生活全般の協同を試みた「総合生協」の可能性 ―東京の生協運動史から― 三浦一浩 一般財団法人地域生活研究所 戦前、消費組合や購買組合と呼ばれていた生協は、戦後「生活協同組合」としてつくられるよ うになり、1948 年には生協法が成立する。この「消費組合」や「購買組合」から「生活協同組合」 へという名称の変化には単なる「消費」や「購買」のため、いわば単なる買い物のための組合で はなく「生活」全般の協同を志向するという意味が込められていたのではないだろうか。その一 方で、特に 1960 年代後半以降、日本で大きく伸長した地域購買生協は店舗と共同購入という事 業形態の幅はあっても、基本的に商品の購買事業を通じて事業を拡大してきており、その意味で は戦後の生協は「消費」や「購買」のための生協ということができる。 それでは「生活協同組合」への変更は単なる名称の変更にすぎなかったのであろうか。本報告 では、この問いに答えるために、戦後における東京の生協運動の展開に着目する。戦後の東京に は「雨後のタケノコのように」数多くの生協が誕生し、その数は地域生協だけで 500 に上ったと いわれる。その多くは町内会生協と呼ばれる小規模な生協が占めていたが、小規模な生協が多数 活動しているという状況や東京という都市の規模は多様な生協が活動し得る余地を生み出し、 様々な生協が東京では活動しえたのではないかと考えられるためである。本報告では、このよう な点から戦後の東京には単なる「消費」や「購買」にとどまらない、より幅の広い活動を試みた 生協が存在したのではないかと考え、その実際を検討する。 実際、1950 年代までに東京都内で設立された生協の中には購買事業のほかに医療や浴場、保育 園、理美容院といった利用事業を併設し、それらを総合的に経営するところがあった。それらを 東京都生協連の 30 年史『東京の生協運動史』は「総合生協」と呼び、それらが誕生した背景に は「総合的に暮しを守る」という協同組合の理想が存在したことを指摘している。しかし、実際 に購買事業と利用事業を総合的に経営することには困難が伴い、また、個別の利用事業を生協で 運営することのメリットを出せず、総合生協はほとんど姿を消していった。 本報告では総合生協を取り巻いたそうした事業上の困難を確認しつつも、その活動の意義を再 検証する。具体的には東京都北区で活動していた労働者クラブ生協や新宿区の戸山ハイツ生協な どを中心に総合生協の事績を追う。そのうえで、総合生協が事業上の困難を伴いながらも生活の 協同という生協の理想を追い求めたものであったこと、そして、その背景には戦後の困難な生活 の中で協同によって暮らしをよりよくしていこうとする人々の要求や思いがあったことを明らか にする。そして、それは現代にも通じる「生活協同組合」のあり方であることを再確認する。
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