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式
辞
本日、葛城市戦没者追悼式を厳粛に挙行するにあたり、多数の戦没者ご遺族並びにご来賓の
皆様にご列席いただきましたことをまず深謝し、市民を代表して謹んで哀悼の言葉を申し上げま
す。
この夏私は、本市の中学校一年生が使っている国語教科書所収の、米倉斉加年(よねくら・ま
さかね)氏による物語「大人になれなかった弟たちに・・・・・・」を読みました。
主人公は、国民学校四年生の「僕」という少年。太平洋戦争のさなかで、お父さんは弟ヒロユキ
の誕生も知らぬまま出征し、本土にもアメリカのB29 が毎日のように来襲するようになってきまし
た。僕らはいつも、床下に掘った小さな防空壕に避難しました。
食糧がほとんど手に入らず、母は僅かでも手に入れた食糧を僕らに食べさせました。やがて母
は栄養失調になり、ヒロユキにあげるお乳が出なくなりました。やむなく薄い重湯(おもゆ)や山羊
のミルクを飲ませました。時々ミルクが一缶だけ配給されました。これこそヒロユキの「命の綱」で
した。ところが、甘いものに目がない僕は、何度もそのミルクを盗み飲みしてしまいました。どんな
にそれが悪いことかわかっていたのに、またヒロユキが可愛くて仕方なかったのに、それでも僕
はミルクを口にしてしまったのです。
激しさを増す空襲を逃れ、僕らは疎開することになりました。親戚を訪ねても食糧の無心を疑い
相手にしてくれず、福岡から南へ五里ほど行った石釜という山合いの村の親切な農家に頼んで、
ようやく落ち着くことができました。ただ、疎開した者には配給がなくここでも食糧に困り、母は自
分の着物を近所の農家の人たちに頼んで米と交換してもらいました。ヒロユキのお乳は、ヤギを
飼っている隣村の農家に母が出かけ、着物と交換してもらいました。母の着物はなくなりました。
やがてヒロユキは病気に罹り、三里離れた病院に入院するも僅か十日ほどで亡くなりました。
病名はなく、栄養失調でした。白く乾いた三里の一本道を、母がヒロユキを背負い、僕が荷物を
持って歩いて帰りました。母は、「ヒロユキは、母と兄とお医者さん、看護婦さんに看取られて死
んだのだから幸せだった。」と言いました。農家のおじいさんが用意してくださった小さな棺にヒロ
ユキを寝かそうとしましたが、入りませんでした。「大きくなっていたんだね。」と、その時母が初め
て泣きました。
弟が死んで九日後に広島に原子爆弾が落とされ、三日後にはナガサキに、そして六日経った
八月十五日に戦争が終わりました。
「大人になれなかった弟たちに・・・・・・」は、こんな物語です。戦地での出来事ではなく、銃後の
人々の暮らしを描きます。銃後の暮らしを描くとは言え、戦争という未曾有の極限状況のもとで露
わになる人間の強さと弱さ、優しさと冷たさ、美しさと醜さを見つめるには十分です。銃後ですらこ
のような苛酷な状況ですから、戦地の状況はまさに筆舌に尽くし難いものだったに違いありませ
ん。
わが郷土・葛城市では、愛する者・愛する祖国を守るため七七六柱の御霊が戦地で尊いお命
を捧げてくださいました。堪え難き劣悪な状況を堪え、地獄のような戦火の中をくぐり抜け、身命
を投げ出して戦ってくださいました。それら尊い御霊は我が郷土・我が国の平和、今日の繁栄の
礎となり、私達と日々の喜びも悲しみも共にしてくださっていると信じております。そんな皆様方と
ともに、銃後にあった方々も言葉に尽くせぬ辛苦を乗り越えてこられました。
先ほどご紹介した物語は、タイトルが「大人になれなかった弟たち」と、弟が一人ではなく何人も
いるように記されています。ヒロユキだけでなく、若くして命を失った大勢の小さな者に対して、語
りかけよう・訴えようということです。ただし、作者が何を語りかけよう・訴えようとしているのかは
伏せられています。この問いを考え続けることこそ、葛城市をお預かりして八年目を迎える私にと
っても大変重要であると存じます。先人がお命を賭けて守ってくださった郷土・葛城を思うだけ
に、私の責務の重さを痛感するばかりであります。
昨年合併十周年を迎えた葛城市は、十一年目の新たな一歩を踏み出しました。皆様にこれか
ら先も〈住んでみたい、住んでよかった〉と思っていただける「安心で安全なまちづくり」を一層推
進するため、新たな提案を色々とさせていただいているところです。タッチパネル式パソコンを用
いた高齢者の見守り活動や買い物支援、地域の情報を伝えるインターネットテレビ、積極的な企
業誘致や行政の節約と事務効率化の研究など、枚挙に暇がありません。市制としてはまだ少年
期にある葛城市ですが、少年期ならではの旺盛な好奇心と抜群の吸収力を活かした取組によ
り、未来のための確固たる基礎固めをさせていただいております。
市政をお預かりすることは紛れもなく私に与えられた使命であり、これほど働き甲斐を感じるこ
とはございません。これまでにも増して市民の皆様と共に手を携え、本市の基礎固めと発展のた
め、不惜身命の姿勢で、まさに身命を賭して務めさせて戴く所存であります。市民の皆様方にお
かれましても、どうか私と共に手を携え、七七六柱のご期待にお応えしてまいっていただきたいと
念じます。
最後になりましたが、戦没者の皆様のご冥福を改めてお祈り致しますとともに、永遠(とわ)に
葛城市の繁栄を見守り続けてくださることをお願い申し上げます。また、本日ご列席いただきまし
たご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げ、私の追悼の言葉とさせていただきま
す。
平成二十七年十月一日
葛城市長 山 下 和 弥