~時代の変化に対応し続けた最古参の看板店~ 甲府市相生2-8-15 TEL 055-233-4108 / FAX 055-237-5771 明治 20 年創業 ㈱アド・アートイシカワ (株)アド・アート イシカワ(甲府市相生2丁目 石 川幸夫 社長)は明治20年、甲府市柳町の地で初代 石川甚平が提灯や行燈に文字や絵描きを手掛けたこと に始まる。甚平は画家を志し、京都で南画(中国の絵) を学び、焼き物の絵付けなどでも優秀な作品を残した が、家計を助けるためにこの夢を断念した。その後、 甚平は才能を活かして、提灯や行燈に屋号などの文字 や絵柄を描いて売り、しゃれた生活必需品として重宝 されたという。 二代目石川幸保の頃になると、甲府の街に江戸文化 の一つであった歌舞伎を見せる芝居小屋が増え、幸保は商いの場所を桜町や春日町に移して、役者 絵や舞台看板を手掛けるようになる。明治40年頃のことであった。大正時代になると、民衆の興 味が歌舞伎から大衆演劇に移るようになり、やがて演劇の人気は活動写真、のちに映画へと取って 代わられることになる。 昭和に入ると次第に時代はきな臭さを増し、大衆娯楽を楽しむ雰囲気も薄れてきた。昭和20年 頃戦災で甲府の街が焼野原になったのを機に現在地に移ったのは、昭和20年 (現 三代目 石川周作 石川幸夫社長の父)の時であった。 その後、昭和26年には(有)石川看板店として法人を設立し、昭和44年に新社屋を完成させた ことを機に商号を(有)アド・アートイシカワとした。(昭和46年には(株)アド・アートイシカワへ 商号変更)。『終戦から昭和40年代~50年代はめまぐるしく時代が変化し、それに対応すべく業 態を変化させざるをえなかった。』四代目の石川幸夫社長(現社長)はこう振り返る。 『芝居が廃れて映画が全盛となり、甲府の街には15館も映画館があった。映画館の看板やポス ターなんかを一手に受けていたから、親父に連れられて映画を見に行っても“顔パス”でね。賑や かだったな。仕事も忙しかったから、絵を勉強して卒業した学生が8名も住み込みで働いていた時 もあったよ。』やがて、映画に替わって家庭用のテレビが普及し始めると、中心街にあった映画館は 自然と数が減るようになる。その後、高度経済成長期に入ると、テレビ、洗濯機などの家電やマイ カーが急速に普及し、手書きの看板、懸垂幕、ポスターなどの仕事に替わって電気店、自動車販売 店の仕事が増えていった。『昔は絵の技術や文字の味を売っていたけど、今はコンピューターで作っ て安く売る時代になってしまった。』 (株)アド・アート イシカワは4代、124年続く歴史ある企業だ。同業者の集まりでも『看板 業で124年続く企業は全国でも稀ではないか』と言われるという。 お話を伺う中で、時代とともに看板の素材や作り方が変わっても、企業を PR する広告とデザイ ン一筋である専門性が何よりの強みだと感じた。 『裏春日で生まれて中心街の映画館の仕事をしたり、ここの歴史をずっと見てきたから、今の状 況はちょっとさみしく感じる。』(株)アド・アートイシカワは明治~大正~昭和~平成まで、甲府の 文化や街の移り変わりを最も良く知っている企業の一つかもしれない。
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