第 28 講

第 28 講
ギ リ シ ア 哲 学 と 中 世
本講では中世世界のギリシア哲学受容という観点から中世哲学を俯瞰したいと思います。中世世界
にギリシア哲学はどのように受け取られたのか、中世哲学の中でギリシア哲学はどのような役割を演
じたのか、そういったことを見極めるのが講義の眼目であります。そしてそれをギリシア哲学の主要
潮流である「プラトニズム」と「アリストテリズム」に焦点を当てて見ていきたいと思います。
(1)プ ラ ト ニ ズ ム と 中 世
前講で見たように、ギリシア哲学は、
「新プラトン哲学」
(Neoplatonism)という最後の輝きを放っ
た後、その光芒を残して歴史の彼方に没して行きました。そしてそれに代わってヘブライズムがキリ
スト教という姿を取って西洋精神史に登場してきました。ローマ帝政期から中世初期の西洋はまさに
ヘレニズムとヘブライズムという西洋二大精神の交代という激動の時代であったと言って間違いない
でありましょう。精神の交代は歴史を根底から揺るがす大変動であり、ローマ末期から中世初期のヨ
ーロッパ史が凄惨なものにならずにいなかったゆえんであります。当然ヘブライズムが西洋の基幹精
神となるためにはまずヘレニズム(ギリシア・ローマ文化)と戦い、これを否定しなければなりませ
んでした。ユスティノス、エイリナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネスといった新生キリスト教
の護教家たちは殉教の危険を顧みずにキリスト教を弁証しましたが、彼らの弁証は政治的には対ロー
マ、宗教的には対ユダヤ教や他の諸宗教であったにせよ、全体として見れば、対ヘレニズム、すなわ
ち対ギリシア哲学であったと言って過言でありません。彼ら護教家たちはギリシア哲学を「異教哲学」
として、あるいは駁し、あるいは諷して、キリスト教を弁証しました。しかしキリスト教を擁護して
弁証するということはキリスト教のために論じることであり、ある意味で「哲学」を語ることであり
ます。また上掲の護教家たちはおしなべてギリシア哲学に造詣の深い人々であったので、彼らの弁証
は当然ギリシア哲学に絡んだものにならずにいませんでした。そのようにしてキリスト教の弁証は次
第に哲学的色調を帯びるようになり、そこに新生キリスト教の台頭と世界浸透の中にあって否定され
たはずのギリシア哲学が再び浮かび上がってくる状況が生まれたのであります。もちろんヘブライズ
ム(キリスト教)の台頭とヘレニズム(ギリシア哲学)の後退という歴史的動向は変わらないのです
が、そのような状況下にあってヘブライズムとヘレニズムのある種の混交、融合状態が出現したわけ
であります。そしてやがてキリスト教がローマで公認され、さらに国教化されて、名実共に世界宗教
としての歩みを始めるようになると、当然教会は巨大組織として制度や法体系、それに教義を具えね
ばならなくなります。その教義の構築にロゴス論をはじめとする多くのギリシア的概念が活用されま
した。そのようにしてギリシア哲学は初期キリスト教世界の確立にいわば裏口から参入して行ったの
であります。
初期のキリスト教において採用されたギリシア哲学はギリシア哲学の中でも超越的志向性がひと
きわ強いプラトニズムであります。プラトニズムの超越的志向性が一神教というキリスト教の超越構
造に合致していたのでありましょう。プラトニズムとキリスト教は、哲学か宗教かという違いはある
にしても、その志向性が超越的であるという点では一致しているのであります。キリスト教が最初に
受け取った哲学がプラトニズムであったということ、言い換えれば、キリスト教と同じ超越の構造を
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持った哲学にキリスト教徒が出会ったということ、このことをハイデガーは「ギリシア哲学(プラト
ニズム)はいわばキリスト教徒にとっておあつらえ向きの哲学であった」と表現しています。プラト
ニズムもキリスト教も主観性の哲学の一形態なのであります。プラトニズムは、以前にも述べました
が、主観性の哲学の最も華麗な形而上学的表現と言うことができると思いますが、プラトンによって
生み出された形而上学的、理念的世界が新プラトン哲学という触媒を経てキリスト教イデオロギーと
合体することによって、新生ヨーロッパ世界を作り出すこととなったのであります。
一般に中世世界はヘブライズムとヘレニズムが合体してできた世界と形容することができると思
いますが、中世前半期の形成に参与したヘレニズム(ギリシア哲学)はプラトンから新プラトン派を
経由してヨーロッパ世界に流入したプラトニズムであって、この超越的志向性の強い哲学思想の流れ
とヘブライズム(キリスト教精神)の合体によって作り出されたキリスト教哲学が「教父哲学」
(Patrologia)であります。そしてその最大の人物がアウグスティヌス(Augustinus, 354 年‐430
年)であります。中世は375年の西ゴート族のローマ侵入から2ないし3世紀間つづいたゲルマン
民族の大移動によって完全に祓い清められた新生ヨーロッパに一から作り直された世界ですが、その
新生ヨーロッパにその後のヨーロッパ人の考え方の基礎となる教えを授けた人物こそアウグスティヌ
スなのであります。アウグスティヌスが「ヨーロッパの教師」と呼ばれるゆえんであります。中世を
わたしたちは神聖ローマ帝国成立(バティカンにおけるカール大帝の戴冠)の紀元800年を分水嶺
にして前半期と後半期に分けることができると思いますが、その前半のキリスト教哲学はプラトニズ
ムに基づく「教父哲学」
(Patrologia)であったわけであります。ちなみに中世の後半期を支配した哲
学は「スコラ哲学」
(Philosophia scholastica)ですが、スコラ哲学はアリストテレスの理性主義の
哲学をベースとする哲学であります。したがって中世を紀元800年を境に二分するなら、大雑把に
は、前半はプラトニズムが支配し、後半はアリストテリズムが支配したと言うことができます。しか
し近世になると再びプラトニズムが復興し、近代哲学は、コギトの哲学という装いを取りながらも、
全体としてはプラトニズムであり、主観性の哲学と総括することができます。ルネッサンスは、これ
を哲学に限って見れば、プラトニズムの復興なのであります。ルネッサンスを主導したフィレンツェ
の大富豪コシモ・メディチはプラトンを愛し、プラトンを聴くことを日課としました。彼はフィチー
ノによるプラトン著作集のラテン語訳を後援しています。中世からの脱却はスコラ哲学からの脱却で
あり、これはアリストテレス哲学からの脱却を意味しています。アリストテレスを抑えて再びプラト
ニズムが復活してきたのであります。そしてそのプラトニズムは、何度も言いますが、主観性の哲学
そのものなのであります。実は近代を推進している原理は主観性原理(Subjektivität)であり、全体
としてプラトニズムなのであります。今日のアメリカに主導されたグローバリゼイションは主観性原
理(Subjektivität)の世界浸透に他なりません。その結果存在に根ざすエートスのことごとくが駆逐
されることとなりました。それが今日の世界の実相であります。近代科学も近代のテクロノジーもプ
ラトニズムをベースとする知であります。そのように考えれば、2500年の西洋哲学は、全体とし
て、プラトニズムであり、主観性の哲学であったと総括せざるをえないでありましょう。ハイデガー
がプラトン以降の2500年の西洋哲学を「(西洋)近代の主観性の形而上学」(die neuzeitliche
Metaphysik der Subjektivität)と名指すゆえんであります。今日ポスト・モダンが叫ばれています
が、その脱近代の意味するところは主観性の哲学からの脱却であり、プラトニズムからの脱却なので
あります。ハイデガーもプラトニズムと戦っています。しかしハイデガーやポスト・モダンの諸思想
によって世界が本当にプラトニズムから解放されるのかどうか、これは今後の歴史の展開を見なけれ
ば分かりません。主観性原理(Subjektivität)はそれほどにも執拗かつ強力な原理なのであります。
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わたしたちはその地球支配の深刻さを認識しなければなりません。西洋2500年の哲学の全体を俯
瞰してもプラトニズムほど影響が大であった哲学は他に見当たらないと言って過言でないでありまし
ょう。本講義においては特にプラトニズムのギリシアにおける立ち上がりとその世界浸透を問う形で
論じてまいりました。
プラトニズムの西洋世界流入と関連して、ここで『ディオニュシオス文書』に言及しておかねばな
りません。
6世紀頃から教会内に『ディオニュシウス・アレオパギタ文書』と総称される『天上位階論』
、
『教
会位階論』
、
『神名論』
、
『神秘神学』などといった一群の文書が存在することが知られるようになりま
した。その内容は人間の魂がいかにして存在をすら突き抜けて神にいたるかを語るもので、極めて超
絶的、神秘主義的色彩の強い文書であります。当初この文書はパウロの弟子であり、アテナイの初代
司教とも言われるアレオパゴスのディオニュシオスの名を冠していたために使徒に次ぐ権威を持つ文
書として教会内で扱われていましたが、その一部に5世紀の新プラトン派の哲学者プロクロスの書か
らの転載があるため、今日では「ディオニュシオスの偽書」とされています。著者は恐らく5世紀の
シリアの一修道士と考えられていますが、特定されていません。著者は自らの名は秘し、アレオパゴ
スのディオニュシオスの文書とすることによって新プラトン主義的神秘哲学の種をいわば教会内に植
えつけたわけであります。やがてこの文書がキリスト教的神秘主義思想の源流となり、神秘主義的傾
向を持った多くの異端を教会内に生み出して行くことになります。
新プラトン哲学のキリスト教的表現である『ディオニュシウス文書』においては、神は存在(有)
を突き抜けた「無」であり、光を突き抜けた「暗黒」であります。
『神名論』
(De divinis nominibus)
の著者は神を「存在」
(有)
、
「光」
、
「善」などと呼ぶ聖書の呼び名、いわゆる「神の御名」を一応は承
認しますが、しかし実際のところは神は存在(有)を越えたヒュペル・ウシオス(超有)であり、光
を越えたヒュペル・ポース(超光)
、すなわち暗黒であり、善すら越えたヒュペル・アガトス(超善)
であるとして、神の絶対的な超絶性を語ります。すなわち彼にとっては神はむしろ「無」であり、
「闇」
であり、
「超善」
(悪)なのであります。ここでは神の御名のことごとくがポジからネガに転換してし
まっています。超越的構造を持った新プラトン哲学はキリスト教徒にとって「おあつらえ向きの哲学」
(ハイデガー)ではありましたが、その超越性が余りに強烈であったために正当キリスト教のポジテ
ィヴ神学をネガに転換させてしまったということでありましょう。これは正当教会からすれば異端で
あります。このような異端文書が使徒に順ずる権威ある文書として教会内に残置されていたのであり
ます。結果は深刻でした。この文書に触れる者をことごとく異端化したからであります。神秘主義の
流れは中世ヨーロッパ史の中にあって実に執拗な流れで中世の全期間にわたって途切れることのない
地下水脈でありつづけましたが、その源流が『ディオニュシウス文書』なのであります。教会は中世
のほぼ全期間にわたって異端と戦いつづけねばなりませんでしたが、その因子を自らの内にかかえて
いたのであります。そしてそのような異端因子を教会内に植えつけた人物こそが新プラトン哲学
(Neoplatonism)に深く汚染されていたシリアの一修道士、
『ディオニュシウス文書』の著者なので
あります。ここに滅び行くギリシア哲学の執念を見るのはひとりわたくしのみでありましょうか。キ
リスト教の世界浸透、ヘブライズムの世界支配という歴史的動向の中にあって自らの名を秘して新プ
ラトン哲学(ヘレニズム)の芽を密かに教会内に残したのであります。これを執念と言わずして何と
言うべきでしょうか。思想は、いずれの思想であっても、実に根深いものであって、簡単に根絶でき
るものではありません。それらは必ず芽を残そうとします。したがって新プラトン哲学のキリスト教
への流入には二面があったわけであります。プロティノスの『エンネアデス』を介して中世に入った
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プラトニズムの影響史はプラトニズムの表の影響史であるのに対し、
『ディオニュシウス文書』を経て
入ったそれは裏の影響史と言うことができるのではないでしょうか。
(2)中 世 の ア リ ス ト テ レ ス 哲 学 受 容
他方、アリストテリズムの中世ヨーロッパ世界への流入はまったく別の経路を取りました。またそ
の時期もプラトニズムのそれと大きく異なります。アリストテレスは中世の後半期にほとんど絶対的
な権威となりますが、それは中世カトリック教会の権威を支えるスコラ学の基礎にアリストテレスの
哲学が据えられたからであります。しかし意外なことではありますが、アリストテレスの哲学は初期
のヨーロッパ世界にはほとんど知られませんでした。西ローマ帝国滅亡(476 年)後、まさに古代か
ら中世へと移行しつつあった時代に「最後のローマ人」とも呼称されるボエティウス(Boethius, 480
年頃‐524 年頃)によってアリストテレスの論理学関係の著作の一部が翻訳・注解されますが、それ
が初期のヨーロッパに知られていたアリストテレスのほとんどすべてでした。先にも述べたように、
一般に中世世界はヘブライズム(ユダヤ・キリスト教思想)とヘレニズム(ギリシア哲学)が絡まっ
てできた世界と形容することができると思いますが、中世の前半期の形成に参与したヘレニズムはプ
ラトンから新プラトン派を経由してヨーロッパ世界に流入したプラトニズムであって、この超越的志
向性の強い哲学思想の流れとヘブライズム(キリスト教精神)の合体によって作り出されたキリスト
教哲学が、前項で述べた「教父哲学」
(Patrologia)であります。そしてその最大の人物がアウグステ
ィヌス(Augustinus, 354 年‐430 年)であります。中世は375年の西ゴート族のローマ侵入から
2世紀ないし3世紀間にわたってつづいたゲルマン民族の大移動によって完全に祓い清められた新生
ヨーロッパに一から作り直された世界ですが(その結果ケルトは駆逐されました)
、その新生ヨーロッ
パにその後のヨーロッパ人の考え方の基礎となる教義を授けた人物こそ、何度も言いますが、アウグ
スティヌスなのであります。わたしたちはアウグスティヌスという哲学者の歴史的意味を良くも悪く
も確認しなければなりません。
前項でも述べましたが、1000年強におよぶ中世世界をわたしたちは神聖ローマ帝国成立(バテ
ィカンにおけるカール大帝の戴冠)の紀元800年を分水嶺にして前半と後半に分けることができる
と思いますが、
その前半のキリスト教哲学はプラトン的色彩の強い教父哲学であったわけであります。
アリストテレスの哲学は新生ヨーロッパの形成には参与せず、アリストテレスはその頃は、ヨーロッ
パ世界ではなく、むしろイスラム世界で受容され始めていました。7世紀頃からイスラム世界はギリ
シアの哲学や科学を受容し始め、10世紀にはイスラムの学者たちはアリストテレスの全著作を手に
入れていたと言われます。アル・キンディー(al-Kindi, 800 年頃 - 870 年頃)
、アル・ファラビー
(al-Farabi, 872 年頃‐950 年頃)などが自らの哲学の中にアリストテレスの哲学を取り入れていま
す。しかし彼らのアリストテレスの取り扱いは極めて新プラトン的色彩の強いものであって、純粋な
「アリストテレス」とは言えないものではありましたが。一般にこの時代のイスラムの哲学者たちの
アリストテレスの扱いはアリストテレス哲学の上に新プラトン主義の流出論を置き、そしてその上に
ユダヤ・イスラム的創造論を置くというものであります。彼らの哲学はいわば三層構造をなしている
わけですが、いずれにせよ全体としてギリシア哲学を基礎にしてその上に構築されていることに変わ
りはありません。彼らの哲学が「パルテノンの上に築かれたモスク」
(クラウス・リーゼンフーバー)
と言われるゆえんであります。
しかしイスラム世界最大の学者と言われるアヴィセンナ
(Avicenna, イ
スラム名、イブン・シーナ Ibn Sina, 973/80 年頃‐1037 年)になると、アリストテレス哲学が全面
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的にその学問の基礎となるにいたっています。アヴィセンナは、哲学者というよりはむしろ、医者、
科学者、農学者、万学者としてイスラム世界で令名を得ていますが、彼の諸学問の基礎は紛れもなく
アリストテレスの諸学なのであります。またコルドバの注釈家アヴェロエス(Averroes, イスラム名、
イブン・ルシュド Ibn Rushd, 1126 年 - 98 年)はアリストテレスのほとんど全著作に注釈をほどこ
し
(彼の注釈は膨大なものになりました)
、
アリストテレス哲学の真の姿を明らかにしようとしました。
それが昂じてアヴェロエスは晩年むしろイスラムの信仰を破壊するものとしてコルドバから追放され
るにいたっています。このような形でイスラムの学者たちを圧倒したアリストテレス哲学の力にわた
したちはあらためて想いを致さねばなりません。この時代イスラム世界はある意味アリストテレスの
哲学を保存、育成する世界であったわけであります。そしてそういったアラビアの学者たちを経由し
て12世紀のパリにアリストテレスが突然出現したのであります。
アリストテレスのパリへの突然の出現というこの出来事には十字軍の遠征というヨーロッパ史最
大の歴史的事件が深く係わっておりました。十字軍は1095年に時の教皇ウルバヌス2世によって
クレルモンの公会議において宣布され、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目指し
て7回ないし 8 回にわたってヨーロッパ諸国から派遣された遠征軍ですが、このことによってヨーロ
ッパ世界はイスラム世界とある種の接触を持つことになったのであります。戦いは接触のひとつの形
態だからであります。その結果さまざまの文物がイスラム世界からヨーロッパ世界に知られ、取り入
れられることになりますが、そのひとつがアリストテレスの哲学だったのであります。
アリストテレスの出現は当時のヨーロッパの学者たちを驚愕させました。その当時にいたってもま
だヨーロッパにはアリストテレスを凌ぐような学問は存在していなかったからであります。突然出現
したアリストテレスは「論理学」
、
「自然学」
、
「形而上学」
、
「実践学」
、
「製作術」などを具える巨大な
学問体系であり、この巨大な学問体系にヨーロッパの学者たちは当面し、圧倒されたのであります。
特にキリスト教の司祭をはじめとする神学者たちがこれに魅入られました。一例を挙げれば、ブラバ
ンのシゲル(Sigerus, 1240 年頃‐81/84 年頃)がそうであります。彼はカトリックの司祭であったに
もかかわらず、アリストテレス哲学に心酔し、急進的なアリストテリアンとなります。ところがこれ
は大きな危険をはらむ行為であることが次第に明らかとなります。と言うのは、アリストテレスの哲
学は世界の永世の問題と魂単一説においてキリスト教信仰と調和しないことが明らかになったからで
あります。アリストテレスにおいては質料はある意味永遠の原理であって、創造されたものではない
し、それにアリストテレスは個人の魂の不死をまったく説いておりません。むしろアヴェロエスの解
釈によればアリストテレスの魂は世界にただひとつなのであります
(アヴェロエスの知性単一説参照)
。
前者は世界の「無からの創造」
(Creatio ex Nihilo)というキリスト教の信仰箇条に矛盾するし、また
個人の魂の不死を前提せずしてはキリスト教信仰はなり立ちません。この信仰箇条との矛盾という事
態に直面してシゲルは「理性の真理」と「信仰の真理」という二重真理説を唱えますが、そのような
彌縫策が通用するわけもなく、彼は最終的には異端を宣告されてしまったようであります。その後彼
がどうなったかは分かりません。中世期において異端を宣告されるということは文字通りの「永遠の
死」を意味します。そこでは、仮に埋葬されていたとしても、その墓所はあばかれ、消し去られます。
このような事態にいたって遂に当時のパリ司教はアリストテレスを異端と宣告し、これを読むことを
禁じます。しかしいったん知られてしまったこの巨大な学問体系をいつまでも封印しつづけることが
できるわけもなく、アリストテレスは秘かに研究され、次第にパリ大学に浸透していきます。そして
むしろこの巨大な学問こそが当時すでに衰退の徴候を見せていたキリスト教精神に再度活力を吹き込
む力になりうることを洞察した人物こそが若きパリ大学教授アルベルトゥス・マグヌス(Albertus
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Magnus,1193/1200 年 - 80 年)であります。彼はドミニコ会の修道士であったにもかかわらず、自
らの講義の中で大胆にアリストテレスを取り挙げ、講義しました。そしてその講義を熱心に聴講して
いたパリ大学の一学生が若きドミニコ会士トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1224/25 年 - 74
年)であります。やがて彼らによってアリストテレス哲学が全面的にキリスト教神学の中に取り入れ
られことになり、そのようにして後にスコラ神学と呼ばれるようになるキリスト教神学が形成された
のであります。その記念碑的な作品がトマスの『神学大全』
(Summa Theologica)であり、これが今
日もおよそ12億存在すると言われるカトリック信徒にとっての公式上の唯一の真理なのであります。
かくして中世世界後半のキリスト教哲学はスコラ哲学であり、
その土台はアリストテレスであります。
中世後半のカトリック教会というカテドラールはアリストテレスというパルテノンの上に築かれてい
るのであります。アリストテレスが後半期の中世世界においてほとんど絶対的な権威になったゆえん
であります。
ウンベルト・エーコーに『薔薇の名前』という小説があるのをご存知かと思います。ある修道院で
次から次に奇怪な殺人事件が起こり、それを推理力に優れた一修道士が解決するという推理小説です
が、その小説のベースになっているのがその当時におけるアリストテレスの権威なのであります。事
件を探索する中で最後に犯人である老修道士に行き着きますが、その修道士が若い修道士たちを次々
と殺して行った理由というのが驚くべきもので、要するにアリストテレスの喜劇論を読んだ者は許せ
んということなのですね。あのアリストテレスが笑いを論じたなどということは到底受け入れられな
いし、それを目にしたものはもっと許せないというのがその老修道士の言い分なわけです。
『詩学』の
喜劇論の部分は欠損していて今日に伝わりませんが、そのことを題材にエーコーはこのような小説を
作り上げたわけであります。エーコーは中世哲学の研究者でもあるので、当時のカトリック世界にお
ける、特にカトリック修道院におけるアリストテレスの存在意味をよく理解していたのでありましょ
う。その理解なくしてはあの小説は理解不能であります。
以下、図表によって中世哲学を俯瞰しておきたいと思います。
中 世 哲 学 俯 瞰 図
同志社大学大学院文学研究科「古代哲学史特講」
(Ⅰ・Ⅱ)講義録
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