認されており、この早大本は六波羅合戦巻を描いた模本 波羅行幸巻・待賢門合戦巻・六波羅合戦巻・常葉巻が確 巻は、原本・模本を合わせ、三条殿夜討巻・信西巻・六 本は東博本の他、各地で所在が確認されており、今回報 の全体像を把握する主な手掛かりと考えられている。模 これらと東京国立博物館に所蔵される白描模本が、原本 ていた様子が窺える。しかし昭和に入り、十四枚の原本 2 3 の残欠が発見され、更に四行の詞書断簡も報告された。 半頃には原本の所在は不明とされ、白描模本が享受され 錦﹄に﹁六波羅合戦粉本 不具着色已失原本所在﹂とあ ることが多くの先行研究で指摘されており、十八世紀後 ︵一七五五∼一八一一︶の﹃倭 六波羅合戦巻は、住吉広行 滝 澤 み か ﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について 早稲田大学 図書館所蔵 一、はじめに ここに紹介する﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄は、 二〇一四年に早稲田大学図書館が新たに収蔵した絵巻で である。現存する﹃平治物語絵巻﹄のうち、常葉巻以外 告する早大本もまた模本の一つであるが、東博本とは異 あ る ︵ 以 下、 早 大 本 と 称 す ︶ 。 こ れ ま で﹃ 平 治 物 語 ﹄ の 絵 は多少の差異はあるものの一連の作品として考えられて は絵巻と﹃平治物語﹄の関係を考える上で貴重な資料で なる特徴が見え、六波羅合戦巻の原本の姿や享受、更に おり、原本は十三世紀後期頃の成立かと先学により検証 1 されている。 早 稲 田 大 学 ﹃図 早書 稲館 田所 大蔵 学﹃ 図平 書治 館物 紀語 要絵 ﹄巻 第六六 十波 二羅 号合 ︵戦 二巻 〇﹄ 一 に五 つ年 い三 て月︶ ─ ─ 1 あると言える。以下、この早大本に関する調査の報告を 行う。 二、書誌情報 初めに、早大本の書誌情報を記し、考察を加えてみよ う。 ︻絵巻︼ [所蔵﹂早稲田大学図書館 [番号]チ四 六三四九 [巻冊]一巻 [表紙]青地に白い花・金泥の草などの模様 縦四一.八㎝ ×横一五m 七二㎝ [寸法] [外題]﹁平治物語﹂︵題箋あり・金箔付︶ [内題]︵なし︶ [装丁]巻子 [軸頭]朱塗・青い花の模様 [字高]三二.八㎝ [用字]かな・漢字 ﹁土佐古将監之真筆/元和三年霜月七日写畢/ [奥書] ﹂︵/は改行︶ 森井善太郎 ︵落款印﹁ 雲﹂︶ ﹁ 新 宮 城 書 蔵 ﹂︵ 水 野 忠 央 ︶ ︵ 縦 八.三㎝ × 横 [蔵書印] 二.六㎝ ︶ 見返し・詞書・奥書部分に金箔が散っている。 [備考] ︻箱︼ [表面]黒塗 縦五二.六㎝ ×横一二.四㎝ ×高さ一一.〇㎝ [寸法] ﹁平治物語 土佐光起筆﹂︵題箋あり・金箔付︶ [外題] [備考]蓋裏に付いた紙片に﹁花園実満画﹂、箱底に付 い た 紙 片 に﹁ 紀 州 新 宮 城 主 水 野 忠 央 旧 蔵 ﹂ と ある。 ま ず 早 大 本 の 伝 来 を 確 認 し よ う。 旧 蔵 者 の 水 野 忠 央 ︵一八一四∼一八六五︶は、紀伊国新宮 ︵現和歌山県新宮市︶ の城主である。忠央と言えば、丹鶴叢書の編纂で著名で あ る。 忠 央 の 蔵 書 が 収 め ら れ た 丹 鶴 書 院 の 目 録 で あ る ﹃新宮城書蔵目録﹄︵文久元年︿一八六一﹀∼三年︿一八六三﹀ 4 頃成立︶第八巻の﹁御画巻物﹂の項には、三本の﹁平治 ─ ─ 2 物語絵詞﹂︵各一巻︶の存在が確認出来る。その詳細は不 明であるが、このうちの一巻が六波羅合戦巻であったと すれば、遅くとも早大本は目録が作成された時までには 存在していたことになる。同目録には﹃保元物語﹄﹃平 治物語﹄﹃平家物語﹄﹃承久記﹄﹃太平記﹄を含む多くの 軍記物語も収集されていた様子が窺える。早大本は表紙 の 模 様 も 細 か く、 見 返 し・ 詞 書・ 奥 書 部 分 に は 金 箔 が 散っており、六波羅合戦巻の模本としては豪華な部類の ものである。早大本の制作が忠央の命によってされたも のなのか、それとも忠央は所持していたに過ぎないのか は特定し兼ねるが、城主が所持していたものとして、見 劣りしない作りとなっているのは確かである。 ︵一六一七︶ 奥書からは森井善太郎という名と、元和三年 の年が確認出来る ︵図版1︶ 。早大本の詞書部分には金箔 この森井善太郎の奥書は、他の模本のうち、安田靫彦 氏旧蔵本・逸翁美術館蔵本・宮内庁書陵部蔵本にもある。 まず日本画家・安田靫彦氏 ︵一八八四∼一九七八︶が所蔵 ︵花押︶ したという白描模本を確認してみよう。未見のため鈴木 5 敬三氏﹃初期絵巻物の風俗史的研究﹄の記述を引用する と、安田本の奥書には、 に施されたことが分かる。この奥書も筆の上に金箔が付 土佐古将監之真筆 元和三年霜月七日写畢 が散っているが、筆の上に金箔が付いているため、執筆後 いており、本絵巻の制作時と同時に書かれた奥書である 森村善太郎 六波羅合戦之図 橘金六所蔵 ことが分かる。但し、落款印は金箔の上に押されている。 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 3 [図版1]奥書 陵部本にも森井善太郎の名の後に、落款印ではなく花押 ﹂とあり、書写した年と人物が分かる。書 治辰方︵花押︶ 明和九年十一月 千賀七郎左衛門義徴䇭 とあり、橘金六が元和三年制作の模本を所蔵していたこ が見えるが、こちらは縁取りではなく通常のものである。 ︵ママ︶ 六波羅合戦図 一巻 土佐古将監光顕画○元和三年十一月䇭原本橘金六 蔵 ○ 森 井 善 太 郎 書 判 ︵ 挿 入 記 号 ︶○ 寛 政 十 年 三 月 書館蔵﹃本朝画図目録﹄を引用すると、 これらの奥書を持つ絵巻の享受についても確認してお く。秋山光和氏は、徴古館蔵﹃本朝画図目録﹄にある六 7 波羅合戦巻の記事を紹介している。管見に及んだ国会図 とや、明和九年︵一七七二︶の千賀義徴の模写であること が書かれている。こちらでは﹁森村﹂と翻刻されている が、 ﹁土佐古将監之真筆元和三年霜月七日写畢﹂という記 述については早大本と一致する。この安田本の奥書は逸 6 翁本にも見え、そちらでは森村ではなく﹁森井﹂とある。 更に逸翁本の場合、森井善太郎・橘金六・千賀義徴の名 に続いて、絵に関する考察と、﹁明和九年壬辰十一月﹂・ ﹁寛政五年癸丑八月﹂の表記がある。考察は九行に渡り、 白川邸に観る ○明和十六年十一月千賀七郎左エ門 この図が﹁待賢門夜戦の図﹂と言われているがそれは誤 りであり、今改めて﹁六波羅合戦の図﹂と題する旨が記さ あることは明らかである。更に書陵部本にも、逸翁本と この花押は輪郭のみを縁取ったものであり、後の写しで 款印があるが、逸翁本では花押が描かれている。しかし があることが窺える。また、﹃訂正増補考古画譜﹄︵黒川 和十六年﹂といった箇所が異なるが、森井善太郎の書判 この記録は安田本・逸翁本・書陵部本とは、﹁光顕﹂、﹁明 と あ り、 寛 政 十 年 ︵一七九八︶に 絵 巻 を 見 た 記 録 が あ る。 ︵朱で挿入︶ 義微䇭 同一の﹁土佐古将監︵中略︶寛政五年癸丑八月﹂の記載が 真道氏編﹃黒川真頼全集﹄︿国書刊行会、一九一〇刊﹀所収︶ ︵ママ︶ れている。また、森井善太郎の名の後には、早大本では落 あり、それに加えて﹁文化元年甲子十一月 松岡清助丹 ─ ─ 4 には、﹁六波羅合戦 一巻 古 画 目 録 云、 六 波 羅 合 戦 図 一巻、土佐古将監、原本橘金六蔵﹂という﹃古画目録﹄ 監﹂のみでは誰を指すのか判別し難い。﹃本朝画図目録﹄ 拠らば、慶恩の筆なるべし﹂とあるように、﹁土佐古将 平治物語のうちのものなるべければ、山名貫義氏の説に の情報が載っている。 は土佐光顕 ︵南北朝期の絵師︶としているが、他に同様の 森井善太郎の奥書を持つ六波羅合戦巻は、義徴模写系統 であることが窺え、これら各本や﹃本朝画図目録﹄から、 収めていた帖の箱の蓋表には、﹁武者絵鑑 土佐筆 裏 8 ニ古筆切﹂と書かれていたという。こうした﹃平治物語 のではないかと考えられる。六波羅合戦巻の原本残欠を 記述は確認出来ず、﹃本朝画図目録﹄筆者が推定したも のものが多く享受されていたことが分かる。そうした享 絵巻﹄と﹁土佐﹂という名を結びつける動きは六波羅合 以上をまとめると、同じ森井善太郎の奥書を有してい ても、安田本・逸翁本・書陵部本は千賀義徴の模写系統 受の実態から考えれば、森井善太郎の名のみを有する早 戦巻に限った話ではなく、信西巻や六波羅行幸巻といっ にも確認 ﹁ 土 佐 古 将 監 ﹂ と い う 名 は、 他 の 絵 巻 の 識 語 9 出来る。光明寺本﹃当麻寺曼荼羅絵巻﹄上巻末には﹁右 た他の巻にも見えるものである。 大本は特異であり、義徴の手を経ていない、別系統の模 雲﹂なる落款印が見える以外に情報がなく、この 本である可能性がある。森井善太郎については、早大本 に﹁ 落款印が森井善太郎自身のものなのか含め、今後も検討 奥書に見える﹁将監﹂とは、近衛府の第三等官を指す。 ﹃訂正増補考古画譜﹄には、﹁真頼曰、古将監詳ならず、 佐古将監光長之遺筆也為證其真識其後狩野右京進安信﹂ 也 とあり、東京国立博物館蔵﹃異 狩野永真法眼證之﹂A 本伊勢物語絵巻﹄第三巻末には﹁此伊勢物語三巻之絵土 曼荼羅之縁起上下巻土佐古将監真跡決然而無渉于猶豫者 倭錦を按ずるに、慶恩の弟に、春日左近将監行長あり、 という記述があり、﹁土佐古将監﹂の﹁真跡﹂﹁遺筆﹂で すべき点である。 これを古将監といへるか、されど、六波羅合戦も亦保元 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 5 躍 し た 絵 師・ 常 盤 光 長 ︵ 生 没 年 未 詳 ︶の こ と と 考 え ら れ B る。前者の﹁土佐古将監﹂については、小松茂美氏は﹁土 ておき、後者の﹁光長﹂は、平安後期から鎌倉初期に活 ︵一六一三∼一六八五︶に よ る 鑑 定 で あ る。 そ の 真 偽 は さ あ る こ と が 重 視 さ れ て い る。 ど ち ら も 狩 野 安 信 ︵ 永 真 ︶ 兼ねるが、一つの仮説として示す。 佐古将監﹂が他の人間を指す可能性もあるため断定はし した光長を絵巻原本の作者と推定した。そしてその光長 巻の成立を平安後期から鎌倉初期と考え、その頃に活躍 のことを主に書いているため、森井善太郎はそこから絵 である。父は花園 公久は早くに没したものの、実満は三歳で従五位下に叙 家の祖である右少将・花園公久 ︵一五九一∼一六三二︶で、 六二九∼一六八四︶は、江戸前期の公 箱の情報も確認しておこう。箱の蓋裏には、﹁花園実 満画﹂と書かれた紙片が付けられている。花園実満 ︵一 =﹁土佐古将監﹂の真筆本を写し、奥書を書いた。﹁土 佐派の絵師は、室町時代以来、代代が左近将監に叙せら れた。したがって、古い時代の証言と近い世の人を区別 するために、特に︿古将監﹀というような呼称を用いた﹂ と解説し、土佐光信 ︵生年未詳∼一五二三頃か︶を想定し C ている。しかし﹃異本伊勢物語絵巻﹄の光長の例から考 えれば、﹁古将監﹂が指す人物は必ずしも室町時代の人 六六一︶正月五日に従三位、寛文六年 ︵一六六六︶十二月 間とは限らないと言える。このように江戸初期において、 せられており、父の死後も位を上げている。寛文元年︵一 絵巻の作者を﹁土佐古将監﹂の筆と鑑定する例は確認出 の奥書も同様ならば、次のような流れが考えられる。す 勢物語絵巻﹄が記すよう光長のことであり、森井善太郎 もし江戸初期の鑑定が示す﹁土佐古将監﹂が、﹃異本伊 三年に写された絵巻の作者には当然成り得ず、森井善太 に左近衛将監に任官されている。実満・光起共に、元和 前 期 に 活 躍 し た 土 佐 派 の 絵 師 で、 承 応 三 年 ︵一六五四︶ 起筆﹂とある。土佐光起 ︵一六一七∼一六九一︶は、江戸 来、早大本の奥書もそうした一例と考えられる。そして、 二十九日には参議になっている。箱の外題には﹁土佐光 なわち、﹃平治物語﹄は平治元年 ︵一一五九︶に起きた乱 ─ ─ 6 郎が写した絵巻を転写した人物として挙げられているの であろう。この情報の信憑性は、 ﹁土佐光起筆﹂としつつ、 ﹁花園実満画﹂とある時点で不可解であるが、江戸前期の 人々が関わった絵巻として考えられていた様子が窺える。 ﹄︵思文閣出版古書部、二〇一四 ﹃思文閣古書資料目録 刊︶では、この絵巻は﹁江戸後期写﹂としている。成立 一、以下、早稲田大学図書館蔵﹃平治物語絵巻 六波羅 合 戦 巻 ﹄ の 翻 刻 で あ る。︻ ︼ は、 詞 書・ 絵 の 順 を、 ︵ ︶ は 絵 の 内 容 の 説 明 を、 論 者 が 私 に 付 け た も の である。 一、改行部分は/で示した。また、漢字の表記は基本的 ︻第一段︼ 抑待賢門の戦は平治元年十一月廿七日の/事なりし には底本通りにした。 それを森井善太郎が写し、更に実満・光起筆とされる転 悪源太義平は同日の暮ほとに/またこそ六波羅によ ちへ入さるこそ口惜/けれつゝけものともとて五十 せ給ふ一人當千のつはもの/とも真先に進み戦けり 以上、奥書の内容を分析しつつ、森井善太郎の奥書を 有する本の中でも、早大本は他の義徴模写系統とは異な 餘騎かけいれは平/家ふせきかねて引いりにけり清 /なけれはこそこれまて敵はちかつくらめいてさら /ふることくにあたりけれはふせく兵に恥ある侍か ひけるか/妻戸のとひらに敵の射かけし矢のあめの 御曹子のたまひけるは/今日六波羅へよせて門のう る経緯を持つ可能性を述べた。早大本の特性は奥書のみ 盛は北の臺の/にしのつま戸に軍の下知してゐたま [凡例] 三、本文 に留まらないことを、本文の考察の際にも指摘する。 。 いうことになろうか ︵転写の具体的回数は不明︶ 写がされ、それをまた後人が写したものがこの早大本と 写しならば、元々﹁土佐古将監之真筆﹂の絵巻があり、 年代の特定は今後の課題であろうが、実際に江戸後期の 237 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 7 0 てゝおもてもふらす戦/給ひしか平家新手をいれ替 の兵真先にすゝみ戦ひ/けり義平三方をまくりた 守父子主馬判官父子難波瀬尾/をはしめとして究竟 むせんとかけ出たまへは平家の侍これを/見て筑後 将軍はたれ人そかく申は太宰大弐清盛/なりけんさ は/かけむとて馬引よせさせ打のりて大音にて/大 佐々木源三/秀よし須藤刑部としみち伊澤四郎/の 部伊澤をはしめとして/はせふさかつてふせきける てあれよしのふうたすなと宣ひしに/佐々木須藤刑 して/散々にたゝかひけれは義朝これを見/たまひ らせよといひしに/平賀四郎よしのふたゝ一騎引返 より引退給ふいましはしふ/せき矢射てのはしまい よくしてきのふの雪も消やらす/あはれさもなか ふかけも六条邊にて敵にかけあはせ/敵あまたうち /うち死せよとかけ出給へは鎌田兵衛馬よりとひ/ 〳〵にいつくをそれとさゝ/ねともまつ青はかの長 て人馬の息を/休め入替〳〵たゝかへは源氏の兵も をり御轡にとりつき一先都を御引あつて/かさねて 者をなんたのみ/にてをもむき給ひし扨平家の人々 とつて或は打死しあるひは/手屓て落にけりよしと 平家をほろほし給へかしと申けれは/よしとものた /義朝の宿諸ならひにのふよりの舘に/火をかけゝ せんかたなくて/門より外に引しりそきぬ河原をに さか山/不破の関をやとゝ もは東をさして/落給ふものゝふのならひとはいひ まひけるは東にゆけは れは魔風さかむにして/炎地にふきしき餘盡数十丁 しへ引にけり/義朝是を見給ひて義平は河原を西に むへきにしに趣かは須/广あかしをなすきなむあは にふき/ちらしてたちまちに灰塵の地とそ/なりに なから/としもすてにくれなむに寒さもことに/つ れゆみ矢とる/身ほとかなしかりけるものはなしい ける嫡子よりともは當年十/二歳になり給ひぬいま 引しは/家のきすとおほゆるそ今は何をか期すへき かゝは/せんとのたまひけり三條河原にてかま田/ たいとけなしと/いへとも弓馬の家にむまれて大軍 ︵ママ︶ 申けるは守殿はおほし召たゝせたまふ/むねあるに ─ ─ 8 /二歳のとき院よりまひら を/おそれすして父とともに打たゝれしか/源太か 産衣といひし鎧は義家 せ給ひしよろひの/家に傳りしを着し給ひ鬚きり丸 の/太刀を帯て乱軍の中をうちぬけ/すこしも手疵 家人/相催して平家をほろほさん事時刻を/めくら すへからすと申てもろともに/落にけり ねを/つかはし給ひけれは平家の一門/こと〳〵く 給ふなり正清は御供/つかまつり殿原はしはしふせ ︻第三段︼ 鎌田兵衛申けるは守殿はおほし召/旨ありてひかせ ︻絵二︼ ︵義朝を諌める正清の絵︶ 都を落ぬ元暦のはしめには門司赤間関のいくさ破れ き を屓給はす寿永の/秋になりしかは舎弟判官よしつ て一門/西海にしつみて源氏の代とそ/なりにける るへからすといひけれは五十餘騎/のこりとゝまり ︻絵三︼ ︵三条河原における清盛率いる平氏と源氏の戦いの たゝかふ惣方/こゝにて多くうたれにけり て矢たねのあるかきり/心をひとつにしてふせき /射てのはしまいらせよ心さしは御供に/おと 源平盛衰の間夢/のことし ︻絵一︼ ︵六波羅における清盛率いる平氏と源氏の戦いの絵︶ ︻第二段︼ 義朝たえすして西の河原へ引しり/そきぬ馬をひか ︻第四段︼ 信頼 の宿所三箇所䮒義朝か/六條堀河の家をやき 絵∼義朝や金王丸が逃げ落ちる絵︶ さらに不引して頸を馬のはなにけさす/へしと申を はらふあいた/餘盡数十町にをよふ感陽宮の煙/の へて申けるは命おし/からんともからは是よりすな 正清みつゝきにとりつきて/たゝいま御命をはてさ ことし はちおつへし/よしともは今度かけ出なんのちは/ せ給ひて何ほとか/あるへき東国へ趣かせ給ひて御 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 9 ︻絵四︼ ︵信頼・義朝の邸宅を焼き討ちする絵∼猛火の絵︶ ︻奥書︼ 土佐古將監之真筆/元和三年霜月七日寫畢/森井善 太郎 ︵落款印﹁ 雲﹂︶ 四、考察 先行研究において、六波羅合戦巻の模本は東博本が代 表的に挙げられるが、そのためか他の模本について触れ られることは少なく、何点存在するのかさえ不明確であ る。しかし、絵巻の享受を考える上では、模本の存在は 重要である。今回論者が存在を知り得た模本は、早大本 D を除くと十三点である。その十三点の諸本と早大本の大 1 東京国立博物館蔵一巻 A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし・D色指示 あり・E森井奥書なし [成立]十八世紀初頭 F [模写者]横田養碩・平田小太郎 [蔵書印]﹁史﹂ 2 安田靫彦氏旧蔵一巻 ︵未見︶ C色なし・E森井奥書あり か [成立]明和九年 ︵一七七二︶ [模写者]千賀七郎左衛門義徴か 3 逸翁美術館蔵一巻 ︵国文研紙焼写真による︶ A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし︵一部淡彩︶ ・ D色指示あり・E森井奥書あり [成立]十八世紀後半 [模写者]稲葉通邦 ︵一七四四∼一八〇一︶ ︵一七九三︶ きな相違点は、A詞書第一段を持つか、B第一段以外の [成立]寛政五年 詞書を持つか、C絵に色が付いているか、D色の指示が [蔵書印]﹁道彦図書印﹂ 4 文字で書き込まれているか、E森井善太郎の奥書を持つ 関保之助氏旧蔵本 ︵未見︶ E か、である。先行研究を踏まえつつそれらをまとめると、 次のようになる。 ─ ─ 10 5 宮内庁書陵部蔵一巻 ︵︻絵四︼のみ︶ A詞書第一段なし・B詞書なし・C色なし・D色指示 あり・E森井奥書あり ︵一八〇四︶ [成立]文化元年 [模写者]松岡清助丹治辰方 ︵一七六四∼一八四〇︶ [蔵書印]﹁松岡文庫﹂﹁帝室図書之章﹂ 6 東京芸術大学大学美術館蔵一巻① ︵未見︶ A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし︵一部淡彩︶ ・ E森井奥書なし G [成立]天保十四年 ︵一八四三︶ ︵一八一八∼一八五八︶ H [模写者]木村立嶽 ︵一八二七∼一八九〇︶ 7 真田宝物館蔵一巻 ︵︻絵三︼のみ︶ A詞書第一段なし・B詞書なし・C色あり・D色指示 なし・E森井奥書なし [成立]十九世紀 [模写者]高川文筌 [蔵書印]﹁文筌画印﹂ 8 京都府一澤喜久夫氏蔵一巻 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について A詞書第一段なし・B詞書あり・C一部色あり・D色 指示あり・E森井奥書なし 年 ︵一八六一︶ [成立]文久元I [模写者]有信か 9 横浜市歴史博物館蔵一巻 A詞書第一段なし・B詞書なし・C色あり・D色指示 あり・E森井奥書なし ︵未見︶ ︵未見︶ 東京芸術大学大学美術館蔵一巻② A詞書第一段なし・B詞書なし・C色なし・E森井奥 書なし 安田靫彦氏旧蔵一巻 C色なし 小堀安雄氏旧蔵一巻① ︵未見︶ ︵未見︶ 小堀安雄氏旧蔵一巻② 以下、これらの絵巻と比較することで、早大本の特徴 を見ていきたい。尚、右に挙げたものの内、未見のもの は比較対象から外す。 ─ ─ 11 10 11 13 12 詞書第二段∼第四段に当たる部分は他本にもある。しか [凡例] ︻表1︼詞書第一段と諸本対照表 ⑴ 詞書について 一段と﹃平治物語﹄の代表的な諸本である流布本・古態 本・金刀比羅本の対照表である。 まず、詞書について検証していこう。早大本の大きな 。 特徴の一つは、冒頭に詞書があることである ︵︻第一段︼︶ し、詞書第一段は管見に及んだ限りでは早大本にしか存 六波羅に義平が攻め入るところから、後に頼朝によって 古典文学大系 ︵岩波書店、一九九二刊︶を使用した。 永積安明氏・島田勇雄氏校注日本古典文学大系 ︵岩 在しない。翻刻で示したように、絵巻が展開する以前に、 一、﹃平治物語﹄のテキストは、流布本・金刀比羅本は 源氏が再興されるという﹃平治物語﹄の一部の諸本の結 J 末まで、言わば物語のダイジェストが六十八行という長 句読点など私に改めた部分もある。 り、記事が前後する箇所である。 一、詞書の末尾部分は省略した。 切りは、章段が 一、表は便宜上、主に内容で区切って分けた。点線の区 有の表現である。 太字・ゴシック体の部分は、三本のうち、その本固 一、詞書第一段と一致する部分に、各諸本に線を引いた。 、古態本は日下力氏校注新日本 波 書 店、 一 九 六 一 刊 ︶ 文に渡って記述されている。絵巻の享受者に、この六波 羅合戦巻をどういった流れの中で見るべきか、予め示し ていると言えよう。 六波羅合戦巻の詞書と﹃平治物語﹄諸本との関係は、 詞書断簡や東博本を対象にした日下力氏による先行研究 K があり、早大本では詞書第二段・第四段に当たる部分は L 古態本に、第三段に当たる部分は金刀比羅本に近いこと が検証されているが、早大本の詞書第一段は流布本系本 文を参考にしていると考えられる。︻表1︼は、詞書第 ─ ─ 12 流布本 古態本 詞書釈文 悪源太は、其まゝ六はらへ寄ら 悪源太義平︵中略︶を始として るゝに、一人当千の兵ども、真 廿余騎、六波羅へをしよせ、一 前にすゝんで戦ひけり。︵中略︶ 二の垣 うちやぶりておめひて かけ入、さん〴〵に戦けり。 金刀比羅本 ︵なし︶ 清 盛 宣 ひ け る、﹁ か ひ 〳 〵 し く 防ぐ者なければこそ、敵は是ま で 近 付 ら め。 清 盛 さ ら ば か け ん﹂とて、︵中略/清盛の装束︶ ︵なし︶ さ る ほ ど に 悪 源 太 宣 け る は、 ﹁ 今 度 六 波 羅 へ よ せ て、 門 の 内 へいらざることこそ口惜けれ。 すゝめや者共、〳〵﹂とて、五 十余騎しころをかたむけ、おめ ひてかけければ、平家の軍兵ば つとあけていれにけり。︵中略︶ 大弐清盛、北の対の西の妻戸の 間 に、 軍 下 知 し て 居 た り け る が、妻戸の扉に、敵のいる矢が 雨のふるごとくにあたりけれ ば、 大 弐 清 盛、 大 に 忿 て、﹁ 恥 ある侍がなければこそ、これま で敵を近づくれ。のけや、清盛 かけん﹂とて、甲の緒をしめて、 妻戸の間よりつッと出、庭に立 たる馬を縁のきはへ引よせて、 ひ た と の る。︵ 中 略 / 清 盛 の 装 ︵なし︶ 抑待賢門の戦は平治元年十一月 廿七日の事なりし。悪源太義平 は同日の暮ほどに、またこそ六 波羅によせ給ふ。一人当千のつ はものども真先に進み戦けり。 清盛は、北の台の西の妻戸の間 に、軍下知してゐ給ひけるが、 妻戸のとびらに、敵のいる矢雨 のふるごとくにあたりければ、 清 盛 い か て の 給 ひ け る は、﹁ ふ せぐ兵に恥ある侍がなければこ そ、是まで敵は近づくらめ。い で〳〵、さらばかけん﹂とて、 ︵中略/清盛の装束︶ 御 曹 子 の た ま ひ け る は、﹁ 今 日 悪 源 太 の た ま ひ け る は、﹁ 今 日 六波羅へよせて、門のうちへ入 六波羅へよせて、門の中へいら ざるこそ口惜けれ。つゞけもの ざ る こ そ 口 お し け れ。 す ゝ め ども﹂とて、五十余騎かけいれ や、者ども﹂とて、究竟の兵五 ば、平家ふせぎかねて引いりに 十余騎しころをかたぶけてかけ いれば、平家の侍ふせぎかね、 けり。 ばと引てぞ入にける。義平まづ 本意をとげぬとよろこんで、お めきさけんで懸入給へり。 清盛は、北の台のにしのつま戸 に、軍の下知してゐたまひける が、妻戸のとびらに、敵の射か けし矢のあめのふるごとくにあ た り け れ は、﹁ ふ せ ぐ 兵 に 恥 あ る侍がなければこそ、これまで 敵はちかづくらめ。いでさらば かけむ﹂とて、 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 13 束︶ 平家の侍これをみて、筑後守父 子、主馬判官管親子、難波、妹 尾をはじめとして、究竟の兵五 百余騎、真前にはせふさがて戦 けり。︵中略︶ ︵なし︶ ﹁何か源氏の大将軍ぞ。かう申 は太宰大弐清盛。げんざむ﹂と ぞ の た ま ひ け る。﹁ 悪 源 太 是 に あり﹂とておめひてかけらる。 ︵中略︶ 平家の侍これを見て、筑後守父 子、主馬判官父子、難波、瀬尾 をはじめとして、究竟の兵真先 にすゝみ戦ひけり。 源氏の兵ども互におめひて責戦 ほどに、悪源太の勢はけさより つかれ武者、 平家の勢は今のあらてなり、悪 源太の勢すこしよはりてみえけ れ ば、﹁ さ ら ば 馬 の 気 を つ が せ よ﹂とて門より外へ引退く。や がて河より西へひかれけり。 馬引よせさせ打のりて、大音に 鐙 ふ む ば り 大 音 あ げ て、﹁ よ せ て、﹁ 大 将 軍 は た れ 人 ぞ。 か く ての大将軍は誰人ぞ。かう申は 申は太宰大弐清盛なり。げんざ 太宰大弐清盛也。見参せん﹂と て、かけ出られければ、御曹子 ︵なし︶ むせん﹂とかけ出たまへば、 こ れ を き ゝ 給 ひ、﹁ 悪 源 太 義 平 こゝにあり。えたりやおう﹂と さけびてかく。 義平三方をまくりたてゝおもて もふらず戦給ひしが、 義平三方をまくりたて、おもて もふらず切てまはり給ひしか 共、源氏は今朝よりのつかれ武 者、いきをもつかずせめ戦、 平家はあらてを入かへ〳〵、城 ︵なし︶ に か ゝ て 馬 を や す め、 懸 い で 〳〵たゝかひければ、源氏つゐ にうちまけて、門より外へ引し り ぞ き、 や が て 河 を か け わ た し、河原を西へぞ引たりける。 義 朝、﹁ ひ か ば い づ く ま で 延 ぶ 義 朝 宣 ひ け る は、﹁ 義 平 が 河 よ べきぞ。討死より外は、又、別 り西へ引つること、家のきずと の儀、有べからず﹂とて、やが おぼゆるぞ。義朝今はいつをか ︵なし︶ 河原をにしへ引にけり。 義 朝 是 を み 給 て、﹁ 義 平 が 河 よ り西へ引つるは家のきずとおぼ ゆるぞ。今は何をか期すべき。 平家新手をいれ替て、人馬の息 を休め、入替〳〵たゝかへば、 源氏の兵もせんかたなくて門よ り外に引しりぞきぬ。 義 朝 是 を 見 給 ひ て、﹁ 義 平 は 河 原を西に引しは家のきずとおぼ ゆるぞ。今は何をか期すべき。 ─ ─ 14 うち死せよ﹂とかけ出給へば、 鎌田兵衛馬よりとびをり、御轡 に と り つ き、﹁ 一 先 都 を 御 引 あ つて、かさねて平家をほろぼし 給へかし﹂と申ければ、 ﹁ あ づ ま へ ゆ か ば、 あ ふ さ か 山、不破の関、西海におもむか ば、須磨、明石をやすぐべき。 弓矢とる身は、死すべき所をの ︵なし︶ がれぬれば、中々最後の恥ある 也。 た ゞ こ ゝ に て う ち 死 に せ ん﹂とすゝみ給へば、︵中略︶ 討死せん﹂とて懸られければ、 鎌田馬よりとんでおり、水付に 立て申けるは、﹁︵中略︶しばら くいづくへも落させ給ひ、山林 に身をかくしても、御名ばかり をのこしをき、敵に物をおもは させ給はんこそ、謀の一にても 候 べ け れ。︵ 中 略 ︶ は や 落 さ せ 給へ﹂と申せば、 三条河原にて鎌田といひける は、﹁ 頭 殿 は お ぼ し め す む ね あ りておちさせ給ぞ。ふせぎ矢射 はや、人々﹂といひければ、 期すべき。うちじにせん﹂とて か け ら れ け れ ば、 鎌 田 申 け る は、﹁︵中略︶いづくへもおちさ せ給、名計あとにとゞめて、敵 に物をおもはせ給へ﹂と申ば、 よ し と も の た ま ひ け る は、﹁ 東 にゆけば さか山、不破の関を やとゞむべき。にしに趣かば、 須磨あかしをなすぎなむ。あは れ、ゆみ矢とる身ほどかなしか りけるものはなし。いかゞはせ ん﹂とのたまひけり。 三条河原にて鎌田兵衛申ける は、﹁ 頭 殿 は お ぼ し め す 旨 あ っ て落させ給ふぞ。よく〳〵ふせ ︵なし︶ ぎ矢つかまつれ﹂といひければ、 てかけんとしければ、鎌田、馬 より飛下、轡に取付、﹁︵中略︶ 若 又 の び ぬ べ く は、 北 陸 道 に かゝりて、東国へくだらせ給ひ なば、東八ヶ国に、たれか御家 人ならぬ人候。︵中略︶﹂と申せ 共、︵中略︶ 三条河原にてかま田申けるは、 ﹁守殿はおぼし召たゝせたまふ むねあるにより引退給ふ。いま しばしふせぎ矢射てのばしまい らせよ﹂といひしに、 ひらか四郎義のふひきかへし、 さん〳〵にたゝかひければ、よ し と も 見 た ま ひ、﹁ あ は れ 源 氏 はむちさしまでもおろかなる物 はなきかな。あッたら武者平賀 義 朝 宣 ひ け る は、﹁ 東 へ 行 ば あ ふさか、不破の関、にしへ行ば 須磨、明石をやすぐべき。たゞ こゝにてうち死にせん﹂とて ︵中略︶ 平賀四郎よしのぶ、たゞ一騎引 返 し て、 散 々 に た ゝ か ひ け れ ば、義朝これを見たまひて、 平 賀 四 郎 義 宣、 引 返 し 散 々 に 義朝の勢の中より、 ︵中略︶たゞ たゝかはれければ、義朝かへり 一騎、とッて返して称けるは、 見 給 て、﹁ あ は れ、 源 氏 は 佃 さ ﹁ さ り 共、 音 に は 聞 こ そ し つ ら しまでも、をろかなる者はなき め、信濃国の住人平賀四郎源義 物かな。あたら兵、平賀うたす 信、生年十七歳。われと思はむ 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 15 ﹁あれ、よしのぶうたすな﹂と 宣ひしに、佐々木、須藤刑部、 伊沢をはじめとして、はせふさ がつてふせぎける。佐々木源三 秀よし、須藤刑部としみち、伊 沢四郎のぶかげも、六条辺にて 敵にかけあはせ、敵あまたうち とつて、或は打死し、あるひは 手屓て落にけり。 か様に面々たゝかふ間に、 な。義宣打すな﹂との給へば、 佐々木の源三、須藤刑部、井沢 四郎を始として、われも〳〵と 真前に馳ふさがてふせぎける が、︵中略/激戦の様子︶ 義朝は延ゆきけるこそあはれな れ。 此ものども、ふせきたゝかひ討 かやうに戦ひまに、︵中略︶ 死しけるに、 者あらば寄りあへ、一勝負せん﹂ うたすな、者とも。平賀うたす とて、さん〴〵にたゝかふ。 ︵中 な﹂と宣へば、佐々木源三、須 略/激戦の様子︶ 藤刑部、井沢の四郎をはじめと して、我も〳〵と中にへだゝり 戦けり。︵中略/激戦の様子︶ ︵なし︶ 合戦すでにすぎければ、信頼 宿所、義朝六条堀河の舘、末実 大炊御門堀川の家、以上五ヶ所 に火をかけたり。をりふし風は げしくふき、とがなき民屋、数 千家やけければ、余煙、京中に みち〳〵てけり。かの咸陽宮の ︵なし︶ さるほどに、平家の軍兵、信頼、 義朝の宿所をはじめて、謀 の 輩の家々にをしよせ〳〵火を懸 て 焼 払 ひ、 謀 の 輩 の 妻 子 所 従、にし山、ひがし山片辺にし のびゐて、御方軍にかたせ給へ といのるいのりもむなしくて、 ︵なし︶ ︵なし︶ 義 朝 お ち の び 給 ひ し か ば、︵ 中 略︶ ものゝふのならひとはいひなが ら、としもすでにくれなむに、 寒さもことにつよくして、きの ふの雪も消やらず、あはれさも な か 〳〵 に、 い づ く を そ れ と さゝねども、まづ青はかの長者 をなんたのみにてをもむき給ひ し。 さ る 程 に、 平 家 の 軍 兵 は せ 散 て、信頼、義朝の宿所を始て、 謀 の 輩 の 家 々 に、 を し よ せ 〳〵火をかけて、やきはらひし かば、其妻子眷属、東西に逃ま どひ、山野に身をぞかくしける。 よしともは東をさして落給ふ。 扨、平家の人々、義朝の宿諸な らびにのぶよりの舘に火をか けゝれば、魔風さかむにして、 炎地にふきしき余尽数十丁にふ きちらして、たちまちに灰塵の 地とぞなりにける。 ─ ─ 16 煙、雲とのぼりしを伝聞ては、 外国のむかしなれ共、理をしる ともがらは くぞかし。 ︵なし︶ あとのけふりを見けるこそ、い とゞかなしくおぼえけれ。 八幡殿の少名をば源太とぞいひ け る。 二 歳 の 時 ゐ ん よ り、﹁ ま いらせよ、御らんぜらるべし﹂ と仰を蒙て、︵以下略︶ 詞書の流れや細部の記述は、三本の中では流布本が最 も近い。流布本の物語の展開は、主に古態本と金刀比羅 いるのは流布本である。また、義平勢に向かう清盛を見 に古態本には義平の掛け声はない。どちらも兼ね備えて 八幡殿のおさな名を源太とぞ申 ける。二歳のとき、院より、 ﹁ま いらせよ、御覧ぜん﹂と仰を蒙 り給て、︵以下略︶ 本を混ぜ合わせた形となっているため、詞書が古態本・ て、筑後守家貞等を始めとする平家の武士たちが戦いに 嫡子よりともは、当年十二歳に なり給ひぬ。いまだいとけなし といへども、弓馬の家にむまれ て、大軍をおそれずして、父と ともに打たゝれしが、源太が産 衣といひし鎧は、義家 二歳の とき院よりまひらせ給ひしよろ ひの、家に伝りしを着し給ひ、 鬚きり丸の太刀を帯て、乱軍の 中をうちぬけ、すこしも手疵を 屓給はず。︵以下略︶ 金刀比羅本それぞれと重なる部分は勿論ある。しかし、 挑むという記述は流布本にしか存在せず、詞書第一段が 盛が北の対の西の妻戸付近にいたという記述はなく、逆 例えば詞書の冒頭部分、義平の掛け声から清盛が勇み挑 流布本を参考にしていることは明らかである。 流布本の成立が一四四六年∼一五六〇年前後の間と考 む場面は、金刀比羅本には﹁六波羅へよせて門のうちへ 入さるこそ⋮⋮﹂に相当する義平の掛け声はあるが、清 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 17 あったとは考えられず、後補と言える。従来知られてい 内容が記されていることから、この詞書第一段は原本に 言や、平氏による信頼・義朝の宿所の焼き討ちといった M えられることや、詞書第二段以下と重複した、正清の諫 述も注意すべきであろう。合戦が起きた月は正しくは十 むに⋮⋮﹂という表現もやや解し難い。これらの点を踏 ﹁ものゝふのならひとはいひなからとしもすてにくれな 密には適切ではない。更に、義朝等が落ち延びる箇所の には改元されるため、﹁元暦のはじめ﹂という表現は厳 まえると、一行目の﹁平治元年十一月廿七日﹂という記 る六波羅合戦巻の模本では、巻頭にあるべき詞書が欠け N ているであろうことが推測されている。事実、原本には もしくは早大本が見本とした絵巻もまた、巻頭の詞書が 単なるミスとも断言し難く、早大本制作者が物語の展開 一と二の誤写の可能性はあるが、他の問題点と併せると ③同第三段﹁御共つかまつり﹂│断簡・他本﹁つかま ─ ─ 18 冒頭の詞書が存在していたかは定かではないが、早大本、 二月である。後に﹁としもすてにくれなむ﹂とあるため 欠落していると考え、これを補ったのであろう。そして 詞書第二段∼第四段は、詞書断簡や東博本と比較する と、字母や改行の全てが一致するわけではない。加えて、 ただ補うばかりでなく、物語の最終的な結末まで示した。 を具に把握していたか疑問である。 詞書第一段の内容については、注意すべき点が幾つか ある。末尾部分の﹁寿永の秋になりしかは舎弟判官よし 言葉の異同も以下の四箇所見える。 ①早大本第二段﹁御命をはてさせ給て﹂│他本﹁すて させ﹂ ②同第二段﹁馬のはなにけさすへし﹂︵一澤本も同様︶ 0 つねをつかはし給ひけれは平家の一門こと〳〵く都を落 ぬ﹂という記述は、平家一門が都落ちしたのは木曽義仲 が都に来たためであって、義経ゆえではない。それに続 く、﹁元暦のはしめには門司赤間関のいくさ破れて一門 0 │他本﹁はなにけたすへし﹂ 0 0 西海にしつみて﹂という記述も、壇の浦の戦いは元暦二 年 ︵一一八五︶三 月 に 起 き た の で あ り、 そ の 約 五 ヶ 月 後 0 つる﹂ ﹁両方﹂ ④同第三段﹁惣方こゝにて多くうたれにけり﹂│他本 0 ④の﹁惣方﹂のように一概に誤写と断じ難い例もあり、 ②のように同様の異同が見える他本もあることから、こ 認出来る。また、東博本・逸翁本・書陵部本・真田本・ 一澤本・横浜本には、文字によって色の指定が書き込ま れている。残欠と早大本の配色を比べると、一致してい る部分もある一方、異なる箇所も多く、原本の全てを忠 実に踏まえているわけではないことが分かる。各模本の 主な登場人物に焦点を当てると、東博本では清盛・義 朝・正清・金王丸・重成の名が明記されているが、早大 配色も、早大本と全てが一致するわけではない。 以上、早大本の詞書を検証してきた。諸問題点はある ものの、詞書第一段からは、早大本やその見本が単に模 本では短冊はあっても名前は一切なく、どの人物が誰を うした写しを持つ模本の系統も考える必要があろう。 写をするだけでなく、江戸時代人々に最も読まれた流布 指すのか、絵師に明確な認識があったか不明である。こ のうち、物語に装束の色が明記されているのは、清盛と 本系本文を以て絵巻を補完しようとした跡が窺える。そ して詞書第二段や第三段には異同があり、こうした点か 義朝である。詞書第一段の元となった流布本では、清盛 に乗った姿が一貫して描かれており、物語や残欠と一致 P するが、太刀は茶色で着色されている。残欠では、太刀 。早大本では濃い青色の鎧・直垂と黒い馬 比羅本ほぼ同︶ き 馬 に 黒 鞍 を か せ て 乗 ﹂ っ て い た と す る ︵ 古 態 本・ 金 刀 刀をはき、くろほろの矢負、ぬりごめ藤の弓もて、くろ の装束は﹁紺のひたたれに黒糸縅のよろひき、黒漆の太 らも早大本と他本との違いが見えるのである。 ⑵ 絵について ろう。早大本は全段に渡り彩色が 次に、絵の考察に移O 施されている。原本残欠も色が付いている。模本では全 体が彩色されたものとして真田本・横浜本が、一部が彩 色されたものとして一澤本がある。逸翁本では濃淡が確 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について ─ ─ 19 0 0 も物語同様黒く塗られている。義朝の装束は、物語の通 りであれば、﹁赤地のにしきのひたゝれに、黒糸縅のよ ろひに、鍬形うたる五枚甲の緒をしめ、いか物作の太刀 あろう。しかし義朝の装束は指示とも一致せず、物語か R らも離れ、独自の配色を施している。 配色以外にも、諸本間で相違点がある。三条河原の戦 いを表す残欠⑨ ︵番号は﹃日本絵巻大成 ﹄による︶の図に 直垂は濃い青色である。金刀比羅本で﹁練色﹂︵薄黄色︶ 。しかし、 ︻絵二︼の諫言の場面において、鎧は灰色、 ぼ同︶ ろ 鞍 を か せ て ﹂ い る は ず で あ る ︵ 流 布 本 に よ る。 古 態 本 ほ 背負う弓矢があるか、その下に位置する武士の背に、折 ・逸翁本・横浜 が確認出来るのに対し、早大本 ︵図版2︶ で違いがある。残欠・東博本・真田本・一澤本では武士 当たる部分では、図左上に武士が描かれているかどうか をはき、黒羽の矢負、節巻の弓もて、黒鴾毛なる馬にく とされる直垂の色とも異なる。横浜本や真田本のように、 Q 清盛の装束の色でさえ物語から遠ざかってしまう模本を れた弓が刺さっているかどうかという細かな違いもある。 本には見えない。この図では他に、中央一番上の武士の 考えれば、早大本は﹃平治物語﹄の世界と完全に乖離す るわけではないが、距離があることは明らかである。東 博本などでは、清盛の鎧や直垂に﹁コン﹂という色の指 示が見え、義朝の直垂には﹁モン朱クルマキ﹂︵東博本は 後 半 判 読 不 能 の た め、 逸 翁 本 に よ る ︶と い う 指 示 が 見 え る。 もし物語を参考にしていれば、清盛の装束は一致させる 一方、太刀の色だけを変えるとは考え難い。絵巻の彩色 かに伝わる配色指示の影響などをも考慮すべきで については、物語との直接的な影響関係よりも、模本の 間で [図版2]残欠⑨相当箇所 ─ ─ 20 13 ず、その後にまた別の紙を継いで次の宿所の焼き討ち場 ㎝ の短い紙を継ぎ、その かな中でしか当該場面を描か ある。二つ目は同場面の炎の絵である。東博本では一一 にも関わらず、苦しんでいる様子が見られず、違和感が いるが、早大本では存在しない。この人物は火中にいる 焼き討ち場面で、他本いずれも炎の中に武士が描かれて が四箇所見えることである。一つ目は、一軒目の宿所の ︻絵四︼の信頼・ 図の違いについて最も着目すべきは、 義朝宿所焼き討ちの場面で、早大本と他本で異なる描写 不自然である。早 場面に移っており、 途中で切れて次の 描き方では、炎が 東博本含む他本の 、 かるが ︵図版4︶ 本であると特に分 彩色が付いた横浜 討ちの炎の絵は、 。このように焼き討ち場面には、東博本を いる ︵図版3︶ 骸かと思われる柱と共に、猛火のみの場面が設けられて 四つ目は、二軒目の焼き討ちの後に、燃えゆく宿所の残 し、早大本では四六.五㎝ もの長さに及んで猛火を描く。 五㎝ の短い紙を継ぎ、その中でしか炎を描かないのに対 するもので、二軒目の焼き討ちの後に、東博本では一四. の四九.六㎝ に渡り、猛火を描く。三つ目も炎の絵に関 伝わった、②早大 絵があり、それが ①原本にこうした る理由としては、 このような絵が 早大本のみに見え 然と言えよう。 大本の形が最も自 ─ ─ 21 る。一軒目の焼き 面に移っている。それに対し、早大本ではその四倍以上 始めとする他本とは異なる絵が、早大本にのみ認められ 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について [図版3]猛火の場面 本などの後代の絵 る。冒頭に詞書が の二つが考えられ えてみよう。文筌が描いた真田本では、比較的血は抑え 渡り彩色が施されている真田本・横浜本とも比較して考 猛火の描写に加えて指摘しておきたい特徴は、早大本 は血の描写が著しいということである。この点、全体に ことは出来ない。 補われていたこと て描かれている。それに比べると、横浜本は真田本より ─ ─ 22 巻が独自に補った、 を考えれば、絵巻 も、首や手が斬られている部分に激しく血を描く。早大 本では隅に位置する武士や死体にも血が描かれている。 の末尾も補った可 としての体裁を整 残欠⑨ ︵図版2︶に当たる場面において、早大本では頭 本は、横浜本よりも更に多量に血を描く傾向にある。例 えようという意識 に矢が刺さった武士に多量の出血が描かれているが、横 能性は充分にある。 があったゆえだと えば、横浜本の血の描写は、画面中央のような、目立つ 思われる。冒頭や 浜本では血は描かれていないのも、そうした例の一つで S ある。また、人間に対してだけでなく、横浜本では弓は もしそうであるな 末尾を整えることで、絵巻は﹁完成した絵巻﹂らしくな 刺さっているが血を流していなかった馬の周辺にも、早 場所に位置する人々に対して確認出来るのに対し、早大 るであろう。その一方で、早大本は義徴転写系統とは異 。 大本では夥しい血を描き込んでいるのである ︵図版5︶ らば、それは絵巻 なる道筋で、森井善太郎の言う﹁土佐古将監之真筆﹂す これらが模写にせよ、早大本の加筆にせよ、東博本のよ なわち原本に り得る可能性もあるため、①も否定する [図版4]横浜本の炎 田本のように血を 込まないものや真 うに炎などを描き の絵の丁寧さに由来するのではないだろうか。 を窺わせる。﹁土佐光起筆﹂という伝承があるのも、こ がさほどそうではないことに比べると、比較的質の良さ 全体として、早大本の絵は丁寧であると言える。横浜本 以上、早稲田大学図書館蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合 戦巻﹄の考察を行ってきた。早大本が奥書・詞書・絵の 五、おわりに 抑えるものがある ことからすると、 早大本は、殺し合 いった、いくさの いずれを見ても、大きく他本と異なる特徴を持つことは 真田本・横浜本にもある傾向だが、一番明瞭に色を付け ていることである。前者は早大本独自の特徴で、後者は 品が享受・改作されている様子が窺える。早大本にもそ の絵巻というよりも、﹃平治物語絵巻﹄という一つの作 六波羅合戦巻の各模本を見ると、物語の記述から離れ た装束の配色が行われることも珍しくなく、﹃平治物語﹄ ─ ─ 23 いや焼き討ちと 惨い部分を描き込 報告してきた通りである。特に猛火や血の描写などから は、模写という条件の下でも、早大本なりの意図をもっ むことを意識して いると言えよう。 ているのが早大本であり、細かな点で配色を意識してい うした傾向はあるが、その一方で、流布本を利用した冒 て絵巻を作り上げていることが分かる。 ると言えよう。更に、時折省略していることもあるが、 頭の詞書の存在から、﹃平治物語﹄というテキストの世 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について 直垂や鎧の模様などが比較的細かい点も特徴的である。 他に全段に渡って特徴的なのは、死者の顔を緑がかっ て着色していることや、刀や槍の棟を青く塗って表現し [図版5]倒れた馬 界との新たな交渉も見えるという点で、早大本は貴重な い る も の や、 近 年 現 存 が 確 認 さ れ て い る も の も 含 ま れ て い る。 ︵3︶ 注︵1︶田村氏論稿。 ︵ 4 ︶ 朝 倉 治 彦 氏 監 修﹃ 定 本 丹 鶴 叢 書 第 巻﹄︵大空社、一 九九八刊︶参照。﹃新宮城書蔵目録﹄は同シリーズ第 ∼ 35 模本と言えるであろう。 注 33 ﹂一九六七・五︶、秋山光和氏﹁﹁平治物語絵巻﹂三条 ﹂一九七三・二︶、宮 全 集 平 治 物 語 絵 巻 ・ 蒙 古 襲 来 絵 詞 ﹄ 角 川 書 店、 一 九 七 五刊︶・同氏著﹃合戦絵巻﹄︵角川書店、一九七七刊︶所収、 次男氏﹁平治物語絵巻の絵画史的考察﹂︵﹃新修日本絵巻物 殿夜討の巻について﹂︵﹁仏教芸術 究 ︵7 ︶ 注︵5︶秋山氏論稿。 小松茂美氏・日下力氏・松原茂氏解説﹃日本絵巻大成 ︶ 前注同。 平治物語絵詞﹄ ︵中央公論社、一九七七刊︶などを参照。尚、 ︵8 ︵9 ︶ 小 松 茂 美 氏 編﹃ 日 本 絵 巻 大 成 当 麻 曼 荼 羅 縁 起・ 稚 児 観音縁起﹄︵中央公論社、一九七九刊︶に原本掲載。 ﹁井﹂かと思われる。 ︵ 6︶ 国 文 学 研 究 資 料 館 編﹃ 逸 翁 美 術 館 蔵 国 文 学 関 係 資 料 解 題﹄ ︵明治書院、一九八九刊︶の解説には﹁森村﹂とあるが、 成立﹂︵注︵1︶絵巻大成︶がある。 7﹂一九五二・九︶、松原茂氏﹁﹁平治物語絵詞﹂の伝来と 巻所収。 ︵1 ︶ 鈴木敬三氏﹃初期絵巻物の風俗史的研究﹄︵吉川弘文館、 ︵5 ︶ 注︵1︶鈴木氏著書。他、この模本を紹介したものとして、 一九六〇刊︶、田村悦子氏﹁平治絵巻六波羅合戦巻詞書の 秋山光和氏﹁平治物語六波羅合戦巻について﹂︵﹁大和文華 断簡について│併せて現存三巻の書蹟に及ぶ│﹂︵﹁美術研 36 者とし、そこから成立年を推定する論も提出されているが、 松原氏により、藤原教家︵一一九四∼一二五五︶を詞書筆 残 欠 の う ち 九 枚 は 散 逸 し た と す る が、 滋 賀 県 MIHO MU、ニューヨーク・バーク・コレクションに存在して SEUM ︶ 羽 衣 国 際 大 学 日 本 文 化 研 究 所 編﹃ 伊 勢 物 語 絵 巻 絵 本 大 成 日下氏により疑問も呈されており、議論は決着していない。 ︵ 資料編﹄︵角川書店、二〇〇七刊︶に原本掲載。 ︵2 ︶ 福井利吉郎氏﹁新出の平治物語絵巻残闕﹂︵﹁文化﹂一九 四三・九︶。注︵1︶絵巻大成の小松茂美氏による図版解説は、 ︵ ︶ 但しこの説は、最終的に絵巻を模写した狩野養信︵一七 九六∼一八四六︶により﹁光長トアレトモ其レヨリハ後也﹂ 24 13 10 と否定されている。 11 ─ ─ 24 90 252 10 ︵ ︶ 注︵9︶図版解説。池田洋子氏も土佐光信とみなしている が、根拠は明示されていない︵﹁当麻曼荼羅縁起絵巻│絵 と思われる。しかし、その行年を書いていることから、奥 ︵ 一 八 二 三 ∼ 一 八 八 〇 ︶ の こ と で、 そ の 画 堂 で 模 写 し た 有 は ︶の芸大本の例 ︵ ︶﹃平治物語﹄の代表的な諸本のうち、金刀比羅本︵永積 安 明 氏 分 類 の 四 類 本 ︶ は、 物 語 中 に 源 氏 の 再 興 は 示 唆 さ れ 元に模本があった様子も注目すべきであろう。 を 考 え れ ば 、 養 信・ 雅 信 親 子 と い っ た 狩 野 派 の 絵 師 た ち の 書を書いた人物は有信ではなかろう。注︵ 信は、﹁信﹂の字を持つことから狩野の関係者ではないか ﹂ 二〇一三・三﹀︶。 は注︵1︶鈴木氏著書を、6・ う。養信は絵巻の模写でも著名であり、﹃平治物語絵巻﹄ MUSEUM ﹂一九七 の う ち、 三 条 殿 夜 討 巻 や 信 西 巻 の 模 写 に も 関 わ っ て い る ︵松原茂氏﹁狩野晴川院と絵巻﹂︿﹁ 九・十一﹀参照︶。 ︵ ︶ 影山純夫氏﹁高川文筌論﹂︵﹁松代9﹂一九九六・三︶参 照。 16 画構成に関する一考察│﹂︿名古屋造形大学研究紀要 ︵ ︶ この他、小林古径氏︵一八八三∼一九五七︶による一部 ∼ 模写が二点ある︵﹃生誕一三〇年記念小林古径展 内なる 美を求めて﹄︿小林古径記念美術館、二〇一三刊﹀︶。 ︵ ︶ 以下、2・4・ ︵ ︶ 注︵5︶秋山氏論稿。 ︵ ︶ 注︵ ︶目録によれば、奥書には﹁六波羅合戦天保十四癸 卯年中春十有三日武蔵国江戸狩野晴川院法印養信公御宿所 ﹃東京芸術大学芸術資料館蔵品目録 東洋画模本Ⅳ﹄︵東京 芸術大学芸術資料館、二〇〇〇刊︶を参照した。 10 ︵ ︶ 奥書には、﹁文久元年辛酉歳六月/写于狩野勝川院画堂 /有信行年二十﹂とある︵/は改行︶。勝川院は狩野雅信 ているものの、古態本︵同一類本・上巻=陽明文庫本、中 下 巻 = 学 習 院 大 学 本 ︶ や 流 布 本︵ 同 十 一 類 本 ︶ と 異 な り 頼 朝挙兵の章段は設けられていない。 古書院、一九九七刊︶所収。 ︵ ︶﹁合戦絵巻と﹁平治物語絵詞﹂│軍記文学との関連から │﹂︵注︵1︶絵巻大成︶。同氏著﹃平治物語の成立と展開﹄ ︵ ︵ ︶ 古態本は永積分類一類本、金刀比羅本は四類本、流布本 は十一類本を指す。 ︵ ︶ 成立期の上限については、佂田喜三郎氏﹁更に流布本保 元 平 治 物 語 の 成 立 に 就 い て 補 説 す ﹂︵﹁ 神 戸 商 船 大 学 紀 要 1﹂一九五三・三︶、高橋貞一氏﹁䆶囊鈔と流布本平治物 語 の 成 立 ﹂︵﹁ 国 語 国 文 6-﹂ 一 九 五 三・ 六 ︶ 参 照。 下 限 については、拙稿﹁流布本﹃保元物語﹄﹃平治物語﹄の成 立 期 の 下 限 │﹃ 榻 鴫 暁 筆 ﹄ と の 関 係 か ら │ ﹂︵﹁ 国 語 国 文 ─ ─ 25 13 19 20 11 而写之︵中略︶森専之助藤原近恒十六歳模之﹂とあるとい 14 早稲田大学 図書館所蔵﹃平治物語絵巻 六波羅合戦巻﹄について 22 344 21 22 19 12 13 14 16 15 17 18 7-﹂二〇一四・七︶参照。 ︵ ︶ 注︵1︶鈴木氏著書や、注︵5︶秋山氏論稿参照。 ︵ ︶ 残欠の色彩は注︵1︶絵巻大成の他、秋山和夫氏編﹃原色 日本の美術 絵巻物﹄︵小学館、一九六八刊︶、﹃日本の美 ホームペー MIHO MUSEUM ジ︵ http://www.miho.or.jp/ ︶で確認した。 ︵ ︶ 注︵1︶鈴木氏著書によれば、﹁搗は藍の深い染色をいい、 黒韋は藍韋の異称であり、黒糸は搗染の糸﹂である。 ︵根津美術館、二〇一四刊︶、 三千年の輝き ニューヨーク・バーク・コレクション展﹄ ︵日本経済新聞社、二〇〇六刊︶、 ﹃名画を切り、名器を継ぐ﹄ 83 ︵ ︶ 平野卓治氏﹁館蔵﹁六波羅合戦巻﹂の基礎的研究﹂︵﹁横 浜市歴史博物館調査研究報告3﹂二〇〇七・三︶、 ﹁館蔵﹁六 波羅合戦巻﹂と真田宝物館所蔵の﹁平治物語絵巻﹂﹂ ︵﹁横浜 市歴史博物館調査研究報告4﹂二〇〇八・三︶に指摘がある。 横浜本の清盛の装束は、物語と一致するところも一部ある。 ︵ ︶ 横浜本では、義朝は紫の鎧に黄色の直垂を着ている。 ︵ ︶ 東博本でも弓は描かれている。真田本では弓自体がない。 豊田勝彦氏に心より御礼申し上げます。 [付記 ] 本 稿 執 筆 に 当 た り、 お 世 話 に な り ま し た 早 稲 田 大 学 図 書館特別資料室、諸先生方、諸機関各位、一澤喜久夫氏、 ︵たきざわ みか 大学院文学研究科博士後期課程在学︶ ─ ─ 26 24 23 25 26 28 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