35.徳島における「放浪記」の場面 筆者:林 久治 - So-net

35.徳島における「放浪記」の場面
筆者:林
久治
著者:林芙美子
(1903.12.31-1951.6.28)
題目:放浪記
原著発行:1928 年 10 月、「女人芸
術」に連載開始
文庫本発行所:角川春樹事務所
文庫本発行:2011 年2月 18 日
文庫本定価:514 円+税
図1.左:文庫本の表紙。右:徳島市二軒屋町にある林芙美子・放浪記の杭。
(1)前書き
最近、私(筆者の林)はポルトガル人・モラエスを少々研究している。なぜなら、
彼は謎の多い人物であるからである。私はこれまでに、モラエス(1854.5.301929.7.1)に関して、次のような感想文を書いた。第8-14 回:モラエスに関連す
る本の紹介。第 19-22 回、第 25-26 回、第 34 回:「文豪モラエスの徳島における足
跡を辿る」の連載。モラエスはポルトガル国の海軍中佐と神戸総領事との要職を辞
任して、1913 年7月1日から 1929 年7月1日に生涯を閉じるまで、徳島で暮らし
た。彼が徳島に隠棲した経緯を、私は第 19 回の記事で簡単に記載した。今回は省略
するので、興味のある方は第 19 回の記事/fをご覧下さい。
「モラエスの足跡」の記事では、第 19 回は「小松島」を、第 20 回は「二軒屋」
を、第 21 回は「地蔵橋」を第 22 回は「石井」を、第 25 回は「池田」、第 26 回は
「鳴門」、第 34 回では「眉山」を取り上げた。第 34 回の記事を書くために、私は
2014 年 11 月4日に徳島市の眉山を春日神社から登り、中腹の「新四国」の道を通
って、忌部神社から二軒屋駅前に下山した。私は二軒屋駅前の大通りの片隅(p.2
の図2③)に、図1右の写真に示すような林芙美子「放浪記」の場面と書かれた杭
が無造作に置かれていることを発見した。私は放浪記を読んだことが無かったので、
「徳島市二軒屋がどうして放浪記の場面なのか?」という疑問を持った。そこで、
私は放浪記(以後は、本書と書く)を読んでこの杭の由来を研究したので、ここに
発表する。(なお、筆者の林は林芙美子とは親戚関係を全く持っていない。)
1
①
②
④
③
勢見山(眉山の一部)
新四国の道
図2.1931 年の徳島市南部の鳥瞰図(徳島文理大学の初三郎式鳥瞰図:徳島・小松島/gよ
り引用)。中央の赤い線は徳島と小松島港を結ぶ鉄道で、①徳島駅の次ぎに②二軒屋駅が
あった。③は、林芙美子「放浪記」の場所と書かれた杭が 2014 年に置かれていた場所であ
る。④は、モラエスが 1913 年から 1929 年まで住んでいた借家があった場所である。
(2)林芙美子の紹介
私(筆者の林)は、本書の文庫本(図1左)を買って、さっそく読んでみた。内
容は日記形式で、瑞々しい感性が溢れていて詩的には大変良かった。しかし、私は
本書からは、著者が苦労して本書を発表した経緯を具体的に理解することが出来な
かった。著者や本書に関する解説は沢山書かれているので、私の今回の紹介は「徳
島市二軒屋がどうして放浪記の場面なのか?」という問題に焦点を絞りたい。この
問題を解くためには、著者の経歴や本書が書かれた経緯を頭に入れる必要がある。
そこで、私は新宿区中井にある「林芙美子記念館」を見学して、著者の年譜を調
査した。また、高峰秀子主演の映画「放浪記」の DVD を見た。この映画は、大変役
に立った。芙美子の年譜と映画「放浪記」を参考にして、「林芙美子の生い立ちと
東京での貧乏生活」を p.3 に簡単に紹介する。なお、資料は次ぎの通りである。
① 林芙美子記念館:http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=12
②映画「放浪記」1962 年版:東宝創立 30 周年記念映画として公開された。小説菊
田一夫の戯曲『放浪記』を原作としている。監督は成瀬巳喜男(1905-1969)で、林
ふみ子役は高峰秀子(1924-2010)である。本映画のポスターを p.3 の図3右に示す。
③舞台劇「放浪記」:初演時(1961 年 10 月 20 日)の脚本・演出は菊田一夫(19081973)。音楽は古関裕而。主演は森光子(1920-2012)。2012 年 11 月 10 日に森が死
去したため、森主演の本作は 2009 年 5 月 29 日の 2017 回目の公演が最後となった。
本作における森の「でんぐり返し」は有名であるが、映画②ではこのようなシーン
はない。本作のポスターを p.3 の図3左に示す。
2
図3.左:舞台劇「放浪記」(主演は森光子)の 2000 回記念のポスター(2009 年
5月9日、森の 89 歳の誕生日)。左:映画「放浪記」(主演は高峰秀子)のポスタ
ー。本映画は高峰の他に、田中絹代(1909-1977)、宝田明(1934-)、加東大介
(1911-1975)、中谷昇(1929-2006)、伊藤雄之助(1919-1980)、小林圭樹
(1923-2010)、草笛光子(1933-)などの往年のスターが出演していて懐かしい。
林芙美子の生い立ちと東京での貧乏生活
1903 年:芙美子は 12 月 31 日に門司市で出生と言われているが、本人は「5月5日
の下関生まれ」と言っていた。父親の宮田麻太郎は 1882 年に愛媛県周桑郡吉岡村の
生まれで、伊予の紙や漆器などを九州一円で行商していた。母親の林キクは 1868 年
に鹿児島県・桜島の古里温泉の生まれで、キクは実家の旅館に投泊していた宮田と
結ばれた。
1904 年:父親の麻太郎は「軍人屋」という店を下関に出して繁盛する。
1907 年:麻太郎は「軍人屋」の本店を福岡県若松に移す。
1910 年:麻太郎は芸者の堺ハマと懇ろになる。母親のキクは番頭の沢井喜三郎
(1888 年生まれ)と家出し、喜三郎が芙美子の義父となる。二人は芙美子を連れて
北九州の各地を木賃宿に泊まりながら行商する。
1916 年:芙美子 13 才の早春、一家は尾道に移住し行商をしながら約6年間過ごす。
芙美子は小学5年生に編入。
3
1918 年:芙美子は尾道高等女学校に入学。この間、小学校では小林正雄先生が、女
学校では森 要人先生、次いで後任の今井篤三郎先生が芙美子の文才を見抜き、さま
ざまな支援をした。又、実父の援助もあったと言われている。
1922 年:3月、芙美子は 19 才で尾道高女を卒業。卒業後、明治大学在学中の岡野
軍一を頼って上京、雑司が谷で同棲。事務員、女工、女中、女給など多くの職を
転々。やがて、両親も上京する。
1923 年:大学を卒業した岡野は故郷の因島に帰り、家族の反対で芙美子との結婚の
約束を破る。9月1日の関東大震災で一家は尾道に帰る。芙美子はこの頃から「放
浪記」の原型となる日記を書き始める。
1924 年:芙美子は一人で上京し、多くの職を転々とする。3月、詩人で新劇俳優で
あった田辺若男(1889.5.28-1966.8.30)と同棲。6月、田辺の公演を見るが、相手
役の山路千恵子が愛人だと分かり、田辺と分かれる。東洋大学生と本郷の下宿屋で
同棲。12 月、詩人の野村吉哉(1901.11.15-1940.8.29)と親しくなり同棲。
1925 年:野村と道玄坂や太子堂で住むが、二人の原稿は殆ど売れず、芙美子の稼ぎ
に頼る貧しい生活や、肺患のあった野村は暴力的であったので、夜逃げをする。
(なお、どの文献にも明示されていないが、「放浪記」を読むと、この年の 12 月に
芙美子は母親が旅人宿を営んでいた徳島に帰ったことが分かる。)
1926 年:1月末、野村に恋人ができたため、芙美子は同棲を解消し新宿のカフェー
に家出。12 月、芙美子は本郷で画学生の手塚緑敏と同棲。(緑敏は芙美子の秘書役
に徹する。後年、二人は結婚して林姓を名乗る。)
1928 年:10 月、25 才の芙美子は「女人芸術」に「放浪記」を連載し始め、極貧生
活から解放される。
1930 年:7月、「改造社」より「放浪記」が刊行される。50 万部が売れて大ベスト
セラーになり、芙美子は一躍「流行作家」となる。
1933 年:3月、父母が上京して同居。
1939 年:12 月、下落合4丁目に土地を購入。
1941 年:8月、下落合4丁目に新居が完成。この豪邸は戦災に遭わず、現在は「林
芙美子記念館」となっている。
1943 年:12 月、新生児の泰を養子に迎える。
1951 年:6月 27 日、「主婦之友」連載の「名物たべあるき」の取材で2軒を食べ
歩いて帰宅後、翌 28 日午前1時ころ心臓麻痺のため急死。48 才。
なお、林芙美子の周辺の人たちの消息は以下の通りである。養父、沢井喜三郎:
1933 年没、46 才。実父、宮田麻太郎:1945 年没、64 才。母、林キク:1954 年没、
87 才。夫、林緑敏:1989 年没、88 才。養子、林泰:1959 年没、17 才。
以上の「林芙美子の生い立ちと東京での貧乏生活」を記載するため、以下の文献も参考に
した。林芙美子の実説「放浪記」/l、林芙美子の主な年譜/l、林芙美子の周辺の人たち/l
(3)林芙美子の徳島における足跡を辿る
前章で書いたように、私の今回の紹介は「徳島市二軒屋がどうして放浪記の場面
なのか?」という問題に焦点を絞りたい。本書の「一人旅」の章の p.159 で(本書
4
の文章を緑太文字で引用する)、芙美子は「あんまり昨日の空が青かったので、久
しぶりに、故里が恋しくて、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。今朝はもう鳴
門の沖だ。」と書いている。これは、1925 年の 12 月の日記である。
この「故里」とは、「尾道ではなく、その当時に母親が旅人宿を営んでいた徳島
市である」ことが本書の前後の文章で分かる。戦前、東京から徳島に行くには、東
京から東海道線で大阪に行き、大阪の天保山港から徳島の外港・小松島行きの船に
乗るのが一番便利で安い経路であった。朝に東京を発つと、夕方には大阪に着き、
夜になって天保山港から小松島行きの船に乗ると、船は早朝に鳴門の沖を通り、朝
には小松島港に着く。小松島港から汽車に乗れば、約 15 分で徳島市南部の二軒屋駅
(図2の②)に着く。
若い女性が一人で本書に書かれていたような極貧生活を東京で送っていると、そ
の末路は次ぎのようになることが想像に難くない。①肺病などの病気になって、若
死をする。②精神に変調をきたし、自分自身か恋人に危害を加える。③売春婦にな
って、挙句の果てに行き倒れる。④スリや置引きなどの常習犯になり、刑務所暮ら
しをする。⑤共産党員になって、特高に拷問されて死亡する。現在であれば、都会
の片隅で孤独死を遂げることになりそうである。
芙美子がそうならなかったのは、もちろん彼女の努力の賜物であるが、母親譲り
の逞しい生活力や、「放浪記」が大ベストセラーになった僥倖に依るのであろう。
さらに、芙美子には貧しいながら両親があり、精神的に追い詰められた時には故里
に帰ることができたことも、幸いしている。本書の p.161 で、芙美子は「お母さん
は徳島で古ぼけた旅人宿を始めた。しっかりした故郷をもたない私達親子三人が、
最近になって土についたのが徳島である」と書いている。
私(筆者の林)は、「芙美子の両親はその日暮らしの行商人なのに、どうして徳
島の旅人宿を手に入れたのであろうか?」との疑問を持った。私は次ぎのような可
能性を思い付いた。「芙美子の両親は旅人宿に泊まり歩いて行商をしていた。彼等
が利用する旅人宿には、西日本の各地から来た多くの行商人達が泊まり会って、情
報交換をしていたのであろう。その中で、徳島の二軒屋にある旅人宿を経営する人
がいなくなったので、誰か引き受けてくれる人はいないか、との話が出たのではな
かろうか。鹿児島の温泉旅館に生まれた林キクは、自分は旅館業の経験があるので
と言って、徳島の旅人宿の経営を引き受けた」と考えれば辻褄が合う。
徳島の二軒屋で、芙美子の母親が営んでいた旅人宿の場所が、図1右の杭が建っ
ていた所(徳島市二軒屋町 2-28 にある田中時計店に隣接する空き地)であろう。以
前の写真/mでは、この杭は地面に打ち込まれていた。しかし、図1右の写真をよく
見ると、杭は地面から掘り出されて道端に放り出されている。これでは、この杭が
無くなるのは時間の問題であろう。徳島の人々は他国者には薄情で、文豪モラエス
の旧宅跡にも、現在は一般住宅が平気で建っていて、モラエスの碑は片隅に追いや
られている。徳島市の当局は、徳島市の貴重な史跡をもっと大切に保存すべきであ
る。
本書の p.161 で、芙美子は徳島について次ぎのように書いている。
北海道に行ってもう四ケ月あまり、遠く走りすぎて商売も思うようになく、四国に
帰るのは来春だと云う父のたよりが来てこっちも随分寒くなった。屋並の低い徳島
の町も、寒くなるにつれ、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川
5
の水がうっすらと湯気を吐くようになった。(中略)女の美しい川の綺麗なこの町
隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は徳島での春秋を迎えた事がある。だがそれも
小さかった私…。(しかし、モラエスは「徳島では醜女が多い」と書いている。そ
の詳細を、11 ページの最後に記載する。)
上記の芙美子の文章より、彼女は子供時代にも徳島でかなり長期間住んでいたこ
とになる。私はこの事に関する文献を知らない。先日、私は林芙美子記念館を見学
したが、「彼女が子供時代に徳島で過ごしたことがあった」ことを示す資料を発見
することができなかった。泪町と放浪記/lと題する興味深いサイトがある。このサ
イトの著者は次ぎのように書いている。「林芙美子は東京での生活に疲れ、徳島で
商人宿を営んでいる母のもとに帰ったと放浪記の一節にある。そこが泪町だとの風
説に、私は以前から強い関心を抱いていた。」
このサイトの著者は徳島在住で、「徳島の魅力」を紹介している。図4左は、こ
のサイトにある「泪町」の地図である。この地図によれば、泪町は二軒屋の大通り
の裏にある古い町並みで、花街にあるような家(図4右)も残っている。この著者
によれば、「放浪記における林芙美子徳島滞在の確定日について」と題する新垣宏
一氏の論文があるが、結論は書いてないそうである。
③
図4.左:徳島市二軒屋地区にある通称「泪町」の地図。③は、林芙美子の杭があ
る場所。右:現在も、泪町にはこのような古い家がかなり残っている。
本書によれば(p.162-163)、徳島に帰った芙美子は、母親の「お前もいいかげん
で、遠くに行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと
云う人があるぞな。」との勧めで徳島市役所に勤める男とお見合いをした。しかし、
彼女は「男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ」と感じ、「東京へ行
こう!」と決心した。泪町と放浪記/lによれば、芙美子は徳島の新聞記者に放浪記
の原稿を見せたが相手にされなかったそうである。
本書の「古創」の章では(p.167)、年が明けて 1926 年の1月に、芙美子は「東
京へ旅立つその日、青い蜜柑の初生なりを籠いっぱい入れて、四国の浜辺から天神
丸に乗りました」と書いている。四国の浜辺とは小松島港のことであろう。船が大
阪の天保山に着くと、芙美子は「東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で
暮らしてみよう」と思った(p.168)。
芙美子は大阪市の職業紹介所で毛布問屋の女学校卒業の事務員として採用された。
彼女はこの問屋に住み込んで働き、2月までの様子を本書の「古創」の章に書いて
6
いる(p.171-181)。私(筆者の林)は、「この仕事は堅実で安定している。芙美子
はなぜこの仕事をやめて、東京に舞い戻ったのか?」との疑問を持った。多分、彼
女には大阪の仕事が退屈であったのであろう。
本書の「女の吸殻」の章では(p.182-185)、芙美子は 1926 年の7月には東京で
男の下宿に同棲していた。そこで、彼氏への女の手紙を発見し、新宿のカフェーに
飛び出している。芙美子の年譜によれば、この事件は 1926 年1月に起きている。本
書は事実を題材として書いた創作なので、事件の月日が違っていても問題にならな
い。
なお、「林芙美子+徳島」で検索すると、「二軒屋」の記事も少しはあるが、
「白地温泉の小西旅館」の記事が大部分である。芙美子は 1941 年5月 26 日から十
日間、「婦人公論」に連載する「国土巡礼・扁舟紀行」の取材のために、徳島県三
好郡(現・三好市)の白地温泉にある小西旅館に滞在している。彼女は小西旅館と
その付近の風景が気に入ったらしい。現在でも、小西旅館では林芙美子の資料を大
切に保存している。詳細は、「林芙美子と小西旅館/l」のサイトをご覧下さい。
(4)モラエスと林芙美子が居た二軒屋
図5に、徳島駅から見た眉山の写真を示す。勢見山は眉山の一部で、勢見山の山
麓に徳島市二軒屋地区がある。
勢見山
眉山山頂
図5.徳島駅上のホテルクレメントから見た眉山。眉山山頂は海抜 277mであるが、
最高地点は海抜 290mである。眉山の一部の勢見山は海抜 109mである。
7
前回のモラエスの徳島における足跡(7)眉山/fで記載したように、モラエスはポ
ルトガル国の海軍中佐と神戸総領事との要職を辞任して、1913 年7月1日から
1929 年7月1日まで、徳島で暮らした。彼の徳島における住居は伊賀町3丁目で、
図2の④で示す場所である。ここは、二軒屋にも近く、彼は二軒屋の地もよく逍遥
していた。芙美子の母が営んでいた旅人宿は、図2の③で示す場所である。特に、
モラエスは和菓子の老舗の「日の出楼」の「和布羊羹」が好物で、「日の出楼」に
はしばしば出入りしていた。「日の出楼」はモラエスの在徳時代から現在まで、③
の場所から二軒屋の大通りに面して丁度向かい側にある。
従って、芙美子が 1925 年の 12 月に徳島市二軒屋町の母の旅人宿に帰っていた時
には、モラエス翁は二軒屋の街をうろついていたはずである。モラエス翁は芙美子
の存在に気付いていなかっただろうが、芙美子の方は変な外人の爺さんが二軒屋の
街をうろついているのを目撃したはずである。図6に、戦前と現在の二軒屋付近の
町並みと、芙美子の母が営む旅人宿の向かいにある「日の出楼」の写真を示す。モ
ラエスは、彼の代表作である「徳島の盆踊り」で二軒屋付近の風景を次ページに示
すように記載している(彼の文章を緑太文字で、林の説明を黒文字で書く)。なお、
詳細は、第 20 回の記事を見て下さい/f
②
①
④
③
図6.①戦前の二軒屋付近の町並み。「放浪記」にあるように、屋並の低い町であ
る。②2014 年 11 月4日の二軒屋付近の町並み(勢見山の中腹から撮影)。③二軒
屋の大通りで、芙美子の母が営む旅人宿の向かい側にある和菓子の老舗「日の出
楼」。④「日の出楼」の羊羹各種。モラエスは「和布羊羹」を好んだ。
8
「徳島の盆踊り」(p.59-62):夏の晴れた日の午後‐正確に言うと、1913 年7月4日の
午後‐舟を下りて、私のために用意されていたごくささやかな住宅に歩いて行ったときに
受けた徳島の第一印象は、これ緑…という圧倒的な、だが快い印象であった!陶酔した瞳
の中にどっと入りこむ緑。ふるえる鼻孔にどっと流れ込む緑。緑、緑、緑一色!(中略)
旅に疲れ、病気でいささか衰弱してゆっくりゆっくり歩いてゆく二軒屋の長い道沿いの左
手に、家並みを見下ろすように、一面草のビロードでおおわれた、松の影濃い美しい山
(勢見山のこと)がもったいぶった様子で聳えている。そして、その山とちかくの田畑か
ら繁茂する植物のいがらっぽいにおいが鋭く私の鼻をつく。創造者、変容者としての永遠
の営みにいそしむ母なる自然から発散する生の神秘的醗酵物の香気のように。緑、緑、緑
一色! 激しく幻惑するかのように不意に襲ったこの緑の印象は、しかしながら先述のご
とく、快いものであった。なぜなら、今思うに、私の弱り切った精神とは決定的に相容れ
ないことがかねてよりはっきりしていた文明化された大都会での生活、偽りの外観で飾っ
たその洗練された生活の苦渋とはまったく無縁の田園の簡素な風景を前にして、私は独立、
自由、平安の無言の暗示によって純化されていたからである。
「徳島の盆踊り」(p.123-124):私の家の前面には手入れの行き届いた蜜柑畑があり、
数日前までそこから妖精の庭の金のりんごをおもわせる何百個というみごとな果実が黒っ
ぽい葉陰にのぞいて見えた。蜜柑畑に続いて、視界を遮るのは、神社が散在し、松におお
われた常緑の、南北に走る険しい山である(眉山のこと)。右手、やや離れたところに、
戦争の神である八幡神社がある。私の家からは、周囲をめぐる深い森が見えるにすぎない。
左手、目に入る寺社のうちのいくつかを挙げると、毘沙門(光仙寺)とその付属墓地、観
音寺とその付属墓地、山頂(本当は、勢見山の中腹)に忌部神社、その下方に、おそらく
町でいちばん美しい金比羅神社がある。確かに町ではある。しかし、ここで私の目に入る
ものは町というよりも田舎である。
私(筆者の林)は、モラエスと林芙美子が 1925 年に同時に見たであろう二軒屋の
町並みと神社仏閣を、2014 年 11 月4日に撮影してきた。本ページの図7と次ペー
ジの図8にそれらの写真の一部を示す。
図7.左:二軒屋の大通りに建つ「忌部神社」の参道入口を示す石柱。背景の山は勢見山。
この入口の奥には長くて急な石段があり、勢見山の中腹に「忌部神社」の本殿に至る。
右:勢見山の中腹にある「忌部神社」の本殿。社伝によれば、神武天皇 2 年 2 月 25 日に、
阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、徳島県麻植郡山崎村(現・吉野
川市)に鎮座していた。1892 年 5 月 15 日に徳島市勢見山の現在地に遷座した。1945 年の
戦災により主要建物をほとんど焼失した。現在の本殿は 1953 年に再建されたものである。
9
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
図8.眉山の山麓にある神社仏閣の幾つか。写真①-⑧の説明は次ぎのページにあります。
10
図8.の説明:①二軒屋の大通りから見た、金比羅神社の鳥居と石燈籠。この燈籠は 1839
年に建設され、図9の案内板によると日本一の高さだそうである。大正時代までは、この
燈籠は紀伊水道を通る船舶の灯台の役目をはたした。②金比羅神社の鳥居をくぐって石段
を登ると本殿に至る。モラエスの徳島における足跡(2)二軒屋/fで記載したように、蜂
須賀家政(1558-1639.2.2)は蜂須賀小六の長男で、1586 年に豊臣秀吉から阿波国を与え
られた。阿波に入国した家政は徳島城を築いて藩庁とした。家政は、徳島城の南方を鎮守
するために、地蔵橋駅(二軒屋駅の約5km南方にある駅)の近くにある「勝占神社」の
境内にあった金比羅神社を二軒屋に移して、壮大な神社を建立した。ついでに、家政は
「勝占神社」の裏山である「勢見山」の名称も、二軒屋の金比羅神社の裏山に移転した。
なお、「地蔵橋」の「勢見山」は、源義経が阿波の勝浦に上陸して、この山から閲兵した
故事により名付けられた。③「勢見山観音寺」の山門。④勢見山観音寺の本殿。モラエス
の徳島における足跡(3)地蔵橋/fで記載したように、地蔵橋駅の近くにある地蔵院東海
寺には、モラエス、およね、コハルの位牌が祀られている。東海寺は元々観音寺と称して
いた由緒のある寺で、空海や義経も当寺に立ち寄ったと云われている。蜂須賀家政は 1616
年に当寺の本尊千手観音像を現在の徳島市勢見町に移して、そこに新たに勢見山観音寺を
建立した。地蔵橋の元の寺は、本尊の脇侍であった地蔵菩薩を本尊とし国伝山地蔵院東海
寺と称するようになった。⑤八幡神社の鳥居と山門。当社は 1697 年の創建で、図2にある
光仙寺の左手(北)の眉山山麓にある。⑥国瑞(クニタマ)彦神社は八幡神社の北隣にあ
る。十一代徳島藩主の治昭公が藩祖の家政公をしのび国瑞彦の神号を受けて、1806 年に当
社を建立した。⑦瑞巌寺の山門で、当日は紅葉には早過ぎた。瑞巌寺の正式名は鳳祥山瑞
巌寺で、八幡神社の北の眉山山麓にあり、徳島市内きっての名刹である。かつては、勝瑞
城下にあったが、1614 年に当地に移された。モラエスは瑞巌寺を好んで、よく訪れてい
た。⑧眉山山麓には数多くの涌水がある。モラエスが徳島に住んでいた時代には、徳島
市民の飲料水にはこれらの涌水が用いられていた。瑞巌寺の境内にも、「鳳祥水」と呼
ばれる涌水があり、現在でも名水として採取されている。
図8の神社・仏閣にあった案内板のうちの二つを図9に示す。
図9.左:金比羅神社の石燈籠の案内板。右:瑞巌寺にあった注意書。「あそばれん」は
徳島方言で、「あそばないで」と言う禁止語である。名刹・瑞巌寺の注意書に、方言が使
われているのは、ほほえましい。なお、徳島では「せられん」と言う方言がよく使われる。
由来は、古語の「せられな」から「せられん」に変化したと考えられている。使用例を次
ぎに示す。「TPPは日本国の主権と日本国民の権利を侵害する不平等条約やけん、絶対
に締結せられん!」
最後に、モラエスの徳島の人々に対する印象を記載する。彼は「徳島の盆踊り」
(p.98)で次ぎのように書いている:徳島の人たちは、ふつうの日本人よりも醜いと私は
思う。醜女が圧倒的に多い中で、雑草のあいだにすばらしい花が咲くように、ときとして
美しい女性が目につくことがある。小麦色の肌、たぐい稀なほどきらきら輝くつややかな
黒い目をした小柄な女性が。
(記載:2014 年 12 月 30 日)
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