テーマ レクチ ャー :留 字の現 場 ? 真理 と生の技法の探求 高橋 久 一郎 タイ トルの読みは、「 『真理 と生』の技法」 の探求ではな く、「 『真理』 『 と 生の技法』の探求」です。 哲学は、面はゆい言 い方ですが 「真理 の探究」だと考えます。 ここにはいか なる固定 した「技法」 もない と考えてい ます。 しばしば言われるように、何に ついてであれ ものごとについて ラデイカルに、つ まり根本的に考えるとい うこ とが哲学することであ り、そこではある意味では「何でもあ り」 です。その限 りで哲学 の「 あるべ き姿」 とい ったことについて何か しらを語ることは根本的 には不毛なことだと考えています。ただ、「ある意味 では」 との限定にもなら ない限定をつ けましたが、それは、哲学ともろもろの個別科学 との関わ りを念 頭においてのこ とです。 個別科学 とい うことで私 は、 雑な言 い方ですが、対象領域が限定され、そ の探究の方法(作 法)が 特定 されていて、その方法の もとに、相対的に(「 相対的 に」などとい う限定を加 えると元 も子 もない ところもあ りますが)「 内的」に 展開しているもののことを考 えてい ます。 いわゆる自然科学が代表的で しょう が、いわゆる「文学」研究はともか く経済学や法学なども含まれます。 こ うした個別科学 を無視 して、あるいは無 知 なままそれぞれの個別科学に 関わる問題について「哲学する」 とすれば、それは多分 に不毛なこ とであると 考えてい ます。「多分に」 とい う限定 もまたあってなきがごとき限定ですが、 それは、ひ ょっとすると将来的には、そ うした言説が見直され再び取 り上げら れる可能性 を排除はできないか らです。ただ、そ うしたこ とは稀なことである と考えてい ます。揺藍期にある、あるいは独立 した歩みを取 りはじめた個別科 学と共にあるとい うことも哲学 のあ り方の特徴 の一つであったと考えます。実 際、アリス トテレスもデカル トも、そ してカン トだってそれぞれ個別科学と共 に考えることで哲学を試みたと言えるでしょう。 このよ うに言えば、あるいは哲学を個別科学 の「基礎付け」をするものと考 えてい る と思われるか もしれません。「そ うであって くれた ら」 という思いが ないわ けではあ りませんが、そ うではあ りません。む しろ、本来の主著である はず であ りなが らカ ン ト研究者を含めて(?)ほ とんど誰 も読 まない『自然哲学 の形而上学的原理』ではなく、『純粋理性批判』のカン トの批判の営みを念頭 においています。あ るいは、尊敬す る同僚 の永井均さんに絡めて言えば、積極 的な構想 としての<私 >論 の永井ではな く、倫理学批判の永井さんの営みです。 永井さんの議論は重要な倫理学へ のチ ャ レンジです。ちなみに前者について言 えば、それを「積極的な構想」 とい うこと自体 を永井 さんは否定するとは思い ますが、私は今の ところ何 とも評価で きないでい ます。永井 さんの「レ トリッ ク」 には圧倒 されなが ら、気分 としては、「完全な錯誤」ではないか と思 って い ますが。多分、私が根本的に<私 >に リアリティを感 じられないか らなので しょう。 まあ、私が単なる哲学研究者 であって哲学者 ではないのかもしれ ませ し。 ´ ところで ラデ イカ ル に考 える こ とにお いて も、 品川 さん も指摘 された よ う に、全 く「何 もない」 ところか ら考 える こ とはで きず 、通常 は、先行す る営 み の 検 討 と「批判」 とい う形態 を と ります 。 森 岡 さん の よ うに「何 々にお け る 何 々の何 々的研究」 とい った論文を書 か な い 人で も、密か に読んではい るわけ です。 そ こで 、質 問 ので た哲 学 と文献研 究 の 関係 につ いて 、私 はア リス トテ レス 研究者ですか ら、哲学 とアリス トテ レスの文献研究 とい うこ との関係につ い て、 もう少 しだけ述べ てお きたい と考 え ます。私 は、古典研究 を通 じて哲学す るこ とはで きる し(私 自身 な どはそ うした哲 学 を試み てい るわけですが )、 古典研究 と哲学す るこ ととは「予 定調和」 にあ るわ けではない とい う、ある意味で は極 めて平凡 な関係 にある と考 えてい ます。 哲 学 につ いての 「歴 史」研究 として の 文献研 究 には、 それ はそれで愉 しい ところが た くさん あ ります。「テキ ス トが読 めた。 ああ、 こ うい うこ とを言お う として いたのか」 と思 えた時 の うれ しさは格別の もので す。 また文献学的 な 研究 とい うことをさらに限定 して言 うな らば、私が もっ とギ リシア語が読 めて、 バ チ カ ンの 図書館 の これ まで誰 も見 る こ との なか った写本 を(あ るのか どうか 真理 と生の技法の探求 も本 当の ところは分か りませ んが )自 由に使 え るな ら、校訂 テキス トを作 って み たい とい う思 い が ないで はあ りませ ん。他 方で、「 これが 問題 であ り、 これ が 答 えだ、 あ るい は少 な くとも答 えにつ なが る議論 だ」 とい う思 い を抱 けた時 の喜 びは、 また別 の ものです。 われわれに とっての問題 に関 わっているか らで す。ですか ら、質 問者が期待 されて い る意味で は、 どち らが とい う答 え方 はで きません。 しか し「著者が言お うと した こ と」 と「われわれ に言 って しまって い ること」 とい う言 い方 をす るな らば、前 者 は「歴 史研究」 であ り、「学 問」 的 にはそ うした研究が将来へ の蓄積 とい う点か らは重要である として も、私 は、 それが どれほ どつ た な く、 またアナ ク ロニ ズムのおそれが大 きく将 来的 には何 も残 らない として も、後者 を選 ぶ とい う言 い方 にな ります。 例 えば、 ア リス トテ レス の 知 覚論 にお ける「色」 の扱 いは、私 に は極 めて 面 白い もの に思 われ ます。 ア リス トテ レス は色 につ いて、「見 られ る もの(色 ) と見 る もの(眼 )の 現 実態 は同 じで あ るが、 あ り方 はちが う」 とい う言 い方 を し てい ます。 いわ ゆ る「感覚質」 としての色 につ いて、 ア リス トテ レスは「色相 転換」 の可能性 を認 めるで し ょうか ? あ るい は また、 しば しば疑 間 とされ る こ とですが、モ ンシロチ ョウはわれわれ と同 じ感覚質 の もとに色 を見 ているの で しょうか ? ア リス トテ レスはこの ような問題 につ いて考 えて もしなか った で しょうか ら、問題設定そ の ものが アナ クロニ ズム とされ るで し ょう。 しか し 問題は、色 を根 本的 にどの よ うに考 えるか にあ ります。色知覚 につ いての 自然 科 学的なメ カニ ズ ム につ いて は ともか く、 その現象的あ り方 に関 しては、 ア リ ス トテ レスの知 って い たこ とは、彼 がそ こここに記 してい ることか らして、 わ れ われ と大差があ る とは思 え ませ ん。 まだ うま く議論 を整理 で きな い ところが あ るのですが、 ア リス トテ レスは、色相転換 して いて も、 モ ンシロチ ョウにお いて も「同 じ色」 を見て い る とす る ように思 われ ます。 ア リス トテ レスが色 と い うこ とで基本的 な ことと して捉 え ようとしてい るのは、 あ る意味 では非常 に 常識的 な考 えであ る と思 い ますが、「光 の もとに視覚様相 で固 有 に把 握 され る 表面 の性質」 であ り、視覚様相 で把握 され るこ とは本質的 な ことで ある として も、 そ の 「 あ り方 」 で あ る感 覚 質 は二 次 的 で あ る とす る よ うに思 われ ます (「 あ り方 Jは 通 常 「定 義」 を意 味す る もの と理 解 されて い ます。 ア リス トテ レスにお い て は定 義 がちが えば、厳密 には同 じで はな いこ とにな りますが、私 は、 ここでの 「あ り方はちが う」 とい うこ とは、 これ も雑 な言い方 にな ります が 「外延 を等 しくす るが内包 は異 なる」 とい った こ とを述 べ ている と理 解 しま す )。 これは「理性 」 の 働 きと対比 しての ことです。 理性 の 働 きにお い て は、 知 られ るもの(形 相 )と 知 るもの (理 性 )は 「定義 にお い て も同 じ」 であ る とされ てい ます。 もちろん、 こちらの テ ーゼ 自身 も問題であ るわけですが、理性 に関 しては少 な くとも様相 ・パー スペ クテ ィヴは ない と考 えて い ると私 は理 解 して い ます。 色 につ いての こ う した理 解 は、 私 自身 は未 だ に コ ミッ トしかねてい る(と い うよ りも、 む しろ否 定す る方 に傾 きなが らそれ に も コ ミッ トで きな い で い る ) マ クダウェル な どが展 開 してい る タイプの道徳的実在 論 の 問題 と も絡 んでい ま す。われわれ の側 か らの「投射」 とい うのではない、 あ る種 のパ ースペ クテ ィ ヴ としてわれ われ に示 される道 徳 的性 質 とい う考 え方 の可能性 を示唆 しうる よ うに思われるか らです。 ア リス トテ レス が 示唆 して い る よ うに見 えるか らとい って、真理 で あ る と は限 らな いわけで すが、私 は、 よ く言 えば「寛容 原則」、 わる く言 えば 「盲 目 的信仰」 は、解釈 に とって不可欠 の こ とである と考 えて い ますの しば しば演 習 な どで学生に言 うのですが、「 ア リス トテ レスの言 ってい ることは総て正 しい。 矛盾 してい る ように思 えるとした ら、読み 方が足 りな いの だ。 もちろん プ ラ ト ンの 言 って い るこ とも総 て正 しい。 二 人の言って い るこ とが対立 して い る と思 われて も、両方 とも正 しい。読み方が足 りないのだJと い う姿勢です。 ち なみ に、 私 の 修 士論文 はプ ラ トンの 『メノ ン』以 前 の 初期 対話編 の 知 識 論 なのですが、それ以後、博 士課程 在学中に 『メ ノ ン』 と 『テア イテ トス』 の 知識論 につい てそれぞれ一本ず つ 、 認知科学会 『認知科学 の発展 4』 に知識 論 的観点か らの概 論的 なもの を書 い ただ けでプラ トンにつ いての論文は 10年 以 上書 い てい ませ ん。 プラ トンは総 て正 しい にもかか わ らず、そ うは読め ないか らです。 これ はふ ざけて い るのでは あ りません。 これ もしば しば学生 に言 うこ とですが、「プ ラ トンは空 前絶後 の 天 才、 ア リス トテ レスは何 とかつ い ていけ る天 才」 だ と思 って い ます。 二 年 前 の哲 学 会発表 で、 フ ローベ ル を も じって 「 ア リス トテ レス は私 である とい う思 い になれ る幸 せ な瞬 間がある」 と述 べ て 先輩 ・友人か らひやか され ま したが、 その心 は、常識 的 には とうてい信 じが た 真理 と生の技法の探求 い宇宙論的 目的論 につ いて コ ミッ トして論ず る とい う決意 を示す ための もので した(作 業 は、残念 なが ら停 滞 してい ます )。 プ ラ トン、特 にそ の主 著 とされ る 中期対話編 につ いて は今 の ところそ う した解釈 者 としての コ ミッ トも表明で き ないで い ます。 い うまで もな くプラ トンの 中期対話編 は倫理 を問題 に してい ま す。 そ こで倫理学 の話 に移 ります。 倫理学 は「生の技 法」 の探 求 であ り、そ こでは「真理」 は必 ず しも第一 に追 求 され るべ き問題 で は な い と考 えて い ます 。 あ くまで 「技 法」 で あ り、「技 法」 であ るが ゆえに、「 真理 の探究」 にお け るの とは異 な った「制約」が課せ られて も、そ のこと自体が直 ちに問題を手 むわけではあ りませ ん。 レジュ メの 中で「倫 理 学 の哲学」 と「倫 理 学」 を区別 しま した。「倫 理学 の 哲学」 は 「倫理学」 で はあ りませ ん。 標 準 的 には、「倫理学 の哲 学」 と「倫理 学」 とは交錯 した もの と考 え られているか と思 い ます。 これ は倫理 学 の成立の 歴 史を考 えるな らば 自然 な こ とです。倫理学 と倫理学 の哲 学 とは同時 に始 まっ たか らです。そ して また、現 代 における営 み にお いて も倫理学 の哲 学 と倫理 学 とは同時 に遂行 され るこ とが しば しばです。それ もまた確 か に 自然 な こ とで は あ ります。多 くの倫 理学 者 は実 質的な内容 を ともなった何 らか の倫 理学理論の 正当化 を試み よう と して い るか らです。 しか しそれは、 しば しば「 メ タ倫理」 と呼ばれてい る水準 につ いて の「誤解」 とは言 わない まで も「理解 の異 な り」 を反映す る ものです。「応 用倫理学」 を嫌 う「正統」 派 の倫 理学者 は、倫理学 とは何 らかの倫理学理 論 の正 当化を図る「倫理 学 の哲学」 である と考 えてい ま す。 しか しメ タ倫理 には、 い わば「水平」 のメ タと「垂直」 の メ タとが あ りま す。水平 の メ タ倫理 は、何 らか の「倫理空 間」 を前提 した上での「 内部」で の 議論です。 実質的 な規範 的内容 に関 わる「正 当化」 の試み は、 この倫理空間の 内部で な され ます。 この 空 間 においては「倫 理 的 に正 しい」 こ とは「正 しい」 ことと して正 当化 されなけれ ばならない と考 え られて きた のです。 カリカチ ュ ア された姿 として「プラ トン倫理学」 とか「 カ ン ト倫理学」 とい われ るものは、 この水準 で動 いてい る よ うに思 われ ます。 垂 直 の メ タ倫 理 は、 これ が 「倫理学 の 哲 学 」 で あ るわけ です が 、「倫 理空 間」 を どの よ うな空 間 と考 えるかについての議論 です。倫理 的 な正 当化 が議論 される倫理 空 間が適切 に 開か れてい るか どうか とい うこ とは「真理」 の 問題 で あって 「善悪」 の 問題 で はあ りません。 こ こで は場合 によっては、永井 さん の 言 うと ころの「邪悪 な真 理」が語 られ、それ どころか (暫 定 的 な もので しか な い として も)「 論 証」 され る可能性す らアプ リオ リには排 除 で きませ ん。 とこ ろが厄介 な こ とに、 この水準 での議論が倫理空 間 での正 当化 の試み を全体 とし てさらに正 当化す るもので なければならない と多 くの倫理学者が考 えてい ます () 倫理 に関 して、あ らか じめ極 めて強 い「実 在論」 を前提 す る立場 に コ ミッ トし ているか らです。 プ ラ トンや カ ン トの倫理 学が倫理学 の哲学 の哲学で もあるの はこの意味 にお いてです。 実在論 とい うことを どの ように考 えるか は大 きな問題です。 ここでは、あ る 意味 で極 めて伝統 的 な、 ムーア的な「非 自然的」 な もので あれ何であれ 「倫理 的性 質」 と して 「発見」 され るべ き何 らか の「 善」が存在す るとい う立場 を意 味す る もの と して使 って い ます。 もちろん、 いわゆ る「実在論Jは そ こまで 強 い主張 であ る必要 はない か もしれ ませ んが、 少 な くとも、 ダメッ トの言 うよう に「 二 値原理」 に コ ミッ トす ることまでは不可 欠であ る ように思 われ ます。そ して二 値 原理へ の コ ミッ トを最 も自然 な形 で実現 して い るのは、実際に この lll 界 にお ける事態がそ うである とい う考え方 であ るように思 われ ます。 倫 理 は実 在論 に コ ミッ トしなければな らな いので し ょうか おける主流 は「相対主義」ではないで しょうか 論」 で はな いで しようか ? ? ? む しろ現代 に そ して相対主義 は「反実在 そ してそ うだ とす れば、現代 にお いて倫理 の■:当 化 は どの ように可能 なので しょうか ? 相対主義 とい うこ ともさまざまな理解 が可能です。 一つ の 、相対主義 と呼ぶ の もおか しな理解 が あ ります。す なわ ち、「正 ・不正 」 の判断 は相対的 であ る とい う言 い 方 をす るのですが、それは何 らかの「基準」 を適用す ることによっ て、それぞれ の問題 につ いての、いわゆる「常識」 を否定す ることに 主眼があ る場合 です。 ここでの基 準 は絶対的 な基準 ですか ら、相対 主義ではな く「絶対 主義」 なのですが、 こ う した見方 をも相対 主義 と呼ぶ こ とは一般的 な こ とであ る よ うに思 われ ます。例 えば、 プラ トンの 『国家 』 に描かれた トラシュマ コス の立場 は、 この ように理 解 で きます。 つ ま り、正義 の 基準 は 「強者 の利益Jな わけです が、1)こ の基準 に よる判断 は しば しば常 識 に反す る ものの、2)強 者 真理と生の技法の探求 │ が替わ りうることによって変化するわけです。 私 は、相対主義 とは、文字通 りに「相対立する主張が どちらも真 である」 とい う主張であると考えます。そんな「馬鹿」なことを主張する人はい ない と 思われるか もしれません。矛盾 したことが共に真であるとす るのは、ある種 の 問題を語るさいの レ トリックとしてはともか く、論理 の否定であ り、とうてい まともに主張できることではあ りません。 この意味での相対 主義 は不可能なは ずです。 そ こで、相対主義は何 らか の「視点」であれ「概念枠」 であれ、そ うした 複数の「観点」の可能性 を述べ ているにす ぎない とい う理解が生 じます。 この 水 はあなたには冷たいが、私には暖かい。 もちろん、相対主義 とい うことをそ のように理解すること自体は何 ら問題ではあ りません。実際、 こ うした意味 で の相対主義 でか まわない問題 もあ ります。「 たで食う虫 も好 きず き」 の世界で す。 しか し、少なくとも「正 ・不正」が問題 となるような類の倫理的な問題 に 関 しては、そ うした相対 主義 は、ある議論 の段 階で考慮すべ き論点を指摘する ものとい う役割を果たす ことを除けば、維持 しがたく、 しか もつ まらない主張 であるよ うに思われます。議論 は「私 に とっての正 しさ」「あなたにとっての 正 しさ」ではなく、「私 たちにとっての正 しさ」を巡って行われてい るか らで す。正 ・不正 に関 して対立がある場合 には、「私の考えではか くか くしか じか は正 しい」は、「か くか くしか じかは正 しい、 しかしこれは私の考えにす ぎな い」 とい う主張ではなく、端的に「か くか くしか じかは正 しい」 とい う主張 で あるか らです。そうでな く見えるのは、われわれには対立を「外部」か ら見る 視点が可能であ り、 しか もその視点の もとでは、対立 した主張のおのおのが真 であるような複数の「世界」 を共に見ることができると思われるか らです。 し か し、複数の どの世界で もいいのですが、その 中の一つの世界では、対立 した 主張のいずれかが真であるとすれば、どちらか一方しか真ではあ りえません。 ある種 のことをすることの「正 しさ」 を積極的に語ることの困難さは、相対 主義を主張する根拠 とはならないのです。答えは微妙な言 い方ですが「決まっ ている」 のです。 このことか ら相対主義については、さらにまた別の現代においてはもっとも 重要な、そ しておそ らく背景的な理解 としては一般的な理解が生 じます。つ ま り、根本的に二値原理が成 り立たない とい う主張 として理解するものです。つ まり、少な くともあ る種の倫理的な問題については、 どち らが真であるとも 「決まらない」 とするものです。 このパ ター ンの議論 は二通 りあ ります。一つ は、 しば しば他の領域において も見 られることですが、正当化にかかわる議論 を全体 として「底なし」 にして しまうパ ターンです。私はこれは相対主義 とい うよりも、素直に「懐疑 主義」、 しか も「徹底 した懐疑主義Jと 呼ぶべ きであ ると思ってい ます。「徹底 した」 との限定は、 しば しば懐疑主義は暗黙の うち に二値原理 を受け入れて いるか らです。徹底 した懐疑主義においては、議論が 依って立つ 底が抜けて しまい ますか ら、正当化は、それを伝統的な意味での 「正当化」 として理解す る限 りあ りえないだけでなく、倫理 を正当化 とい うこ ととは無縁 の ものとして しまうことにな ります。 この種の議論 は、正当化とい うことをどのように考えるか とい うことについての議論によって退けることの できるものが多い と考えてい ます。 もう一つのパ ター ンは、 いわゆる「ニ ヒリズム」 です。そもそ もいかなる意 味でも「真偽」を適用する ような問題ではないとするものです。 こ うした背景 的理解 の もとでは「正 ・不正」 とい う概念 は根本的な錯誤 となります。 言うま でもないことだと思 い ますが、私はニーチェをニ ヒリス トであるとは考えてい ません。ニーチェは風変わ りなモ ラリス ト以上ではあ りませ ん。 またいわゆる 「情緒主義」 とその系列につ ながる立場のことを念頭 にお いているわけでもあ りません。確かに情緒主義の源流であるヒュームは、倫理の基盤 となる情念が、 それ自体 として真偽が適用されるような類の ものではない と主張 してい ますが、 それはただ情念が世界のあ り方を表現す ることを機能 としている ものではない とい うことの帰結 にす ぎません。正 ・不正は十分に議論に値する問題になりえ ます。倫理 の領域 においては、正 ・不正は真偽 の問題であるか らです。情緒主 義 は、情緒主義であることによってただちに倫理的命題について真偽を語るこ とを否定 しなければならないわけではあ りません。 もちろん真正のニ ヒリズムがあ りえない とい うわけではあ りません。実は、 私 自身はひ よっとするとニ ヒリス トではないか とも思ってい ます。やは り「神 は死んだ」のです。問題 は、 ニ ヒリス トであることを貫徹することの困難にあ ります。すなわち、ニ ヒリズムが倫理学の哲学 の前提 としては正 しい と思いな 真理 と生の技法の探求 がらも、ニ ヒリズムは貫徹 しえないがゆえに、何 らかの倫理 を語 らざるをえな いことにあ ります。 倫理、 いや ここでは道徳 とい う表現を用 い ましょう。道徳 の 問題は、「ベ し」 とい う様相 で語ることにあ ります。「べ し」 とい うこともさまざまに語 ら れますが、道徳における「べ し」はいわゆる「必然様相」です。他 の考慮すべ き要件がある場合 にも道徳が優先される「べ き」であるのは、 この必然様相に あ ります。 こ うした道徳 における「べ し」 の位相 については、 カン ト的に「定 言命法」 とい ってもいいで しょう。定言命法であるとは、要す るに、 「 いろい ろ言いたいこ ともあるか もしれないが、ごちゃごちゃ言わずに、 とにか く私 の 言うことに従え」です。道徳 とはそうした領域です。 もちろん、具体的な「命 令」が、そ うした道徳 の命法 であるかどうかについては議論があ りえます。そ れが倫理学 の問題です。 そうした命令があると考えるかどうかが倫理学の哲学の決定的な問題です。 私が私自身を道徳 の哲学にお いてニ ヒリス トであるのではないか考えるのはこ のためです。私 は、われわれの営みに先立つ道徳はないが、われわれは道徳を 作 り出さざるをえない、 しか も、作 り出す道徳には定言命法的性格が不可欠で あるが、それは極めて困難な ことであるとも考 えているか らです。 しか し、道 徳の問題か らこの点を外 して しまったら、あとは「分別」の話にな ります。道 徳の問題、すなわち倫理学 の 問題は、こうした「言説領域」があると認める場 面で成立 します。 「ない」 とすることは倫理学の哲学としてはあ りえます。 しか し確かに、わ れわれの世 界 は「ある」 とい うところで実際に動 いてい ます。 このことは、英 米哲学でい う「現象論的事実」 として認めないわけにはいかない と考えます。 われわれの道徳についての言語は、そのように構成されてい ます。 ここで再 び、さまざまな意味で一部の世界 をにぎわした大庭 さんと永井さん の応酬について、確認 してお きましょう。大庭 さんは現象論的事実か ら出発 し、 そこに見 られる「べ し」 をひたす ら倫理学 の中で根拠付けようとしてい ます。 永井さんは、そうした現象論的事実には日もくれずに、 「べ し」 の根拠 を問い、 そうしたものはない とい う認定 をします。永井 さんは「確信犯」的 ニ ヒリス ト です。 まあ、永井さんの方が哲学的ではあるわけです。 しか し、永井さんは、 道徳 の根拠が ない とい うことか ら一挙 に、 道徳 の領域 の 問題 を、例 えば、趣 味 の 領域 の 問題 と同様 の位相 にあると判 定 します。対立 は、道徳領域 を特徴づ け てい る「べ し」 の 身分 の理解 にあ ります。戯画化 した言 い 方 にな りますが、永 井 さん の「べ し」 は、「必 要に応 じて いつ で も撤 回可能 な仮言的 なべ しJで あ るの に対 して、大庭 さん のそれは「地球が減 ぼ うとも貫徹 されなければな らな い定言的 なべ し」 です。 永井 さんの 言説世界 には、必然様相 の「べ し」 はない のです。そ こでは、必然様相 の「べ し」 を論ず る倫理学 は成立 しません。 もっ ともだか らとい って永 井 さんは イ ンモ ラ ル に なるわけで はな く、「生 きる術」 と して の倫理 は確保 され ます。 この よ うに書 くとバー ナ ー ド・ウイリア ム ズに 似 た立場 とい えるか もしれ ませ ん。 ウイ リア ム ズ も道徳的 「べ しJは 、たか だ か カ ン ト以後 の近代 的 な倫理理念で しか ない と して、 そ の優 位 を認めない倫理 の 可能性 を論 じて い るか らです。 しか し、 ウイ リア ム ズが、「べ しJの 優位 を 否定す るのに使 った(私 はか な り怪 しい と考 えて い ますが )ギ リシア世界 の倫馴 ! を雛 形 に して、 いわ ば「 自己理解 の伝統」 に信頼 をお くの に対 して、永 井さん の場合 には、そ こにはあ る種 の合理性 はあ って も、 い わゆ る「規 範性」 は徹底 的 にな くな ります。他方、大庭 さんは、単 に「生 きる術」 と しての倫理 ではな く、「真 理」 で もあ る必 然様相 の「道徳」 を求 めて い ます。 大庭 さん の方が倫 理学的であるわけです。 私 自身 は、哲学的 には永 井 さんが真 理 を語 って い る と考 え ますが、倫理 学 的 には大庭 さんが正 当である と考えて い ます。 こ うした私 の 立場 は 「分裂症 J 的です 。 ないので はないか と思 いつつ あ る よ うに語 ろ うと して い るか らです `, しか し、 人は真理 のみ にて生 きるので はな く、 それが最終的 にはフ イクシ ョン であれ道徳的言説 によって も生 きてい る と私 は考 えて い ます。 いずれ にせ よ倫理学 は、 この よ うに構 成 され てい る言語 の 中で の話です()し たが って、 ある規範 の正 当化 は、「倫 理 空 間 の 内部」 での こ とで しかあ りませ ん。 こ こで の議論 は何 らか「規範性 」 とい う こ との存 在 を前提 して い ます。 「規範性」 それ 自身は、 ここでは正 当化 され は しませ ん。 つ ま り、大胆 に言い 切 って しまえば、「規範性 」 はフ ィク シ ョンで しかあ りませ ん。 しか し、 どう して、そ うした フィクシ ョンが存在す るのか、 どの よ うな意味 で存在す るのか、 とい った「規 範性」 とい う「 フ ィクシ ョンの 身分」 を問題 にす るのが「倫J里 学 真理と生の技法の探求 の哲学」 とい うことにな ります。 こ うした言 い方 は、す でに、「規範性 の正 当化」 とい うことを、文字通 りの 意味では「断念」 してい ます。ある規範が正当化 されてい るとい うことは、現 象的には誰 もがそれについて異論を唱えない とい うことです。誰かが異論を唱 える限 り、そ してその異論を覆すことがで きない限 り、正当化は完了してはい ません。あるいは、誰もが異論 を唱えてはい ないにもかかわ らず、正 しくない 規範があ りうるように思われ ます。誰かが いつ かは異論を唱えるか もしれませ メ し。 このこ とが また、「応用倫理学」 とい う「や くざ」な領域 に関わる理由の一 つ ともなっているように思 い ます。避けて通れない応用倫理学の問題があるか とい う質問があ りましたが、ある意味では総ての問題は避けて通ることがで き ます。現在問題になってい る問題のうちのある種のものは、将来的には何 ら問 題ではなくなるか もしれ ません。例えば、臓 器移植の問題です。人工臓器が開 拓 されるな らば、この問題 は消 えるはずです。 もっとも私 自身はそ こに至るま でに超 えなければならない倫理的問題の ゆえに必ず しもそ うはならないと も 思ってい るのですが。 しか しともあれ、そ うした可能性が単 なる「空想」 とい う以上に「あ りそうである」 とい う意味では、避けて通れない応用倫理学の問 題はない とも言えるように思 えます。それだけにまた、応用倫理学には「深 さ」を感 じられず、つ まらない とい う感想 も出て くるわけです。 こうした感想 か らさらにはまた、応用倫理学については「一年やればで きるようになる」 と いった意見も生 じてい ます。 先ず、後者の意見は、端的に言って「誤 り」です。応用倫理学についての教 科書や論文で論 じられてい ることは、多 くがそれほど「深 い」議論ではないこ とは確かです。「ちょちょ」 とできそ うな話のように見えます。 いわゆる応用倫理学か ら事例をとってもいいのですが、 ここでは、議論の展 開が同様 の構造を持つ「 カン ト倫理学」の「スキャンダル」である「嘘をつい てはいけない」を事例に しましょう。「嘘をついてはいけない」は、雑な言 い 「定言命法」 ですか ら、本来例外を許しません。「いっさい嘘を 方をしますが、 つ くことを許容 しない」 とだけ言ってすませるならば話は簡単ですが、われわ れはしばしば嘘をつ くことを「許容」 します。それどころか嘘をつ く「べ き」 であ るような場合 さえあるように考 えます (実 際 「功利主義」 は 「帰結」 に よっては嘘をつ く「べ き」場合があることを積極的に認めるで しょう()し か し、 だか らとい って「嘘 をついてはいけない」には、 どんな意 味 でも定言的命法的 な性格はないとすることになるわけではあ りませ ん。仮言部分が満たされた場 合には、そうしないこ とは、単 に非合理的なこと・愚かな こととい うのではな く、「道徳性」 に反するとされるからです )。 どのような場合に嘘 をつ くことは許容 されてよく、またつ くべ きであるとさ えされることにな りうるでしょうか ? ここで生ずる問題は、われわれには、 こ うした問題を考えるに当たってどこまでの範囲を考慮す る必要があるのかが 予め分か っているわけではないとい うことです。「嘘 をついていいか どうか」 といった一般的な形で問いを設定すると見えに くいのですが、具体的な事例 と ともに考える場合には、事例によって考慮すべ き範囲は変わるように思われ ま す。議論 は、多 くの場合、いわば「ガイ ドライ ン」を示す とい う作業になりま す。当然のことなが らガイ ドラインは「おおよそ」を語るもので しかあ りませ ノ し。 このことがまた応用倫理学を「つ まらない」 ものに見えさせ ます(,い わゆる 「教科書」や「啓蒙書」 に見 られるような議論は、ち ょっと考えるとす ぐに思 いつ きそうに思えます。あるいはすでにそ うした教科書に基づいて応用倫理 の 授業をなさった方もい るか と思います。議論の枠組みだけを話 している分には、 応用倫理学は「ち ょろい」 ものです。 しか し具体的な問題について本気で議論 しようとすると、そんな生や さしい ものではないことに も気づかれたのではな いで しょうか。同様 のことは哲学の授業の場合にもあるよ うに思 われます。 自 分 の専門ではない部分について教科書的に「概説」する分には、哲学 も「ち ょ ろい」 ものです。 しか し、自分の専門領域 の問題 について、あるいは、現在論 じられている問題について語ろうとすれば、そんな単純なものではない と思わ れるで しょう。論 じている問題を理解 してもらうことにさえ苦労す るはずです ., 一つ 例 をあげ ます。「お まえ(つ ま り私 の ことですが )が よく分かって い な かったか らだろう」 と言われそうですが、 15年 ぐらい前に心 の哲学における機 能主義 とい う考え方を説明 し何 とか理解 してもらうのは、信 じられないかもし れませんが、とても困難でした。現在ではそれほどの困難は感 じません。なぜ 真理と生の技法の探求 で しょうか ? 機 能主義 とい う考 え方 を理 解 す るために必 要 な背景 的 な「知 識」が共有 され、ふ さわ しく理解すれば誤 りで はない「通念」 の理解 を妨げ る よ うに働 い て い た力が弱 まったたか らで あ る と考 えて い ます。 具体 的 に「 こ れ」 と して指摘 す るのは困難 ですが、例 えば、計算機 の普及 とともに一般化 し た情報処理 とい う見方や、心 の特殊性 につ いての心身二元論 を背景 とした通念 です。 確 か に応 用倫理 の場合 、 問題 を理解 して も らうこ とは比 較 的容易 です。 そ れが問題 とな って い るこ とは、授業以前 に知 って い る学生 もい ます。 しか し、 その問題 を どう解 決するか は、 む しろ考慮 す べ き点が増 え、それ らの相 互の関 連が不明確 な ままに、 したが って、そ の時点 にお いて知 られ てい るこ とに基 づ い て何 らか 最 善 と思 われ る 判 断 を行 って も、 そ の 結果 も不確 実 であ る こ とに よって 困難 にな って い ます 。 この こ とに微 妙 に関連す るのですが、 いわ ゆ る 「厳格責任 」 とい う考え方 は、それが 「無 過失責任」 として文字通 りに理解 さ れ る とす れ ば、理 不尽 な考 え方 であ る と思 って い ますが、 そ れで も「結果責 任」 は重 要 な、そ して、情 報 の 非対称性 力` 厳然 としてある状 況 の 下では、正 当 な論点 だ と考 えてい ます。「無過失」 であ る こ との「立証 責任 」 を原告側 か ら 被告側 に移 す とい うことで あ る と考 えて い るか らです。最近 とみ に流行の「説 明責任」 も この流 れにあ ります。事前 に 「 予算」 の根拠 と、 それ に基 づ い た 「決算 見込 み 」 を明 らか に してお き、それ に基 づ いて「会計検査」 を して「経 営責任」 を明確 にするこ とは、「経営」、す なわち「意志決定」 の初歩であるか らです(あ !「 国立」大 学 って、 これのほ とん どない組織 で すね。 まあ他 に も い ろいろあ りますけど)。 考慮す べ き事実的 な こ とが らが増 えた とい うだけでは な く、解 決 のための 道具(原 理 )と して蓄積 され て きた道具立 て 自体 につ いて も疑 間 と議論が提 示 さ れて い る こ とも解決 を困難 に して い ます。 例 えば、「 自由」 とい う原理 につ い て誰 もが 同意す る理解は、それが重要であ る とい うことを除けばない とい って も言い過 ぎで はない と思 い ます(や は りち ょっ と言 い過 ぎですね)。 応 用倫 理 学 は、決 して一 見 したほ ど簡 単 な領域 ではあ りませ ん。 この まま 進行す れば、現 行 システムで の倫理学専攻 の学 生 は、大学教育 の担 い手 として は(応 用 )倫 理 学 か ら排 除 され る と私 は考 えて い ます。 とい うこ とは同時 に哲学 専攻 の 学生 も排除 され る とい うことで す。 かな りの部分 を社 会学専攻 の学生が 埋 め る こ とになるで し ょう。 それは、「 ゆゆ しきこ と」 で もあ る と考 えて い ま す。 日本哲学会で の ワー キ ング報告 につ い て、何 人か の 人が、哲学 を拡 大す る ため の 「高橋 は権力 闘争 を論 じた」 と評 しましたが、下世話 な意味 での「学部 の争 い」 ではな く、(応 用 )倫 理学 に とって、 とい うこ とは社 会 に とって も、哲 学が縮小す ることは不幸 な こ とであ る と考 えてい ます。 とってつ けた ようです が、や は り倫理学 の哲 学 を踏 まえて い な い(応 用)倫 理学 は 問題 が 多 い と考えて いるか らです。 そ れ は また、現 在 の 大学 にお ける研 究 ・教 育者養成 と して の倫 理 学教 育 に も問題があると考 えて い る とい うこ とで もあ ります。応用倫理学 は、 名称 は と もか く、内容的 には単 な る一 時 の流 行 には終 わ らない で しょうの この点 につ い て は、懇 親会 の席 で の こ とですか らお そ ら く冗談 だ った の だ と思 い ますが、 「 10年 後にはない」 と述 べ られた森岡 さんに反対 します。 千 葉 大 学 で も来 年 度 か ら、 文学 部 で 開 講す る もの の 、 全 学 を対 象 と した 「応用倫理学プログラム(仮 称)」 が 開始 され る予定です。 (セ ミナー時 の報 告 に 質疑 での応 答 や 言 い足 りなか った こ とも加 えて、 アー ギ ュ メ ン トを構 成 す る 枚 数 的 ・時 間的 余 裕 もなか っ た た め 会話 体 と しま し た。 ) (た か は し きゅうい ちろ う/千 葉大学文学部 )
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