古 典 に 学 ぶ - 『貞観政要』の知恵 -

古
典
に
学
ぶ
- 『貞観政要』の知恵 -
立命館大学公務研究科 研究科長・教授
鵜養
幸雄
はじめに・・・を兼ねて、「古典」について
そもそも「古典」とは「古い文書」ではありますが、古ければよいというわけではな
く、「時の試練」(外山滋比古『思考の整理学』筑摩書房)に耐えてこそ、生き残る「古
典」といえます(古い時代に書かれはしたものの、いつの間にか消えていった書籍の量
は計り知れないでしょう。)
「読書などは人の考えを追いかけるもので時間の無駄だ」、といいながら、良書、特に
古典はしっかりと読む必要があるという指摘もあります(ショウペンハウアー(
『読書に
ついて』岩波文庫)。
2008 年の源氏物語千年紀を契機に 11 月 1 日とされた「古典の日」に発表された「古
典の日宣言」では、「古典とは何か」について、こう記しています。(なお、「古典の日」
はその後、法制化(平成 24 年法律第 81 号)されています。)
「古典とは何か。
風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結
晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を
豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、
「人間とは何か、生きるとは何か」
との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である。
揺れ動く世界のうちにあるからこそ、私たちは、いま古典を学び、これをしっかりと
心に抱き、これを私たちのよりどころとして、世界の人々とさらに深く心を通わせよう。」
古典に学ぶ古典の読み方
古典を読んでいて大変興味深いことの一つに、古典自体が古典から学んだことを記し
ていることが少なからずあることです。池田亀鑑『古典学入門』は 1952 年刊の『古典の
読み方』が底本となっていて、それ自体すでに古典といってよさそうな本ですが、この
本の最後で紹介された古典の学び方についての話の中に良い例が見られます。
芭蕉が、空海が書道に関して「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」
と言ったのは俳諧にも通じる、としたが、この言葉はまさに、「古典を学ぶものにとって
の箴言である」と池田博士は賞賛しています。
もともとは書道についての空海の言葉(字の形をまねるのではなくて、その意をなぞ
ってこそ上達する)が、俳諧の理念(単に文を追うのでなく、作者が求めた世界を求め
ていく)へと脱皮・応用され、さらに古典から何を学ぶかということについてのヒント
につながる、という変化を遂げていますが、ここにも古典の底力が感じられるのではな
いでしょうか。
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『貞観政要』という本
(全文は、原田種成『貞観政要』(新釈漢文大系)明治書院 1978 年に収められています
が、1,000 ページに及ぶものです(本資料の訳文・書き下し文は同書を基にしています)
。
手近なものとしては、山本七平氏、守屋洋氏の著作等があります。(近時刊行されたもの
では、渡部昇一・谷沢永一『貞観政要 人の上に立つ者の心得』致知出版等があります。)
この『貞観政要』は、唐の歴史家・呉兢(ごきょう)が著したもので、「貞観」は、唐の
太宗の時代(627 年~ 649 年)の年号で、太宗の没後 50 年ぐらいのころに、その政治に
関する言行、群臣との問答などを、10 巻 40 篇(287 章)にまとめたものです。
日本には、800 年ごろ、遣唐使によりもたらされたと考えられ、その後、例えば、北
条政子がこれを和訳させて愛読したといわれ、徳川家康が印刷・出版させたことなどが
有名です。
戦前には、官吏等の必読書であったとされますが、戦後 30 年近く陰に隠れた後、山本
七平氏らの「掘り起こし」によってようやく、ビジネス界を中心に復権してきた書物で
す。統治・行政に関する話でありながら、公務員にはいま一つなじみの薄い本のようで
あることは残念です。
教材としての利点は、組織と人のマネジメントを考えるヒントとして味わえることで、
① 上司と部下のやりとりが生き生きと描写されていること、
② この本自体が古典ですが、当時から見ても千年以上前の古典(紀元前7世紀以降の
いわゆる「四書五経」等)を扱っていて、古典を通じた古典の活用例が見られること、
から、組織の場での諸問題を思い起こしつつ考えていくことができる古典です。
『貞観政要』をめぐるキーワードとして重要なのが、「守成(しゅせい)」と「諫言(か
んげん)」です。
組織・制度を創る(「創業」)はもちろん大変なことですが、ある種の「勢い」があり、
苦労しながらも仕上げることができます。しかし、平時にそれを維持・発展させること
(「守成」)は、意外に難しく、日頃のチェックを怠ることから、あっけなく「崩壊」す
ることもよくあります。
『貞観政要』では、そのような「守成」の大切さを強調しつつ、そのためには、臣下
(部下)が勇気をもって諫言し、君主(上司)もこれを容れることが組織維持のために
必要である、ということを、実例を通して何度も繰り返し記しています。耳の痛いこと
を言われるのは誰もが快く思いませんが、それを聞き入れることこそが肝要であるとし
ています。
(なお、本テキストの現代語訳部分は、原田種成訳に基づき改変を加えてあります。)
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【演習1.情報への接し方】
○「兼聴と偏信」(第一編第二章)
貞観二年のことである。皇帝太宗が側近の魏徴(ぎちょう)にこんなことをたずねた。
「いったい明君・暗君というのはどこが違うのだろうか」。
(注)魏徴:本書における諌言の中心人物です。
外様(もとは、太宗に討たれた兄太子の家臣)でありながら、太宗の第一のご意見番となりました。
『唐詩選』冒頭の詩(「述懐」)の作者でもあります。この詩の最後の二句、「人生意気に感ず、功名
誰かまた論ぜん」(人間は、自分を重んじてくれたという、意気にこそ感ずるもの、功名などは問題
にならない)は、有名で、よく引用されています。
魏徴は次のように答えた。
「明君は、多くの人の意見を聞いた上で判断をします。
他方、暗君というものは、一方の人の言うことだけを信じるからであります。古典の
詩経にはこんな言葉があります。『昔の賢者が言うには、薪を採るような身分の低い者の
意見も聞くものだ。』
昔の明君、堯舜の時代の政治は、四方の門を開いて、四方の視聴を広めたというので
あります。そのことによって、明君のご威光は国の隅々まで行き渡ったのです。そのた
めに共工・鯀(こん)といった不忠者も、明君の判断を間違えさせることはありませんで
した。言行不一致のいいかげんなやからも君を惑わすことができなかったのであります。」
貞観二年、太宗、魏徴に問ひて曰く、何をか謂(い)ひて明君・暗君と為す、と。徴
対(こた)へて曰く、君の明かなる所以(ゆえん)の者は、兼聴すればなり。其の暗き
所以の者は、偏信すればなり。詩に云く、先人言へる有り、芻蕘(すうじょう)に詢
(と)ふ、と。昔、堯舜の治は、四門を開き、四目を明かにし、四聡を達す。是を以て、
聖、照らさざるは無し。故に共鯀(きょうこん)の徒、塞(ふさ)ぐを得る能(あた)は
ざりしなり。靖言庸回、惑はす能(あた)はざりしなり、と。
魏徴は続けた。
「滅んでしまった秦の二世皇帝は、宮中の奥深くにいたまま、限られた相手の話だけを
聞き、特に側近だった趙高の言うことだけを信用して、政権がほとんど崩壊寸前だとい
うときにも、その状況を知るよしもありませんでした。
また、古く梁の武帝は朱异(しゅい)の言うことだけを信用して、反乱軍の候景が兵を
挙げて宮城に向かっても、最後までそのことを知ることができませんでした。
先の隋の煬帝(ようだい)は側近の虞世基(ぐせいき)の言うことだけを信用して、反乱
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軍が城を攻め都市を略奪しても、これまた知ることができなかったのであります。です
から、君主が多くの者の言うことに耳を傾け、広く下の者の言うことを取り上げれば、
臣下も天子の耳目を押さえておおうことはできずして、世の状況は必ず君主のところに
達するのです。」
皇帝太宗は魏徴の言ったことを、大変もっともなことだとほめた。
秦の二世は、則ち其の身を陰蔵し、疎賎を捐隔(えんかく)して、趙高を偏信し、
天下、潰叛(かいはん)するに及ぶまで、聞くを得ざりしなり。梁の武帝は 、朱 异 を
偏信して、候景、兵を挙げて欠に向ふも、竟(つい)に知るを得ざりしなり。隋の煬
帝は虞世基を偏信して、諸賊、城を攻め邑(むら)を剽(かす)むるも、亦知るを得ざ
りしなり。故に人君、兼ね聴きて下を納(い)るれば、則ち貴臣、擁蔽するを得ずし
て、下情、必ず上通するを得るなり、と。太宗甚(はなは)だ其の言を善しとす。
[検討課題]
「明君」・「暗君」の差の元となる「兼聴」と「偏信」との違いはどこから
生じるのかについて、次の2点から考えてみましょう。
1.多く集めた情報の取捨選択はどう行なったらよいのでしょうか。
2.信頼する者の言をきくことと「偏信」とはどう異なるのか考えてみま
しょうか。
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【演習2.上司と部下】
○「君は舟、人は水」(第二編第七章)
貞観六年のことである。皇帝太宗が側に侍った者たちにこんなことを言った。
「古来の帝王をよく観察するに、盛いがあるときがあれば衰えるときもあるのは、ま
るで一日のうちで朝があれば日暮れがあると同じようなものだ。ただ、衰えるというと
きというのは、必ず臣下が君主の耳や目をおおってしまって正確な状況がわからなくな
っていて、君主が善悪の判断がきちんとできないことから始まる。忠臣はだまって何も
言わず、その一方で、心の曲がった、おべっかのうまい者ばかりが、日増しに君主のそ
ばにいるようになる。そのような状態になれば適切な判断がなされず、国が滅亡してし
まうことになるのは当然である。
わしは、宮中の奥深くに居るようになってしまっているから、天下の出来事のすべて
を知り尽くすことはできない。それゆえ、その任務をそちたちに分担して任せ、我が耳
や目の代わりとしているのである。
今、天下は無事で、世の中は安寧であるからといって、気にかけずに安易に思っては
なるまい。古典の書経にも『君が徳をもって人民を愛すれば、民もまた君を敬愛する。
君が無道であれば民は離反するから、恐るべきものである』という語がある。
天子というものは、立派な道徳を持っていれば、国民は敬意をもって君主としてあお
ぐ。ところが、道に外れれば、国民の心は離れ、君もその地位を失ってしまうようにな
る。ほんとうに恐るべきものである」。
貞観六年、上(しょう)、侍臣に謂ひて曰く、朕、古(いにしえ)の帝王を看(み)
るに、盛有り衰有ること、猶ほ朝の暮有るごとし。皆、其の耳目を蔽(おお)ふが為
めに、時政の得失を知らず。忠正なる者は言はず、邪諂(じゃてん)なる者は日に進
む。既に過失を見ず、滅亡に至る所以(ゆえん)なり。朕、既に九重(きゅうちょう)
に在り、尽(ことごと)くは天下の事を見ること能はず。故に之を卿等(けいら)に布
(し)き、以て朕の耳目と為す。天下無事、四海安寧なるを以て、便ち意に存せざる
こと莫(な)かれ。書に云く、愛す可きは君に非ずや。畏る可きは人に非ずや、と。天
子は、道有れば則ち人推して主と為す。道無ければ則ち人棄てて用ひず。誠に畏る
可きなり、と。
それを聞いて、魏徴がこう言った。
「昔から、国を失った君主というものは皆すべて、国が安らかになると、かつて危険
であったときのことを忘れてしまい、治まっていると思うと、かつての乱れていたとき
のことを忘れてしまいます。それが国家を長く維持することのできない理由であります。
今、陛下は、天下のすべての富を持ち、国の内外が安泰であるという状況にあっても、
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しっかりと政治のあり方に注意し、常に深い淵に臨み薄い氷を踏むように、非常に用心
深くしておられますから、わが国家も末永く安泰でありましょう。
また、古典には、
『君主は舟であり、人民は水である。水は舟を浮かべるものであるが、
一方また舟を転覆させるものでもある』とあります。陛下は、人民というものは恐るべ
きものであるとお考えになっておられますが、まさに陛下のお考えのとおりであります」。
魏徴対(こた)へて曰く、古より、国を失ふの主は、皆、安きに居りて危きを忘れ、
理に処(お)りて乱を忘るるを為す。長久なること能はざる所以なり。今、陛下、富、
天下を有(たも)ち、内外静晏なるも、能く心を治道に留め、常に深きに臨み薄きを
履(ふ)むが如くならば、国家の暦数、自然に霊長ならん。臣又聞く、古語に云ふ、君
は舟なり。人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す、と。陛下、以て畏る可
しと為す。誠に聖旨の如し、と。
(注)「君は舟、人は水なり」は、本書では何度かくり返し述べられています。
(第一編第四章にもあり、他に、第十一編第二章で皇太子教育を行う際、第二十九編第九章で君臣の
在り方を論ずる際、第三十九編で災害への対応を述べる際にも引かれています。)
なお、ここで「古語に」というように、原典は『荀子』王制編ですが、日本の軍記物(平家物語、
太平記等)では、むしろ『貞観政要』からの引用として紹介されています。
(原田種成「軍記物語と貞観政要」(『関東短期大学紀要』第十集、1964 年))
[検討課題]
1.管理者と部下との関係を「舟」・「水」にたとえる意味を考えてみましょ
う。
2.「舟」を載せる「水」の動きはどのように察知することができるのでしょ
うか。
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【演習3.制度の立案・制定と運用・維持】
○「創業と守成」(第一編第三章)
貞観十年のことである。太宗が側に侍った者たちに聞いた。
「帝王の事業の中で、国を創りあげることと国を維持すること、どちらがより難しい
といえようか」
尚書左僕射(さぼくや)の房玄齢(ぼうげんれい)がお答えした。。
(注))房玄齢
太宗の重臣、杜如晦と共に唐の制度の基礎を築いたといわれた。
「この国を創り上げるときを思いだしましても、天下が乱れ群雄割拠する中、それら
の強敵を次々と打ち破っては降参させ、大変な苦労の末戦争に勝ち、やっと天下平定を
なしとげました。この大変さを思えば、国を創りあげることの方が難しいと思います」
すると、魏徴が言った。
「帝王が起こるときというものは、必ず前代の極度に衰え乱れた世の後を受け、それ
を平定して鎮めるということで、人民たちも新たな王を敬い従います。その意味で、そ
の地位は天が授け人民が与えたもので、それほど困難なものとは思われません。
しかし、政権を獲得した後は、ついつい権力をかさに気ままなことをしがちになりま
す。帝王のぜいたくのために人民たちを容赦なく労役に用いたりしてしまうものです。
国がまた衰えて破滅するのは、常にこういうことから起こります。
この点から言えば、いったん完成されたものもしっかり維持して行くことの方が難し
いと思います。」
貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難き、
と。尚書左僕射房玄齢対へて曰く、天地草昧(そうまい)にして、群雄競ひ起る。攻
め破りて乃(すなわ)ち降(くだ)し、戦ひ勝ちて乃ち剋(か)つ。此(これ)に由りて之
(これ)を言へば、草創を難しと為す、と。魏徴対へて曰く、帝王の起るや、必ず衰乱
を承(う)け、彼の昏狡(こんこう)を覆(くつがえ)し、百姓、推すを楽しみ、四海、命
に帰す。天授け人与ふ、乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸
す。百姓は静を欲すれども、徭役休(や)まず。百姓凋残(ちょうざん)すれども、侈
務(しむ)息(や)まず。国の衰弊は、恒(つね)に此に由りて起る。斯(これ)を以て言
へば、守文は則ち難し、と。
太宗がこれらを聞いて言った。
「たしかに房玄齢は、その昔、私に従って天下を平定するに当たって、艱難辛苦を経
験し、ほとんど絶体絶命の危機を幾度となくくぐり抜けてこの国創りに貢献した。創業
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の難しさを実際に体験している者ならではの言葉である。
一方、魏徴のほうは、私と共に天下の安定に心をくだき、わしにわがままかってや、
おごり高ぶる心が少しでも起こって、国の滅亡につながってしまわないようにと日々心
配してくれている。維持することの困難さをよく知っている者ならではの言葉である。
さて、今や、創業の困難は、過去のものになったと言えよう。皆と力を合わせて、維
持していくこと難しさを心得ながらこれからの政治に当たって行かねばなるまい」。
太宗曰く、玄齢は、昔、我に従つて天下を定め、備(つぶさ)に艱苦(かんく)を嘗
(な)め、万死を出でて一生に遇へり。草創の難きを見る所以なり。魏徴は、我と与
(とも)に天下を安んじ、驕逸の端を生ぜば、必ず危亡の地を践(ふ)まんことを慮
(おもんぱか)る。守文の難きを見る所以なり。今、草創の難きは、既に以(すで)に
往けり。守文の難きは、当に公等と之を慎まんことを思ふべし。
[検討課題]
1.「守文(守成)」・維持することの難しさについて考えてみましょう。
2.「守文(守成)」 は、現実にはどのように行っていけばよいのでしょう
か。
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【演習4.不祥事防止策】
○「知っていてもできなければ・・・」(第五編第一章)
貞観の初年のことである。太宗が側に侍っていた王珪(おうけい)とくつろいで語って
いた。そのとき、太宗の側に美人が侍っていた。この女性は、もと廬江王(ろこうおう)
瑗(えん)の愛姫であったが、瑗を討った後、この宮中に入れていたのである。太宗はそ
の美人を指さして王珪に言った、
「廬江王は無道な者であった。この者の夫を殺害してこの者を奪い連れ去った。甚だ
しい暴虐である。そんなことをする者の国だから滅びてしまったのである。」
それを聞いた王珪は、自席から退いて、次のように申し上げた。
「陛下は、廬江王が他人の妻を奪い取ったのを、是であるとお考えなのですか、非で
あるとお考えなのですか。」
太宗は、「どうして、世に人を殺してその妻を奪い取るという、これ以上の非道な行為
があろうか。そんな当たり前のことを聞くのか。」
貞観の初、太宗、黄門侍郎王珪と宴語す。時に美人有りて側に侍す。本、廬江王瑗
の姫なり 。 瑗 敗れ、籍没して宮に入る。太宗、指(ゆびさ)して珪に示して曰く、廬
江、不道にして、其の夫を賊殺して、其の室を納(い)る。暴虐の甚だしき、何ぞ亡び
ざる者有らんや、と。珪、席を避けて対(こた)へて曰く、陛下、廬江の之を取るを以
て是と為すや、非と為すや、と。太宗曰く、安(いずく)んぞ人を殺して其の妻を取
ること有らんや。卿(すなわ)ち朕に是非を問ふは、何ぞや、と。
王珪が言った。
「私が知っております話で『管子』という書にこんなことが書いてあります。
『斉の桓公が、滅亡した郭国の跡に行き、そこの父老たちに「郭の国ははどうして滅
んでしまったのだろうか」と尋ねました。
すると父老が言うのには、「郭の君は、善を善とし、悪を悪としたからであります。」
それを聞いた桓公は驚き、「その言葉のとおりであったならば、賢君の治世である。滅
びるはずがないではないか。」
それに対して、父老が言った。
「そうではありません。郭君は、善を善としたけれども、
その善を用いることができず、悪を悪としたけれども、その悪を除き去ることができな
かったのです。それが滅亡した理由であります。」』
さて、今、この婦人が、なお陛下のお側に侍っています。私は、失礼ながら陛下の御
心が、その行為を是認しているのではなかろうかと思いました。陛下がもし、それを非
となされるならば、これこそ、悪を悪と知っても除き去らないというものであります。」
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それを聞いて太宗は非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、急いで美人を
その親族のもとへ帰させた。
対(こた)へて曰く、臣聞く、管子に曰く、齊の桓公、郭国に之(ゆ)き、其の父老に
問ひて曰く、郭は何の故に亡びたるか、と。父老曰く、其の善を善とし、悪を悪とし
たるを以てなり、と。桓公曰く、子の言の若(ごと)くんば、乃(すなわ)ち賢君なり。
何ぞ亡ぶるに至らんや、と。父老曰く、然らず。郭君は善を善とすれども用ふるこ
と能はず。悪を悪とすれども、去ること能はず。亡びし所以なり、と。今、此の婦
人、尚ほ左右に在り。臣、竊(ひそか)に聖心、之を是と為すと以(おも)へり。陛下、
若し以て非と為さば、此れ所謂、悪を知れども去らざるなり、と。太宗、大いに悦
び、称して至言となし、遽(にわか)に美人をして其の親族に還さしむ。
[検討課題]
1.「悪を知れども去らざる」ことに類した経験はあるでしょうか。
2.気の緩み、感覚の麻痺をどのように防ぐことができるのか考えてみましょ
う。
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(参 考) (大変長い章ですが、渾身の諫言、それを受け入れた大宗の姿があります。)
・ 「魏徴の諫言十箇条」(第四十編第五章)(『貞観政要』のクライマックス)
貞観十三年に、魏徴は、太宗が[創業当時の]倹約を全うすることができずして、近
年非常に贅沢でかって気ままを好むようになったのを憂慮し、上表文を奉ってお諫め申
し上げた、「私が、古来の帝王の天命を受けて国家を創建しましたのを観察いたしまする
に、皆、その国家を万世に伝えたいと思い、子孫のために将来のはかりごとを残してお
ります。それゆえ、朝廷に立って、天下に政治を行うに際し、その政治について語ると
きには、必ず淳朴を第一にして華美なことを抑え、人物を論ずるときには、必ず忠良を
尊んでよこしまな者を卑しみ、制度を語るときには、奢侈を絶って倹約を尊び、物産を
語るときには穀帛等の人民の生活に無くてはならない物資を重んじて、珍奇な宝物の類
を卑しんでいました。然し、天命を受け[て王朝を創建し、天子となっ]た最初には、
皆、前記の方針に遵ってよく治まった世を作りあげていました。[ところが]少しく国家
が平安になりました後には、多くは、これに反して風俗を破壊してしまいます。
貞観十三年、魏徴、太宗の克(よ)く倹約に終ること能はずして、近歳頗(すこぶ)
る奢縦(しゃしょう)を好むを恐る。上疏して諫めて曰く、臣、古よりの帝王の、図
を受け鼎を定むるを観るに、皆、之を萬代に伝へ、厥(そ)の孫謀を胎(のこ)さんと
欲す。故に其の巖廊に垂供し、政を天下に布くに、其の治を語るや、必ず淳朴を先
にして浮華を抑へ、其の人を論ずるや、必ず忠良を貴びて邪佞を鄙(いやし)み、制
度を言ふや、則ち奢靡を絶ちて倹約を崇(たっと)び、物産を談ずるや、則ち穀帛を
重んじて珍奇を賤しむ。然して命を受くるの初、皆、之に遵(したが)ひて以て治を
成す。稍々(やや)安きの後、多く之に反して俗を敗る。
その理由は何故でございましょうか。それは、なんと、万乗の尊き天子の位に居り、
四海の富をわが物として保有し、言葉を出せば、自己に逆らう者はなく、行うところは、
人が必ず従い、公正な道が私情に溺れてしまい、礼節が欲望のために欠けてしまうから
ではありますまいか。古語に『知ることがむずかしいのではなく、行うことが困難であ
る。行うことがむずかしいのではなく、それを終えることが困難なのである』とありま
すが、この言葉は、ほんとうでございます。
其の故は何ぞや。豈(あ)に万乗の尊に居り、四海の富を有ち、言を出せば己に逆
ふ莫(な)く、為す所あれば人必ず従ひ、公道、私情に溺れ、礼節、嗜欲に欠くるを以
ての故ならずや。語に曰く、之を知ることの難きに非ず。之を行ふこと難し。之を
行ふことの難きに非ず。之を終ふること難し、と。斯(こ)の言、信(まこと)なるか
な。
- 11 -
謹んで考えまするに、陛下は、御年が、やっと二十歳になられたときに、天下の騒乱
を平定して、国内を統一し、はじめて帝王の業を開きました。貞観の初年には、御年が
壮年でございましたので、欲望を抑えて、自ら節倹を実行し、国の内外が極めて安寧に
なり、ついに非常によく治まった世を出現いたしました。その功績を論じますれば、殷
の湯王も周の武王も比べものにならず、その徳を語りますれば、堯舜のごとき聖天子も
遠く距ったものではございません。私は抜擢を受けて陛下のおそば近くにお仕えしてか
ら、十余年の間、いつも機密の御相談にあずかり、しばしば、賢明なるお考えを拝承い
たしました。陛下は、常に仁義の道の実践を期待し、それを守って失うことなく、倹約
のお志は終始変わることがございませんでした。『一言にして邦を興す』という論語の語
は、まさしく、こういうことをいうものでございます。そのときの陛下の、御立派なお
言葉は、ありありとわが耳にあり、決して忘れることはございません。しかしながら、
近年以来、少しく往時の御志とはそむき違い、かつての人情味に厚い政治が、しだいに
有終の美を全うすることができないように思われます。慎んで聞き及びました点を述べ
ますと、次の通りでございます。
伏して惟(おもん)みるに、陛下、年甫(はじ)めて弱冠、大いに横流を拯(すく)
ひ、区宇を平一(へいいつ)し、肇めて帝業を開く。貞観の初、年方(まさ)に克(よ)
く壮に、嗜欲を抑損し、躬(みずか)ら節倹を行ひ、内外康寧にして、遂に至治に臻
(いた)る。功を論ずれば、則ち湯武も方(くら)ぶるに足らず。徳を語れば、則ち堯
舜も未だ遠しと為さず。臣、擢(ぬきん)でられて左右に居りしより、十有余載、毎
(つね)に帷幄(いあく)に侍し、屡々(しばしば)明旨を奉ず。常に仁義の道を許し、
守りて失わず、倹約の志、終始渝(かわ)らず。一言にして邦を興すとは、斯(こ)れ
の謂(いい)なり。徳音、耳に在り、敢て之を忘れんや。而るに頃年(けいねん)已来
(いらい)、稍(やや)曩志(のうし)に乖(そむ)き、敦朴の理、漸く終を克くせず。謹
みて聞ける所を以て、之を列(つら)ぬること左の如し。
陛下は貞観の初年には、無為無欲で、平和でよく治まった徳化は、[国内ばかりか]遠
い未開の国にまでも及びました。ところが、これを今日について考えまするに、その風
がしだいに衰えております。お言葉だけを聞きますれば、遠く上古の聖人にも越えまさ
る立派な御意見でございますが、実際のことについて論じますと、史上の平凡な君主に
も越えません。どういう証拠でいうのかと申しますと、漢の文帝や晋の武帝は、どちら
も、上古の聖人に比すべき天子ではありません。しかし、漢の文帝は、一日に千里を走
る名馬の献上を辞退し、晋の武帝は、献上された雉の頭の美しい毛で飾った裘(かわごろ
も)を、殿前で焼いてしまいました。ところが、今、陛下は駿馬を万里の遠方に求め、珍
奇な宝物を国外からお買いになり、途中の道路の人々からは、[その行列を]何事だろう
かと怪しまれ、異民族からも軽蔑されております。これが、その、しだいに有終の美を
全うすることができない点の第一であります。
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陛下、貞観の初、無為無欲にして、清静の化、遠く遐荒(かこう)に被(こうむ)る。
之を今に考ふるに、其の風漸(ようや)く墜(お)つ。言を聴けば、則ち遠く上聖に超
ゆるも、事を論ずれば、則ち未だ中主に踰(こ)えず。何を以てか之を言ふ。漢文・
晋武は、倶(とも)に上聖に非ざるに、漢文は千里の馬を辞し、晋武は雉頭(ちとう)
の裘(きゅう)を燓 (や)く。今は則ち駿馬を万里に求め、珍奇を域外に市ふ。怪を道
路に取り、戎狄に軽んぜらる。此れ其の漸く終(おわり)を克(よ)くせざるの一な
り。
昔、子貢が民を治める道を孔子に問いました。すると孔子が言うには『危険なことと
いったら、腐った縄で六頭の馬をあつかうようなものである』と。子貢が言うに『どう
して、そんなにも恐れるのでありますか』と。孔子が言うには『正しい道をもって民を
導かなければ、わが讎となるものである。だから、どうして恐れないでいられようや』
と。それゆえ、書経にも『民は国の根本であり、根本がしっかりしていれば国家は安寧
である。だから人の上として民に臨む君主は、どうして荒怠して敬しないでよかろうや』
とあります。陛下は、貞観の初年には、人民を見ることが、傷ついた人を見るように、
その勤労の様子をあわれんで御覧になり、人民をわが子と同様に可愛がり、いつも簡素
節約を旨とし、大がかりな建造物を構築することはございませんでした。ところが、近
年以来は、御心が贅沢でかって気ままになり、急に、従前のへりくだって倹約であった
御精神を忘れ、軽々しく人民を労役に御使用になり、そして『人民は労務がなければ、
おごって気ままな行動をする。労役すれば使い易い』とおっしゃっております。古来か
ら、人民の逸楽によって国家が傾敗した例はございません。それなのに、どうして、あ
らかじめ、人民が逸楽するであろうことを恐れるからといって、わざと労役に酷使しよ
うとするものがございましょうや。[そういうお言葉は]恐らくは国家を興隆させる正し
い言ではございますまい。どうして人民を安定させる遠大なはかりごとと言えましょう
や。これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の第二でございます。
昔、子貢、人を理(おさ)むるを孔子に問ふ。孔子曰く、懍乎(りんこ)として、朽索
の六馬を馭(ぎょ)するが若し、と。子貢曰く、何ぞ其れ畏るるや、と。子曰く、道を
以て之を導かざれば、則ち吾が讎(あだ)なり。若何(いかん)ぞ其れ畏(おそ)れざら
んや、と。故に書に曰く、人は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し。人の上為(た)る者
は、奈何ぞ敬せざらん、と。陛下、貞観の始、人を視ること傷つけるが如く、其の勤
労を見て、之を愛すること猶ほ子のごとく、毎(つね)に簡約を存し、営為する所無
し。頃年已来、意、奢縦に在り、忽ち卑倹を忘れ、軽々しく人力を用ひ、乃ち云は
く、百姓、事無ければ則ち驕逸す。労役すれば則ち使ひ易し、と。古より、未だ百姓
の逸楽するに由りて傾敗を致せる者有らざるなり。何ぞ逆(あらかじ)め其の驕逸
を畏れて故(ことさ)らに之を労役せんと欲するもの有らんや。恐らくは邦を興す
の至言に非ざらん。豈に人を安んずるの長算ならんや。此れ其の漸く終を克くせざ
るの二なり。
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陛下は、貞観の初年には、御自身を損じましてまでも人民の利益を図られました。と
ころが今日になりましては、御自身の欲望に奉仕させるために人民を労苦させておりま
す。へりくだって倹約であった行いが年ごとに改まり、たかぶり贅沢をする御心が日ご
とに増しておられます。口先では人民のことを心配するというお言葉を、絶えずおっし
ゃっておられますが、御自身を楽しませることが、実に熱心でございます。[宮殿や離宮
などを]造営なさりたいとお思いになることがありましたときには、臣下がそれを諫め
るであろうことを考えて、先手を打ち、『もしこれを造らなければ、我が身に不都合であ
る』とおっしゃいます。これでは、人臣の情として、どうして、それをも押して強く諫
めることができましょうや。これはただ、御心が諫者の口をふさぐところにあるので、
どうして、善いことを択んで行うものと言えましょうや。これが、しだいに有終の美を
全うすることができない点の第三でございます。
陛下、貞観の初、己を損して以て物を利す。今者(いま)に至りて、欲を縦(ほしい
まま)にして以て人を労す。卑倹の迹(あと)歳ごとに改り、驕侈の情日々に増す。是
れ人を憂ふるの言は、口に絶えずと雖も、而も身を楽ますの事、実に心に切なり。
或は時に営する所有らんと欲すれば、人の諫めを致さんことを慮り、乃ち云はく、
若し此を為さざれば、我が身に便ならず、と。人臣の情、何ぞ復た争ふ可けんや。此
れ直(た)だ、意、諫者の口を杜(ふさ)ぐに在り、豈に善を択(えら)びて行ふ者なら
んや。此れ其の漸く終を克くせざるの三なり。
人が身を立てる上においての、成功と失敗とは、その影響感化を受ける点にあります。
蘭茝(らんし)のようなよいにおいの花のある室に入っても、鮑魚のような悪臭のある室
に入っても、久しくいれば、そのにおいがわからなくなります。[善人と交際するも悪人
と交際するのも同様で、その影響感化は甚大なものがございます]ですから、人は染習
する相手を注意しなければならないということは、よくよく考えねばならないことでご
ざいます。陛下は、貞観の初年には、名誉と節義とを重んずることに励み、人にえこひ
いきをせず、ただ善人とだけに親しみ、君子を親愛し、小人をうとんじ遠ざけておられ
ました。ところが、今はそうではなく、小人をばかにして、君子は敬意を表して重んじ
ておられます。しかし、君子を重んじているとはいうものの、それは敬して遠ざけてい
るのであり、小人をばかにしているとはいうものの、それは、なれ親しんで近づけてお
られます。親しみ近づけていれば、その悪い点が見えなくなり、敬して遠ざけていれば、
その善い点を知ることがございません。君子の美点を知ることがなければ、離間を図る
ものがなくとも自然に疎遠となります。小人の欠点に気がつかなければ、時間がたつと
自然に親密になります。小人と親密になるのは、よく治まった世を完成する方法ではご
ざいませず、君子を疎遠にするのは、どうして国家を興隆させる道でございましょうや。
これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の第四でございます。
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立身の成敗は、染まる所に在り 。蘭 茝 鮑魚(ほうぎょ)、之と倶(とも)に化す。習
ふ所を慎むこと、思はざる可からず。陛下、貞観の初、名節を砥砺(しれい)し、物に
私せず、唯(た)だ善にのみ是れ与(くみ)し、君子を親愛し、小人を疎斥す。今は則
ち然らず、小人を軽褻し、君子を礼重す。君子を重んずるや、敬して之を遠ざけ、小
人を軽んずるや、狎(な)れて之を近づく。之を近づくれば、則ち其の非を見ず、之
を遠ざくれば、則ち其の是を知る莫し。其の是を知る莫ければ、則ち閒せずして自
ら疎(うと)んず。其の非を見ざれば、則ち時有りて自ら昵(した)しむ。小人を昵近
(じっきん)するは、治を致すの道に非ず。君子を疎遠するは、豈に邦を興すの義な
らんや。此れ其の漸く終を克くせざるの四なり。
書経に『無益の遊観をなして、有益な徳義を害うことがなければ、治功が成就する。
奇巧の異物を貴んで用物の服食を卑しまなければ、民の財は富足する。犬馬は[有用の
物であるが]その地方の産するものでなければ飼わない。珍美な鳥や奇異な獣は[ただ
耳や目を楽しませる玩弄物に過ぎないから、むだな労費をして]国に畜養しない』とあ
ります。陛下は、貞観の初年には、その行動のすべてが上古の聖天子なる堯舜を手本と
してその道に従われ、黄金や宝玉を投げ捨て、古代の淳朴質素な生活に返りました。と
ころが、近年以来は、珍しい品物を尊重なされ、手に入れ難い品物は、どんな遠方から
でも至らぬことはなく、類のない精巧な道具の製作が、やむときがございません。かよ
うに、お上が、はでな贅沢を好まれながら、下民の純朴な生活を希望しても、実現でき
ることはございません。商工業ばかりが盛んになりながら、農民による作物の豊かな実
りを求めても、得られないことは明らかでございます。これが、しだいに有終の美を全
うすることができない点の第五でございます。
書に曰く、無益を作(な)して有益を害せざれば、功乃(すなわ)ち成る。異物を貴
びて用物を賤しまざれば、人乃ち足る。犬馬は其の土性に非ざれば、畜(やしな)は
ず、珍禽奇獣は、国に育(やしな)はず、と。陛下、貞観の初、動きて堯舜に遵(した
が)ひ、金を捐(す)て璧を抵(なげう)ち、朴に反(かえ)り淳に還る。頃年以来、奇異
を好尚し、得難きの貨、遠しとして臻(いた)らざるは無く、珍玩の作、時として能
く止むる無し。上、奢靡を好みて、而も下の敦朴ならんことを望むは、未だ之れ有
らざるなり。末作滋々(ますます)興りて、而も農人の豊実ならんことを求むるは、
其の得可からざること、亦已(はなは)だ明かなり。此れ其の漸く終を克くせざるの
五なり。
貞観の初年には、賢者を求めることが、まるで、のどがかわいた人が水をほしがるよ
うに熱烈に捜し求められ、善人が推挙した人物は、信じて任用し、その長所を取り、常
に[賢者を求めることが]まだ十分ではあるまいかと恐れ気づかっておられました。と
ころが、近年以来は、陛下の御心の好き嫌いによって人を用いられます。あるいは、多
くの善人たちが一致して推挙した人を用いても、一人がそしればその人を捨てて用いま
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せん。あるいは、多年、任用して信頼しておりましたのに、ひとたび疑えば、それを遠
ざけてしまいます。そもそも、人には平素の行いがあり、事には成就した事跡があるも
のでございます。ですから、人を悪く言う人が、必ずしも誉められている人よりも信用
できるというわけではございません。[それゆえ]積年の善行を、一朝にしてにわかに失
ってはなりません。その上に、君子の心は、仁義道徳を実行し、立派な徳を世に広めよ
うとするものであります。が、小人の性質は、人の悪口を言うのを好み、自分個人の利
益だけを考えております。陛下は、詳しくその根源をお調べにならずして、軽々しく、
表面だけで人物の善悪を断定なされております。これでは、正しい道を守る者が日々に
遠ざかり、能力がないくせに地位だけを求めたがる者が、日々に進み出ることになりま
す。ですから、人々はただ一時のがれをして失敗さえしなければよいと考え、自己の能
力を十分に尽くす者がございません。これが、しだいに有終の美を全うすることができ
ない点の第六でございます。
貞観の初、賢を求むること渇(かっ)せるが如く、善人の挙ぐる所は、信じて之に
任じ、其の長ずる所を取り、恒(つね)に及ばざらんことを恐る。近歳(きんさい)已
来(いらい)、心の好悪に由る。或は衆善しとして挙げて之を用ひ、一人毀(そし)り
て之を棄つ。或は積年、任じて之を信じ、一朝、疑ひて之を遠ざく。夫(そ)れ行(お
こない)に素履有り、事に成跡有り。毀る所の人、未だ必ずしも誉むる所よりも信ず
可からず。積年の行、応(まさ)に頓(にわか)に一朝に失ふべからず。且つ君子の懐
は、仁義を踏みて大体を弘む。小人の性は、讒毀を好みて以て身の謀を為す。陛下、
審(つまびらか)かに其の根源を察せずして、軽々しく之が臓否を為す。是れ道を守
る者をして日に疎く、干求する者をして日に進ましむ。所以に人、苟くも免れんこ
とを思い、能く力を尽くすもの莫し。此れ其の漸く終を克くせざるの六なり。
陛下が初めて皇帝の位に登られたときには、高い位に居りながらも深く民間のことを
よく御覧になり、事は清静を第一にし、心には嗜好の欲なく、狩猟の道具を取り除いて、
遊猟の源を断ち切りました。しかしながら、数年の後には、そうした御意志を固く守る
ことができず、[昔の話にある]百日間も遊猟に出かけたまま帰らなかった天子ほどでは
ございませんが、[昔の天子が]狩猟を行ったときの三駆の制度に過ぎるものがあり、と
うとう、あまりに頻繁にお遊びに出かけるのを、人民から非難されたり、狩猟に用いる
鷹や猟犬の貢物は、遠く四方の異民族にまでも及びました。あるいは、狩猟による軍隊
の教習の場への道路が遠いため、朝は暗いうちに宮殿を出、夜になってお帰りになり、
獲物を追って馬を走らせることを楽しみとし、思いがけない災難が起こるかもしれない
ということについては、さっぱり気にかけることをなさりません。変事というものは、
思いがけないときに起こるものでございます。[変事が起こってからでは]お救い申すこ
とはできません。これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の第七でござ
います。
陛下初めて大位に登るや、高く居り深く視(み)、事惟(た)だ清静、心に嗜欲無
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く、内、畢弋(ひつよく)の物を除き、外、佃猟の源を絶つ。数載の後、志を固くする
こと能はず。十旬の逸無しと雖も、或は三駆の礼に過ぎ、遂に盤遊の娯(たのしみ)
をして、百姓に譏(そし)られ、鷹犬(ようけん)の貢をして、遠く四夷に及ばしむ。
或は時に教習するの処、道路遙遠にして晨(あした)を侵(おか)して出て、夜に入り
て方(まさ)に還る。馳騁(ちてい)を以て歓娯と為し、不虞の変を慮ること莫し。事
の不測なる、其れ救ふ可けんや。此れ其の漸く終を克くせざるの七なり。
孔子の言葉に『君主が臣下を使うには礼を守り、臣下が君主に仕えるには、真心をも
って仕える』とあります。そういたしますれば、君が臣を待遇なさるには、道義として
薄くあってはなりません。陛下が初めて天子の御位につかれた当時には、尊敬の念をも
って臣下に対し、君の御恩は臣下に十分に及び、臣下の真情は陛下によく届きました。
それゆえ、臣下たちは、ことごとく、[この御主君のためには]自己のあらん限りの力を
尽くそうと思い、心の中に少しも隠すところがございませんでした。しかし、近年以来
には、[陛下の、臣下たちに対する態度が]軽忽粗略な点が多くなりました。ある場合に
は、地方官が任務を受けて地方を治め、地方の事情について奏上のために入朝し、宮中
に参内し、任地の見たところを申し上げようといたしましても、申し上げたくともお顔
を拝見することもできず、お願いしようとしてもお取りあげになりません。そして突然
に、その短所について、小さな過失を詰責なされます。これでは、いかな賢くて弁舌に
すぐれた才略のある臣下でも、その忠誠の真心を申し上げることができません。[そのよ
うな状態でありながら]上下の心が一致し、君臣が共に安泰であろうことを願っても、
困難ではございますまいか。これが、しだいに有終の美を全うすることができない点の
第八でございます。
孔子曰く、君、臣を使ふに礼を以てし、臣、君に事(つか)ふるに忠を以てす、と。
然れば、則ち君の臣を待(たい)する、義、薄かる可からず。陛下、初めて大位を践
(ふ)むや、敬以て下に接し、君恩下に流れ、臣情上に達す。咸(ことごと)く力を
竭(つく)くさんことを思ひ、心、隠す所無し。頃年以来、忽略(こつりゃく)する所
多し。或は外官、使に充てられ、事を奏して入朝し、闕庭(けってい)を視んことを
思ひ、将に見る所を陳べんとするに、言はんと欲すれば則ち顔色、接せず、請はん
と欲すれば、又、恩礼、加はらず。乍(たちま)ち短なる所に因りて、其の細過を詰
(なじ)る。聡弁の略有りと雖も、能く其の忠款を申ぶる莫し。而るに上下心を同じ
くし、君臣交泰(こうたい)せんことを望むは、亦難からずや。此れ其の漸く終を克
くせざるの八なり。
『傲慢の心は長じてはならず、欲望は無制限にしてはならず、楽しみは極めてはなら
ず、志は満たしてはならない』[とは礼記にある語で]この四者は、古昔の帝王が、その
身に幸福をもたらした原因となったもので、広く事理に通達した賢者が、深く戒めとし
たところのものであります。陛下は、貞観の初年には、一心に努力して怠らず、御自身
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のお考えを曲げて人の意見に従い、いつも、足らないところがあるような謙遜深い態度
でいらっしゃいました。ところが、近年以来、少しばかり、いばってわがままにふるま
い、功業の偉大なことを誇りに持って、前代の帝王を軽蔑するお気持ちがあり、すぐれ
た知恵の賢明さを自負して、当代の賢者を軽蔑するお心がございます。これは、傲慢の
心が長じたものでございます。それゆえ、なさりたいとお考えになったことは、すべて
思い通りにやりとげてしまいます。たとい、一時的に感情を抑えて諫めに従うことがご
ざいましても、結局は御心から忘れてしまうことができません。これは欲望の心が無制
限になったものでございます。陛下のお志は、楽しみ遊ぶことだけにあり、いくら遊ん
でも、これで満足したということがございません。現状では、まだそれがすべて政事の
妨げとはなっておりませんけれども、まるっきり政治についての御関心が無くなられま
した。これは楽しみが極度に達しようとしているものであります。国内はすみずみでも
安らかに治まり、四方の異民族も本心から服従しておりますが、それなのになお、遠い
辺境の地に兵馬を苦労させ、はるか遠いはての異民族の無礼の罪を責める討伐軍を派遣
しております。これは、御志が、どこまでいっても満足することが無いからでございま
す。[そういう無益な戦争を起こすについて]陛下のおそばに親しみなれている者は、仰
せにおもねり従って意見を申し上げようとはせず、疎遠の者は、陛下の御威光を恐れて、
進んでお諫めしようとはいたしません。こういう状態が積み重なってやみませんければ、
すぐれた陛下の御徳に傷がつくようになるであろうと思います。これが、しだいに有終
の美を全うすることができない点の第九でございます。
傲は長ず可からず、欲は縦(ほしいまま)にす可からず、楽は極む可からず、志
は満たす可からず。四つの者は、前王の福を致す所以、通賢、以て深誡と為す。陛
下、貞観の初、孜々(しし)として怠らず、己を屈して人に従ひ、恒に足らざるが若
くせり。頃年已来、微(すこ)しく自ら矜放にして、功業の大を恃み、意、前王を蔑
(ないがしろ)ろにし、聖智の明なるを負(たの)み、心、当代を軽んず。此れ傲の長
ぜるなり。為す所有らんと欲すれば、皆、意を遂ぐるを取る。縦ひ或は情を抑へ諫
に従ふも、終(つい)に是れ懐(おもい)に忘るること能はず。此れ欲の縦なるなり。
志は嬉遊に在り、情は厭倦無し。全くは政事を妨げずと雖も、復た心を治道に専ら
にせず。此れ楽の将に極まらんとするなり。率土乂安(がいあん)に、四夷款服する
も、仍ほ遠く士馬を労し、罪を遐荒に問はんと欲す。此れ志、満たし難きなり。親狎
(しんこう)なる者は、旨に阿(おもね)りて肯(あえ)て言はず。疎遠なる者は、威を
畏れて敢て諫むる莫し。積みて已まざれば、将に聖徳を虧(か)かんとす。此れ其の
漸く終を克くせざるの九なり。
昔、堯舜や殷の湯王という聖天子時代にも、全く災害が無かったというわけではござ
いません。しかしながら、それらが非常にすぐれた徳のある帝王であると称されたのは、
終始一貫して、無為無欲であり、災害に出遭えば、憂慮と勤労のあらん限りを尽くし、
時世が平安のときにも自己の欲望のままに驕逸するということがなかったからでありま
す。貞観の初年には、毎年毎年、連続して霜害や旱害があり、都を中心とした地域の戸
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口は、皆[食物を求めて]関外の地に行き、老人や幼児を、背負ったり手を引いたりし
て、来往した者が数千人にも達しました。しかし、一戸の逃亡者もなく、一人として、
その苦痛を恨んだ者はございませんでした。これは、陛下が人民たちを、あわれみ養わ
れる御心をよく知っていたからであります。それゆえ、飢え死にするようなことがあっ
ても二心をいだく者がなかったのでありました。ところが、近年以来になりましては、
人民は政府の労役のために疲れはて、都に近い関中の人民たちの、労役のための疲弊が
最も甚だしゅうございます。そして、工匠の者たちは、非番で休養すべき日にも留めて
働かせ、正規兵たちは、当番の日に、勤務外の仕事に、こき使われます。各地方の産物
を交易して政府がその歩合を取るために、村里までも物資の移動が絶えず、物資を順送
りに送る役夫は、道路に連続しております。何らかの弊害が起これば、僅かのきっかけ
でも人民は騒動を起こし易い状態になっております。もし、洪水や旱害のために、穀物
の収穫がなくなったときには、恐らくは人民たちの心は、往年のように安寧でいるわけ
にはいかないものと思われます。これが、しだいに有終の美を全うすることができない
点の第十であります。
昔、堯舜・成湯の時、災患無きに非ず。然れども其の聖徳を称する者は、其の始
有り終有り、無為無欲、災に遭へば則ち其の憂勤を極め、時安ければ、則ち驕らず
逸せざるを以ての故なり。貞観の初、頻年霜旱(そうかん)あり、畿内の戸口、並び
に関外に就き、老幼を携負し、来往するもの数千。曾(かつ)て一戸の逃亡無く、又、
一人の怨苦無し。此れ陛下の矜育の懐(おもい)を識(し)るに由る。所以(ゆえん)に
死に至るまで 擕 二(けいじ)するもの無し。頃年已来、徭役に疲れ、関中の人、労弊
尤(もっと)も甚だし。工匠の徒、下番の悉(ことごと)く留めて和雇し、正兵の輩、
上番多く別に駆使す。和市の物、郷閭(きょうりょ)に絶えず、逓送の夫、道路に相
継ぐ。既に弊(やぶ)るる所有り、驚擾を為し易し。脱し水旱に因りて、穀麦、収まら
ずんば、恐らくは百姓の心、前日の寧恬の如くなる能はざらん。此れ其の漸く終を
克くせざるの十なり。
私は『災禍も幸福も、来るのにきまった入口というのもはなく、みな自分自身が招く
ものである』という語を聞いております。人に欠点がなければ、災禍はむやみに起こる
ものではございません。慎んで考えまするに、陛下が天下を統御なされますことは、こ
こ十三か年、その間に、陛下の徳化は国内に十分に行きわたり、御威光は遠く海外にま
でも及び、毎年の穀物は豊作で、学問教育は盛んに興り、軒なみの人民は[すべて善良
で才徳にすぐれ]諸侯に封じてもさしつかえないほどの価値のある者ばかりであり、米
穀は豊富で、水や火と同様に惜しげもなく使うことができました。ところが、今年にな
ってからは、天災が盛んに起こり、炎気は旱害となり、それが遠い郡国にまでも被害が
及び、悪者どもが悪事を働き、たちまち、天子のおひざもとに近い帝都にも凶悪な犯罪
者が出没するようになりました。そもそも、天は何も申すことをいたしません。ただ、
天変地異のような現象を垂れて、[天に代わって地上を治める天子に対して]戒めをお示
しになりますものでございます。ですから、[今の災害の現象は]陛下が天の戒めに対し
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て驚懼し憂勤すべき時でございます。もし、天の戒告に対して恐懼し、善人を択び用い
てその言に従い、[驕逸の御心を捨てて]周の文王が、小心翼々として、細かく気をくば
って慎み深くしたことと同じくし、殷の湯王が、[大旱のときに、自身を犠牲として天に
祷り]自己の政治の罪を反省したことを学び、前代の帝王が治世を完成した原因となっ
た方法は、すべて努力して実行し、現今の徳を敗った原因となったものは、よく思い考
えてその悪い点を改め、国民と共に、個人や社会のあり方を更新し、人の耳目を一新し
たならば、天子の御位は無窮に伝えられ、天下万民の幸福はこれに過ぎるものはなくな
ります。どうして禍害と破滅の心配がありましょうや。
臣聞く、禍福は門無し。唯(た)だ人の召(まね)く所のままなり、と。人、釁(きん)
無ければ、妖、妄りに作(おこ)らず。伏して惟(おもん)みるに、陛下、天を統べ寓を
御すること、十有三年、道、寰中(かんちゅう)に洽(あまね)く、威、海外に加はり、
年穀豊稔し、礼教聿(ここ)に興り、比屋、封ず可きに踰(こ)え、菽粟、水火に同じ。
今歳に及びて、天災流行し、炎気、旱を致し、乃ち遠く郡国に被(こうむ)り、凶醜、
孽 (げつ)を作し、忽ち轂下に起る。夫れ天何をか言はんや、象(しょう)を垂れ誡(い
ましめ)を示す。斯れ陛下の驚懼の辰、憂勤の日なり。若し誡を見て懼れ、善を択び
て従い、周文の小心なるに同じく、殷湯の己を罪せしを追い、前王の治を致す所以
の者は、勤めて之を行ひ、今時の徳を敗る所以の者は、思ひて之を改め、物と更新
し、人の視聴を易(か)へば、則ち宝祚、彊(かぎり)無く、普天幸(さいわい)甚だし
く、何の禍敗か之れ有らんや。
そう考えますると、天下国家の治乱安危というものは、天子御一人にかかっているも
のでございます。当今の太平の基礎は、すでに天よりも高く築かれております。[しかし
なお、せっかく築いて来ました太平の基礎も、それを途中でやめてしまったならば、今
までの努力もすべて水の泡となり、いわゆる]九仞の功を一簣に欠くおそれがあります。
今は千年に一度だけ現れるという、この聖天子のいます立派な時期であり、このような
時は、二度とは得ることができません。賢明なる君主は、それを実行することができる
能力がございますのに実行なさらず、そのため、私ごとき卑しい臣下が、心が晴れずし
て長嘆息いたす理由でございます。私は、まことに愚かで卑しく、物事の機会というも
のに十分通達いたしてはおりません。しかし、ほぼ、私の目に触れました点の十条を取
りあげて、聖聴に上聞申し上げました。慎んでお願い申し上げますには、陛下が、私の
間違いだらけのでたらめな言を御採用になり、民間の意見も御参考にしてくださいます
ことを。どうか、私のごとき愚者の考えの中にも千慮に一得があって、天子の御職責に
少しでも補いとなる点がございますように。[そのようになることができましたならば、
たとい陛下のお怒りに触れましても]死ぬ日が私の生まれた年であると考え、死刑に処
せられても満足でございます」と。
然れば則ち社稷の安危、国家の理乱は、一人に在るのみ。当今太平の基、既に極
天の峻を崇くす。九仞(きゅうじん)の積、猶ほ一簣(いっき)の功を欠く。千載の休
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期、時、再び得難し。明主、為す可くして為さず、微臣が鬱結して長嘆する所以の者
なり。臣誠に愚鄙にして、事機に達せず。略(ほ)ぼ見る所の十条を挙げ、輒(すな
わ)ち以て聖聴に上聞す。伏して惟(おもん)みるに、陛下、臣が狂瞽の言を採り、参
するに蒭蕘(すうじょう)の議を以てせんことを。冀はくは千慮の一得、袞職(えん
しょく)、補(おぎない)有らんことを。則ち死するの日は猶ほ生けるの年のごとし。
甘んじて鈇鉞(ふえつ)に従はん、と。
この上疏文が奏上されると、太宗は魏徴に語って言われた。「臣下たるものが君主に仕
えるには、君主の意旨に順うことは非常に易しいが、君主の感情に逆らって諫めること
は、もっとも困難なことである。公は我の耳目や手足となって、いつも思慮深い意見を
献納してくれる。我は今、公から過失の点を聞いたので、必ず改めてみせよう。そして、
どうか有終の美を成しとげたいものである。もし、この言葉に違反したときは、どんな
顔をして公に会うことができようぞ。そればかりか、公の進言以外のどんな方法で天下
を治めることができようぞ。公の上疏を得てから、くり返し十分に研究し、その言葉は
強く、道理は正しいことを深く悟った。そこで、とうとう、それを屏風に仕立て、朝な
夕なに仰ぎ見ることにし、また、史官に命じて記録させた。どうか千年の後の者が、こ
れによって、君臣の義を知ってほしいものである」と。そこで、[褒美として魏徴に]黄
金千斤と、宮中の厩の馬二頭とを賜った。
疏奏(そそう)す。太宗、徴に謂ひて曰く、人臣の主に事ふる、旨に順ふは甚だ易
く、情に忤(さから)ふは尤(もっと)も難し。公、朕が耳目股肱と作(な)り、常に論
思献納す。朕、今、過ちを聞きて能く改む。庶幾(こいねが)はくは克く善事を終へ
ん。此の言に違はば、更に何の顔(かなばせ)ありてか公と相見ん。復た何の方あり
てか以て天下を理(おさ)めんと欲せん。公の疏を得しより、反復研尋し、深く詞強
く理直きを覚ゆ。遂に列して屏障と為して、朝夕瞻仰(せんぎょう)し、兼ねて又、
録して史司に付す。冀(こいねが)はくは千載の下、君臣の義を識らんことを、と。
乃ち黄金十斤、厩馬二疋を賜ふ。
本章だけでも、『貞観政要』の中で魏徴が何を言ってきたかがわかる、
いわば、「総集編」ともいえる内容になっています。
ここで示された十箇条をまとめると、次のようになります。
一、無為無欲 → 物欲が強くなった
二、人民への慈しみ → 平気で労役を課す
三、人民の利益重視 → 自分の欲望に奉仕
四、君子の重視 → 君子敬遠、小人と親密
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五、質素な生活 → 贅沢を追求
六、賢者の探求 → 好き嫌い、表面での人物判断
七、狩猟の抑制 → 狩猟を娯楽
八、礼を守った臣下の待遇 → 態度が粗略
九、謙虚な態度 → 尊大な態度
十、災害時にもった憂慮・勤労 → 人民への無配慮
これだけ長々とした厳しい諌言の総集編を渡された太宗が、素直に受
け入れた姿は、やはりさすがと言うべきでしょうか。
この章に続き、第六章で「守文(守成)」の大切さを確認し、さらに、
第七章(本書の最終章)で太宗が、常に諌言を歓迎する旨を述べ、魏徴が、
賢者である太宗は欲望をコントロールできる、したがって、唐朝も永代
安泰であろうと結んでいます。かくして、初心を忘れず常に反省し、他
人の言に素直に耳を傾けることが奥義、ということになりそうです。
が、しかし、実際は、そうもいかなかったようです。
太宗の治世が終わる貞観二十三年までも、まだまだ平坦な道程ではな
く、むしろ果たして有終の美を飾れたか疑問の残るともいえる足跡が残
されています。貞観十九年、水陸十万を超える兵力をもって高句麗遠征
したがこれに失敗・撤退、貞観二十一年、二十二年にも兵を出し、「魏徴
がいたならこうはならなかった(「魏徴若し在らば、我をして此の行有
らしめじ」)と悔やむものの、後の祭り。その魏徴に関しても、貞観十
七年に彼が没した際は、太宗自ら碑文を書き碑を作らせたのに、その数
ヶ月後、謀叛に係わる疑いをもち、その碑を倒してしまい、二年後に反
省して、また碑を建て直させたことが史書にも残っています。
それにもかかわらず、『貞観政要』は生き残っています。中国でも、近
時、関連する書がいくつか出版されています。もともと、呉兢が、唐の
中宗に、そして玄宗に献上した書ですが、もし、古来の名言だけを取り
出すのであれば、出典の四書五経の抜粋で十分でしょうし、太宗自身の
思想であれば、『帝範』を読めばわかります。しかし、現実の中で、何度
も同じような諌言を受けつつ、政治を行った人間太宗の姿が生き生きと
描かれていることが、日本でも、かつて、北条政子が和訳させて愛読し
たといわれ、徳川家康が出版させるに至った所以でもありましょう。
全四十編が、治世半ばでの反省の話で終わったところに、作者呉兢の
編集の妙も感じられる書物でもあります。
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