「物、事、考え」を伝える文明言語について考える

「物、事、考え」を伝える文明言語について考える
(01)僕はウナギだ:これは be 動詞?
仲間数人と、ガヤガヤと会社の近くの居酒屋に昼飯を取りに行く。おネエさんに次々と注文の声
が飛ぶ。”僕は、ウナギだ”、”俺、カツ丼”。
仲間の中に、日常会話には不自由しない程度に日本語ができる欧米人が交じっていたら、ビック
リするだろう。「山田さんは人類だと思っていたのに、ウナギなんですか!」と。そりゃそうだ。「僕
はウナギだ」を英語に直訳すると、「I am a eel.」となる。
「僕はウナギだ」が、「僕は(サブジェクト)ウナギを(オブジェクト)食べます(食べたい、選択しま
す)(動詞)」というセンテンスが変形したものであることは、日本語を母語とする人であれば誰もが
わかっていることである。その証拠に、何分か後には、間違いなく、山田さんの前に「うな丼」が運
ばれてきた。おネエさんは山田さんが「ウナギ」であるとはみなさなかったのである。
もっとも、山田さんが日和見主義で、いつも意見がはっきりしない、ウナギのように捕まえどころの
ない人であれば、「山田はウナギだ」と上司が評することにもなる。この場合には、「山田(サブジェ
クト)はウナギ(のようにヌルヌルととらえどころのない)人である」という意味であるから、山田さん
の属性を定義したセンテンスとなる。
英語の「be」動詞は、基本中の基本の動詞であり、様々な役割を持つ。その第一が、サブジェクト
の属性を定義する仕事となる。従って、上司の山田評を英語に直せば、次のようになるだろう.「M
r. Ymada is a difficult person who does not show in open what he wants. He looks like a
eel.」
この第一の「be」動詞にあたる日本語は、「サブジェクトは何々である(です)」の「である」となるが、
この使い方は誰も気にしていないので、場合によれば「僕はウナギだ」という表現も出てくることに
なる。(05.9.3. 篠原泰正)
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(07)トンネルを出たのは誰だ:「雪国」の英訳
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。川端康成の名作「雪国」の出だしである。
関東に住んでいて、冬季に群馬県側から新潟県側に鉄道で旅行をした経験がある人には、この
叙述に出会っただけで、光景が眼に浮かぶはずだ。からっ風が吹く晴天の群馬県から長い三国ト
ンネルを出た途端に、窓の外は一面の銀世界である。車内から「ホウッ」というため息、あるいは
歓声が湧くだろう。 沖縄の人に、この光景を想像してくださいと言っても無理だろうけれど、関東
と信越という狭い地域の文化を共有している人には、この文章の説明は要らない。読むだけで、
自分も車中の一員のような気になるはずだ.
この文章が、英語に翻訳されると、どういうことになるのだろうか.
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
著名な日本文学者であるサイデンステッカー教授(Edward G. Seidensticker)の訳(Snow Countr
y)である。日本語文章を理解することにかけては、並みの日本人よりも数段レベルが高いであろ
う教授も、英語に訳すとなると、さて、トンネルを出たのは誰にするか、迷ったことであろう。トンネ
ルを出たのは川端さん、あるいはその分身である主人公に決まっている。何も問題ない、と我々
は考えるだろう。しかし、英語で叙述するとなると、主人公が「自力」でトンネルを抜け出たわけで
はなく、当然汽車に乗っていたわけだから、実際にトンネルを出たのは汽車(列車)ということで、
これを主語に仕立てるしかない。そこで、上に示した訳となる.
日本の情緒を理解することに不足は無いはずの教授の訳にしては、味も素っ気も無く、事実の正
確な記述だけではないか、「先生、もう少しどうにかなりませんかね」という感じだ。この英語文章
を私の3X3モジュール・コンポーネント分割で示すと以下のようになる:
The train
came out
of the long tunnel
into the snow country.
列車がトンネルから出てきてスノーカウントリーに突っ込んでいった動きがよく分かる.もしこの文
章が小説ではなく、設計仕様書や特許仕様書といった文書の中のそれであったとしても、さらに具
体的な説明を付け加えれば形になるだろう:
(1)列車は蒸気機関車か電気機関車が引っ張っていたのか、明確に規定して
(2)トンネルの長さはどれくらいか、列車の速度はどれくらいか;そこからどれくらいの時間、暗闇
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の中を走っていたかを示し
(3)トンネルに入る前の地域の風景はどうであったか;雪は降ってなく晴天であったことを記述す
る.
いずれにせよ、上掲の文章の前後に上記のポイントを付け加えれば、事実関係の記述は完全な
物となるだろう。そうなると、小説と「仕様書」の境目は何だ、という疑問が出てくる。
サイデンステッカー博士は特許の仕様書(Patent Specifications)も書いていたのかしら。
(05.9.8. 篠原泰正)
(79)名こそ惜しけれ:日本人の美学の核
若いころ、ヨーロッパで、宗教とはいったい何なのかを考えさせられた。
お前は日本人だから仏教徒かとの質問に、仏教の教えに接したこともない存在としては、「ノー」と
答えざるをえない。しからば無神論者なのか、と聞かれると、そもそも神の存在など気にもしたこと
がないので、神がいるとかいないとかの話には答えようもない。ここらで問いかけてくる相手も私と
いう存在をどのような範疇に当てはめていいのかわからなくなるし、こちらも、神がいようがいまい
がどうでもいいではないか、なぜそのような「些細」なことにこだわるのか、とこれまた西欧人の考
えに理解が及ばない。
キリスト教を信じる彼らにとって、信じる宗教を持たない人間は野蛮人であるか、あるいは得体の
知れない存在とみなすということは、既にいくつもの書物で承知はしていたが、自分はなぜそうな
のか、宗教なしでも別に何の支障もないことを適確に表現することはできなかったし、彼らがなぜ
宗教なしの人間を理解する基礎を持っていないのか、理解できなかった。
後になって、司馬遼太郎さんの本を読むことで、問題のひとつは解決した。
司馬さんがどのように記述されていたか、確かではないが、宗教は獰猛な人間を飼いならすため
に必要とされるという言に出会って、霧が晴れた。彼らには宗教が必要であり、自分たちが必要と
しているから、相手も必要としているに違いないとする。だから宗教を持たない存在は、自分たち
が宗教を持たなかった時の状態と同じく「野蛮」であり、だからこの「福音」を伝授したいという、お
節介になるわけだ。
ところが、日本人は、宗教なしでも別に獰猛でもなく、野蛮でもなく、近代文明も受け入れているし、
知識教養も高く、礼儀も正しい。いったいどうなっているのだ、ということになる。
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ここまで書いてきたようにこの疑問に当時は、私は答えられなかったのだが、今ならできる。
われわれ日本人は、人間存在の基盤に、「名こそ惜しけれ」という美学を持っているからこそ、キリ
スト教を信じる西欧人や、そのほかユダヤ教、イスラム教、ヒンヅー教等を信ずるどのような人々
に対しても、同じ土俵で毅然と相対(あいたい)することができるのだ。
「名こそ惜しけれ」とは、いうまでもなく坂東武者の中に育った「美学」であり、生きるうえでの基本
基準とでもいうべきものである。もちろん宗教ではなく、また哲学という概念にもあわない。この概
念を定義するのは難しいので、私はこれを「美学」と呼んでいる。生きるうえでの、美意識に関する
感性に基づく、基本的な姿勢とでもいっておく。
鎌倉時代から、現日本の原型は形作られたのだから、その社会におけるエリート層の武士の美学
は次第に日本人全体のものとなっていく。名こそ惜しけれ、自分の行うことには自分が責任を持つ、
ということである。恥ずかしい仕事はできないということである。自分の名にかけて、物事はキチン
とやるという自意識を高く持った誇り高い存在を支えている美意識なのだ。
農民が作る農産物、職人が作る制作品、これらを見れば、日本人は庶民の隅々までこの「名こそ
惜しけれ」の美学を持っていたことがわかる。日系移民という、高等教育を受けたわけでもなく、熱
烈な仏教徒でもない普通の民衆が海外の地であれほどの評価を得たのも、この美学が根底にあ
ったからに違いないと私は確信している。
この美学は、戦後、高い品質の工業製品を生み出す原動力にもなった。工場の現場の一人一人
が無意識であってもこの美学を持っていたがために、自分が関係した製品は、恥ずかしくないもの
を市場に出すのだという信念があった。今もあるはずだ。
今なら、私は、外国の人々に説明できる。俺たちには「名こそ惜しけれ」の美学があるから、宗教
はなくとも、まともな行動が取れ、まともな社会を経営することができるのだと。
ただし、外国語で、このことを説明するのは相当に難しい。あれやこれやの実例を示しながら説明
していかないと、理解を得るのは大変な作業となるだろう。
ともあれ、われわれ日本人がこの「名こそ惜しけれ」を忘れない限り、というより、まだ維持してい
る人々が先頭に立って行動すれば、21世紀のこれからの困難な局面において、世界のパスファ
インダー(pathfinders)として尊敬を受け、世界の存続に貢献できることになるだろう。
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論理の展開の根底にはまともな哲学、人間とは何、どうあらねばならないかの原理原則がなけれ
ばならず、幸いなことにわれわれはその原理を「名こそ惜しけれ」という一言で表現されるもので
持っている。(06.1.1. 篠原泰正)
(99)八代海軍大将、あるいは明治期の仕様書
司馬遼太郎さんの「ある運命について」(中公文庫)を読み直ししていて、以前は読み飛ばしてい
た箇所に目がとまった。
「文学としての登場」と題するエッセイの中で、明治期の八代海軍大将の書簡について書かれて
いる。
明治23年、「かれがウラジオストックに語学留学していたとき、同地のロシア式暖炉(ペーチカ)に
感心し、その構造を広島の知人に書き送っている。」
「八代は明治初年に築地の海軍兵学校に入った。ここで機械を学び、海洋とか気象といったことに
ちなむ自然科学を学んだ。このことが、同時代の知識人の文学的認識癖からかれを離れさせ、も
のごとを写実的にとらえる能力をもたせるにいたっている。」
「かれはたかが五尺ばかりの暖炉の構造をのべるにあたって、その前に、広大なシベリアを説き、
ややちじめて斜面の多いウラジオストックの地形をのべるのである。この地での多くの家屋の基
礎は、斜面を平にすることなく、ななめのまま据えられている、とし、ついで家屋構造におよぶ。そ
の叙述の措辞、表現が当をえていて建築家がこれをよめばそれだけでロシア風民家が建てられ
そうにさえ思えるほどである。八代は文章表現の上での家屋を建ておえてから、ようやく暖炉の位
置、構造にいたる。」
これはまさにペーチカの仕様書そのものではないか。
シベリア、ウラジオストック、家屋、と全体を描いてから直接の対象である暖炉の記述がなされる。
現代の欧米の仕様書の書き方と同じである。
「散文の持つ一つの機能が、ここではほぼ完全に果たされており、このように、地理学的、もしくは
土木建築的な対象をつかみとって読み手に正確につたえる散文は、江戸期においては不完全に
しか存在しなかった。それを十分に表現しうる文章が、明治二十年代初期において一海軍軍人の
私信のなかで成立しているということに、われわれはおどろかざるをえない。」
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明治23年(1890年)、今から110年以上前に、司馬さんが驚くほどの正確な状況レポートを日
本語で書ける人もいたわけだ。本人の資質だけでなく、自然科学系の学問とロシア語を学んだこ
とが、このような成果を生むことにおおきな力となったことは容易に想像できる。当事の兵学校の
勉強はほとんどが英語の教科書でなされたであろうから、八代大将の頭の中には自然に、論理
的な組み立てが入っていったのだろう。
しかし、驚きは、思考の展開だけでなく、それを「日本語文章」で表現できているというところにある。
*現物をよんでいないので、司馬さんの受け売りだが、間違いないだろう。
100年以上前に、八代大将がきわめてまれなケースであったにせよ、現代の仕様書の展開様式
と同じ流れで、しかも正確に記述されていたのなら、われわれはこの100年間何をしていたのだ
ろう。進化論風にみれば、退化しているのではないか。まともな「仕様書」が書ける人がどんどん
減っている、という観察が正しいとすれば、100年前の八代さんのレベルをわれわれは越えてい
ないことになる。
「建築家がこれを読めばそれだけでロシア風民家が建てられそう」とは、まさに仕様書の文章の極
意であり、仕様書においては、図面の援用無しに、文章だけでどれだけ読み手の理解が得られる
かが、勝負どころである。
100年以上前に八代さんが書くことができたのだから、われわれが日本語で明確に、論理的に、
「仕様書」を記述できないわけがない。それができていなければ、それはひたすら、われわれの怠
慢、勉強不足ということになるだろう。(06.1.30.篠原泰正)
(118)論理的文書、あるいは日本語の流れ
一つの文書を論理的に構成し、論理的に流していくには、三箇所で注意をする必要が有る。まず、
文書全体の構成において、その文書で述べるサブジェクト・マター(subject matter)が大きな全体
の中でどの様な位置に在るかを明らかにし、述べる事項の概要を示し、そして具体的な詳細説明
に移る構成をとる。
二番目に、それぞれのモジュール(パート、部分、パラグラフ、節)において、重要事項から枝葉へ、
抽象的一般的から具体的説明へと流していく。
三番目に、一つ一つの文章において、同じく重要事項から枝葉へ、抽象・一般から具体へと記述
していく。
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と、記したが、三番目の流が実現できるのは英語など欧州言語を用いた場合であり、日本語を用
いると、話はそうはいかない。日本語の文章は、枝葉末節の事項の説明のあとから幹の記述にな
るのが、言語として自然な流れであるからである。
ここのところに、日本語で論理的に文書を展開する上での障害がある。
一番と二番は、理性によって、欧米の文書と同じ構成と流れとすることができる。グローバル・スタ
ンダードとは言いたくないが、そのように構成するのが、これまで世界をリードしてきた欧米流のや
り方であり、また、文化を異にする人々の間で、理性で互に理解しあうためには、この流れ方が、
少なくとも今現在では、最も確かなやり方といえる。
ところが、日本語で文章を構成しようとすると、途端にその流を逆にせざるをえない。全体を構成
する論理的リズムの上では文章を記述できない。リズムが壊れることは、記述していく上で、心に
大きな負担となる。大から小へ、主から従へ、一般から具体へと文書を構成しているのに、そのコ
ンテンツである文章の記述の順序がそれとは逆になっている。
僕ら日本人が論理的文書をつくることを苦手としている一つの原因に、この全体構成の流と個々
の文章の流れの相反があるのだろう。僕らは論理的文書を、リズムに乗ってすいすいと書いてい
くわけには、なかなか行かないのだ。
とはいえ、これは、苦手だからと放置しておいてかまわないぐらいの小さな課題ではない。それど
ころか、これからの世界で生きていくためには、また世界をリードする役目を担っていくためには、
論理的な文書を作成するという課題は、逃げることのできない、途方もなく大きな課題なのだ。
黙って、高性能、多機能、小型軽量、高品質の製品を作っているだけで事が済んだ昔が懐かしい。
(06.3.3. 篠原泰正)
(228) 丘浅次郎、あるいは明治期の文章、 明治の人が書いた仕様書
司馬遼太郎さんの「この国のかたち」第6巻に言語についての感想という小論がある。その中で興
味深い人物が出てくる.丘浅次郎という明治初年に生まれた生物学者がそれである.私は浅学ゆ
えにこの人のことはまったく知らないが、司馬さんによれば、彼は作文で大学予備門で落第したの
だそうだ.
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しかし、「丘の文章は、地理の教科書のように事物を明晰にとり出し、叙述も平易である.たとえば
「善と悪」(大正14年)という高度な倫理学的主題について生物学の立場から展開した文章などは、
述べかたが犀利(さいり)で、論旨が明快なだけでなく、...」
丘さんの「落第と退校」(大正15年)という文章から、司馬さんの引用を孫引きすると、「私の考え
によれば、作文とは自分の言いたいと思うことを、読む人にわからせるような文章を作る術である
が、私が予備門にいたころの作文はそのようなものではなかった.むしろなるべく多数の人にわか
らぬような文章を作る術であった.」
丘さんが、自分の言いたいことを他人にもわかってもらうように作文したおかげで落第させられて
から、120年以上の年月が流れているが、今の世にもまだ「なるべく多くの人にわからないように
書く」ことが霞が関やその下部機関に横行していることを彼が知ったら、それこそ仰天するのでは
ないか.
あるいは福沢諭吉のように、自分の文章は猿にさえ読めるように書く、といっていた人からみれば、
自分があれほど熱心に進めてきた「学問のすすめ」が結局一部の人々には馬の耳に念仏であっ
たかと、嘆くことになりはしないか.
丘さんや福沢さんに、現在の国内の「特許明細書」を見せれば、自分たちがあれほど努力してき
たことが生かされていないことを知り、うつ病にでもなってしまうかもしれない.
一つの社会のなかで、明晰な文章と論理的に明快に組み立てられた文書がどのレベルまで流通
しているかによって、その社会の「文明」の度合いが測られるとすれば、日本は未だに明治初年の
レベルを脱していないのではないかと思いたくなる.
西洋においては、論理的に明快に文章を書けることがエリートの基本条件となっている.日本にお
いては、なるべく読む人がわからないように書くことが、エリートの証(あかし)となっているらしい.
おかしな社会ではある.(06.8.17.篠原泰正)
(237) 心技体、あるいは心知勇
スポーツの世界で当たり前のように言われる「心技体」は、なにもスポーツの世界に限ったことで
はなく、この世で生きていく上での必要三要素であるとも言える。例えば、会社勤めを見てみると、
そこでもやはり強い精神力と、仕事を遂行できる技(知識、技術、処理能力などなど)と、そして継
続できる体力が要求される。
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明快な文書を作る、というのは私が抱えている大きなテーマであるが、ここでも「心技体」に似た三
要素が必須であることに最近気がついた。
明快な文書を作り出すためには、まず何よりも、その文書の受け手(読む人)への配慮(気配り)
が必要であり、その「心」に欠けている人は明快な文書を生み出すことはできない。あるいは、わ
ざとわかりにくい文書を作成する。他者に対する思いやりの心が不足している人には明快文書作
成は縁遠いものとなる。
さらに、明快文書を作りだすためには、当然であるが、頭の中が論理的に整理されており、その展
開を明確な文章で表現できる力が必要である。どのような難しい理論の説明であっても、わかりや
すく記述することは可能であり、それができない人は頭の中が整理されていないと評価されても仕
方がないだろう。
明快文書を作成するための三番目の要素としては、特に日本人にとってこれが一番の課題であ
ると思われるのだが、物事をはっきり言い切る「勇気」が挙げられる。言い切るには勇気が要る。
特に、その言い切った結果の責任を取る覚悟が要る。この勇気を持たない人は、いくら頭が良くて
も明快な文書は作成できない。
このように、明快文書を作り出し、それを公にするうえで、「心技体」ならぬ「心知勇」の三要素が必
須の事項としてあげることができると、この1年ぐらいのあいだに私は結論付けるようになった。
日本人には二つの人種があって、ひとつはお公家集団に属する人で、もうひとつは武門の人であ
る。
お公家集団の際立った特徴のひとつは、自分および自分達集団の利益のみを常日頃考えており、
国や、地方自治体や企業といった、自分達がその中に属する全体組織は、ひたすらに自分達の
利益に奉仕する仕掛けあるいはシステムであるに過ぎない、とみなしている生き方にある。したが
って、その全体組織の構成要員は自分達に奉仕する存在にすぎず、その存在への配慮などは心
の中のどこにも存在しない。
もうひとつの際立った特徴は、徹底的に責任を取らない、というところに見られる。何事か,どじっ
ても、徹底的に逃げまくるわけだ。従い、生じた事実を分析し、反省し、次の改善を考え提示する
という作業は絶対に行わない。
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この二つの特徴からだけ見ても、先に述べた明快文書作成のための三要素の二つが欠けている
ことが明白であり、したがって、お公家集団は決して「明快文書」は提出しないという事実となって
現れることになる。
これに反して、もうひとつの人種である武門の人、すなわち武人集団は、例えば昔のまともな戦国
大名を思い出せばわかるように、自分および領民の生存を常に心がけており、生き延びる技に長
けており、そして自分の決断およびその結果に対して責任を取る覚悟が常にある。「心技勇」が欠
けていては武人ではありえない。
以上のことから、ここでの結論を単純に引き出せば、明快な文書は「武人」でなければ作れないと
いうこと、お公家集団には、どう逆立ちしてもそのことは期待できない、ということになる。
心情において武門の人である人々の数が増えない限り、世界が今直面している大難の中で日本
が生き延びることは難しく、ましてや世界のパスファインダーとしての使命を果たせるわけがなく、
そのために必要な「明快文書」も生まれてこないことになる。
自分が作り上げ提出した文書は、自分の名誉にかけて、すなわち「名こそ惜しけれ」の美学の下
に、責任を持つ気構えがある人だけが、明快な文書を作りだすことができる。そのような気構えの
ない人、すなわちお公家集団に属する人に、いくら「文書は明快に作りましょう」と呼びかけても、
もともとそのような美学を持ち合わせていないし、自分の不利益になりかねない行動あるいは方
法に賛同するわけがない。
話はすこし飛ぶが、ものを作って世の中に出すということも勇気が要る業である。例えば品質に問
題がでれば責任を取らなければならない。当たり前のことだが。したがって、ものづくりは武門の
人のみが担当できる業である。そこから、ものづくりの基盤にある「発明」においても、武人である
技術者が、己が責任の下に「発明仕様書」を書き上げることが望ましいということになる。それによ
ってのみ、明快な「特許仕様書」が出来上がる道がある。(06.9.03.篠原泰正)
(256) 漢字、あるいは「感じ」で理解
漢字は言うまでもなく、言語を表記する記号であると同時に一つの文字自体が意味を表現してい
る。西洋のアルファベットは単に記号であり、意味を伝えるにはその記号をいくつか組み合わせて
「単語」に仕立てあげる必要がある。その記号の集まりが何を意味しているのかは、定義を確認し
ないと理解できない。一方、漢字で表現された単語は、文字そのものが意味をもっているため、定
義をしなくとも、「なんとなく感じで」理解される。あるいは発信者は「理解されるもの」と暗黙の期待
の下に表現している。
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日本国民の識字率が近代以前から高かった一つの要因に、この、漢字さえ知っていれば、なんと
なくおよそ理解できるという事実を挙げることができるだろう。これに比べて、西洋の言語は単語
一つ一つの意味を覚えこんでいかなければならないから、大いなる学習努力が必要となる。この
ことは、同時に、伝えたいことを正確に伝えるためには、一つ一つの単語をどのように扱わなけれ
ばならないか、大いに神経を使うことになるだろう。また、自分が使用した単語の意味はこれこれ
であるという定義付けも怠れない。
特許仕様書から新聞記事まで、企業内の報告書から官庁の通達文書まで、あらゆるところであい
まいな日本語文章が溢れている一つの原因は、このなんとなく「感じ」で分る「漢字」を使用してい
るところにある。文章を書いている人は、「なんとなく」、読み手がわかってくれるだろうとの甘えに
基づいて明確な表現を怠り、読む人は、「なんとなく」わかったつもりになって満足している。このよ
うな相互関係の下では、あいまいさが厳しく指摘されることはない。
8月31日付けの朝日新聞13面に「新戦略を求めて―第3章グローバル化と日本」という特集記
事が全面に載せられている。そのリード部分:「.....日本には、環境を守る知識、技術が蓄積
されている。それは、苦い体験を糧に獲得した日本の「資産」である。途上国にもっと移転し、地球
規模で公害防止、持続可能な発展に役立てる戦略が必要だ。」
この最後の文章は構造として不備でまた意味も不明確である。「その資産を途上国に....」とい
うように、何を移転するのか目的語をこの文章の中にも入れるべきである。日本人であれば、読
む人は移転されるべきものが何かは「推測」できるが、読む人の推測に頼る表現は正確な文章と
は言えない。更に「戦略」を誰が立て誰が実行すべきであるかについて記述されていない。読者一
人一人に対して、あなたはその「戦略」を持つことが必要だと述べているのか、自分達朝日新聞が
考え出すべきなのか、大手企業がもつべきなのか、それとも政府にむかって述べているのか。結
果として、この文章はきわめて無責任な記述となっている。「戦略が必要だ」と投げ出すことで、こ
の先どうなろうとも私は知らないという、あるいは自ら手を汚すつもりのない、(本人は意図してい
ないだろうが)卑怯な人達が書いた文章となっている。
更にこのリード部に引き続いて、論理的概念の混乱もある。
「日本の課題」として3項目挙げられているが、その先頭項目で次のように書かれている:「公害先
進国だった日本には、急成長する開発途上国での環境破壊防止に応用できるノウハウがたくさん
ある。」この文章は「事実」を述べたもので「課題」ではない。「課題」とは事実から出てきた、何らか
の行動を必要とする事項のことであり、ここで課題としていうのならば、ノウハウがたくさんあるか
ら(事実)、「そのノウハウを何らかの手段で世界に伝えること」が課題となる。事実の記述と課題
の記述がごっちゃになるようでは、この新聞の知性レベルも怪しいと思いたくなる。
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更に、「中国支援」と題されている部の冒頭には次の文章がある:
「環境問題への影響が大きいのは、資源を大量消費し、公害対策も遅れている中国の動向だ。」
「環境問題」とは何か。環境を破壊しているという問題である。したがって、この文章は、「問題」へ
の影響が大きい、事ではなく、「環境」への影響が大きいのは、と書くべきである。
また、「資源の大量消費」と「公害対策の遅れ」は同列で扱える事項ではない。資源を大量に消費
しているのは日本をはじめ先進諸国共通の事実であり、環境への悪影響ということであれば、中
国を名指しして論じる項目ではない。ここでの記述で意図されていることは、「資源を大量に消費
しているのにその結果発生する公害対策が遅れている中国の動きは、地球環境への影響が極め
て大きいと懸念されている」ということになる。
「環境問題」という言葉のメインは「問題」であり、「環境」はその「問題」の種類を特定化している修
飾語である。だから、上に挙げた記事は「問題への影響が大きい」という意味になる。そうすると、
問題への影響とは何のことかということになる。「問題」とは、事実から誰かが取り上げた概念事
項である。したがって、ここでの記述の混乱の元は「環境問題」というあたかも一つの単語のように
扱われている二文字漢語の安易な連結にあることがわかる。「環境を破壊しているという問題」と
書くべき事項である。そのように記せば、「問題に影響を与える」という表現がおかしいことが見え
てくるだろう。「問題」に対しては、悪化させるか、改善するか、解消するかといった具体的アクショ
ンが続くべきであり、「影響が大きい」という表現がいかにあいまいであるかが、理解されるであろ
う。
新聞をちらりと眺めるだけで、ここに挙げたような「はてね?」が幾つでもでてくることからみても、
あいまいな日本語文章が世に溢れていることが簡単に誰にでも推測できるだろう。
日本語文章は漢語を勝手に並べて、それぞれの文字が持っている意味を「図形的」に表現して読
み手の理解を得ようとしている場合が多い。したがって、文章内の組み立ては極めてずさんに行
われる。西洋の言語を母語とする人は、伝えたいことを正確に表すには、単語をどのように配置
するかに神経を使っている。日本語文章はいわば「図形・視覚型」文章であり、英語などの西洋言
語は「舌の言葉」の文章といえるのではないか。視覚に訴えることができない文章は、論理的な流
れを重視して、滑らかに聞き手(読み手)の頭の中に入っていくように、配列を練らなければならな
いわけだ。(06.10.13.篠原泰正)
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(288)ものをみる目、あるいは文章
今から15年ほど前に出た司馬遼太郎さんの対談集「東と西」は、読むたびに何かを教えられる貴
重な本である。
その中に、京都大学のフランス文学の大先生桑原武雄教授との対談がある。「物をその物として
見る精神」と小見出しがつけられた話の中で、日本人は物そのものをリアルに記述する習慣がな
かったという話から、桑原先生の言:
「ことにイギリス人というのは、物があると、その物はつまらんとか、これは本当の実在だろうかと
か、宗教的というか哲学的なことあまり考えないのです。ここにテーブルがあったら、これは大きな
テーブルだ、そこへ白い無地のテーブルクロスがのってるとか、そういうことを精密に書いていくわ
けでしょう。」
発明した事実を正確に記述するなんてことは、われわれはどう逆立ちしても、彼らアングロ・サクソ
ンには勝てないか?
続いて、「日本人も、これはテーブルだということはわかるんです。けれども二メートル余りのテー
ブルだとか、そういうふうには書かない。部屋へ入ったらテーブルクロスをかけた食卓があって、そ
こへわれわれはゆったりと対座したということで終りです。」
風景の中に自分も入り込んでしまうわけだ。だから、ゆったりと座った、ということが記述のポイン
トとなる。
続いて、「つまりこちらは(*日本人は)景色でも建物でもそれにふれて感情を動かすでしょう、ちょ
っとオーバーな言い方をすれば、それへの詠嘆、いつもそれが書いてあるんです。」
対象物を自己と対立する客体として、冷静に眺めて描写することができる西洋人。それに比べる
と、われわれはなんせ自然の中に入り込んで、溶け込んでしまう「共生」の心の持ち主だから、対
象物と触れ合った自分の心の動きが大事であり、対象物がどのようなものであったか、その事実
の描写などは念頭にないわけだ。
さらに、途中をおいて、先生は続ける:「中国人でも、日本人と違うところがあります。正確に書い
ている感じがする。陳寿の「三国志」を見ても、簡潔だけど、ちゃんと書いてある。」
「日本の場合は、桜なら桜という物そのものよりも、自分が桜の花を美しいと思ったという、その桜
と自分との関係とか感慨を書く。後世の人が自分の文章を読んでくれたら、いつ、京都のなんとか
いう寺に桜があったということがわかるよりも、そのときに、なんとか麻呂という敏感なやつがいて、
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桜が散るのを見てこういう歌を作ったということだけを知って欲しいのです。」
われわれはやはり知的財産なんてもので、欧米や中国と張り合うことは止めておいた方がよさそ
うである。自分の発明した事実を厳密に描写し、他と違う事実を並べたてて自分の領域をはっきり
と宣言するなんて芸当は、われわれにはできそうではない。
日本人のこの癖(美点でもある)は、知的財産(文書で表現する)という土俵の上では弱点となる。
このことを自覚しないで、「知的財産で立国」なんて唱える人は、よほどおめでたいひとである。長
所短所の事実の認識がなければ、対策も考えない。分けも分らず、隣がやっているから自分もと、
わっせわっせと特許を出願するから、国中合わせて毎年40万件なんて、途方もない数に積みあ
がる。われわれは事実を述べるのが下手だ、と言う自覚もなしに「量産」するから、40万件の大半
は、多分目も当てられない文章で埋まっているだろう。昔の人のように、その中にせめて歌の一首
でも記載されていればまだ価値はあるだろうけれど。何しろ、数が多ければそれで「知的財産」の
大手と思っている人もいるようだから、手がつけられない。話が逸れてしまった。(06.12.12.
篠原泰正)
(390) 和魂洋才、あるいは洋才とは何か
幕末、日本が国を世界に(主に欧米に)開くにあたって、日本の精神に悪い影響が与えられること
を危惧して、あるいは悪影響どころか壊れてしまうことをおそれて、「和魂洋才」というコンセプトが
導入された。発案者は佐久間象山である。
このコンセプトは大変に効き目のあるもので、お蔭で精神まで「西洋」に侵されることはその後の
流れの中で無かったのだが、「洋才」の方は範囲が小さくされて受け止められてきた。つまり、まず、
「洋才」は限りなく「西洋の近代技術」の面にだけに限られてきた。技術に限って導入すれば、それ
は精神とは直接関係しない効率の世界であるから、進んでいるものはその通りと受け止め、導入
することに抵抗する気持ちは生まれなかった。
さらに、これが問題なのだが、この「洋才」に含まれるもうひとつの面には、近代国家を経営する制
度、言い換えれば仕組みあるいはシステムがある。この扱いは、うわべだけを、すなわち形だけを
導入し、その根源にある物は深く考えることはなかった。例えば、議会制民主主義というシステム
もその一つである。
なぜ近代社会システムを表す「洋才」の方は、深く考えることなく、形だけの導入にとどめたのか。
それは、「和魂」に直接的に関わってくる対象だからだろう。文化のうえに乗っかっている社会シス
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テムは、極めて密接にその文化と結びついている。したがって、社会システムをその精神まで、あ
るいはその拠って来たったところまで含めて導入することは、せっかく「和魂洋才」というコンセプト
で築いた防波堤が崩れる危険が強いことになるからである。
さらに観察を続ければ、社会システムの拠って来るところを考えることは、論理的に考えることを
必要としていることが分る。論理的に考えることは、「和魂」の根源である「ヤマト的なるもの」を壊
す危険がある。これが壊れれば、日本のあるいは日本人のアイデンティティーが分らなくなるおそ
れが出る。このように判断して、「洋才」が表す近代工業技術と近代社会システムの二つは、うわ
べだけの採用にとどめたのだろう。このことは意識してなされたのではなく、動物的直感で危険を
察知しておこなわれたのかもしれない。
その結果、うわべだけ、形だけ導入された社会システムの下で展開された日本の近代の歴史は、
なぜそのように展開されたのか、論理的分析がなされることなく、敗戦後、よくなかったといううわ
べ上の問題箇所だけを切り取り、修理された。
近代の社会システムは西洋の文化に根ざしたものではあるが、その上の論理思考の産物であり、
悪しき部分の取替えや改良作業は論理的思考の結果なされるものである。これが本来のありか
たであろう。しかし、日本では、そのうわべの形だけを「論理的に考える」ことなく導入してきたので、
いとも簡単に悪用(改悪)されたり、西洋から言われるといとも簡単に「カイゼン」したりすることに
なる。日本の近代の歴史を眺めれば、その繰り返しであることが理解されるだろう。
「和魂」という大きなお餅の上に導入された「洋才」は、その中身が論理的に検討されること無く、
また和魂との関わりがどのようになるのか討議されること無く、したがっていつまでたってもうわべ
の形だけのものとして今日に至っている。論理的に十分に論議されてこなかった「洋才」は、192
5年から45年の歴史が示すように、扱われ方一つで国を滅ぼすほどの火薬庫となりうる。感情に
走らず、冷静に、150年前の開国以来導入してきた「洋才」とは一体なんだったのか、論理的に考
えることの必要性はますます高まっている。
(07.05.23.篠原泰正)
(517) パワーポイントを禁止せよ
もう10年以上前のことだが、シリコンバレーにある会社のCEOが、パワーポイント使用禁止令を
社内に出した、という、どこまで本当か嘘か分からないが、話を聞いたことがある。その禁止令の
理由は、事業部長の誰もがパワーポイントを使って「美しい」プレゼンばかりをするものだから、大
いに怒ったところにあるという。ビジネスはそんなに美しく、うまく進むわけがなく、これでは事業の
実体がまったく見えない、というわけだ。CEOの怒りは理解できる。
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パワーポイント(このアプリケーションの元祖は1987年発表のロータス社(Lotus)の Freelance G
raphics-元は1986年に買収した GCI: Graphics Communications Inc.が開発したソフト-であり、
このMS(Microsoft)の製品は後攻めながら市場を支配した)の弊害は、しかし、日本においてもっ
と大きい。グラフィック感覚に長けているけれど、文章による表現力はトンとお粗末な日本人にとっ
ては、図形が簡単に作れ、写真などの画像も取り込み放題のこの有能ソフトプログラムはありが
たい。つまり図形で示せば、おおよそのところが理解され、文章でくだくだ説明する手間が省ける。
言葉も単語の羅列またはフレーズ(句)だけで済むので「文章」を考える努力も要らない。
出すほうと受ける方がおおよその理解で納得する日本社会においては、まことにうってつけのプ
ログラムなのだ。おかげで、ビジネスマンの文章力は、ただでさえ貧しいのに、ますます程度が落
ちていくばかりである。お役所や独立何とか法人というところがウエブ上で公開しているレポートも
この「パワポ」(OLはこう呼ぶ)で作られた図形や写真ばかりが溢れている。おかげでダウンロード
しようとしてもファイルがめったやたら重く、私のPCのPDFがじっとして動かない場合が多い。文
章が書けないから、あるいは文章ではっきり述べると後がやばそうだから、図形で逃げているわ
けだ。
戦後の日本は欧米の先進の製品をお手本にして、また品質保証のシステムはアメリカのデミング
博士(Edwards Deming)に教えてもらって、世界の5本の指(あるいは3本の指?)まで上り詰めた。
私もそのワッセワッセ組の一人であった。一方で、その磨き上げた技術を「語る」技能はまったく省
みられることがなかった。私は幸い、仕様書の制作にうるさい上司(複数)の下で鍛えられたから、
少しは部下にうるさく接したけれど、そのような面倒な指導が評価される雰囲気は社内になくなっ
ていったので、あるときから放棄してしまった。大いに反省すべき行いであった。
そこに「パワポ」の出現である。われわれ日本人は優秀な製品は作るけれど、重度の言語障害を
持つ民族として、世界の中でも特異な存在であり、その症状はますます悪くなる一方である。
話は飛ぶが、先日あるところで、”日本ではTLO(技術移転)は無理でござんすよ”、と話したら、”
いや、特許を分かりやすくプレゼン(パワポを使って作成するのだろう)することが行われているか
ら、TLOも成り立つ”、とのご高説に接した。アホも休み休み言えというものだ。どこの世界に、特
許仕様書(明細書)が読めないからといって(何が書いてあるのかよく分からないことを読めないと
言っている。文盲という意味ではない)パワポで解説する手間を介在させている国がある。
こんなことが外国に知られたら、”日本人はアホかいな”、とまたまた笑われることになる。パワポ
でのプレゼンを受けて、”うん、明細書には何が書かれているのか、どこが特許かよく分からない
けれど、図式で示してもらって、なんとなく価値ありそうなので、一つライセンスを受けるか”、なん
て考える社長が世の中に居るわけが無い。もしそんな社長が居れば、その会社の明日は無い。
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文章で表現する能力が低いということは、他人の文章のひどさ加減もよく分からないことに直接つ
ながっている。世界に向かって、俺の発明技術はこれだ、私の考えはこうだ、化学肥料をあまり使
わず農作物を育てる方法はこうだ、などなど、大きな声で語らなければならない今、そして明日の
日本で、重症の言語障害を克服する策は、まず「パワポ」の使用禁止令を国中に発動することだ
ろう。(07.11.20.篠原泰正)
(1024)車両点検と信号確認
滅び行く日本語3
この列島の鉄道はその時間通りの運行によって世界一の評判を得てきたが、最近なにやら怪しく
なってきている印象がある。私が毎日利用する地下鉄千代田線の朝の運行がほぼ毎日のごとく
乱れている。ダイヤどおりであれば西日暮里から国会議事堂まで 20 分で行くとろが、25分から時
には30分もかかる。この路線は25年以上利用しているが、昔はこのような遅れはほとんど無か
ったと記憶している。なにかシステム的な「疲労」が出ているのではなかろうか。
しかし、今回の話はシステム的なことではなく、ことばについてである。
ダイア(diagram)の乱れの原因として表示される一つに「車両点検」のためというのがある。どうも
しっくりこない。私の常識では、「点検」とは運行前に車庫でどこか異常が出ていないかどうかを検
査する作業であり、客を乗せて走らせてから行うものではない。従って、駅の電光掲示板に出てく
る「車両点検のためダイア乱れ(あるいは遅延)」というのは、列車を走らせているときに、車両の
どこかに異常(常とは異なる)、あるいは不具合(状態が正常ではない)、あるいは故障(正常に動
かなくなる)が見つかり、それを修復していたのでダイアが乱れたことを表現している、と「察する」
ことになる。
地上あるいは地中を走る鉄道であれば、異常があったときは止めればいいだけだが、これがもし
旅客機であって、飛行中に”右エンジン「点検」のため停止させます”、なんて機長からアナウンス
があったら、それこそ客は全員真っ青である。空中で「点検」なんぞをおっぱじめられた日には命
がいくつあっても足りなくなるだろう。
この表示「車両点検」には次のような事項が含まれている:
①走行中に車両のどこかに異常を発見する
②その異常の原因を探るために検査する
③原因がわかったので不具合または故障部分を修理する。
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であるから、ダイア乱れの理由を乗客に伝えるには、「車両異常とその修復(修理)のため」でなけ
ればならない。ところが、異常とか故障という言葉を使いたくない、利用者に悪い印象を与えたくな
いという心理が働くと、事態を正確に伝えるのではなく、やわらかく、不透明なオブラートにくるん
で”「点検」のため遅延”となる。
遅延の利用の一つに「信号確認のため」というのもある。列車の運行において信号を「確認」して
走らせるのは当たり前の話であるから、「信号確認」で遅れるとは何事か?となる。これも「点検」
と同じで:
①信号に異常が見つかった、
②電車を止めて、異常の原因を調べた、
③原因がわかったので修復した、
④正常に戻ったことを「確認」して運行を再開した、ということだ。
信号に異常あるいは不具合があった、などと利用者に伝えると不安を掻き立てるであろう、はっき
り言わないほうがいい、ということで”信号を「確認」していたのでダイア乱れました”となる。
どのようなシステムであれ、動かしていればいつかどこかで不具合がでる。その不具合が出る率
をどれだけ低くできるかが永遠の課題であり、もし「万一」出たときにはどれだけ安全にどれだけ
早く修復できるかが次の課題となる。この課題に挑戦し続けるには、生じた異常をどれだけ正確
に伝えるかが根底になければならない。
生じた異常を隠し続ければ、ある日突然、リポビタン D のごとく「ドカンと一発!」となる。「点検」や
「確認」といったあいまいな言葉で客を煙に巻いていると、次第に運行の当事者もそのつもりとなっ
て「安全」への意識が薄くなっていき、その果てには、このシステムは永遠に「安全である」という
思い込みにまで至る。客を刺激させないためにあいまいな言い方をしている内に、今度は自分た
ちもその言葉に惑わされるようになる。
列車を走らせていると、車両や線路や電気系統に不具合が生じると列車は遅れることになる。こ
の事実は隠せない。だから何か遅れの原因を言わざるをえない。だけど事実をそのままは言いた
くない。そこで「車両点検」やら「信号確認」となる。一般客を相手にしているビジネスは大変である。
これが一般の人(国民全般)の目に触れないシステムであれば不具合の事実は隠してしまえばい
い、となる。もっとも、ここでの話題は、この事実を隠すというトリプル D クラスの卑劣な行為ではな
く、表現をあいまいにするというトリプル B か C クラスを対象にした。それでも、安全運行という面か
らは、あいまいに表現することの危険、というきわめてマジな話でもある。(12.05.19.篠原)
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