ た か 忘 れ て し ま っ た が 、 金 を 取 り に 行﹁ っ受た らはぱ 、、お と 前書は 鈴あ 木 ﹂と、こう 取人 鈴木 いて るか が、 いうわけなんですね。 れない。誰かが証明してくれぬといかん﹃||と。つまり、銀行の知った者が出て来て、﹁これは鈴木だ﹂といってくれ れば、私は私で通るんだな。ところが、ただ私は私だといっても通らん。そういうことを友人が知っていて、それで まあ金を受取ることができた、ということがあった。 日本でも、あの印というものを、やたらに押すですね。あの印よりも字で書いた方がいいような気もする o昔は、 自分で書いたものを花押というておったが、あれがいいようでもあるし、 また不便な場合もある。誰か印を持ってお れば、自由自在になるから具合がいいということもあるが、この、自分が自分だということほど確かなことはない。 ところが、それほど不確かなことは、 またないんですね。 あの、何とかいう人は、五十年ですかな、三十年ですかな、私は無実だ、私は人殺しをしないといい続けてきて、遂 に通ったという話ですが、自分を自分だというのに五十年もかからなきゃ話が済まぬ。自分だけでない、沢山の人や 時間と金を費して||。ところが、それも裁判所では、仲々受け容れなかったということだが、ああいうことは宗教 位界に於ては考えられないことですね。 宗教世界に於ては、自分は白分である、天上天下唯我独尊というあんぱいに、お釈迦様が親の休からとび出した、 それほど確かなことはないんだけれども、それをお前がいうても駄目だ11lと。やっぱり証人というか、それを証明 するようなものが出てこないといかんという oバイブルに書いてあることでも、そういうことがバイブルに書いてあ 1 0 4 るのは、それは本当だ、 ということにならぬといかんのですね。 ﹁光あれよ﹂といわれたら光が出て、光が時さから分れたというように書いてある。それの続きが、今いう バイブルの例を引くと、 はじめに問黒があった。閣黒というか、何とも形のない混沌たるものがあった。そこで、 神様が、 シナイ山の問答ですね。 。 ﹁はじめに混沌ありき﹂。それを誰が見たかliだ シナイ山では、 モlゼという人問、がおって、それが何か手帳に書きつけておいたということでわかる、 とすること にしてもだな、 一番始めの創世紀の話を書いてあるところに、 一番始めなら、神様自体も自分ということを知らない時代ですね o神様が﹁光あれよ﹂というて、光が陪さから分れ た時に、白分が自分になったに相違ない。だから、神様、か、まだ混沌の中にいて、光と陪さが分れない時に、神様は 自分でも何でもないわけだ。そうするというと、誰がそれを聞いて来て、誰がそれを見て﹁はじめに混沌ありき﹂な どということを書いたか|leだ。それがはっきりしないというと、バイブルは嘘から始っているというてもいいこと になる o実際、そういうことをいう人は、幾らでもある。 私は、歴史というものほど、 いい加減なものはないと思うですね。古い文書などを、やたらに集めて来て、そして 虫の喰うたものを色々に眼鏡で見るとか、あるいは科学的に紙を検査してみるとかというような、色んなことをやっ ておる。けど、無くなった紙が、どの位あるかわからんのだからな。無くならないで残ったものは、無くなったもの の幾分の一かわからん。その幾分の一かをとって、無くなってしまったものを何とか片をつけておく、 というような 話ですね。 私は宮内省に関係した学校におったことがあるが、皆、大礼服を持たぬというと儀式には出られないんですね。と 1 0 5 5 一寸した給料じゃ作れない。それで大抵、大礼服は持たない。そうす ﹁病気につき出席できません﹂とか何とか書いたものを提出するんだな。ところ ﹂ろが、その大礼服というのは高価なもので、 ると儀式の時どうするかというと、 が、後に、その届けが残ったとする o例えば、私の届けが残ったとするというと、それで、どう判断するか||,だ。 まあ、今のところ、 五十年位前のことだから何でもないことだけれども、これを千年も後にもっていくとだな﹁鈴 木の書いたものには、こうなっておるから、鈴木はきっと病気だった﹂と、こういうことになる。そういう習慣にな っておって、貧乏なものは大礼服がないんだということには、又、証拠を出さんならん。が、そういうことを書いた ものが残るわけはない。そういうようなことを文章に書くわけはない。 それで、千年とか二千年ということでなくても、現在のことでも、 おかしなことが幾らもある o例えば、暗一嘩を見 一様にいかぬ。その時、写真を撮る人がおって、始めから﹁今喧嘩するぞ、それ写真撮れ﹂というわ ておるとする。暗嘩を見ておっても、先きに手をあげたのは、どっちか||、そういうことの判断を、 目撃した人に よってみても、 けで、写真を撮って、それも普通に映したんでは駄目だから、 スローモーションで映してみるというと、始めに手を あげたのが段々に手を振りあげておるのがわかる。それで、彼の方が早かったというわけで片がつく。それでも、我 ﹁一番始めにフィクション出向昨日。ロがあった﹂というんだな。 一番始 々の眼がどうなっておるかということで、同じ写真を見るにしても、円十し遅しで困ることにもなる。 ハイブルに書いてあることは mC印也市戸 4円 [ CHF で、もう間違いないものとしておる。間違いないということを、パイプ 話があって、それでみんなわかるわけなんだ。その昔話を、 みんな、その儲受け容れて、それを本当だとしておる。 めには事実があったというよりも、 フィクション出口昨日。ロ、があった o寓話というか、北日話があった。 一番始めには昔 それから、近頃死んだフランスの詩人だが、 6 106 乙々Er というておる。 ルに書いてある言葉で mO4 そういう具合のもので、神が、始めに﹁光あれよ﹂といわれた。そうすると、光が陥さから分れてきた1 lと。こ の、書いたものが、 ユダヤ人の間で、何時頃から出来あがったかわからんが、少くとも四五千年前だろう。もっと前 かもわからんが、それから今に到るまで、ずっと信じて来たということがあるとすると、それは単なる昔話ではない。 昔話を本当に見るものが、私らの心に受け取られるだけのものが、何かあったに相違ない、 と、こういってもいい。 そうするというと、 フィクション出口氏。ロというか、そういうものの方が、所謂間違いのない事実だというものよ りも、もっと真実性を持っておるといえる。そうするというと、客観的に事実だというて、どうのこうのというてお るものよりも、その客観に対する主観の方に、その客観の事実を確かだと認めるようなものがなくちゃならん。 にん Kん ん、そうだ﹂というて私だけが承知するだけでない。私の他に、皆が承知することができるようなものがなくちゃな らん。その﹁皆が﹂というのも、私から見て皆というわけで、だから、人々が独立したものを持っておって、そうし て自分に﹁そうだ﹂というものを持っていなくちゃならん oそれで、天上天下唯我独尊も、その意味で本当になる。 それで、これは話が別のことになるようだけれども、その客観的ということからみると、自分というものは何もな いと、こういうていいですね o例えば、清沢さんのいわれるように、何もかも皆他力だ、と o如来の他力で、私は、 もう責任も何もないんだ、 みんな他力によるんだ。善いことをしても悪いことをしても、如来様がみんな背負ってく ださるから![、それで、 さあ悪いことやれ、 とはいわんけれども、どもらでもいいということですね。そこに問題 がある。どうして清沢さんが、そういわれるようになったか。 私は何も責任がない、 みんな阿弥陀様の他力にまかせる。その、 まかせるという自分が、やっぱり他力だというこ 1 0 7 とになるだろう。ところが、私がということをいわぬというと、どうも他力、が出て来ないですね。そういうものにど うしてなったか。例えば、私がここに生まれておる oあなた方でも、ここにおられるというのは、この世に生まれよ う うというて出たわけじゃないから、私に責任はない||!と。 私は、親を殺そうと、何を殺そうと、勝手放題だ、親に孝行なんて、そんな馬鹿なことはない。親が勝手に生んだ ので、私は何も生れようと思うて出て来たんではないから、親が私に孝行してくれるのが本当だ||と、こういう具 合にも考えられるですね。その親は、 また、その親に対して、そういうことをいう。それを段々に追うていくと、神 様の方へ責任が行くかも知れない。そうするというと、この世で﹁私らを、こんな苦しみに合わせるのは、神様、あ んたが悪いんだぞ﹂と、こうなる。それで、寄ってたかつて神様を殺してしまえとなるが、その殺してしまえも、や っぱり神様がやらせるのだとなると、そうすると結着がどこへどう着くのか、 わからなくなるが、それにも拘らず、 自分は何もない、 みんな業によって出来ておると、こういい乍ら、そこに自分というものを何か考えるようになって おるですね。 だから、私、か、先祖代々、もう百代も二百代も、ずっと遡って行って、そうして今日になって自分というものが少 しも出ないようであって、 しかも、 やっぱり﹁自分が﹂ということを考えないではおれないですね。それが、 ど こ か ら出るかーーだ。どう考えても、自分というものが出ょうのないところへ来て、やっぱり自分というものが出て、ど うしても、これは親孝行せんならん、友達は仲好くせんならん、世界中が、動物も植物も、 みんな仲好くしていかん ならん。それは私の責任だ、世界の思いのは、神様が思いのじゃない。私が悪いのだ。私一人に、皆それを背負って しまおう、 というようになるんですね。 ところが、そういうことは考えられない、日分は、自分だけ良ければいいんだという人もあるけれども、その自分 だけが良ければいいんだという自分というものが、どこから出たか。その自分というものを掘り下げるというと、 っぱり﹂出自子三阿国B− に な っ て し ま う o この、自分は自分だということ、が、どこから出てくるか o自分ということを、白分と他人とに分けないで、自分を や 1 0 8 白分だという。その自分は、他から分けた自分ではない。ある意味でいうと、絶対の自分というもの。絶対の自分と いえば、絶対の他力というのも同じことですね o 即ち、絶対の他力の、他力というものは絶対のもので、それが一番 最後のものだというように自分が承知するようにならねばならぬ。それを、他力の阿弥陀様、か京知させてくれるんだ といえば、そうであるけれども、そこに、自分をそうさせてくれるから、そうするんだ、 と、自分がどうしても出て くる。その白分は、他力に対した円分でなしに、他力と一つになった臼分だということになる。そうすると、他力と EH回目子三円白 Bz − といったという、が、それは、 、スティックヨヨゴロな考 一つになった’口分だというと、自が他で、他が白になる。 一で二、二で一になる、 と、こういうことになる。 そうすると、神が、 シナイ山の上で えになるかも知れぬが、 しかし、それは最も歴然として、疑うことのできない故後のところになってくる o その最後 ℃叩一可円︸HO山口白−可回目印 というか、精神病学とい のところのものを正覚という。その正覚というものが光だ、と、昨日はいうたが、光というても、これを普通の言葉 、、、、、、 に直せば、 さとりという。さとりというてもよし、それから、信というてもよし。 それから、殊に面白いことは、こういうことは、今のサイコアナリシス ℃ −o唱というか、何か、そういう方面の研究にも、余程役立つと思うが、柔鞍心という a n z うか、 サ イ コ ロ ジ ィ l ことがある o この柔摂心ということは﹃浄土論﹄などの中にも出てくるが、この柔駿心を柔顎身というてもいいわけ 一法句というてある。略して一法句、それを広げるというと二十 でしょう。どっちでもいえるんだが、それを不二心という o この菜壊心ということについて﹃浄土論﹄では、 九種の荘厳功徳成就|l、それを、ずっと並べて書いてあるが、それを、 まとめて一法句。 一法句は清浄句、この清 浄句が心に受け容れられる時には柔軟心ということになるですね。この柔親心というところに、面白味というか、甚 1 0 9 7 だ我々の身に切実な点がある。 これは、道元禅師が、支那で修行をして帰って、 ﹁お前は、支那へ行って何がわかったか﹂と聞かれたらば、 ﹁ 柔 鞍心をえた﹂と。その、道元禅師のいわれた柔鞍心ということは、所謂、身心脱落、脱落身心を体験した。その生活 そのものを柔摂心というですね oだから、この柔軟心ということは、禅宗の方でもいう o禅宗というと、何かこわば ったような、棒を振り廻すとか、大きな声でも出さぬというと話がつかんようになっておるようだけれども、今いう 柔親心ということからいうと、ゴム玉を放り出したようなもので、どこへ出しても、ころころと行ってしまう o潰し ても、 また、ふくれあがるということになるというと、すこぶる柔顎心の妙味が味われると思うですね o これは﹃華版経﹄の入法界品に、善財童子、が、弥勤をたずねたとある oそれで、これが私の位界だと、弥助に連れ られて行く。そこへ入るというと、今までの裟婆の有限の世界と遮断せられた違った世界が出てくる。それを、有限 の世界から無限の世界へ入ったということで、後の戸が、ピシャツ!と閉ってしまうーーにこれは話で、閉めても閉 まらぬのだけれども、 まあ、閉めたということにしておいてだな、その時に、菩薩は皆、柔親心をもっておると書い である。 それから、極楽の描写のところにも、虚無之身、無極之体と書いてあるが、その前の方にも、 みんな柔摂心をもっ ﹁何だしというて体を突き返すーーということですね。 ておると書いてある。それで、柔親心ということは、我々が極楽に入ってから、極楽的になる一つの条件であると思 いますが、我々は、一寸体が突き当るというと、 子供の一頃には、我というものが、よっぽど強いんですかな。あれは明治十年の頃だろう、西南戦争のあった頃のこ とですが、私らの国︵石川県︶の方では、子供は、肩をあげて歩いたものですね oどこかの知らぬ奴が来るというと、 肩をぶっつける。そうすると、 ぶっつけられた奴は怒る o それから府一嘩ーをやり出す。その問嘩は二人だけじゃなしに 何町と何町との陪一嘩になるですね。そうすると、長い竹を切って来て||、長いのは六尺か、 いや、殆んど一丈もあ llO るだろう oその竹で地面を叩いた。向うも叩いてくる。すると少くとも一間以上、 一丈位も間隔がある。安全地帯に 一人で おって、そうして、 やっておる。そうすると、時に、きつい奴がおって、両側の竹のとどかぬところを通って、そう して、短い棒をもってやってくる。そういう奴が一人二人出て来たら、もう片方は負けですね。妙なもので、 も強い奴が、どこか慮隙をみつけて、 そこから切り込むというと、それで負ける o負ける時には、 みんな逃げるもの だ。もう浮き足立ったら、 とめられない。今でいえば、群集心理とはこんなものだと考えたことを、今でも覚えてお る 。 まあ一、そういうように、こわばったものでなしに、皆が柔軟心をもっというと、 ふにゃふにゃしたようなもので、 H わりおC 白 5・というものは、力んでの同日出・じゃなしに、 ふにゃふにゃになる回出自・といっても、ゴム玉なら仕 とても仕様がないというようになるかも知れぬけれども、 そうではなしに、そこに、 ちゃんと目白日・というものが ある。 様がないかも知らぬが、 そうでなしに円白B−というのは、 十方世界に漏漫するところの弾力をもったものであるか ら、すべてを容れることができる。そういうものが同白5・ BFmの CLA宅7 0 2・3 にしても、どっちにしても、そこに天上天下唯 −=にしても、 tH白 だから tH白g H E H H E M 我独尊というものがある o独尊というものがある。それを名号というですね。 唯我独尊が名号、この名号を、浄土教系以外のいい方をすれば、大分長くなるけれども、天上天下唯我独尊で、こ れが名号ですね。阿弥陀様自身の名号が十方に響かなかったならば、私は正覚を取らぬ。といわれたという。その名 ロマは、阿弥陀如来という名口ずである o私らの方からいうと、南無をつけた南無阿弥陀如来。 で、この、名ということだが、名がないということは、そのものが無いと同じことなんですね。此れに名をつける 1 1 1 8 へレン・ケラlに、ものの名を教えたけれども、 わから へレン・ケラーという、あの、限が見えず、耳が聞えず、 口、かきけず||。そ というと、此れと彼とは違うというあん、はいで、此れがはっきりと浮いて出てくる o 名が無いというと、此れと彼と 区別が出来なくなる。 ﹂れは、大分前に読んだ話ですが の人に教えた先生は、 よっぽど偉い先生ですね。その人が、 ﹁ああ、これが水か﹂とわかった。それから、すべてのものに名があるという ﹁これが水だ﹂と、教えた。が、どうして教えたのですかな。耳は聞えず、眼は白えずなんだからl ぬのですね。ところが、ある時、 ポンプの水を揚げた。そうして、水、が、どっと出たら、水、が冷たくて手をひっこめ た。その時に、 しかし、どうかして教えた。すると、 ことがわかった。名があるということがわかったら、世界が、 はっきり限に映ったーーといっても、眼が見えぬのだ から仕様がないが、 とにかく見えたんだな。それから、この世界が意味をもってくるようになった。今までは、盲目 の世界だった。もののない世界だった。 動物の世界、例えば、うじ虫のようなものには、触覚はあるんだが五管はない。そうするというと、どうなるんで すかな。暗閣の世界というか、そこには、名は勿論無いんだから、そこで、さとりを聞くということは出来ぬだろう o ところが、そこに名号というものが出て来た o名号というものが出て来たら、それが明るみになって、ものがわかっ てくるということになる。それで、阿弥陀の名号というものが、十方位界に響いて、全ての仏や菩防に硲暁せられな かったら正覚を取らぬという意味は、 ただ名が世い界中に響いたというような、そういう意味の名じゃない。名号とい 7\というような名じゃない。そういう名じゃない。名号というものは、 へレン・ケ うものは、単なる名声が天下にぬ ラーが、水に触れて水の実体をにぎったと同じ名号ですね。その名号というものがわからにゃならん。 ︵本稿は、さる昭和三十八年六月十日より大谷大学において開講された特別公開講座の、第二日自の講話の筆録である.文責伊東慧明﹀ まあ、今日は、くたびれたので、これで休みます。明日の話は、また、ほかのことになるかも知れぬが、今日は、こ れで失礼いたします。 112 会葉 ﹁親捕時教学﹂第五号は、十二月十日 気相合のうちに卒業生の益々の健闘と学 それに合唱同員のコーラスが加わり、和 先生方の机礼、学生のテーブルスピーチ 会長の技拶、カンパイに始まった会は、 日斉藤枝︵修一︶の司会により、稲葉学 院・文学部合同して開催された c学生委 会は、一月二十一日、学内食堂で、大学 一一︶により、前年度の会務・会計報告の 続き総会に入った。議長の伊香同君︵修 話などを交えての日己紹介があり、引き 学部代表藤尾君︶のあと、山身地の白慢 新入会員の謝辞︵大学院代ぷ川村君、文 学部の代表本多さん︵文問︶の歓迎挨拶 員大学院を代表して斉政治戸修一一︶、文 られ、まず学会長の挨拶に始まり、在会 二月上旬の予定で、川 W予銭会は、昨年度 旬に、文学部の卒業論文中間発表は、十 叫大学院修士論文中間発表は、十一月下 パスを利用しての日帰り旅行とする。 ω大会は十一月中旬に、ω研究旅行は、 学部の例会は、例年の如く行なう。 A7 年度の行事計画として川大学院・文 後、議案の審議が進められた。 会発展を念じつつ、松原教授の万才三旧日 で幕を閉じた。尚、この後図書館ロビー にて全員記念撮影を行なった。 年度の学会行事は、全て これを以てん 1 滞りなく終了した。 昭和四十年度 。広瀬呆助教授は、四月一日付で教 授に昇格され、今後一層の活艇が期待さ れている。 授千五百円、講師・助手千二百円、正会 と同様、一月二十一日に行う。尚、学会 新しく正会員になった人は、五十五名 たい旨の提案があり採決の結果、万場一 員年額千円、賛助会員年額五百円、とし 費は、特別会員年額、教授二千円、助教 ︵大学院博士課程二名、修士課程七名、 致で決議され、なごやかなうちに歓迎会 O 昭和四十年度の新入会員歓迎会並に 八名となり、大谷大学随一のメンバーを 文学部四十六名︶。ここに全会員百七十 の第一歩が今までになく多くの参加を得 並に総会を閉じた。新年度の学会事業へ 総会は、五月十二日に開催された。 一日行なわれた。学生側からは、﹁学生 擁する学会に発展した。歓迎会は、学生 ﹁親驚教学﹂の反省会は、一月二十 の意見を反映させる為に、学生の論文を 委員白山君︵文四︶の司会によって進め O O 昭和三十九年度の卒業生を送る子儀 に発刊された。 O 導があった。 点、それに全体の構成について適切な指 の各先生方から、読みくせ、内容の問題 広瀬、幡谷助教授、伊東講師、白井助手 間口雅則諸君の発表後、稲葉、藤原教授 A 驚の 宿業観﹂本多恵﹁正信備の研究﹂ ﹁歎異抄における善悪観﹂藤木公明﹁親 舟﹁宗祖における念仏の意義﹂諏訪高典 ﹁教行信証における悲喜の交流﹂桜井智 ﹁教行信託における一一一一問答﹂田村晃洋 より早く、十二月十日に行なわれた。 会は、学生側からの希望もあって、例年 O 附和一一一十九年度の卒業論文中間発去 幸 良 各号に載せる様に﹂との希望があった。 1 1 3 学 て盛大に催されたことは学会が更に発展 斉藤雅・鈴木祐之 十二回大会は、去る六月五日・六日の両 る、真宗連合学会︵理事長稲葉秀賢︶第 O 真宗学研究室に事務局が置かれてい 文学部三回 本多明子・白山謙弐・上回附嘆 石橋真悟・武義山専英・藤本至 文学部四回 神戸栄鳳・田村晃洋 大学院修士課程一回 日、名古屋の同朋大学で開催された。 することを約束するかのようであった。 本学会からは、﹁法然教学と親驚教学 荒木智栄・藤尾俊基・泉清 学院 註 集 真宗要義 教行信証の概要 松原教授 稲葉教授 金子講師 稲葉教授 義真宗大綱 楽 曾我学長 新年度真宗学関係の講義題目 土井紀明・青木晃昭・小原正円 その教義展開をめぐる一視点:・﹂と題 する藤原孝章教授の研究発表が行なわれ た。又併せて行なわれた一二河地方旧蹟寺 院巡祥の巾、大谷派関係寺院︵本証寺・ 上宮寺︶の現地解説を細川行信助教授が 担当された。 土論 演 習I 浄土三経 生 松原教授 三帖和讃 真宗学概論 山田教授 教行信証御自釈 七祖概説 野上教授 真宗典籍史 真宗典籍講読 華厳経と浄土教 藤島教授 二村教授 初期教団論 善導とその時代 藤原教授 真宗典籍講読 ω ω 真宗概説 短期大学部 歎異抄 歎異抄 歎異抄 正信偶 末灯紗 正信偏 選択集 浄土論註 観無量寿経 無量寿経 教行信証 教行信証 教行信証 教行信証 願 読 l I l I l I 真宗学概論 稲葉教授 講 真宗門子概論 真宗学概論 部 浄安 O 本年度の夏安居は、七月十二日から 三十一日まで、本学講堂で行なわれる。 本講として正組合英名誉教授、か、﹁観無 量寿経﹂を議じられ、伊東慧明講師・日 井元成助手が都講として参加の予定。 L O 五月二十日、昭和四十年度の学生委 市出れソ。 員が決返した。なお委日以の顔触れは次の 大学院博士課程 三好観順・神戸和麿・山右佐静芸 大学院修士課程二回 二 、1 f ゴ 主主学 。 講大 講文 長岡 eL 為 安田講師 藤原教授 広瀬教授 幡谷助教授 細川助教授 松原教授 藤原教授 伊東講師 幡谷助教授 稲葉教授 稲葉教授 松原教授 松原教授 広瀬教授 広瀬教授 二村教授 伊東講師 幡谷助教授 臼井講師 臼井講師 藤原教疫 幡谷助教授 細川助教授 1 1 4 願と智願﹂というサブタイトルのついた 曾我先生の講義である。そこに、われわ れは、教学することの意味を如実に教え られるであろう。 それにつけても深く憶われるのは、金 子先生が、身をもって示されつつある教 学の態度である。﹁二部作教行信証﹂と 題する論文は、一刻も一処に停滞せぬ開 法の歩みが、いかなるものであるかを、 適確に教えられるものである。 安田先生は、アミダの﹁本願は、世界 の根源であり、世界は根源の意味開示で ある﹂と説くことによって、宗教的実存 の成就する世界を﹁願心荘厳﹂として明 らかにしてくださった。 ついで細川先生は﹁真宗興隆の大祖﹂ と題する論文をおよせくださったが、加 えて、今回は、特に、松野先生の﹁真宗 の土着化﹂というテ 1 7での、真宗が荷 負する今日的課題の解明、そして、笠原 先生が、既に久しく取りくんでこられた ﹁教団の形成と親驚の立場﹂を掲載する ことができて、今号は、期せずして親驚 教学歴史篇となった。 鈴木先生の﹁真宗概論伺﹂は、前号の 続篇であるが、さらに、このあとの講義 は次号に掲載する予定である。 代表松原祐普 大谷大学真宗学研究室振替京都 8 2 2 5 番 援 替 京 都 2948番 書 店 t同州 京都市東山区山科四宮 電 話 58-2901番 なお、松井君の﹁選遁の内景﹂は、修 士論文のその後の研究成果の発表であり 伊東の﹁悪人成仏﹂は、所謂−悪人正機説 にたいする近時の領解である。︵伊東︶ 京都市北区小山上総町 2 2 集 後 記 H くの人びとが集るところに教団が 多 ある、と考えるならば誤りである。真実 の大教団はご人﹂にある。﹁弥陀の五 劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ に親驚一人がためなりけり﹂という述懐 が語るとおり﹁親鴛一人﹂は、全世界を 担っているのである。したがって、一 O O万乃至一 000万という限定された数 をもって考えられた教団は、考えられた 教団にすぎない Hとは、曾我先生の言葉 である。ここに殊に﹁このうえは、念仏 をとりて信じたてまつらんとも、またす てんとも、面々のおんはからいなり﹂と いう歎異抄第二章の対話の帰結を憶う。 この﹁面々のおんはからいなり﹂というこ とのできたところに事実としての如来の 教団は誕生する。すなわち、関東の同朋 は一白身命をかえりみず﹂に越えて来た道 を、再び、混乱する関東に向って帰って 行くのである。その﹁一人﹂が誕生する のは、ひとえに、アミダの本願による。 具さには、法の三願と機の一一一願とによる のである。それを明らかにするのが﹁悲 一 燈 園 印 刷 部 正 p 京都市中京区寺町通三条上ル づ , , . 文 栄 堂 7C 発 大谷大学真宗学会 親驚教学編集部 編 集 発 行 ¥ 200 親驚教学 第 6号 昭和4 0 年 6月2 0日 印 刷 昭和4 0 年 6月2 5日 発 行 編 親鷲教学 第六号 昭和四十年六月二十五日 発 fJ ~ 大谷大学真宗学会 」
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