井の国歴史懇話会報

井の国歴史懇話会報
VOL8
発行:井の国歴史懇話会事務局
発行日
平成 27
年1月1日
新 年 の ご 挨 拶
徳川宗家
恒孝氏の講話と
幕末悲劇の女性「村山たか」女の生涯をたどる
来年度に向けての研修展望
井の国歴史懇話会会長
長田
武藤全裕
なぜ、たか女
日本は英国と同じように海
船橋聖一氏の小説「花の生涯」の女主人公村山た
に囲まれた素晴らしい国。海
か 女 が 、 晩 年 終 の 棲 家 と し て 、金 福 寺 に 入 寺 し ま し
のおかげで外国に侵攻される
た 。 寺 の 入 り 口 に 弁 天 堂 を 建 立 し 、 井 伊 直 弼 公 ・長
ことなく、中 国よ りの文化 を吸
野 主 膳 息 子 の 多 田 帯 刀 の 位 牌 を 置 き、日 夜 そ の 冥
収し、どくじの日本文化を積み
福を祈っていたそうです。
重ねてきた国です。この素晴
「村山たか」女について調べていらした「幕末秘禄」
らしい日本文化を日本人は学
の著者でもあり、京都東山一乗寺にある金福寺の住
んでほしい。
徳川氏宗家 十八代恒孝 氏の低音で静かな語り口
職 の 小 関 魯 庵 師 か ら 、私 の 父 が 「た か 」女 の ひ 孫 で
あ る と聞 か され 、 何 度 か 金 福 寺 を訪 ね て、話 をお 聞
調の講話が始まる。
きしたことが、きっか
「浜松時代の家康はラッキーに恵まれました。三方
け となり「村山た か」
原の合戦で大敗したが、合戦のすぐあと武田信玄が
女の波乱万丈の生
死 にました 。天正九 年高天神 城を奪い 返し、武田 軍
涯を調べてみること
と の お し くら 饅 頭 が 終 わ り ます 。 天 正 十 年 本 能 寺 の
にしました。
変 もラッキー。 同盟 者 で心 を通 わせ てい た信 長です
たか女の足跡調べ
が、家康にとって頭が上がらない人物でした・・・・・」
と淡々とお話は続きました。
た か 女 に 関 す る 資 料 は 乏 し く、 彦 根 城 400年 祭 で
お会いした「たちばな会」の西村忠先生も直弼公とた
さて、来年はいよいよ徳川家康公没後四百年祭の
か女の間に娘がいたことは知らなかったとのことでし
年 を迎えます。この年に合 わせ私は、家康公のナン
たが、手掛かりがあるかもと言うことで、多賀大社前
バー2と称される浜松市井伊谷、出身の井伊直政を
の不二屋さんと山田精肉店さんを紹介してくださいま
会員の皆様とともに浜松市民に大いに広報したいも
した。この2軒は、たか女の母親藤山くにの実家とた
のと願っております。
か女が養女となったところです。
来年度の実地研修の候補地の一つとして、「天下分
足跡をたどる資料は、小関魯庵師の「幕末秘禄」、
け 目 の 古 戦 場 関 ヶ 原 」 を 考 え て お り ま す 。東 軍 の 井
井伊直中が建立し、五百羅漢、直弼公、主膳の墓
伊直政の陣・福島正則の陣等。西軍の石田三成の
と、たか女の碑がある天寧寺からいただいた多賀町
陣・松尾山小早川秀秋の陣・島津隊の陣等の実地
の元町長さんの林清一郎氏がまとめられた『幕末悲
学 習 、 直 政 が 島 津 の 兵 に 討 た れ 落 馬 し た と い う「 烏
劇 の 女 「 村 山 た か 女 の こと」』、不 二 屋 さん か ら頂 い
頭坂」などの実地研修のコースです。
た資料、あとは、船橋聖一氏の小説「花の生涯」、諸
本年度当歴史懇話会主催の催しに協力下さり、誠
にありがとうございました。来年もよろしくお願いいた
します。
田玲子氏のノンフィクション小説「奸婦にあらず」を参
考にいたしました。
実際 に訪れお話 が聞けた のは、金 福寺・天寧寺・
高源寺(晩年のたか女の肖像画がみつかったお寺)
・不二屋さん
いては直弼公のため智謀のある限りを傾け、立ち働
で 、 あ と の とこ
きました。
ろは、期待し
安政の大獄への加担とその後
た答えは得ら
1858年6月19日
れませんでし
6月 25日
た。しかし、林
日米通商条約調印
将軍 家定 の後 継者 紀州 慶福に
決定発表
清一郎氏が、
7月6日
家定死去
多賀町史をまとめる際、たか女が立ち寄ったところを
8月8日
孝明天皇が水戸藩に幕府不信、
写真に収めていただいたものが残っています。
たか女の足跡
幕府変革を命じた勅書を出します。
以上の事柄を発端とし、大老直弼公の幕政に事
1847年頃、たか女は、孝明天皇に仕える駿河局に
々 に 反 対 す る 水 戸 藩 を 中 心 と する 反 幕 府 運 動 の 関
出 仕、そ の後、駿 河局がた か女 を介して主膳との歌
係者の捕縳が始められ安政の大獄が始まりました。
の交流から、孝明天皇・駿河局・たか女・主膳の関係
安政 の 大獄 の 後 、水 戸 ・長 州・薩 摩 の藩士 や、勤
ができ、後日、井伊大老の幕政を進める上で朝廷の
皇の志士の反撃となって、桜田門外での井伊大老の
連絡に、役立っていったといわれています。
暗 殺 、京 都 での 勤 王 派 天 誅 組 の 活 躍へ と 時 代 は移
1853年 6月3日、彦 根 藩の 警 備 担当 地 浦賀 沖 に、
って行きました。
ペ リ ー 提 督 の 率 い る 4艘 の 米 艦 隊 が 投 錨 し ま し た 。
直弼公の不遇の死による御家断絶を止めるため、
翌年、藩は相 州と京都守護の兼任を命じられ、直弼
主膳は大きな働きをし、彦根藩の藩主相続が認めら
公 は 大 老職 に 就 きました が 、米国 との 通 商条 約 ・将
れました。そして、たか女と主膳は、生前直弼公が進
軍家定の後任決定等、崩壊寸前の幕府を1人で支え
め て い た 「 公 武 合 体 」の 実 を 上 げ る た め の 、 皇 女 和
るという大変な宿命を負っての大老職就任でした。
宮 の 第 14代 将 軍 家茂 へ の 降 嫁 の た め 、立 ち 働 き成
この時期より、たか女は尊王攘夷派への対策をた
功させ ました 。1862年 、幕 府の中心が 、反井 伊大老
てるため、彦根藩京都所司代・長野主膳の手足とな
の情勢に変化したのを受け、彦根藩の中も様変わり
って隠密活動を始めました。たか女は、京に滞在し、
し、主 膳 は 、断 罪 さ れ、葬 儀 も許 され ませんでした 。
駿 河局 の侍女 という立場 や芸 事で知り合った多くの
一方たか女は、天誅組に捕らわれ、三条大橋に縛り
人 か ら 、 様 々 な情 報 を 手 に 入 れ 、 主 膳 に 連 絡 し 、ひ
付 けら れ、生 晒 しにされ ました が、3日後 、皇室ゆ か
りの宝鏡寺の
尼さんに助け
られ、後に金
福寺に入寺し
ました。
明 治 9年 9月
30日、金福寺
で68歳の波乱
万丈の生涯を
終えました。
(京都
金福寺提供)
戦いを避け、山に入った寺野の伊藤一族の伝説
柴田宏祐
落人の里
明け暮れていた生活に無常を感じ、平穏な地を求め
て き た と い う 伝 承 が 伝 え ら れ 、 今 も初 代 の 木 像 を前
に一族の祭りを続けている。
「寺野ひよんどり」として名を知られる寺野は 浜松
市 北 区 引 佐 町 に あ る戸 数 四十 戸 程 の 小 さな集 落 で
あ る 。山 一 つ 越 せ ば 三 河 に 至 る 遠 州 の 西 端 の 山 深
い 地 にあ る。今 でこそ 三 遠 道「浜 松寺 野インター」を
抱える交通至便の地になったが、これまでは渋川か
ら 山坂 を越えなけ れ ば なら ず、また 三 河 からは 高い
山並みを幾つも越えなければならない僻遠の地であ
った。集落の地に立つと南は深い谷間となり、その
村を起こした五兄弟
斜面に人家が点在していることが一望の内に見渡さ
寺野の初代伊藤刑部祐雄は自分の五人の息子を
れ てくる 。日 当た りが 良 く、屏 風 のよ う取 り囲 む山 々
寺野の村の各地に配属して芝切り(開拓)をさせてい
に さ えぎ ら れ た 桃 源 郷 に 達 し た 感 を い だ か せ てく れ
っ た 。本 家 筋 は これ ま での 伊 藤 を名 乗 らせ た が 、次
る。世の喧騒を避けて、隠れ住む地を彷彿とさせてく
のように松本、今田の苗字を与えそれぞれに独立性
れ る 。 まさ に 、 寺 野 が 「落 人 の 里 」と 呼 ば れ た こと が
を 認 め て い っ た 。 寺 野 は 峯 ・ 東 ・西 の 三 隣 保 に 分 か
納得されてくる。
れていて、近年移住してきた家を除くと、峯は全て松
本、西は伊藤と今田、東は全て伊藤というように伊
伊藤刑部祐雄
藤・松本・今田姓で村が構成されている。三つの姓を
名乗るようになったの
は、明治以降で、それ
以 前は 伊藤 姓だ った。
現在でも五人の息
子たちの系統は明確
した初代の思いは生き
は三河に住み、戦国期には武士として戦いの毎日を
続けてきた。
から山川を越え、寺野に入ったのは三遠に戦乱渦巻
は 、武 田 と 織田 ・徳 川連 合 軍 が、激 突 した 長篠 合 戦
現当主
く、天正三年(一五七五年)であったという。その時
姓
送 る生 活であった 。この伊藤一族が打ち揃って三河
弥兵衛
豆 が発祥といわれる 伊藤一族 の分流は鎌倉末期に
長男)祐国…‥・・伊藤‥幸夫
絶やさないことを目指
久兵衛
曽我の仇討ちで、有名な曽我氏の系譜を引き、伊
次男)刑部五郎…・松本‥由孝
一族が助け合い、血を
三男)弥五郎…‥・伊藤…恒夫
役割を果たしてきた。
四男)刑部作祐久…伊藤…他出
幾山川を越えて山へ上ってきた武士の一団
で、村の構成の重要な
五男)九郎作…‥・今田…年啓
寺野風景
の直後である。
文化の灯をともし続け
が残されている。忠右衛門は寺野の初代伊藤刑部
た一族の執念
祐 雄 の兄 弟 である 。それ なりの 働きをした 場合 三河
屋号
(一五 七三 )に 伊藤 忠衛 門に宛 がわ れた 所領 安堵 状
道迪
武田氏の重臣山縣三郎兵衛昌景から元亀四年
た どり着い た 山上で
に 城 を与 える とい う内 容 で あ っ た 。 結 果 的 に 武 田 軍
の 生活 は 耕地 が 少 なく厳しいもの であ ったと思 われ
は破れ、空手形になってしまった。それまでの戦乱に
る が 、 文 化 に 対 する あ くな き 執 念 は 絶 え る こと なく、
引 き 継 が れ て い っ た 。 平 年 で も 食 べ る こと に 精 一 杯
であろうし、ひとたび災害が起これば、食にこと欠くこ
念に敬意を表さざるをえない。伊豆の豪族伊東氏の
と が 推 測 さ れ る 中 で 、 鄙 に は ま れ な 文 化 を担 っ てき
流れをくみ、一族の中に山間部に移住して芸能を維
たことに驚かざるをえない。
持してきた者もある。例えば、信州新野の雪まつりと
初代の木像
大 き く関 わ っ て い る と い わ れ て い る 。 伊 豆 伊 東 氏 の
中 か ら 輩 出 した 狩 野 派 の DN A の 流 れ ま でを想 像 し
てしまう。
戦乱に明け暮れる世にいち早く別れを告げ、平穏
な暮らしを求めて入り込んだ山の中でも一族の出自
を伝える肖像画や木造等の史料を数多く残し、伝承
が 息 づ く「 落 人 の 里 」 は 気 品 の あ る 心 優 し い 里 人 に
囲まれて今も歴史のロマンに満ちている。
その一つが「寺野ひよんどり」である。その発祥
は、伊藤氏が三河から持ち込んできたかもともとこの
地 にあった ものを引 き継 いだ かは定か ではないが、
「能衆」として一族が役割を分担して祭事や芸能を伝
え、 今 は 国 指 定 の 重 要 無 形 民 俗 文 化 財 に 指 定 さ れ
ている。
祭 事そ の もの だ けでなく、そ れに使 用する衣 装の
染 や 面 の 制 作 に あ た っ て い る こ と であ る 。 寺 野 ひ よ
んどりに使われている十七面は、伊藤弥兵衛定俊制
作 の 面 が 現 在 も使 用 さ れて い る。 神 澤お くない に 使
祐俊の涅槃図
東光院
う面にも寺野伊藤弥兵衛の名が見られる。幾つかの
三 遠一帯の山あいに残る田楽や神楽等の面を必要
とする 祭の 担い 手を果た してい たの ではないか と思
26年度の予定
(敬称略)
われる。
二つ目は涅槃図の制作である。現在、渋川の東
1月22日(木)
13;30~15;30
光 院と熊 の光雲寺の二 ヶ寺に寛 保二年 の伊藤弥 兵
講話「山深き里に香る文化の流れ」
衛祐俊の筆になる涅槃図が残されている。大本山奥
~寺野伊藤一族の伝説・・・涅槃図と能面~
講師
山 方 広 寺 に も 寄 進 し てい る と 伝 え ら れ て い る が 、 現
在 は見 当た らない。明治の大 火で焼失した のかもし
れない。大幅の画面に何十という人や動物を配置す
るための技法は高度なものを有していたと思われ
る。定俊、祐俊は親子であった。
時を経て、明治になって渋川に洋風の学校校舎建
築 をした のは、本家の伊 藤氏であった。田沢小 学校
1月18日(日)
浜松市みおつくし文化センター
13;30分開演
12;30分(開場)
「徳川四天王
2月14日(土)
井伊直政の生涯」
8;30~17;00
「龍潭寺住職と歴史にふれる旅④」
現地研修
涅槃図と渋川井伊氏の史跡拝観ツアー
会費
\5000
2月22日(日)
なって日本画を習い始め、春秋合わせて二十回余の
みおつくし劇団「風雲!井伊の牙」
入 選を果た してい る。その 息子 八右 氏は 能面師 とし
浜松市みおつくし文化センター
て活 躍 して い る。 深い 山 中 に あ りなが ら 数 百年 に わ
た っ て 、 文 化 の 灯 を とも し 続 け てき た 伊 藤 一 族 の 執
¥1,500
小和田哲夫氏講演
の建築も同様であったという。
更に、昭和になり、二十代伊藤信次氏は六十歳に
柴田宏祐
4月7日
13;30~
総会(予定)