第2章 解放直後の在日同胞社会( ∼ 年)

第2章 解放直後の在日同胞社会(∼ 年)
1 光復を迎える
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年8月 日、わが民族はついに日帝の植民地統治から解放され、光復を迎えた。
首都ソウルの中心街は太極旗を振り、愛国歌を歌い、独立万歳を叫ぶ民衆でうめつくされ
た。いや、韓国全土がわが民衆の歓喜に包まれた
のである。
民族の解放は、日本がポツダム宣言を受諾し連
合軍に無条件降伏したことによる。同時に、国内
外でねばり強く展開された独立運動が光復の基礎
となったのである。
光復とともに国内では朝鮮建国準備委員会が結
成され独立国家の建設をめざした。外国に亡命し
ていた愛国志士たちも帰国し、新しい国づくりに
立ち上がった。
解放当時、日本には約 万人の同胞がいたと
いわれる。戦前強制的に連行され徴用されてきた
人たち、また故郷を追われ職を求めて渡日した人
たちである。光復は在日同胞社会に歓びと希望を
もたらした。各地の同胞集落では独立マンセーの
声が響き、歌と踊りの祝宴が開かれた。
▲ 光復を迎え、ソウル南
山に掲揚される太極旗
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軍都・名古屋は度重なる空襲で瓦礫の町と化していた。戦前強制的・半強制的に日本へ
連行されてきた人たちは、焼け野原の日本から故国に戻りたいという思いをつのらせてい
た。やがて「祖国へ帰ろう」は合言葉となり、在日同胞は帰国するために下関・仙崎・博
多・舞鶴などの港にあふれた。 年8月 日から 月 日までの間に約 万人が帰
国したといわれる。そのほとんどが正式の帰還船ではなく、自力で帰国している。
一方、在日同胞社会は差別と貧困状態にあるとはいえ、日本に定着しつつあった。また祖
国に帰っても職のあてもなく、
母国語より日本語の方が得意な2世がすでに誕生していた。
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こうして在日同胞の解放後
の新たな歴史が始まる。
解放当時の在日朝鮮人の
法的地位はどうであった
か。 連 合 国 軍 総 司 令 部
(GHQ)は初期指令(
年 月 1 日 ) に お い て、
朝鮮人は「軍事上の安全が
▲ 解放後、日本から韓半島へ帰国する人々(山口県長門市の仙崎港)
許す限り解放国民として、
必要な場合は敵国民とし
て」扱うと規定した。ところが、 月の婦人参政権を認めた日本の衆議院議員選挙法で
在日朝鮮人と台湾人の参政権が剥奪された。そして、 年のサンフランシスコ講和条
約を期に当事者に意思を問うことなく一方的に日本国籍を剥奪されていく。
しかし、帰国に際して携行できる通貨が制限され、植民地統治による荒廃から住宅・食
料・燃料などの不足は日本より深刻であり、折から洪水や伝染病のニュースも伝わり帰国
ラッシュは弱まった。そして、 年までに帰国した同胞はおよそ 万人に達する。
2 南北分断
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希望と歓びに満ちた光復はただちに独立国家建設に結びつかなかった。 年8月ソ
連軍は北韓に、9月にはアメリカ軍も南韓に進駐し、日本軍の武装を解除した。米ソ両国
によって引かれた北緯 度線はもともと単純な軍事境界線だった。しかし、戦後アメリ
カを中心とする自由主義陣営とソ連を中心とする共産主義陣営との対立が激化するにとも
ない、 度線は政治的境界線とし
て固定していくことになる。
年 月にモスクワで米英ソ
の三国外相会談が開催され、南北の
臨時政府をつくり、中国を加えた4
カ国による最大5年以内の信託統治
の後に独立させることを決定した。
この内容をめぐり南北の世論は
「信託統治賛成か反対か」の真っ二
つに分かれた。一部の共産主義者は
信託統治反対(反託)を明らかにし
▲ 信託統治反対を叫ぶ在日同胞
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たが、ソ連の指令により北韓は信託
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統治案を支持した(賛託)。北韓では反託を主張した民族主義者・曺晩植がソ連軍当局に
より軟禁され、反託運動は封殺された。一方、南韓では民族主義陣営が反託運動を展開し、
民族内部の分裂と対立が激化するようになった。
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年3月にソウルで米ソ共同委員会が開催され、韓国の臨時政府樹立を論議したが、
両者の主張が対立したまま何の成果も得られないまま決裂した。「冷戦」という世界的規
模での米ソ間の対立が韓半島に持ち込まれ、 年に南北にそれぞれ政府が樹立される
結果となった。
3 在日本朝鮮人連盟(朝連)の結成
解放直後日本全国各地に 余りの民族団体が誕生した。その最大の組織が在日本朝鮮
人連盟(朝連)である。
朝連は、民族派、共産系、親日派など左右を網羅した人選がなされ、 年 月 日
東京・日比谷公会堂で全国の代表 , 名が参加して結成大会が行われ「在日本朝鮮人連
盟」が正式に発足した。しかし、会場を両国公会堂に移した翌日の大会2日目、開会直前
に左派系青年が会場に乱入し、「親日派、民族反逆者を組織から追い出せ」という扇動記
事を掲載した『朝鮮民衆新聞』を撒いて、大会に参席した民族指導者に暴行、監禁する事
態となった。この背後には共産系の陰謀があったのは事実であり、朝連の前途に不安をい
だかせた。
いずれにしても解放当初においては、朝連が日本におけるもっとも有力な組織であり、
東京に本部を置き、各都道府県と同胞集落に支部を設置した。
朝連は、帰国を急ぐ同胞たちのために、乗船港までの列車の切符の入手に始まり、家財
道具の整理に至るまで帰還計画の実施にあたって主導権を発揮した。また、貧困者に対す
る援助活動を行うなど、混乱状態にあった占領初期においては準政府的な組織として機能
した。
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朝連愛知県本部の結成大会は、 年 月 日午前9時から名古屋市内の朝日会館で
挙行された。新朝鮮建設、世界平和の恒久維持、在留同胞の生活安定、帰国同胞の便宜と
秩序に万全を期し、日本国民との互譲友誼をスローガンに掲げ、李浩然議長の下に同胞青
壮年ら県下各支部代表が熱烈に議論を展開した。そして、初代委員長に姜信昌を選出した。
年 月、結成の2カ月後に早くも朝連名西支部が結成され、帰国に必要な手続き
斡旋活動を展開した。その後、 月 日には 支部をもつに至った。
朝連には青年部が設置され、その青年部が民主青年同盟となり、在日本朝鮮人連盟名西
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支 部 民 青 が 結 成 さ れ た(
年 月8日)。初代委員長に鄭
煥禧(第 ・ 代韓国民団愛
知県本部団長)が就任し、李普
根、許弼燮(東京商銀初代理事
長)、金斗安、鄭煥麒(第 代
韓国民団愛知県本部団長)らが
参加した。
また、在日本朝鮮人連盟名古
屋本部民青の委員長は趙鏞玉
▲ 在日本朝鮮人連盟西春支部は愛知の牙城といわれた
(鷹羽町時代の愛知韓国人会館
建設委員長)
、財政部長に金麟
九(愛知県韓国人商工会第2代会長)
、社会部長に張永駿(愛知商銀初代理事長)、自治隊
長に金年成(第 ・ 代民団中村支部団長)が就任し、庶務は金権鎬(権尚基民団愛知
県本部団長3期目の外務部長)が担当した(創団期に活躍された人士の( )は後年の役
職を示している)
。
朝連愛知県本部の 年2月当時の勢力図は次の通りである。
①職員数: ②支部数: ③分会数: ④盟員数:, ⑤初等学院数:
⑥生徒数:, ⑦先生数: ⑧経済組合:7 ⑨他団体:5 ⑩事務所は当初
名古屋市中村区泥江町に置き、後に布池電停前へ移る。
4 東海朝鮮青年同盟の活動
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解放直後の民族団体としてこの地方には、東海朝鮮青年同盟の存在が際立つ。 年
月 日、朝連愛知県本部の結成大会と同じ朝日会館で同胞青年男女が集い、東海朝鮮
青年同盟の結成式が開かれた。委員長には尹仁鎬が就き、事務所を名古屋市東区布池町の
太洋ビルに置いた。また、本部の他に名古屋の笠寺、豊橋、京都、山口などに支部を結成
し、
配給物資を確保することにより民族教育の振興(名古屋駅西口に朝鮮語講習所を置く)
や奨学金支給などの文教事業と熱心に取り組んだ。
年1月 日には、祖国の独立を守るために「信託統治絶対反対朝鮮青年大会」を
名古屋城前商工館で挙行、本国情勢に対する姿勢を明確にしている。同年8月 日の解
放記念日をひかえて、東海朝鮮青年同盟本部は内外にむけ次のような声明を発表し、あら
ためてその方向を闡明にした。
「解放以来今日まで1年間我々朝鮮民衆は祖国独立と完全解放を達成すべく努力した。
祖国建設への土台は造られつつある。我々の理想は道義国家であり高度文化国家であ
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る、8・ 記念日をもって我ら
次の道を進まん。①大同団結②
民生問題の解決③文化啓蒙運動
の開始。日本国民があらゆる悪
条件を克服して真の民主国家を
建設され、相結んで世界平和に
貢献することを誓い合おう。
」
そして、 月 日には創立1周
年記念祝賀会を布池の2階講堂で迎
えるとともに、 日と 日の2日
間名古屋市電平田町前の京桝劇場に
おいて韓国映画『家なき天使』や朝
▲ 東海朝鮮青年同盟の幹部、本部前に立つ
鮮国際ニュースを上映するなどの行
(名古屋市東区布池町の太洋ビル)
事を挙行した。
東海朝鮮青年同盟は機関紙『建国』を 年4月に創刊し、3号まで発行が確認され
ており、①在日青年の使命②信託統治反対運動などの内容を掲載した。
ところで、朝連愛知県本部傘下の民主青年同盟愛知県本部の結成式は、他地方とくらべ
て遅れて 年 月8日に挙行された。朝連では名古屋に本拠を置いている東海朝鮮青
年同盟を反動団体と規定して熾烈な闘争をくりひろげたため、東海朝鮮青年同盟は解散に
追い込まれた。
尚、東海朝鮮青年同盟山口県支部は後年( 年4月 日)、祖国の再建と健全なる在
留同胞青年のための運動に挺身する在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)山口県本部と、同
じ青年の立場から青年運動の統一と団結を図るため県下全支部を含む合同大会を開催し、
在留同胞の統一戦線に新しい気運をもたらすものとして注目された。
5 在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)の結成
朝連は、本来様々な政治信条をもった在日同胞によって組織された民族団体であった。
しかし、 年 月 日政治犯として服役していた徳田球一・志賀義雄らとともに日本
共産党の幹部であった金天海が府中刑務所を出獄し、朝連の実権を掌握すると組織は極左
へ急旋回し始めた。
一方、終戦直後から推進されてきた朝連組織が旧親日派と共産系の野合体であることに
不満をもっていた洪賢基・金相浩・許雲龍らがその年の9月 日、同志 余名とともに
在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)を組織して秘密裡に活動してきた。そして朝連が左派
の主導権下に落ちると、旧親日派と反共主義者たちを結集し、東京・芝区田村町の飛行会
館で 月 日「建青」の結成を正式に宣言した。
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建青は次のような綱領を掲げ、 年 月7日の会議で委員長に洪賢基を選出した。
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1.われわれは完全自由独立国家の急速実現のために、朝鮮青年の大同団結を期する。
2.われわれは官治の範囲を簡略にして、自治を拡大し、青年の創造性を最大限に発
揮せしめ、新朝鮮建設に礎石たらんことを期する。
3.われわれは国家的事業推進のために、青年建設隊の編成を期する。
4.われわれは在日同胞の民生安定を期す。
5.われわれは国際親善と世界平和建設に貢献することを期す。
以上の通り建青は組織を整備強化することにより、朝連に対抗する唯一の団体として機
能してきて、GHQ の信頼を受け、少なからず支援も受けた。
このため建青の結成は朝連にとって脅威となり、朝鮮総督府東京出張所「興生会」の建
物接収をめぐって両者が対立し、 月 日朝連の青年隊が神田の建青本部事務所を襲う
事件が起きた。これに建青も果敢に立ちむかい撃退したが、再び朝連は青年隊員 余名
をトラックに分乗させて来襲、双方で拳銃と凶器で一大乱闘が起き多数の負傷者が出た。
これがあの有名な建青の 神田の市街戦 と呼ばれる事件である。その後も朝連は中央で
あれ地方であれ、建青の事務所を襲撃、破壊することが多かった。両者の間には民族主義
か、共産主義かという理念上の相
違が根本にあり、信託統治案の賛
否をめぐって激しく対立した。
建青は一方で母国語講座、歴
史・文化講演会を開くなど文化行
事を活発に実施するとともに、機
関紙『朝鮮新聞』・機関誌『青年』
を発行した。
建青は東京の中央本部を中心と
して関東一円に、その他の地方は
大阪本部を拠点に兵庫・京都に
▲ 在日朝鮮建国促進青年同盟中央本部大会
次々と支部を結成した。
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建青愛知県本部は 年8月 日、すでに民団愛知を結成した人士を中心に名古屋市
南区の呼続小学校で結成大会を開いた。初代委員長に朴哲、副委員長に金溶圭らが選ばれ
た。
9月3日、建青の西北支部(現一宮支部)が結成され、委員長に李且龍を選出したのを
皮切りに組織の拡大化を図っていった。
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しかし、 年6月の9全大
会では、反託精神をもって大韓民
国を支持する方向が打ち出された
ため、統一派は納得せず「在日朝
鮮統一民主同盟」を結成して内部
の分裂と対立が深まった。建青の
中央レベルにおける波動を受け
て、愛知も兵庫・京都を中心とす
る統一派とみなされるなど影響は
全国的に拡がっていった。
▲ 建青愛知県本部結成大会(年8月日)
そして、 年9月 日、大
韓青年団愛知県本部が結成されるに及び、建青愛知はその歴史に幕を閉じることになる。
6 新朝鮮建設同盟(建同)の結成
年 月 日、政治犯として 年間秋田刑務所で服役していた朴烈が釈放され、
月 日東京に上京した。朴烈は各地で民衆の熱烈な歓迎を受け、アナーキスト系はもち
ろん民族主義中立派と旧親日派からも熱い視線を送られ、朝連に対抗できる新しい組織の
結成が期待された。 年1月 日、朴烈を委員長とする新朝鮮建設同盟(建同)が結
成された。
建同の宣言、綱領は次の通りである。
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朝連の民族解放を忘却した信託統治支持の態度はまことに遺憾である。われわれは
あくまでも自主自立の祖国の完全独立のために、新朝鮮の建設をめざし、隣邦諸民族
と協同して、ここにその先駆とならん。
፣ᬻᴥ˧‫۾‬ՁҬᴦ
1.勤労大衆の自由を獲得し、民主主義体制確立を期す
1.社会主義(計画)経済を確立し、国民生活の安定と向上を期す
1.世界恒久平和のためには国際協調を期す
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1.われらは真正な民主主義的建国意識を涵養しよう。
1.われらは民族統一戦線を時急に完成する。
1.われらは世界の大勢と呼応し四海同胞的国際協同を期そう。
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1.われらは民族の自主性を無視する信託統治に反対しよう。
1.われらは勤労大衆の真の同志となろう。
1.われらは在日同胞の現実的諸問題を敏捷に解決する。
1.われらは誠実な各分野の運動を支援しよう。
1.われらは祖国建設の大綱とその具体案を一日も早く完成しよう。
各々がはっきりと異なった立場から出発した建同と建青は一体となり、朝連の妨害に対
抗しつつ、全国的な組織の拡大と強化に着手した。 年、建同は建青とともに3・1独
立運動記念式を東京・日比谷公会堂で開催した。また共催した8・ 解放記念式では「世
界第2次大戦で日本帝国主義の敗戦により解放1周年を迎えたわれわれは感慨無量である
とともに、どこまでも世界の恒久平和のために努力する。自由と平和を希求する人類とし
て8・ 解放記念日はわれわれが永久に記念する意義深い日として、われわれの今後の使
命は重大である」という共同宣言を発表した。
このように建同と建青は在留同胞の左傾化を食い止め、果敢に信託統治反対運動を展開
するとともに、独立運動で犠牲となった殉国戦士の遺骨を本国に奉還する事業、また大阪
の建国学院( 年3月)、京都朝鮮人学校( 年9月)、兵庫県建青の朝鮮阪神学院、
館山民団・朝鮮建国国民学校、佐賀県民団本部・初等学院など、各地に民族学校を設立し
た功績は高く評価される。ただ建青が全国に 地方本部( 年 月当時)を結成した
のに比し、建同は大阪・栃木など5地方本部の組織化にとどまった。
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